Top Page
甲州道中餐歩記〜4
Back
Next
2008.02.01(金) 高尾駅前 (9:36スタート) → 藤野駅前(15:37ゴール) <第4区> 16.9km 所要6:01

 関東の駅百選
にも選ばれている高尾駅舎を出て、高尾駅前交差点のコンビニで昼食用お握りと大福餅を仕入れ、9:36次なる目標地「藤野駅前」に向け出発。

 排ガスのない裏道も知ってはいるが、忠実に甲州古道を歩くべく、まずはR20を西進。20回近くは歩いて通った両界橋東信号から左カーブして南浅川の上とJR中央線の下を抜けるとある両界橋の下に、昔「
獅子淵」と呼ばれた古淵がある。その脇に、中山介山が執筆に専念すべく住まいしたこともあるという「草土水房」を確認。今までそんな謂われのある所とは全く知らなかった。

 西浅川交差点を右折して旧道に入る。アルコール専門外来や入院病床もある駒木野病院を過ぎると右手に「
小仏関跡」。遙か以前には小仏峠に置かれて「富士見関」と呼ばれていたらしいが、その後手前の麓に降ろされ、やがて徳川幕府の重要な関所として現在地に移され、のち明治2年の太政官布告によって廃止される迄重要な役割を果たした所だ。ここには駒木野宿の碑がある。

 しばらく行くと緩やかな下り坂。左に石碑が並び、ここが
念珠坂。更に行くと、右手に東京最後の分校だった八王子市立浅川小学校上長房分校が2007年春に廃校となった跡に、「みどり幼児園」があった。
 蛇滝口のバス停傍には本格的な
水場があり、その隣には家紋や名前の書かれた札がいっぱい並んでいた。蛇瀧水行道場への分岐手前に圏央道の高架橋が高尾山腹に突き刺さる形で延び、工事関係者が通っている。

 10:18、摺差の有名店「峰尾豆腐店」を過ぎ、左手の鱒釣り場手前に来ると一日200円と書かれた駐車案内が見える。一時間の間違いではない。日影バス停、日影沢林道分岐を過ぎた所に「山を壊す者に天罰あり」と書いた
天狗の大看板。先ほどの圏央道建設反対の看板だ。
10:32,JR線路下の煉瓦のトンネルをくぐり線路を左手に見るようになってしばらくすると、JRは小仏トンネルへと入っていき見えなくなる。

 どんどんと一路登り勾配の道を進み、小仏バス停を過ぎると左手に
寶珠寺。このあたりが峠から下りてきた後の小仏関所の筈だ。ここには、天然記念物に指定されている「小佛のカゴノキ」がある。更に登って最終自販機で本格的登坂に備えての栄養補給のためのドリンクを飲み、水場、林道終点の車進入禁止柵を越えて山道に入る。

 途中、上から老登山者が片手に軽アイゼンを持って降りてくるのに出会って“はっ”とする。時期は冬だ。正月3日に相模湖側からの小仏城山登山以降は山登りをしていないし、うっかりアイゼン携行を怠っているが、残雪などで峠への登りや、先の美女谷方面への下り斜面が気に掛かってくる。最悪の場合、途中で引き返しての再挑戦もあり得るかと覚悟を決めてどんどん登っていく。

 ようやく着いた
小仏峠には「小仏峠560m」とあるが、548mが正しいはずで、おかしい。今や廃墟となった元茶屋が二軒、今では無人で奥の茶屋先の広場で、先着登山グループが景信山登山途中で休憩中。11:25だったので竹のベンチでお握り昼食。明治天皇の野点跡碑や明治期に臨時総理大臣も経験のある公家、三条実美が高尾山薬王院を訪れた時に詠んだ歌碑の読み方を老登山グループに解説してあげる。

  “来てみれば こかひはた織 いとまなし 甲斐のたび路の 野のべやまのべ”

 「こかひはた織」と言うのは、蚕飼い機織りのことで、当時養蚕が盛んだったことが窺える歌である。

 11:38、ここから「旧甲州街道」への標識を頼りに、しかし残雪の心配をしながら初めてのルートを下り始める。意外や道は適度に幅広く、落ち葉に蔽われ道標も1箇所を除けばしっかりしていて、快適な下山ルートで一安心だった。残雪も全くない。完全・快適な山道で、今まで通らなかった自分が悔やまれるぐらいのルートである。

 峠から20分位下ったら突然鉄塔が現れた。その右手の道にはいると道は尾根から外れ杉林の急斜面をジグザグに下る。小仏峠登坂時に鼻水が出始めたが、どうやら本日1日を期して花粉症再発を自覚する。やがて中央高速道と同じ高さになり、更に降りると車道が眼下に見え始める。

 車道に出ると
甲州古道底沢の道標。甲州道中の迂回路は右折とある。12:18Uターンして車道を進むと森が開け、正面に中央自動車道の高架、左に中央本線の線路が見えてくる。かなり高い高架をくぐってT字路に着くと、甲州古道美女谷と底沢バス停1キロの道標が二つある。

 右に行けば、何となく男心を刺激するネーミングの美女谷温泉だが、甲州街道は左折して再び中央自動車道の高架をくぐっっていく。その直後、右側に
小原宿への道標があり、次のようなことが書かれていた。
     甲州道中はここを登り中央自動車道の下を通り、樋谷路沢を渡って
     小原本陣脇に出ますが、今は通行不可能です。
 どうやら、高速の工事で消えてしまったようだ。

 やがて下り坂の先で中央本線をくぐって右方向へと線路と同方向に進んでいく。登山道から車道に出て、12:40底沢バス停を通過。バス停はR20にあり、底沢橋を左手に見て右折していくと右側に「
小原の郷」という相模原市の施設がある。トイレもあり、小原宿に関する各種展示をやっていて、早速記帳し、挨拶してくれた係の老婦人との雑談の中で、先日も旧東海道を歩き、こちらと平行して楽しんでいると言ったら、それではこれを差し上げましょうと言って、相模湖駅から初狩駅までの甲州古道ウォーキングマップやNHK放映の勅使川原郁恵による甲州街道「街道てくてく旅」冊子などを特別にくれ、大変ありがたく頂戴した。

 その先の「
小原本陣」も入館無料で12:57〜13:11の間、内部見学した。日野本陣や花咲本陣と並んで甲州道中現存の貴重な本陣である。挨拶・記帳して靴を脱ぎ、他に見学者はなく貸し切り状態。参勤交代の殿様も寝泊まりした上段の間を始め、台所に至るまで、また庭や急階段を上って2階の蚕室や養蚕道具などをじっくりと拝見。

 更に進んで「旅館ひらの」がある右脇道を登る甲州道中へと入る。 道はどんどん登っていく。頂点を越えた所にある塚本水道店を13:24に回り込む形で緩やかな坂を下って行くと、トンネルからトンネルへと走る中央本線が見えてくる。登り坂を終え平らになった道を進み突き当たり左手へと真っ直ぐ下る道を行く。右手にUターンする形で階段が見えたらそこを下りて行くと正面に中央本線の線路が見える。

 その向こうが相模湖駅。明治34年与瀬駅として開業し昭和31年相模湖駅に改称した、山歩でなじみの駅だ。下りからほんの少し登り返すと、小さな交差点があり、
甲州道中与瀬下宿の道標。そのまま真進してR20へ出る。正面は桂北小学校だ。時に13:35。

 相模湖駅前交差点を過ぎ、13:44
与瀬本陣跡。門までは往時を偲ばせるが肝心の奥は現代風。その先を右に急坂を登って行き、Y字路に慈眼寺の石碑、その左に進むとすぐ隣に与瀬神社の大きな鳥居が現れ、その向こうに大きな階段が見える。いつだったか、現役時代の同期生たちと明王峠から下りてきた時に通ったルートである。慈眼寺と与瀬神社の参道を中央自動車道が横切ったがため作られた大きな歩道橋があるが、きょうは無縁なのでパス。

 鳥居の前を西進すると突然道が突き当たるが、その直前に左へ人が通れる歩道があり、中央自動車道工事で寸断されたがための迂回路として左先の階段を下りて、R20沿いを進んで行くと、カーブの頂点にラーメンセンター相模湖店があり、本来の甲州街道はこのラーメン店裏から沢を渡り山へ登るのだが、裏を探してもまともに登る道は発見できなかったため高速道路をくぐったところにある道へ進み、登って行ったという経験者の話を信じてその通りを行ったが、後刻、昨年復元されていたことが判ったが後の祭りだった。

 すぐにもう一度高速道路をくぐり、どんどん歩道を登っていくが、かなりきつい。やがて左に石井モーターサービスをみるようになると、右から本来の道が合流してくる。これが本来の甲州街道だ。

 既に高速道路よりも高位置へと登ってきている。道はなおも上り坂が続く。自動販売機がある「やました生花店」でドリンクを一本飲み干し、更に登り続ける。やがて小さな峠になり、その峠を越えると相模湖町から藤野町へと入る。

 正面にカラフルな家並みが現れ、その下のボディーショップファミリーオートという板金屋先を左に降りるとやがて橋が現れる。下は中央自動車道相模湖インターの上空だ。更に下って行くと道が右カーブし、今度は左カーブになる手前、農道のような右の草道へと入っていくのが甲州道中だ。
農道は車道に合流し、右に進むと程なく石碑群が現れ、続いて手作り家具の工房Do楽。また歩道橋の上に、下を覗くと今度は相模湖インターからの道が国道へ合流する交差点の真上に出る。

 最後の急坂を下るとR20の吉野へ出る。右に曲がって
資料館へ向かう。吉野宿大火後、明治30年築の旅籠「藤屋」が現在の藤野町郷土資料館である。14:43、挨拶してはいると同年配の嘱託係員がいて、記帳・挨拶後各種資料をくれ説明してくれる。

 再び靴を脱ぎ、上に上がって見学。2階もあると言うので上がると、どこやらの調査員と称する女性二人組が、恐縮しながら仕事をしていた。各種資料類が展示保管されていて、とても詳細には見切れない。
思わぬ時間を費やして15:11退散。

 国道を挟んだ資料館向かい側が
本陣跡。本陣は江戸末期に計画され明治9年完成の五層楼を含む壮大なもので、現存の土蔵を囲むようにして建てられていたが、明治29年の吉野大火で焼失、唯一土蔵だけが残った。
 明治10年頃の吉野宿を当時の写真・資料、土地の古老からの聞き取り調査などで
再現した模型が資料館にあったが、町並みはもとより建物の細部に至るまで忠実に再現されたものの由。

 吉野宿外れの沢井川に架かる
吉野橋の左側東詰に小猿橋の説明板や、きょう何回か見た「二十三夜」の石碑などがあった。橋を渡り左に中華料理の福龍があるところを、右へ国道と離れ登って行く。この旧道は藤野中学校の前を通る400m程の短い旧道で、すぐ国道へ戻る。

 あとは、国道歩きとなり、日連入口交差点や陣馬山登山口方面への分岐を通り過ぎ15:37藤野駅に到着。

 今日のコースは、
   * 小仏峠からの下山路が、想像と異なり素晴らしかった。
   * 国道歩きが比較的少なく、坂はたっぷりあったが風情ある旧道歩きを楽しめた。

   * 本陣や資料館など、中に入って直に当時の史実に触れることができた。
など、これまでの甲州道中旅の中でも、とりわけ素晴らしい一日だった。