Top Page
旧水戸街道餐歩記~#1
Back
Next
 2009.04.29(火・祝) 参加者4名で、懐かしの千住宿から松戸宿に向けスタート!
 
 
北千住駅-千住宿-荒川西岸-北千住駅==小菅駅-荒川東岸-水戸橋-西亀有-中川橋-新宿-金町関所跡-葛飾橋-松戸宿-松戸駅

水戸街道餐歩第一回目スタート

 8:51、東京メトロ千代田線の北千住駅に降り立ち、JR駅の南改札口で同行予定の小川氏と昨年12月08日の新宿での同窓会以来の再会を果たす。「たつみ山遊会」以来の同行で、かつまた元気そうであり喜ばしい。また、お馴染みの街道餐歩仲間である村谷氏や、小川氏の薦めで現役時代の会社仲間の長塚氏の参加も得て、4人での水戸街道第一回目の始まりである。オール日帰りで7回刻みで完歩予定でのスタートだが、予定どおりの完歩を期待するや切!といったところである。
 簡単に打合せ後、駅西口に出て街道筋へ向かう前に、前回の日光街道歩きの時に立ち寄らなかった千住宿内の「金蔵寺」「森鴎外旧宅跡」「勝専寺」に立ち寄るべく、先ずは駅西口の駅前左手近くにある金蔵寺へと向かう。

千住宿

 その前に、千住宿について概要を復習しておきたい。
 千住(せんじゅ)宿は、日光街道・奥州街道・水戸街道共通の、街道第1宿として江戸時代から整備され、発展してきた。日本橋からは2里(別説では2里8町、約8~8.7km)、次の宿「新宿(にいじゅく)」迄は1里19町(約6km)ある。この両宿間には、昭和に入ってから「荒川放水路」(注)が造られたため、荒川土手から小菅の東京拘置所(元の関東郡代伊那半十郎下屋敷)までの街道が、失われている。

(注) 明治43年(1910)8月、非常な長雨が続いた関東地方は、荒川(現隅田川)ほか主要河川の軒並み氾濫で、東京・埼玉を中心に「関東大水害」が生じた。被害総数は、家屋流出1500戸、浸水家屋27万戸、死者223人、行方不明245人、堤防決壊300箇所、橋梁被害200箇所に及んだ。長來の豪雨災害に鑑み、政府は翌明治44年(1911)、根本的な首都水害対策として荒川放水路建設を決定。これが抜本対策として、大正2年(1913)から昭和5年(1930)にかけ、岩淵から足立区および墨田区・葛飾区の区境を抜け、江東区・江戸川区の区境の中川河口までが開削され、全長22km、幅約500mの人工河川(荒川放水路)が完成した。この開削により水戸街道は分断された。

 ところで、「千住」の地名の由来だが、千住宿にある「勝專寺」の寺伝によれば、嘉暦2年(1327)に「新井図書政次」が荒川において千手観音像を網で拾い上げ、この地を「千手」と呼んだことに由来するとされ、その千手観音像は「新井兵部政勝(新井図書政次の息子で、勝專寺の開基者)」が、同寺に移安したとされている。そのほか、足利将軍義政の愛妾千寿の出生地説や、千葉氏が住んでいたからという説もある。

 千住宿は江戸時代頃から日光街道(奥州街道)の宿場として発展してきた。江戸から一つ目の宿場であり、品川宿・内藤新宿・板橋宿と共に「江戸四宿」の一つとしても数えられたが、家数・人口共に四宿の内トップだった。南北千住を結ぶ千住大橋の北岸を北組(千住1~5丁目)・中組(掃部宿)の二つに分け、橋南に南組(小塚原町・中村町)を設け、これら3組を合して千住宿と称した。北組・中組・南組が公的な地名となるのは明治になってからである。明治以降は郡区町村編制法の施行を経て、南組を東京府北豊島郡南千住町、北組、中組は併合して同府南足立郡千住町とし、郡役所を同町に置いた。

 昭和5年(1930)の国勢調査によれば、北豊島郡南千住町の人口は56,017人で郡内20ヶ町村中7位、南足立郡千住町は69,085人で郡中最大だったが、昭和7年(1932)10月1日、両町とも東京府東京市の一部になり、消滅した。

 往時の千住は、いわゆる「岡場所」の一つであり、船頭たちが歌った「千住節」の一節「千住女郎衆は碇か綱か 上り下りの舟止める」はこれを指したものである。そんなこともあってか、明治4年(1871)7月17日、「千住黴(ばい)毒院」が当地に開設され、宿娼妓に梅毒検査が行なわれている。『経済及統計』(内務省・明治23年2月)によれば、明治16年(1883)の千住宿の売娼妓数は374人、買客数43,000人、明治21年(1888)には夫々466人、65,000人との記録がある由。いずれも二廓四宿においては内藤新宿、板橋宿を上回っていたという。

 また江戸市街の喉元で日光・奥州・水戸各街道の実質的始点として、それら各方面への旅人で賑わったほか、松尾芭蕉の奥の細道の出発点であり、見送りの門弟たちとの別れを「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」と詠んだ所でもある。
 また、練馬の大根、目黒の筍、尾久の牛蒡などと並んで葱の名産地として有名だった。更には水利の好立地が幸いし、官営千住製絨所・隅田川駅(貨物駅)・千住火力発電所などが置かれ、舟便の良さが近在農村に広く知られるや、昭和20年代まで青物・川魚の朝市が毎朝のように開かれたという。
水利面のみならず、交通機関としても、下記鉄道の起点になっていた。
「千住馬車鉄道」千住から粕壁~現在の埼玉県春日部市粕壁三丁目最勝院付近)まで
「草加馬車鉄道」千住から越ヶ谷大沢~現在の埼玉県越谷市大沢付近まで

 なお、明治14年(1881)10月11日、三条太政大臣、岩倉右大臣が東北巡幸帰還中の明治天皇をここ千住宿で出迎え、大隈重信の免職と国会開設の聖断を受けている(明治14年の政変)。

森鴎外旧居橘井堂森医院跡

駅西口の飲み屋等の密集地帯を抜け、若干遠回りしてしまったが、第一番目の立ち寄り場所=「足立都税事務所」の北東角辺りの植栽の中に、「森鴎外旧居橘井堂跡 昭和四十九年十月 足立区」と刻まれた石碑と詳細な解説板が建っている。

                    森鴎外旧居 橘井堂森医院跡
 森鴎外の父静男は、津和野藩主亀井家の典医であったが、明治維新後上京し、明治十一年(1787)南足立郡設置とともに東京府から群医を委嘱されて千住に住んだ。同十四年郡医を辞し、橘井堂森医院をこの地に開業した。鴎外は十九歳で東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医副に任官し、千住の家から人力車で陸軍病院に通った。こうして明治十七年ドイツ留学までの四年間を千住で過ごした。その後静男は、明治二十五年、本郷団子坂に居を移した。(以下略)
                    平成二十年五月             足立区教育委員会

金蔵寺(9:18)

 その近くに、本木の吉祥院の末寺ながら、「金蔵寺」という古刹がある。

                    金 蔵 寺
 当寺は真言宗豊山派で、氷川山地蔵院(または閻魔院ともいう)と号す。本尊は閻魔大王で、建武二年(1335)三月の創建という。
 金蔵寺の門を入ると左側に二メートルほどの無縁塔がある。これは天保八年(1837)に起った大飢饉の餓死者の供養塔で、千住二丁目の名主永野長右衛門が世話人となり、天保九年(1838)に建てたものである。
 碑文によれば「・・・飢えて下民に食なし・・・この地に死せる者八百二十八人・・・、三百七十人を金蔵寺に葬り・・・」とある。
 その塔と並んで建つ別の供養塔は、千住宿の遊女の供養塔で、この地で死んだ遊女の戒名が石に刻まれている。
千住宿には、本陣・脇本陣のほかに五十五軒の旅籠屋があり、そのうち、食売旅籠(遊女屋)が三十六軒あった。江戸後期には宿場以外に江戸近郊の遊里として発達した。そのかげで病死した遊女は無縁仏同様に葬られたその霊を慰めるための供養塔である。
                    平成六年三月
                                        東京都足立区教育委員会


 大飢饉で葬られた餓死者は金蔵寺の370人を筆頭に、321人が勝専寺に、61人が慈眼寺に、76人が不動院に葬られた旨も刻してある。天保5~10年にかけて続いた大飢饉では、奥羽地方が一番ひどく、同7年だけで死者10万人を数え、その災いは江戸にも及び、千住宿だけでも828人に達したという。
 日光街道の初宿にして最大の宿場町であったここ千住の飯盛旅籠には、近郷の貧しい農家から売られてきた宿場女郎たちが多数いて、病気などで死亡すると、この金蔵寺や千住1丁目にある不動院に投げ込まれたという。この寺には霊簿(過去帳)が保存されていて、彼女たちの没年月日や何屋下女と記されている由だが、俗名・出国・年令などは一切不明らしい。人権暗黒時代の証左である。

勝専寺

 街道筋を越え、北東方向に少し行くと「三宮神山大鷲院勝専寺」があり、後述の赤門の脇から入る。

                    三宮神山大鷲院勝専寺
 「赤門寺」という通称で親しまれている浄土宗寺院で京都知恩院を本山とする。寺伝では文応元年(1260)勝蓮社専阿上人を開山、新井政勝を開基とし草創されたという。
 江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、徳川秀忠、家光、家綱らの利用があった。また日光門主等の本陣御用を務めた記録も見られ、千住宿の拠点の一つであったことが知られる。
 加えて当寺は、千住の歴史や文化に深くかかわる多くの登録文化財を今に伝えている。木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされ開基新井政勝の父正次が荒川から引き上げたという伝承を持つ。
 ほかに一月と七月の十五・十六日の閻魔詣で知られる、寛政元年(1789)の木造閻魔大王坐像、巻菱潭の筆による明治十二年(1879)の扁額「三宮神山」を山門に掲げるほか、千住の商人高橋繁右衛門の兜付具足を伝来している。いずれも足立区登録文化財となっている。
                    平成十三年十月
                                        足立区教育委員会

 地獄の釜の蓋が開く日と言われるご開帳日には普段は閉じられた赤門が開放され、境内や門前には出店が並ぶという。木造閻魔大王坐像(入って左手)もその日には御開帳になる由。
 荒川の水底から引き上げられ、千住の地名の由来になった木造千手観音立像は非公開。また、閻魔像を安置している本堂の上には2体の阿弥陀像と中央には葵の御紋が置かれている。安永4年(1775)建立の鐘楼は、老築化により明治24年に再建し、その後約百年を経て、平成元年屋根の大改修を実施している。

 境内には、
        
宗歌 月影 法然上人御詠
  月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ

の歌と解説文の刻まれた歌碑や、安永九年十二月銘の六地蔵や、馬頭観世音(堂)もある。

---「千住2」交差点に立ち、北に向かって街道筋を歩き始める。左先に「千住宿本陣跡」の小さな石碑が建ち、一本北側の通りを左に入ったすぐの所に「千住本陣跡とその周辺」と題する解説看板が掲示されており、後述の広い「本陣跡」の敷地や「明治天皇行在所跡」「千住見番跡」などが図示されている---

本陣跡・・・「千住2」の次のブロック左手

 江戸四宿の一つとして、品川(東海道)・板橋(中山道)・内藤新宿(甲州道中)と並んで繁昌した千住宿(日光道中・奥州道中)は、本陣は一箇所のみだったが、敷地361坪、建坪120坪だったとの記録があるそうで、掲示されている地図看板で見ると、町の一角全てが往時の本陣だったと判る。

千住見番跡・・・左手に少し入った左手

 千住宿には江戸時代から遊女を置ける旅籠が50軒程あり、明治になってこれが禁止されると「千住芸妓組合」が発足し、その見番がこの解説板位置から少々西に入った地の南側に置かれた。花街が千住柳町に移転させられた大正8年以降も昭和18年迄営業していたので、この通りを「見番横丁」と言っていた由である。

明治天皇行在所跡(中田屋)・・・右手に少し入った左手

 明治9年、明治天皇の東北御巡行に際し、当地に宿泊され皇后陛下御一行との送別の宴が、当時千住最大の旅籠であった「中田屋」の別館で催された由で、そこを行在所と言い、明治天皇は三度ほど休息をとられている。街道を東に入った二つ目のブロック左手前角にあったという。
 旧佐賀藩主鍋島家別邸の一部であったという建物も昭和33年に取り壊され、現在では何も無く、また往時のそれを示す表示も見つからなかった。

高札場跡・・・(9:38)右手

 その先、ミニストップを左手に見たその先右手に小公園があり、「千住宿高札場跡」の解説板がある。内容はとりたてて紹介する程の者でないが、地元教育委員会の千住宿という歴史遺産保存に対する姿勢がここにも見られる。公園には門もあり、ちょっとした史跡のような雰囲気がある。

千住絵馬屋(吉田家)

 更にその先左手に古い建物があり、往時の「千住絵馬屋(吉田家)」である。家の前の透明ガラス戸から中が見え、面白い。解説板の内容は以下のとおりだ。
                    
千住絵馬屋・吉田家
 吉田家は、江戸中期より、代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。手書きで描く絵馬屋は都内にほとんど見掛けなくなって、稀少な存在となった。
 当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、江戸時代からの伝統を守り続けている。縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬である。
 絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決っており、三十数種ある。
これらの代表的絵馬が、現在吉田家に一括保存されている。時代ごとの庶民の祈願を知るうえで貴重な民俗資料である。
                    平成四年三月
                                        東京都足立区教育委員会

横山家(松屋)

 街道を隔てたその前にも安政2年(1855)の大地震直後の建築といわれる旧家「横山家(屋号は松屋)」がある。内部は非公開だが、表に「横山家の藏」と題する構造図付きの解説板もあり、それによれば、天井には明治九年(1876)と記した棟札が貼られている由。初代は呉服屋で、2代目から地漉紙問屋になり、浅草紙(今で言うティッシュ・ペーパー)と障子紙を扱った江戸時代からの旧家がある。解説板の内容は以下のとおりである。また、かの山岡鉄舟の筆になる「地漉紙問屋」と記した木看板もある。

                  
  横山家住宅
 宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行きが深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
 敷地は、間口が十三間、奥行が五十六間で鰻の寝床のように長い。
 横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。
 現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年に改修が行われている。間口が九間、奥行が十五間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。
 広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語るじゅうきょである。
                    平成二年十月
                                        東京都足立区教育委員会


槍かけだんごの店「かどや」---吉田家の少し先の左向こう角---

 また左小路の角に「槍かけだんご」の横看板の店がある。「槍かけ」の名の謂れは、この先で訪問する水戸街道沿いの「清亮寺」が、参勤交代時における水戸家休息所で、供の者が水戸光圀公の指示により、境内の松に槍を立て架けて休息したので、この松を「槍かけの松」と呼んだことに由来すると言われている。(委細後述)

水戸街道分岐点(9:48)

 そのすぐ先右手三叉路角に「東へ旧水戸佐倉街道」と刻んだ石の道標がある。ただ、昔の天明元年(1781)の古い道標(道印石)は、何故か足立区郷土博物館(大谷田5-20-1)の中庭に保管されている。
 ここが、お江戸日本橋からここ千住宿まで日光(奥州)道中と同じ道筋を辿り、愈々独立した水戸街道としての実質的なスタート地点である。ただ、その先は本来水戸まで続くものの、現代の道は「荒川」で分断されるのでダイレクトには行けず、川向うへは右側から大きく迂回しなければ、現代のウォーカーはこの旧街道を辿れない。

 ところで、「水戸街道」を歩くつもりなのに「水戸佐倉街道」とは???ということで、調べた結果が以下のとおりである。

 「水戸佐倉道」は日光道中(奥州道中)「千住宿」から分岐し、中川の先の「新宿(にいじゅく)」で「水戸道」と「佐倉道」に分岐する。
 水戸道は、金町・「松戸関所」を経由して松戸・我孫子・土浦を経て水戸に通じる。
 佐倉道は、小岩・「市川関所」から八幡・船橋・大和田を経由して佐倉に達する。
 道中奉行の支配は水戸道が松戸宿まで、佐倉道が八幡宿迄である。水戸佐倉道の名を冠してはいるものの、両道共に目的地と思われる水戸・佐倉まで支配が一貫していない。

 水戸佐倉道のうち、佐倉道は佐倉の先に成田があり、近世中期以降成田山新勝寺に対する信仰が盛んになると、参詣者によって成田道と呼ばれるようになり、多くの人々が往来した。水戸佐倉道は江戸の住人が水戸に旅するには順当な道筋であるが、佐倉に達するのに千住-新宿-小岩-市川関所のルートをとるのはかなりの回り道で、台形の三辺を通るに等しい。
 「新編武蔵風土記稿」には、現在の江戸川区内等に[元佐倉道]という記載があり、初期の佐倉道は分間延絵図のルートとは異なっていたことが判る。また、それが裏付けとして、延宝2年(1674)幕府が五街道及び佐倉道の宿場に助成金を交付の際、佐倉道の宿場は八幡・小松川・小岩と記されており、このコースならほぼ直線的に江戸から小岩・市川関所に達し得る。
 小松川-小岩ルートはその後廃止され、一部が水戸道と合併したが、その時期・理由は不明であり、「江戸川区史」にはその時期を元禄10年(1698)としているものの出典の記載はない。

氷川神社と長円寺

 記念すべき第一歩として、その分岐を右折して行くと、先に十字路があり、そこを右に寄り道して曲がる。
 直進するこの道は昔は水路があった小道で、現在は旧水路は暗渠化している。また、十字路の所には石橋があったが、これも現在はない。分間延絵図ではこの橋は「字水戸土橋」とあり、この道筋が水戸佐倉道筋であることを物語っているが、現在はその名すらも残されていない。

 この角を右に進むと、大山車ほか見応えのあるものがいろいろ残されていると言われる「氷川神社」があるが、そう広くもない境内にホームレス風の男が居たこともあり、道路際からの黙祷に留め、その奥の「長円寺」に参拝する。見応えのある立派な銀杏の木があり、今次旅立ちの無事を先ずもって祈願する。境内右手にある自然石で構成された四国霊場は他の寺では見られない貴重かつ珍しい造形美をもっている。
 なお、ご当地の氷川神社は、先刻の水戸街道分岐を右折する手前の街道筋左手にもあるが、そちらにも立ち寄らなかった。

                    
長 円 寺
 真義真言宗の当寺は、延享元年(1744)の縁起によると、寛永四年(1627)出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結ぶ、とある。後に、寛俊が開山する。九代将軍家重の延享年間十六世栄照の代は、殊に栄えた。
 本尊は、木造の薬師如来小立像であり、定朝風の名作である。
 扁額「月松山」は、明治二年(1869)、当地の寺子屋「群雀堂」三代の校主、正木健順の筆である。「心香尼碣」は、二代校主、正木大助の撰文で、心香尼の人となりを叙したものである。
 その他、魚藍観音・目やみ地蔵・宝篋印塔(享保十七年)・乳泉石などがる。
 また、「八十八か所巡り毛彫石碣」は、芸術の香り作品であり、民俗信仰を知る上で、貴重なものである。
                    平成二年十月
                                        東京都足立区教育委員会


清亮寺

 メトロ千代田線・JR常磐線・つくばエクスプレスや東武伊勢崎線を潜れば荒川の堤防に突き当たることになるが、東武伊勢崎線を潜る手前左角に「たちばな幼稚園」があり、その右隣に「清亮寺」の山門「薬医門」が建っている。

                    清 亮 寺
 日蓮宗、久榮山清亮寺と号す。元和五年(1619)身延山久遠寺末寺として、運寮院日表上人により、水戸海道入口のこの地に創建された。
 本尊は、一塔両尊四士合掌印、宗祖日蓮説法像を中心に、左に釈迦・多宝、両如来、四菩薩、四天王、文殊・普賢両菩薩、不動・愛染両明王の一五躯の木像で構成されている。
 本堂は天保四年(1833)に再建の総欅造りで、随所に江戸期の建築様式を残しているすぐれた建築である。
昭和六年再建の山門(薬医門)に掲げる扁額「久榮山」の書は、六朝風の名筆中村不折によるもので昭和五十九年十一月区登録有形文化財(書跡)とした。
 墓域には、明治初年日本医学発展のために解剖された囚人十一名を供養した解剖人塚があり、昭和五十七年十二月区登録有形文化財(歴史資料)とした。他に千住出身の歴史学者文学博士内田銀蔵の墓などがある。
 また、かつて水戸海道に面して古松が茂り水戸光圀公ゆかりの「槍掛けの松」として有名であった。
                    平成五年三月
                                        東京都足立区教育委員会

◇解剖人墓

 清亮寺の奥の本堂左手の墓地の右中ほど前辺りに、解説板に記されていた「解剖人墓」があるというので、みんなで手分けして探したが見つからなかった。以下は、探訪者の記録からの抜粋・紹介である。

 
前側に昭和42年再建の2代目の解剖人塚(墓)があり、その後ろにひっそりと明治の年号入りの古い解剖人塚があるが、かなり痛んでいる。
 碑面上部中央には、「解剖人墓」と刻され、その左右には
 明治初年、日本医学のあけぼのの時代、明治三年八月、当山で解剖が行われました。仏をふわけさせる者などだれもいないころでした。被解剖者はすべて死罪人でした。執刀は福井順道が一人、大久保適斎が九人,亜米利加人ヤンハンが一人、いずれも日本医学のパイオニヤーたちでした。それら解剖された死罪人の霊をとむらうべく、墓を明治五年二月に建てましたが、破損してきましたので、こヽに新しく石碑を建立しました。
と刻まれ、下半分には11人の法名・出身地・氏名・没年が刻まれている。法名には受刃信士、冷刃信士、得刃信士、散刃信士、治狂信士など「刃」字が使われたりして、まともな戒名は無いそうで、現在なら人権問題化必至と思われる。


 杉田玄白がオランダの医学書を携えて腑分けを見たのが明和8年(1771)で、それから100年、日本近代医学の誕生までにはかなりの時日が必要だったようである。
 なぜこの寺にこの種の墓があるのかということだが、すぐ北西の荒川(大正期開削の人工河川)の先にあった小菅拘置所(以前は小菅刑務所、その昔は小菅集治監と呼ばれた所)から近かったためこの寺に囚人墓地ができたのだが、それら一般囚人の墓は,東武伊勢崎線拡幅工事で撤去され、雑司ヶ谷霊園(豊島区南池袋四の25)に移されたそうである。

◇槍掛けの松

                    
「槍掛けの松」 久榮山清亮寺
 清亮寺の門前を通っている幅六メートルの道路は、千住を起点として水戸に至る江戸時代の水戸街道(水戸海道)です。
 江戸時代初期の元和五年(1619)に開山した清亮寺は、今の千住四丁目で日光街道(日光道中)から分岐した水戸街道に面する最初の寺院で、門前には街道の向こう側にまで枝が達する大きな松の木がありました。
 水戸街道は参勤交代の大名で賑わいましたが、槍持ちはいかなる理由でも槍を横に倒すことは許されません。しかし、街道一杯に張り出した松のため、一度は槍を倒さなければ通れません。
 そこで、街道に張り出した松を切ろうとしたとき、見事な枝振りをご覧になった、後の水戸黄門、水戸藩主の徳川光圀公は『名松を剪るのは惜しい。ではここで、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に、槍持ちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば、槍を倒したことにはならない』と、粋な計らいをしました。
 以来、この松は「槍掛けの松」と称えられ、ここを通る大名行列は、門前で松に槍を立て掛けて休むようになりました。(以下略)
                    平成十七年五月 記


 樹齢350年を超えた名松は、惜しくも昭和20年ごろ枯れてしまったそうだが、前述「槍かけ団子」としても 槍掛けの松の話を伝えている。 

小菅の渡し

 道は清亮寺の北で「荒川」の土手に突き当たるが、その北側に架かる橋は鉄道専用なので歩行者は渡れない。行く手を遮る「荒川」は、大正期に開削の人工河川で、曾ては「荒川放水路」とも言われ、荒川(隅田川)の氾濫防止目的で造られた川である。当然、かの江戸時代には無く、当時は古隅田川に「弥五郎橋」が架かり、千住宿と東岸の小菅村を結んでいたという。その古隅田川を荒川放水路にしたもので、水戸街道は今の対岸まで橋で直線的に繋がっていた訳である。荒川の源流は甲武信岳(2475m)で、甲府盆地から長瀞・寄居・熊谷・大宮・川越を経て東京・北区の岩淵水門で旧本流の隅田川と別れる。国交省では荒川放水路を荒川、旧荒川を隅田川と呼んでいる。

 荒川の水上を歩いて渡る忍術を心得ぬ身としては、ムダの様でも迂回するしかない。そこで、
(1) 約1,300mも荒川右岸を歩き、「堀切橋西詰」から「堀切橋」で荒川を渡り、すぐの信号を左折してまた約1.0km河岸の道を歩いて、水戸街道の荒川左岸の信号で漸く水戸街道旧道に復するという、一見馬鹿げた几帳面さを発揮するか、
(2) 若しくは別の便法として、清亮寺から東武伊勢崎線の高架を潜って北千住駅の東口に出、東武伊勢崎線の北千住駅から対岸の小菅駅まで電車移動し、駅中央環状線沿いに盗難へと歩き、「小菅1」信号の次の信号から街道歩きを再開するか

の2方法の選択になる。事前に仲閒と協議の結果、後者のルートを選択していたので、先ずは、今朝の出発点北千住駅(但し後記「日ノ出神社」経由で駅東口へ)へ戻ることにした。

日ノ出神社

 街道に戻って、東武伊勢崎線のガードを潜ると、左手のアパートの先に右に行く道があり、そこを入ると右角に本当に小さな「日ノ出神社」がある。

                    
日ノ出神社(抜粋)
当社は稲荷大明神なる五穀をつかさどる倉稲魂神(うかのみたまのかみ=素盞雄尊の御子)をお祀りしてあります。
昔からこの一帯を弥五郎新田と称されていたが、明治四十四年、荒川放水路の開設工事が起工されるに当り、その計画線内に在って、河底に水没する筈の稲荷神社を、時の弥五郎新田副戸長、大塚孫左氏が村民の総意によって五反野の稲荷神社(現在足立区足立三丁目)に合祀し、後にこの分れの神社として現在の場所(日ノ出町)へ祀られたものであります。(以下略)
                    平成十五年三月           日ノ出町自治会

 普通なら見落としそうな神社だが、実地に足を運ぶとその由来などを知り得る好例だろう。

電車渡河で再スタート

 東武伊勢崎線の小菅駅に降り立ち、南下して往時の街道延長線に相当する地点(「小菅1」信号の一つ南側の信号地点)方向へと歩き始める。地名「小菅」の「菅」は「カヤ」のことで、低湿地にこのカヤが生い茂っていたようだ。

万葉公園

 途中左手に水路に沿った細長い「万葉公園」がある。この公園を流れる細い水路は「古隅田川」で、ここから「中川」まで総延長5kmにわたって残っており、足立区と葛飾区の境界線をなしている。その一部には後ほど「水戸橋」を渡った所で再会することになる。
 次の様な万葉歌碑があるという情報だったが残念ながら、狭い範囲内では見つからなかった。もっと奥の入ったらあるのだろうか?
 
小菅ろの浦吹く風の何(あ)ど為為(すす)か 愛(かな)しけ児ろを思い過(すご)さむ
   (万葉集・巻14東歌3564)


 このほか、後に訪れる予定の「小菅御殿」や「銭座」に関する解説プレートも園内に設置されている。

                    小菅御殿跡
 小菅には江戸の初め関東郡代伊奈忠治の1万8千余坪にのぼる広大な下屋敷がありました。元文元年(1736)八代将軍吉宗の命によりその屋敷内に御殿が造営され、葛西方面の鷹狩りの際の休息所として利用されました。御殿の廃止後は、小菅籾藏が置かれ、明治維新後に新しく設置された小菅県の県庁所在地となっています。さらに小菅籾藏跡には小菅煉瓦製造所が建てられ、現在の東京拘置所の前進(注:身の誤り?)である小菅監獄に受け継がれて行きます。

                    
小菅銭座跡
小菅御殿の南側(現在の小菅小学校)には安政6年(1859)(以下不明)
かけて幕府の銭貨を鋳造した小菅銭座が置かれていました。(以下不明)
では鋳造高70万7250貫文に達し、小菅で鋳造された銭は遠く京都・大阪にも回送されました。昔あった堀割は埋められてしまい姿を止めていませんが、今でも「ぜんざ(銭座)橋」と刻んだ石柱が残っています。銭を鋳造する鉄材はこの橋付近で陸揚げされ、裏門から銭座へ運び込まれたということです。

東京拘置所

 万葉公園の南隣に東京拘置所がある。正門の鉄格子の向こうに灯籠が置かれている。円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくり抜き、四角形の笠を置き宝寿珠を戴いた総高210cmの御影石製の石灯籠である。元は数行の刻銘があったと見られるが、削られていて由緒は明確でなく、また銘を削った理由も不詳である。ただ、その他の事象から灯籠の造立は江戸時代中期以降と考えられ、元は裏庭にあったものを、手水鉢や庭石と共に、拘置所正門脇に移して保存されている。
 なお、小菅御殿は寛政4年(1792)、伊奈氏の失脚と共に廃され、その後江戸町会所の籾蔵、幕末期には銭座が置かれるなど、変転している。                       
                    
石燈籠について
 小菅御殿(または千住御殿と称する人もある)は、約三五〇年前、三代将軍家光公が、この地に治山治水農政に優れた関東郡代伊奈半左衛門の下屋敷(土地約一〇万坪)として与えたものであり奥州路の諸大名が参府する際の送迎用として、また、将軍の放鷹や鷹狩の御膳所、九代将軍家成高御世継時代の養生所等に使われた。
 その郡代の勲功は上下に讃えられ代々俸勤二〇〇年に及んだが、寛政四年(1792)第一〇代伊奈半左衛門忠尊のとき渦中不行届きで蟄居断絶、領地も没収となり、屋敷も取り払われ天領となった。
 その後明治一二年(1879)に約七万坪を利用して小菅監獄(東京収治監)が建てられ、以後小菅刑務所を経て、昭和四六年(1971)から東京拘置所敷地として使用されている。
 ここに置かれている桜御影石の燈籠等は江戸時代初期の作とされ小菅御殿当時を偲ばせ、世の栄枯盛衰の中で当地に静かに立ちつづけた貴重な歴史資料で当所構内に保存されていたが一般の旁々に供覧に便ならしめるため、この場所に移した。
                    昭和五十九年(一九八四年)
                                        東京拘置所


旧水戸街道歩き再開

 「拘置所前」「小菅1」各信号の次の信号地点が、ほぼ千住宿からの渡河延長線上にあたるので、ここを左折(東進)する所から旧水戸街道歩きの再開となる。

小菅稲荷神社

 右折すれば御殿跡表道に曲がる方向へと進み、右折する右手にある「小菅稲荷神社」に立ち寄る。普通の石の鳥居のほか、稲荷者特有の赤鳥居もあり、右手奥に木板墨字活字体の漢文ぎっしりの解説板がある。完全には太刀打ち不能だが「武蔵葛飾郡西葛西領小菅村伊奈半左衛門」の書き出しから始まる九割方は何とか読み取れる。
 ただ、漢文のパソコン入力は根気が過度に必要なので割愛する。

 この稲荷神社は、元々はこの場所でなく、現拘置所の綾瀬川寄り(東方向)にあった。「水戸佐倉道分間延絵図」に「稲荷」と記されその近くには大きな松があったことが記されており、拘置所ができた頃こちらに移設されたものと考えられている。
                    
稲 荷 社
 御圍内の鎮守なり、往古よりここにありしと云、社頭に元文元年伊奈氏の臣小川東蔵なるもの納めし額あり、裏銘に當所を伊奈氏に賜ひ及御成等の事を記せり


銭座橋跡

 そこから更に一本南側の左折路まで行き、西進すると右手に「西小菅小学校」があり、その西北角に「橋の欄干跡」が2つある。 その欄干左側には「ぜんざばし」、右側には「銭座橋」と各々文字が刻まれている。
 銭座橋のこの橋の跡は、小菅御殿の内側沿いをぐるりと回っていた水路に架かっていた橋だったと推定されている。

小菅銭座跡

 その銭座橋に関連する「銭座」については、その角を右折(南進)した先右手の西小菅小学校校門付近で確認できる。その校庭に「銭座跡」と刻まれた石柱があり、校門左外に解説板がある。
               
葛飾区指定史跡
                    小菅銭座跡
                              所在地 葛飾区小菅一丁目25番1号 西小菅小学校
                              指定年月日 昭和58年(1983)2月21日
 安政6年(1859)から翌・万延元年(1860)にかけて、幕府は貨幣の吹替(改鋳)を行いました。この吹替のため幕府は安政6年8月に小菅銭座を設けました。小菅銭座は旧小菅御殿跡の一角に作られたといわれ、広大な敷地(15,000㎡ 約4,600坪)を持ち、この西小菅小学校の辺りがその中心であったと思われます。ここ小菅銭座では鉄銭が鋳造されていました。
いまはその頃の様子を示すものは何も残っていませんが、貨幣史関係の史跡として大切なものです。
                                        葛飾区教育委員会


東京拘置所

 ここで、東京拘置所並びにその前身について概説すると、以下のとおりである。
 拘置所の収容者としては、刑事被告人・死刑確定者・懲役受刑者(当所執行者及び他施設への移送待機者)ら、刑事被告人を最大約3000名収容可能な日本最大規模の施設だそうである。
 歴史的には、寛永元年(1624)、小菅村の10万坪の広大な土地が関東郡代伊奈氏に与えられ、そこに下屋敷が設けられた。後に8代将軍吉宗の時、下総小金原の鹿狩りや葛西の鷹狩り時の休息所に充てられ、元文元年(1736)に「小菅御殿」が造られている。
 さらに伊奈左近将監の時にお家断絶となり、寛政6年(1794)小菅御殿は取り払われ、跡地は幕府非常用備蓄の籾倉になり、62棟に16万石程収納されていた。幕末万延元年(1860)には「小菅銭座」、明治2年には「小菅県庁」が置かれ、明治5年、銀座に洋式街路を造るため英国人を招き小菅穀倉跡にレンガ工場を建設。明治6年「小菅集治監」が設けられるとレンガ工場はそこに属した。その後は、小菅刑務所、東京拘置所と名を変えて今日にいたっている。

 なお、近辺に、収監者への差入品を売っている店があったのは想定内だったが、保釈金を融資する店まであったのは想定外だった。

                  
 御 殿 跡
今は小菅御圍地と號せり、構の内凡十万坪餘、當所は寛永年中伊奈半十郎忠治の屋敷に賜り、大猷院殿(注:3代将軍家光)屢成られせ給ひて御放鷹あり、其後年久く渡御もなかりしに享保年中有徳院殿(注:8代将軍吉宗)屢成られせ給ひ、新に御殿を御造營有て元文元年十一月四日惇信院殿(注:9代将軍家重)初て御止宿ありしに、還御の後幾程もあらす御殿残りなく焼失せしかは、再ひ假の御殿を御造營ありしかと、其後は御止宿の事はあらて此邊御遊猟の時の御膳所にのみなし置かれしに、寛政四年伊奈左近将監断家となりしより御用地となり(以下略)・・・

水戸橋 (11:04)

 西小菅小学校の校門から南進し、「草津湯」という銭湯横を通り抜けると、先刻の旧水戸街道に復帰する。そこを左折(東進)して200m程で「水戸橋」に至る。この水戸橋は小さいながらも昔からの自然河川である「綾瀬川」に架かっている。前方には首都高速道が横切っている。

 その昔、この水戸橋の袂に妖怪が出没したと言われ、元禄8年(1695)水戸黄門が橋の袂で妖怪を退治し、「後日再び悪行を重ねることの無きよう、この橋を我が名をとって水戸橋と命名し、後の世まで調伏するものである」と自ら筆を執ったと言い伝えられている。その名に反して雰囲気ゼロの無機質な橋だったが、小さな橋ながらも昭和31年1月に鉄橋に架け替えられており、100mぐらい右手には「新水戸橋」も架かっている。

小菅神社

 水戸橋を渡ったら「水戸橋」交差点を右折し、坂道をちょっと進むとすぐ「小菅神社」がある。元々ここには「田中稲荷神社」があり、「水戸佐倉道分間延絵図」にもある綾瀬川沿いの稲荷社だった。慶長年間(1596~1614)の小菅村開発当時に祀られたもので、田中稲荷神社の名称については明らかではない。
 「小菅神社」は、明治2年に当地に小菅県が設置された際、当時の知県事(注1)河瀬秀治が庁内(現東京拘置所)に伊勢皇大神宮を勧請したのが始まりと言われ、その後、明治5年に小菅県の当地域が東京府に移管され、小菅神社は小菅村の鎮守であった田中稲荷神社の境内に移され、小菅大明神と名称が変わって小菅村の氏神になり、明治42年に今の小菅神社と改名、田中稲荷神社を摂社(注2)にして現在に至っている。

(注1) 知県事とは・・・
 1868年(慶応4年=明治元年)5月3日(旧暦4月11日)の江戸城開城を経て江戸周辺の支配権をほぼ掌握した明治新政府は、同年6月30日(旧暦5月11日)、新政府軍の軍政下に置いていた江戸市中の旧町奉行支配地域を管轄する「江戸府」を9月3日(旧暦7月17日)設置し、「江戸」が「東京」に改称されると共に、江戸府も「東京府」に改称された。
 一方、江戸(東京)近郊の農村については旧幕府代官の山田政則、松村長為、桑山效の3人にそれぞれ従来の支配地域を引き続き管轄させ、8月7日(旧暦6月19日)に山田と松村を、さらに8月27日(旧暦7月10日)には桑山をそれぞれ武蔵知県事に任じた。山田は武蔵国内の豊嶋・足立・埼玉3郡で約11.4万石、松村は荏原郡を中心に武蔵国内で約10万石、桑山は葛飾郡を中心に武蔵国および下総国内で約13万石の旧幕府直轄領(天領)等を管轄した。同年10月(旧暦)には、3知県事が管轄する荏原・豊島・葛飾各郡のうち東京市街に近接する町村が東京府に移管された。
 これに前後して、同年8月(旧暦)、松村知県事が古賀定雄(一平)と、12月(旧暦)に桑山知県事が河瀬秀治と、翌1869年(明治2年)1月(旧暦)に山田知県事が宮原忠英とそれぞれ交代している。新政府の支配が安定した1869年(明治2年)、3知県事の管轄区域は正式な「県」となり、大宮県、品川県、小菅県が設置された。

<小菅県>
 1869年(明治2年)2月15日(旧暦1月13日)、武蔵知県事河瀬秀治の管轄区域をもって小菅県が設置された。「小菅県」の呼称は、県庁が葛飾郡小菅村(現葛飾区)の旧幕府小菅御殿(元の関東郡代小菅陣屋、現東京拘置所)に置かれたことによる。東京府との管轄区域の交換を経て、主に東京の北東郊外にあたる武蔵国豊島・足立・葛飾各郡内の旧幕府直轄地および旗本支配地を管轄した。1871年(明治4年)8月29日(旧暦7月14日)の廃藩置県を経て、同年12月25日(旧暦11月14日)に東京府および品川県と合併して東京府となった。

(注2) 摂社とは、本社に附属し、その祭神と縁故の深い神を祀った神社で、本社と末社の間に位置する。

鵜の森橋の伝説「小菅の風太郎」

 坂道を街道へ戻り、「水戸橋」交差点を右折して進んで行くと、200m程先の「交番前」信号の手前左に「古隅田川」に架かる「鵜乃森橋」が見え、川岸には民家、川面では水鳥も遊ぶほのぼのとした景色が隠されているが、その橋には古くからの伝説がある。                                  
伝説「小菅の風太郎」
 川幅が約三間、水が澄み、かつてはカワウソが生息していたというこの地には「小菅の風太郎」の昔話が伝えられている。その昔、参勤交代の殿様がここを通ったところ一天にわかにかき曇って突風が吹き、驚いた馬から殿様がドウと大地に落ちた。さぁ大変である。さっそく農民の一人が責任を取らされて御手打ちと相成った。それからはその殿様が通るたびに突風が吹きまくり、殿様はほとほと大弱り。やがて死にその息子が非を悔いて娘の小夜に謝罪して供養碑を建てた。戦後しばらくはその碑が近くの交番裏に残っていたという。


 街道に戻るとすぐ先の「交番前」信号手前右手に小さな神社がある。というよりも祠程度の小さなものだが、木製の鳥居が建っている。

蓮昌寺(11:17)

 街道に戻って次の信号の手前左手に、身延山久遠寺を本山とする日蓮宗の寺院「法光山蓮昌寺」がある。なかなか風格ある山門があり、その左手前に日蓮宗お定まりの髭題目の石塔が建っている。

                    
蓮昌寺の由来
 鎌倉時代末期、正安二年(1300)十二月、日蓮大上人の法孫(孫弟子)にあたる松本阿闍梨日念上人によって開基創立される。日念はもと天台宗の学僧で六老僧日頂の門に投じ帰依した。本堂に泰安する「願満のご尊像」と称される日蓮大上人像は、帝都弘通の祖日像上人の弟子である大覚大僧正の開眼と伝えられている。本堂・七面堂・三光堂を中心に釈迦牟尼仏・多宝如来の一塔両尊のご本尊、四菩薩・四天王をはじめとする大曼荼羅勧請の諸尊、法華経擁護の諸天善神である末法総鎮守七面大明神、鬼子母大尊神、十羅刹女、三光天子、大黒尊天等を奉安する。
創立当時は現地よりやや北方にあり、旧道が廃れるにつれ一時法脈が絶えたが、江戸時代に入り現在地に移転、再建された。寛永元年(1624)、真間山弘法寺末となり、道昌寺と称していたが、三代将軍家光が池中の蓮花を見て蓮昌寺と改称したといわれている。
 安政の大地震に破壊されたが文久二年(1862)復興、明治維新後衰微、大正年代より諸堂も整備し現在に至る。


 蓮池は今は無く、鉢の中に少しばかりの蓮がある程度だ。この蓮昌寺には、ドリフターズのリーダいかりや長介(本名 碇矢長一)さんの墓や、たけしこと北野たけしさんの北野家の菩提寺もここだとか。市川市真間の弘法寺の一門だが、平成元年12月に本堂を全焼している。

高札場跡

 山門を出て街道を進むと、すぐ右手にダイソーがあり、その向かい(街道左手)にタバコを売っている「石井商店」があるが、この辺りは「高札場」のあった場所らしい。少し西の「レンゴー葛飾工場」の所にも昔高札場があったが、そのレンゴーの所の高札場は、小菅村の終りの場所であり、石井商店付近の高札場は、上千葉村の入口だったという。
 往時、高札場は掟や諸法度などを記したもので、多勢が往来する各々村の出入口に建てられていた。

昌栄稲荷社

 「小菅3」信号手前の右角には「昌栄稲荷社」の祠が建っている。由緒などは不明で、最近新しく建て直された感じで、分間延絵図にある稲荷社がこの昌栄稲荷神社のことかとも思われ、古くからの神社のようだ。

元水路の跡の都道314号線

 一方、「小菅3」交差点の左手前角の森のような場所に「水門倉庫KK」という会社がある。ここには昔、葛西用水(曳舟川)から分かれた西用水(西井堀)の水を旧旧上千葉と小菅方面に振り分けるの重要な水門があった。
 信号で交わる南北の都道は、元は古隅田川から分留した水路(上水)で、その遺構が交差点左折すぐの水門倉庫会社の北側附近(左手)に、ばらばら状態で残っている。
そして、都道(元水路)を隔てた真向かい(東側)の「随喜稲荷神社」のある所辺り迄に水門が造られていた。都道と水戸佐倉道との間の斜めの細道の入口南脇に「水門立場跡」があったことも判っている。

隋喜稲荷神社

 先述の神社には、水門の跡らしきレンガの柱が中にある。この神社の裏(北側)には古隅田川(現在はその場所は暗渠)があるので、あるいは祀られていた水神様がいつしか稲荷社と合祀され現在に至っている可能性も考えられる。

香取神社

 「小菅3」交差点を越え、次の二又になった信号で左の細い旧道に入るのが順路である。面白いことに、この旧道は道路中央に黄色の中央線があり、暫く先の「西亀有3」で直進の新道と合流することになる。この交差点がちょうど往時の下千葉村の入口である。
 ともあれ、次の信号で寄り道のため二又の右に進入し、次の六叉路の先右手にある「香取神社」に立ち寄る。
 香取神社は日光街道沿いの埼玉県にも多かったが、千葉県はもっと多い筈なので、先ず最初に通りかかったご当地香取神社に敬意を表する。なお、下記の末尾記述の社殿は、その後(平成6年9月)新築されている。

                  
 香取神社(上千葉)
   祭神 経津主命 天照皇大神 宇迦之御霊神
『新編武蔵国風土記稿』上千葉村の条に「香取社 村ノ鎮守ナリ。普賢寺持。...末社 天神 辨天」とあり、起立の年代に触れていないが、普賢寺(東堀切3丁目)の山門天井板銘に「当所香取者、再建宝徳三辛未九月建之。古城内惣鎮守也」の記事を見る。当地区は中世、千葉氏一族の領地であり、付近には古城址と思われる地名が残っているので、当社は葛西氏または千葉氏が下総国香取神宮を勧請したものと推測される。社号は明治五年、社格制度の時、<千葉神社>と改めたが、昭和三十二年四月、旧名に復して香取神社と称することになった。
『東京府志料』上千葉村の条には「千葉神社 村ノ鎮守ナリ。香取・北野二社ヲ合社ス。一新後、千葉社ト云。社地五百四十坪。天祖神社、モト神明社ト云。一新後、社号改マル。社地六十坪。稲荷神社 二座 一ハモト三十番神ト云。一新後、社号改マル。社地四十坪。一ハ社地百三十六坪」とあるが、この天祖神社および稲荷社はともに当社に合祀されている。社殿は昭和三十一年十一月に修復され、神楽殿は昭和四十一年の新築である。

 来た道を引き返し、先ほどの交差点に戻って右折し、道路中央の黄線沿いに歩いて行く。この辺り西亀有は昔、葛西郡砂原村とよばれた地域で、古隅田川の蛇行に合わせるようにその南方に広がっていた砂原だったようだ。
 やがて道が緩やかに右カーブする。常磐線の高架が近づき、駅でもないのに高架下には店が並んでいる。少しの間高架と並進し、100mくらいでまた右カーブし始め、左に「敬老館」のある信号で左に寄り道し、高架手前にある「砂原第二公園」で小休止する。

善養寺

 街道に戻った「西亀有3」は「砂原村」入口に当たり、そこから150m程先右手に浄土宗「善養寺」の石柱と一見寺院らしくない赤茶屋根の寺がある。
                  
  善養寺
 はじめ念仏堂の如きものであったが、天正年間(1573~92)廓誉理順(?~1606)が一寺をなしたという。元禄の「蓮門精舎旧詞」に[善養寺 同(蓮光寺)末。同州(武蔵)東葛飾領沙原(マゝ)村。南照山。開山然蓮社廓誉理順、生国姓氏等#起立年号不明。慶長十一丙午年三月二十五日寂。至元禄九丙午年、九十一年成。云云]とある。境内の子安観音は寛永八年(1631)の入仏。天明七年(1787)新築の本堂は安政二年(1855)十月の大地震に倒壊し、間もなくその残材を集めて再建し、今日に至っている。当寺は旧水戸街道に面している。

 水戸佐倉道分間延絵図では、街道左手になっており、あるいは大地震による倒壊時に移ったかとも思われる。

昼食(12:00~12:33)

 街道左手で中華店を見つけ、入店。熱々の湯麺で暑気払いと腹ごしらえをする。

交通の要衝だった亀有

 その先で「亀有4」、更には「道上小前」を過ぎた先の「葛西用水」上は「曳舟川親水公園」になっている。なお、この「葛西用水」の「葛西」は、江戸川区の葛西とは全く無関係で、現在の青戸7丁目の御殿山公園にあった「葛西城址」(後述)を中心とした綾瀬辺りから下は四ツ木、北は大谷田、水元辺り元々は葛西と称しており、その地域までの用水なので「葛西用水」となった訳である

 ところで、亀有はまた水戸街道と水路とが交差する要衝でもあった。JR亀有駅近く、「道上小東」交差点は昭和末期頃迄は「曳船古上水橋」と呼ばれた所である。曳船川は越谷市のしらこばと橋で逆川(遠く羽生市川俣で利根川に発し、葛西用水→古利根川と名が変わる)から引かれた東京葛西用水の別名である。亀有から四つ木で綾瀬川に至る葛飾区域を曳船川と呼んだが、現在は暗渠になり、四つ木迄を曳船川親水公園として整備している。

 また、余談だが、この用水沿いに北上し、左カーブする環7を越えて更に1km程行くと、足立区郷土博物館があることが判った。もちろん、先刻の千住宿での「水戸街道入口」に往時あったという「水戸海道」なる古い道標が庭にある言うことだが、遠いので立ち寄りは略した。

亀有一里塚跡~間(あい)の宿 亀有宿

 千住宿と次の新宿宿との間には、現亀有駅南側に、間の宿として「亀有宿」があった。
 右手に延びる「曳舟川親水公園」を過ぎると「亀有上宿」に入り、往時の「亀有村」になる。12:40に「旧水戸街道 亀有上宿」の道標があり、この先でも何ヵ所か見掛けることになる。
その道標から100m程行くと、黄門さんと助さん格さんの3人の顔が彫られた3本の石像があり、横に「一里塚」の碑と葛飾区教育委員会の解説板が建っている。
 それによると、亀有の一里塚は、千住から一里、日本橋から三里の所にあり、明治時代の末頃まで街道の両側に塚が残っていたという。当時の塚の位置は、この碑から東へ1mの所にあった由。また、「
旧水戸街道拡幅工事完成を祝い、石像三体及び商店会地域表示の石柱を建立する。平成14年4月吉日 葛飾区 亀有上宿商店会」とある。

亀有高札場跡

 約400mで環七と交差する「亀有2」信号を越えるが、この環七は往時は堀があったのを埋め立て・拡張してできたもので、信号を渡った左向こう角(蕎麦屋の手前)に往時は「亀有高札場」があったが、残念ながら今は何の表示もない。

亀有の香取神社

 その高札場跡のあった環七の角を左(北)に300m程寄り道して、右手の「光明寺」の先の「香取神社」に立ち寄る。この辺り「亀有2」付近は、恵明寺・光明寺・慈眼寺・祥雲寺・香念寺・宝持院・延命寺など多くの寺院があるが、その殆どが「中川」の洪水の被害等で古くからの記録などを失っているそうだ。
                    
香取神社
 当香取神社が亀有の地に御鎮守されたのが鎌倉時代建治2年8月19日(西暦1276年)。当時は下総国葛西御厨亀無村と呼ばれ、香取神宮の新領地であった関係から御分霊(経津主大神)をお迎えし村の鎮守様とされました。その後鹿島(武甕槌大神)・鳥柄(岐大神)の両大神を合わせおまつりし三社明神のお社として村人・近隣の人々を守り続け、約730年の時を経て現在に至り、武神(闘いの神)であるところから、現在では「何ごとにも打ち勝つ」という勝負・開運厄除けの神様として広く篤く崇敬されています。


 現在、葛飾区郷土と天文の博物館にある区登録有形文化財の「亀形瓦一対」は当寺のもので、「玄恵井の碑」や近くにあった「神明社」「道祖神社」も、現在では当神社境内にある。このほか、水神宮、白山神社も本殿右手に神明宮などと並んで祀られ、鳥居脇左右には亀の像がある。右奥には、亀有招魂社、浮洲稲荷神社松山稲荷神社などがある。

 
区の文化財に指定されている玄恵井の碑は香取神社の境内にある。江戸時代の下町の井戸は茶褐色に濁っていて、砂こししなければ飲めない水が多かった。亀有地区の井戸水も例外ではなく、飲み水には昔から苦労していた。
文化二年(1805)に亀有に住んでいた幕府のお鳥見役人水谷又助は何とかして良い水を得ようとした。山崎玄恵は水谷から依頼を受けて、やっと良質の井戸水をお鳥見屋敷内に掘り当てることができた。この井戸水は亀有村の共用水として、竹樋で各家庭に送水したり、水車に利用したりして村人たちに大変喜ばれた。この井戸は、いつしか「玄恵の井」と呼ばれるようになり、文化十年(1813)に碑が建てられたのである。

 なお、「御鳥見屋敷」というのは、神社前の環七を650m程南下した「亀青小東」交差点の少し西辺りにあった由。
                    
御鳥見在宅(分間延絵図では御鳥見在宅とある)
 御鳥見屋敷のことで、享保四年(1719)に設けられた。鳥見役は二〇余名程おり、亀有・上小松・上目黒・志村・上中里・東大森・高円寺に役宅を設け、ここで執務した。化政期(文化・文政[1804~1830])には田名瀬伊織が詰めていた。

 「鳥見役」というのは、鷹場の確保のために、家屋の増改築の検分や、道・橋の整備の指示、歌謡・御曲や普請の騒音規制、耕作時期の指示など、絶大な権限をもって村民の生活全般を監督した役人をいう。

 また、元「亀無」が現「亀有」になった地名の由来に関して、次のような話があるという。

 旧亀有村は、「亀無」「亀梨」と呼ばれていました。当時葛西御厨(神領の一種)の範囲と所領高を明記した応永5年(1398)の「下総国葛西御厨注文」や、北条氏(後北条)や家臣に諸役を賦課するために各人の役高を記した永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」にはいずれも「亀無」「亀梨」の記載が見られます。「亀有」になった由来は定かではありませんが、「なし」の意味を嫌ったものだと思われます。正保元年(1664)江戸幕府による「正保改定図」から「亀有」としたようです。

葛西城跡(青戸御殿跡)

 また、少し離れているので立ち寄らなかったが、この環七の「亀有2」を南に900m程行くと右手に「御殿山公園」があるが、そこには、秩父平氏の一族、葛西氏の城館といわれる葛西城が曾てあった。昭和47年、環七道路建設工事の際に陶磁器や木製品等が発見され、発掘調査の結果、中世の城郭跡だと判明したという経緯がある。御殿山公園内にその跡碑がある。

                    
葛 西 城 跡  
                                   所在地 葛飾区青戸7丁目21番外
                                   指定 平成10年3月13日
 葛西城は、中川の沖積微高地上に築かれた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。築造者と築造の年代については不明であるが、天文7年(1538)2月には、北条氏綱によって葛西城が落城されたという記録があり、この後、葛西城は後北条氏の一支城となり、幾多の争乱の舞台となった。
 後北条氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は、将軍の鷹狩の際の休憩・宿舎(青戸御殿)として利用されていた。(以下略)
                     平成11年3月31日建設
                                        東京都教育委員会

・・・ということで、自分自身でこれまで疑問としていた「青戸御殿」の所在地も判明した。

中川の渡し舟跡から「新宿(にいじゅく)」へ

 「亀有2」に戻り東進すること200m余で中川橋を渡り、「新宿」に入る。この橋は、平成20年に橋脚補強・拡幅・歩道設置等の工事で新しくなり、往時の「新宿の渡し」の痕跡が完全に無くなってしまったが、唯一、橋を渡った左先に往時の渡し舟が目印にしていた大木が現存していたのが救いである。
 また、橋を渡った「中川橋東詰」信号の少し南(右)に、渡し場の高札場「川高札」があったそうだが、これも痕跡は残っていない。

                    
中川と渡船
 中川は埼玉県羽生市川俣付近で利根川から分れ、栗橋町・久喜市・越谷市・三郷市を通って葛飾区に入り東京湾に注ぐ。上流部は島川、中流部は庄内古川、下流部が中川と呼ばれたが、現在は中川で統一されている。近世中期以前の中川は西水元付近より下流は細い流路であったが、享保十四年(1729)幕命により勧請吟味役井沢弥惣兵衛が開削を行った。都内に入った中川は、現在旧中川放水路に沿って南下し、葛西橋付近で東京湾に注ぐが、以前は上平井橋付近から南下し、江戸川区と墨田・江東両区の境を流れて東京湾に注いでいた。水戸佐倉道は亀有で中川を渡らなければならない。亀有側の橋の下には渡船場時代の石畳が今でも残り、引き潮のときに見ることができる((注)平成19年10月までは渡船場の石畳は見られたが、平成20年現在その石畳も見られなくなった)。渡船用の船として馬船二艘、歩行船一艘が用意されており、天保末年の公定船賃は一人三文、馬一疋五文であった。川会所は特になかったが、船守番所が一ヵ所あった。中川を渡った新宿入口右側にある高札は川高札であろう。


新宿(にいじゅく)

 千住宿に続く、街道第二番目の宿「新宿」は、江戸から来て中川を渡り、現在の中川橋東詰の先の信号(左に赤い看板の「星野ベーカリー」がある所)の右折点から始まる。江戸側から順に上宿・中宿、日枝神社付近で屈曲して東に向う筋が下宿と、大きく三区分されていたが、小規模な宿場町で本陣や脇本陣は置かれず、問屋があるのみで、単なる休憩場所的な位置づけだったようだ。読み方は「にいじゅく、古くはあらじゅく」と称し現在の東京都葛飾区新宿2丁目にあたる。

 また、宿はまっすぐ見通せないよう凹型に街道が曲がっており、最初の南下道が上宿・中宿で庚申塔・問屋・高札場などが左手(時期により変動?、現「中川橋東」バス停付近)にあり、左折した東進部分が下宿である。普通、警備上の理由で城下町にある宿場などでは特によく見掛ける形であるが、新宿の場合は少々事情が異なる。
 というのは、古地図を見ると一目瞭然だが、昔、この凹形の内側部分は沼地だったため、それを避けて街道が枡形になった宿になったというのが真相と思われる。
現在では、この鍵型に右折する宿の入口は、直進可能な新道ができており、国道6号への抜け道になった結果、後述の「宝蓮寺」への参道を分断している。

 「新宿」の発展は、江戸時代に入ってからで、水戸藩を筆頭に、安房・下総・常陸や奥州方面に領地を有する大名・御家人、一般の旅人等で賑わった。また佐倉街道への分岐点もあり、成田山への参詣者も多く通行した。明治17年に「中川」に「中川橋」が架けられたが、中川橋では通行料を徴したため「賃取橋」とも呼ばれ、この橋銭が町の主要財源になったが、明治30年(1897)の常磐線敷設の際、通行料が取れないなどの理由で反対運動を起こし、線路が新宿を避けて通ったため、衰退方向へと変わって行った。そのためか、新宿には江戸時代以前の面影が今も残っている。

 下宿の東端(現・国道6号中川大橋東交叉点)付近には、佐倉街道(成田街道)への追分があり、石碑が建てられていたが、現在では撤去されている。また、枡形になっていた宿の街並みも、後になって最終部分でショートカットする道が造られ、旧道筋が一見判りにくくなっている。

宝蓮寺
                    
宝 蓮 寺
 真言宗豊山派。医王山蓮華院と号し、もと上小松村(東新小岩)正福寺の末。
 元文四年(1739)の「正福寺惣門末起立録」には、開基を天文元年(1532)栄源、法流相続を正保二年(1645)栄広代としているが、「新編武蔵風土記稿」では[天文元年、栄源ト云僧、中興セリ。是今ノ法流ノ祖ナリ]といい、その所伝を異にし、ただその本尊はともに不動明王としている。「風土記稿」には当寺には行基作と伝える像を安置する薬師堂があり、さらに当時の末門として、大日如来を本尊とする山王山鏡智院が在した旨を記している。現在当寺の本尊となっている薬師如来像はもと別堂の本尊であり、脇壇の不動明王は当寺の旧本尊、大日如来像は旧鏡智院の本尊であろうか。本堂は安政二年(1855)十月の大地震で倒壊し、明治三年に改築された。当寺は旧水戸街道に面し、境内にはイチョウの古木がそびえている。

 現在の宝蓮寺の山門は移築で、本堂も平成20年に新しくなっている。

西念寺(13:17)

 少し行くと中宿に入り、左手の老人福祉施設「花の木」の手前を右に入ると「西念寺」がある。
                    
西 念 寺
 浄土宗。覚林寺宝樹院と号し、もと芝(港区)増上寺の末。
 当寺の由来に関し「新編武蔵風土記稿」には、文安五年(1448)僧浄円が草庵を結び、のち天文元年(1532)覚蓮社法誉が一寺となして開山と称され、同年七月十六日寂した。降って元禄十四年(1701)当寺十六世尊誉は恵心僧都作の阿彌陀三尊を安置して本尊とした。その他、堂内には中川から出現した辨天像、熊谷蓮生の笈仏(法然上人自作像)、草庵主浄円の碑と伝える板碑を蔵し、境内には稲荷社・愛宕者社・金毘羅社があるとし、元禄八年(1695)の「蓮門精舎旧誌」には、天文元年開山法誉の起立であるが、四代前の讃誉の代に自火によって焼失したので由緒は知れずと記している。江戸時代には門末七ヶ寺を擁する本寺であった。

 本尊以外に、「閻魔天像」や「奪衣婆像」があるほか、「生簀守の墓」や「解念仏供養碑」があり、2基共に下部に「□池須守」と刻まれている。

                    
生簀守の墓
                    附 矢作藤左衛門銘供養碑
 本区には将軍家がしばしば鷹狩に訪れましたが、この時、食膳に供する魚として新宿付近にある生簀の魚を献じたといわれています。
「新編武蔵風土記稿」巻之二十六によると、[池守を矢作藤左衛門といひ、月俸を賜りしとそ、子孫今も村内に居れり]とあることから、これが生簀を守った矢作家の祖先の墓であることがわかります。
供養碑においては、一部剥離のため年号は不明ですが、観音像の舟形浮き彫りで、背面には「矢作藤左衛門逆修壹覚壽位」の後刻があります。
                                     葛飾区教育委員会

                    解念仏供養碑
 この供養碑は、舟形光背に仏像を高肉彫りしたもので、刻銘によって解念仏供養の造立と判明できます。
 「解」は「斎」から来たもので、斎の意味から、昼の食事の前に行う念仏講の供養塔であるといえます。
 一基は、八臂観音立像です。享保七年(1722)に篤信の2名、心誉は順修、蓮誉は逆修菩提のため造立し、法名等は追刻されています。他の一基は地蔵立像です。刻銘等は見られませんが、ほぼ同年代頃のものと思われます。二基ともに彫技優秀であり、解念仏の信仰習俗をこの地に導入した稀な例です。
                                     葛飾区教育委員会


 「水戸佐倉道分間延絵図」によると、ここ「新宿」には「生州」とか「御殿跡」の表記があるが、新編武蔵国風土記稿巻之二十六の新宿町の条に次のような記述がある。

 御茶屋蹟 町ノ東裏ニアリ。段別一畝五歩ノ除地トナリテ。里正市助カ持畑ノ中ナリ。土人ハ御殿跡ト云。正保ノ國圓ニモ。當所ニ御茶屋ト記シタレバ。其跡ナルコト明ケシ。其頃ハ前ニ云古池州鯉鮒漁ノ為。
 大猷院殿シバゝ御成アリシト云。池守ヲ矢作藤左衛門トイヒ。月俸ヲ賜リシトソ。子孫今モ村内ニ居レリ。御茶屋ヲ廃セラレシ年代ハ知ラズ。


 即ち、この生州で鯉や鮒などを捕っていた訳で、大猷院殿(3代家光)もそれを食していた訳だが、現在ではもちろん埋め立てられ住宅地になっている。

山王鳥居のある日枝神社(13:24)

 西念寺から街道に戻ると、宿内の街道はその先で左折し「下宿」に入るのだが、その曲がり角前方の細道を50m程直進(南進)し、突き当たりを20m程左折した右手に日枝神社がある。
祭神は日枝大神(大山昨神)、元は新宿の守護神として鎮座したが、享保14年(1729)に現在地へ移転したらしい。
 この鳥居が変わっていて、石の鳥居の奥にある朱塗りの鳥居が、山型の珍しい形で「山王鳥居」と呼ばれるものである。普通の鳥居の笠木の上に三角形の合掌形が乗っかっており、記憶にある限りでは初めて見る形である。
調べてみると、鳥居にも種類が多々あり、大きくは「神明鳥居」と「島木鳥居」に大別される。神明鳥居は「鹿島鳥居」と「黒木鳥居」に、島木鳥居は「明神鳥居」と「変形鳥居」に分けられ、明神鳥居は「稲荷鳥居」と「両部鳥居」に、変形鳥居は「春日鳥居」「八幡鳥居」「山王鳥居」「三輪鳥居」に分けられる。従って、この山王鳥居は変形鳥居の一種であり、笠木の上に三角形の合掌形が乗っかっているほかに柱の下部に根巻(藁座)がある。

 
祭神 大山咋命(おおやまいくのかみ) 境内社 水神、稲荷神社
 「新編武蔵風土記稿」新宿町の条に[山王社 町ノ鎮守ナリ。宝蓮寺持]といい、「東京府志料」新宿町の条には[日枝神社。駅ノ鎮守ナリ。モト山王社ト云。一新後、社号改マル。明治五年十一月、郷社トナル。末社五社。社地百二十六坪]とあり、ともに鎮座の年代を明らかにしていない。しかし新宿は小田原北条家(後北条氏)時代からの駅場であったから、その鎮守の社があって然るべきであり、また後掲の享保十五年(1730)の社殿棟札に[別当山王山雲海寺鏡智院]とあり、山王山を山と号する別当寺の鏡智院は上小松村(東新小岩四丁目)正福寺の末寺宝蓮寺の門徒であり、「正福寺惣門末起立帳」によれば、永禄二年(1559)の起立であるから、当社もその頃の鎮座と推測される。
 起立当初はやや西方にあったが、享保十四年(1729)中川改修の時、現在地(鏡智院境内)に遷座し、翌年九月、新たに社殿を営み、延享元年(1744)三月、寛政十一年(1799)一月に再度改築し、安政二年(1855)十月の大地震で拝殿の一部が破損し、同四年九月に修覆された。その間、宝暦十一年(1761)には境内社の水神社が鎮座した。
 明治維新に際して別当鏡智院は無住であったので、当社を管理していた本寺の宝蓮寺秀鏡は、同年十一月、町内の百姓八郎右衛門を鏡左近と改名して当社の神職としたい旨を小菅県に願い出す許可を得、翌年正月、鏡左近は神祇官から日枝神社神主職に補せられた。鏡智院は間もなく廃寺となった。
 現社殿は明治四十四年、幣殿は昭和十一年十月、神楽殿は昭和六年十月の造立である。

なお、社殿は平成20年10月竣工の真新しいものになっている。

新宿一里塚

 元の街道に戻り、東へ曲がって「下宿」に入っていくと、右手に「新宿一里塚」バス停がある。「亀有の一里塚」からは2km程度であり???だが、中川の改修以前には、現・新宿の左側に堤があり、堤上道とも言う古奥州道だったようだし、この辺りで水戸道と佐倉道が分岐していたことが「水戸佐倉道分間延絵図」にも明記されているので、そういった関連の古い一里塚だったとも考えられそうだ。

浄心寺

 その先に左折する細道があり、入って「林光山浄心寺」に立ち寄る。

 浄土宗。林光山称名院と号し、もと芝(港区)増上寺の末。
 元禄八年(1695)の「蓮門精舎旧詞」には、慶長十九年(1614)廓蓮社然誉潮呑和尚の起立という。開基は浄心道求大居士。当寺は古くから下寺(しもでら)と称し、両国(墨田区)および小塚原(荒川区)回向院住持の隠居寺であったという。本堂は明治二十年焼失、同二十二年再建、大正十二年に改修されたが、昭和四十六年に新築、客殿は翌年完成して面目を一新した。境内の聖天堂は昭和三年、生稲真履氏が青山(港区)から移したもの。また墓地の入口には二・二六事件に殉職し、岡田啓介首相が建てた清水四郎巡査の墓がある。

               区登録有形文化財
               清水巡査部長の墓     附 故清水巡査部長の碑
                                   所 在 地 葛飾区新宿二丁目22番20号
                                   登録年月日 平成元年(1989)3月20日
 昭和11年(1936)2月26日早朝、陸軍内部の皇道派青年将校は武力によるクーデターを図り、1400人余の部隊を出動させて国会・首相官邸一帯を占領し、陸軍上層部に国家改造の断行を要請しました。世にいう2・26事件の発生です。 墓背面の碑文によれば、当時警視庁巡査部長の職にあった清水與四郎氏は、総理大臣官邸警戒勤務中にこの事件に遭い、機関銃などの乱射を受けて一命を落としました。
 この事件の責をとり、岡田啓介内閣は3月に総辞職をしましたが、この霊に報いるため、岡田氏の手によって6月この墓碑が建立されたものです。
                                        葛飾区教育委員会

水戸街道の部分消滅

 浄心寺から街道に戻り左(東)へ少し行くと、左手の区民斎場(区民セレモニーセンター)の先に横に入る道がある。車が入れないように車止めがあり、その辺りに橋の跡があり欄干が残っていて、「金阿弥橋」と名前が入っている。北に向かって草に覆われた幅2m程の水路の窪みが認められる。これは平成12年頃迄は用水路だった所を暗渠化して歩道にしたものだが、その先にもう一本街道を横切る小道(分間延絵図にある野道)があり、そこから街道が右直角に曲がっているが、江戸時代には直進できる道筋があったことが判っている。現在は右直角に曲がり拡幅もされ「中川大橋東」信号で国道6号に出て左折し、すぐ先の4差路を左折して行く道筋に変わっている。
 この国道を左折して北進する道も、実は往時の「小合用水」を暗渠化・拡幅し、用水東側の旧水戸街道部分を現在新道の右側歩道部分にした形になっている。
 また、国道6号に出た「中側大橋北」交差点は佐倉街道との分岐点で、少し前までは道標があったらしいが、現在では撤去されている。

纏められた石仏群

 北進150m弱で街道は右折するが、その右折点左側に石仏が並んでいる。平成10年頃の旧道拡張整備工事の際、近辺から移されたとの解説板も建っている。紀年は「宝永」や「享保」銘が読み取れ1700年代初期の造立と考えられる。一列に並んだ右側のやや小振りな石仏は全て享保3年(1718)の銘が刻まれている。また、享保7年のものや、奥には帝釈道の道標(明治30年造立)もある。

一路北東へ

 途中、イトーヨーカドーでトイレを借り、お礼に大福を買って諸氏にもお裾分けしながらパワーを付け、12:52再出発する。JRの新金貨物線の踏切を渡り、南側の国道6号と平行するように東進していく。その踏切の手前には、旧街道の道幅拡張工事に伴って地蔵等を一箇所に集めた旨の解説板が建っていたが、先ほどの石仏群のことと思われる。
 旧道とは言え黄門さまも通った道だが、五街道とは違って道幅は広くない。車とは漸くすれ違える程度なので、大名行列にでぶつかったら庶民はお手上げだ。
 京成金町駅やJR金町駅に通ずる都道307号との交差点「金町3」で国道6号に合流し、400m程先の「金町」交差点で国道を右に分け、都道307号の右側歩道を通ってJR常磐線の高架を潜ってその先の立体歩道橋の先で右斜め(北東)への旧道に入る。
 200m余で右手の「葛西神社」に立ち寄る。

葛西神社
                   
 由  緒
 創建の年代は古く平安時代の末期、後鳥羽天皇の元暦二年(1185)領主葛西三郎清重の篤信により上葛西、下葛西あわせて三十三郷の総鎮守として下総国香取神宮の分霊をお祀りしたものです。
 当時この金町の地は、葛西御厨の神域にあり古来二十一年ごとに香取神宮宝殿造営の賦役をつとめた関係から、郷内の守護神としての働きもありました。
 当社は創始以来、郷民の崇敬厚く、中世のころ御厨在住の領家である占部氏がここで伊勢、香取両神宮の御神税並びに御社殿造営の所役を掌った処で、往還の人馬から関銭等も徴収し神宮の用途にあてたようであります。
 江戸時代の始め徳川家康公葛西御成の際、当社に古くから伝わる操り人形芝居の神事の有様を御覧になり、これは奇特のことであるとして祈念の誠心を込められて、天正十九年十一月祭祀を専らにするようにと御朱印十石を賜りました。
 当社は始め香取宮と称しましたが、明治維新の際に香取神社となり、明治十四年葛西神社と改められました。
 明治五年社格を村社に定められ同八年郷社に昇格されましたが、終戦とともに社格が廃止され、現在宗教法人葛西神社として氏子を始め崇敬者の尊信を専らにし、かわることなく今日にいたっております。
  天正十八年四月(秀吉公より賜る)
  天正十九年十一月(家康公より賜る)

◇葛西囃子

 
葛西囃子は、葛飾地方に古くから伝わる郷土芸能のひとつです。
 当葛西神社は、祭礼に欠かせない祭り囃子すなわち葛西囃子発祥の地として知られております。享保年間当神社の神官、能勢環(のせたまき)が敬神の和歌に合わせ、音律を工夫して和歌囃子として村の若者に教え、御神霊をお慰めしたのがその起源とされています。以来、盛んの一途を辿り、神田囃子、深川囃子、また関東周辺にも広まりまして、秩父、川越、石岡、また東北地方、東海地方の囃子の流儀を生んでおります。
 宝暦三年(1753年)、関東代官伊奈半十郎は葛西囃子の流行を、一家の和合と青少年の善導を目的とする社会施策のひとつとして大いに奨励しました。毎年各町村で葛西囃子代表者推薦会を催し、選ばれた者を代官自ら神田明神の将軍御上覧祭りに参加を推薦したので、一層の流行をし農業の余暇にお囃子を習う若者が続出したといわれます。
 江戸時代末期には、幕府直参の旗本や御家人の間に囃子が流行しました。寄席の舞台袖で囃子がつかわれることもあり、それを御家人囃子といわれました。また祭礼でもないのに、どこからか囃子の音色が聞こえてくるという不思議もありました。武家屋敷の奥から町場に洩れた御家人囃子だったのでしょう。御家人囃子の元になったのも、この葛西囃子であります。


 境内には、「葛西神社鍾馗石像」「弥栄銀杏」と題する解説板のほか、「金町コカブ」や「千住ネギの産地」と題する和英文併記の詳細な解説板もある。

間の宿 金町宿

 新宿と松戸宿間には、柴又帝釈天への追分があり、また江戸川の江戸側川待宿として間の宿の金町宿があった。また、葛西神社(東金町6丁目)~金町松戸関所跡は、江戸川の河川改修により、旧街道筋が失われてしまった。

金町関所跡(14:51)

 「葛西神社」からショートカットして街道に戻り、右カーブして「葛西神社裏」信号で江戸川沿いの都道451号線に合流し、約850mで東京都外郭環状道路(国道298)と交わり、その先150m程で「葛飾橋西詰」交差点に達する。
 その先左に明治2年に廃止された金町関所があった。関所跡は、廃止後金町煉瓦製造工場が建てられ、現在東京都のポンプ場になっている。その前に躑躅の花に囲まれて「金町関所跡之記」と刻まれた石柱と「金町関所跡」の解説板が建てられている。

                    
金町関所跡
                                   所在地 葛飾区東金町八丁目23番先
 金町関所は、金町町土石所と称され、水戸街道が江戸川を渡る地点に置かれた江戸の東の関門でした。関所の施設がある一帯は金町御番所町と呼ばれ、四名の関所番が明治二年(1869)まで、その任にあたりました。
 対岸松戸宿との間には渡船が常備されていましたが、将軍が小金原に鹿狩りに出かける際には、江戸川に高瀬船を並べた仮説の船橋が架けられました。四度行われた鹿狩りのうち、最後の嘉永二年(1849)の史料には、関所付近のようすを多く伝えています。
 その後、明治末期に行われた江戸川の改修により、御番所町の家並みの一部は拡幅された堤防の下となり、江戸川の河身も大きく変貌しました。
 関所跡は、松戸宿との位置関係から、現堤防下の河川敷一帯と推定できます。
                                        葛飾区教育委員会

 ここから「葛飾橋」を渡って対岸の松戸へ行く訳だが、渡る「江戸川」の真ん中が東京都と千葉県の都県境になっている。
 葛飾橋は、 明治44年(1911)9月 金町~松戸間に木橋が架けられたが、老朽化に対応して昭和2年(1927)鉄橋に架け替えられている。

煉瓦橋

 橋を渡った先の信号を左折し、松戸市域になった土手伝いの道を600m程行くと「角町」信号の三叉路で右からの道と合流して北進する道になる。その道を逆に南に入るとすぐに「坂川」に架かる「レンガ橋」がある。これは、江戸川から坂川への逆流防止のために明治37年に建設された樋門で、千葉県内に現存する煉瓦造りのものでは最古と言われている。

円慶寺

 「角町」信号に戻ってすぐ右側にある天台宗の寺院で、江戸時代から「大日堂」として信仰を集めていた。幕末の火災後は、小金東漸寺の開山堂を移築して再建されている。建物は寺らしい雰囲気を有せず、そのつもりで見て漸く普通の民家ではないと思える程度のものである。

松戸宿入口~「是より御料松戸宿」碑

 50m程先の三叉路を左に行くと江戸川堤防に向かうが、その堤防沿いの道の右手前角に復元された御料傍示杭「是より御料松戸宿碑」が建ち、天領松戸宿の江戸側入口を示している。古絵図によるとこの付近に高札場もあったようだが、それらしい痕跡は残っていない。
 また、往時のこのあたりは渡船場河岸(下河岸)と呼ばれ、銚子から利根川を遡って来た鮮魚を扱う魚市場で賑わっていた。

                   
 「是より御料松戸宿」碑の建立由来
 江戸時代後期に幕府によってまとめられた「水戸佐倉道宿村大概帳」によると、松戸宿の「傍示杭(境杭)は宿の前後境にあり、建替えは支配代官が取り扱う」とあります。
 「宿の前後境」とは、北側が根本村境、南側が江戸川を隔てて対岸金町松戸関所に相対する下横町渡船場のことで、水戸道中松戸宿の出入口を指しています。
 これを同じ頃幕府が作った「分間延絵図」(重文)にみると、確かに宿の出入口に高札と並んで「御料(領)傍示杭」の文字と絵が描かれています。
 この「御料傍示杭」にどの様な文字が書かれていたのかは分かりませんが、街道の通行人に土地の支配関係を知らせる必要から、僅かに口承にも残っていたように「是より御料松戸宿」などと書かれていたものと推定されます。
 特に、ここ下横町渡船場は、江戸川を船で渡って水戸道中松戸宿に入ってくる宿の入玄関口でもあったので、これを永く記念し記憶に留める意味から、この標石を建立しました。
 なお、本来この「御料傍示杭」は木製で、位置も道を挟んだ反対側(南側)で、現在堤防から河川敷になっている付近に建てられていました。
                    平成七年六月三日
                                        寄贈 松戸西ロータリークラブ

船着き場界隈~青木家・梨本家

 街道からの正面突き当たりが松戸側の渡船場跡で、対岸の金町松戸関所迄を渡し船で往還していたが、その船で江戸川を渡った旅人は下横町に上陸する。ここから松戸宿で前掲の松戸領を示す碑が建っていた。この辺りは渡船場河岸(下河岸)とよばれ、銚子から利根川を遡ってきた鮮魚を扱う魚市場で賑わった。前掲の最初の木造葛飾橋はここに架かっていた。
 現在は堤防とその道路下にあたる位置に往時は「梨本家の魚市場」があり、附近には何軒もの魚屋が並んでいたという。
 また、その頃は青木家と共に松戸の舟運を支えた船問屋「梨本家」の屋敷があり、周辺には船乗りが大勢住んでいたそうだ。

松戸宿

 松戸宿は幕府と水戸徳川家を結び、日本橋から千住・新宿に次いで三番目の宿場である。新宿からは1里30町(約7km)で、現在の千葉県松戸市松戸・本町・根本にあたる。
 水戸道中は脇往還ではあったが、五街道同様、松戸宿迄は道中奉行の支配下に置かれていた。
宿は江戸川東岸に面し、江戸川の対岸には金町松戸関所が置かれていて、その石碑が残るが、厳密には往時と同場所であるとの断定はできていない。
 江戸時代、軍事戦略上江戸川に橋は架けられず、船渡しになっていた訳だが、ここ松戸側にも渡船場の石碑があり、ここが松戸宿の江戸側の端になっていた。

 考えてみると、江戸防備上、河川に橋を架けさせず船渡しにし、しかも関所を置いて入り鉄砲や出女ほかを厳しく取り締まった江戸周辺での全貌が、幾つかの街道歩きを通じて明らかになった。
          東海道   箱根峠と箱根関所・新居関所と浜名湖の舟渡し
          甲州道中  小仏峠と小仏関所
          中山道   碓氷峠と碓氷関所・戸田川の舟渡し
          日光道中  利根川と栗橋関所
          水戸街道  江戸川と金町関所

 また、松戸宿と江戸との間には、松戸宿南端から江戸川を渡らずに江戸川沿いに南下し、矢切の渡しで江戸川を越え柴又帝釈天を経由するルートもあった。
 松戸の宿場町は南北に約1kmほどの範囲に広がり、水運を利用しての物資集積地としても栄えた場所であり、数百軒の家並みが並ぶ大規模な集落を形成していた。市街地には運河としても使われた坂川が縦断している。

 ところで、御三家の一つ水戸家は参勤交代の義務を負わず、藩主・重臣が江戸常駐で、藩士たちがこの道中を頻繁に往復していたほか、参勤交代で通った藩主は常陸国(今の茨城県)で十数藩、さらに相馬藩、伊達藩、南部藩らが往還したという。
 一方、幕府による治水工事で江戸周辺は河川・水路が発達し、近郷から江戸への舟運が盛んになるにつれ、江戸川に隣接した松戸宿は物流の中継拠点として繁栄を加速していった。また、関連して河岸場近くの平潟町には平潟遊郭ほか飯盛旅籠も集中していた。
 松戸宿は天保14年(1843)の記録で、戸数436軒に人口が1,886人、本陣・脇本陣が各1軒に旅籠が28軒あった。嘉永2年(1849)には松戸宿を通過した人馬の数が一日あたり39人と馬15匹だったという資料も残っている。

 往時の松戸宿は、JR常磐線松戸駅西側の旧街道沿いから江戸川に至る地域にあたり、現在の地名では松戸市本町と松戸市松戸の西側が該当する。「松ノ木通」迄の約1kmが松戸宿の中心街だった。鉄道開通時に停車場が宿の北端に建設されたため、明治以降は旧松戸宿一帯は北部を中心に発展を遂げていった。当地域は幸い大地震や戦災などで大被害を受けなかったため、昭和40年頃までは幕末から明治に建てられた 木造の商家や旅籠が並ぶ古い町並みを残していた。その後、高度経済成長と共に駅周辺の再開発、道路拡幅、江戸川堤防改修が行われ、町並みも大きく変貌したが、現在でも旧街道沿いに僅かながら旧家や寺社が点在している。
 なお、松戸宿北端では、旧道筋は常磐線で分断され、わずかに跨線橋で渡る歩行者のみが旧道筋を辿れる。

松龍寺

 前記渡船場跡から渡船場道を東へ進むと旧街道大通りに出る。そこを左折した南北方向の街道筋が旧松戸宿の中心地である。右手2本目の右折路を100m程東に寄り道すると「坂川」を越えた先に「松龍寺」がある。
「廣大山高樹院」と号する浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。水戸街道の松戸宿本陣と渡船場道の間に参道入口があったため大変に栄えたという。

 創建は元和元年(1615)で、松戸宿最初の旗本領主(松戸村500石を支配)高木筑後守により、小金の東漸寺末寺として小山に創建した浄土宗の寺院で、慶安3年(1650年)当地へ引寺し再興された寺で、その東漸寺第八代照誉頓公上人の開基である。本尊は阿弥陀三尊。残念ながら再度の火災で寺は焼失し、難を逃れた山門が往時の面影を残している。
 境内には、高木筑後守二代の五輪塔墓や松戸宿代々の名主の墓があるが、嘉永元年(1848)の12代将軍家慶の「御手植えの松」は今は枯れてない。また、相模台合戦(注)の戦没者を葬った「すくも塚」が昔、宿はずれにあったのを「すくも観音堂」として祀っている。

(注)相模台合戦
 JR松戸駅の東南200m程の丘陵地に「松戸中央公園」がある。鎌倉時代、執権北条長時が砦を築き、「相模台」と呼ばれていた。戦国時代になり天文7年(1538)、小田原北条氏と小弓公方足利氏・里見氏連合軍が戦った国府台決戦の舞台となった地で、その後近代になって、陸軍兵学校が築かれた。現在も公園入口に旧陸軍兵学校門と門衛が残っている。

<すくも観音堂>
                  
  観 音 堂
 天明四年(1784)籾殻塚(すくもづか)稲荷(旧松戸二丁目)の境内の籾殻から聖観世音菩薩が現れ当寺に祀られる。
 毎年八月十日の四万六千日の縁日には、籾殻塚聖観世音菩薩・子育て観音参りの善男・善女が参詣され、種子が多い実をもつとうもろこしは雷除けになると云われ、門前参道では「とうもろこと市」が伝承されている。


 特筆すべきは、当寺は徳川将軍の鹿狩り時の休息所になり寺勢を誇っていたことである。徳川将軍が下総台地にあった官牧「小金牧(小金原)」で行う狩りを「御鹿狩り」と言い、8代吉宗から12代家慶まで4回行われている。そのためか、本堂の屋根には葵の紋が瓦に見られた。
 鹿狩りの際には松戸の関所附近に仮設の「船橋」が架けられ、嘉永2年(1849)の時の船橋は、大平船21艘、長さ73間(131m)、幅3間(5.5m)が鎖と綱で固定されたそうだ。将軍は武士団23,000人余と共に渡り、小金牧(小金原)へと向かい、狩りには武蔵、上総などから獲物を追い込むための勢子として農民6万人余が動員されたというから、封建権勢の大きさもさることながら、庶民の迷惑も筆舌に尽くしがたいと痛感する。

問屋場・脇本陣跡

街道に戻ってすぐ左先に「松戸郵便局」がある。江戸時代、人足25人・馬25匹で継立を行う「問屋場」があった場所で、その南側に「脇本陣」があったそうだ。いずれも建物は現存せず、その跡を示す標柱などはない。

本陣跡

 脇本陣跡だという松戸郵便局の斜め後ろ(北西)に3階建マンションがあり、そこに「旧松戸宿本陣跡地」を示す碑がある。本陣建物の図解と解説文入りで、後記の文章が記されている。
 水戸街道を通る参勤交代の大名は江戸から出るにも入るにも小金宿あたりで宿泊するケースが多く、松戸宿の本陣は休憩に使われることが多かったためか、本陣としては他街道に比べてそれほど大きな規模ではなかったようだ。この旧本陣建物は幕末期の火災で焼失し、直後に風格ある建物が再建され個人宅として永らく使われていたが、平成16年に取り壊されている。

                    
旧松戸宿の本陣
 本陣とは、江戸時代の宿場に設置された宿泊・休憩施設で、街道を通行する幕府役人、大名、公家、旗本などが利用した。門、玄関、書院を設けることが本陣の特権で、一般の旅籠には許されていない。
 水戸道中松戸宿の本陣は、江戸前期は吉岡隼人家、江戸中期以降は伊藤惣藏家が代々勤め、水戸徳川家をはじめ、水戸道中を参勤交代で往来した常陸国土浦藩・笠間藩、陸奥国磐城平藩・相馬藩など、十数家の大名が宿泊や休息で利用した。明治維新後に宿駅制度が廃止され、本陣も廃止となった。平成16年(2004)に解体された旧本陣の建物は、慶応3年(1867)2月7日、本陣の出火で焼失、その直後に再建された建物と推定される。
                                        松戸市教育委員会

松戸宿を支えた坂川の歴史

 その先「宮前町」信号の先を右折し、「潜龍橋」で「坂川」を渡った先に「松戸神社」がある。その「坂川」の橋の袂に次の様な解説板が建てられている。
                    坂川の歴史
 坂川は、江戸時代に開削された人口河川であるが、「四十八渓の澗水をあつむ」と言われ、下総台地の豊かな湧水を多くの支流から集め、「下谷三〇〇〇町歩」と称された水田を潤し、用排水幹線として重要な役割を来してきました。
 この坂川は古記録によれば「逆川」と書かれ、出水時には湛水と江戸川からの逆流によって水害が甚だしく、沿岸農民は数世紀にわたって苦難の歴史を繰返してきました。
 今日の逆川の基本形は、享保八年(1723)代官小宮山杢之進によってほぼ完成されました。その後も逆川の治水事業は鮨ヶ崎(現流山市)の名主、渡辺庄左衛門父祖三代の情熱と不屈の努力によって永々と続けられ、最下流部の柳原樋門までの工事が完了したのは、天保七年(1836)のことです。先人の血と汗によってつくられた坂川はまた、水上交通としての役割も果たし、昭和初期まで米・油・野菜などの生活物資が川舟で運ばれていたとのことです。
                                        贈 松戸中央ロータリークラブ

松戸神社

 坂川に架かる橋を渡った先にある。祭神は日本武尊で、日本武尊が東征の折、従将・吉備武彦(きびのたけひこ)・大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)らと待ち合わせた地に建てられた祠がその発祥とされ、この陣営地を「待所」の郷、待つ処、待土、=松戸と呼ばれるようになったとの伝説がある。

 寛永3年(1626)創建で、祭神は日本武尊。正徳年間(1711~16)は「御岳大権現」とか「御嶽社(みたけしゃ)」と称していたが、明治に入り「御岳大神」と改称し、更に明治15年(1882)に松戸神社と改称している。江戸時代は松戸宿の鎮守であった。
 本殿に掲げられている「日本武尊」の額は、有栖川宮熾仁親王の筆によるもので、本殿の格天井(注)の絵画は、谷文兆の高弟佐竹永湖(えいがい)の作である。
(注)格天井(ごうてんじょう)とは、約1m間隔で方形に組んだ木の上に板を張った天井のことで、京都の二条城の格天井が有名。別名「合天井」ともいう

 元文元年(1736)の火災により、水戸家の神宝、小田原北条氏や千葉家の古文書など全て焼失したと伝えられ、安政2年(1855)の地震では拝殿が倒壊し、文久3年(1863)に再建されている。

 また、境内には 秋葉神社(火産霊神)のほか、水神社、三峯神社、稲荷神社、厳島神社、松尾神社、八坂神社、庚申社、金毘羅神社、八幡神社などが祀られている。

◇水戸光圀と松戸神社

 水戸光圀が松戸へ野狩りに来た折、松戸神社のイチョウの木の上に白鳥がとまっているのを発見し、早速鷹を合わせようとしたが鷹は恐れをなして蹲ってしまった。そこで光國は弓で射落とそうとしたが、家来が「社内の鳥を射落とせば必ず災いをうける」と諫めたが、なおも矢を放そうとしたがたちまち腕が縮んで射ることが出来ず、遂には、矢が中央で折れてしまった。光國は驚いて、その弓矢を松戸神社に納めてかえったと伝えられ、以後、水戸家の崇拝をうけている。

戸定邸・戸定歴史館・・・その先「宮前町」右折、線路を越え信号手前右折の突き当たり

 松戸神社境内の横から、「宮前町」信号を東進する道に出て、常磐線を潜った先を右折し、松戸市街を一望出来る高台「戸定が丘歴史公園」に行く。大勢の観光客が結構来ているのには驚いた。
 先ず、石段の上にある風情ある茅葺き門の佇まいからして感動ものであり、門を潜った園内も実に良く整備されている。「戸定」とは古く中世の城郭に起源を持つ地名の由。
 「戸定邸」(とじょうてい)は、最後の水戸藩主・徳川昭武(15代将軍慶喜の弟1853~1910年)によって明治17年に建てられ、松戸徳川家の住まいとなったが、昭和26年に徳川家から戸定邸を含む旧松戸徳川家の敷地が松戸市に寄贈された。芝生を使い、洋風を取り入れた庭園は「戸定が丘歴史公園」として千葉県の名勝に指定され、建物は明治前期の上流住宅の姿をよく伝えるものとして平成18年に国の重要文化財に指定されている。なお、江戸期以前は高城氏(前掲:松戸宿最初の旗本領主高木筑後守)の出城跡である。

                    
戸定館由来
 当邸は、第十五代将軍徳川慶喜公の舎弟である水戸家第十一代藩主徳川昭武公(節公)が明治十六年に松戸別邸として建てられた近世武家屋敷造りの建物である。公は二十数年間を当邸に過ごされ、明治二十一年には子息武定公をもうけられた。この間明治三十五年四月二十二日には後に大正天皇となられた皇太子の行啓を仰ぐなど、多くの皇族方も長期にわたって滞在された由緒ある屋敷である。
 なお庭園は、慶応三年バリで開催された万国博覧会に将軍代理として渡欧された昭武公が心をひかれた洋式庭園の長所を採り入れて造園した当時としては画期的な庭園である。
 昭武公の子息武定公は子爵を賜り工学博士号を得て後に海軍技術中尉に累進し潜水艦の最高権威として著名な方で当邸に永く居住されていたが、昭和二十六年公は当邸を市民の文化施設として利用して欲しいという意向をもつて敷地二千百余坪、建物二百三十八坪を市に寄贈された。
 市は地名に因みこの施設を戸定館と命名した。
 ここに徳川家の御厚意を後世に伝えるためこの碑を建立顕彰するものである。
                              昭和五十年二月吉日
                                        第十一代松戸市長 宮間満寿□


 園内には、戸定邸に隣接して「戸定歴史館」があり、ここでは、昭武が派遣されたパリ万博や幕末から明治にかけての古写真や、昭武・慶喜兄弟の遺品を展示し、2~3カ月毎に展示替えを行っている。<歴史館・戸定邸共通入館料>一般240円  <歴史館入館料>一般150円

高札場跡

 街道に戻って再び北に行くと、右手の現「岡松」附近にあった。高さ3m、間口5m程だったというが、木標などは無い。

周辺旧家

 高札場の左右やその向かい側近辺には、明治大正期の建物が6軒ほど残っている。進行順に記載すると
 <街道右手>・堀切家店舗 相幸酒店 、明治末期築
       ・町山家店舗 ミシン店、大正期の典型的な看板建築
       ・松戸家店舗 岡松、明治末期築
 <街道左手>・石川家店舗 石川理容、明治末期築
       ・山田家店舗 やまだ屋、明治末期築
       ・福岡家店舗 江戸期からの薪炭商、明治末期築、背後に鳥居と屋敷森

旧松戸宿本陣跡地敷石

 蛇行している「坂川」を「春雨橋」で渡った所で右に寄り道する。橋のすぐ先を右折し、伊勢丹松戸店の裏手辺り、坂川が直角に曲がる所に本陣の敷石だったという石が歩道部分に移設されている。木板墨字書きながら、次の様な解説板でもなければ気づかずに通り過ぎるだろう。しかし、この場所になぜ?疑問が強烈に残る。
                   
 敷石の謂れ
 この敷石は旧松戸宿本陣の敷地内に敷かれていたものです 坂川の清流復活とともに次世代へ歴史遺産を継承するためこの憩いの場を活用し足元に配置しました
                              平成十八年三月
                                        松戸宿振興会


寶光院

 街道に戻って、その先左手に銅拭き屋根と朱色の柱が目立つ「宝光寺」がある。「梅牛山林泉寺弘蔵坊」と言い、真言宗豊山派の寺院で本尊は不動明王。大谷口大勝院末寺である。神仏分離令以前は松戸神社の別当寺として、宝光院の歴代住職は、御嶽社(祭神は蔵王権現。現在の松戸神社)の護持と管理に努めた。現社殿を幕末期に造営した高城義海大僧正は、宝光院で出家し、後に東京の護国寺、奈良の総本山長谷寺(はせでら)や室生寺(むろうじ)の住職を歴任した明治の高僧として著名である。
 境内には、「四国八十八ヵ所御砂踏み霊場」の他、幕末三剣士の一人として有名な「北辰一刀流・千葉周作」の実父や、剣の師であり義父でもある浅利又七郎の墓がある。
 父の忠衛門(忠左衛門、幸右衛門ともいわれる)は後に浦山寿貞と改名し、馬医者をこの松戸で文化6年(1809)に開業している。松戸宿の小野派一刀流・浅利又七郎の道場に息子の周作を通わせ、才能を認められた周作は、江戸に出て中西忠兵衛道場に学び、そのご諸国武者修業を経て北辰一刀流を創始し、やがて神田お玉が池に道場「玄武館」を構えた。門下生は三千とも五千人ともいわれた。なお、若き日の周作は宝光院門前に住み、浅利道場で剣の修行に励んだが、後に流儀に対する考え方の違いから浅利又七郎に対して免許を返上している。

浅利道場跡---その先左手---

 宝光院とその先の善照寺の間に千葉周作が通ったという、小野派一刀流・浅利又七郎の道場があったが、現在では■何の表示もない。

善照寺---その先左手---

 松戸山善照寺は、流山市(旧名都借村)の清瀧院の末寺として、松戸字向山(現在の松戸東口)に創建された真言宗豊山派の寺院で、慶長16年(1611年)に現在地に移転された。
 本尊は聖観音で、境内正面の不動堂は、文化6年(1809年)に焼失後、同8年(1811)に再建されている。また、境内には「松戸七福神」の一つ「布袋尊」が祀られている。

西蓮寺---その先左手---

 光明山西蓮寺は、京都市の東本願寺の末寺として江戸時代初期、文禄3年(1594年)に三河の僧が下矢切に創建した浄土真宗大谷派の寺院で、慶長18年(1613年)に現在地に移転された。本尊は阿弥陀如来で、現在の本堂は、嘉永4年(1851年)の再建と伝えられている。西蓮寺の住職は歴代教育熱心で、江戸時代末期に本堂で寺子屋を開き、近隣子弟の教育に当たっていたと伝えられている。そして、明治6年には、近隣で一早く同寺を仮校舎として松戸小学校(現中部小)が創立されている。境内には、教え子たちの手で高等小学校第二代校長「小林鎮一郎先生」の碑が建てられ、松戸の変遷を今も見守っている。

旧水戸街道・旧松戸宿解説プレート

 「松戸駅入口」交差点の左手前角の歩道上にある。「旧水戸街道」と大きく横書きし、その下に数枚の写真と共に次の解説文が掲示されている。

                    
旧水戸街道
 江戸幕府は東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中の五つの道を「五街道」として最も重要視し、道中奉行を置き、五街道を管理しました。他に五街道に付属する街道として水戸佐倉道、日光例幣使街道なども道中奉行が管理していました。
 水戸佐倉道は、日本橋を起点に①千住を経て②新宿で水戸街道と佐倉道に分岐します。俗に水戸街道二十宿といわれ新宿から③松戸、④小金、⑤我孫子、⑥取手、⑦藤代、⑧若柴、⑨牛久、⑩荒川沖、⑪中村、⑫土浦、⑬中貫、⑭稲吉、⑮府中(石岡)、⑯竹原、⑰堅倉、⑱小幡、⑲長岡と経由して⑳水戸に入ります。江戸と水戸の間の距離二十九里三十一町(約一一七km)を当寺の旅人は普通二泊三日で旅をしました。参勤交代の際に水戸街道を利用する大名は仙台、相馬、平、土浦、笠間など二十余藩があり、大名行列では三泊四日の日程で通行しました。
 江戸川の渡し場には、「金町松戸関所」が設置され、番所は金町側に置かれていました。通行は明六から暮六までの間で、夜間は一般人の通行が禁止されていたため、都度宿の旅籠は相当繁昌したといわれます。
                    旧松戸宿
 松戸宿は水戸街道に沿って家屋が帯状に連なる携帯をしています。宿には公用の武士が宿泊する本陣・脇本陣があり、たくさんの旅籠や商家が軒を並べ、江戸末期の記録では戸数四二〇戸余りを数え、商いには二十八軒の旅籠をはじめ、鍛冶屋、荒物屋、魚屋、八百屋、酒屋、畳屋、煙草屋、蕎麦屋、髪結、桶屋、医者、大工、建具屋、染物屋、薬酒屋、油屋、湯屋、下駄屋、傘屋、質屋、豆腐屋、鞍屋奈土らゆる商売の店が軒を並べ、六斎市(月に六回開かれる定期市)も開かれ大変賑わっていました。
 また、江戸川には松戸河岸(納屋河岸)が設けられ利根・江戸川流域の水上輸送の要衝でもありました。特に銚子方面から送られる鮮魚は布佐(我孫子)で陸揚げし、平塚(白井町)・藤ヶ谷(沼南町)・金ヶ作を経由して松戸に陸送し、船で江戸へ送られました。銚子方面か江戸への輸送路は他にもいくつかありましたが、このコースが最も盛んに利用され、「鮮魚(なま)街道」と呼ばれました。
                              平成十二年四月
                                        松戸市教育委員会
                                        寄贈 松戸西ロータリークラブ


ゴール

 本日の歩きはこの交差点までとし、右折して松戸駅に向かう。駅前右角の一等地にはマツモトキヨシの店がある。創業者松本清は松戸市長時代、「すぐやる課」を作って全国的に有名になった。自分も、若い頃は千葉県のことなど何も知らず、「松戸」と聞けば「すぐやる課」という言葉しか連想できなかったことを思い出す。

 駅前で、食券方式の超合理的格安店を見つけて入店し、みんなで軽く打ち上げて帰途についた。