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旧水戸街道餐歩記〜はじめに
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 はじめに
 
 水戸街道は、江戸時代の五街道に準ずる脇街道の一つであり、御三家の一つ、水戸徳川藩が江戸と水戸の連絡のための街道で、五街道同様、道中奉行管轄下にあった。関東縦走の主要街道の一つであり、曾ては黄門様も歩き、徳川幕府最後の将軍「慶喜公」が水戸へ落ち延びた道でもある。街道名は本来、行き先名を冠したため、水戸側では江戸街道と呼んでいた。

 江戸・日本橋と水戸・本町間に次の19宿があった。即ち、江戸川から順に(1)千住・(2)新宿・(3)松戸・(4)小金・(5)我孫子・(6)取手・(7)藤代・(8)若柴・(9)牛久・(10)荒川沖・(11)中村・(12)土浦・(13)中貫・(14)稲吉・(15)府中・(16)竹原・(17)片倉・(18)小幡・(19)長岡である。この他にも「間(あい)の宿」と言われるものがいくつかあった。

 街道の距離は全長約29里31丁(117km)、但し、距離は古文書により若干異なるので「水戸市史」に基づく。昔人なら略々大体2泊3日程度の行程であり、足の速い飛脚は2日で走ったが、歩みの遅い大名行列の場合は3泊4日を要したという。街道は水戸から先も陸前浜街道として仙台まで続いている。水戸徳川家誕生以前は単に「浜街道」と呼ばれ、水戸から先は岩沼市までを「岩城街道」「磐城街道」などと呼び、岩沼宿で合流して仙台まで続いていた。ただ、水戸街道・磐城街道は奥州街道の脇道として江戸と東北をつなぐ幹線道路ではあったが、奥州街道ほどには栄えなかったとされる。
 明治に入り両街道をまとめて「陸前浜街道」として扱うようになった。水戸街道を歩いていると陸前浜街道の名前が時々出てくるのは、そうした経緯からである。
 なお、水戸藩は定府だったので家臣の往来が頻繁を極め、水戸藩江戸勤番は土浦と小金が指定の宿泊所だったが、取手・藤代・牛久・府中にも藩指定の宿泊所があった。

 宿間距離は、日本橋−(2里、別説で2里8町ともいう)−千住宿−(1里19町)−新宿−(1里30町)−松戸宿−(1里28町)−小金宿−(2里21町)−我孫子宿−(1里18町)−取手宿−(1里30町)−藤代宿−(1里)−若柴宿−(1里)−牛久宿−(2里)−荒川沖宿−(1里)−中村宿−(1里)−土浦宿−(1里6町)−中貫宿−(30町)−稲吉宿−(1里30町)−府中宿−(1里9町)−竹原宿−(1里3町)−片倉宿−(1里5町)−小幡宿−(1里28町)−長岡宿−(2里8町)−水戸、である。
 この宿間距離を合計すると、30里13町となり、前掲数字と異なる。五街道と異なり、日本橋から途中までしか道中奉行の管轄下でなかったことや、時代によって一部街道が付け替えられた部分もあり、記録が曖昧になった原因と考えられる。

 現在では、「水戸街道」と言えば「国道6号」(東京都墨田区向島〜茨城県水戸市まで区間)の愛称として用いられるが、千葉県や茨城県内では「水戸街道」の呼称はあまり用いられず、「国道6号」やその変型が主に使用される。千葉県柏市内では、今も水戸街道を「水戸街道」「旧水戸街道」「旧水戸」と呼び、1960年代には国道6号を新国道と呼ぶこともあった。また、国道6号と共に常磐自動車道もその現代版にあたると言えよう。

 東海道餐歩中の<2008.11.15(土)>夜、東京では地デジ7ch.(テレビ東京)での「街道歩き(第2弾)〜水戸街道編」を現地ホテルで少しばかり見た処、新道(国道6号)歩きのようだったが結構面白かった。帰宅後、早速録画を再生して一通り丹念に見てみた。水戸までの街道を、三田村邦彦・カイヤ・沢田雅美・長谷川初範の4人が分担して寄り道をしつつも一泊二日で総平均30kmずつを延べ8日間で旅するという内容だった。

 その結果、水戸街道に対してはそれまで殆ど無関心に近かったにも拘わらず、印象が一変し、早速研究対象へと考え方が一変した。できればオール日帰りで、昼食時間込みで一日20km以内を一つの目安にし、適当な鉄道駅(orバス停)折り返しで日程編成できないかということと、歩きに不可欠な旧街道の詳細ルート確認が必須課題となってきた。
 幸い、松戸市立博物館発行の「水戸道中宿場と旅人」中の地図や先人のwebサイトでも地図が確認でき、これらに基づき、往時のルート確認ができたのが何よりの後押しになった。

 また、崙書房出版から山本鉱太郎著「新編 旧水戸街道繁盛記」の存在を知ったことも力強い味方になってくれた。そのほか、偉大なる先人・経験者の足跡も参照にさせて戴きつつ、何とか準備を終え、この度スタートの運びとなった。2008年暮れの同期生忘年会席上での雑談で、曾て四国遍路も一部だったが同行してくれた小川氏が水戸街道同行を希望してくれたのもまた何よりの後押しで、街道餐歩仲間の村谷氏も参加希望があるとの確認が取れ、準備活動も加速していった。ただ、千住宿までは日光街道(奥州街道)と同じ道なので、既に村谷氏と餐歩済みだし、千住宿における水戸街道への分岐点もその際確認済みなので、千住宿から水戸に向けて歩き始めることにした。

 途中で臨機応変、変わるかも知れないが、およその予定として次のような7回分割日帰りコースを立案した。

 #1 北千住駅→松戸駅・・・千住宿・新宿・松戸宿
 #2 松戸駅→我孫子駅・・・松戸宿・小金宿・我孫子宿
 #3 我孫子駅→牛久駅・・・我孫子宿・取手宿・藤代宿・若柴宿・牛久宿
 #4 牛久駅→土浦駅・・・・牛久宿・荒川沖宿・中村宿・土浦宿
 #5 土浦駅→石岡駅・・・・土浦宿・中貫宿・稲吉宿・府中宿
 #6 石岡駅→奥谷バス停・・府中宿・竹原宿・片倉宿・小幡宿
 #7 奥谷バス停→水戸駅・・長岡宿・水戸