2008.03.30(日) 笹子駅(9:23スタート)→ 上行寺前(交差点)(14:53ゴール) < 第7区> 15.8km 所要5:30

高尾発8:20の列車は八王子始発で、しかも高尾駅での待ち時間が長く、乗ろうとしたら空席は残り少ない。仲間との3人席が欲しいのだが無理で、何とか乗降口近くの二人掛けシート二つに向かい合わせで座り、お馴染みの清水・村谷両氏との3人旅の始まりとなった。笹子駅到着は9:20だが、やや遅れ目、到着時にもまだ乗客は多く、いまや行楽シーズンたけなわと言ったところだ。

きょうは、雨天延期で迎えた待望の笹子峠越えで、山歩仲間一同待ちに待ったコースである。トイレもないこの駅から国道に出たのが9:23。すぐ中央本線のガードがあるが、旧道にこだわる我々はその右手にある人専用のトンネルをくぐって行く。この辺りの標高は600mを数メートル超えているのだが、目指すは標高1096mだから、正味標高差はお馴染みの高尾山の125%程度の実質標高差だ。。

旧道から国道に合流して進むと、左手に火の見櫓があり、その下に変わった地蔵尊があった。笠懸地蔵といい、頭上に笠を被った珍しい地蔵である。一軒おいた隣の天野さん宅がここ黒野田宿の本陣跡で、立派な門が残っている。

9:36、黒野田橋で笹子川を渡り、右側にある黒埜山普明院に立ち寄る。禅寺で境内が広い。院主夫人と思しき人が出てこられ、親切にも本堂の扉を開け、黄金色に輝く本尊などを見せてくれる。

行くたびに いどころ変わる かたつむり」という立派な芭蕉句碑や、次のような一休禅師の歌碑もある。

  
元旦や 冥土の旅の一里塚 めでたくも有り めでたくも無し
  有漏路より 無漏路へかへる一休 雨ふらばふれ 風ふかばふけ


更に、興味深かったのは、立派な六地蔵があり、そのそれぞれにひと言ずつ彫り込まれていたことだ。すなわち

   
一、与えよう 物でも心でも
   二、生きよう 人間らしく
   三、たえよう どんなことにも
   四、努めよう 自分の仕事
   五、おちつこう 息をととのえて
   六、目ざめよう 仏の道

この寺の門前には、黒野田一里塚跡の碑がふたつあった。
ここを出て、道の駅甲斐大和まで5kmという、国道笹子トンネル越えでの標識(街道ウォーカーたる我らは、笹子峠越え10km)先の標識や、笹子鉱泉という営業しているようには見えない建物やそれとは道路反対側の食堂(これも閉店中?)等を見ながら、峠を前にした追分集落に着く。定食屋はらだ、手打ち蕎麦やまびこ等、いくつかの食堂や、更にはその先の大きな駐車場を持つヤマザキショップ(旧ファミリーマート)を10:03に通過。この店が峠への最終の飲食物購入拠点である。

10:04、ここから国道を左に入り、笹子峠の入口への看板を確認する。国道に平行する形で左の旧道を進み最後の集落へと向かう。有名な「矢立の杉」までは4キロとある。

10:10、峠道への入口になる右手の青い建物を右折。これからの登坂に備え身軽な服装になり、いよいよ山道へと入る。我ら待望の芽にも脚にも優しい山道コースで、思わずニンマリする。大きなコンクリートで固められた砂防ダムを迂回する形でに登って行くと、道ばたには廃車や投げ捨てられたゴミが目立ち、悲しい気分にさせられる。辛うじて踏み跡が認められる程度の林の中で、積雪でもあれば、踏み後が不明になりそうな山道を何とかコースを外さずに登り、10:30、漸く林の中から明るい県道へ飛び出した。県道は簡易舗装された林道で、美久保橋で新田沢を渡る。

新田沢を渡ると道は大きく右カーブし、右下に風景が広がる。何度かカーブを切って行くと、笹子峠自然遊歩道の案内板があり、ここからUターンするように再び山の中へ入って行く。
左に遊歩道の地図、右に矢立のスギまで800mの案内板を見、枯れ沢や、木橋の架かる沢、所によっては足場を確認しながら飛び石伝いに沢を渡って登って行く。

10:47、右手に開けた空き地が現れると、ここが三軒茶屋跡で、明治天皇御野立所跡にもなっている。ベンチにザックを降ろし小休憩するが、天皇縁の場所故にこんな山中でも周囲に石垣が積まれ、斜面の崩れから碑石を防護してある。明治天皇も通られた天下の国道も、時代と共に人々に忘れられたような、寂しい存在になっていた。

出発しょうとしたら、三軒茶屋跡の右手石垣の上に、子供を抱いたお母さんに上の子がしがみついているように見える野仏を見つけた。なぜここなのか不明だがほほえましい。

11時ちょうどに「矢立の杉」に到着した。登りでは足元を見ながらなので突然現れた巨大な大木に圧倒される。かつは感激の一瞬だ。

 
県指定天然記念物
      笹子峠の矢立のスギ

    所在地  山梨県大月市笹子町大字黒野田字笹子1924の1
    種類   スギ
    指定   昭和35年11月7日
    所有   山梨県

  このスギは昔から有名なもので、昔の武者が出陣にあたって、矢をこのスギにうちたたて、武運を祈ったところか ら「矢立のスギ」と呼ばれ  てきたものである。
  そのような名木であるうえに巨樹であるために、県指定天然記念物にされているものである。 その規模は次のようである。

    根廻り幹囲  14.80メートル
    目通り幹囲   9.00メートル
    樹    高 約26.50メートル
    幹は地上約21.50メートルで折れ樹幹中は空洞になっている。

                   昭和50年10月   山梨県教育委員会


大木の下部から空洞になっている杉の木の内部に入れて、空が見えるのもこの大木の特徴で、カメラの出番である。
矢立の杉から僅かに登ると、標識があり、矢印には「笹子峠トンネルニ」とあり、道が二手に分かれるが、標識通り進めばヤバそうなので別道を上り、県道へ出た。大分歩いた先で旧道の出口にあたる標識を見つけたが、かなり難儀しそうな感がしたのは全員一致の感想だった。

トンネルまで1kmの看板を見ながらもかなり上っていくと、漸く笹子隧道が見えてきた。11:27、洋風建築的な柱が印象的なトンネルを前に、記念写真を撮る。このトンネルをくぐればほんの2〜3分程度の行程で、中を覗けば奥に出口が見えるのだが、我々はその手前を右上に行く旧道を、古人に習って時間をかけて登って越えていくのだ。

 
笹子隧道について

 四方を山々に囲まれた山梨にとって昔から重要な交通ルートであった甲州街道。その甲州街道にあって一番の難所といわれたのが笹子峠です。この難所に開削された笹子隧道は、昭和十一年から十三年まで国庫補助を入れて二八万 六千七百円の工費を投入し、昭和十三年三月に完成しました。抗門の左右にある洋風建築的な二本並びの柱形装飾が 大変特徴的であります。
 昭和三三年、新笹子トンネルが開通するまでこの隧道は、山梨、遠くは長野辺りから....東京までの幹線道路として甲州街道の交通を支えていました。南大菩薩嶺を越える大月市笹子町追分(旧笹子村)より大和村日影(旧日影村)までの笹子峠越えは、距離十数キロメートル、幅員が狭くつづら折りカーブも大変多いためまさしく難所で、遥か東 の東京はまだまだ遠い都だったでしょう。
 昭和前期の大役を終え静寂の中にあるこの隧道は,平成十一年、登録有形文化財に指定されました。

                                大月土木事務所


途中、右するか左するか迷い、衆議一決で右へ行ったらもの凄い急な登りになる、ふくらはぎがパンパンに緊張する。足場も砂混じりで滑りやすく、超慎重に登っていくと、結果的に判ったことだが左からの女坂と合流し、登ること4〜5分ほどで漸く狭い笹子峠に到着した。

両側がかなり切り立っている。ここで証拠となる記念写真を撮り合う。笹子峠の標高は1096m、日本橋と下諏訪のほぼ中間にあたるそうだ。わが年齢よりも2歳ばかり古い笹子隧道の完成までは、この狭い峠道を多くの人が通って行ったのだろうが、その笹子隧道も昭和33年開通の新笹子トンネルに人気を奪われ、今では我らのようなハイカーや街道ウォーカーだけが往時をしのぶ見学対象になったようだ。

峠は交差点にもなっており、右へ行けば雁ヶ腹摺山へ、左へ行けばカヤノキビラノ頭へ、そして。真っ直ぐ下ると大和村日影かいやまと駅方面へ、バックすればもちろん笹子駅方面へ・・・となる。峠を越えた少し右手に、昔ここを通った旅人たちが旅の安全祈願をした天神宮があったので、お参りした後、近くにレジャーシートを広げて昼食タイムとする。この顔ぶれには珍しく、宴会ムードの殆どなきお握り昼食だが、段々暖まっていた身体が冷えてくる。
しからば出発と峠道を下り始めるが、これがまた木段固めの急坂で、県道に降りてしばらく行った先で右手から降りてきた女坂を確認し、これまた男坂を降りていたことが判った。いつも山歩の時には努めて女坂ルートを選択する我らには珍しく、登りも下りも男坂を選択した一日となった訳だ。

トンネルの出口からかなり甲府寄りの県道で女坂からの合流地点。旧甲州街道は、ここから更に県道を横断し、そのままガードレールの間から、再び山道に入っていく。ここを行くと県道で行くより500m程短くなるのだ

ガードレールの外側に沿って真っ直ぐ進むと脇に甘酒茶屋跡の標柱が立っていた。脚に優しい、そして林道に比べてショートカットされた形の旧道を、緑色の「甲州街道峠道」という標識を目標に、どんどん下って行くと林道に出た。少し行くと右側には壊れかけた道標「・・・道峠道」、更に右の谷に向かって下りていく。

眼下に笹子沢川の支流が立ちはだかる。更に高度を下げたあと沢に沿って下って行くと丸木橋が現れ、この丸木橋で笹子沢川を渡る。段々と道は穏やかになり、緑の看板がある分岐点に出ると、左・自害沢天明水という恐ろしい地名に出くわす。

広くなった草地の道を、ジグザグに下って行くと、「甲州街道峠道」も終わりを告げ、県道である清水橋に出る。
ここからは、国道合流まで県道の舗装路を4kmほど下って行くしかない。旧道は消滅してしまっているので、駒飼宿までだらだら下りになるのだ。

笹子峠唄を紹介した案内板があった。

 
 笹子峠

 徳川幕府は慶長から元和年間にかけて甲州街道(江戸日本橋から信州諏訪まで約五十五里)を開通させました。笹子峠はほぼその中間で江戸から約二十七里(約百粁)の笹子宿と駒飼宿を結ぶ標高壱千五十六米、上下三里の難所でした。
 峠には諏訪神社分社と天神社が祀られていて広場には常時、馬が二十頭程繋がれていました。峠を下ると清水橋ま でに馬頭観世音、甘酒茶屋、雑事場、自害沢、天明水等がありました。
 また、この峠を往来した当時の旅人を偲んで昭和六十一年二月十二日、次のような唄が作られ発表されました。

                甲州峠唄
                                             作詞 金田一春彦
  作曲 西岡 文朗
   あれに白いは  コブシの花か   峠三里は  春がすみ
   うしろ見返りゃ  今来た道は   林の中を  見え隠れ
   高くさえずる   妻恋雲雀    おれも歌おうか あの歌を
   ここは何処だと  馬子衆に問えば ここは甲州  笹子道

 この唄の発表によって旧道を復元しようという気運が高まり昭和六十二年五月、清水橋から峠まで地域推進の一環として、日影区民一同と大和村文化協会の協力によって荒れていた旧道を整備して歩行の出来る状態にしました。
                                  佐藤 達明 文


いつしか消滅した旧道も、こうして地元の方々の尽力で一部分とは言え復活し、我々ウォーカーが.県道を行けばかなり長い距離になるところを、楽しい旧道歩きを可能にしてくれたのだ。

清水橋から県道を下って大きなカーブを二回だったか曲がると、12:49、右手に桃の木茶屋跡の標柱。難所越えにホッとした旅人たちやこれから難所に立ち向かう人たちが立ち寄ったことだろう。

駒飼宿までこの県道を降りていくが、駒飼宿の集落が木立の間から見え始めたら、峠道も終わりに近づき、やがて13:18に宿場の入口に架かる天狗橋に到着。橋の手前右には津島大明神という小さな祠があり、もちろん合掌参拝して橋を渡ると右側から小径が合流しているが、昔はこれが甲州街道だったのかもしれない。また、昔ここに甲州屋や日川屋という店があったとあるが、難所を無事越えた人の最初の茶屋だったのだろう。

ゆるやかな下り道両側に開けた駒飼宿の入口右側には、真新しい芭蕉句碑がひっそりとある。

  
秣(まぐさ)負ふ 人を枝折の 夏野かな

少し進むと左手に忽然と消火栓が現れ、その隣の白い標柱が曾て脇本陣がここにあったことを知らせている。富屋脇本陣跡で、この駒飼宿には本陣・脇本陣が各ひとつずつあったのだ。13:22、脇本陣跡には駒飼宿の案内板もあった。

少し進むと、左側に本陣跡があり、明治天皇の小休所跡にもなっていた。
やがて街道は県道から外れ、左下へと分かれて行く。藤屋、塚本屋、柏屋、大黒屋など、雪害を逃れるためか、どこも急傾斜の屋根を持った旧家が並ぶ道を降りて行くと「大和十二景甲州街道」や「旧甲州街道」の標柱が現れ、やがて笹子沢川を渡る小さな橋に出た。

橋を渡って緩いカーブを曲がったら眼前に巨大な橋が現れる。笹子トンネル直前の中央自動車道の橋で、面積節約のためか上下二本に別れて旧甲州街道上空を占拠している。

橋をくぐるトンネルを抜けると、先ほど宿場で別れた県道が右から迫ってくる。県道と平行して甲州街道は国道20号へと向かい、国道の交差点「大和橋西詰」直前で県道と合流した。

ここで笹子沢川は日川と合流し、やがて次回の旅で笛吹川と出逢い、更に富士川となって駿河湾へと続いていくのだ。大和橋西詰から国道20号を笹子トンネル方面へ戻ると770mで甲斐大和駅だが、13:38、我々はエネオスのガソリンスタンドがある交差点(日本橋から118km地点)で左折し、国道を進む。

立派な人道橋を渡ると甲州道中鶴瀬宿。その手前に石碑には金岡自画地蔵尊碑とある。巨勢金岡という大和絵の大家が、平安期にこの地の岩に地蔵尊を描いたそうで、それが永年の間にすっかり線が細くなり、普段は見えないが水をかけると浮かび上がり、人々を驚かせた由。その岩も洪水で無くなり、今や石碑にその名残を留めるのみとなっている。

立合橋を渡ると、間もなく鶴瀬関所跡。ここは口留番所と呼ばれ、街道を行く物資や人を警戒していた由。やがて鶴瀬地区の石碑と鶴瀬宿の標柱。「江戸より第三十一宿、江戸へ三十里二十七丁、甲府へ五里一丁」とある。ここが鶴瀬本陣跡で、鶴瀬の旧道は60m余で終わり
旧道のはずれには大きな常夜灯があった。

ここから勝沼の市街地まで国道20号を行く。左には中央自動車道が迫るが、すぐに日川の対岸へ消えて行く。殺風景な崩落防止用コンクリートが続くが、その上を良く見ると昔使用していたの国鉄のトンネルが残っていた。

曹洞宗鶴瀬山真竜寺の石柱を過ぎると、13:55、右手の石垣上に古跡血洗沢の標柱が現れるがあまり興味が湧かず、ちらりと横目で見ただけで通り過ぎる。やがて国道はトンネルに入って行くが、抜けて左の小径に入ると小径の真ん中に、大和十二景にもなっている長垣の吊り橋がある。今は通行不可で出入り口は閉ざされていた。ぶどう畑の上を日川をこえ横吹と長垣を結ぶこの橋は、重要な通行路として長い間使われたらしいが、過去の遺物となってしまったのだ。

この跡は殺風景な国道歩きが続くが、14:27、深沢入口交差点到着。締まらない、いかにも素人が創った感のする近藤勇の立像があり、右手に江戸へ向かう官軍と戦った時の解説板が並立していた。右へ入る道が深沢への道。少し入ってみると右側に東神願鳥居跡の案内板がある。

 
東神願鳥居跡

 この地に大善寺境内の東境を示す鳥居が、戦後まであった。甲州街道は鳥居の下を通り慶応四年三月六日近藤勇率いる幕府軍は、この鳥居前に大砲二門を据え本陣とし、江戸へ向かう官軍を迎え撃った。鳥居には激戦を物語る銃弾の跡が生々しく刻まれていたと言う。

 1868年3月6日、甲州勝沼の戦いはこの地で火蓋を切った。
 官軍は土佐の板垣退助を総督府として甲府に3000の兵を引き入れ待ち構える。
 一方、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は300の兵が恐れをなして121人まで減っていました。
 会津から援軍が来るというのも虚報で、近藤は兵を抑えることが出来ず、結局、八王子まで敗走してしまい、江戸まで逃げ帰った。
 鳥居の前に大砲二門と案内板にあったが、官軍は凄まじい数の大砲で攻めたのであろう。
 剣の達人も、近代戦争の前に脆くも崩れ去っていったのが目に見えるようです。
 そんな空しさ、悔しさが伺えるのが、この地にあった近藤勇の石像です。

14:43、柏尾交差点。国道20号は、勝沼大橋へと大きく左へカーブするが、我々は旧甲州街道へと直進する形でそのまま真っ直ぐ甲府方面へと向かう。昭和52年(1977)までは、旧甲州街道が国道だったが、中央自動車道が勝沼インターまで開通して、国道としての御用を終えたのだ。

本日のゴールは当初の予定通り、上行寺前交差点である。上行寺の見学は次回にして、天気が下り坂のため右折して、中央本線の勝沼ぶどう郷駅まで1.8kmの登り坂を気合いを入れ直して足を運ぶ。

15:12、勝沼ぶどう郷駅に到着し、列車の時刻を調べてトイレに立ち寄り、干しぶどうの土産や帰途列車内の飲み物などを買って15:37発大月行き普通列車に乗り込む。大月からは10分程度の待ち合わせで高尾駅には17時過ぎに到着したが、八王子まで乗る清水氏や、終点立川で中央特快乗り継ぎ予定の村谷氏と別れ、京王線へと乗り換えた。
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甲州道中餐歩記〜7
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