2008.04.12(土) (甲府)NTT西交差点(10:23スタート)~(韮崎)本町交差点(15:08ゴール) <第9区>13.5km 所要:4:45

先日の6日に続き、6日ぶりの甲州道中である。距離も段々遠くなってきたので、きょうはスタートを一便早め、高尾発8:02の甲府行普通列車に乗車した。当駅始発便とは言え、折からの行楽シーズンとてホームは行列状態であるが、そこは始発便なので、折良く出逢った村谷氏と二人がけシートに悠々着席。常連の清水氏は急遽決まった家族サービスで今日は参加できない。天気予報では4月下旬から5月上旬並みの気温だというので、きょうは本年初の半袖姿である。

9:46に甲府駅到着。18日から4日間に亘って予定の旧東海道109km(一日平均27km余)歩きの本格予行演習としては、今日予定の歩きは物足りない距離だが、まず、甲府駅前広場の西側の交番前にある武田信玄公の像に敬意を表し、村谷氏に信玄公像をバックに記念写真も撮って貰う。

Wikipediaによれば、
武田晴信/武田信玄
時代 戦国時代
生誕 大永元年11月3日(1521年12月1日)
死没 元亀4年4月12日(1573年5月13日)
改名 武田勝千代、晴信、徳栄軒信玄
別名 太郎、甲斐の虎
戒名 法性院機山信玄
墓所 信玄墓、大泉寺、恵林寺、諏訪湖、長岳寺、
竜雲寺、高野山、福田寺、妙心寺ほか
官位 従四位下、大膳大夫、信濃守、贈従三位
幕府 室町幕府甲斐守護職・信濃守護職
氏族 武田氏(清和源氏・河内源氏系甲斐源氏)
父母 父:武田信虎、母:大井の方
兄弟 竹松、信玄、犬千代、信繁、信基、信廉、松尾信是、
宗智、河窪信実、一条信龍、信友、勝虎
定恵院(今川義元室)、南松院(穴山信友室)
禰々(諏訪頼重室)、菊御料人(菊亭晴季室)
亀御料人(大井信為室)
正室:上杉朝興の娘
継室:三条公頼の娘・三条の方
側室:諏訪頼重の娘・諏訪御料人
   禰津元直の娘・禰津御寮人
   油川源左衛門の娘・油川夫人ほか
義信、海野信親、信之、黄梅院(北条氏政室)
見性院(穴山信君室)、勝頼
真竜院(木曾義昌室)、仁科盛信、葛山信貞
信清、松姫(織田信忠と婚約)、菊姫(上杉景勝室)

武田 晴信/武田 信玄(たけだ はるのぶ/たけだ しんげん)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。

本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系河内源氏の傍系・甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。、諱は晴信。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られる。

甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家の嫡男として生まれ、前代・信虎期には国内統一が達成され、信虎体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で対立した越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行ないつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大した。晩年には上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。

江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』に描かれる伝説的な人物像が広く浸透し、風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎(または甲斐の龍とも)と呼ばれ、強大な武田軍を率い上杉謙信の好敵手としてのイメージが形成される。現在でも、地元の山梨県をはじめ全国的に高い知名度を持ち、人気を集めている戦国武将の一人。

と、予備知識以上に凄い。

前回の餐歩記でも触れた「信玄公祭り」の“4月12日”というのは、実は旧暦の命日だったことも、今次の事前予習で判った。今風に太陽暦で言うならば、5月13日が巨星堕ちし日だった訳だ。

折角だから「甲府城趾」も見ていこうと、駅東南すぐの「舞鶴城公園」へと足を向ける。

甲斐の武田氏亡びて幾百年。爾来、甲斐の統治者は徳川幕府と代わり、直轄領だけに大城郭とは言えないかもしれないが、思いの外大規模、かつ、公園としてよく整備されており、柳澤甲斐守の居城趾が今なお形を留めている。天守閣のありし上の方へと登って行き、巨大なオベリスク様の謝恩碑の傍へと登っていく。

その二の丸にあたる場所にある巨大な水晶の塔と見まごう記念塔は、明治大帝が本県累年の水害を憐欄に思召され、三十萬町歩の御料林を御下賜になったので、その鴻思を記念するため、60万県民の赤誠の結晶としてこの塔が建てられたものの由。塔は神金産の花崗岩で、高さ30米、全体が一つの石で作られ、エジブトのオベリスクにも比すべき意義ある記念碑である。

また、ここには「甲府城御案内仕隊(こうふじょうごあんないつかまつりたい)」という、甲府城趾(舞鶴城公園)案内ボランティアグループの活動があるそうで、稲荷櫓の閉館日(月曜日(祝日は開館)、 祝日の翌日、12/29~1/3)を除いて、次のとおり、料金無料での案内活動をしていることが判ったが、事前予約も無ければ、1時間半もの時間を割きたくない我らは、フリーに駆け足見学を当然とする。

1 定刻の御案内
  1日2回、午前10時と午後1時30分に稲荷櫓前に集合した方を対象に甲府城内をご案内。(自由参加 所要時間1時間30分程度)
2 予約による御案内 年間を通じて実施
  次の時間内でお客様の都合の良い時間帯にご案内。
  午前9時~午後4時30分(7月~9月は午前9時~午後5時00分)
3 予約申込方法
  申込書に記入のうえ、希望日の10日前までに、FAX、メールまたは郵便で申し込み。
4 予約申込先 
  山梨県観光物産連盟 電話055-231-2722 FAX055-221-3040
  Eメール kankou-info@yamakanren.jp

ここが舞鶴城公園と称される所以は、甲府城が別名舞鶴城と言われていたことによる。
   
城主・・・浅野長政・幸長、徳川家康、徳川忠長、徳川綱重・綱豊、柳沢吉保・吉里、以後は甲府勤番
   現存・・・石垣と堀
   復元・・・稲荷櫓、稲荷曲輪門、鍛冶曲輪門、内松陰門


で、歴史的に言えば、

1582年に武田氏滅亡、直後に本能寺の変で信長も滅び、豊臣政権支配下で、加藤光泰および浅野長政らが躑躅ケ崎の武田館から南の一条小山に築いたのが甲府城の初めとされる。しかし、加藤は武田館の修築に力を注ぎ、甲府城には着手していなかったという説もある。(実際、武田館には豊臣時代に築かれた石垣造りの天守台がある。)そんなわけで、甲府城の築城には、浅野父子の力が大きかったとされる。

関ヶ原後、東軍に味方した浅野氏が加増転封の後、甲府は家康の支配下に入り、尾張徳川の祖となった義直、秀忠の3男忠長らがあいついで城主となった。綱豊が6代将軍家宣となったあとは、綱吉時代に権勢をふるった柳沢吉保が川越から入った。この柳沢時代に城の修築、城下の整備が進められた。現在残されている甲府城のもっとも詳細な絵図は、柳沢時代の「楽只堂年録」に収められているものであり、城内の曲輪名もこの時代のもので呼ばれるのが普通である。柳沢時代は吉保の子・吉里が1724年に大和郡山に転封されたことにより15年で幕を閉じ、以後甲府城は幕府直轄下で甲府勤番の支配を受けることになる。


当然、近世以降の開発による面積縮小などで往年の偉容は無いが、甲斐の国に来て甲府城だけは甲州街道から観ておきたかったし、たまたま前回の街道歩き終着点(今回の歩行起点)である「NTT甲府支店西交差点」への往路途上でなくもないので立ち寄った次第で、二人共々満足感に浸りながら、今日の歩行起点へと向かう。


時刻は10:28。「NTT甲府支店西」の交差点で、東方から来た甲州街道は直角に南方向に折れ、南方の遊亀公園方向へと続く遊亀通りへと入って行く。舞鶴城公園の出口にも遊亀橋というのがあったが、「遊亀」というのはどういう謂われがあるのだろうか。

甲府ワシントンホテルプラザが右手に大きく聳えている通りだが、ここが往時の甲府宿の中心地で、ホテル向かい辺りに、本陣藤井屋庄太郎と脇本陣佐渡屋幸三郎があったそうだ。しかし、今はそれを示す案内板は捜したが何も見つからない。6日の日に、先ほどのNTT西交差点まで歩いてきた時も、甲府市は甲州道中の保存・管理に不熱心な感を受け残念に思っていたが、旧宿の中心地ですらこんな有様では非難のそしりは免れまい。

ところで、次週18~21日予定の東海道歩き(見附宿~宮宿歩き)でも通る岡崎宿の27曲がりには遙か及ばないものの、この甲府宿も4回ほど曲がらなければならない。まず今日の街道歩き出発点であるNTT西交差点左折が1回目で、2回目はこの宿中心地の遊亀通りと交差する銀座通りを越えた先の問屋街入口交差点右折で、3回目がうなぎの若荒井桜町店に突き当たって左折、4回目が徒歩1分弱で出る大通りの桜町南交差点右折である。

ここを右折してまっすぐ行き、歩道橋のある国道52号(美術館通り)と358号(平和通り)の交差点(右折すれば甲府駅への道)相生歩道橋交差点に出た。本当は、前回の歩行終点として予定していたポイント地点だ。ここを渡るには、歩道橋を文字通り上り下りしなければならないが、なんなく階段を上る。

この相生歩道橋から国道52号を西に向かい300mほど行くと県民ホール辺りで鳳凰三山が行く手に顔を出した。鳳凰三山というのは、南アルプスの北側に連なっている、薬師岳・観音岳・地蔵岳の三つのピークであり、中でも最北に位置する地蔵岳山頂にはオベリスクと呼ばれている岩塔が立ち、韮崎あたりの山麓からなら、その特異な姿を見ることができるようで、今日の楽しみの一つであったが、先週とは異なり、今日はやや雲が有り、見通しも良好とは言い難く、残雪に蔽われた銀嶺の山並みがくっきりと映えるという程まではいかず、ややうっすらと臨める程度である。

石造の道標があったので見ると、「左みのぶみち、右しなのみち」とあった。市の中心部というのに、しっかりとした土蔵が残っている。やがて国道52号が左に大きくカーブして行くと、今度は白根三山も現れる。右に、富士山についで高い北岳(3192m)がある筈だが、手前の山に隠れていて見えない。見えるのは間ノ岳(3189m)、中央は農鳥岳(3026m)で、共に3000mを超え、南アルプスを代表する山々である。

実は白根三山と称される3つの山とは、赤石山脈の主脈である白根山稜にある北岳、間ノ岳、農鳥岳をいうそうだが、文献によれば、ここには3000メートル峰がなんと5峰も連なっているのだそうだ。その5峰を北から列挙すると、3192mの北岳、3055mの中白根山、3189mの間ノ岳、3051mの西農鳥岳、そして3026mの農鳥岳ということだそうな。

荒川に架かる荒川橋を渡る。荒川橋の上からは、右から甲斐駒ケ岳、鳳凰三山、間ノ岳、農鳥岳と雄大な山並みが広がり、胸がすーっとする。この荒川は奥秩父の金峰山に源を発しているそうで、かの有名な昇仙峡を下って、笛吹川へと合流し、更に釜無川と合流して富士川となり、駿河湾へと注いでいく雄大な自然の旅人である。

この荒川橋の中ほどに、珍しくバス停があると聞いていたが、雄大な山容観賞に気をとられ、うっかり見忘れたが、通り過ぎて後方を振り返ると、それらしきバス停の看板が見えた。そこからは霊峰富士の雄姿も見られるらしいが、今日は曇天混じりというか、雲もあってか見えない。
更にすぐもうひとつの川、貢川(「くかわ」と読むらしい)に架かる貢橋を渡るが、ここから県道が国道と分岐し、国道も急に幅員が狭くなる。その古い橋の欄干袂で道路工事関係の年配男性が、「何処へ行くの」と聞いてきたので、「かくかくしかじかで日本橋から歩いてきてもう140km。これから下諏訪を目指している」旨答えると、超びっくり感嘆していた。一般の人から見れば、超変わり者、超暇人と見るのだろうか。歳は我らより先輩と見受けた彼は、まだ立派に社会のお役に立っている現役だった。

上石田で道は一旦左カーブし、またすぐ右にカーブするが、その左カーブ地点右側に、天然記念物「上石田のサイカチ」の木があり、甲府市の有形文化財に指定されている。説明板によれば、

過去にさかのぼると、この地は貢川の河川近くであったが、河川は整備され、今は市街地となった。サイカチは、川岸の湿ったところに生える木で、この場所に本樹があるのは昔の自然の一部を残したものである。また、大小二本そろって生えているところから、地元の人々は夫婦サイカチと呼んで親しんでいるが、両樹とも雌木である。樹齢は両樹とも約三百年と推定される。

とあり、高さは、北樹5m、南樹6mだそうな。


著名メーカーのカーショップが多い貢川交差点を過ぎると、それまで曲がりくねっていた国道52号(美術館通り)は真っ直ぐな道になる。
前田橋南交差点の先で、右手にクリスタルミュージアムが現れる。500円の入場料を払ってまで見るほどの趣味のないわれらは、その横の「芸術の小径」看板に誘われて細い小径を入ると通脇に芸術作品らしき人物像が4体ほど座していて、更に進むと裏手の貢川遊歩道まで芸術の道が延びていて、近隣の人々にはいい散歩道になっていた。

そろそろ休憩でもとりたいと思っていたら、そのちょっと先左手に「芸術の森公園」が現れる。そこには、県立美術館をはじめ、県立文学館・茶室(素心庵)・・日本庭園・こだま広場野外ステーシ、さんさん広場・彫刻・バラ園・などが広がる、金のかかった「芸術と憩い」の楽園である。石のベンチに腰掛け、暫しの休憩をとった後、美術館の周囲には多い彫刻の中でも、ひときわ目を引く岡本太郎の作品「森の人」や、エミール・アントワーヌ・ブールテルの「ケンタウロス」と題する人面馬体の像ほかを観賞し、出立。この美術館通りは、このあたり道も広く感じの良い歩道をのんびり歩いていける。

貢川団地入口交差点の先で、甲府昭和インターと双葉SAの中間に当たる中央自動車道をくぐる辺り、その背景に鳳凰三山が雄姿を覗かせる。高速道を潜る手前が、甲府市から甲斐市への行政界。くぐって50m程先の土蔵の陰に日蓮の五百年と五百五十年、二つの遠忌碑が建っている。

右に健康ランド名取温泉、更にコンクリート造りのいかめしい竜王郵便局の建物が現れるが、その先が竜王駅前交差点で、ここを右折300mでJR中央本線竜王駅になるが、その道は再開発でもするのか、古家が立ち退いた跡ばかりで殺風景で、駅前通の雰囲気は皆無だった。

そろそろ昼時なので、先ほどから通りの左右をきょろきょろしながら歩いてきたものの、これという決定打無きままその交差点を左折し、国道20号の通りに出ると、手頃なラーメン屋がすぐ見つかり、早速入店。ジョッキの生と醤油ラーメン&餃子でパワーを充電する。

我々は、再び先ほどの竜王駅前交差点へと、本来の街道に戻る。ここを左折してちょっと先の竜王新町交差点を右折して双葉方面へと向かう。60m程も進むと、右に井戸のような物があり、説明版によれば、ここは、竜王新町下宿道祖神場といい、ここには三つの古跡があって、地元の人々に大切に保存されていた。
  
古跡保存標識
 1、名称「竜王新町下宿道祖神場」
  ※(1) 道祖神、丸石神体径45cm(銘)衢神、文正文七申極月、氏子中
   (2) 白檀古樹(種別大木)目通130cm 樹齢約200年、主幹奇形
   (3) 古井戸、明治初年掘削、コンクリート巻、枠径96cm近辺共同井戸、現不使用
 2、所在地 竜王町竜王新町元免許325-2番地(地積6坪)
 3、由来
   ここは江戸時代村人の互助的な集会協議実行の場所として地域発展の基点となった「寄り合い場」である。村の道路に河川、農産、慶弔交際  または、盆、正月、祭、相撲大会などすべてのことがここで民主的に協議されたものである。
   ここ往時五十坪の地積であったが大部分が道路用地となったのでこの由緒ある地積を保存すべく、昭和八年小菅貞三氏等の主唱により大蔵省  から払い下げ、十人の共有地となっている。
   以上の理由により、町内にも他に例の無い地域発展の基点であった貴重な古跡であることからこれを将来に保存すべく「保存標識」を設置するも  のである。
          平成二年十一月 竜王町竜王新町五区


更に、同じくその先左手の「必得山称念寺」境内に「お休み井戸」なるものがあった。正式名称は「くり抜き石枠井戸」と言い、甲斐市の指定文化財になっている。現存するものは極わずかで、上水道が引かれるまで付近の生活用水として使われていた。また、江戸時代には甲州街道を旅する人々が(この先の急坂)「赤坂」を控え、また下ってきて喉を潤したことからお休み井戸と呼ばれていたそうで、その歴史は概ね400年と推定されている。

また、称念寺門前の掲示板には、小生好みの「お言葉」が掲示されていた。何と、意味深なことよ。
   
失意の時は黙坐する
   失意に徹して磨かれ
   得意の時は反省する
   得意に処して育つ


称念寺から100mほど進むと、JR中央本線踏切を越える。右側はすぐ竜王駅で、我々の進んでいる道は北西方向である。この辺りは最右手の中央自動車道、そして次が我らの進む旧街道、そしてJR中央本線の線路、一番左手が釜無川と、おおざっぱに言えば4本並行区間である。

不思議なのは、意外と車の通行量が多く、神経が疲れる。今日のウォークは全く国道20号と関係ないので、のどかな旧道歩きが楽しめそうだと勝手に期待していたのだが、地図で見ると今歩いている道も一応は国道(52号)であり、やむを得ず程もない国道だが左手を歩いて後ろから来る車に大きくよけて通って貰うことを期待した。

実は、一見、対向車を自分の目で確認できる右側通行が気分的にも落ち着くし、安全と考えるのが普通なのだろうが、延々1200kmの四国遍路道を歩き通し、しかも過半を占める(歩道無き)国道歩きをしたわが経験からすれば、歩道無き道(あるいは幅の狭い歩道)では、左側通行をしたほうが、後方から来るドライバー達は、大きく距離を開けて横を追い抜いていってくれるものであり、「歩行者が目で確認しているはずだから」とドライバーに思われて、横をぎりぎり通過される右側通行よりも遙かに「安全」であると言うのが、わが経験から来た持論なのである。

さて、事前に知っていたが、距離700mを標高差70m(海抜280mから350mまで)で登る「赤坂」にきた。
「平坦な街道歩きに慣れてきた我々の前に現れたその坂は、壁のようにそそり立っている。」という人もいるようだが、実態は、登りに強くない小生ですら、全く大したことはない。高尾山の1号路の最初の部分程度の勾配で、車にとってはきつかろうというのが率直な印象で、苦もなく登っていける。
坂の途中から振り返れば富士山が見えるそうだが、きょうは霞んでいて全く富士山の姿は見えない。

赤坂の中ほどに赤坂供養塔がある。、高さ4.3m、幅1.12m、厚さ0.38mと巨大で、表に南阿弥陀仏と刻まれている。安政年間の建立で地元住人38名の名も刻まれている。もう少し登ると今度は諏訪神社がある。金比羅さんとか熊野神社とか、よく各地で見かけるが、さすがにここまで来ると諏訪神社なのかと思った。諏訪大社から勧請を受けた諏訪神社は全国に約2500社あるそうだが、この諏訪神社もそのひとつらしい。正面には平成16年の秋季御柱大祭のときに建てられた御柱二本があった。

諏訪大社の御柱祭はあまりにも有名だが、こうした小さな諏訪神社でも小さな御柱を曳いて、同じ祭りを行うものと見える。この諏訪神社には、そのほか赤ちゃんが生まれたときの命名の札が納められているそうで、「奉祝 悠仁親王殿下御誕生」の幟もはためいていた。

諏訪神社を過ぎると、たしかパソコンソフト関連企業だったと思うが、HAL研究所前に着く。この辺りから坂はだいぶ緩やかになり頂上の赤坂台総合公園入口へと目指す。

公園の入口交差点にはクリーンエネルギーセンターがあったが寄り道することなく通過。県内18ヵ所の発電所の集中監視制御を行う制御所で、自然エネルギー啓発のための展示室を設けているらしい。

右に赤坂台病院を見ながら、更に緩やかに登って行くと、ホテルがあり、その後ろのセブンイレブン辺りが頂上である。街道はそのまま真っ直ぐ進み、左に下るのだが、ここで通行する車の多い理由が判った。中央自動車道双葉SAが近くにあった。

セブンイレブンのある交差点を過ぎると、高速道路と平行に進む道と、斜め左に緩やかに下り道に分かれる。鳳凰三山が正面に高く聳え、坂道を下って行くと、少しずつ立派な蔵のある家々が出てくる。枡形のようなカーブを曲がると、今度はやや登り坂となる。下今井で寺町と呼ばれている地域である。

その寺町で右手に自性院という寺があったが、その参道が明和二年(1765)からの石畳で、240年もの歴史があるそうだが、破損を防ぐため、その参道への車の乗り入れは厳禁との立て札があった。

上空高速道を潜るとJR線路を潜る道は車用と人用に分かれている。このトンネルも明治期に作られたようで、煉瓦を使った造りだった。
トンネルを抜けると、近接してきた国道20号に遠ざかるように右へ進む。

  

JR中央線と通っている県道との間に「泣石」という、高さ約3.8m、幅約2.7m、奥行き約3.7mの大石があった。中央部から水が流れ出ていたが、鉄道の開通により水脈が断たれてしまったとのことである。

 
天正10年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて落ちのびて行った。
 その途中、勝頼夫人はこの地で燃える新府韮崎城を振り返り涙を流したという言い伝えがある。
                                 甲斐市教育委員会


泣石からちょっと行ってJR塩崎駅を過ぎ、小川を渡って程なく進むと、右側に用水路が合流してくる。その場所に立つのが、三界萬霊塔。その先街道左側には思わずうなりたくなるような蔵屋敷群が並ぶ。

双葉西小学校を過ぎると、船形神社の石鳥居がある。右側の神社へ向かう参道の入口にあり、手前に大きな木があった。どっしりとした横幅の割りには高さがなく、妙に小さな変わった感じである。室町時代の造りだそうだから驚く。
左にセブンイレブンがあり、その先の六反川の手前の双葉電気を右に入ると、交差している六反川に架かる派手なピンクの橋の手前左に、芭蕉の句碑があった。

   ひる見れは 首すし赤き 螢かな

六反川に蛍がいるを聞いて訪れた時刻には、光る蛍を見れなかった芭蕉の残念そうな顔が浮かぶ一句とみた。

この川を渡って2分ほどすると田畑交差点。ここで旧街道は右へと別れ、金剛地の集落へと向かう。やがてY字路に突き当たる所に2基の二十三夜塔があった。右へ行けばJRの線路なので、左へ進んでいく。

金剛地では旧街道らしい街並みが400mほど続く。坂を下った先で、先ほど別れた県道に合流し、やがて塩川に架かる塩川橋を渡る。

この上流には、観光客に人気の清里や野辺山があるが、川は結構大きく、渡り終えるまで時間がかかる。通算150km地点で、今日のゴール韮崎まではあと2kmちょっとになる。あと残る部分は単調な車道歩きになるが、橋を渡ればいよいよ韮崎市である。

韮崎市街に入ると街並みが整っている。歩道は両サイドとも明るいカラー煉瓦様で、デザインタイルも埋め込まれ、家々や商店の外観にも一本筋の通った一貫性が感じられる。そして、何よりも電信柱のない、すっきりとした美しい街並みなのである。

下宿から今日のゴール「本町交差点」への途中、眼科医院の前に「韮崎宿本陣跡」があったが、単なる石碑のみで、当時の面影は皆無だった。ゴール地点「本町交差点」に着いたのが14:59分。そこを右に入ると韮崎駅だが、思っていたよりも距離があり、JRの高架を潜って右に回って漸く辿り着いた韮崎駅だった。

予め調べていた帰途便は、15:08、次便が15:42発なので終盤急ぎ歩きしたが、駅売店で500ml缶のビールを買ってホームに上がったら、丁度立川行き列車が入線してくると言うタイミングぴったりの帰途便となった。今日は距離も短いので、折からの暑さと喉の渇き癒しに多めの休憩をとりながら歩いたが、「こんなにぎりぎりになるのなら、もうちょっと何とか時間コントロールできたのに」と思わなくもない程、ぎりぎりだった。

村谷氏は、明日の桃観賞桃源郷歩きのため、甲府駅前のビジネスホテルを予約済みなので、ビールを飲み終わるか終わらないかの間に甲府駅で下車した。甲府駅での停車時間がなんと10分ほどあったが、その先、停車の度毎に行楽帰り・山歩き帰りの客で、立ち席まで満席状態になる列車で、17時過ぎに無事高尾駅に着き、自宅には18時前に悠々間に合った。

帰途列車へのぎりぎり乗車で、土産を買う時間も無かった日に限って、「じーじー、おみやげは?」と問われ、失望させてしまった。そういえば、前回も前々回も何らかの土産を買って帰ったので、余計がっかりさせてしまった。予て孫に約束していた明日の高尾山引率もどうやら天候不良で中止になりそうだし、こちらは骨休めになりそうだしで、痛し嬉しの複雑な心境を味わうこととなった。

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甲州道中餐歩記~9
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