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甲州道中餐歩記~10
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2008.04.25(金) (韮崎)本町交差点(10:50スタート)~台ヶ原宿・梅屋旅館(15:49ゴール) <第10区-1>18.1km 所要:4:49

高尾駅8時46分発の普通列車小淵沢行き2号車で、常連メンバーの清水・村谷両氏と出会い、10:38、前回の終着点韮崎駅に到着。車中では、1週間前の東海道歩きの今後の続け方や、甲州道中の次回(最終回)日程等について打ち合わせを行う。

1月に日本橋をスタートして以来、210.8kmのうち152.1kmと7割強の行程を消化してきたが、今回は、初めて1泊2日コースでの餐歩であり、四国遍路時に讃岐路に入った瞬間に味わい始めた「残り少なきを憂う」寂しさを実感し始めている。今回の一泊二日旅が終われば、残り距離は1割だ。

車窓から見える空は曇天ながらも、笹子峠を越えた先は晴れ間もちらほらし始め、快方に向かっている。

韮崎駅からは高架をくぐり抜け、きょうのスタート地点「本町交差点」までの500mを、コンビニを探しながら歩くが見あたらない。10:50、本町交差点をスタート。路の両側に植えられた花水木が彩り鮮やかに街を彩っている。

先ずは交差点から50m先の右、窟観音のある雲岸寺へ立ち寄る。なんでも、須玉に海岸寺という標高1000m地点に立つ寺があり、その昔、二つの寺の命名書を京都から持参してきた僧が、間違えて渡したとの伝説があるらしい。釜無川の畔にあるのが海岸寺で、標高1000mにあるのが雲岸寺がというのが本当だという話だそうだが、ここは355m程度に過ぎない。

山門とも鐘撞堂とも見分けのつかない堂をくぐり、ま新しい本堂を左手に見て奥へ進むと、崖にへばりつくように観音堂がある。急階段を登って観音堂へと行くと、凄い。

入口の扉を自分で開けて中に入れる観音堂は、堂の上部に丈夫な屋根がある。崖に掘られた穴の中に、いくつかの仏像が安置され、それを崖に貼り付いた堂で覆っている感じだ。はじめに小さな千体仏が並んだ窟があり、朱色に塗られた木の扉を開けてお参りする。その右手には本尊である窟観音本尊聖観世音菩薩。 石仏だが冠だけが金色である。一番右手の窟には828年に弘法大師が作ったと言われる弘法大師御尊像。もちろん賽銭を入れ、今次餐歩の無事を祈願して堂を後にた。

堂の隣や石段を下りた下側にも、奥へと続く洞穴が口を開けていたが、韮崎駅方面に抜けられる道のようなので、パスして元の街道に戻る。
再び甲州道中を進み、100mほど行くと左手の樹木の中に「小林一三翁生家跡の碑」がひっそりとある。ご当地の商家生まれの小林一三(いちぞう)は生後間もなく実母を亡くし、父とも生別して、おじ夫婦に育てられ、慶応大学卒業後、三井銀行に入行。その後大阪で、箕面有馬電気鉄道を買収し専務となり、その後、阪急電車と社名変更。阪急ブレーブス、宝塚歌劇団などの創始者としても超有名な実業家だ。

 高さ40m位ありそうな崖が街道右手にに近づいてくる。下の家は怖くないのかなぁと思う。

この崖は、「七里岩」と言って、この先七里にわたって連綿と続く、山梨県峡北地方にある台地であり、具体的には、広義には長野県富士見町から、山梨県北杜市の小淵沢町、長坂町、大泉町、高根町と須玉町の一部を経て、韮崎市の中心地まで達する台地のことを指し、八ヶ岳泥流と呼ばれる火砕流が形成した台地である。

南側には釜無川、東側には塩川が流れ、それぞれ侵食崖を形成しており、狭義には、釜無川の侵食で形成された、川沿いに連なる高さ10mから40mの断崖のことをいう。南北の長さが30km(約7里)にも及ぶので、七里岩という美称がつけられたとされる。また、台地の形が舌状であり「韮」の葉に似ているので、その先端部のある地域を「韮崎」として、韮崎市の地名発祥のひとつになったとも言われているようだ。

台地上は一部に残丘を残し、おおむね平坦だが、水利に恵まれていなかったので、台地南部の韮崎や須玉地区は近代に入るまで開発が進まなかった。現代では、桃などの生産が行われている。第二次世界大戦中には防空壕としても利用された。

ところで、この右手に見える七里岩は、今次二日間の餐歩途上、常に我らの視界から消えないご縁ある天然記念物となったのである。

この七里岩は、当然トンネルなくして向こう側へは抜けられない「地域文化の障壁」だが、最初のトンネルへの分岐点が一ツ谷交差点である。
ここは、今まで歩いてきた旧道が国道20号とトンネル方面への国道141号に交わる交差点で、角にラーメン珍珍珍があったので、先行きの不明な歩き旅とて早めの昼食に立ち寄る。時に11:18だ。この先は山裾の道となる筈で、食堂など無いと判断しての早めの腹ごしらえである。

我らには珍しく、ビール無しの味噌ラーメン・餃子で満腹になり、11:39再出発。

 一ッ谷から20号をちょっと行くと右手に「十六石の史跡」。武田信玄は治水にも力を注いだが、まだ晴信といわれた若かりし頃(天文12~13年頃、釜無川の水害から河原部村(現韮崎町)を守るべく、現・一ッ谷で治水工事を行った。その堤防の根固めに使った巨石が十六石である。

傍らには大きな石が鎮座していたが、大きさは人の半分程でとてもこれが十六石のひとつとは思えない。

山梨トヨペット・トヨタカローラ山梨・ネッツトヨタ甲斐などが並ぶ国道を進むと、右手に生コン工場が現れ、その構内へ少し入って左側に3基の石祠がある。かなり古そうな祠と石門で歴史を感じさせるが、説明板も無く詳細は不明だったが、水神宮とあったところから判断すれば、釜無川の洪水やそのための治水祈願と関係がありそうに思える。

その生コン工場の先で道はY字路になり、旧道は右へと分かれる。その間に石碑があり、水難供養塔とあるが、これまた説明板がないので、詳細は不明である。
 
11:57、ガソリンスタンドの先に、この先しばらくないコンビニ、セブンイレブンがあったので、地図を携行していなかった清水氏用のコピーをとるべく立ち寄り、ついでにトイレも借用する。

河岸段丘のような七里岩は延々と続く。約20万年ほど前、富士山ほど高かった八ヶ岳の噴火に伴う土石流が韮崎に向かって下り、甲府盆地を埋め尽くし、最大200m程もの厚さで、韮崎から甲府を埋め尽くしたものの、その後釜無川や塩川に侵食され、延々と断崖が続く七里岩を形成したのである。

ここから再び旧道に入った集落が下祖母石である。歩く人も見かけず、ひっそりした佇まいだ。この集落は1800mほど続きますが、ところどころに蔵屋敷があり、静かな風情ある旧道である。珍しい藁葺きの門のある宮方家は、三十代も続く旧家だとのことである。
まもなく、12:15,左手に神明宮、その先右手には七里岩をバックに南無阿弥陀仏の石碑が現れる。その段丘の上には、新府城跡があると思われる高所が見える。

395mの水準点を過ぎ、更に進むと、国道20号線と合流し、その先は釜無川となる。昔はここで釜無川を渡って対岸の街道へ向かったのだろうが現在はここから渡ることは出来ない。20号との交点に行くと、そこには九頭竜大神を筆頭に5基の石碑が並んでいる。

国道と合流してUターンし、12:31に桐沢橋東詰から信号で20号を横断し、釜無川を渡る。橋の長さは約300m、渡りきると正面の青木鉱泉の案内板を見ながら、右へと進む。すぐ左に大きな地図「清哲町の案内図」がある。何ともかっこいい名だ。

新道の下をくぐって、左上に小さな神社を見ると二手に分かれる道を右に進み、高川南沢橋先のY字路を左の折居集落へと向かう。傍らに顔も字も判別不可能な古い道祖神がある。一体われら旅人に何を語りかけているのだろうかと思うが、すっかり現代から取り残された寂しい存在に思えてならない。

折居集落は約500mほどの小集落だが、蔵や松、庭など、大変風情のある集落である。抜けると先ほど右へと去った道と合流。その先で街道は再びY字路に出逢い左へと進む。13:01、唐沢橋で5分休憩。この橋から200mで、甲州街道は初めて徳島堰と出会う。ここからは、全長17kmにも及ぶ徳島堰に沿って進むことになるが、徳島堰とは、その先に立っていた説明板で後ほど明らかになった。

 徳島堰由来

この堰は古くから日本三大堰(柳川堰、箱根堰、徳島堰)中、随一と言われています。
三百三十年前、江戸の住人徳島兵左工門がこの地方の開発を計画し、幕府(甲府藩)の許しを得て、寛文五年(1665)工事を始め、同七年に上円井(韮崎市円野町)より曲輪田の大輪沢(櫛形町)まで約17kmの堰を造りましたが、何故か兵左工門は同年秋工事から手を引きました。その後甲府藩では有野村(白根町)の郷士矢崎又右工門等に命じて全区間の不良箇所の修復をさせ同十年に完成したので、この堰を徳島堰と名付け兵左工門の功をたたえましたが、兵左工門は工事に私財を使い果たして生活は困窮しました。
当初約350haの耕地はその後増加し水路は老朽化したので、昭和四十一年より九年の歳月と■億5千万円の巨費を投じて農林省によって改良工事が行われ、昭和四十九年に完成しました。現在毎秒7.96m3の水が自動的に流れ、田1559ha、畑2052haの沃野がこの堰の恩恵を受けています。水辺に立って豊かな水の流れを見つめると先人の功績が偲ばれます。(文責歌田)

       平成七年八月吉日         平成かかしカーニバル実行委員会建立


 ここは標高445m、釜無川の取水地点が455mであり、3800m流れて、たった10mしか下がらない。ません。この付近の釜無川は410m程なので45mは下った計算になり、徳島堰がいかに計算し尽くされた用水路かが分かる。徳島堰は、よく見ると、全体に勾配が付いているのではない。所々に小さな堰があり、そこで落差を吸収している。延々と続く徳島堰の水勢は、驚くべき精緻な計算し尽くされた構造によってその水勢を保ち、下流へと大量の水を運び、人々の生活を支えているのだ。正に「治水」の極致といった感が強く、70年近い人生で味わう久々の感動だ。旧街道餐歩の醍醐味を、きょうは七里岩と言い、この徳島堰と言い、たっぷりと味わわせてくれ、清水氏からも「おかげさまで・・・」と感謝の言葉を貰った次第である。

 集落の道が県道に合流した直後、徳島堰は前方の戸沢川を迂回するように左へ向かうが、それに沿った道が甲州道中で、上円井集落までは徳島堰を左に見て進む。

左手の円井逆断層の案内板を左折していくと、道の下を徳島堰が暗渠となって通っている。我々は徳島堰の上を飛び石伝いに歩いて戸沢を渡るが、水量豊富なときは県道まで戻って戸沢橋を渡るべきと思われる。

渡って左へ登り、簡易舗装の急坂をUターンするように登りきると下円井集落である。ここも小さな集落だが、洒落た土塀や石塀が多い。その先、道は火の見櫓の所で小さな枡形になっていて、秋葉山常夜灯がひっそりと立っていた。
火伏せの神を祀る秋葉神社に因んだこの常夜灯は、これまでも各地で見かけたが、もともとは静岡県春野町にある秋葉山三尺坊大権現という火災防止の神様を参拝する人への道しるべだった。

街外れに来ると、コンクリートの暗渠が徳島堰から右手の川に続いている。これは徳島堰の水量調節のための逃がし路で、水量増水時にここから釜無川へ放流するようだ。その先で暗渠から顔出しした徳島堰が現れる。そこには「徳水不息」と書かれ、山からの自然湧水による川と徳島堰の交差点にあるサイフォンになっていて、これまた感嘆する。全長17kmもの徳島堰は、途中何度も西の山から流れ出る川を越えてゆかねばならず、必ず交差点に遭遇するが、そこにはサイフォンという秘密兵器の伏せ越しがあり、川の下を暗渠となってくぐっていくのだ。
現在ではコンクリート製トンネルだが、江戸時代は大変な難工事だったこと、想像に難くない。

やがて前方に「かかしの里」と描かれた大きな看板が見えてくる。徳島堰は曲がりながらゆっくりとこの看板に近づいて行く。傍には黄色の大きなモニュメントがあり、ここは平成かかしカーニバルの会場で、毎年9月上旬に200体ものかかしが、この看板の下の田んぼに並ぶ由。

その隣には水土里ネット「円野町」の大きな案内板があった。農業生産に必要な用水・排水・農地の整備を行うために組織された農家の人たちの集まりである土地改良区には、昨今、一般の人たちも住むようになり、共存が大切となってきたので、そのPRをし理解を得ようと言うのが水土里ネットと言うことのようだ。

その先の徳島堰の脇に徳島堰を解説した案内板があった。費用の億円の前の数字が何故か消えていた。
寺沢との交差点に再びサイフォンがあった。やがて街道は、桜並木のトンネルとなり、国道20号を潜って向こう側の上円井の集落へと向かう。

徳島堰はそのまま真っ直ぐ進んで釜無川の取水口へと向かうので、ここで悲しき別れとなる。その先左手に妙浄寺への入口がある。かなり狭い路地だが、途中でおばあちゃんが道ばたで休憩しているので挨拶して妙浄寺へ向かう。

                    日蓮宗清水山妙浄寺縁起

当妙浄寺は、万治年間今より三百五十余年前に江戸深川の人で豊臣方の残党と云われる徳嶋兵左ヱ門俊正が、当地に来たりて推理事情が悪く、農耕を困難している釜無川右岸地帯の農民をしのび、潅漑用水堰の開発を計画され、其の完成を祈念して江戸深川(今の東京都)法華山浄心寺第二世日通上人の開眼に成る、立像の七面大明神を勧請して堰の守護神として建立し、現在でも徳嶋祈願所として祈祷が奉行されている、他にない祈祷所で身延直末寺院です。
徳嶋堰は当円野町上円井、妙蓮寺正面釜無川取水口より延長四里半(十八キロ)白根町曲輪田新田迄で、其の潅漑面積は一千町歩(一千ヘクタール)近くある、規模と云い其の事業の成績と云い、本県に於て最もすぐれた用水堰です。
徳嶋兵左ヱ門俊正翁は工事の途中諸事情から幕府の圧政にあいこの地を去り妻女妙浄尼に其の総てを委ねたので、当地の身延山法王日莚上人より妙浄寺の名称を賜る。
本堂には当時勧請の七面大明神が安置され末法総鎮守願満七面大明神と称せられ霊験顕著を以って知られ、遠近信徒の深い信仰を詰めている。
又、境内には徳嶋兵左ヱ門翁夫妻の墓所 鐘楼堂 及び大顕彰碑が現存し翁への深い尊敬と感謝が払われている。

                                         清水山妙浄寺一九世 荻原日尭記之


境内裏手にひっそりとある徳嶋翁夫妻の墓には、われら3人揃って合掌参拝し、その偉業と艱難辛苦に深甚の敬意と謝意を表した。

14:15、街道に戻って少し進むと右側に海鼠壁の立派な家が現れる。これは凄いと門内を覗き込むと、ここは明治天皇の小休所となった内藤家で、立派な石碑が見えるが、肝心の内藤家の家屋は無く、立派な門から中は空き地になっていたのでビックリする。
そこから200m足らず、上円井信号で国道20号に合流し、程なく小武川に架かる小武川橋を渡ってすぐ右折して旧道へと進む。この橋から先は韮崎市と別れ、北杜市武川町となるが、すぐまた左折して国道と並行する形で西進し、14:34黒澤橋通過。

再び国道20号に合流する直前の右手に小さな石碑がある。甲州街道一里塚跡の碑で、甲府より六里なので六里塚とも言うそうだ。

国道20号をしばらく行くと、再び右手の旧道に入る別れ又に、道の駅ならぬ町の駅がある。武川町農産物直売センター「武川村米の郷」だ。14:45から10分間休憩。冷たいアイスが旨い。幻の米、武川米を販売しているが、送料・箱代・代引き手数料など考えるとちょっと高いが、一応パンフレットだけ貰っておく。なまこ壁のトイレも完備しており借用する。

ここ牧原集落のの旧道は840mほどで一旦国道へ戻るが、歩道橋の下をすぐまた旧道へと入り、今度は2~3分直進。そのままゆくと大武川に突き当たるので交番の前を通り過ぎ、最後の路地を左へ登るのだが、その先で工事姿の男の手招き誘導に従って河岸まで行くと、河岸に岩やコンクリートで河岸公園造りをやっているのが見え、手招きの意味を納得。車が殆ど通らないような道に舗装工事をするような公共事業よりも、余程ましだと思いつつ、元に戻って20号の大武川に架かる大武川橋を渡る。

橋を渡ってすぐ左、横断歩道のある脇道に入り、田んぼの中のみちをカーブして行くと下三吹の集落だ。火の見やぐらを左に見て長い蔵の前を通過して行く左手の小川の水勢が凄い。やがて、カーブミラーのあるところを右折すべき処、うっかり通り過ぎてしまって大分無駄足をすることになる。歩くのが商売とはいえ、ここでのムダ時間が今夕の銘酒「七賢」への立ち寄りに10分差で間に合わないことになるのだが、この段階ではもちろん判らない。間違いと気づいた時は「原点回帰」を鉄則とする四国歩き遍路体験者が二人もそろっているから、セオリーどおり元のカーブミラー箇所に引き返して右折していく。

15:43、庚申塚通過。

上三吹信号で国道20号を通過。やがて釜無川と尾白川が合流する場所にベンチがあったので小休憩。ベンチの先はすぐ国道だが、その手前右側の路傍に七里塚跡の碑。国道へ出たら尾白川に架かる尾白川橋を渡り、すぐの左に「はらぢみち(横山古道)」入口。この左の小径に入って行くのが五街道開設以前の古道で、ここにある馬頭観音の道標には「右かうふみち」「左はらぢ通」とあるので、我々は喜んでこの草道である古道を行く。

 途中、左手の尾白川沿いに進む草道の左田んぼの畔に古タイヤが10本ぐらい半埋めされていたのを遠目に見て、石の観音様かと見間違って大笑いとなる。

 草の道が終わる頃、尾白川を渡る真新しい橋が現れたが、その下流には古い橋の橋脚石が無残に横たわっていた。今は穏やかな尾白川だが、一度暴れると石の橋をも壊し流すようだ。舗装路になると再び登り、国見坂と呼ばれる坂を登れば台ヶ原の台地に到着である。

 坂の上に庚申塚。庚申塚は庚申講を三年、18回行ったあと建てると言われている。庚申講は60日に一回やってくる庚申の日に、徹夜で宴会を行い眠らなかった行事で、眠ると頭と腹と足の中にいる三尸という虫が天の神様のところへ行って告げ口を言い、その罪状によっては命が縮まると言われていために、集落みんなで眠らず過ごしたわけだが、娯楽の少ない当時としては格好の宴会チャンス・情報交換チャンスだったのかも知れない。

           台ヶ原宿の歴史と由来

台ヶ原宿の起源は明らかでありませんが、甲斐国志に「甲州道中の宿場なり、古道は辺見筋の渋沢より此に次ぐ・ ・・」とあり、台ヶ原は甲州街道の設定以前から交通集落としての機能を果たしていたと考えられます。
元和四年(1618年)に甲州街道に宿請が申し渡されたので、この頃台ヶ原宿も宿場として整備拡充されていった と考えるのが一般的です。
台ヶ原宿は江戸への里程四十三里十町余、韮崎宿へ四里、隣の教来石宿へ一里十四町、江戸より数えて四十番目、 宿内の町並みは東西九町半の位置になり、天保十四年の宿村大概帳によれば、人口六百七十人、家数百五十三(加宿 共)とされています。

                                       白州町 台ヶ原宿景観形成推進委員会

国道を台ヶ原下交差点で渡ったのが16:30丁度。江戸時代の原型を唯一留めると言われる台ヶ原宿が始まる。釜無川と尾白川に挟まれた本当の台地上に形成されたこの宿場は、国道建設からも免れ、静かな佇まいの侭、時を重ねてきた街だ。日本の道100選は、1986年、道の日制定を記念して旧建設省が日本の特徴ある優れた道104を選定したものだが、ここ台ヶ原の宿がその一つだ。その素晴らしさは町並みだけではなく、甲斐駒ヶ岳などの風景も大いにありとよむ。

最初に現れたのが道祖神、番号は17とある。宿場の中心になる案内板に対応した番号がふられており、絵地図を見ながら宿場を楽しめる仕掛けになっているようだ。

なまこ壁の信濃屋酒店を過ぎると、国道台ヶ原中交差点に通じる太い道が左へ通じており、その左手に案内板があった。絵地図もある。の交差点向かいには秋葉大権現常夜石灯篭があり、そこが本陣跡である。少し進んだ左側には郷倉跡、高札場跡の説明版があります。

今夜の宿も間もなくの筈の、この宿場入りだが、我々は古跡も気もそぞろで、実は台ヶ原宿一番の楽しみが「七賢」という酒蔵だった。七賢というのは、三国志の時代末期、中国河内郡山陽の竹林で、酒を酌み交わしながら清談を行った、嵆康(けいこう)、阮籍(げんせき)、阮咸(げんかん)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)、山濤(さんとう)、王戎(おうじゅう)の七人で、天保六年この酒蔵の母屋を新築の折、高遠城主内藤駿河の守から竹林の七賢人の欄間をいただき、その後七賢の銘柄を冠したもの。

ここ七賢では、七賢人全ての試飲が可能と聞いていたので楽しみにもし、場合によっては今夜の二次会用もしくは明日の帰途列車内打ち上げ用でと思っていたのに、何と四時半まででオワリ。時は10分超過でザンネンムネン。あのムダ道無かりせば・・・と思っても後の祭りだ。肩を落として今夜の宿へと向かう。

 登記所跡

  この登記所は明治二十四年二月甲府区裁判所若神子出張所の管轄のうち、菅原村外十ヶ村を分離し、管轄するため に開庁された。はじめは、龍福寺の庫裡を借りて庁舎としたがその後、民間の個人宅を借りて業務を行ってきた。
  しかし、大正元年十二月に庁舎が新築落成し、以来業務を行ってきた。その後の機構改革により大正十年七月より 現在の白州町と武川村をその管轄としたが、昭和五十年三月韮崎出張所に統合され廃所になった。  台ヶ原区


 やがて、宿場外れに差し掛かり、右側には荒尾神社と田中神社、そこにはお茶壺道中の由来がある。将軍家光の時代、京都宇治からの新茶は、中山道から下諏訪にいたり、甲州道中に入ってこの田中神社(写真左)で1泊し、江戸に向かった。この道中の格式は高く、御三家の大名でさえ道を譲るほどと伝えられているそうだ。一里塚跡で、宿場は終わりだ。

 甲州道中で、初めての1泊は、この台ヶ原宿の「梅屋旅館」で、向には「つる屋旅館」という古い伝統の旅篭があった。ひとり一部屋という贅沢な部屋割でまずは入浴。小さな風呂らしく、年長者から順にということで入浴し、6時半頃から夕食。期待通り、、馬刺しがひとり一皿たっぷりと出てきたのには感激。ご飯も、文字通り「真っ白」かつ超美味。聞けば今日通過した地区で獲れる武川米を水道から出る南アルプスの天然水で焚くと、こんなに美味しいご飯ができるとのこと。早速、帰宅後ネットで注文してみようと思った。ビール、七賢、そして芋焼酎一本、馬刺しほかふんだんのおかずで堪能し、残った焼酎を部屋でまた飲み尽くすという、贅沢な一夜となった。