甲州道中餐歩記〜10-2
Top Page
Back
Next
2008.04.26(土) 台ヶ原宿・梅屋旅館(7:48スタート)〜神戸八幡交差点(12:58ゴール) <第10区-2>19.3km 所要:5:10

快眠した甲州道中初の宿泊だったが、昨夜の焼酎がやや過ごし過ぎの感無しとしない。6時半からの朝食も豪華版で、とても食べきれない。おかずは二品半残し、極旨のご飯は軽く一膳といつもどおり。夕べの泊まり客は我ら三人のみだったのでゆっくりとくつろげた。

清算して7:48梅屋旅館を出発する。天気は曇り、朝のテレビでの予報は何とか曇天で夕方まで持ちそうな感じだったが、やや不安無しとしない。旅館からは5分ほどで国道へ出るが、その手前の火の見櫓下を右折すべき処をうっかり通り過ぎ、気づいて引き返す。白須上の集落には松や蔵の立派な家が並ぶが、庭に彩られた芝桜や花水木、桃・八重桜・水仙・山吹・ツツジなど、立派なお屋敷・庭園・植木などと相俟って見事というほかない。至福の街道歩きだ。

ちょうど集落の真ん中あたり、右側に古い建物で、白州町第一稚蚕共同飼育所がある。今は使われていないがかなり最近まで養蚕業が営まれていたことが察せられる。なんでも、甲州道中で現存する飼育所はここだけだとか。

街道は台ヶ原の台地を抜け、前沢の集落へと下って行く。眺めの良い下り坂で、前方に七里岩の岩肌が行く手をさえぎるように聳えている。あの屏風を立てたような断崖では義経の一ノ谷の戦いでのひよどり越え以上の真っ縦で、馬はおろか鹿ですら降りては来られまい。

坂を下りきると、田園風景の中へ飛び出したような開放感が感じられる。一直線の伸びる前沢の集落はだらだら坂の長い登り路で長く感じられる。
街道左手に玉斎吾七という人の歌碑があったが、彼がどういう人物か判らない。右手の林の中に南妙法蓮華経の石碑。8:26、前沢上信号で国道20号に合流し、神宮川に架かる橋を渡ると右手にサントリーの製樽工場が現れる。樽作りのためにカットされた木材が多久さん積まれていて、出番待ちをしている。

この工場先で再び右の旧道へと入る。国道左手にはサントリー白州蒸留所やウイスキー博物館があるようだが横目で眺めながら通り過ぎる。
街道沿いの赤松の森を通り過ぎると右手に広大なグランドが現れ、白州町総合グランドとある。ナイター設備付きのテニスコート等、なかなかの施設である。

荒田の集落への途上には常夜灯が比較的短距離に3つある。

美しい松山沢川の橋を渡って、国道20号から小淵沢駅へ向かう新道を横切ると「田舎暮らし情報館」というリサイクルショップがあり、声を掛けられたが、ちらっと見るとホームレス生活セット一式がすぐ揃いそうな(失礼!)、がらくたとも骨董品とも見分けづらいものが庭いっぱいにあり、黙って通り過ぎたが、立ち寄ってじっくり見れば、案外面白い物があったのかも知れない。

流川を渡るといよいよ教来石宿で、名前が珍しい。
「キョウライシ」と呼び、国の境を清める「清ら石」の祭祀が宿名の語源と伝えられている。教来石は上と下に分かれており、最初に通るのが下教来石の集落で、京に近いのが上教来石の集落である。

8:55、街道は一旦国道20号に出る。標高680m程度の地点だ。

2〜3分ですぐ元の旧道に戻るのだが、その間左手に明治天皇御小休所址の碑がある。その先右の郵便局の手前を右へ入って行くのが旧道である。

 旧道に入ると、右手の眼下に田園風景が広がる。明治天皇が通られた際に下の棚田のような田圃で田植えが行われていて、天皇がそれをご覧になった場所である。

9:03、左手の諏訪神社に着く。元和三年(1617)造営の教来石の産土神で、境内には石仏も見える。

   諏訪神社本殿
                                    付棟札1枚 本社拝殿再建諸色勘定帳
                                    昭和43年12月12日  県指定

 諏訪神社の創建及び沿革について詳しいことは明らかでないが、古来から教来石村の産土神として崇敬を受けてき た。現在の本殿は、天保15年(1844)12月19日再建したもので、棟梁は諏訪出身の名工立川和四郎富昌である。
 本殿は一間社流造で、屋根は柿葺、正面中央に軒唐破風付の向拝をとりつける。
 建築の特色は、随所に施された彫刻装飾にある。身舎壁面の「猩々と酒壺」背面の「唐獅子」小脇羽目の「昇竜と 降竜」蟇股の「竹に雀」脇障子の「手長と足長」の浮彫、向拝正面に中国の故事「ひょうたんから駒」の丸彫など、 豊富な意匠、奇抜な図柄、加えて精巧な彫刻は、全体の均衡を失わず、よく「立川流」の作風を伝えており、富昌の 傑作品の一つである。江戸時代後期の社寺建築の動向をふまえつつも、異彩を放つ貴重な遺構である。
 なお、付加指定の棟札に「維持天保十五歳次(中略)甲辰冬十二月十有九日(以下略)」とあり、また本社拝殿再建諸色勘定帳には「御本社棟梁 立川和四郎殿 本社分 一金 四拾二両・米 弐拾八俵・拝殿分 一金 拾七両・米 拾七俵(以下略)」とある。

                                                  山梨県教育委員会

本殿は、それを囲う建物で覆われ、更にその周囲は目の細かい金網のため、写真撮影は出来なかったが、側面に彫られた「猩々と酒壺」とや脇障子の「手長と足長」を見た人もいるらしい。

9:14、この神社の先に明治天皇御田植御通覧之址の碑を発見する。明治天皇は明治十三年六月二十三日に、この場所から田植えをご覧になったとある。やがて田圃の上を通っていた街道は田圃のそばへと下りてきます。

その先にも同天皇の足跡、御膳水跡が左側にあった。巡幸された時、天皇はこの細入沢の湧き水を飲まれて、美味しく感じられ、村人を誉めたとのことであるが、今はもはやは涸れ沢になっていて我々が賞味することは叶わない。

街道は再び教慶寺前で国道20号に出るが、僅か100m足らずですぐ元の旧道、上教来石の集落へと入っていく。

やがて大目沢橋を渡ると、その先の左右に9:29山口の関所跡に着く。

       
町指定文化財(史跡)
       山口関所跡
                                     所  在  地 上教来石1359
                                      管  理  者 白州町長
                                      指定年月日 昭和48年12月1日

 甲州二十四ヶ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。
 ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(154)の武田信玄の伊那 進攻の際設けられたという伝 承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は二名で近隣の下番の者二名程を使っていた。当時の番士は二宮勘右 衛門・名取久吉で名 取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永二年(1705)に本栖の口留番所から移ってきた。
  この番所の記録に残る大きな出来事に、天保七年(1836)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、 防がずして門扉を開いた判断をとがめられ、番士が「扶持召し上げられ」の処分を受けたことである。番士のうち二 宮氏は再び職に戻り、明治二年番所が廃せられるまで勤め、明治六年に設けられた台ヶ原屯所の初代屯所長に、起用 されている。
  今は蔵一つを残し地割にわずかなおもかげを留めるのみであるが、番所で使用した袖がらみ、刺股、六尺棒などの 道具が荒田の伏見宅に残り、門扉一枚が山口の名取宅に保存されている。

この関所を過ぎると、左側に国道20号が接近してくる。

釜無川に架かる新国界橋手前で、国道20号に出、南詰のセブンイレブンに立ち寄る。実は先ほどからポツンポツンと空から水分が落ち始めていたので、この先、食堂らしきものが無さそうなこともあって立ち寄り、昼食用にとお握りを購入、ついでにトイレも借りる。
店に向かって右前に大きな石碑があり、地元教来石出身の山口素堂の句碑とある。句そのものは何度も眼にしたことがあるが、作者や出身地は知らなかったので、眼の覚める思いがする。

 目には青葉 山ほととぎす 初かつお

作者の素堂は、江戸時代前期の俳人で、20才頃、家業だった甲府の酒造業を弟に任せて江戸に出、漢学を学ぶ。33才頃かの芭蕉と出会い、深川の芭蕉庵の近くに居を構え、親しく交流。54才の年には今朝ほど通ってきた神宮川(当時は濁川)の治水にも尽力し、山口堤を築くなどの才もあり、郷土にも大いに貢献した人だとのことである。

ここで、この橋の先の旧道に架かる国界橋を目指して旧道を行くのが筋なのだが、野生の動物よけの感電ゲートがあるとのことで、万が一にもそんな危険はご免被りたい我らは、君子危うきに近寄らず主義で新国界橋を渡って旧道に架かる国界橋近くの感電ゲートを左手に見ながら国道を進み、下蔦木交差点で旧道と合流する。

実は、新国界橋とか国界橋というのは、釜無川の中央で左岸側と右岸側を隔てる信州と甲州の国境である処から命名されたものなのである。真っ直ぐ行けば小淵沢インターへの道、その角には「ドライブイン国界」がある。甲州道中は、下蔦木信号からちょっと先で右へと登って行く。

急坂の旧道入口に日蓮上人の高座石がある。

 富士見町指定史跡
  日蓮上人の高座石

 文永十一年(1274)三月、流罪を赦された日蓮上人は佐渡から鎌倉へ帰ったが、その後、甲斐国河内の豪族波木井 氏の庇護を受けて身延に草庵をつくることになった。その合間に、上人は甲斐の逸見筋から武川筋の村々を巡錫した。 下蔦木(当時は甲斐領・蘿木郷)に立ち寄ったのはこの時である。
 伝承によると、当時、村には悪疫が流行し村人が難渋していたので、上人は三日三晩この岩上に立って説法ととも に加持祈祷を行い、霊験をあらわしたという。その高徳に村人はことごとく帰依し、真言宗の寺であった真福寺の住 職も感応して名を日誘と改め、日蓮宗に改宗したといわれる。また、このとき上人が地に挿して置いた杖から蔦の芽 が生えて岩を覆うようになったとも伝えられる。その後、日誘はこの高座石の傍らにお堂(後に敬冠院と呼ばれた) を建てて上人をまつり、近郷への布教につとめたという。

 富士見町指定天然記念物
  敬冠院境内付近の樹木

 敬冠院境内と付近に現存するサルスベリ、ヤブツバキ、シュロ、ビワなどの樹木は、冬も あたたかな暖帯に生育する植物で、当地方のような高冷地で数種がこれほど大木に生長していることはきわめて稀である。
 とくにサルスベリは推定樹齢200年と目され、これほどの大木は近隣に類例がない。
      平成十一年三月
                                          富士見町教育委員会

続いて右手に追分道標がブロック造りの中にあった。これは武川筋と逸見筋の追分である。ここを行くと七里岩の上部を通って、現代の長坂駅、日野春駅経由で韮崎へ下るようだ。この碑には「へみみち にらさきまで むしゅく」と刻まれていた。
更にちょっと行くと道が二股に分かれ、住職がかの日蓮上人に感応して改宗したという真福寺がある。甲州道中はここを左へ進むのだが、鐘楼造りの山門をくぐれば南無妙法蓮華経の石碑がいくつもあった。

国道からこの寺までが下蔦木集落で、寺の脇から坂を登るとY字路。左へ進んで行くと前方に本陣跡のある上蔦木の集落が見えてくる。やがて右手に「応安の古碑」。応安というのは北朝時代の1368年からの8年間をいう。日蓮上人が歩いてから100年後ということだ。大上人の歩かれた道を、そして往時から多くの旅人がわらじ履きで歩いた道を、今こうして現代の旅人が歩いている訳だ。なにやら往時の旅人気分もちょっぴり味わえる心地がしないでもない。

 やがて、下を走る国道を見下ろすフェンス沿いの道にぶつかり<そのフェンス沿いに右へ下って行くと、曾てNHKの街道てくてく旅でテッシーこと勅使川原郁恵君が田植えをした場所に、甲州街道蔦木宿古代米の里という看板が右へ入った水田に立っていた。
蔦木から上蔦木へ向かう台地上で、左下に国道、右手に古代米の水田という具合だ。

坂道を下って行くと正面に三光寺の大きな屋根、その下に蔦木宿の大きな看板があり、漸く宿場に入ったらしい。小さな川を渡ると左に石の祠がある。その前の常夜灯の方が本尊より大きい。

 100m程で右手に枡形道路の碑があり、ここが蔦木宿の南の枡形である。以前は三光寺の門前まで行って曲がったとの説明が碑にある。その後の道路工事で変えられたようだ。

枡形を抜けると国道両側に宿場らしい街並みがが続いている。甲州街道でもこの蔦木宿は宿場を作るために生まれた町だそうで、その後の国道がこの宿場の通りから離れて外れていれば、より時代を感じさせる街並みが残ったかもしれない。しかし、どの家にも屋号が表示されていて、地元の宿場の佇まいを残そうという熱意が大いに感じられる。

上蔦木交差点を右へ登れば信濃境駅に行けるが、かなり遠い。10:18、その角に本陣の大阪屋の門。建物はなくこの門だけ現存している。どの家にも屋号を印した表札がかけられているが、所々空き地になった処にも屋号の立て札が立てられているのには感心する。
その先右手に与謝野晶子の歌碑と明治天皇巡幸時に使用されたという御膳水のレプリカがあった。この御膳水は七里岩からの湧水で、後にはこの町の水道として昭和26年頃まで使用されていたようだ。

 
  白じらと 並木のもとの石の樋が 秋の水吐く蔦木宿かな

今度は、御膳水の先左手に北の枡形があり左折し、鍵型に廻っていると、地元の人が庭先から「雨で大変ですねぇ」と声を掛けてくれる。入口には枡形道址の碑があり、中間地点には石仏群、出口近くにはお地蔵様があり、元の国道に出て左折する。

枡形の中右側にひときわ大きな木があり、説明板がある。それによれば、この木はキササゲ1株、サイカチ2株、ケヤキ1株で、川除古木と言い、町の天然記念物になっている。明治31年の洪水時には、ここにあった大木を切り倒して水流を変え、蔦木宿を守ったとのことである。この街道でも以前見た上石田のサイカチよりは大きい。

国道に合流してしばらく行った左手の岩田屋建材店の先で左にそれ、川に沿った道へと入る。土手の道を行くと、左手を流れる釜無川に架かる橋の袂で国道20号に合流するが、そこに甲子塚、庚申塚、小さな道祖神があった。標高は約760m、時刻は10:43だ。バス停には神代とある。

ここから、次の旧道入口(机交差点)まで1km余の国道歩きになる。右手ドライブイン赤石を通り過ぎ、何時までも続く上り坂を行くと、漸く分岐点にある火の見櫓が見えてくる。雨の中を自転車に乗ったライダーが何人か我らの反対側を苦しそうに追い抜いていく。傾斜がきついため、いわば桟のようになっている道を左右にカーブしながら登っていくと、机交叉点の信号機と火の見櫓だ。甲州道中はここで国道を離れて右折するが、ちょっぴりドリンク休憩。傘をさしたままの休憩なので落ち着かない。

この右折点からは急な上り坂で、息を切らせて登ったT字路を更に左に登り、落合小学校まで苦しい登り坂が続く。標高はもう800mを越えている。途中、右手のよねや商店の自動販売機で冷たい栄養ドリンクを1本飲み、更に残り少ないスポーツドリンクも買い足す。左に富士見町立落合小学校が現れる。同校は明治6年易知学校として誕生、明治7年落合村合併により沢良学校、明治20年落合小学校となった伝統校だそうである。
やがて道が平らになり、小さな川を矢の沢二号橋で渡るが、緑の立派な歩道橋が付いているのは小学生たちのためだろう。

左手眼下に国道20号、その向こうには釜無川に合流する直前の立場川が流れている。この辺りに奇石かぐら石があるらしいのだが、見あたらなかった。また、信玄直裁碑という机村と瀬沢村の境界を信玄が元亀3年に定めたと言う碑があるらしいが、これも注意していたにも拘わらず見あたらない。雨天のせいか、はたまた無くなってしまったのか?

坂を下って瀬沢大橋の信号で国道に合流。830m、11:17だ。信号で国道を渡り、更に立場川を瀬沢大橋で渡る。渡ったら、川沿いに左へ入る道へ行き、Uターンするように進む。

再びのどかな旧道に入ってきたが、道は登りだ。松田商店にはビールの自動販売機があったが、酒販売店の敷地内設置ということでOkKなのだろう。昼食はおにぎりを購入済みだが、雨天で汗かき量が少ないことと、夕べの飲み過ぎのせいか、昼はアルコール無しで良いという感じでビルを買わずに通り過ぎる。

瀬沢集落はその殆どが登り坂で、先へ進むほど勾配もきつくなって行く感じだ。吉見屋の前で道は二股の分かれるが、真ん中に道標らしい石碑がある。「右○○道、左××道」がよく読めない。この追分を左の更に急な上り坂へと進む。更に急坂になり、再び二股に。そこにも左に道標があるが文字不明瞭。真っ直ぐ登って平らになった所で小さな沢を渡る。

急な登りがまだ続く。右手に知的障害者更生施設のしらかば園が現れると、漸く急坂も緩んでくる。この瀬沢一帯は瀬沢古戦場で、天文11年2月、北から信玄を攻めようとした小笠原・諏訪・木曽・村上の4将が、動きを察知した信玄に奇襲され敗走した所である。
940mの小さな峠を越えると道は穏やかな起伏に変わる。

とちの木の集落もゆっくりとした登りで、それは今日の最高地点である、この先の「原の茶屋」まで続くので、気を緩める訳にはいかないし、相変わらずの雨が小降りになったり強くなったりで緊張感を持続させてくれる。

今日は、この天候を予測できず、半袖下着に薄い長袖シャツ一枚の小生は、寒さに震えながら歩いていて、まだ登り坂が続いているので多少は身体が温まり、助かっていると言える。清水氏は、ちょっと腹具合がイマイチだとか行っているが、ウインドブレーカーを着込んでいて寒さ対策は充分。ただ、風で斜めに降ってくる雨のため、ズボンの舌がずぶ濡れ状態。村谷氏は、実は常にハイキングの七つ道具以上に持ち歩いている人なのに、今回に限って傘を持参しておらず、幸いにもテンガロンハット風のつば広帽子に防水力のありそうな長袖シャツを着ており、相傘を勧めたものの小さな軽量折りたたみ傘なので遠慮してのことか、その侭歩いていたのである。

ここで、清水氏がザックに折り畳み式の簡易レインウェアを携行していることに気づき、村谷氏に貸与できて、“よかった”、“すまなかった“、“助かった”・・・となる。

11:45,右手に尾片瀬神社があったので、本殿横の倉庫風建物の軒下を借りて、石段に敷物を敷き、コンビニで買い置いたおにぎり弁当の昼食とする。約15分で終わり、多少小やみになった雨の中を、12:00に再出発するが、また激しく降ったりする。

再び緩い坂を登って行く。右手には富士見町上水道の第1減圧槽という施設があるが、高度差による水道の加圧をここで減圧しているらしい。
街道は峠の様相を呈し、登りも一段落した所に「とちの木風除林」があった。

      
富士見町指定天然記念物
      とちの木風除林

 とちの木には、古くから樋口姓の者が住んでいた。しかし村は風当たりが強く、五穀は実らず、全戸が今の若宮地 籍へ移り住み無人家の地となった。
 元和六年(1620)、樋口氏が木之間から今の塚平の地へ移住した。ここは周りが草原だったので、神戸から草刈に来 た人達や甲州道中の通行人が時々失火して火災にあった。それで、やや南の方の今の地へ移った。
 このころ片瀬から小林氏が来て住むようになった。やはり北風は強く、内風除けを作ったが、なお稲はよく実らな かった。
 寛政年間(1789〜1800)に村では高島藩へ願いを出して、防風林として外風除けを村の上に仕立てた。そのアカマ ツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして今日に至っている。
 この風除けは甲州街道に直交し、かつ東西に100メートルずれるように設けられている。東側は村の北西、ソリ の道地籍の崖縁に沿う延長160メートルの間に植えられている。樹高20メートル余り、いま胸高幹囲140〜2 40センチのもの35本を数える。
 西側は延長45〜50メートルに上端の幅10メートル余、高さ2メートル余の土盛りをして植えられ、いま胸高 幹囲160〜250センチのもの14本を数える。
 風除けと呼ばれる林は藩の許可を得て設けられるもので、富士見町内では30余りが数えられる。現存するものの 中でこの風除林は、往時からの姿を伝える顕著なものである。
 
          平成15年3月                        富士見町教育委員会


高原の別荘地の様な雰囲気の中に、江戸から四十七里の「重修一里塚」がある。やがて街道が広い草原の土地に突き当たって道が無くなる。三菱マテリアル建材の看板が立っており、私有地である。柵もなく、足元さえ乾いておれば直進したい誘惑にかられる処だが左に迂回し、、すぐ先にある細い路へ迂回するように右折して入って行く。

舗装路から砂利道に変わった道を進む。もともとこの土地は富士見開発(株)の所有地で、1992年三菱セメント建材との合併で引き継がれたとのことで、富士見開発がここで計画していた大きな別荘地が、バブル崩壊でボツになった土地らしい。

この迂回路を抜けると「原の茶屋」の道標が現れる。本日の、否、笹子峠を覗けば、211kmに及ぶこの甲州道中随一の標高点がここで、965mである。我々は、登りに登って漸くこれから緩やかな下り道に入れるという訳である。

原の茶屋の集落の中ほど右手に「富士見公園」。その入口の案内板にその由来や園内の著名人の歌碑配置図が記されていた。

 
     公園由来

 明治37年11月、左千夫は甲州御嶽歌会の後を韮崎より馬車で入信し、上諏訪にて赤彦と初対面した。明治、大正 時代の日本短歌会をリードする二人の劇的な出会いである。
 この頃よりアララギ同人の富士見来訪多く、明治41年10月富士見油屋歌会に来遊した左千夫は、「財ほしき思い は起る草花のくしく富士見に庵まぐかね」と原之茶屋の一小丘に立ちて、「ここは自然の大公園だ。自然を損わぬよ うに公園を作りたい。」と腹案をもらされた。
 村人は、赤彦を通じ左千夫に設計を依頼し、明治44年左千夫の指示を受け、富士見村や原之茶屋の協力によって 富士見公園は出来上がった。
 早春の芽吹きから、花、新緑、鮮やかな紅葉と四囲に高峰を望むこの公園は詩歌の里としての希い多く、左千夫歌 碑が大正12年に、赤彦歌碑は昭和12年に、昭和40年に茂吉歌碑の建立を見るに至り3基の句碑と共に歌碑公園と して、文学愛好者の訪れが絶えない。

 このほかにも、ここには芭蕉句碑が一番手前にある。明治14年鶴鳴舎中により建てられたもので、元禄七年芭蕉が箱根を越えたときに詠んだ句だとか.

 
    眼にかゝる ときや殊更 五月不二

原の茶屋集落に入ると、右手に明治天皇御膳水の石碑がある。馬か輦に乗られてであろうが、ここにも明治天皇は足を運ばれた訳だ。昔は茶屋があっただろうから、この村で誰しも休んで行ったことだろう。

集落の外れ、金比羅神社前に来ると、道祖神や筆塚がある。やがて街道右手上の高台にカゴメ富士見工場の敷地があり、桜並木が素晴らしい。標高900m超のここでは、今が真っ盛りなのである。街道よりかなり高い丘の上のため工場の建物を見ることはできないが、約400m位続く敷地の斜面を彩る想わざるプレゼント風景に疲れが吹き飛ぶ思いがする。

平らな道がやや下りかけると、御射山神戸(みさやまごうど)の集落に入って行く。一面のキャベツ畑を左に見ながら進むと、火の見櫓を過ぎ、完全な下り道の左手側に石仏群が並んでいます。

 狭い坂道をどんどん降り、最後はUターンするように国道20号に降り立つと、中央本線すずらんの里駅が近くなってくる。この駅は昭和60年開業の新しい駅で、後ろの丘にあるセイコーエプソン富士見事業所が費用を負担してできた駅だとのことである。

ここで同行両氏の意見を聞く。すなわち、今日のゴール予定地点までこの侭歩くか?、はたまた、約2km手前のこの駅近辺で今日の予定を打ち切って、残りを次回にするか?・・・と。降り続いている雨は当初予想と異なりすぐ止みそうにはないし・・・ということで衆議一決し、この先の「神戸八幡(ごうどはちまん)」交叉点で今次街道餐歩を了し、右折して「すずらんの里駅」へと向かう。 

着いた駅は高架になっていて、下り列車のホームへは手前側の階段から、上り列車のホームへは高架を潜って右の階段から・・・という具合になっている。無人駅だが、駅員が無人というだけでなく、乗客も、上りホーム・下りホーム共に発車するまで我ら以外の利用客を見かけず、本当の無人駅だった。

発時刻まで時間があったので、雨具その他の後始末をしてゆっくり休憩し、13:53発小淵沢行き普通列車に乗り、同駅で高尾行き普通列車に乗り換えて16:32には高尾駅に帰着。中央線乗換の清水・村谷両氏と来月の最終回結構を約して散会した。

孫への土産を買う場所もなかった身として、駅まで来るまで迎えに来てくれた妻と共に自宅近くで言い訳用の土産を買って堂々帰宅したのは17時過ぎだった。帰途の車窓から見た天候は笹子トンネルを抜けたら雨が上がっていたり、晴れているところもあったりで、随分遠くへ行っていたものだとあらためて感じたが、東京でも降ったり止んだりといろいろ悩ましい一日だったとのことである。