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甲州道中餐歩記〜6
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2008.02.22(金) 鳥沢駅入口(9:45スタート)→ 笹子駅(阿弥陀)(15:20ゴール)<第6区> 19km 所要5:35

高尾発9:02大月行き列車で9:40鳥沢着・。きょうは前回の清水氏のほか村谷氏も加わっての3人旅である。念のため鳥沢駅でトイレに立ち寄り、9:45、笹子までの甲州道中のスタートを切る。

国道20号線沿いの鳥沢宿は、上鳥沢宿と下鳥沢宿の二宿があり、前回の最後の下鳥沢宿に対してこれからが上鳥沢宿となる。ここは宿場制定当時から広い道幅をとっていたため、国道20号になっても宿場の建物など街並みがそのまま残った点で珍しい宿である。

9:49、セブンイレブンの先右手に明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)地碑。駐蹕とは蹕(さきばらい)を駐める意で、明治天皇関連の碑の中では初めて見る珍しい表記だ。ここが井上本陣跡である。

本来の甲州道中は、しばらく進んだ右側の三栄工業(株)の看板を右に入る。すぐ右手に古びた墓が並び、やがて左に大きな会社が現れる。

9:54、右手に馬頭尊の碑を見て横吹沢を渡る。その後上り坂となり、横吹団地の先を下って行くとほどなく国道に合流。その先の国道沿いにあった弁当総菜の店「きたむら」で野菜コロッケとウズラの卵の串刺しフライ計132円を買って食するが、揚げたてではなくイマイチの感。

そこから300m、10:11に左手火の見櫓正面の建物を右に入るが、曾てあった筈の前田商店という看板は無くなっていた。赤い物置のある場所で畑の中の小径を国道へ向かって降り、宮谷橋に到着。この国道の橋に平行して右側に水路橋があり、地元の工夫に感心する。

ここから猿橋までは比較的退屈な国道歩きになるが、途中、10:19左手にウルトラマンのパネルを発見し、早速デジカメ撮影する。タロウ、セブン、レオらと共に並んだウルトラマンがおもしろい。

直進が甲府・勝沼・中央道で、右小菅の道路標識を右折し、小菅方面へ進むとと居酒屋食堂仙台屋あたりから緩い下り坂になり、その先が以前「百蔵山」登山の帰途に立ち寄ったこともある、日本三奇橋の一つ「猿橋」で、10:30に到着。

 甲州猿橋 お山の猿が お手々つないで かけた橋 野口雨情
 猿橋や 月松にあり 水にあり 芭蕉

雨情・芭蕉らの文人、広重や国定忠治も縁の猿橋は、江戸時代よりも古く、七世紀頃と言われている。日本にとっては最先端の文化や技術をもった百済の職人が、猿が梢づたいに川を渡るのをヒントに作ったと言われている。長さ31m川面まで30m、現在の橋は昭和59年に総工費3億8千3百万円で架けられたものとのことである。

甲州道中は、この猿橋を渡るのだが、秋の紅葉シーズンだったらもっと素晴らしいこと想像に難くない。橋を渡ったら右手に案内板があり、更に下へ降りる歩道もある。前回来た時はたしか日陰の足元に残雪があったような記憶があるが、今回は下に降りるのはパスして先へ進むことにする。

正面には忠治蕎麦の大黒屋があったが、ここは国定忠治が逗留したり広重が昼食を摂ったという店で、今も続いて営業している。猿橋宿には昔の面影もなく、国道を進んで行くが、酒屋、立派な駐在所、せんべい屋、手作り豆腐屋など軒を連ね、更に行くと、右側に白い大きな建物が現れ、壁に大きく紅富士太鼓道場と書いてある。

宮下橋、円行寺、三嶋大明神と続くが、神社の境内には屋根付きの土俵があり、10:50から境内で持参の大福餅を仲間たちと頬張りながら小休憩する。

JR猿橋駅の入口では、やがて国道は左にカーブするが、右手を歩いていたら大型トレーラーが前方から迫ってきて、ハンドルの切り方如何では死の恐怖も感じるもの凄さだった。おまけに被っていた帽子が風圧で吹き飛ばされたほどである。

その右奥の阿弥陀寺の入口に猿橋一里塚跡があった。何となく寂しさのある佇まいだった。
山梨中央自動車のところから右折して旧道に入ると、雄大な景色が広がる。岩殿山だ。山歩の会YSCでは何度も行っているが、自分はこの山の稚児落としに何故か恐れをなして未だ登っていない。

静かな旧道には東電の施設・社宅が並んでいるが、発電施設をこんなに間近に見るのは初めてである。11:11、駒橋発電所の導水管を越えて左に進むと、やがて第五甲州街道踏切で中央本線を渡る。こんな細道が甲州道中だったのかというような田舎道だ。すぐ国道へ合流するが、またすぐ右の旧道へ入り、11:16、厄王大権現に参拝。境内で子連れママが日向ぼっこしながらおしゃべり中。この辺が甲州道中駒橋宿らしいが、今や国道とや線路でズタズタにされ、旧宿場町の面影は皆無だ。

11:34大月駅に寄り道してトイレ休憩を兼ねてパンフなどで情報収集。大月市に限らないが、昨今は平成の大合併とやらで馴染みの地名がどんどん吸収され、あるいは消え、どこがどこやら判断に迷う場面が少なくない。

11:45、国道の左脇に、明治天皇御召換所址という石碑がある。野点所址とか御小休址はよく見かけるが、御召換所址は比較的少ない。いつも思うのだが、明治大帝は実によく歩かれたものだと思う。歩くと行っても馬や輦だろうが・・・脇の碑文によれば、明治13年に山梨県ご視察の折、ここにあった脇本陣溝口家でお召し替えになったらしい。

富士急上大月駅を左下に見る大月橋東詰は、富士道との追分だそうだ。今は大月橋によって、簡単に桂川対岸の花咲へ行けるが、昔はここを右折して急坂を桂川まで下ったとのこと。我々も40m程戻り富士急線路沿いに右へ入って、JR跨線橋を渡って左折し大月東中学校前を通って対岸に向かった。

11:57、国道合流。左側に下花咲一里塚跡。とは言っても、一里塚の面影は殆ど感じられない。

下花咲本陣星野家を見て先を急ぐ。あてにしている昼食場所がまだ見えない。花咲の信号の先で、富士五湖方面へ分岐した中央自動車道の下をぐぐって、漸く右側に手打ちうどんの旗が見えてきた。

讃岐男は「手打ち饂飩」の看板に弱いのだ。12:25、店に入ると靴を脱いで上に上がり、相席ながら腰を落ち着ける。注文票に書き込んでカウンターに出すセルフサービス的な店である。値段の安さもそこから来ているようだ。先客のせいで残り少ないフリーのサラダをつまみながら、先ずは少々のビールで喉を潤し、歯ごたえ充分の手打ち饂飩に舌鼓を打つ。

12:52、饂飩パワーをつけたところで再出発。通りかかった大月警察署は立派な建物だ。

しばらくすると、やたらと埃っぽくなってくる。あれっと思いながら左側の橋を渡ると、どうやらその先の採石場のせいだと判る。その手前で右の小径へと入っていくが、JR線路に沿ったこの道は、残雪・ぬかるみで慎重に足窒捜しながら歩く。600m程も歩いたろうか、道は企業内の私道と錯覚しそうな採石場の中を通っていく。

やがて第七甲州街道踏切を渡って初狩方面に向かうが、右の川の畔にあった石碑の案内板には聖護院道興歌碑とあり、碑面の歌が紹介されていた。
踏切を越えて漸く国道へ戻る。13:33、戻った場所には日本橋からぴったり100kの標識に出逢い、デジカメの出番となる。

やがて初狩駅入口。ここは、何度か登った高川山登山の出発点として、また、実質標高差1,000mに喘いだ滝子山登山時の帰着駅としても利用しており、懐かしい。

右側に見えてきた初狩小学校は歴史的にも古く、明治6年福聚院初狩学校として始まったとのこと。学校の先で明治天皇御小休遺跡の石碑が現れる。ここが初狩宿の小林本陣跡である。
小さな唐沢橋を渡ると、橋の左袂に首塚の案内板があり、武田勝頼の逆臣だった小山田信茂の首塚とのことだが、よく判らない。その辺の史実に疎いため関心希薄で先を急ぐことにする。
きょうのお楽しみにしている笹一酒造の看板が目につくようになるが、徒歩の我らにはまだ先の話だ。

船石橋を渡った左側の草むらに石碑があり、御船石所在地とある。船石と言うのは船を繋ぐ石のことで、ここに船溜まりがあったのだろうか。
立河原の集落を抜け、北方川と滝子川に挟まれ半島のような尾根を笹子川沿いに迂回し、右への小径に入っていくと、白野宿になる。

宿場の出口近くの右側に今泉本陣跡がある。何の案内板も無く、今は別人の住まいのようで本陣の面影は全くないが、建物の佇まいにはそれなりの雰囲気が残っている。

白野宿から再び国道へ出ると原入口バス停があり、右へ入っていくと原の集落で、1kmあまり旧道が続く。右に稲村神社があり、左に親鸞上人念佛塚があった。

やがて笹子川を渡ると正面に笹一酒造がある。いつでも蔵見学ができるらしいが、トイレを借りた址売店に入り帰途の列車内でのドリンクや土産を買う。試飲の末、オレファンにごりわいん(赤)というのが旨い。アルコール度7%、ポリフェノール2.5倍という甘口と言うより旨口という形容が相応しいリーズナブルな土産を買い、帰途列車内用にも買い込んで駅へと急ぐ。

建物の前には太鼓がありここでもデジカメの出番となる。約5分で本日のゴール地点、JR中央本線笹子駅に15:20到着し、トイレもないこの駅で帰路の列車を待つ。帰りの列車では、ボックス席を3人で独占した形で心地よい疲労感と美酒で楽しい語らいのひとときを過ごしながら家路についた。