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甲州道中餐歩記〜3-2
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2008.01.30(水) 大和田橋南詰(9:40スタート) → 高尾駅前(11:24ゴール) <第3区−2> 13.2km 所要1:44

  財布の携帯を確認して自宅を出発。
 京王八王子駅から前回の区切り点である「大和田橋南詰」に行き、9:40スタートで北大通りに入る。第五中を過ぎたところで旧道は左に斜めに入り、約2分後、右側に公園と「
竹の鼻一里塚跡」。公園の名前は竹の花だが、古名は竹の鼻。公園の隣の永福稲荷大明神の裏手の鉄柵の中に芭蕉の句碑があった。

   蝶の飛ふ はかり野中の 日かけかな

 この永福稲荷の正面石垣に妙な石版がはめ込まれていた。
八王子米屋中と彫り込まれ、米屋講の前身八王子米屋中という講社がこの永福稲荷を建てたらしい。
 すぐ先で、当時は左に直角に曲がる枡形、現在はT字路T字路に突き当たり、左折してR20に合流すると
横山宿、現在の八王子である。

 甲州街道随一の宿場町となった八王子は、古代横山党から
横山十五宿と呼ばれ賑わい、明治期も生糸の中継地として群馬から横浜への荷が数多く通るシルクロードが通っていた。現在も「絹の道」としてその痕跡が市内に残されており以前歩いたこともある。ここから旧甲州街道は現R20を真っ直ぐ「追分」へ向かう。

 国道へ出た右手にすぐ
市守神社・大鳥神社の両社がある。なかなかの規模だ。
八王子城は秀吉の天下平定戦で落城したが、戦後の市場再開ニーズの中で横山町では四日市、八日市が開かれた。八王子市の夢美術館手前に
八日市宿跡の碑がありカメラを向けたら1GBのメモリーが満杯で拒否反応。残念ながらここから高尾駅前までは写真撮影無しの道中となる。

 本郷横丁信号まで続いたアーケード街も終わり、10:29、陣馬街道と別れる「
追分」に到着。その道標に行くには交通量の多い三差路の横断歩道橋を二回渡り、Y字の真ん中に進まなければならない。撮影不可能なのが残念だが、石の道標には「右あんげ道 左甲州道中高尾山道 千人町」とある。 

 その追分道標からちょっと陣馬街道に入った場所に「
八王子千人同心屋敷跡記念碑」。千人同心に関する説明が懇切丁寧に掲示されている。元の追分に戻って高尾山道へと入ると有名な銀杏並木の通りだ。今は枯葉も残ってない裸同然だが、ストリートとして見ると壮観なものだ。

 西八王子駅前を過ぎ、長房団地入口の信号を右折すると「
右高尾山マデ一里半、左真覚寺マデ八丁」の道標。昭和2年に現R20が出来て道が直線になったときの様子も書かれている。
300m程で再びR20に出たところの正面に
長安寺がある。急勾配の屋根上に徳川の葵の御紋が二つ。草大久保長安十三回忌の年、この寺が建てられたそうだが、何故こ葵の御紋が許され寺を建てられたのか?

 「多摩御陵入口」信号を過ぎ、11:10、薄汚れた東京オリンピック記念碑のあるところを右斜めの旧道に入って行くと
高尾街道で旧道が分断されている。すぐ左手の町田街道入口信号まで行って信号を渡り、ふたたびちょっと戻って進むと言うのが、旧甲州街道歩きなので、それを実行。なお、多摩御陵という呼称は昭和天皇陵築造以前の呼称で現在は武蔵陵墓地が正式名称であり、夫婦で1回、友人夫婦ご案内で2回目、YSCメンバーとで3回目の御陵参拝経験があるので、懐かしい気がする。

 再びR20に出ると、道路の反対側に
熊野神社。町田街道入口交差点からすぐの所であり、高幡不動住まい当時、浅川遊歩道・北野街道・町田街道経由で高尾山頂まで片手の指では数え切れないほど歩いた時にこの前を通っているはずだが、この神社に立ち寄ったことはなかった。

 行き来する車の合間を縫ってそちら側に渡り、熊野神社の石段を登ると、神社に向かって左手に、なんと
樫の木と欅の木が合体してしまった巨木がある。近寄ってよく見ても確かに隙間皆無で完全密着しており、そんなことから「恋が成就する木」と呼ばれているとのこと。

 11:24,先日歩き残していた区間を無事歩き通して高尾駅前に到着。ここを左折すればJR&京王高尾駅はすぐだ。2月1日には、再びここスタートで藤野駅前まで歩く決意を再確認して京王線で帰途につく。