2008.04.06(日) (勝沼)上行寺前交差点(10:00スタート)〜(甲府)NTT西交差点(15:00ゴール) <第8区> 16.2km 所要5:00

きょうのスタートは、中央本線勝沼ぶどう郷駅から徒歩1.8kmの上行寺前交差点からである。先週に続いて一週間ぶりに高尾発8時20分の甲府行き普通列車に乗ったのはお馴染みの清水・村谷両氏と小生の定例メンバーだ。違うのは、先週以上に列車が混み合っていることで、1人分の座席確保すら出来ない人たちが多勢いる。幸いにも我ら三人は離れ離れながら何とか座席確保に成功し、73分間の勝沼ぶどう郷駅への旅がスタートした。

天気晴朗にして気温も高め、文句なしの行楽日和で、晴れ男達の面目躍如といったところである。9時33分勝沼ぶどう郷駅到着。トイレを済ませ駅前広場に出ると、“Oh!ワンダフル!”、標高500m近い高台にある駅からは眼下に広がる甲府盆地はもとよりのこと、その向こうの丘陵、更には信州北岳を頂点とする3000m級の雪を頂いた山並みの雄大さ・見事さに一同目を見張らせ、カメラのシャッターを切る。

先週のゴール駅として辿り着いた時は、下り坂の天気の中、晴れ男の面目にかけてぎりぎりセーフで滑り込んだせいもあるが、あのときは登り坂歩きに必死で、後ろに広がる雄大な甲府盆地の絶景には全く気づいていなかったという訳である。10時00分丁度に前回のルート歩行の終点である上行寺前交差点に到着し、前回に続いての甲州道中三人旅の続きを再開する。

既に高度が駅から70mほど下がった上行寺には、「日蓮聖人投宿之地碑」があり、日蓮上人が足を運ばれた跡がある。日蓮上人については若き頃から両三度ほど読み返した長編の本で充分にお馴染みなだけに、何やら親近感少なからずといったところである。もちろんこの上行寺も日蓮宗の寺である。

そのすぐ先、同じく右側に「勝沼宿脇本陣跡」、更にその先の上町交差点の先に「同本陣跡」があり、「槍掛けの松」という見事な古木が残っている。この辺りは、どこの家にも立派な松があるが何か特別な謂われがあるのだろうか。

 更に左手に勝沼宿「仲松屋」という江戸時代からの商家がある。葡萄で栄えた当地には三階建ての蔵も目立ち、当時の裕福さが偲ばる。

 
勝沼宿仲松屋

 勝沼宿仲町の仲松屋住宅は、江戸時代後期の主屋を中心とした東屋敷と明治時代の建築を中心とした西屋敷の二軒分の商家建築から成る。東屋敷の主屋は北西隅に帳場を置く田の字型を基本とした、板葺、二階建建築で、通り土間を挟み明治後期に一階を座敷として建てられて脇蔵(通り蔵)、坪庭、風呂、厠、味噌蔵から構成されている。西屋敷は帳場と居間を別棟とした主屋と坪庭、会所、蔵屋敷などから構成されている。
 東西両屋敷群は江戸時代後期から、明治時代の勝沼宿の建築を知る上で貴重である。
                                勝沼町 教育委員会


更にその先には、またまた素晴らしい建物があり、中へお邪魔した。ここには町から委託を受けた交代制のボランティア案内老女(日によっては男性)が常駐していて、資料を戴きながら説明を聞くことができた。訪問者として署名も求められ、三人を代表して記帳した。1階の床には銀行当時の面影が残り、ゆかしき当時の面影が偲ばれる。

「二階にもどうぞ」と言われ、階段を上がると和室・洋室・寝室ほか、思いの外広く、備品にも桐箪笥には葵の御紋が入っていたり、第二次世界大戦中には、北白川宮が疎開し、この建物は関係者の水戸部孚が住まいとして使用(北白川宮は田中本家に疎開)していたそうだ。北白川宮と言えば、藤野宿でも泊まられた宿が残っていたが、それだけに大変懐かしく感じられた。見学中にもう一組の若いカップルが見学に訪れていた。

  
 旧田中銀行社屋
   国登録有形文化財

 藤村式建築の流れをくむ建物。明治三〇年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた伝承をもつ入母屋造り、瓦葺、二階屋の建物で、大正九年より昭和七年ごろまで山梨田中銀行の社屋として利用された。
 外壁の砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、彩色木目扉、階段などに凝洋風建築の名残があります。また、建物の背後には銀行時代に建てられた、扉に「山梨田中銀行」の名が鮮やかに 残るレンガ外装の土蔵があります。
                                勝沼町 教育委員会

田中銀行から一丁半、「ようあん坂」という車道としては比較的急な下りを降りていくと、右手に「勝沼小学校入口」とあり、「明治天皇勝沼行在所跡」の石柱や「勝沼学校の碑」があった。見学していたら向かいの商店からおばちゃまが出てきて、いろいろと解説してくれる。それによれば、昔ここに嫁入りした頃はまだ障子の学校だったとか。

「勝沼学校」は明治六年、南部下山大工の松木輝殷が建てた藤村式学校建築で、明治十三年六月の明治天皇御巡幸の折に行在所となり、その後、明治村にある東山梨郡役所などの庁舎建築に大きな影響を与えたそうである。

左手の日川沿いに、行く手の笛吹川方向へと道はどんどん下っていき、笹子峠に向かって歩いた前回までとは正反対の楽旅と言いたいところだが、鈍っている脚力に加えて昨日の高尾山花見山行でやや疲れの残った脚には、下り道が脚に優しいというラッキーコースの今日である。

ここ勝沼には、約130軒のぶどう園があるそうだが、街道沿いのぶどう圓・ぶどう農家?は、皆、家の前に頑丈な鉄鋼組みの構造物を備え、上にはぶどうの枝を張らせ、その下の空き地は観光バスや観光客の車受け入れ場所としてひろびろとしている。中にはトイレさえ備えており、街道ウォーカーも恩恵に浴することが出来るのには感心した。

この鉄骨組みの上に見事に張らせたブドウの木の枝々は、今朝の勝沼ぶどう郷駅からの下り坂で道沿いの眼下のぶどう園で真上からその見事な造形ぶりを見、カメラにも収めたが、実に見事に枝を張らせており、感嘆したものだ。

10:40、等々力交差点で道は国道411号と合流。国道を右折すれば、塩山経由で奥多摩や奥秩父へと続くとのことである。曾て登った大菩薩峠での塩山と奥多摩地方との物々交換の交易の歴史も思い出し、古から文化は道で繋がっているとの感をあらためて強くした瞬間だった。

10:45、左手ローソン向かいに文政の常夜灯とお地蔵様。この辺りの地蔵は丸石を幾つか盛り上げたような変わった形をしている。北に伸びる萬福寺参道入口には杉御坊の大きな石碑がある。何でも親鸞聖人が逗留された際、地面に箸をたてて念仏を唱えたら、やがてそれが杉の大木になったところから名付けられたそうだが、古の話とはいえ、現代では考えられない奇跡的現象が本当にあったのだろうかと、いつも思う。

その先で、楽しみにしていた白百合醸造での試飲タイムだ。各種ワインがテーブル上に置かれ、自由に試飲出来るのがありがたい。季節限定のさくらワインとか、辛口の赤セラーマスターベリーA、桃のワインマイルドピーチほか甘辛各種で、量を過ごさぬよう少しずつ味わった。そのほか土産用・おつまみ用の品もあり、清水氏が馬刺しの燻製を帰途の列車内で食せるようにサービス満点の若奥様に切って貰い、爪楊枝まで付けて包装して貰った。

この愛想の良い若奥様に「街道歩き中で、かくはしかじか」と話したらびっくり感嘆で、前回は笹子峠越えだったと言ったら「私は笹子出身なんです」とのことで益々尊敬?されてしまった。ちょっぴり残念だったのは、当てにしていたらっきょうのワイン漬けやにんにくのワイン漬けが、品切れだったこと。聞けば、昨今何かと話題の中国原産品だったので製造販売を中止し、国産品での製造を検討中との説明に納得し、小生は桜の花びら入りのさくらワイン一本と孫用に試食済みの白桃ほかの羊羹各一本を買い求めたが、ザックに入れようとしたら「重いですよ」と気遣いされてしまったが、「なーに、この程度は大丈夫よ」と軽く頷きながら、ご機嫌でこの白百合酒造を後にした。

頃は桜&桃のシーズン。家並みの間から見える日川河畔や果樹畑を通して鮮やかなピンクの絨毯が敷き詰められた感がある。街道両側のブドウの枝張り支え用の鉄骨製構造物も相変わらず「軒並み」的風景だ。

この辺りは甲州市だが、街道左手の日川以南は笛吹市になり、白百合酒造の先からは、甲州市も山梨市域へと変わる。甲州街道での山梨市域通過距離は僅かに3km余で非常に短く、市の南端を日川に沿って歩いていることになる。北には埼玉、長野、山梨の三国にまたがる、かの有名な甲武信ヶ岳が聳え、有名な西沢渓谷がその下を流れて、行く先の笛吹川へと注ぎ込む寸法だ。
また、振り返れば、先週越えてきた笹子峠が、たった9km程度にもかかわらず、かなり霞んで見え、「歩いてきたな」という感を強くした。

ところで、今日は昼食場所が頃合いに見つかるかどうか、やや気がかりだったので、食堂を意識しながら歩く。11:10に上栗原交差点通過。右折すれば山梨市駅だが、何時だったかYSCで塩山や山梨市に桃観賞に来たことを、駅名を見てまたも思い出す。

更に進んで、11:45、大法寺。街道側の二基ある内の一基、南無日蓮大菩薩の石塔の上部が折れていて、何やらもの悲しい。11:21、大宮五所大神参道の大きな石碑を右手に見る。甲州道中はここでクランクになる。国道411号から見て石碑の裏の小径が甲州街道である。

神社参道の碑の裏の小径を直進して源屋園というぶどう園に突き当たり、そこで直角に左折して火の見やぐら下で国道を横切る。そのまま進んで日川の土手に突き当たり、土手に沿って右折して新日川橋に出たら、橋を渡らずに右折して国道下栗原交差点へと戻る形になる。

ここで再び国道を左折する。旧道はどうやら新日川橋から真っ直ぐ進んでいたようだが、消滅してしまったらしい。11:33、左手に中華そばの店「志村苑 食ぶんや」を発見し、これ幸いと入店。先ずはビールで渇いた喉を潤し、セットメニュー(餃子・ラーメン・小ライス)900円の処を交渉し、小ライスなしで800円と言うことで注文。おじさま達は大食漢では無いのである。

腹ごしらえして、12:01再出発。良いところで昼食場所が見つかったもので、この後2時過ぎまで、これという店は見なかった。その先でラグビーの名門校である日川高校入口を通過。

次の「一町田中」交差点で左折し、忠実に旧街道を行く。氷川に突き当たって右折し、日川橋で「一町田中」の先から左カーブしてきた国道に合流して 橋を渡り、堤防沿いの道のもう一つ先、国道左折点の手前を左折する旧街道へと入り、鶴瀬宿で進行右側に渡って進んできた日川もここで左側歩きに転じる。

旧道に入ってすぐの右側に白山神社がある。時に12:19だ。やがて日川の土手に突き当たり、そのまま並行して進みながら、良すぎる天候の暑さを避けて堤防の上に駆け上がると、涼風とすばらしい景観の双方を満喫でき、のびのびと歩いていける。カーブミラーのところで土手を降り下の道を桃畑のほうへ進んで行く。

やがて街道は、日川と笛吹川の合流点で土手に出る。思わずカメラで合流点をパチリ。左側にはホテルエンゼルがあるが、営業していない様子。幾つかのラブホテルを見かけているが、こんな場所で?との感が強い。

今度は、曾て桃観賞で来た時にお馴染みの笛吹川の土手を歩いて行くと、対岸に石和温泉の大きな建物などが見え始めるが、巨大なそれの一つはマンションに転向したらしく、ベランダに布団や洗濯物の干してあるのが丸見えである。生活臭を避けて観光地に来る客にとっては大変目障りで、やがて観光地としてここも衰退していくのでは、と清水氏が強調していたのが印象的だった。

やがて左後方から国道411号線が合流してきて、国道歩きになるが、歩道が無くやや危険だ。12:44、笛吹橋を渡って石和温泉郷東入口から風情ある松並木の旧道に入る。こんな風情ある松並木は久方ぶりだ。江戸時代の笛吹川はもっと北、石和温泉駅辺りを流れていて、街道は現笛吹川の中を通っていたそうだが、大洪水に見舞われ、川の流れが街道を消滅させてしまった由。当然のことながら、当時はこの笛吹橋もなく、街道は川中を斜めに通っていたようだ。堤防沿いのバス停笛吹橋西の前から下の松並木道へ降り、300m足らずの松並木ではあるが、風情プラス良すぎる陽光の日よけにありがたい存在だ。

松並木が終わりかけると小径は右方向にカーブし笛吹川からやや遠ざかっていくが、その分かれ道の場所に笛吹権三郎之像があり、年配男性3人が休憩している。12:55、我らが近づくと同じ街道ウォーカーと判り、エール交換する。日本橋からスタートして5回目というから凄い。我らと同じくきょうは甲府駅までだそうだが一日28km平均という計算だから、曾ての小生や村谷氏が歩いた四国遍路での30km平均と殆ど遜色がない。厳密に言えば、荷物が軽い分、街道歩きの方が楽だが、四国遍路の場合は気合いの入れ方も尋常ではないから、一概には比較できないだろう。彼らを見送って、我らはしばらく休憩する。

ところで、説明の石碑には、こう記してある。

  
笛吹権三郎の事

 今から六百年ほど昔、芹沢の里(現在の三富村上釜口)に権三郎という若者が住んでいた。彼は鎌倉幕府に反抗して追放された日野資朝一派の藤原道義の嫡男であったが、甲斐に逃れたと聞く父を母と共に尋ね歩いてようやくこの土地に辿り着き、仮住まいをしている身であった。彼は孝子の誉れ高く、また、笛の名手としても知られており、その笛の音色はいつも里人の心を酔わせていた。
 ある年の秋の夜のことである。長雨つづきのために近くを流れる子西川が氾濫し権三郎母子が住む丸木小屋を一瞬の間に呑み込んでしまった。若い権三郎は必死で流木につかまり九死に一生を得たが、母親の姿を見つけることはついにできなかった。悲しみにうちひしがれながらも権三郎は日夜母を探し求めてさまよい歩いた。彼が吹く笛の音は里人の涙を誘い同情をそそった。しかし、その努力も報われることなく、ついに疲労困憊の極みに達した権三郎は、自らも川の深みにはまってしまったのである。
 変わり果てた権三郎の遺体は、手にしっかりと笛を握ったまま、はるか下流の小松の河岸で発見され同情を寄せた村人の手によって土地の名刹長慶寺に葬られた。
 権三郎が逝ってから間もなく、夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえてくるようになり、里人たちは、いつからかこの流れを笛吹川と呼ぶようになり、今も芹沢の里では笛吹不動尊権三郎として尊崇している。
 これが先祖代々我が家に伝えられている権三郎にまつわる物語です。
     昭和六十年五月吉日
               山梨県山梨市七日市場四九三番地  長沢房子(旧姓広瀬)


最上川や球磨川と並んで日本三大急流の一つであるこの笛吹川は、甲武信ヶ岳や国師ヶ岳を源とする東沢渓谷と、国師ヶ岳や奥千丈岳を源とする西沢渓谷が合流して笛吹川になり、更に鰍沢町で釜無川と合流しては富士川となり、ついには太平洋で駿河湾に注ぐ長旅の川である。

13:01、再出発。「権三郎通り」と称するこの通りを進み、鄙びた映画館「テアトル石和」を通り過ぎ、笛吹橋から川沿いを走ってきた国道411号線に出る。

国道は、「市部本通り」と名を替え、権三郎通りとはガラッと趣を変える。そんな街づくりの一環を垣間見れるのが、各所の案内板や足元を飾るデザインタイルで、街おこしへの熱意が凄く感じられ、事実、町歩きに来ていると思しき人たちを何組も見かけた。

13:17、鵜飼山遠妙寺。境内の桜が満開で絢爛豪華な雰囲気だ。縁妙寺の先には、上り新宿方面高速バス停があり、その前に石和本陣跡があった。明治13年天皇行幸直前の大火で消失し、現在は主蔵一棟が残るのみだ。

13:24、その斜め前方左手に下りの高速バス停があり、その前に民俗資料館と足湯。あとで我らに追いついてきた先ほどの先発3人組はここで足湯を楽しんでいたとのことだったが、我らは道の反対側を通っていたこともあって立ち寄らなかった。

足湯の裏は石和小林公園になっているが、この公園は、元々この小林中翁の家の跡だった由。石和温泉駅入口交差点を過ぎ、やがて街道は平等川を渡って甲府市に入る。段々疲れてくる。普段ならこの程度の歩きは何でもないのだが、この処鈍っていた脚での高尾山登坂に続く街道歩きは正直疲労感を覚える。

14:20、箱根駅伝でお馴染みの山梨学院大学が左手にある。終戦直後の昭和21年創立の山梨実践女子高等学院を前身とし、同37年の開学である。箱根駅伝では総合優勝経験はもとよりのこと常時上位入賞の常連校である。

学校前の木陰で暫しの休憩をとり、JR酒折駅前へと進む。駅まで僅か100mちょっとで、甲府や石和より断然近いのだが、我らは更に進んで甲府駅へと向かう。14:37、街道頭上に身延線が見えてくる。すぐそばに善光寺駅があり、線路手前には右折で行ける善光寺入り口交差点もあった。善光寺は本来なら寄り道したい気がしなくもないのだが、甲州街道からは往復1.5kmもあり、諦める。

この善光寺は、武田信玄が川中島の戦の折、信濃の善光寺消失を恐れてこの地に移したと言われ、信濃と区別して甲斐善光寺と呼ばれているものだ。甲州街道はこの善光寺入口の先で最初の枡形になり、身延線をくぐって左、40m程で今度は右直角に折れて進む。

かの勅使川原郁恵さんがゴールにしたという古い建物が右手に現れ、国道は城東通りと名を替える。1km弱先に再び枡形がある。ガソリンスタンドのENEOSがそれで、このSSに突き当たって左折し、約150m先で再び右折する。城下守備の戦略上、昔はこういう枡形の道が各城下町で造られていた訳だ。

かの有名な甲州印傳の店が右手にあったが、目の毒気の毒財布の毒とやり過ごして立ち寄った本日最後の見所は、NTT前にある新聞発祥之地碑だ。時に14:59。現存する我が国最古の新聞が山梨日日新聞だそうで、峡中新聞として明治5年7月1日にこの地で創刊された由。創刊百周年を記念して昭和47年にこの碑が建てられたのだ。

本日のゴール相生歩道橋まで、まだ1100mあるが、あとは次回に譲ることにしてここから甲府駅へとショートカットした。もちろん次回はここNTT西交差点からスタートし、完全に旧甲州街道を歩きでつないで行くことは言うまでもない。実はこの4〜6日は「信玄公祭り」にあたり、街中を行列が通るルートも掲示されていたが、折からの行楽シーズンでの帰途の列車混雑も予想しての本日打ち上げとした次第である。なお、信玄公祭りは武田信玄の命日である4月12日を中心に行われる毎年恒例の祭りで、武田24将が率いる甲府軍団の出陣儀式をはじめ、勇壮華麗な戦国絵巻が甲府駅前通で繰り広げられるものである。

街道での歩行終点が15時丁度、甲府駅着が15:15で、15:36甲府発(小淵沢始発)の普通列車に乗り込んだが、何とかボックス席を確保でき、後は駅で買い込んだビール500ml缶をはじめ、持参のブランデー・焼酎・清酒が続々登場、つまみも今朝ほど買い求めた清水氏の馬刺しの燻製をはじめ、各種有り溢れ、帰途列車内は存分なる疲れ癒しの極楽タイムになったことは言うまでもない。

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甲州道中餐歩記〜8
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