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旧水戸街道餐歩記〜#2
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 2009.05.10(日) 水戸街道#2 松戸宿〜我孫子宿 約17km+寄り道

 
松戸−竹の花−北松戸−馬橋−二ツ木−北小金 6.3km
 小金宿−東漸寺−根木内交差点−柏神社−諏訪神社−東陽寺−我孫子 11.7km


第2回目スタート(8:47)

 松戸駅西口に予定より早く着いてしまったが、きょうの歩き仲闖ャ川氏も同様だったようで、8:47には駅をスタートする。日程調整が上手く行かず、常連の村谷氏には別途フォローして戴くようお願いし、もう一人の長塚氏も旅行予定だったかで都合がつかず、二人旅となったが、今日の天気予報は今年一番の猛暑が報じられており、それなりの用意はしてきているものの、まだ身体が熱さ慣れしていないので若干の心配なしとしない。

来迎寺(8:58)

 駅から街道筋の「松戸駅入口」交差点を越え、「一平橋」で「坂川」を越え、江戸川方向へと向かい、右折すると、左手に「平潟神社」、そのすぐ先右手に「来迎寺」がある。
 「親縁山来迎寺」は平潟遊廓跡のすぐ近くにあり、慶長14年(1609年)創建の浄土宗の寺院で、小金東漸寺の末寺である。また、神仏分離令以前は隣の平潟神社と境内が一緒だった。
 本堂左前には平成十二年八月三十一日付の「無縁墳墓等改葬公告」が掲示されていて、曾て平潟にあった妓楼九十九楼の墓が現存し、遊女達を弔った墓が少なくなかったという話も、無縁仏として改葬されてしまったのか、それらしいものが見当たらない。また、境内には松戸二十一ヶ所第十三番の大師堂や、珍しい六角灯籠型六地蔵が祀られているとのことだったが、ちいさな大師堂らしきものはあったものの六地蔵については本堂周辺を見渡した限りにおいては、見つけられなかった。
  また、水戸街道は、はじめ平潟道が道筋であったという説がある。江戸時代、江戸川水運で平潟川岸・納屋川岸が大層賑わい、平潟は旅籠、船宿が軒を連ね栄えたといわれ、後代には飯盛旅籠屋が平潟遊郭へ変遷するなど繁盛していた時代があったが、現在では往時を偲べる建物は残っていない。

平潟神社(9:01)

 元々は、江戸川べりで水運とも関わりのあり「水神社」(昭文社地図では「水神宮」と表記)と称していたのを昭和3年に平潟神社に改めている。祭神は水波之女神で、俗に「水神様」とよばれ、鳥居の中央には「水神宮」と書いてある。神社統合令による影響で、近辺にあった三峯、稲荷、八坂、秋葉の各社を合祀しているという。三峯社は本殿右奥に、秋葉社は本殿左手側で確認できたが、他は本殿内で合祀されているのだろうか?
 面白いのは、北東向きになっており、来迎寺と神社が斜に構える配置になっている。
 平潟遊廓の形跡を残すものとして、妓楼の主が狛犬を寄進している。九十九楼(後の三井家)の名前が刻まれており、鶴宝菜の楼主、山田文蔵も狛犬を奉納している。山田文蔵は、立石の農家の出身で、下肥を船で運んで来て、平潟遊廓で遊びを覚えて儲かることを知り、娼婦のおつるを囲い鶴宝菜の名で店を持ちました。もう一つの狛犬は、逢菜家の鈴木亀右衛門が奉納しているが、鈴木亀右衛門は、娼妓が首を吊って死んだので、それを機に廃業した。
 これら二つの寺社は、貧しく、かつ、か弱き身一つを唯一の資本とした遊女たちの祈りが凝縮されていた場所と言えよう。

建設省直轄工事発祥の地(9:09)

 街道に戻り、江戸川の堤防の下、車道脇に次の様な解説板が建てられている。

                    
史蹟 建設省直轄工事発祥の地
 江戸川は江戸時代以来、たびたび大洪水を引き起こしていました。そこで政府は明治5年、水制好学の先進国であるオランダからリンドウら5人の技師を招聘し測量調査を行い、報告書を作成させました、報告書によれば江戸川の川口付近の堤防構築、松戸付近の屈曲部の河身改修工事が緊急性のある場所とされ、政府は同8年6月古ケ崎地先にて、リンドウの計画による試験的粗朶工(木の枝等で枠を組み、その中に石を詰めたものを沈める)による水制(河筋を安定させるための工作物)3本、護岸工1カ所の工事に着手した。この水制工事は、明治政府による利根川改修工事の最初であり、我が国近代治水工事の発祥である。後日、この地点を「第1号丁場」とよんだ。
                    平成一〇年三月
                                        松戸市教育委員会

坂川排水顕彰碑(9:12)

 道を隔てた反対側の先には、大きな自然石の石碑や石版に横書きした次のような解説文や、坂川治水顕彰碑という横書きの石碑がある。
 大きな自然石の碑は、「坂川排水碑」のタイトルで漢文の読む気も起こらない長文が刻まれ、石版プレートには次の様に記されている。

                    
坂川排水碑について
 坂川の治水工事は江戸時代後期の寛保から天保年間にかけて、流山市竜ヶ崎の名主渡辺充房(庄左衛門)ら親子三代の苦難と長い年月により整備された。しかし、明治の中頃から長雨がある度に二十余りの村々は水浸しとなり治水対策に苦労を重ねていた。
 明治三十九年に古ヶ崎に排水機が設置されたが、小規模であったため効果はあがらなかった。そこで、新たに樋野口に排水機の設置を計画し、明治四十二年六月に完成した。
 この排水機の完成により、長年にわたる水害が解消され、田畑からの収穫も倍増し、人々は安心して生活できるようになった。
 この石碑は、今上皇太子(のちの大正天皇)が松戸に巡遊され台覧の栄となり、これを記念して組合が建立したものです。
 石碑の文末には先祖の業績を讃えるとともに日頃の生活態度の教訓も印されています。
                                        千葉県


平潟遊郭跡

 位置的には、平潟神社の先を旧平潟河岸沿いに右折した通り(逆から言えば、松戸宿北端の「松の木通」から左折し、「松の木橋」で「坂川」を渡り、左手にあるヴァンテアン島村ビルの先を左斜め前方に入り暫く行って道なりに左折する箇所<往時の大門跡>から先が「平潟遊郭街」だった。
 一昔前、坂川の西側は「平潟田圃」と呼ばれた広い水田だった。いわば、南北的には松の木橋と一平橋、東西的には「坂川」と「平潟河岸」に囲まれた河岸よりの区域に「平潟遊廓」があった訳である。浅草田圃の真ん中に新吉原が設けられたのと同じ地理的現象だが、平潟には平潟河岸と、後に南側にできた納屋河岸(上河岸)を中心に、材木・鮮魚を扱う商人や水運業者が集まり、彼ら相手の飯盛女を抱える旅篭が数多くできた。それらが発展的に遊廓を形成していったという点で、人為的・政策的に造られた吉原とは大きく異なっていたと言えよう。

 大正時代の平潟遊廓は街に贅を尽くした木造建築が立ち並んでいたそうで、売春禁止法施行の昭和33年以降は司法試験のための学生寮になったというからビックリだ。当時の面影を残す建物は平成6年に全て取り壊されている。

千壇家(9:23)

 旧遊郭街に入る道がどうしても確信が持てず、若干遠回りして江戸川沿いを歩いてしまった感があるが、あるいは正しかったのかもしれないと思いつつ、確信の持てる「松の木通り」へと入ると、右手に予定外の「千壇家」があるのを小川氏が見つけてくれ、下記立て看板と共にカメラに収める。

                    
松戸の宿 千壇家(せんだんや)
 江戸末期の創業で幕末に新選組隊長近藤勇が下総流山に赴く途中滞在した歴史的に由緒あるやどです
                    道しるべ
 この道標は大正末期根本川岸道路改修事業が行われたときに建てられたもの 江戸から水戸街道を下り葛飾橋を渡ると松戸宿です 松戸根本で坂川に懸る松の木橋を渡り坂川に沿って流山街道にでて野田に通じる道と 一方平潟遊郭を経て江戸川の小向渡(百姓の渡し)に至る道の分岐点が千壇家前でした


 立看板(解説板)の真下には、古い石標があり、人手型のマークと共に次の様に刻まれている。
          
右 流山 野田道
                    根本川岸組合
          左 平潟遊郭 小向渡道


御領傍示杭跡

 「松の木通」を東進して街道に戻る。道筋は左折北進だが、逆に右折してすぐ先の街道東側で「御領傍示杭跡」を探すが見つからず、諦めて北進を開始する。曾てあったという「御領傍示杭」が松戸領の北の境ということになる。言わば松戸宿の水戸側からの入口に当たり、「是より御領松戸宿」の標柱が立ち、松戸宿が天領であることを示していた訳だが・・・この地点までが道中奉行の支配下であり、ここから先は勘定奉行の支配下へと替わったという。

一里塚跡

 その先で往時の大根本村に入る。左右に一里塚があったらしいが、これも何の痕跡もない。

馬橋

 松戸駅先で跨線橋を越え、車用の「新浜跨線橋」の下を潜って9:51に「竹ヶ花」信号を左折し、「上本郷」信号で10:00にR6号線に合流する。10:05北松戸駅前を過ぎ、「中根立体入口」の先の「馬橋駅入口」から左斜め前方への旧道に入る。
 馬橋の地名の由来になった「馬橋」という橋が「馬橋駅入口」から旧道に入ったすぐ先にあるが、欄干に椿の模様がついている以外は格別のものはない。もちろん河川工事に際して架け替えられており、往時は木橋だった由。

栢日庵立砂(はくじつあんりゅうさ)の居宅跡

 その少し先右手にある「東京ベイ信用金庫」(旧松戸信金)前に「栢日庵立砂の居宅跡」と記した松戸市教育委員会による白い木標が建っている。

 
馬橋の油屋平右衛門こと栢日庵立砂( 〜1799年)東葛地方の俳諧人として有名でした。親子ほどの歳の差があった一茶から爺と慕われ彼のよき理解者であり、また庇護者でもありました。

 「栢日庵」は「大川立砂」の別号、本名は「大川(油屋)平右衛門」、松戸市馬橋の有名な俳諧人で、小林一茶から爺と慕われ、一茶が度々訪れているパトロン的存在であった。ここが居宅跡で、一茶は立砂の許に奉公しながら俳諧の道に入ったという伝承もある。
 寛政3年(1791)3月26日、一茶29歳の時馬橋に泊まり、立砂は一茶に餞別四十疋を贈っている。(『寛政三年紀行』)

萬満寺

 「(馬橋)駅入口」から「八ヶ崎」交差点まで、旧道は馬橋駅に立ち寄るが如く「く」の字型に迂回する。その右カーブする所の正面に「萬(万)満寺」がある。臨済宗大徳寺派の寺院で、山号は法王山、本尊は阿弥陀如来。水戸街道きっての名刹で、江戸時代には12,000坪の広大な境内に堂塔伽藍が林立していたという。全国唯一の中気除不動尊霊場である。立派な大門を通って、仁王門を潜ると左手に水掛不動三尊像がある。
 この寺は年2回、唐椀供養と言い、山門右手にある仁王の股を潜って中気除けを祈る行事で知られている。鎌倉時代、千葉常胤の孫娘が天然痘に罹り、当寺の「仁王の股くぐり」をしたら治ったという「仁王さまの股くぐり」に端を発しているという。かの長嶋茂雄氏も脳梗塞で倒れてからのことだろうが、この寺に参拝したという話を境内で解説して貰った。
 鎌倉期作の金剛力士(仁王)像は国の重要文化財に指定されているほか、文化財が多数ある。
また、前述の大川立砂(寛政11年=1799没)の墓がここにある。

<以前建てられていた解説板>
                    
−−−由緒−−−
当寺の寺伝によると鎌倉時代の初期、建長八年(1256)下総国の守護職であった千葉介頼胤が、後に鎌倉・極楽寺の開山となった忍性良観上人を招き、鎌倉歴代将軍と千葉家一門の菩薩を弔う為、馬橋に建立した真言律宗の「大日寺」が当寺の濫觴です。
 室町時代に入った三代将軍・義満の時代に、三代関東公方の足利氏満は義満に対して謀反を企て、京都幕府と鎌倉は不穏な状態にありました。そこで氏満は臨済宗の高僧で天皇・幕府に信頼の篤かった夢窓国師の高弟である古天周誓和尚を使者として対立していた室町幕府との和睦を図りました。和睦が成立し功のあった古天和尚のため氏満は、堂宇を整備し、将軍「義満」と自身の名「氏満」双方の満をとり康暦元年(1379)寺号を「萬満寺」と改め、臨済宗に改宗しました。
 その後、天文六年(1537)京都 紫野の大徳寺九十六世・謹甫宗貞和尚に帰依した小金城主・高城胤吉は謹甫和尚を迎えるために伽藍を復興し、馬橋村七〇〇石を寄進して臨済宗大徳寺派となりました。江戸時代には歴代将軍より七〇石の寺領を受ける朱印寺として栄えますが、明治の廃仏毀釈や明治四十一年(1908)、汽車の煙火による大火で伽藍や仏像、数多くの寺宝を失い、さらに戦後の農地解放で寺領の殆どを失ってしまいます。
 しかし、歴代住職の努力と徒檀信徒の協力により昭和六十二年に新本堂が落慶し、諸堂も少しずつ整備され、水戸街道きっての古刹としての面目を徐々に取り戻しつつあります。


<最近書き直された解説板>
                    萬 満 寺
鎌倉時代の建長八年(1256)に小金城主であった千葉介頼胤が、鎌倉極楽寺良観房忍性を招いて堂宇を修め、真言宗の大日寺を開いたのが始まりといわれています。
現在の萬満寺(臨済宗)となったのは、千葉介満胤の時代の康暦三年(1379〜(注))といわれ、満胤は鎌倉の瑞泉寺にいた夢想国師の高弟古天周誓を招いて中興開山し、関東管領足利氏満(1358〜1398)の満の字をとって萬満寺と号したといわれています。

萬満寺の文化財
  国指定
     重要文化財 木造金剛力士像
  市指定
     有形文化財 木造不動明王立像
     有形文化財 鋳造魚藍観音立像
     有形文化財 一月寺遺石
     有形文化財 阿弥陀如来座像
     有形文化財 豊臣秀吉の制札
                    平成二十一年三月二十四日
                                        松戸市教育委員会


(注)康暦三年は永徳元年であり、西暦では1381年が正当。古い解説板から判断してして、「康暦三年」とあるは「康暦元年(1379」が正当と思われる。


道標

 萬満寺を右折すると緩やかな登り坂が「八ヶ崎」交差点でR6に合流し、歩道橋で向かい側(右側)に渡ると、比較的大きな古い石の道標がある。
  
街道側(西面)   青面金剛尊 左水戸街道
  北面       文化三年丙寅冬十月如意口 右印西道
  南面       総州葛飾郡馬橋村


一里塚跡

 左折して国道を暫く行くと、10:53、右手にある安楽亭の先に「一里塚跡」の木標がある。松戸市の旧跡案内は解説板ではなく木標になっているので注意していないと見落とし易い。

 
江戸時代の主要な街道に、日本橋を起点として一里(約4km)ごとに怩築き、旅人の里程や人馬賃銭の目安にしたものといわれる。

蘇羽鷹(そばたか)神社(10:59)

 「二ツ木」信号のもう一つ先の信号で右前方へ分岐するのが順路だが、信号左手先の高台にある壮麗な「蘇羽鷹神社」に立ち寄る。元の名を「蘇羽鷹明神社」と言い、別名「蘇羽鷹大明神」とも呼ばれる。中世の豪族千葉氏の守護神であり、「鎌倉大草紙」によれば、千葉篤胤が小金に在った頃、萬満寺の前身大日寺を馬橋に開基したとある。ご神体は身の丈25cm程の鋳鉄製の人像神である。
 広大な敷地の神社裏手には、「二ツ木向台遺跡」と呼ばれる縄文時代の貝塚がある歴史的神社である。
 御祭神は国常立命、径津主命の両説があるようだ。中世、千葉宗家が城の北側(鬼門)を守る守護神として祀ったという由緒ある神社で、中には、金剛力士像などの重要文化財が保存されている。創建は天正4年(1576)で、昭和51年4月30日の不審火により焼失し、昭和55年10月に新築し、平成2年10月に改修されている。
 石の階段を登って行くと、右手にいかにも句碑らしきものがあるが、その句碑ではなく手前の大きな石碑の横の天保11年(1840)の「月山湯殿山羽黒山(注:出羽三山)坂東西国秩父百番(注:俗に言う百観音)供養塔」には「松尾芭蕉」の句が刻まれている。
   
「松杉を ほめてや風の かほる音」
 なお、旧社殿跡の縄文時代の遺跡は関係者の努力で公園化に成功し保存の処置が講ぜられた。社殿の右手から奥に入っていくと、裏手に広い公園が出来ていた。

 なお、石段を登った左手には猿田彦命を祀る「庚申堂」があり、右手には、小さな「姫宮様」の祠がある。

多い旧道部分

 先ほどの信号から国道右前方への旧道に入る。車は一方通行になっていて国道からは入れない。今まで、いろいろな街道歩きをしたが、水戸街道ほど旧道部分が多い街道は初めてである。時折しか国道部分を歩かなくて良いのが凄く嬉しい。
 旧道といっても格段旧家が沢山残っている訳ではないが、狭い道幅や、曲折、登り下りの道に歴史の年輪が強く感じられるからである。

木標

 11:10、旧道入口で「旧水戸街道」の木標を発見する。

 
江戸と水戸を結ぶ此の街道は江戸時代には諸大名、旗本の往来で賑わっていました。松戸市内は大部分が国道6号線として整備され、大きく変貌しましたが、現在地から北方の6号線との交差点までの約900mは当時の道形を残しています。

と記されている。

 その先で武蔵野線のガードを潜り、左右を見通すと素晴らしい並木の「けやき通」を横切って坂を登って行くと、11:19左手に「江戸屋酒店」があり、その向い側の植栽の傍にも水戸街道の案内標識があり、この辺は多少ながら旧道の面影を感じさせてくれる。

昼食(11:25〜11:48)

 左手にある「常行院」辺りの「和尚坂」を登り切って、その先「北小金駅入口」信号で国道を横断し、北進して「小金宿」へと入っていくのが道筋だが、国道沿いでラーメン屋を見つけ入店して昼食タイムとする。

小金宿

 「北小金駅入口」信号に戻り、国道を横断し、北進して「小金宿」へ向かう。この辺りから北小金駅前迄が、往時の「小金宿」の中心地だったらしいが、開発の波にさらされて往時の面影は薄れている。当然本陣もこの辺りにあった筈だが何の標識も見当たらない。
 その規模は松戸宿の半分、家数は江戸後期に約150軒とさほど大きいものではないが、江戸までの行程が8里24町(約30km)と約1日だったことや、周辺に鷹場が設けられていたことから、水戸藩は重要視していた。このため水戸藩専用の本陣(別名:小金御殿)も置かれ、他藩用本陣と二つの大名家宿泊施設を擁するユニークな宿場であった。小金御殿は戦国時代に当地の豪族で小金城主であった高城(たかぎ)氏の家臣であった日暮玄蕃の子孫が代々経営にあたっていたという。場所は、街道左手の小金小学校入口通路から数十メートル南側辺りだった由。
 宿には、本陣1、脇本陣1のほか、前述水戸家専用の本陣があったが、いずれも時勢と開発の波にさらされ、現在では跡形もない。

 小金宿は、千住宿から3つ目の宿場町で、直前の松戸宿からは1里28町(約7km)、 現在の千葉県松戸市小金にあたる。中世、小金城近くまで迫っていた太日河河岸からの城下に向かって形成された金宿(こがねしゅく)を原点として、水戸街道の整備と共に宿場町を形成していった。宿場は南北約1km程の範囲に広がり、北端で屈曲して東に向きを変えている。屈曲点からは更に北に本土寺への参道が伸び、追分の石碑が建つ。この屈曲点には八坂神社があったが、再開発で別場所に移転し、跡地は商業施設になっている。

 宿の家並みは百軒余で宿場町としての規模は小さいが、幕府の軍馬牧場である小金牧の近くに位置しており、重要性が高かった。一般大名用の本陣(大塚家)とは別に、水戸藩は独自に本陣(日暮家)を指定していた。
小金宿の中心部は後述の一月寺と東漸寺の間のようで、松戸市史には「小金町の問屋は街道の東側にあって、はす向いが日暮玄番の水戸殿旅館である。本陣はこの直ぐ先隣りにある。脇本陣は中ノ橋石橋を渡った右側にあり、向いの左側は東漸寺である。」と記されているようだが、街道両側に並ぶ家・屋敷はいずれも広く、静かな住宅地になっており、すぐには特定し難い。

旧家や旅籠

 小金は、戦国時代、高城氏一族の城下町として発展したが、徳川時代には「小金宿」が設けられ、また軍馬育成のための「小金牧」が開かれ繁栄した。その名残か、大きな門構えや広い庭を持つ旧家がまだ残っている。
 右手には小金宿での伝統のある飴の製造販売業者だった飴六の「永妻家」があるが、先祖には小林一茶と親しかった俳人もいた由で、家の前に建つ解説板によると、屋号は「あめや」で、水小金宿で古い暖簾を誇る飴の製造販売業者だった。そして、先祖には、先述の大川立砂の門人もいて、小林一茶も宿泊したことがあるという。

 また、その先には、後述の「一月寺」の先左手に、千本格子が見事な木造平屋建で、下屋が歩道の中程迄突き出している「旅籠玉屋(鈴木家)」の建物がある。徳川時代後期の旅籠の原型をとどめた素敵な佇まいを残しているが、外観見学はともかく、内部は公開されていない。
その他、明治天皇の行在所になった旅籠京屋の梅沢家、東漸寺、隣がマツモト家と続いていた。

 小金はドラッグチェ−ン・マツモトキヨシの発祥の地で、常磐線の松戸から我孫子にかけて薬局が無い唯一の駅だったという理由で北小金駅前に、昭和7年 松本薬鋪が開店しており、その1号店が北小金駅前右折点の手前角にあるマツモトキヨシ小金店の由。

一月寺(11:54)・・・街道左手

<門前の標柱>

 
普化宗金竜山一月寺は、鎌倉時代初期に金先禅師によって創建されたといわれています。江戸時代には青梅の鈴法寺と一月寺が蝕頭として関東地域の普化宗諸派の寺院を統括しました。明治4年の太政官布告によって普化宗は廃止されます。

 現在は日蓮正宗の寺院になっている「金龍山梅林院一月寺」は、創建が正嘉年間(1257〜59)で、鎌倉時代に金先古山禅師の開基と伝えられる。江戸時代は、武蔵国青梅の鈴法寺と下総國一月寺が触頭として関東地域の普化宗諸派の寺院を統括した虚無僧の総本山だったが、明治4年(1871)の太政官布告による普化宗廃宗により日蓮正宗に改宗している。
 虚無僧というのは、武士の平服に紺黒五条の袈裟を懸け、深編笠を被り尺八を吹きつつ行脚・托鉢する半俗半僧の者のことである。寺門左の標柱に往時の名が残るのみだが、普化宗は唐代の禅僧「普化和尚(?〜860)」を開祖とする宗派で、法燈国師覚心が宋から伝え、江戸時代には徳川幕府の庇護もあり、隆盛を極めたという。

 普化宗の廃宗についてだが、明治新政府の方針で幕府と縁の深い普化宗ということで廃止され、以後、普化宗僧侶は僧侶資格を失う。この結果、当寺では近くの萬満寺の助力を得つつ在家管理の形になり、昭和30年代、妙縁寺総代(後に法華講連合会第三代委員長)だった佐藤悦三郎氏の尽力で日蓮正宗に改宗し、寺名の読みも普化宗時代の「いちげつでら」から日蓮正宗の「いちがつじ」に変更している。なお、普化宗時代の寺宝は松戸市に寄贈され、現在は「松戸市立博物館」などで見ることが出来るという。

 参拝しょうとしたが、自動ドア付きのガラス張りの奥に女性が居て、何やら新興宗教のような雰囲気だったので参拝せずに引き返した。

旅籠玉屋(鈴木家)

 その少し先左手に、千本格子の古い平屋建ての元旅籠がある。鈴木某の表札が掛かっている。
<標柱>
                    
玉屋(小金宿の旅篭)
この小金の地は江戸時代より水戸街道の宿場町として栄えていました。この建物は屋号を玉屋という旅篭で当時の宿場町の名残を伝えています。

<解説板>
                    
鈴木家
 此処の街道は水戸街道で有名であるが、成田街道でもあり旅籠が多く鈴木家は代々惣右衛門を名乗り、玉屋の屋号で徳川時代後期の旅籠の原形を留めている。
 当時の小金では鈴木、月見、綿貫、湯浅、芦田、安蒜、大熊、が役職に従事していたが、未だ姓は現存している。   松戸北ロータリークラブ


本陣跡

 東漸寺の手前、小金小学校前のバス停辺りが宿場の中心地だったようで、本陣、脇本陣、高札場、問屋場が道の左右にあったらしい。今は本陣跡を示す白い木標だけがあるというので探したが見つからなかった。
 本陣跡は古風ながら一風変わった雰囲気の邸宅で、この家の主は400年以上もこの土地に住んでいるという大塚家で、「井筒屋」という屋号で代々、小金宿の本陣を勤めていたという。

東漸寺(12:03〜12:17)

 同じく街道左側で、その先の「市立小金小学校」入口から60m程先を左に入ると、「東漸寺」への長い参道が続いている。本堂までに三つも門がある立派な寺で、奥左手の墓地では仏事が行われていた。
 小金宿の中心的存在で、創建は今から約500有余年前の戦国時代の文明13年 (1481)、浄土宗増上寺の音誉の門下の経誉愚底運公上人により根木内(当地の北東1km)に開かれ、その約60年後(天文年間)に小金大谷口城の完成と共に出城として当地へ移された。徳川家康の厚い保護を受け、江戸時代初期には関東十八檀林(注)の一つになり、広大な境内や多くの建物を擁するようになる。大改修成就の享保7年(1722)には本堂・方丈・経蔵(観音堂)・鐘楼・開山堂・正定院・東照宮・鎮守社・山門・大門その他8つの学寮など、20数ヵ所もの堂宇を擁し、末寺35ヵ寺を数え、名実共に大寺院へと発展し、明治初頭には、明治天皇により勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)にもなった。

(注)関東十八檀林
 江戸時代初期に定められた関東における浄土宗の檀林(僧侶の養成機関・学問所)18ヶ寺をいう。江戸時代における浄土宗の僧侶養成は、この18ヵ寺に限られていた。
[武蔵国]芝・増上寺、小石川・伝通院、深川・霊巌寺、小金井・幡随院、鴻巣・勝願寺、八王子・大善寺、岩槻・浄国寺
[相模國]鎌倉・光明寺、
[下総國]飯沼・弘経寺、松戸・東漸寺、千葉・大巌寺、常総・弘経寺、
[上野國]太田・大光寺、館林・善導寺、
[常陸國]那珂・常福寺、稲敷・大念寺
の名刹が名を連ね、それらと比肩する格式を有していた。


 このように手厚い幕府の保護を受けた東漸寺も、廃仏毀釈等により、神殿・開山堂・正定院・浄嘉院・鎮守院などの堂宇を失ない、学寮及びその敷地は、地域青少年育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)になった経緯を有する。
 幕末以降の財政基盤だった広大な寺有田(現・新松戸周辺)は、第2次大戦後の農地解放で失い、境内もかなり荒廃したが、歴代住職の尽力もあり、関東屈指の多数の文化財や檀林の面影を伝える境内の古木・巨木等が往時のまま残され、東漸寺復興の大きな力となったという。

  昭和38年、寺子屋教育再現を目指して「東漸寺幼稚園」を開設、昭和40年後半から、開創500年記念復興事業として、熱心な檀信徒の協力を得、本堂・鐘楼・中雀門・山門・総門等の改修、書院の新築、平成8年には観音堂を再建し、現在に至っている。
  現在では樹齢300年を誇る「枝垂れ桜」や「鶴亀の松」、参道の梅・紫陽花・もみじなど、四季折々の自然や日本の伝統美を感じ得る古寺として、また、賑わいを求めて4月の御忌(ぎょき)まつり(注)、12月の除夜の鐘など、多数の参詣者が訪れるという。

(注)御忌まつり
 御忌とは、浄土宗の宗祖「法然上人(1133〜1212)」の忌日に因んで行う法要のことで、法然上人の御像を担いだ可愛い稚児たちが小金の町を練り歩く。江戸時代から東葛一円の人々に「御忌のおまつり」として長く親しまれ、大法要の日を機に3日間(毎年4月25日〜27日)、多数の植木市や露店が並ぶ。


 表山門を入った右手に「無財七施」が掲げられていたが、表現内容がこれまでに見たものと異なるユニークさを感じたので紹介しておく。

 
無財の七施
   あたたかい眼差し(眼施)
   にこやかな表情(和顔施)
   やさしい言葉(愛語施)
   精一杯のこころがけ(身施)
   いつくしみ深い心(心施)
   人にあたたかい席を(床座施)
   気持ちよく迎える(房舎施)
 無財の七施の心がけは日常生活の潤滑油である


水戸街道道標(12:21)

 街道に戻り、JR常磐線北小金駅入口に至ると左角に「金町道路元標」の石塔がある。駅前には右向こう角に「サティ」ビルがあり、ビル南側にはまだ新しい大きな「
小金鎮守 八坂神社御跡地」の石碑と共に、道標が2基ある。一つが「左なが連(れ)山道 右水戸道中」、もう一つには「右水戸海道」と刻んであり、ビル西側には本土寺道案内の石柱「平賀 本土寺道 是ヨリ八丁」が放置自転車の中に埋まっていた。傍に木標が建ち、次の様に記されている。
                    
本土寺参道
日蓮宗三長三本の一つ長谷山本土寺の参道は現在では常磐線で切断されていますが、本来この地点より始まり、右に水戸街道左に本土寺参道となります。


 本土寺は駅の向こう側にある日蓮宗の名刹で、常磐線が出来る以前は本土寺への参道があった。本土寺は鎌倉の名月院と共に「あじさい寺」として親しまれ、広い境内には紅葉、あやめ、紫陽花など四季折々の花が咲き、堂塔伽藍の建ち並ぶ風雅な美しさから、ご婦人方には人気抜群の観光寺として有名で、わが北政所も随分以前にお立ち寄り遊ばしているが、小生はまだ名前のみしか知らないので、できることなら立ち寄って見たい気がするが街道歩きが主目的だし、街道筋からの寄り道としては離れているので当然のごとくパスせざるを得ない。

 向かいの東南角にはマツモトキヨシの第1号店が通りにまで商品をならべていた。松本清が始めた商品陳列法で、日本一のドラッグストアに仕上げた。彼は1969年松戸市長になっても斬新なアイデアを生かし、「すぐやる課」を設けて東京のベッドタウン松戸を有名にした。

 立ち寄らなかったが、駅の傍にある「綿貫書店」は野馬奉行で知られた綿貫夏右衛門の子孫といわれ、野馬奉行所もこの辺りにあった由。綿貫家は、家康の江戸入府以降野馬育成場としての下総牧が重視され、世襲で代々下総牧の管理を任され、正式名を「小金佐倉牧野馬奉行兼牧士支配」と言い、享保6年(1721)の担当野馬数は1,002頭だった由。
 街道はここで東に進路を変え、道なりに南下し再び国道6号を横切って隣町の柏へ向かう。

根木内城跡(12:43)

 北小金駅前から右折し、宿場らしき風情がない道を右左に蛇行しつつ「根木内」交差点で国道6号に出るが、交差点を渡った先左手の小山になった所が、現在は「根木内歴史公園」として整備されている往時の「根木内城跡」である。街道は国道越えに直進するが、国道を渡った次の信号を左折すると公園への道がある。
 現在は空堀や土塁などが残っているだけだが、中世戦国期における当地支配者だった「高城氏」の居城跡で、室町中期の寛正3年(1462)、高城胤忠が築城したとも、大永5年(1525)高城胤吉が築いたとも言われ、約500m×200m程度の規模があった。
以来、天文6年(1537)大谷口に「小金城」を築城して移るまで高城氏の本拠地だったが、小金城築城後は小金城の東側を守る拠点、街道監視等のための支城として機能していたが、天正18年(1590)5月5日、矢切の渡しを渡河してきた浅野長吉(長政)の軍勢により小金落城と共に落城している。
 昭和31年に国道6号線開通で往時の城跡が2つに分断されてしまい、現在では大手口のあった南東側の曲輪の一部だけが歴史公園として残っているが、これらの空堀や土塁跡は狭い範囲ながらもそれなりに見応えがある。残念なのは、国道で分断された北西側が宅地化で消滅してしまっていることである。
園内の「根木内城周辺の復元イメージ」図や、「根木内歴史公園以降分布図」などで往時の規模や配置状況が理解できる。「土橋」二関する解説板もある。

庚申塔(12:55)

 街道に戻り、川を渡った先で「柏市」に入る。道が大きく左カーブする右手に宝暦九年(1759)銘の「青面金剛尊」と彫られたものや、青面金剛像を陽刻した享保九年(1724)銘の庚申塔が各1基あり、近くには「庚申塚前」バス停もある。

 なお、ここに達する以前(12:53頃)に同じく街道右手に、割れた馬頭観世音像やお地蔵が、まるで捨てられたように道端に転がっていたが、地元民から見てられてしまったのだろうか?


十九夜塔のある行念寺(13:04)

 庚申塚の道路を挟んだ左側(右手「マツモトキヨシ」の向かい側)に、「行念寺」という浄土宗の寺がある。

                    
浄土宗 行念寺
当山は金龍山行念寺不退院と称し、千葉県柏市中新宿一丁目六番地三号(旧・庚申塚)に在る。寺号の「念仏を行ずる寺」として法然上人の念仏の教えを本尊阿弥陀如来のもと今日に守り伝えている。
創建は、室町後期の明応二年(1493)三月小金・東漸寺開山の經誉愚底運公上人(増上寺三世聖観商人の弟子)の開基である。
鷲野谷・医王寺 二ツ木・常行寺と並び愚底上人開基の東漸寺末寺である。
境内墓所には愚底上人の無縫塔がある。部落全十四戸を祖徒とする。
貞享三年(1686)九月十七日の火災により、本堂・庫裡を焼失し、元禄四年(1691)聖誉上人により庫裡再建がなされた。その後東漸寺に護寺されたときもあったが昭和十年(1935)吉井泰順上人が住職に就き、当山再興に努めた。
昭和四十三年(1968)には、本堂(鉄筋造)を復興し、庫裡(木造)を再建した。
例年八月二十一日に大施餓鬼会、十一月二十日には十夜法要が全檀徒により奉修されている。
                    平成十八年八月吉日


 境内に各種並んでいる石塔の一つに、「明和四丁亥年(1767) 十九夜女中講中 十月吉日 中新宿村」銘の「十九夜塔」がある。文字上部に、十九夜講の守り本尊である如意輪観音像も陽刻されており、庚申塔の紀年〜宝暦12年(1762)とほぼ同時代の造立である。
 江戸時代には、子宝や安産を祈願するため、陰暦十九日の夜に若妻たちが集り、供物を供え念仏を唱えながら月の出を待つと云う行事(十九夜講)が盛んに行われていたようだが、二十三夜塔や二十二夜塔以外の「十九夜塔」を実際に見たのは2009.03.01に旧日光街道の「雷電宮・権現宮」境内で見たのが最初で、今回も何だか貴重な体験に思える。
 約240年前の時代、当宿で暮らしていた女性達の思いが籠もったような感じさえする供養塔である。庚申塔といい十九夜塔といい、昔は事ある毎に集落で寄り合いを持ち、運命共同体としての結束を図っていたことが窺われる。

香取神社(13:25)

 行念寺から10分ほど歩いた先「福祉会館入口」信号手前左手に「香取神社」があり、また「ここは千葉県だ」との再確認をさせてくれる。
                    
香取神社
 江戸時代初期創建の旧向小金神殿の産土神(うぶすながみ)。祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)。境内には一里塚碑、青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)の庚申塔(こうしんとう)などの石造物やイチョウ、ムクなどの保存樹木がある。


 境内の、大きな黒御影石に刻した「一里塚の碑」には、建碑者のハートが感じられる碑文が刻まれて、末尾には一茶の句も添えられている。
 また、境内に入って右手に一棟水準点がある。このほか、青面金剛像の庚申塔もある。

                    
一里塚の碑
 この香取さまの社頭 南北に通う道は 江戸と水戸との往還 水戸街道であります むかし街道には 一里毎に土を盛塚となして 榎の木を植え生やし 旅人たちの目じるしとも 暑い陽射しには憩いの日陰を 俄かの雨には頼みの木立を それは酷しくも美しい 自然と人間との かかわりでもありました 
 ここにも 一里塚があって 長い歳月の程を 朝に夕に 往き来の人を 送り迎えた 榎の巨木は 幾とせか前に枯損して 塚は毀ち均され これは植え継がれた榎です 
 過ぎゆく 怱忙の歴史の彼方に そこはかとなく 忘れ去ることの忘却を想い この碑を建てました
                  昭和62年秋                  氏子総代 永代一夫
                                           仝   下村信一
                                           仝   山崎清治
   下蔭を さがしてよぶや 親の馬   一茶


 小金から柏一帯にかけ、明治初期まで「小金牧」とよばれた広大な野馬の放牧地があったが、一茶の句もこの土地の景色を詠んだものと考えられる。明治以降開墾が始まり、村落が形成され今日へと発展してきている。

八坂神社(13:41)

 13:40通過の「南柏駅入口」交差点の右手前角に「稲荷神社」があり、そのすぐ先に狭い境内に鎮座する白壁の社殿が印象的な「八坂神社」がある。
「水戸街道と松並木」と題する解説板が正面右手にあり、以下のような内容だった。

                    
水戸街道の松並木
 江戸時代、水戸街道(水戸道、水戸道中)は、江戸と水戸を結ぶ重要な街道でした。日本橋から千住、江戸川を渡り、松戸、柏の小金牧の中を通り我孫子で利根川を渡り取手、牛久、土浦を経て水戸に至る行程です。現在、この旧道に沿って国道6号線やJR常磐線が走っています。
水戸街道は、水戸藩士の通行や旅人の往来に使われていましたが、広大な原野である「小金牧」を通過するため、道に迷うことがあったようです。
 そこで水戸藩から資金を与えられ街道に千本の松を植え、道しるべの役割としたのが、松並木のはじまりとわれています。
 昭和50年代までこの付近には、当時をしのぶ松並木が見られましたが、付近の環境が変わり、松も老木となったりして切られ、現在では残されていません。
                    平成19年10月                柏市教育委員会


日光東往還

 その先に大きなT字路がある。左へ行く道が往時の「日光東往還」で、今は陸橋でJR常磐線を越えていくようになっている。当時は、ここに野馬土手の木戸があって番人もおり、茶店もあったという。
 日光東往還は、日光東照宮参詣のために造られた日光街道の脇往還で、水戸街道からは、小金宿と我孫子宿の間にある、ここ向小金(現・JR常磐線南柏駅付近)で北西に分岐し、野田市の山崎・中里・関宿(旧関宿町)から境(茨城県境町)、古河市の谷貝・仁連・諸川、結城市の武井・結城、栃木県に入って多功の各宿を経て雀宮宿で江戸・日本橋からの日光街道に合流する。その距離は20里34町(約82km)に及んでおり、周辺住民からは旧日光街道と呼ばれるほか、久世街道、関宿道、結城街道、多功道という名前もあるとか。

柏神社

 そこからは、暫く先で東武野田線の高架を潜り抜け、左手の常磐線と並行しつつその間隔を広げていく。次第に繁華街になる柏の街中を進んで「柏駅入口」交差点手前右手の「柏神社」に立ち寄る。

                    
柏神社鎮座の記
遠い祖先以来天王様として崇敬されて来た柏神社は御霊会を主に世に弥高を弘めた京都の八坂神社と歴史に薫る修験の山出羽三山の羽黒山の両大神を祀る合祀社である。

八坂神社の本殿は京都市東山の麓に鎮座し素戔嗚尊とその妃稲田姫命御子神八柱を祀る古来祇園社祇園天と言ひ牛頭天王とも言います 社伝によると六五六年素戔嗚尊の神霊を迎い祭り六六七年牛頭山を基に社殿を建立したもので当時は京中有数の官弊大社となっていました
現在の八坂本殿は一六五四年将軍家綱の寄進によるもので数々の建造物は重要文化財として残り又あの名高い祇園祭は日本の三大祭りと称せられ無形文化財として残り祖孫相承継がれている

一方羽黒本社の黄金堂は山形県の羽黒町手向に鎮座し 月山元官弊大社 湯殿山元国幣小社 羽黒山元国幣小社が出羽三山の総称である 月山湯殿山には高山故修験者と雖も冬期間は参拝できぬため四一九米の羽黒山に三神社の大神等を合祀して三神合祭殿と称して年中祭典をそこで同寺に行っている
もともと羽黒山は五八八年栄峻天皇の第一子蜂子皇子が開いたものであり修験道は開祖蜂子皇子の苦業に始まり山霊を身につける修験者は今も後を絶たない
此の両大神が柏神社の境内に末社として迎い祀られたのは元禄時代の一六八八年頃である(以下略)

 以上のように、八坂神社は寛文元年(1661) 頃、京都市東山区祇園町の八坂神社から迎えられ、羽黒神社は万治3年(1660)頃、山形県出羽三山の羽黒神社から柏の羽黒台(当地の近隣)に迎えられたといわれている。そして、明治21年(1888)に羽黒神社が当地境内に遷宮し、明治40年(1907)に羽黒神社を八坂社内に合祀、昭和49年(1974)の社殿改築と同時に「柏神社」と名称変更している。
 こじんまりした神社ではあるが、その合祀により祭神は素戔鳴命・大山祇命の2神が祀られ、境内には樹齢300年超の銀杏の巨木が聳えている。

長全寺(14:32)

 その先の交差点(右手前角が巻石堂病院)を右折した左手にあり、山号は戸張山と号する。
 略縁起によると、元々は天台宗の寺院だったが、弘治2年(1556)、松戸市の広徳寺5世の巧室梵藝和尚が曹洞宗寺院として開山し、15世紀以来、当地で勢力を張っていた戸張氏の菩提寺として栄えた。寛永年間(1624〜44)頃、戸張村の香取神社近くから柏村の現在地へ移転している。明治25年、火災で焼失した柏小学校を同寺へ移設した他、大正14年には東葛中学校(現・東葛高校)校舎を境内に竣工するなど、柏市の教育に貢献し、地域と共に歩んでいる寺である。

 本尊は釈迦如来及び両脇侍(江戸時代)で、このほか四国霊場と同胎の弘法大師像も境内に安置されている。弘法大師を祀った堂宇は境内に二つあり、弘法大師伝説と四国八十八ヵ所霊場に由来する「東葛・印旛大師講」の1番と60番札所として知られている。

 同大師講の誕生には諸説あるが、文政5年(1822)に弘豊阿闍梨(長全寺住職)らが開いたと伝わる。同大師講は一時衰退するが、慶應2年(1866)に瑞宝(長全寺住職)らが再発起。現在も毎年、5月1日から5日まで、同講員約700人が霊場巡拝している。昭和31年に金比羅宮落成遷宮式、昭和41年に新本堂・客殿・庫裡を竣工し、昭和43年に平和観音開眼、昭和49年に山門(仁王、四天王像)を落慶している。

ややこしい国道渡り

 その先街道はやがて国道16号を横断する。信号名は「旧水戸街道入口」という嬉しい名前である。16号が環状であることは知っているが、多摩に住んでいると、どうしても横浜方面から八王子経由で大宮方面という意識がしみ込んでいて、ここで再会して「ああ、そうだった」となる。武蔵野線の場合も同様だ。
 登り坂を行き、常磐線を高架で越えると目の前に巨大な建物「玉姫殿」があり、そこから街道は右に曲がって暫くJR線と並進した後、「大堀川」手前で左折してR6の「北柏入口」交差点の下を潜っていくらしいのだが、偶々国道の車が途絶えた瞬間だったので信号までバックせずに国道を自己責任で横切ってしまった。横切ったあとは右折して左斜め前方への旧道に入って行き、すぐ右手の国道越えの北柏駅へ渡る高架橋のある「北柏駅入口」信号を通過していく。

東陽寺(15:23)・妙蓮寺(15:32)

 その先から柏市の飛び地はあるが我孫子市域に入る。左手にある「東陽寺」は真言宗の寺院で、入口に弘法大師像が建っている。境内には古い大きな墓や地蔵尊、板碑等が沢山並んでいる。
 この東陽寺辺りには旧家の豪邸が目立つ感じだ。

 その先右手にある「頂経山妙蓮寺」は、日蓮宗の寺院で、元治元年(1864)の創建による。我孫子宿の鈴木家の菩提寺となっている。ここには、我孫子市指定文化財で「仁阿弥道八」作の「陶製仁王像」があり、阿形像・吽形像の二体で、像高は30.5cm、31cmである。

ゴール(16:03)

 その先で県道を越えた後、街道は右直角に曲がり、「市街入口」信号で再びR6を越えると、その先は国道356になる。そして、またまたJR線で旧水戸街道は分断され、国道は我孫子駅北口方面に線路と並進していくが、我らは歩道橋で線路を渡り返して「我孫子第四小」前を通って我孫子駅南口方面に出て、再び線路を潜ってきた左からのR356に次の信号で合流し、16:03にその先の「我孫子駅入口」をもって本日の歩き納めにする。

 後は、駅南口右手で折良く開店済みの海鮮飲み屋に入り、16:06から反省会を兼ねて酷暑で1500ccものドリンクを飲んでも尚かつカラカラの喉にビール大ジョッキプラスαで軽く打ち上げ、17:09発の帰途電車に乗った。
我孫子宿の始まりは、この「駅入口」からなので、我孫子宿についての探訪とレポートは次回に譲る。