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甲州道中餐歩記~5
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2008.02.08(金) 藤野駅前(9:46スタート)→ 鳥沢駅入口(15:35ゴール) <第5区> 19.4km 所要5:49

高尾発9:25の列車で9:38藤野駅到着。高尾から同乗の筈と思っていた山仲間の清水君が一便早く到着済み。前回一週間前の続きとなるきょうは、山歩&旧東海道餐歩仲間の彼との2人旅だ。R20の藤野駅前信号を右折し西進していくと、道はJR中央本線を左から右へ跨線橋で越えていく。

線路を越えると、右上から中央自動車道が迫り、僅かな幅の中にR20と中央本線、中央自動車道の3本が並走する箇所で、旧東海道餐歩時の薩埵峠を思い出す。歩道が中央自動車道の橋脚の中を通り、高速道下が終わると国道に降り、関野宿へと向かう。。

駅から15分程歩いた右手の増珠寺に10:02立ち寄る。案内看板に従って坂を登って行ったが境内には力士の話に関する案内板が見あたらず、道路に出て今は閉鎖されている正面石段下に、当地関野生まれで西大関まで進んだ力士追手風喜太郎に関する案内板が漸く見つかった。追手風部屋の創設者で、引退後もその年寄名跡は今日まで延々続いているらしい。

小淵小学校下を過ぎ、名倉入口信号から国道と別れ左下へ坂を下って行くと、数年前に相模原市に合併した藤野町(神奈川県)と上野原市(山梨県)との県境である境沢橋--江戸時代なら相模国と甲州の国境--を渡ると、すぐに相模湖を渡る大きな堤川橋に出くわす。その手前でウインドブレーカーを脱ぎ、これから橋を渡らずにUターンする形で日光いろは坂のような急坂を登って行く準備をする。

高尾山の一号路のような感じだが傾斜は幾分緩やかだ。Uターンを3回繰り返して高度を上げるが、最後の右カーブ内側に諏訪番所跡があった。別名境川番所・境川口留番所等とも言われたらしい。その先の上野原自動車教習所は宿泊施設を備え、一時は東京辺りからも生徒を迎えて繁盛したらしいが、練習場を走っているのは1~2台でうら寂しい。

そのしばらく先の右手の神社境内には廿三夜塔が建っている。前回の旅でも出てきたが、これは、陰暦の23日夜、講中が集まって願い事を叶えるべく共に飲食しながら月の出待ちをした場所に存する石塔である。なお、この神社(諏訪神社)は、昔当地支配の古郡氏建立の故をもって古郡神社と掲額されている。

諏訪神社を過ぎると何と旧甲州街道は中央自動車道の上を通る。その先右手にその名も珍しい「疱瘡神社」や18里目の「塚場一里塚跡」があった。古の難病だったにせよ、こういう名前の神社は初めてだ。

やがて、上野原市街地の入口「新町」にさしかかると右手からR20号が合流。上野原の市街はやたらとまんじゅうの店が多い。酒まんじゅうが名物の由だ。その間の国道沿いに本陣跡がある筈だが、本陣跡らしい某ホテル前にも何の表示もなく、市の文化財保護姿勢に不満を漏らす我々だった。上野原市教育委員会の奮起を促したい。

「大ケヤキのまち上野原」という表示が通りの随所に見られたが、帰宅して調べてみると大きな一本のケヤッキーが上野原小学校傍にあるのをウリにしているらしく、ピンと来ない感じだ。

市街地をほぼ抜けた本町信号のちょっと先の変形4差路から再び左直角に旧道に入る。
真っ直ぐ行くと気を抜けないポイントになり、地図と写真首っ引きで小径に入り、用水の流れる坂道を下って行くと突然横断歩道橋が現れた。R20に架かる鶴川入口歩道橋で、これから行く進路を確認。手前の杉林の向こうが鶴川で、その向こうに河岸段丘が広がっいてる。

歩道橋を渡って降り、標識に沿って野田尻への県道に入る。
途中から歩行者用のショートカットした便利な道を降りていき、鶴川に架かる橋を渡る。


上野原の街が標高264m、ここ鶴川が250m、そしてこれから向かう大椚は340m。これから約100mの登坂をしなければならない。鶴川を渡った右手に案内板。鶴川宿は正徳三年(1713)にできた小さな宿場らしい。案内板やら真新しい石造りの宿表示をカメラに収めて少し進むと曾ての宿らしい雰囲気が残る古い街並みに入る。左手に、馬宿だったという若松屋が、その北に旅籠の村田屋があった。

その先で直進か左折か表示が無く迷う。千代苦心しかけたが“どうも変だ”と左手への登り坂へ入ろうとすると小さな道しるべを発見。どうやら本来の左折ポイントに道しるべがなかったための混乱だったことが元の道に引き返してみて判り、再び地元の教育委員会のサボりに不満を漏らしてしまう我らだった。

坂を登って進んでいくとやがて立派な蔵を持った家々が目立つようになる。そこでちょっと面白い蔵があるというので注意していたら、あったあった、街道歩きも大分やった我らだがこんな蔵は初めてという、何やら西洋風な蔵が存在をクローズアップさせていた。

やがて道は森の中へと進む。S字カーブを描きながらの登っていくが、残雪に緊張感を覚える。アイゼンも念のため携行してはいるが、装着するほどでもない。

S字に登っていく森を抜けると、いきなり風景が変わる。12:06、我らが旧甲州街道は正面の歩道橋を渡る。「蔦ヶ崎橋」という。真下を車が歩き旅の我らとは正反対に高速で走っている。

左手に「大椚一里塚跡」の案内板に加えて、日当たりにベンチまである休憩ポイントを見つけたので、12:10~12:26の間、昼食タイムとする。

街道の右手にあるオリムピックカントリーへあと2kmの看板を見ながら更に登って行くと大椚の集落だ。右にまた廿三夜塔を見る。更に進むと左祠と石塔が現れ、大椚宿発祥の地と書かれている。正式の宿にはないから、おそらく古い宿場だろうか。やたらと石造りの蔵が多いところで、これには驚いてしまう。

宿場外れの小さな森に吾妻神社。トイレもあり境内には大椚観音堂があり、大日如来坐像・十一面千手千眼観自在菩薩の二体の仏像に関する解説板もあった。 この辺りになると、上野原の教育委員会も全く何もやっていない訳では無いのかなと思えるようになる。西から順に整備しているのだろうか。

その先で峠に差し掛かる。と言っても標高355m程度。それでも鶴川から155m登ってきた計算になる。峠を越えると行く先に大きく中央自動車道が見えてくる。談合坂SAへ1kmだ。

中央自動車道は、昭和42年12月の調布~八王子間開通を皮切りに、翌年に相模湖まで、更に次の年に河口湖まで開通した。名古屋からは昭和42年小牧多治見まで開通し、50年駒ヶ根まで来た。51年高井戸まで繋がって、東京から河口湖まで高速で行けるようになり、57年11月に勝沼~甲府昭和開通により全線が開通した。

間もなく標高375mの長峰峠跡に到着。時刻は13時02分。道の左側が、小さな緑地のようになっているが、北斜面で残雪に大方が蔽われている。この辺りは二度の中央自動車道工事でズタズタにされ、辛うじてこの緑地の中に当時の往還が僅かに痕跡を留めている。

上野原町教育委員会による説明板によれば、

 発掘調査された長峰砦跡

 長峰砦跡は、山梨県の東端部、上野原町大椚地区に所在した、やや小規模な中世の山城跡です。この付近は戦国時 代の終わり頃、甲斐と武蔵・相模とが国境を接するところで、当時こうした国境地帯によく見られる、「境目の城」と呼ばれるものの一つで、周辺のいくつかの城郭と結びつきを持ちながら、国境警護の役割を担ったものと考えられてきました。
 しかしそれがいつ頃、誰によってつくられたのか、どのような戦いの歴史があったのかなどについては不明な点が多く、また一九六〇年代後半の中央自動車道建設工事などによる影響のため、元の姿をよくとどめない状況になっていました。このような中で一九九〇年代後半になって再びこの遺跡が中央自動車道拡幅工事の計画区域に取り込まれ たため、工事に先立ち平成7・9・10年度の三年にわたって発掘調査が実施されました。
 調査の結果、戦国時代末の長峰砦に結びつくと考えられるものに、山地を整形して設けられた郭(見張り小屋などを置く平坦地)の跡、尾根を切断する堀(堀切)の跡、斜面を横に走る横堀の跡などがあり、とくに堀跡からは鉄砲の玉が出土したことなど、いくつもの成果が得られています。また長峰と呼ばれるもとになった尾根状地形のやや下がった位置に尾根筋を縫うように幅1m余りの道路の跡が断続的に確認されました。これは江戸期の「甲州街道(正 式には甲州道中)」に相当するものと見られるものでありました。
 長峰砦跡は、その歴史的な全体像を理解するには、すでに手がかりの多くが失われているものでありましたが、それでも発掘調査を通じて次のような歴史をとられることができるものと思われます。
 この長峰の地には、縄文時代以来の人々の何らかの活動の跡も断片的ながら確認され、ここが古くからの交通の要所であって、戦国時代にはこの周辺で甲斐の勢力と関東の諸将たちとの勢力争いが行われています。そこで交通を掌握し戦略の拠点の一つとするための山城、すなわち長峰砦が築かれました。
 その後、江戸時代になって砦の跡の傍らを通る山道が五街道の一つの甲州道中として整備され、ここを行き来する 旅人は砦の時代を偲びながら通行して行きました。そうした歴史は現在の中央自動車道にひきつがれているものといえましょう。
                                 上野原町教育委員


 尾根を歩くように通っているこの道は、右が中央自動車道、左は眼下にオリムピックカントリーのグリーンが見え、その向こうには四方津駅からエスカレータが延びた大規模開発の住宅地「コモアしおつ」が望める。何年か前以来、山仲間としばしば列車で通る度に見るガラスの筒が駅から山上に延びている景色は想像外だっただけに見る度に度肝を抜かれる思いである。

13:08、「これより甲州街道野田尻宿」の看板を最後に、中央自動車道上に架かった横断橋「新栗原橋」で上空を渡る。これできょうは高速道下を通ったのを別にしても、高速道を横断するのが3回目である。やがて道は緩やかな下りに入り、暗い切り通しを抜けて野田尻の集落へと入って行く。喧噪とは隔絶されたのどかな道である。

この野田尻宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠は大小合わせて9という小さな宿場だったようだ。昔の屋号が残っている家が多く、姓では和智姓がよく目につく。

宿場外れに宿場だったことを表す石碑があり、向かいの犬嶋神社の手前にある明治天皇御小休所跡がこの宿の本陣跡だったようだ。

 犬嶋神社の先で集落(宿場)が終わり、緩やかに道が左カーブすると、やがて「西光寺」の正面に出る。角のミラーの隣には「甲州街道ぶらり旅」や「人生はへんろ道だよ」とか「甲州街道遍路道」などと書かれた看板があり、ここを右に回り込んで行くと、寺の裏手で急坂の登坂が始まる。残雪が凍っていて滑らないように慎重に登っていくとやがて明るくなり、道は中央自動車道に沿って進むようになる。標高400m。

 やがて左に中央自動車道をまたぐ橋が見えてくる。13:34、橋を渡ると突然舗装が切れて山の中の林道を通り、犬目に向かう県道に合流。県道との合流地点の道標に従い犬目宿へと進んでいく。石垣の上に萩野一里塚。日本橋から20里、19番目の一里塚である。

中央自動車道の防音壁に沿って進むと今度は中央自動車道を右へ渡る矢坪橋だ。13:46。 橋を渡って間もなく右手小径に入り、いよいよ遍路転がしならぬ座頭転がしだ。その手前に矢坪坂古戦場跡の案内板がある。

 上野原町指定文化財
 矢坪坂の古戦場跡
 所在地 上野原町大野矢坪一帯
  指 定 昭和52年(1975)12月22日

 説 明  長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に出る。
      この矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い昔戦場となったところである。
      享禄三年(1530)四月二十三日相模国の北条氏縄の軍勢が甲斐に攻めこみ矢坪坂に進んだ。
      一方、小山田越中守の手勢が坂の上で待ちかまえ、両者は坂をはさんで対峙し、やがて激戦が
      展開された。
      同所一帯は南西に切り立った崖と北面に山腹を臨み道が入り組んでいる要害の地である。この
      戦いは多勢に無勢、ついに小山田氏は敗退となり、富士吉田方面に逃げた。
      現在、つわものどもが夢の跡をしのぶ影もない。ただ、たまに矢じりなどが掘り出されること
      があったという。また付近に五輪塔四基、宝篋印塔一基があるが、この戦の関係のものかどう
      か定かでない。
                               上野原町教育委員会


小径はやがて武甕槌(たけみかづち)神社入口の鳥居前を通過するが、神社は大分上の方のようなので、まっすぐいく。最後の民家前では、白い大きな犬が珍しい旅人に大声で吠えかかるととい先人の体験記どおりだった。

 左側に手すりのある暗い森の中を進むと、やがて明るいフェンスに守られた道になり、柵がなければやや怖い道だ。これが「座頭転がし」と言われる所のようで、昔の旅人たちの難儀が偲ばれるところだ。
やがて新田の集落となり、やがて正面に威圧するような石垣エンジニアリング大きなビルが現れる。

犬目宿は、扇山登山の折、君恋温泉だったかに立ち寄りの後ここまで降りてきてバスを待った記憶が鮮明に残っており、懐かしい気がする。ここは中央本線から離れた扇山の麓に位置するが、中央本線が標高280mの位置を走っているのに対して、この宿は標高510mと230mも高い場所にある。最寄りのJR駅は梁川だが深い峡谷をなす桂川に遮られて、街道をこんな高所へ追いやったようだ。宿場は短いが、犬目の兵助の墓や、缶ビールを飲みながらバスを待った懐かしい犬目宿直売所があるが、きょうは閉まっていた。

 
義民『犬目の兵助』の生家

 天保四年(1833)の飢饉から立ち直ることができないのに、天保七年(1836)の大飢饉がやって来ました。
 その年は、春からの天候不順に加え、台風の襲来などにより、穀物はほとんど実らず、餓死者が続出する悲惨な状況となりました。
 各村の代表者は救済を代官所に願い出ても、聞き届けてもらえず、米穀商に穀借りの交渉をしても 効き目はないので、犬目村の兵助と下和田村(大月市)の武七を頭取とした一団が、熊野堂村(東山梨郡 春日居町)の米穀商、小川奥右衛門に対して実力行使に出ました。称して、『甲州一揆』と言われています。
 このとき兵助は四十歳で、妻や幼児を残して参加しましたが、この一揆の首謀者は、当然死罪です。
 家族に類が及ぶのを防ぐための『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に残されています。
 一揆後、兵助は逃亡の旅に出ますが、その『逃亡日誌』を見ると、埼玉の秩父に向かい、巡礼姿になって長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を伸ばし、四国に渡り、更に伊勢を経ていますが、人々の善意の宿や、野宿を重ねた一年余りの苦しい旅のようすが伺えます。
 晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応三年に七十一歳で没しています。

   平成十一年十一月吉日                        上野原町教育委員会

兵助の生家「水田屋」のほか、明治天皇御小休所址の碑や本陣跡もある。枡形になっている宿場外れから直角に右折すると寶勝寺。直径1m位の丸石に大きく「空」と書かれたオブジェがあった。やがて道は扇山登山口、その先に白馬不動尊の鳥居、完全予約制の蕎麦屋「瀧松苑」、そして君恋温泉へと続く。三人も入ればいっぱいになる小さな風呂が男女各一つのミニ温泉宿で、扇山からの下山時に立ち寄った懐かしい所だ。

君恋温泉からは下り坂で、扇山~犬目宿の道標やその脇に不動明王の石碑があり、やがて「恋塚一里塚」だ。日本橋から21里の一里塚は、正面から見ると立派な塚だが、裏を見ると、沢方向に崩壊していた。

 一つカーブを曲がって馬宿の集落。僅か200m足らずの小さな集落で、この馬宿には甲州街道では珍しい石畳があった。ただ、ここも残雪で下り道を慎重に歩いた。距離約40mだが、確かに歴史を感じさせる古い石畳だった旅のの風情を感じさせてくれる貴重なひとときだ。すぐまた舗装路に出たが、手元の気圧高度計は575mを指している。

 馬宿~山谷間で、唯一開けた場所から富士山が見えた。あとは一路南へと下っていく。やがて何度目になろうか、中央自動車道の高架をくぐった先で国道20号と合流する。古久屋生花店に突き当たるように国道へ飛び出すと右折して国道20号沿いの鳥沢宿へと入る。

鳥沢駅までは750m程だが、道の両端の家々はいかにも旧宿場の風情たっぷりで、古い家並みが続く。何でも、もともと道幅が広く造られた宿場だったため、国道20号になった今も拡幅による立ち退きがほとんど無かったことに由来するらしい。高畑山・倉岳山登山の際に二度ばかり通った懐かしい道だ。

標高317mの鳥沢駅には15:35に到着し、清水氏との楽しいきょうの二人旅もゴールとなり、次回の続き旅同行を約した。