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甲州道中餐歩記~11(完)
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 2008.05.26(月) 神戸八幡交差点(9:25スタート)~上諏訪宿・中山道合流点(16:27ゴール) <第11区>21.3km 所要7:02

前回は、「青柳」駅近くにある「金沢宿」まで歩く予定だったが、降雨のため、一駅手前の「すずらんの里」駅への街道口である「神戸八幡(ごうどはちまん)」交叉点を区切り点としていた。

きょうは、甲州道中の総距離210.8km完歩への最終回にあたり、共にゴール地点を目指す清水・村谷両氏共々、格別な日にあたる。回を重ねる毎に段々自宅から遠くなり、往復は、いつも普通列車利用だが、今次については両氏は新宿及び八王子から特急スーパーあずさ22号利用で、小淵沢で普通列車に乗り換える便。小生は京王線沿線なので、京王八王子駅からJR八王子駅への徒歩が気分的に億劫なので、両氏の特急列車からの乗り継ぎ便(小淵沢発9:02)と同列車(高尾発6:04)で、「すずらんの里」駅同時到着とした。

9:20到着。手許の気圧高度計は標高900mを示している。直ちに駅を出発して、今次甲州街道ウォークのスタートとなる「神戸八幡」交叉点へと向かう。前回は雨が降っていたためか距離を感じたが、きょうはあっという間に到着。途中、道ばたの花壇にすずらんの花が咲いていた。流石は「すずらんの里」駅近くだ。国道20号の信号を渡って右折するのがルートだが、渡った正面に小さな鳥居の「神戸八幡神社」があり、旅の無事を祈って参拝する。

「神戸八幡神社」は応仁天皇を祭神として宝暦12年8月建立の由緒ある神社である。石段を登って右手に樹齢300年の大ケヤキ(胸高幹囲6m・高さ20m)があり、本殿東脇には樹齢390年、胸高幹囲7.7m、高さ30mに及ぶ大ケヤキがあった。説明板によれば、町内の社寺境内には欅の大木が多く、胸高幹囲3m超が14株、うち4株がこの神社境内にあるとのことだ。欅を写そうにも大きすぎて、カメラに収まりがたい程だ。

このあたりで、集落もそろそろ寂しくなり、「神戸八幡」交差点から300m程なだらかに下っていくと、右手に「エネオス」のSS看板が目に入り、旧道が国道から左手に分かれ、「金沢宿」へと延びていく。その分岐に馬頭観音の石碑が現れる。

そこで国道と別れ、斜め左の旧道に入り、今度は坂道を登って行くと右手に馬頭観音等の石碑群が現れる。馬頭観音に限らず、石碑類は、苔むした年代物が多いのが通常だが、ここには真新しいものが混在しており、見ると、「北洋号」とか「名馬あか号」とか「青・チビ・花 牛馬頭観音(平成八年)」などという新しいものも見られたのは意外だ。よほど貢献してくれた家畜だったのか、あるいは競馬馬だったのか・・・などと想像する。

その先の右手石垣上には、綺麗に咲き誇るツツジの花に囲まれて、「片瀬明神」跡の石碑がひっそりと建っていた。

この旧道に入って登り道約300mほど進むと、前方に大きな木がそびえる「御射山一里塚」(日本橋から48番目)が見えてくる。珍しく、塚は両側に残っているが、右手の榎は明治初期に枯れて植え替えられたものの由で、左の大欅が塚のできた慶長年間以来のものと推定されていて、樹齢390年、高さ25m、標高幹囲6.9mの大樹である。おそらく日本橋から歩いてきて初めての本格的な一里塚になる筈だ。その右横には、「標高917m」の標高標柱も立っており、早速手許の気圧高度計を915mにセットしなおす。

しばらく静かな旧道を進むと、「セイコーエプソン金沢精和荘」が左手にあり、同社のスポーツセンターへのアクセスのため、街道が拡幅されている。やがて森を過ぎて展望が開けてくると、同社のスポーツ施設や独身寮と思しき建物が現れ、その先から道が急に広くなって、本来の旧道の狭い道幅に戻る。
10分ほど更に下っていくと、先ほど別れた国道20号に合流し、金沢宿の中心へと進む。

四差路の金沢信号の左先すぐに、「本陣小松家跡」の石碑や説明板がひっそりとたたずんでいた。

 
金沢宿本陣跡

 五街道は幕府直轄で道中奉行の支配下に置き、約四里(約十五キロメートル)おきくらいに宿場を設け、大名の参勤交代や公用旅行荷物の継ぎ建ての業務に当てさせた。甲州街道の宿場には二十五人の人足と二十五匹の馬を常駐させその任に当たらせた。

 本陣は大名や公家が泊まったり、休憩する施設で、公用の書状や荷物の継ぎたてをおこなっていた。金沢宿には二軒の問屋が置かれ主は名字帯刀が許されていて世襲であった。金沢宿は慶安年間の初めまでは現在地の北方権現原にあって青柳宿と称していたが、度重なる水害と前年の火災で焼失したのを機に、慶安四年(1651)現在地に移転し金沢町と改称した。

 本陣の敷地は約四反歩(約四〇アール)あって、敷地内には高島藩や松本藩の米倉などがあった。小松家は青柳宿当時から代々本陣問屋を勤めていたが、隣村茅野村との山論で家族を顧みる暇もなく、寝食を忘れ町民の先にたって働いた四代三郎左衛門は、延宝六年(1678)高島藩は伝馬を怠ったとの廉で、町民の見守る中ではりつけの刑に処され家は悶所断絶した。

 その後明治初年まで白川家が本陣問屋を勤めた。金沢宿を利用した大名は高島藩・飯田藩高遠藩の三藩であったが、江戸後期になると幕府の許可を得た大名が東海道や中仙道を通らず甲州街道を通行し金沢宿に泊まっている。

      平成十一年五月吉日     金沢区 金沢財産区      金沢歴史同好会


ここからは、暫く国道歩きになるが、「金沢宿」らしい古い建物があり、また、昔はしっかりとした枡形があったようだうが、国道20号が宿内を通ったために、緩やかなカーブに付け替えられ、東の枡形は姿を消したようだ。町は人影もあまり無く、うらぶれた感じで、今は住む人もない古い建物などが混在した佇まいだった。

宿場は、諏訪方面の「宮川」に向かって緩やかに下っている。宿外れには「金沢橋」でその「宮川」を渡るが、その橋手前右手に「水神明王」があり、いくつかの古い石仏の群れが見られる。その中には、処刑された小松家を弔う地蔵尊も混じっているとのことだが、どれがそれかは不明の由で、お上に罰せられたものの、村人たちのために戦い処刑された小松家を、村人たちがいつまでも尊敬し、こうして隠すように祭っていたものと推察される。ただ、その場所が今はゴミ置き場兼用になっていたのには時代の移り変わり、忘れ去られ行く小松家の哀れさを感じずにはいられなかった。

10:01、この橋を渡って甲州道中はすぐに右折するが、元々はこの橋でなく、もっと右にあって、その先のクランクが枡形になっていたらしい。その枡形を抜け、再び国道へ出る右角に「権現の森」がある。真新しい石の鳥居や石柱を見ながら境内にはいると、由緒ありそうな石の祠が鳥居正面に鎮座しているほか、その左右には、江戸中期より大正期までに奉納された「御嶽座王大権現」、「不動明王摩利支天」、「牛頭天王」ほかの、実に見事な石仏・石柱が並んでいて、カメラをその一つ一つに向けずにはいられなかった。。

「権現の森」を過ぎ、再び国道を歩いて行くと、左手に「ドライブインフジカ」が見え、その背の田圃の中に「寒天の里」の大看板が見えてくる。なんでも、茅野が日本一の寒天生産地だそうな。

10:38、左手に「セブンイレブン」が見えてきたので行き交う車の間隙を見て車道を渡り、入店。目的は、冷たいアイスが食べたいのと、小休止&トイレ借用。晴れ男たちの面目躍如で、昨日・一昨日の不良天気を一掃したきょうは、心地よい初夏の太陽燦々の好天気で、適度な涼風がその暑さを和らげてはくれるが、歩き続けているとやはり暑い。

約10分休憩し、出発。この辺りには「木船の一里塚」というのがあるそうだが、街道からはちょっと中に入り込んでいるようなのでパス。この一里塚は江戸から四十九里目で、中央本線の線路敷設や耕地整理などで、移動したもののようだ。

「清水橋」バス停を過ぎ、引き続き国道を歩いて、10:55、左手の古い常夜灯を道の右手から車の間隙をぬって撮る。この辺りから木船集落で、その先左手のバス停傍には自販機よりちょっとだけ背丈の高い火の見櫓があり、半鐘もぶら下がっているが、昨今、盗まれたりしないのかと心配になる。
そのほか、左には立派な門の家があったり、右の小径の先に線路をくぐる場所が見える入口の角に涙を流しているように見える古いお地蔵さんがあったりと、国道歩きといえどもなかなか退屈はしない。

集落の終りに、右手に今は閉鎖されているタイヤショップがあり、国道は左カーブして行くが、我々はその手前を右後ろに引き返すようにUターンして坂を登っていく。これが本来の旧道である。登ってゆくと大きな石碑があり、ここにも鉛筆のような御柱が立っていて、仲間の写真を撮ってあげる。

すぐJR中央本線の上を越え、左折して線路に沿って下って行くと、先ほどの元タイヤショップの先から斜めに線路を横切っていた往時の本来の旧道跡が線路左手に見えるが、線路敷設と同時に道が閉鎖された痕跡が明らかである。

「東電」の変電所前で小川を渡り、のどかな田舎道へ入って行くと、頭上に立派な橋があり、これが「東洋バルブ茅野工場」へと向かう専用道とは驚きだ。橋をくぐれば「宮川」沿いののどかな道になり、何となくほっとする。左手に現れる「宮川」は、「富士見」に端を発し、「諏訪湖」へ注ぎ、更に「天竜川」となって「太平洋」に注ぐそうだが、水量は少なくなく滔々とした流れだ。かつて通った「釜無川」ではその上流へ向かって歩いた訳だが、今度は「宮川」の下流方向へと歩いていく訳で、地勢の変化とはいえなかなか面白い気がする。

これは×××の花だろうか?などと仲間に問いかけるが、植物学者?はだれもいない。「小早川橋」を渡り、左手に「南無阿弥陀仏碑」を見ると、こののどかな道歩きもそろそろ終わり近くなる。

「早川橋」を渡り、「宮川」に沿って左折すると、川向こうの中央本線が「宮川」を渡って街道に近づく。100m程進んでその中央本線の下を街道が通るが、その曲がり角近辺は交通事故の危険性大な急カーブ場所と我々は見た。

線路をくぐって右上を走る線路と並行して暫く進み、やがて線路と離れると国道20号の「宮川坂室」交差点に出て合流する。その合流点右側に古い石仏群や秋葉山常夜灯がある。すっかり現代から忘れ去られようとしている感じだ。おそらく、立ち止まってみるのは我々のような街道ウォーカーだけではないだろうか。

この交差点から国道歩きになり、「弓振川」を渡って「坂室」交差点に出ると、右角に「坂室公民館」があり、その前の道を右に行くと「酒室神社」がある。11:31だ。

 
市指定史跡 酒室神社

     昭和四十四年11月一日指定
 酒室神社は、御射山祭りに濁酒を作り、山の神に供える前夜祭をとり行った神聖な地に祀った神で、酒解子之神を祭神とする。
 酒室は御射山の入口に位置し、御射山は通称「はらやま」で、諏訪明神のみ狩神事の祭場である。年四度のみ狩が定められ、これを「みさやままつり」または「はらやまさま」と呼ぶ。四度のみ狩とは、押立み狩・御作田み狩・穂屋のみ狩・秋尾のみ狩である。このうち最も盛大な神事が穂屋のまつりで、旧暦七月二十六日、現在は八月二十六日に行われている。武術を奨励した昔は、諸国から守護・持頭・代官職等が多数参加し、祭の催しには、的矢・流鏑馬・角力等が行われ、露店や芸人が集まり、そのため槍隊が出て警護にあたったと云われる。参詣人をかぞえる大草(すすき)さずけの儀が行われ、神事が終わると一同勢揃いして弓振川で弓を清め、御射山にのぼりみ狩が行われた。
 神殿は文政八年(1825)大隅流の建築家矢崎玖右衛門の建築したものである。なお境内の東の隅に「雨降り塚」と呼ぶ古墳があり、明治三十四年に発掘された。

    昭和五十二年三月
                           茅野市教育委員会

本殿の左右には、御柱が聳えている。境内の倉庫には、「めどでこ」が保存されているそうだが、この時はめどでこの何たるかを知らなかったので見なかったが、帰宅して調べてみると“御柱の前後に付けられるV字型のツノ”とあり、写真で見て理解できた。実物を見ておけば良かったと思うが、後の祭りだ。

街道に戻って、中央自動車道の高架下を潜り、「宮川」交差点で再び国道と別れ、右手の旧道へと入って行く。街道は茅野駅前へと商店街の中を行く。程なく、左手に「鈿女(オカメ)神社」と「三輪社」。ここ「鈿女神社」にも御柱が左右にあり、長野県だなと思う。

 鈿女神社

 鈿女神社の祭神は古事記や日本書紀に書かれている天照大神が天岩戸に隠れたとき岩戸の前で舞を舞った「天鈿女命」で後には猿田彦神と共に「道祖神」として祭られるようになりました。「天鈿女命」の面は狂言の面としていわゆる「おかめ面」となりこれが「ひょっとこ」と一緒におかしく踊られるようになりました。このおかめを祭る神社は諏訪に三社あり長持ちに必ずおかめ面を担ぐ慣わしになっています。
 昭和八年当時の商業者が商売繁盛、家内安全、厄除け縁結び祈願のために、安曇の松川村より分社して以来地元宮川商業会がお守りしています。
 福の神としておかめ様があり「笑う門には福来たる」として心の明るさと癒しを与えてくださいます。鈿女の字を分けて見ると金田女神社となり金の貯まる神社として縁起も良く人々に愛されております。
                          宮川商業会 宮川街づくり協議会


境内には「三輪社」もあり、こちらは約810年前、大和の国の三輪神社から分祀されたとあり、宮川・茅野地区の産土神になっている由。境内入口の右隅には「明治天皇小休所跡」の碑もあった。明治十三年、山梨御巡幸の折ここにあった五味三郎宅で、1時間休憩され茶を召し上がられた由。
小休所の向かいは丸井伊藤商店というマルイ味噌の味噌蔵で、観光バスが前に止まっていた。その駐車場脇には観光案内の掲示板が並んでいた。

「鈿女神社」をあとに街道を進むと「上川橋」交差点で、その先に北八ヶ岳を水源とする「上川」がある。橋の上から上流を望むと、中央本線の鉄橋が見え、その鉄橋の右に少しだけ見える土の斜面が、「御柱祭上社の木落し」を行った所だそうで、昔は中央本線の列車がここを通りかかると車掌が「今から木落しが行われます」とアナウンスして、列車は数分間停車したとのことである。

昼食は予てから信州の手打ち蕎麦と考えていたが、あてにしていた店は月曜日で定休日、いろいろ探し回ったあげく、12:30、茅野駅ビル1Fにあった蕎麦屋で空席を見つけ、ざる2枚分の大ざると生ビールで喉の渇きと空腹を満足させた。信州の蕎麦は旨い。

12:56、再び街道に戻ると、駅ビル前に「諏訪大社上社」の大鳥居が目立つ。もうこんな所から?という感じだが、それはよそ者の発想なのだろう。程なく右斜めへの道に入り、13:00に「大年社」参拝。諏訪大社の末社にあたり、しかも不思議なことに御柱がない。代わりに、七年ごとに建て替えるという木の鳥居があった。何故なのか、知りたいものだ

「大年社」の先、「茅野町北」交叉点はT字路で、突き当たりは「アルピコグループ諏訪バス営業所」。Hightland Shuttleがいっぱい停車している。
街道はここで直角に左折し、すぐその先で右折、茅野駅西口交差点からの道に合流する。

茅野駅前から来ると、「上原」交差点で左後方からの国道20号と合流する。今はバイパスで上諏訪方面へ行けるため、この国道も大型車の通行がほとんど無い、地元住民の生活道路と化しているようだ。

13:11、左側に「上原八幡神社」。何の変哲も無い小さな神社だが正面は金網塀が閉ざされていて、廃れた雑草の生えた空き地と化している雰囲気だが、歴史は古く、鎌倉時代に遡る。諏訪の高島城主は参勤交代時に、城からこの神社までは騎乗で来て、ここで駕籠に乗り換え江戸に向かったという。帰りもこの神社前まで駕籠で来て、ここから馬に乗り換え城に入った由である。そして粗末な本殿前には、畳一畳分ちょっとの広さの駕籠置石が残されている。遊んでいる子どももなく、公園の雰囲気も皆無で、すっかり時代から取り残された、いや忘れられた存在になってしまっている。。

「上原」交叉点から「頼岳寺入口」までの国道沿いは、恰も鎌倉のようにいろいろな小路が並ぶ。「鍛冶小路」、「塔所小路」、「播磨小路」と続き、いずれも真新しい石柱が建てられている。

「上原頼岳寺」交差点を右折すると、真っ直ぐ中腹にある「頼岳寺」へ行けるが、これはパス。その角に「柿澤翁、土橋翁」と彫った石の「筆塚」があり、甲州道中はその先の小さな小路を右折する。入口には「甲州街道渋沢小路」の石碑がある。中央本線の下をくぐって丘の中腹へと登って行くと、「大門街道」との追分に出る。ここを右へ行けば永平寺(福井県)と総持寺(神奈川県)本山とする「少林山頼岳寺」だが、我々は左折する。

この追分からは、丘の中腹を走るのどかな旧道を上諏訪方向へと向かう。追分から程なく右手に現れたのが、こじんまりとした「火燈(ひとぼし)公園」。立派な石の標石が公園名を訴えている。この公園名だが、この地域、京の大文字焼きと同じ盆の送り火を燃やす風習があり、武田勝頼当時から大規模になったと言われている。この公園右後ろの山には100m×84mの大きな鳥居が、左側には三ッ星の大きなかがり火が焚かれたが、その合図をしたのが国道沿いの「五王ノ鬼塚」でここで合図の松明を灯すと、鳥居と三ッ星に一斉に点火されたそうだ。公園はその三角の中心地にあり、昔を偲んで作られた由。

13:40、その先には、明治時代に取り壊されてしまったという「神戸一里塚跡」。今はそれを示す石碑が残っているのみである。日本橋からから五十一番目の塚で、一里塚はもう後ふたつになってしまった。よくぞ歩いてきたと思う反面、四国歩き遍路で讃岐路に入った頃のような“もう残り少ない”寂しさも脳裏をかすめ始める。

珍しい常夜灯に出くわした。街道のど真ん中、と言っても左右には若干段差があるのだが、交差点に立っている。その手前にはゴミ集積所があり、地域住民には便利な場所だろうが、我々街道ウォーカーには大いに残念な風景と言わざるを得ない。

13:54、その常夜灯から400m程先に、信号機のある交差点があり、必要性に疑問を感じたが、ここは右に行くと霧ヶ峰入口とあり、何となく納得する。

そこからちょっと進むと「足長神社」という珍しい名の神社があるが、一直線に伸びた石段の数が参拝意欲をそぐこと著しい。登り坂を苦にしない村谷氏もパスすると言う。ここは日本橋から203km地点で、ゴールまであと8kmだ。

その先、右手に「秋葉山」石標があり、「ここにも」の感を強くする。左手に「普門寺区公民館」があり、本日休業のようだが、玄関前を借りて5分ほどドリンク休憩をとる。この辺りは、今朝のスタート地点である「神戸八幡」交叉点付近でもそうだったが、集落のことを「区」と称しているようだ。

「足長神社」から10分ほどで、国道20号から枝分かれした形の旧国道へ合流。その先右には「細武温泉共同浴場」があり、大きなドラム缶がある。諏訪の町にはこのような温泉が随所にあり、羨ましい限りだ。

そんな旧国道もしばらく行くと20号合流点付近には趣のある道祖神があった。上諏訪の町はもうすぐだ。「清水1.2丁目」信号を過ぎ、霧ヶ峰の伏流水に恵まれた名水豊富なこの町に発達した酒造元の一つ、「宮坂醸造」を左手に見ると、「元町」交叉点。
その「宮坂醸造」の並びには「角間十王堂跡」の石碑が建っていた。初代高島藩主諏訪頼水には亀姫があり、家臣の小沢家に嫁いだ。その亀姫が書状を下男に託したところ、日ごろから仲が悪かった下男は書状を川に捨て、難を逃れるため永明寺に駆け込んだ。これに怒った頼水は下男の引渡しを要求したが、寺が拒否したため寺を焼き払い下男の首を刎ね、その場に捨てた。それがこの場所で、町人は祟りを恐れ、亡者の裁きをする十王をここに祀ったとされている。

ここから右斜めに入るのが旧道で、5軒程ある地元醸造元は多くが国道沿いである。酒の嫌いな?我々は、本来の旧街道を進むが、帰途列車内での徒然を慰めるために、生酒など置いてあるはずの醸造元に一軒ぐらいは立ち寄ろうではないかと衆議一決し、ちょっと新道に逸れてバックし、「舞姫酒造」に入る。
「淡麗辛口を」と言って出して貰った3品を、後刻の登り坂に備えて控えめに試飲の上、うち一本を仕入れる。ここは、街道てくてく旅の勅使川原女史がゴールした店で、各蔵元がこの店に集まって、自慢の酒をテッシーに勧めた所だそうな。

再び旧道に戻って、15:02、街道右手に「吉田のマツ」。諏訪市の天然記念物で、説明板によれば、樹齢300年余、高島藩士吉田式部彦衛門が藩主忠虎の大阪城守備任務随行から帰ったときに持ち帰り、代々吉田家の庭にあったものを昭和初期にこの地へ移したものの由。

その先には、先ほどの{足長神社}に対して{手長神社}がやはり右手に現れ。これまた気の遠くなるような登りの石段が延々と見え、我々を拒否しているように感じる。

やがて道は緩やかに登り坂が始まる。温泉時への入口を右手に見ながらそのY字路を左に進むと、右に{児玉石神社}。更に細いうねうねと曲がる坂道を登って行くと、右手に杉の森が現れ、「先宮神社」がある。

「先宮神社」は古くは「鷺宮神社」と言ったようで、州羽(諏訪)の原住民の産土神だった。「諏訪大社」よりも古く、諏訪大社の祭神建御名方命が出雲から鎮座すべくこの地にやってきたとき、抵抗したがついには服従したため、「先宮神社」は現在地に移り、他の場所へ移ることを許されず、境内前の小川には橋も架けられなかったと伝えられている。もちろん現在も橋はなかった。

15:26、「寿量院」のちょっと手前左手の「武居屋酒店」の手前に、大きなケヤキが現れる。根元には甲州街道の石柱があり、裏側に回ってみると、驚いたことにこのケヤキは表皮だけで生きている。曾て見た笹子峠の「矢立の杉」を思い出したが、あれは全周にわたって表皮があったけれども、こちらは半分しかない。樹齢も分からないが、よくがんばっている。惜しむらくは、その中でたき火した後があったり、道路工事の場所などに使われる赤い置物が横たわっていたことで、地元の人たちに大事にされているという印象を全く感じなかったことである。

武居屋酒店の先の角から左を見ると、一瞬だが急な下り坂越しに諏訪湖の湖面が見えた。もっと道の手前からも実はちらりと見える箇所があったのだが、「ああ、いよいよゴールが近づいてきたな」という感が強くなってくる。

「旅館山水」の看板前に差し掛かると道は急な登りになるが、「山水」に限らず、閉鎖・閉店している旅館・飲食店などの観光業が多く、大手業者や、道路事情による人・車の流れの変化で栄枯盛衰の波がここにも押し寄せてきている感が強い。試飲を押さえた我々には、この程度の登り坂は何でも無いが、よくここまで続くかと思うほど続いてきた登り坂も、「旅館山水」、「ホテル野路」と回りこんで行くとやがて平らになり、左手に本格的に湖面が広がってくる。広い湖面を3回に分けてシャッターを押すほど広い。

やがて、15:43、左手に「長崎家」、すぐその隣に「橋本家」という旧家があり、特に「橋本家」の場所には昔茶屋があったとの案内板がある。軒先から灯篭のようなものが突き出ており、その装飾もなかなか見事である。ここの標高は790m。湖面までは数十メートルだから、この地自体が高い標高位置にあることが判る。

歩いていると右手にいろいろな目印がある。「島木赤彦の家←」とか、「←承知川橋(1600m) ・ 甲州道中茶屋後200m→」、他にも、案内板が目立たないように、諏訪湖へ300m、博物館1650m、柿蔭山房200mなどと書いてある。

右手に「明治天皇駐輦跡」の碑と「石投場」の碑。駐輦(ちゅうれん)と言うは、天子がお乗りになる輦(車)をとどめることで、明治天皇も諏訪湖のあまりの美しさからこの場所に輦を停められて、絶景を堪能されたのだろう。石投げ場は、湖の湖面がもっと手前にあった当時のものと推測するが、ここから湖に向かって石を投げたのだろうか。

まだ登り坂がある。大股で登って行くと、いよいよ甲州道中最後の「一里塚跡」の碑が立っていた。日本橋から53番目の塚で、植木に囲まれた場所にある。あと十一町(1100m)で中山道とつながるとある。もちろんここで記念写真を撮って貰う。

約400mほど先の右手石垣には「承知川橋の記」が現れる。

   
承知川橋の記

 この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。輝石安山岩 重量約拾参屯 伝説によると永禄 四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したという。爾来承知川と呼びこの一枚 岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
 この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する。

        昭和五十二年                    久保海道町


「久保海道公会所」のある石垣にその大きな一枚岩が埋め込んである。よく見ると煉瓦模様が刻まれ、その規則性の乏しい模様から埋蔵金の地図と想像した往時の人々の想像も頷ける気がする。

「承知川」から5分、遂に「諏訪大社下社秋宮」へ到着した。当然お参りすべく、広い参道を進む。今日の、そして日本橋以来の旅の無事を感謝して、境内を見る。ゴール地点までは後100mぐらいだ。境内本殿の左右には、「流石!」とうなりたくなるような、太くて長い御柱が偉容を見せている。

その先が塩羊羹で有名な店、「新鶴本店」の前を過ぎれば終点はすぐそこ。「御宿まるや」と、「桔梗屋旅館」、「聴泉閣かめや」の真ん中が中山道との合流点になり、そこが甲州道中の終点だ。時に16:27、略々7時間の歩行だった。早速記念写真を撮り合い、感激の一瞬を味わう。両氏も「おめでとうございます」と祝ってくれるが、この二人の同行があったればこその今日のゴール到達で、正に「おかげさまで」なのであり、両氏にも謝辞を述べる。

日本橋から甲州道中での距離は210.8km 中山道を通ってなら、ここまで222.4kmだそうだが、中山道歩きも今秋10月からこのメンバーを中心に始めるべく意見が一致している。ついでに書くならば、東海道も十一月末までには完歩すべく、すでに日程も決めている。

 「聴泉閣かめや」は、「皇女和宮さま」が泊まられた部屋があり、お茶菓子付きで見学できるようになっているそうだ。そのかめや前には小さな広場があり、そこで待っていた人々の中にあの勅使川原さんもゴールしたのを思い出す。「中山道下諏訪宿問屋場跡」の碑と「下諏訪宿甲州道中中山道合流之地」碑は、確かにゴールしたことを我々に伝えてくれる。正面の壁面には、文化二年(1805)木曽路名所図会に描かれた下諏訪宿の情景を陶板レリーフにしたものも飾られていた。

満足感に浸りつつ、下諏訪駅へと向かうが、その道中に通った宿場内の佇まいは、中山道の順路でもあり、甲州道中の宿内よりも数段見事な格上の佇まいだった。いよいよ次なる中山道ウォークへの期待が弥が上にも高まるというものだ。

駅では、半ズボンにしていたものを長ズボンに戻し、缶ビール・つまみなども少々仕入れ、孫への土産も買い、下諏訪発17:12の普通列車で二駅先の上諏訪駅で17:22発のスーパーあずさ28号に乗り替え、ボックス席を陣取って楽しく歓談しながら帰途についた。