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旧水戸街道餐歩記〜#3
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 2009.07.19(日) 水戸街道#3 我孫子宿〜若柴宿 約18.6km+寄り道

 我孫子入口−香取塾−本陣跡−成田分岐−柴崎神社−大利根橋 6.6km
 取手入口−本陣跡−吉田−清水−藤代   7.5km 
 JR藤代駅−宮和田−小貝川−文巻橋−馴柴−若柴入口  4.5km

第三回スタート(8:45)

 乗り継ぎが快調で、途中1便見送ったにも拘わらず、当初予定の便より早く着いたが、小川・村谷の両氏は既に先着済みで、早速8:45に我孫子駅南口をスタートし、きょうの街道歩き起点である「駅入口」信号に出て、正面向かいの「八坂宮」に参拝する。我孫子宿はこの交差点から始まる。

八坂神社・宿入口

 交差点の南西角にある八坂宮の祭の山車が交差点の角に出ており、はす向かいのお宮の狭い境内もごった返している。社殿前には別の山車が置かれ、賽銭箱の撤去された社殿前の片隅から本日の旅の無事をお祈りする。
 八坂宮は応永3年(1396)創建の神社で、素戔嗚尊を祭神としている。現社殿は明治12年再建の入母屋造・瓦葺・塗りごめで、赤い柱などが印象的である。大きさは往時の「神社明細帳」の記録(社殿間数:間口3間、奥行4間)とほぼ同じだとか。天保12年(1841)と弘化4年(1841)銘の庚申塔がある。
 街道を早速東進し始めると、別の町内の神輿が八坂宮目指してやって来るのに出逢う。

我孫子宿

 小金宿から2里21町(約10km)ある我孫子宿迄の間には、途中に幕府の軍馬放牧場「小金牧」があったため、宿場は置かれず間の宿もなかったが、鉄道開通後は柏駅を中心とする都市が形成された。
 
 宿には、本陣・脇本陣が置かれ、東西1km弱の範囲に広がり釣形状に折れ曲がった町並みで、天保14年(1843)の家数で114、常備人馬は各10人・10疋で、現・我孫子市本町・白山・緑・寿付近にあたる。(明治4年調べでも、141軒・人口833人)
 宿場の西端から更に江戸側に約1キロ離れた所には、「布施弁天東海寺」参道との追分があり、その追分に引っ張られるように、水戸街道筋は大きく北に屈曲している。宿の出口では布川街道を分岐している。また、宿場の東端から数百メートル水戸側には、成田方面に向う街道筋との追分があり、石碑も建てられている。

 宿の旧道筋は拡幅されたためか殆ど古建築は残っておらず、本陣跡も、解説付き木標が建つのみである。伝馬・助郷のやり繰りで抗争が絶えず、村人の暮らしも楚々たるものだったという。なお、相撲取り駒形茂兵衛の「一本刀土俵入り」の相手役に登場するお蔦は、当地「我孫子屋」の酌婦だったとか。

割烹「角松」(9:00)

 町並みは、数年前までは古い建物も数軒あったらしいが、今は皆無に近く、漸く左手に長い塀の割烹「角松」が見えてくる。「角松」の前身は「松島屋」という旅籠で、明治17年には明治天皇の御座所にもなった由緒ある旅館だったという。旅館の廃業して割烹「角松」に経営が移ったが、明治43年頃講道館を興しこの近く(南側)に別荘を持っていた嘉納治五郎が屡々この「角松」を訪れ、川魚料理に舌鼓をうったという。

香取神社(9:01)

 「角松」の向かい先、右手の我孫子郵便局手前を右に100mばかり入った所にあるご当地神社「香取神社」を訪ねる。ここから南方400m程に「手賀沼」があるが、その手賀沼の鎮守で産土神である。8代将軍吉宗の時代に鎮座し、拝殿は昭和57年に改築されている。
 境内には立派な欅の木が数本偉容を見せている。

寛政元年の道標(9:07)

 街道に戻って、その先右手の「泉派出所」の前に、寛政元年(1789)建の道標「従是之神(ねのがみ)道」がある。ここを右の手賀沼方向に入ると「四国相馬霊場三十八番札所の子の神神社」に行け、そこには源頼朝伝説もあるらしい。

本陣跡(9:08)

 その先右手にあるマンション「ジョイテル」の玄関先には我孫子市教育委員会による「我孫子宿本陣跡」の標柱があるが、辺りには往時の雰囲気は何も残っていない。

脇本陣小熊(おぐま)家(9:09)

 その少し先の向かい(左手)に立派な門と長い塀に囲まれた茅葺屋根の脇本陣小熊家があり、僅かに往時の我孫子宿の面影を留めている。小熊家は、宿場の問屋兼名主を兼ねた由緒ある家柄で、茅葺き母屋や大きな欅の木が風格を感じさせる。小熊家には、寛文5年(1665)の我孫子村の検地調べをはじめ、名寄帳・人別町・宿駅・年貢・助郷等の関連史料が千数百点ある由。
 表札で小熊家であることを確認していたら、高級車で外出されるご主人に出逢い、挨拶する。

割烹・鈴木屋本店(9:12)

 車道はその侭直進すると左手の常磐線ガード下を潜るが、街道は右折する。その右折点左側には割烹「鈴木家本店」が古い2階建ての大きな建物を残している。この鈴木家には、嘉納治五郎が発信した懇親会の案内状が残っている由である。

成田街道追分から再び常磐線の北側へ

 その400m程先の交差点で左折するのが順路で、直進すれば木下(きおろし)を経て「成田」へ、左を辿れば青山の渡しを経て取手・土浦への追分である。9:18、交差点の白いガードレールに囲まれた三角地帯の中に「従是右府川街道、従是左水戸街道」と刻まれた元禄四年(1691)銘の道標や、安永5年(1776)の青面金剛、「成田道・・・」の道標ほか数点の石造物がある。

 ここを左斜めに入り、すぐJR成田線踏切(浜街道踏切)を越えて、9:30には更に先の「泉」交差点で左折して常磐線のガードを潜る。車道はその先我孫子I.C.へ向かうが、街道ウォーカーは予め先ほどの泉交差点で右手歩道に渡っておき、線路を潜った先右手の水道局前でインターへの道の一本右側の道へと藪こぎ道のような所を登り、水道局の建物を右手に見ながら高台に出て右折して東へ行く。
 いずれにしても「泉」交差点以降は常磐線に旧道が分断された一帯なので、このようなルートをとった方がより旧道に近いと言えよう。先の信号で左折し、やがて「柴崎」信号で左からの国道6号に合流し、右折していく。

柴崎神社(9:45)

 その、国道合流以前に、先の左折箇所を曲がった左手高台に、村の鎮守様「柴崎神社」がある。曾ては妙見社とも呼ばれ、日本武尊が東征の折、武運長久を祈ったほか、平将門も戦勝祈願をしたと伝えられる由緒ある神社の由。
 ここでも、社殿前でテントが張られ、祭りの準備なのか地元の男性達が集まっていた。

円福寺(9:50)東源寺

 そのすぐ先隣に旧柴崎村の領主の菩提寺だった「羽黒山円福寺」がある。円福寺は真言宗豊山派、江戸初期の開創と言われている寺で、旧柴崎村の領主(地頭)だった新見家の菩提寺であり、新見家歴代の墓がある。
 本堂左の小祠に「鯖大師」という懐かしい名前のお大師さまが祀られている。このお大師様は鯖をぶらさげておられ、鯖絶ち三年の願をかけると傷病平癒をするとか。曾て四国八十八ヶ所を歩き遍路した時の、徳島県牟岐町の「鯖大師」を思い出してしまう。記録を調べてみたら、何と8年前の2001年5月11日(金)のことである。

 円福寺の横を出た裏手に、曹洞宗の禅寺「東源寺」があり立ち寄るつもりだったが少々入り込むようなのでやめにして街道筋に戻る。

お屋敷地帯

 「円福寺」「東源寺」から暫く先の国道6号合流する手前の街道左右には、武家屋敷を思わせるような風格ある門構えの旧家が軒を連ねる一角がある。当地柴崎地区は暮らしに余裕がある農家が多いのか、大きな屋敷が多い。特に国道合流までの間は、立派なお屋敷が左右に多く見受けられる。中でも特別立派なのが旧柴崎村名主だった川村家で、邸宅が道の両側にあった。文化11年(1814)、初代川村磯右衛門が酒造を始めて財をなし、前記「円福寺」の檀家総代を勤めた後、柴崎村の名主になった。地頭新見家の御用金を調達するなど、政商でもある。豪邸の一語が実に相応しい。

間の宿 青山宿

 国道6号に合流し、利根川橋方向へ約300m行くと「青山台入口」交叉点があり、そこで国道南側(右側)の側道に入り、400m強進んで坂を下った先に旧道特有のクランク(桝形)が残されているので、10:13にそこで右折し、すぐ左折する。
 そこを行けば利根川の土手に突き当たるが、往時はやや下流のJR鉄橋に並行した「小堀の渡し船」というのがあった由。現在は突き当たりの信号を左折して国道に出て、「利根川橋」を渡るしかない。

 県道170号線(利根水郷ライン)の信号手前右手の利根川の土手(東我孫子C.C.のクラブハウスがある辺り)迄は青山地区で、往時は利根川の江戸側宿場町「間の宿・青山宿」だった。旧水戸街道は、この青山を抜け、常磐線の鉄橋とほぼ並行するかたちで船渡しで取手宿に入っていたからである。なお、江戸時代の初期は、成田街道と共に我孫子市の布佐へ進み、そこで成田街道と分かれて渡河していたという。 また、このほかにも幾つかの渡しがあったようだ。

板東太郎

 四国三郎(四国・吉野川)、筑紫次郎(九州・筑後川)の長兄格として名高い板東太郎(関東・利根川)が目前に広がっている。2009.03.01に日光街道歩きで「栗橋宿」から「中田宿」に入る時に渡って以来の懐かしい「利根川」だが、大利根の名に相応しく悠々としている。長さでは信濃川に譲るようだが流域面積や風格では日本一だろうと言われているそうだ。
 奥利根の新潟県境に端を発し、吾妻川・烏川・鏑川・渡良瀬川・鬼怒川・小貝川等の諸川を合して銚子で太平洋に注ぐこの大河が、何と、人口河川であることを実は今回初めて知った。
 いろいろな街道歩きで知ったことの一つに、往時の洪水による被害で河川周辺の人たちが大変苦しめられた歴史があるが、将軍家お膝元の江戸を洪水被害から守るべく、将軍命で約60年間かけて造られた人口河川、17世紀半ば頃の、世に言う「利根の東遷工事」なのである。

 現代は、この「利根川」を「大利根橋」で渡るが、ここに架橋されたのは昭和5年9月21日で、長さ984m、幅員7.5mだった。現在の橋は上りが昭和47年、下りが49年開通で、いずれも1.1kmと長くなっている。しかし、実際に渡った感じは2km位に感じられる程長かった。

取手宿

 「利根川橋」を10:40に渡り終わると、旧道は取手駅迄行かず信号のない迦葉直ぐ右折し、階段を降りて、利根川沿いの県道11号に入り、南東方向(その先で北東方向へ転ずる)に入ると、我孫子宿から1里18町(約6km)の取手宿に入っていく。
 取手の地名は、その昔「砦」に発し、その後「鳥手」、そして現在の「取手」になったという。水戸街道の宿場町として整備され、利根川左岸の渡し場として発展し、取手宿を中心とする「新四国相馬霊場(八十八ケ所)」巡り等でも賑わったという。
 ただ、水戸街道が取手を通るようになったのは天和〜貞享年間(1681〜88)で、それまでの江戸時代初期は我孫子から利根川南部を東進して若柴・牛久へ通じていた。即ち、関東郡代伊那忠治による大規模な治水事業が行われ、取手・藤代間の湿地帯に新田が開発され、新道が設けられて以降は、布佐経由に代わって取手経由がメインルートになった。そして、藤代と取手が水戸街道の宿場になったが、なおかつ洪水に悩まされ、いくつかの廻り道が用意された。(詳細は後述)
 水戸藩主で始めて取手宿を通ったのは天和2年(1682)10月の水戸光圀で、染谷家(後出)が本陣に指定されたのが貞享4年(1687)である。

 宿場町は現・取手市の取手〜東集落辺りで、東西1km弱の範囲で広がっていた。取手は宿場町であると同時に、利根川水運の拠点地・物資集積地でもあり、200軒程の家並みが並ぶ大規模な集落を形成しており、旧道筋には僅かながらも古建築が残り、本陣だった「染谷家」住宅も保存されている。JRのガードを潜ると宿場が始まり、「本陣通り」と名づけられていた。

(注) 新四国相馬霊場は、坂東太郎の異名を持つ利根川の流れに沿い、茨城県取手市に58ヶ所、千葉県柏市に4ヶ所、千葉県我孫子市に26ヶ所、合わせて88ヶ所の札所がある。このほかに番外として我孫子市に89番札所が存在する。
昔、宝暦年間(1751〜64)に観覚光音禅師が四国八十八ヶ所で一夜の業を行い、その霊場の砂を持ち帰って近くの寺院・堂塔に奉安し札所としたもので、江戸時代に近在農民や江戸町民が巡拝した。光音禅師は取手市の「長禅寺観音堂」(次項参照)修築と取手宿発展に尽力し、市内にある琴平神社境内に庵を結んで余生を送った奇特の人だったという。四国八十八ヶ所とは異なり、札所順の道順になっていないため、札所番号順に歩くと570kmにも及ぶそうだが、それにこだわらなければ約70kmで済む。

長禅寺(10:55)

 国道6号から右折し、常磐線のガードを潜ると、街灯に「本陣通り」の看板が下がっており、「新六本店」の手前角を左に入って行くと、長い石段を登った樹木繁れる高台に平将門の創建と伝えられる「大鹿山長禅寺」がある。本尊は延命地蔵尊である。
 承平元年(931)、平将門が勅願所として創建したと伝えられる臨済宗妙心寺派の古刹で、古くは大鹿原(取手競輪場辺り)にあり、大鹿村の住民が水戸街道沿いへ移住した元禄時代(1688〜1704)に現在地に移った。慶安2年(1649)に3代将軍家光から朱印地5石3斗を賜って以来、歴代将軍から朱印状を得ている。昭和25年には、茨城百景の一つに選ばれている。
 「新四国相馬霊場八十八ヶ所」の総本地第一番札所にもなっている名刹で、本尊は将門の守り本尊でもある十一面観世音菩薩である。
また、境内の地蔵堂が第五番札所に、右手の大師堂が第八十八番札所になっている。

 当寺を訪れる文人も多かったと見え、文学碑の類も少なくない。境内中央に一茶の「下総の四国廻りや閑古鳥 一茶」の句碑がある。碑面の文字は日本画家の小川芋銭(うせん)のもので、芋銭は境内の茶堂「漬涼亭」命名者でもある。また観音堂の東側には詩集「智恵子抄」で知られた彫刻家・高村光太郎直筆の「芋銭先生景慕之碑」がある。

◇長禅寺観音堂(俗称:三世堂)

 急な石段を登りつめ、公孫樹や楠などの巨木、老木に囲まれ、静かな佇まいを見せている長禅寺の、特徴のある妻飾りを持つ山門を抜けた正面に、室町時代末期から江戸時代初期の様式をとどめる均整のとれた観音堂が姿を現す。外見は二層に見えるが内部は三層で、往路・復路が交わらずに一方通行で巡拝できる「さざえ堂」様式という珍しい建築様式だが、残念ながら普段は内部の一般公開はしておらず、毎月18日にのみ中を拝観できるらしい。解説板には、日本最古のさざえ堂とあり、そのねじれ部分を内部に取り込み、外観はあくまで方形の端正な装いの珍しい建築様式の建物である。

 堂内1階には坂東三十三ヶ所の33体の観音像、2階には秩父三十四ヶ所の34体の、3階には西国三十三ヶ所の33体の、計百体の観音像が安置されている。文暦元年(1234)将門の弟将頼の子孫といわれる大鹿城主織部時平が建立し、宝暦13年(1763)に再建したと言われている。

 「取手利根川七福神」巡りの一つ「大黒天」が、観音堂の左側にある。
 高台の上だけに、猛暑の今日も涼しく感じられ、涼風が古寺の佇まいと相まって心身を癒してくれる。

旧家

 長禅寺から街道に戻る途中にある奈良漬製造元・新六本店は明治元年創業、街道に戻って左折した直ぐ左手の「清酒君萬代(きみばんだい)」の田中酒造店(明治初期再建の寄棟土蔵造り2階建)など、往時の風情をとどめており、なかなかの趣がある。

本陣・染野家

 その先で、「染野本陣ビル」の横、石原金物店の脇を左に入った奥まった所にある。金・土・日のみ公開(無料)されており見学させて戴く。染野家は代々名字帯刀を許された取手宿の名主で、享保4年(1687)水戸徳川家から本陣を命ぜられ、明治3年まで180余年間取手宿の本陣兼名主だった。関東郡代伊那忠治に、取手・藤代の地の治水・開拓・新道敷設を進言し取手宿駅設置を実現させた立役者である。
 現存する主屋は寛政6年(1794)焼失の翌7年に復興し、最近修復されている。広い敷地に豪壮な千鳥破風をつけた総茅葺入母屋造りで、これ程の構えを残した本陣建物は、水戸街道沿いでは中貫宿(土浦市)の本橋家と、稲吉宿(千代田町)の坂本家しか残っていないという。
 屋敷図を見ると醤油蔵が広いが、染谷家が曾ては醤油醸造をしていたためで、文久3年(1863)には年間219石も製造し、船便などを利用して江戸方面へもかなり出荷していたようだ。

 裏山を登った所に、慶喜の父である第9代水戸藩主斉昭公が利根川の渡しで詠んだという歌碑が建っている。 
               
徳川斉昭の歌碑
 天保十一年(1840)正月、水戸へ帰国途中の水戸藩主徳川斉昭は、利根川を渡る船の中で歌を詠み、染野家で休憩している間に、その歌を袋戸へ貼り付けて出発した。
    取手川を渡る船中にてよめる  斉昭
     さして行く 棹のとりての わたしふね 思ふ方ニハ とくつきにけり
     行末に さをもとり手の わたし船 わたれる世をハ あたにくらすな
 その後、水戸藩ではこの歌のうちの前者を石に刻み、3年後の天保14年、江戸から舟で取手まで運んできた。実際に斉昭が詠んだ歌とくらべると、文字の使い方や言葉が多少異なる部分もあるが、斉昭自筆のものをそのまま石に刻んだようである。
                                取手教育委員会

昼食(11:26〜11:51)

 少し戻って街道右手に少し入り込んだ左手に手打ち蕎麦の店があったので、折り良しと飛びこみ、手打ち蕎麦に舌鼓をうつ。

参考:八坂神社(11:55)

 その先右手(利根川河川敷入口の取手図書館・市民会館の信号の所)に、取手宿の産土神である「八坂神社」があるが、立ち寄らずにパスする。京都・東山の八坂神社を総本社とし、素戔嗚尊を祭神とする神社(日本全国に約2300社あるとされる)の一つで、本殿・拝殿共に取手市の文化財に指定されている。
 正面入口から入って左奥には、新四国相馬霊場八十八ヶ所第3番札所になっているお堂もある。

 当神社は、寛永3年(1626)の創建で御祭神にはスサノオノミコトが祀られています。牛頭天王とも称し、古来陰暦6月17日より3日間例大祭とされてきましたが、昭和30年から8月1日から3日間に変更されました。
 本殿は明治36年改築成り、屋根は一間社流れ造りで、同年11月遷宮祭を執り行い、また、周囲の彫刻は名工後藤縫殿之助、同保之親子の作で技巧善美をつくし、本殿の荘厳を保っています。
 拝殿は天保3年(1832)に完成、現在に至っていますが鳥居はこれより120数年前の宝永4年(1707)に既に建立され、祭典に渡御する神輿は氏子である上町、中町、片町3ヶ町の若衆(添神主といって昔は白丁を着て担ぐ)が、輪番制で毎年初日と三日目の夕刻より深更に及んで、厳粛な裡にも盛大に行なわれるため、当日は遠近より数万の参拝人で賑わい、荒神輿とも称され、大きさと重量は関東随一と称えられ、文政9年5月(1826)の作であります。


参考:念佛寺(11:57)

 その先左手に、県道に突き出した階段が目印で、「取手利根川七福神」巡りの一つ「福禄寿」のある「取影山念仏寺」があり、福禄寿は、本堂前の小さな祠の隣、植込みの中にあるらしいが、パス。

参考:鬼作左の墓

 昔読んだ山岡壮八の「徳川家康」に登場してくる本多作左衛門重次の墓が当地にある。徳川家康を上洛させるべく家康に差し出した秀吉からの人質への厳しい対応について秀吉の勘気にふれ、その圧力にやむなく左遷させられ、後当地で亡くなったという。陣中から妻に送った「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」の簡潔にして要を得た手紙文は余りにも有名である。
 「お仙」とは重次の嫡男「仙千代」のこと。後の本多成重で、第6代丸岡城主になっている。なお、重次は旧青柳村の本願寺に眠っているが、街道筋からは遠いので立ち寄りは省略する。

その跡の順路

 街道はその少し先で北東北方向へと左カーブして行くが、この辺りまでが取手宿である。バス停の「片町」「取手小入口」「台宿」「新道」と進み、その先のY字路で右の土手沿い道に入り、12:11に「吉田」バス停の先のY字路で左の道へ入る。この道を行くのが旧道で、その先からは殆ど真っ直ぐな田舎道になる。

道標1〜3

 (1) 吉田地区に「江戸より十里二十二丁」(約42km)とある。
吉田から藤代まで約2.6kmも真っ直ぐな道が坦々と続く。
(2) 途中、右手に「水戸与利十八丁」と当て字混じりで陰刻された道標があり、傍に取手市保存樹木になっているサイカチの木がある。高さ17m、幹回り2.3m、推定202年(昭和63年時点)と解説されている。
 (3) そのすぐ先左手に、金網囲いの中に合鴨が推定150羽ぐらい暑苦しそうに入れられているが、暑さにも負けず元気に鳴き声を上げていた。
 (2) 「相野谷川」に架かる「土橋」を渡った先左袂に道標があり、三面に「江戸十一里、水戸十八里、来應寺七丁」とある。ここから藤代町に入るが、藤代町は以前は北相馬郡で、現在は取手市に吸収されている。更に12:53「表郷用水路」の「高橋」、「百井戸橋」、「西浦川」の「釜神橋」と越えて行く。
 (3) 藤代町が設置した「陸前浜街道」の標柱が、幾つか建ち、側面には『この街道は、水戸街道ともよばれ、脇街道の中でも重要な街道であった。文政五年(1822)の記録によると、二十二藩の大名が参勤交代に用いており幕末期は、とくにひんぱんを極めていた。』とある。

 その先はJR常磐線、「谷中本田」で国道6号、更に信号を二つばかり超えて左手角の「相馬神社」に立ち寄ってから前を右折する。

<取手から藤代までの街道>

 江戸時代初期の水戸街道は、我孫子から利根川沿いに布川、須藤堀、そして若柴宿に至る迂回路だったが、伊那忠治による治水工事の結果、取手・藤代間の湿地帯が順次水田化し、貞亨年間(1681〜88)にかけて新たに道が設けられた。この結果、藤代は水戸街道の宿駅としての機能を持ったが、元来が取手宿〜藤代宿間は地盤の悪い悪路で、ちょっとした大雨毎に路は泥濘化したため、本道りのほかにも以下の三通りの廻り道が必要になった。うち「大廻り」は取手宿内で分岐、残りの3ルートは取手宿の水戸側端辺りから順次分岐していたとされる。

[本通り]
 取手宿→長兵衛新田→吉田村→小泉村→酒詰村→米田村→谷中村→藤代宿(現在陸前浜街道と呼ばれている道)

[中通り]
 取手宿→井野村→酒詰村→谷中村→藤代宿(現・JR常磐線沿い)

[水戸往還椚木廻り道]
 取手宿→桑原村→毛有村→椚木村→藤代宿(中通りより500m程北側、国道6号線にやや近い)

[大廻り道]
 取手宿→寺田村→和田村→小貝川堤防沿→藤代宿(岡堰の方まで迂回し、小貝川に沿った道

相馬神社(13:33)

 案内標柱には次の様に記されている。
               
相馬神社本殿
旧藤代町指定文化財(建造物) 昭和四十八年十一月指定
 建立は極めて古く元享元年(1321)六月といわれ、安政二年(1855)火災焼失、慶応三年(1867)に再建される。社殿の材質は総けやく造り、屋根は銅板葺流れ造り、向拝柱に美事な竜の彫刻があり、大床下や三方の壁面脇障子全体が豊麗な彫刻で飾られている。社殿全体の豪華さは、町内にある社殿の中でも群を抜いている。
 明治四十年八坂神社・富士神社を合祀して相馬神社と称した。元八坂神社は、藤代・宮和田両宿の総鎮守であった。
平成九年十一月      取手市教育委員会


坂本洋服店

 相馬神社前で直角に右折する角に、長い板塀に囲まれ、胴長の二階を持つ旧家があるが、坂本洋服店の建物である。

藤代宿

 相馬神社前を右折した所から「藤代宿」が始まる。宿の入口のこうした枡形箇所には神社などがあることが多く、監視役も有していたと思われる。

 取手宿〜藤代宿は1里30町(約7km)。大廻りを通ると10km余り。現在の取手市藤代・片町付近である。街道筋は相馬神社の所ところで直角に曲がっている。その角に坂本呉服店が昔ながらの屋敷を構えて商いをしている。宿場の名残を感じるのはこの場所だけであろう。
 藤代宿は、本陣のほか、脇本陣、問屋場、旅籠、湯屋、商家が建ち並び、結構賑わっていた。その場所は現在も藤代町の中心部にあり、JR藤代駅から続く街並みは新旧の商店が混在している。宿場の規模は石高1803石・公用人馬25人・25疋常備とあり、街道筋では中堅くらいの規模だったようだ。

 藤代宿は、宿場町としてはひとまとめで扱われることが多いが、内部では江戸側(藤代庁舎側)の「藤代宿」と水戸側(藤代駅側)の「宮和田宿」に分かれていた。現在はちょうど両宿の間にJR藤代駅があり、街道は駅前を鋭角にカーブしていて、北に500m程のところに藤代宿があり、東に600m程のところに宮和田宿があった。一般にはこの両方の宿場を合わせて藤代宿と呼んでいたが、これら2宿がどのように分担し運営していたのか、なぜ、本陣や問屋場が両宿に置いてあり、交互にその任に当たっていたか等、何も判っておらず、謎の多い宿場町と言える。

 本陣・問屋場などの宿場町としての役務も持ち回りになっていた。藤代宿側の本陣は、現在の藤代中央公民館になっている所で、名主は飯田三左衛門家(注)が代々務めた。戦中も被災せず、近年までその雄姿を誇っていたが、昭和30年2月に町村合併で誕生した旧北相馬郡藤代町の庁舎建設のため取り壊された。終戦直後のこととは言え、こうした行政による歴史遺産の解体は残念極まりない。往時の本陣建物は木造茅葺の東破風作り・式台のある威風あるもので、広大な敷地を誇っていたが、度重なる小貝川の改修工事で大きく敷地を削られたようだ。後年、この地に本陣があったことを記した看板が本陣玄関前にあった百日紅の木と共に設置された。
 また、宮和田宿にも本陣が置かれていたが、記録が残されておらず位置も詳細も不明である。

(注)飯田三左衛門
 藤代宿の名主飯田氏は、元々は新田義貞の血筋で、横瀬氏を名乗っていた。牛久城主の由良氏も、上州金山城時代の初期は横瀬氏を名乗っており、両氏が縁者とは考えられるが、その関係を記す詳しい文献はない。おそらく由良国繁が城主として牛久にやって来た時、横瀬(飯田)氏も家臣として追随したものと考えられる。由良国繁の死後由良家は没落し、その家臣の横瀬氏も平民に身を落としたが、2代目の横瀬氏は、小貝川の改修工事の功績により伊奈忠治から、反田2石5斗与えられて財を築き、4代目において飯田三左衛門を名乗り、名主としての地位を不動のものにしたようだ。

<宮和田宿>

 当時の小貝川は下総国と常陸国の国境で、その国境越えのための宮和田の渡し場がこの宿場にあった。大雨が降ると宿場全体がぬかるみ、川は氾濫し、多くの旅人はこの宿に足止めされた。小貝川は、昔から度々氾濫する川で、現代では護岸工事もきちんとされたが、昔は想像を絶するほど氾濫が多かった。小貝川に橋が架けられなかったのもそれが原因と考えられる。
 宮和田宿に関する文献は皆無に等しいが、正徳5年(1715)の書物『駅路鞭影記』によると、小貝川の渡し賃は2文で、宿場にはうどん、そば切を売る店があったとある。

藤代宿本陣跡(13:42)

 藤代宿の本陣建物は、町村合併時に町役場に変わり、現在は藤代中央公民館になっている。中庭に解説板があり、本陣は木造萱葺屋根で質素だったが、唐破風造りの玄関は本陣の風格を備えていたとあるが、宿の記録も残っていないぐらいだから、歴史的文化遺産を残そうという意識も不十分だったと思われる。藤代町時代は町の文化財に指定されていたが、取手市に合併後は指定解除されている。
              
旧藤代町文化財指定史跡  
                    藤代本陣跡
                                           昭和四十八年十一月一日指定
                                           (平成十七年三月合併時指定解除)
 藤代本陣は、天正・文禄の頃(1573〜94)この地に置かれ、名主であった飯田三左右ヱ門(横瀬主膳正繁の長男で、もとの名を刑部庸氏という)の子孫が代々勤めた。
 本陣は、貞冶二年(1363)足利義詮が京都にのぼるさい、宿舎に宿札をかかげて本陣と称したのが、その始まりといわれる。江戸時代には各宿駅におかれ、坂近郊隊の大名・公家・幕臣等が宿泊した。藤代本陣は、水戸街道(陸前浜街道)藤代宿の本陣である。
 建物は、昭和三十年二月町村合併による庁舎建設のため取りこわされた。当寺、木造茅葺造りの質素なものであった。唐破風造りの玄関は本陣の威容をとどめていた。
 現在この百日紅と中央公民館脇の老松は、本陣玄関前にあったものである。
                    昭和六十一年八月
                                      取手市教育委員会
(注:訂正)

 また、『
たんぽぽに 照る日曇る日 陣屋跡  雨城』の句碑がある。作者の「野竹雨城(本名:一男)」は、明治40年に東京本郷で生まれ、昭和28年「故郷」を創刊主宰。NHK放送俳句選者、茨城県俳句協会長を歴任し、平成4年逝去した人物である。

愛宕神社(13:57)

                    
愛宕神社の由来
 当、神社は、寛永十五年(約三五〇年前)京都市醍醐三宝院東小山方山伏に依って、京都市右京区嵯峨愛宕町本社より、若宮御祭神迦倶槌命(火皇□霊神)を当所に、鎮座し祠を建立氏子一同に、崇敬され御神徳を輝かしておりましたが、築後八十年の月日は、祠の朽ちる処となり、享保二年(西暦1717年)社殿を造営し、其の后百有余年維持して参りましたが、大正十年十月社殿覆う上屋を建設保存を□(しも)り老朽甚だらしく氏子一同の總意により、本殿茅屋根の修復と拝殿の増築を施行し昭和五十九年一月二十四日例祭日に、現神社が完成遷座されました。
(以下略)

 社殿は覆屋で覆われ全く中が見えないが、堅い堅魚木(かつおぎ)をのせた神明式社殿である。社殿前の両側には石灯籠が鉄柵の中にあるが、境内がブランコなどの置かれた小公園をも兼ねているようなので、倒壊による子供達への危険防止のための保護柵と推断する。

熊野神社(14:14)

 藤代駅前を過ぎ、宿突き当たりの小貝川堤防下左角にある。境内に入ると右手前に「八坂神社」の額が懸かった建物があり、格子戸を開くと中に神輿が格納されている。参道の奥に熊野神社で鎮座しており、次の様な解説板が建てられている。

             
      <藤代町指定文化財>
                    熊野神社奥殿
                                           種別 建造物
                                           行蔵 銅板葺 入母屋扇垂木
                                              向拝屋根唐破風造り
                                           指定 昭和四十八年十一月一日
 嘉永四年(1851)再建される。浜床より大床下の彫刻が見事である。三壁面、とくに脇障子の彫刻は豊麗である。天明以後ひき続いたききんのなかで、よくこれほどの社宇が建築できたと思われる。
 創建は、千葉常胤説とその子孫俊胤説の二説があるが不明である。(常胤は鎌倉時代の武将、俊胤は戦国時代の武将である)。
                    昭和四十九年三月
                                         藤代町教育委員会
                                         藤代町文化財保護委員会


 奥殿の彫刻が見事らしいが、トタンで囲われ見ることができない。土手に登って街道を振り返ってみると直線で清々しいが、江戸時代は土手は無かった筈なので、ましてや小貝川の湾曲振りから見て、一体は洪水で悩まされたことと推察される。
 土手に上がって小貝川の対岸を見ると、「小通の観音様」の朱塗りの屋根が見える。古老の話では曾ては、そちらに向かっていつ流されても良いような小橋が架けられていたという。おそらく橋が流された時には舟渡しになったとか、江戸期は全て橋渡しだったかと想像される。

小通(こどおり)の観音様(14:29)

 現代の旅人は、現代の橋を通るべく川岸の土手を歩いて「文巻橋」交差点に出、橋の左側だけに歩道があるから、信号で向こうに渡ってから右折し、「小貝川」に架かる「文巻橋」を渡る。渡り終えたら、信号は無いが直ぐに道を右に渡り返し、左岸の土手下に向かう道を行くと先ほど対岸から見えた小通の観音様が左手に鎮座している。北相馬郡藤代町と龍ヶ崎市の境界である小貝川は、往時は下総国と常陸国の国境で、その国境越えのための宮和田の渡し場がこの辺りに繋がっていた訳である。
 手持ちの地図では、「慈眼院」と表示されていたが、参道入口に「清水山慈眼院十一面観世音」の石塔が建ち、これが正式名らしい。地元では俗に「小通観世音」とか「十一面観音」等と愛称されているらしく、先刻訪ねた熊野神社に幸司に来ていた人たちからも「向う側にありがたい観音様があるよ」と教えてくれた所である。

                    
竜ヶ崎市指定文化財 彫刻
                    十一面観世音
                                           昭和五十四年三月三十一日指定
 寺伝によると、天慶年間(938〜947)に平貞盛が父国香の菩提を弔い、自領の民心を安定させるために、川原代に安楽寺を、小通の川岸に観音堂を建立したのが小通幸谷の十一面観世音の始まりとされている。
 天正の始め(1573〜 <注>1753〜と表記されているのは誤り)、若柴の金龍寺の開祖である(牛久城主)由良国繁は、(先代の城主)岡見一族の供養のために七観音八薬師を建立した。小通幸谷の十一面観世音は七観音の一つで、由良の家老和田民部が奉行となり、観音堂は清水山慈眼院観音寺と改められた。当地の十一面観世音が眼病に霊験があると信じられ、当時は境内も広く自領も一町歩あり、遠近の参詣者や参観者が多かったと伝えられている。
 江戸時代は真言宗で、土浦市大岩田の法泉寺の末寺であり、享保二年(1717)春栄の代に観音堂が再興されている。
 明治初年の神仏分離令に際し無檀無禄寺院として廃寺となったが、同八年(1875)村中の総意により、七観音八薬師の由緒をもって、若柴の金龍寺の末寺として再興され、曹洞宗に改められ現在に至っている。
本尊の十一面観世音は、恵心阿闍梨の作とされているが、詳細は不明である。
                    平成六年三月
                                              竜ヶ崎市教育委員会


 昔はもっと川岸寄りに建っていたが、河川改修時に現在地に移転したらしい。直、境内には新四国六十七番札所がある。

対岸の水戸街道筋へ

 観音様の前を通り過ぎると、まもなく国道6号線から分岐した車道と合流する。その道は若柴宿へ続く旧水戸街道で、車や人が少なく歩きやすい。  200m程先でY字分岐を右に入ると、その先が常磐線龍ヶ崎踏切で、踏切を渡った突き当たりを左折すると視界は小貝川の水辺風景に変わる。踏切は「浜街道」ではなく「龍ヶ崎街道」という名の踏切になっている。葛飾以降の踏切名は殆ど浜街道だったのに・・・。右手に牛久沼排水機場を見て道なりに左折して行き、「往還橋」を渡って県道5号と合流する。

若柴宿方面への道標

 その先、50m程先で若柴方面への道は「カスミストアー佐貫店」隣の「トンカツ末広(廃業?)」のある「馴柴小入口」信号を左折する。その三叉路角に小さな道標が建っており、何気なく通ると見落とし兼ねない程の小さい道標で、屋根付建物の中に建っている。柱が邪魔かつ風化が激しく読み取りづらいが、「右りゅうがさき なりた」「左わかしば 水戸」と刻まれているようである。
 道標の前の道を進み、70m程先で関東鉄道竜ヶ崎線の踏切を越える。右カーブした先右手に訓柴小学校がある。創立100年以上という歴史ある伝統校である。突き当たりは三叉路でその東南角に当たる学校敷地内に「道標」とその解説板(次項参照)が建っている。

馴柴小の道標(14:57)

 我孫子宿から取手・藤代・若柴経由牛久宿の経路が成立するのは天和(1681〜84)から貞享(1684〜88)年間のこと。それまでは我孫子宿から布佐・布川・龍ヶ崎川原代経由で牛久宿に達するコースだった。超豪華という形容がピッタリの馴柴小学校の北東の三叉路には、往時の二つの旧水戸街道が合流しており、三面に「布川三里、江戸十三里、水戸十六里」と刻まれた道標が残っているが、金網とチェーンで囲まれている。ここから北進すると若柴宿に達する。石版に彫られた解説板には次のように記されている。

                    
市指定文化財 道標
                                        種   別 史跡
                                        指定年月日 昭和五十三年三月二十二日
                                        所 在 地 竜ヶ崎市若柴町三一三五番地
                                        管 理 者 竜ヶ崎市
 江戸時代に江戸と水戸を結ぶ交通路は水戸街道と称され、五街道に次ぐ重要な脇街道であった。
 初期の水戸街道は、我孫子から利根川に沿って布佐まで下り、利根川を渡って布川、須藤堀、紅葉内の一里塚をたどって若柴宿に至る街道(布川道)と、取手宿、藤代宿を経て小貝川を渡り小通幸谷若柴宿に入る道があった。この二つの合流点、現在の市立馴柴小の北東隅の三叉路にこの道標(里程標)がたてられ、三面に水戸十六里、江戸十三里、布川三里と通ずる方角とそれぞれへと里程が刻まれている。裏面には「この若柴駅街道の碑は、文政九年(1826)十二月に建立した。三叉路で旅人が迷い易いので若柴駅の老人が相謀り、普門品一巻を読誦する毎に一文ずつ供えて積み立てた(意訳)」とあり、十五名の村民の姓名が記されている。
 明治五年(1872)に水戸街道は陸前浜街道と改称され、明治十五年(1882)十一月には牛久沼淵の道路が開通した。そのため台地を通る街道はさびれ、若柴駅(宿)も宿駅としての機能を失った。この道標は若柴駅(宿)街道の碑として往昔の陸上交通の盛んであった面影を偲ばせるものである。

ゴール

 さて、右手の馴柴小学校先のT字路を左折し100m程行くと、駅前の大通りとの交差点「駅東入口」に15:03に出る。左折すればJR佐貫駅、右折すれば竜ヶ崎ニュータウンで、旧水戸街道は直進することになる。ここ迄で、今朝我孫子駅南口をスタートしてから略々18.6km(寄り道を除く)歩いた計算になる。本日はここ迄とし、左折してJR佐貫駅に向かい、駅近くで軽く打ち上げようと思ったら、開店時間前で諦めかけたが、せめて缶ビールでも買って車中で・・・と思って駅横のコンビニに入ると、テーブル・椅子が用意されており、暫し喉の渇きを癒やしてから帰途につくことができた。