Top Page
古代東海道餐歩
 2009.09.27 古代東海道#9 市川(JR市川駅)~松戸(JR新八柱駅)・・・(下総国第一回目)
 
 【本日の行程 街道距離 13.5km + 寄り道】

 市川駅→大門通→真間手児奈霊堂→下総国府跡(古代井上駅)→下総国分尼寺→下総国分寺→里見公園→総寧寺→
 じゅんさい池→二十世紀が丘→JR武蔵野線新八柱駅

スタート

 市川駅9:30集合の案内で9:15に改札口を出たら、清水・村谷両氏が前回同様先着済みで、9:16には駅北口から歩き始める。
 JR線と並行する県道に出、左折して次の信号で右折し、真北にある寺への案内石柱「日蓮宗真間弘法寺」のある所から、地味なカラータイル張りの「大門通り(万葉の道)」の北上を開始する。足もとには「歴史の散歩道」と記したプレートも埋め込まれている。

大門通り(万葉の道

 真間山弘法寺へ続くこの道は「大門通り(万葉の道)」と言い、曾ては参道として善男善女達に利用されていたが、時代変わって現在は様々な店が軒を連ね、趣のある民家が往時を懐かしく感じさせてくれる細い旧道である。

 途中、後述の「手児奈」に因んだ街おこし運動のイラスト入りマーク「てこなの心ね」が商店の横壁に取り付けられていたり、道沿いの家の壁には、市川の書家による「万葉の歌」が掲示されているのが興味深く、次々とカメラに収めたが、墨痕鮮やかな達筆で、万葉の歌を万葉仮名で綴っているのが何とも美事である。見落としは無かったと思うが、都合25枚のパネルが左右の家に飾られていた。

01 
葛飾の 真間の浦廻(うらみ)を 漕ぐ船の 船人騒ぐ 波立つらしも(詠み人不詳)
02 
葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ(山部宿禰赤人)
03 
葛飾の 真間の井見れば 立ち平(なら)し 水汲ましけむ 手児名し思ほゆ(高橋虫麻呂)
04 
世の常に 聞けば苦しき 呼子島 声なつかしき 時にはなりぬ(大伴坂上郎女)
05 
験(しるし)なき ものを思はず 一坏の 濁れる酒を 飲むべくあるらし(大伴旅人)
06 
我がやどの 冬木の上に 降る雪を 梅の花かと うち見つるかも(巨勢朝臣宿奈麻呂)
07 
にほ鳥の 葛飾早稲を 贄(にへ)すとも そのかなしきを 外(と)に立てめやも(詠み人不詳)
08 
我も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥つ城処(きところ)(山部宿禰赤人)
09 
いはばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出ずる春に なりにけるかも(志貴皇子)
10 
熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出(い)でな(糠田王)
11 
あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり(小野老朝臣)
12 
若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る(山部宿禰赤人)
13 
君待つと 我が恋ひをれば 我がやどの 簾動かし 秋の風吹く(糠田王)
14 
なつきにし 奈良の都の 荒れ行けば 出で立つごとに 嘆きし増さる(詠み人不詳)
15 
銀(しろがね)も 金(こがね)も玉も 何せむに 優れる宝 子にしかめやも(山上憶良)
16 
近江の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしえ)思ほゆ(柿本人麻呂)
17 
霞立つ 野の上の方(かた)に 行きしかば うぐひす鳴きつ 春になるらし(丹比真人乙麻呂)
18 
春の野に すみれ摘みにと 来し我そ 野をなつかしみ 一夜寝にける(山部宿禰赤人)
19 
霜雪も いまだ過ぎねば 思はぬに 春日の里に 雨の花見つ(山部宿禰三林)
20 
ぬばたまの 夜のふけゆけば 久木生(ひさぎお)ふね 清き川原に 千鳥しば鳴く(山部宿禰赤人)
21 
葛飾の 真間の浦廻(うらみ)を 漕ぐ船の 船人騒ぐ 波立つらしも(詠み人不詳)
  
葛飾の 真間の手児名を まことかも 我に寄すとふ 真間の手児名を
  
葛飾の 真間の手児名が ありしかば 真間のおすひに 波もとどろに
  
足(あ)の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ(詠み人不詳)
22 
恋しくは 形見にせよと 我が背子が 植えし秋萩 花咲きにけり(詠み人不詳)
23 
葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕(ゆふべ)は 大和し思ほゆ(志貴皇子)
24 
君待つと 我が恋ひをれば 我がやどの 簾動かし 秋の風吹く(糠田王)
25 
苦しくも 降り来る雨か 三輪の崎 狭野(さの)の渡りに 家もあらなくに(長忌寸奥麻呂)

真間川の万葉歌(9:35)

 途中、京成本線を越えながら約700m程大門通りを進むと、「真間川」に架かる「入江橋」がある。
 その橋の手前右手に平成2年に市川市教育委員会が設置した解説板が建っているが、木板に墨字書きで記されていてかすれ字なので何とか判読した。

 
葛飾の 真間の浦廻を 漕ぐ船の
       船人騒ぐ 波立つらしも
               作者不詳 巻十四 □□

 
真間の浦廻とは、現在の市川市域の海岸線を指したものです。しかし、万葉時代の海岸線は今日とはまったく異なった地形だと考えられます。
 当時、下総国府の置かれた国府台をはじめ市域に属する下総台地の前面には、東西に長く市川砂州がつくられていました。そして台地と砂州との間には真間の入江が奥深く入り込んでいたのです。
 ことに江戸川は上流から土砂を運んで、行徳の地域が形成されていきました。このような海岸線を当時は真間の浦廻と呼んでいたのです。
 海に近い下総国府には、国府の外港としての国府津が、この浦廻の何処かに置かれていたのでしょう。
だから船人の様子も知ることが出来たのであり、其処はさぞかし出船、入船で賑わいを究めていたことでしょう。
               平成二年三月         市川市教育委員会


■真間の継橋(9:37)・・・市川市真間4丁目7地先

 その少し先の道の両側に真っ赤な「真間の継橋(つぎはし)」があり、「つぎはし」の石碑と共に横に解説板が建っている。

               
真間の継橋
 その昔、市川市北部の台地と、その南に形成された市川砂洲との間には、現在の江戸川へ流れ込む真間川の河口付近から、東に向って奥深い入江ができていた。この入江を「真間の入江」とよび、手児奈の伝説と結びつけて伝えられた「片葉の葦」やスゲ等が密生していた。
 国府台に下総国府が置かれたころ、上総の国府とをつなぐ官道は、市川砂洲あうを通っていた。砂洲から国府台の台地に登る間の、入江の口には幾つかの洲ができていて、その洲から洲に掛け渡された橋が、万葉歌に詠われた「真間の継橋」なのである。この継橋は
     「足(あ)の音せず行かむ駒もが葛飾の
               真間の継ぎ橋 やまず通わむ」
(足音せずに行く駒がほしい、葛飾の真間の継橋をいつも手児奈のもとに通いたいものだ)の歌で有名となり、詠み人知らずの歌ではあるが、当時の都びとにまで知れわたっていたのである。
 この真間周辺には継橋をはじめ、手児奈の奥津城(墓)、真間の井など、万葉歌に詠まれた旧跡が多い。これらの旧跡も歳月が経つにつれて、人々の間から忘れ去られていくのであるが、これを憂えた鈴木長頼は、弘法寺の十七世日貞聖人と議して、元禄九年(1696)その地と推定される位置に碑を建て、万葉の旧跡を末永く顕彰することを図った。この碑がいまに残る「真間の三碑」である。
               昭和五十八年三月
                              市川市教育委員会


(注)これまでの既述で判るとおり、「手児名」と「手児奈」の両表記が見られる。


真間万葉顕彰碑(9:38)・・・市川市真間4-7-24 継橋際他

 傍にある石の「真間万葉顕彰碑」は、元禄9年(1696)に万葉の旧跡を末永く顕彰するために建てられたもので、この後訪ねる「手児奈霊堂(後出)」と「亀井院(後出)」の入口に建つそれと共に、市川市の重要有形文化財に指定され、これら3基の碑は「真間の三碑」(注)と呼ばれている。

 真間万葉顕彰碑は、万葉集には真間の手児奈の伝説を詠んだ山部赤人や高橋虫麻呂の歌をはじめ、真間の地を歌った10首ほどの歌が載せられている。その歌の中に
     「われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児奈が奥津城処」(山部赤人)
     「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」(高橋虫麻呂)
     「足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通わむ」(読み人知らず)
の3首があり、それぞれの歌の所縁の場所に建てられているのが3つの真間万葉顕彰碑である。

(注)真間の三碑とは
その1.)亀井院前 ・・・市川市真間4-4-9 亀井院前
  「真間井 瓶甕可汲固志何傾 嗚呼節婦与水冽清」
万葉集の中で高橋虫麻呂が詠んだ「真間の井」と詠まれたのが手児奈霊堂と道を隔てた向かいにある亀井院の裏庭にある。美しい娘・手児奈が水を汲んだと伝えられる古井戸のことである。

その2)手児奈霊堂・・・市川市真間4-5-21
  「真間娘子墓 今手児奈(二字不明) 真間井 在鈴木院之中」
その3)継橋・・・市川市真間4丁目7地先
  「繼橋 繼絶興廢 維文維橋 詞林千歳 萬葉不凋」


 これらの碑は、鈴木修理長頼により造立されたが、長頼は幕府の作事奉行で、日光東照宮造営用石材を江戸川で運搬の途中、市川の根本辺りで船が全く動かなくなり、これは弘法寺に仏縁あるものなりと解し、勝手に弘法寺の石段に使ってしまい、その責により弘法寺の石段で切腹したとの伝承が起こり、その後、その石がいつも濡れているので「涙石」と名づけられたという。
 正面石段の下から27段目にある石がそれであると言われるが、市川市には水脈が多く300以上の湧き水があり、偶々石の一部が水脈に触れているのではないかとの説もある。これらの三碑は、その孫によって建てられたもので、碑文は、元禄9年(1696)、弘法寺の日貞上人による。

手児奈霊堂(手児奈霊神堂)(9:41)・・・市川市真間4-5-21

 その先、右手に「手児奈霊堂」があり、入口に元禄九年(1696)の「真間万葉顕彰碑」は、「真間娘子(おとめ)墓」と刻まれている。想像以上に境内は広く、堂宇も大きい。
 境内に入って左手に、解説板や石碑などが建てられている。傍らに建つ解説板に詠われている
  「勝鹿の 真間の井見れば 立ち平(なら)し 水を汲ましけむ 手児奈し思ほゆ」
という高橋虫麻呂の歌や、
  「われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥津城(おくつき)処」
  「葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ」
という山部赤人の歌が紹介されている「手児奈(てこな)」は、絶世の美女であるが故に多くの男性から求婚され、自分のために人々が争うのを憂い、真間の入江に身を投じた等と伝えられる伝説のヒロインであるが故に、万葉歌人によって歌に詠まれ、また、ここに祀られているのである。
 余談だが、入江橋の架かる大門通りの一本東側の「真間本通り」における真間川の橋名は「手児奈橋」と呼ばれている。

 境内の雰囲気は、来たる手児奈まつり実行委員会による、10月11日の「第16回手児奈まつり」の準備も始まっている。
 http://tekona-maturi.com

               
手児奈霊堂
 奈良時代のはじめ、山部赤人が下総国府を訪れた折、手児奈の伝承を聞いて、
   われも見つ人にも告げむ葛飾の
       真間の手児名(奈)が 奥津城処(おくつきどころ)
と詠ったものが万葉集に収録されている。
 手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)には弘法寺の七世日与聖人が手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。
 手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のために人々が争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入江に身を沈めたとか、継母に仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽くしたとか、手児奈は国造の娘でその美貌を請われ、或る国の国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着したところが生まれ故郷の真間の浦辺であったとか、さらには神に仕える巫女であったりする等、いろいろと形を変えて伝えられている。
 万葉の時代からも今日に至るまで、多くの作品に取り上げられた真間の地は、市川市における文学のふる里であるともいえる。
               昭和五十八年三月
                              市川市教育委員会


<(参考)市川のほおずき市>・・・市川市真間4-5-21手児奈霊堂

 手児奈霊神堂境内では、7月の「ほおずき市」が有名で、市川の「夏の風物詩」として多くの参詣者が訪れるイベントになっている。
 鮮やかに色づき始めたほおずきと風鈴を眺めながら、いなせな売り子の立ち姿が長い伝統を感じさせ、夜店・演芸や囃子など数多くの催しが、真夏のページェントとして賑やかに繰り広げられ、多くの見物客や買い物客で賑わうという。

真間稲荷神社(9:48)

 手児奈霊堂に向って右手には、東の鳥居から入る形で東向きに建った「真間稲荷神社」があることに気づき、参拝する。

               
真間稲荷神社
  祭神
  明治43年 1月 7日 天満宮合祀
  昭和10年10月 3日 社殿落成
  昭和10年10月 8日 遷宮式及び大祭執行

 祭神は、豊受姫之命となっております。伊勢の外宮、豊受大神宮はお米をはじめ衣食住の惠みをお与え下さる産業の守護神です。今から1,500年前に丹波国から天照大御神のお食事をつかさどる神様としてお迎えされました。
 尚、学業の神様、天満宮様が18年前に合祀されていることがわかりましたので、毎年6月25日に天神際を行っております。
(以下略)

亀井院(9:52)・・・市川市真間4-4-9

 手児奈霊堂の北側の道を少し東に入った左手にある。

               
真間之井と亀井院
 万葉の歌人高橋虫麻呂は、手児奈が真間の井で水を汲んだという伝承を聞いて、
   「勝鹿の真間の井戸見れば立ち平(なら)し
       水を汲ましけむ手児奈し思ほゆ」
(葛飾の真間の井を見ると、いつもここに立って水を汲んだという手児奈が偲ばれる。)の歌を残した。この真間の井は亀井院にある井戸がそれであると伝えられている。
 亀井院は寛永十二年(1635)真間山弘法寺の十一世日立上人が弘法寺貫首の隠居寺として建立したもので、当初「瓶井坊」と称された。瓶井とは湧き水がちょうど瓶に水を湛えたように満ちていたところから付けられたものである。
 その後、元禄九年(1696)の春、鈴木長頼は亡父長常を瓶井坊に葬り、その菩提を弔うため坊を修復したのである。以来瓶井坊は鈴木院(れいぼくいん)とよばれるようになった。
 長頼は当時弘法寺の十七世日貞上人と図り万葉集に歌われた「真間の井」、「真間の娘子(手児奈)の墓」、「継橋」の所在を後世に継承するため、それぞれの地に銘文を刻んだ碑を建てた。本寺の入口にあるのがその時の真間之井の碑である。
 長頼没後、鈴木家は衰え鈴木院の名称も、また亀井坊と改められた。これは井のそばに霊亀が現れたからといわれている。
 北原白秋が亀井院で生活したのは、大正五年五月中旬からひと月半にわたってのことである。それは彼の生涯で最も生活の困窮した時代であった。
  「米櫃に米の幽(かす)かに音するは
            白玉のごと果敢(はかな)かりけり」
 この歌は当時の生活を如実に表現している。こうした中にあって真間の井に関しては次の一首を残している。
  「蕗の葉に亀井の水のあふるれば
            蛙啼くなりかつしかの真間」
 その後、江戸川を渡った小岩の川べりに建つ、離れを借りて暮したが、これを紫烟草舎
(注)と呼んでいる。
               昭和五十八年三月
                              市川市教育委員会

(注)紫烟草舎については、後述の「里見公園」の項参照


弘法寺(ぐほうじ)・・・市川市真間4-9-1

 亀井院から大門通に戻って右折した突き当たりの小高い丘の上に「真間山弘法寺」がある。正面に見える長い石段の一段一段が高く、登るのがなかなか大変である。折しも鉢合わせした老年ウォーキングサークルと覚しき団体が石段を登っている脇を縫うように追い抜いて登り詰めると、明治の大火の際に被害に遭わなかった「仁王門」は、木組みなどが見事で、歴史を感じさせる風格がある。この仁王門に掛かる「真間山」の扁額は、弘法大師空海が来山の折に記したと伝えられている。
 同じくその右手にある「鐘楼堂」も仁王門と共に古刹としての年輪を十二分に感じさせてくれ、その風格を弥が上にも高めている。

 正面には、「祖師堂」の大々的な再建工事が行われているのが艶消しだが、やむをえない。

 本堂は客殿を挟んで左手にあるが、明治21年(1888)の火災で焼失後、コンクリート造りで再建されており、古刹としての風情に欠けるが、現在の諸堂は明治23年(1890年)に改修されたものだという。

 その中で、「鐘楼」の前に聳える「伏姫桜」と名付けられた大きな枝垂桜が歴史を感じさせる見事さである。「伏姫桜」は、里見八犬伝由来の樹齢400年を誇る枝垂れの大樹で、「祖師堂」の横に聳えている。長い枝が地面に届くほど豪華な枝垂れ桜で、毎年見事な花を咲かせるという。

 弘法寺は、奈良時代の天平9年(737)に行基菩薩が「真間山求法寺」として創建したと伝えられ、後に弘法大師空海の来訪を機に伽藍が造営され、これを機に寺号も「弘法寺(こうほうじ)」と改められたと伝えられる。寺に掲げられた「真間山」の扁額は、名筆家でもあった空海の真筆とされている。

 元慶5年(881)には天台宗に改宗しており、更に鎌倉時代の建治2年(1276)に、当時の住持了性が日常との相論に敗れて寺を譲り、翌年、日常の養子・日頂により日蓮宗に改宗され、この時寺名も「弘法寺(ぐほうじ)」と呼び方が変わった。

以後、下総中山(現・市川市)の法華経寺と共に日蓮宗の拠点となり、戦国期には、日与が弘法寺の近くに「手児奈霊堂」を建立している。また、太田道灌が寺内に茶室を寄贈し、徳川光圀や徳川吉宗も親しく参詣したと伝えられている。
 現住は81世石野日英貫首(木更津市光明寺より晋山)。池上法縁五本山のひとつである。

 境内左手には「赤門」があるが、正式には「朱雀門」と呼ばれ、旧弘法寺本堂(現・真間道場)正面に建つ弘法寺最古の建物で、推定500年と見られている。
 なお、入口右手には「真間寺で斯う拾ひしよ 散紅葉」と刻まれた小林一茶の句碑がある。

              
 真間山 弘法寺
 弘法寺は、略縁起によると、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりであり、その後平安時代、弘法大師(空海)が七堂を構えて「真間山弘法寺」とし、更にその後天台宗に転じたとされる。
 真間の地は、かつてはすぐ北に六所神社があり、国府が設置されていた古代以来の下総国の中心地であった。そのためここに古くから寺院があった可能性は高く、本来は国府と密接にかかわる寺院であったとの推測もある。
 鎌倉時代、この地に及んだ日蓮の布教を受けて、建治元年(1275)、時の住持了性が日蓮の弟子で中山法華経寺の開祖日常と問答の末やぶれ、日蓮宗に転じ、日常の子で六老僧の一人日頂を初代の貫首としたと伝える。
 鎌倉末期の元亨三年(1323)には千葉胤貞により寺領の寄進を受け、延文三年(1358)の日樹置文によれば葛飾郡一帯で千田庄(多古町)に多くの寺領や信徒を擁していたことが知られる。また室町・戦国時代には山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展し、賑わいをみせていた。
 天正十九年(1591)、徳川家康より朱印地三十石を与えられ、元禄八年(1695)には水戸光圀も来訪したと言われる。
 江戸時代は紅葉の名所として知られ、諸書には真間山弘法寺の紅葉狩りのことが記されているが、明治二一年(1888)の火災のため諸堂は焼失してしまった。その後明治二三年(1890)に再建され、現在に至っている。
 境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天をまつる太刀大黒尊天堂、水戸光圀が賞賛して名づけたといわれる遍覧亭、袴腰の鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。
               平成十八年三月             市川市教育委員会


(参考)郭沫若記念館・・・市川市真間5-3-19

 立ち寄らないが、石段下を右に暫く行った所に、「郭沫若記念館」がある。
政治家・文学者として、日本と中国の架け橋となった郭沫若氏が暮らした旧宅を、記念館として真間5丁目公園に移転・復元して公開している。年末年始と月曜日を除く9~17時開館(入館は16:30迄)

国府神社(10:16)・・・市川市市川4-4

 弘法寺の麓の屋敷等が建ち並ぶ閑静な住宅街を西に行き、「松戸街道」に出て三叉路を右折すると、ここからは道が登り坂に変わる。
 間もなく、右手の高台に寛治元年(1087)創建の「国府神社」がある。見上げると、奥行幅の狭い急傾斜の石段が上に延びており、弘法寺に続いてまた長い石段が待っている。石段下右手に由緒を記した解説板が建っている。

               
国府(こくふ)神社
 伝えによると、景行天皇の皇子、日本武尊が東征のおり、下総の戦を平定してこの台地に陣を張りました。そして武蔵国に向かおうとしたのですが、下総と武蔵野台地の間には、沢山の河川がデルタを形成していたため、舟を使わず浅瀬を渡ることはできないものかと思案しました。
 このとき一羽のコウノトリが現れ、尊の前にかしこまって「私が浅瀬をお教えいたしましょう。どうぞ私について来てください。」と申しました。尊は大軍を率いてコウノトリの後に続き、難なく武蔵国の台地に着くことができました。
 尊はコウノトリの功績をほめて、下総の台地をコウノトリに授けることにしました。このことから、この台地がコウノトリに与えられた台地、即ち「鴻之台」と呼ばれるようになったと言います。(本来は下総国府の置かれた台地であるところから国府台の名称が起こったものです。)
 本神社はこの伝承に基づいて、御祭神を日本武尊、そして「コウノトリの嘴」を御神体として、寛治元年(1087)二月八日の創建と伝えています。一時は「鳳凰大明神」と呼ばれたこともありましたが、下総国府に建てられた神社であるところから、国府神社と称されるようになりました。境内には稲荷神社、天満神社が祀られています。
               平成四年三月
                              市川市教育委員会


 石段上の高台に位置する境内は狭く、社殿も名の割には大きくなく、右手の境内社もいずれが稲荷神社でいずれが天満神社なのかの区別も定かでない。地元民の日頃の参拝もあまり無さそうな、淋しい感じの神社である。

下総総社跡・・・市川市国府台1-6-4市川市スポーツセンター

 国府神社から松戸街道を550m程北上すると、信号の右手一帯が市営球場ほか、テニスコート・体育館など市のスポーツセンターになっている。そのすぐ先の角を右折すると「下総総社跡270m」の矢印と案内矢印があり、場所を特定すべく探したが何の表示もなく、やむなく下総国分尼寺・国分僧寺に先に行き、帰り道に、漸く11:28に村谷氏や清水氏が大きな木の下に「下総総社跡」の石碑を見つけてくれた。

 国府台のこの一帯は、元は東西130m、南北約80mに亘って大樹が鬱蒼とした森になっていて、「六所の森」とか「四角の森」と呼ばれ、その中に「六所神社」が鎮座していた。
 この六所神社は、下総国の総社として祀られたものである。総社というのは、本来国守が領内の諸社を巡拝して奉幣祭祀するこのを簡便化する手段として、国府もしくはその付近に合祀したのが起源とされている。
 下総国の場合、この六所神社から南の弘法寺に至る間を「府中」と呼んでおり、下総国府の所在を知る上での重要な手がかりになる神社跡である。
 総社がいつ頃から置かれたか定かでないが、この地から平安時代初期迄の竪穴住居址が発見されている処から、平安初期以後であると考えられている。なお、「六所神社」は明治19年(1886)、この地に陸軍練兵場ができたため、市川市須和田2-22-7に移されている。

               
下総総社跡(六所神社跡)
 7世紀後半の日本は、天皇を中心とした法治国家をつくろうとしていました。そして北海道、東北地方の一部、沖縄をのぞく各地を60余国にわけ、国ごとに整備をすすめました。下総国は現在の千葉県北府を中心に、茨城県、東京都、埼玉県の一部にあたります。その国府(役所を核にした都市)は市川市国府台にありました。国府には政務や儀式をとりおこなう国府があり、国庁を中心に国衙(官庁街)がひろがっていました。下総国庁は現在の野球場付近にあったといわれています。
 国司(国府の役人)は国内の有力神社を管理し、参拝する義務がありました。しかし広い国内をまわるのは大変だったので、平安時代後半になると国庁近くに国内の神々をあわせまつった神社がたてられました。その神社を総社・六所神社といいます。神の加護を得ようとしたともいわれています。
 六所神社は明治19年に須和田に移転し、軍用地となったあとも「六所の森」としてのこっていました。また六所神社跡周辺の地名は「府中」と呼ばれていました。
 陸上競技場周辺を発掘した結果、神社そのものの遺構はみつかりませんでしたが、六所神社を区画していた溝跡がみつかっています。また、千葉商科大学内ではこの溝とともに、参道跡もみつかっています。こうした調査結果から、初期の境内地は「府中」の範囲にあたり、国衙の北東に設置されていたことがわかりました。
               2004年12月
                              市川市教育委員会


(参考)「国府台」エリア

 下総台地の最西端、江戸川を隔てて東京都と向かい合うこの地域は、市川市でも古い歴史をもち、国府台には「法皇塚古墳」が現存する。国府台の地名は、「下総国府」が置かれたこととも大いに関係があるが、この国府台(西側)と並んだ「国分」の台地(東側)には、聖武天皇の発した国分寺建立の詔により、「国分僧寺」と「国分尼寺」が建立され、市川市西部地域は、下総国における政治と文化の中心地になったのである。
 平安時代中期には、平将門の乱をはじめ、平忠常の乱などによって国守の力が衰退していき、源頼朝は治承4年(1180)、源氏再興を期して下総国府に入り、千葉常胤・平広常らの援助のもと兵を集めて鎌倉に向かっており、いわば国府台は源氏再興の出発点となった所といえよう。

 その後、戦国時代には太田道灌が国府台に城を築き、その城は後に里見・北条両氏の古戦場として知られることとなる。
 江戸時代に入ると、国府台には「総寧寺(後出・里見公園の近く)」が関宿から移ってきて、江戸川河畔には小岩と向かい合って関所(市川)が設けられた。また、江戸の近郊として多くの人々が真間山弘法寺の紅葉や国府台古戦場を訪れ、詩歌、絵画、紀行文などを残している。

 明治5年の学制公布により、国府台には大学設置が計画されたが実現せず、陸軍教導団の移転と共に台上一帯は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街になったが、昭和20年の太平洋戦争終結により、兵舎が校舎に、練兵場がスポーツセンターとなって、今日のような学園地域に変貌した。

 その国府台の坂を登って行く左手の和洋女子大学内の遺跡から、下総で初めて確認された古代道路跡が発見され、また、右手「スポーツセンター」の看板がある国府台公園内の遺跡から「井上」と墨書された土師器が出土している。以上のことから、下総国府及びその付属駅として国府に近接して設置されていたと推定される「井上(いかみ)駅」所在地は、現在の和洋女子大学や国府台公園の場所と推定されている。
 その先右手に国立国際医療センター国府台病院があるが、この辺りに学校・病院など公共施設が集中しているのはもと軍用地だったからである。

(参考)国府台の辻切り

 国府台~国分一帯には、毎年各集落毎に「辻切り」という行事が行われていたが、現在市川市では国府台と北国分の2ヵ所だけになってしまった。
 辻切りというのは、人畜に有害な悪霊や悪疫の集落への侵入を防ぐため、各集落の出入口にあたる四隅の辻を霊力により遮断してしまうことから起こった呼び名で、古くから行事として伝えられてきたという。
 遮断方法は、注連縄を道に張ったり、大蛇を作ってその呪力で侵入してくる悪霊を追い払うというような方法がとられていたが、千葉県南部では注連縄を張る集落が多く、北部では大蛇を作る集落が多かったという。

 市川市でも、昔は国府台~国分地域で盛んに行われ、1月17日天満宮境内に集い、藁で2m程の長さの4体の大蛇を作って神前に並べ、御神酒を飲ませて魂を入れ、その後、大蛇を集落の四隅の木に外向きに結び付け、翌年まで風雨にさらされながら集落安全のため眼を光らせ、外から侵入する悪霊などを防いだという。このような行事も、太平洋戦争後は世相の移り変わりと共にすたれ、今ではほぼ昔の姿を伝えているのは、この国府台の辻切りだけになってしまったらしい。

庚申神社(10:41)・・・市川市国分5-7

 「下総国分尼寺跡」は、国府台地から東方に下がり、住宅地を曲がりくねって行った先にあるが、その途中の道角にあったので立ち寄り、参拝する。狭い境内ながら木の鳥居が建ち、高い樹木が小さな社殿(祠)を覆っており、国分寺や国分尼寺に繋がる古道の分岐点として重要な位置づけにあったことが窺える。

下総国分尼寺跡(10:44)・・・市川市国分4-19  国指定史跡

 「下総国分尼寺跡」は、その庚申神社の北西にある。国分寺(国分僧寺跡)の北西500mに位置し、現在は「国分尼寺跡公園」として保存されている。国分尼寺は国分僧寺と同じように聖武天皇が天平13年(741)に発せられた「国分寺建立の詔」により、「法華滅罪之寺」(尼寺の正式名称)として各国々に建立されたものであるが、建立の実年代は現在の処明確になっていない。

 下総国分尼寺は中世以降完全に忘れ去られており、江戸時代には嘗て何かお堂があったらしい、という程度の記憶から「昔堂」と呼ばれ、明治の頃には馬捨場になっていて、現在も国分尼寺跡脇には馬頭観音がある。
 但し、当時から周辺には瓦が多く散積し、礎石も残っていたことから寺院跡、それも国分寺跡ではないかと推測されていた。然し、昭和7年(1932)の発掘の結果「尼寺」と墨書した土器が発見されたことから、この場所こそが国分尼寺であることが明らかになった。更に、国分僧寺の西側に位置することから尼寺を意味する「西寺」と書かれた土器も発見されている。

 伽藍配置は下総国分寺と異なり典型的な東大寺様式であり、昭和42年に行われた発掘調査では東西25.5m、南北22.4mの金堂基壇と、東西27m、南北19mの講堂基壇が確認されている。だだっ広い原っぱの中に講堂跡の基壇の礎石が映えて見えるのが、悠久の時の流れを感じさせる。

下総国分寺跡・・・市川市国分3-20-1 下総国分寺跡 国指定史跡

 古代東海道は、国府を繫ぐ道でもあり、そこには国分寺や国分尼寺もしくはそれらの跡が史跡としてが存在する訳で、我らの街道歩きでは大変重視している。当地は、幸いにして相模国や武蔵国と異なり、それらは国府から1kmにも満たない至近距離にあるため大変有り難いが、国分尼寺から、そちらへと向かう。

 国分寺とは、奈良時代に諸国に建立された宮寺で、僧寺と尼寺の2つがあった。市川市の「下総国分寺跡」には礎石が残され、墓壇跡も確認されており、往時を模した天平様式・朱塗りの山門(南大門)が再建
(注)されている。大きさは創建当時の四分の一、位置は現本堂に合わせるためか少し東にずれている。また、現本堂も、古代国分寺の金堂があった位置に建っている。
(注)明治24年11月の火災で焼失し、山門内安置の仁王尊の内の吽形像も焼失(その後復元造像)した。

 天平13年(741)聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」に、「僧寺は寺名を金光明四天王護国之寺と為す」とあり、中古より明治22年寺名改称までは「国分山金光明寺」と称し、現在は「国分山国分寺」と称している。

 下総国分寺跡は、その詔によって建立された下総国分僧寺跡で、現在の国分寺とほぼ同じ辺りに法隆寺式伽藍配置で建てられていた。昭和40~41年実施の発掘調査では、現在の本堂下から東西31.5m、南北19mの何層にも土を固めた金堂の基壇が発見され、その基壇の中心から北西40mにあたる現在の墓地内に東西26m、南北18mの講堂の基壇があり、更に金堂の基壇の中心から西へ39mの所に一辺が18m四方の方形の塔跡の基壇があった。 平成元年~5年の発掘調査では、寺の範囲が東西300m、南北350m程になることや、寺づくりや下働きをしていた人がいた場所などが判っている。
 また、国分寺に使われた屋根瓦を焼いた登窯の跡も近くから発見されている。瓦の文様は、当時多かった蓮華文と異なり、「宝相華文」と呼ばれる中国で考えられた当時の流行文様だったという。

 下総国分寺の伽藍配置は、国分寺としては珍しく東大寺形式ではなく法隆寺様式
(注)で、金堂の西側に塔が並んで建っていた。創建当時の礎石は現在50数個残っているそうだが、元の位置にある礎石は一つもない。それでも本堂前の庭石や茶室の石庭に転用されたものなどを見て、往時を偲ぶことが出来る。
主要伽藍の最後、講堂跡は、金堂と塔跡のあった後方(北)の、現在は墓地の中にある。

 当国分寺の特徴は、伽藍配置のみならず、出土した瓦にもある。即ち国分寺跡から発掘された瓦は、当時多かった「蓮華文」でなく、「宝相華文」と呼ばれる中国で考えられた文様であったことから、建築には渡来人が重要な役割を担ったと推定されている。

(注)東大寺様式と法隆寺様式

 法隆寺様式は、塀に囲まれた境内内、正面から右に金堂、左に仏塔、正面奥に講堂を配置する伽藍のことで、本来仏舎利を納める役割である仏塔に重きが置かれ、仏寺の付属施設的な場所である講堂はその下に位置づけられており、日本仏教導入時の仏教本来の配置を色濃く残すものである。
 一方東大寺様式とは、日本式に発達した仏教伽藍で、本来中心的な役割である仏塔が境内の外に出され、門、金堂、講堂が直線上に配置されるものをいう。
 同じく聖武天皇により建立された東大寺同様、通常国分寺は東大寺様式、即ち仏塔の比重を軽くした伽藍配置が通例だが、下総国分寺は仏教本来の様式を残した伽藍配置になっていて、建立に参加した渡来人が本来あるべき仏寺の伽藍配置に拘った結果ではないかと推測されている。

「式正(しきせい)織部流茶道」(11:39)・・・市川市国府台 3-8-2

 街道に戻り、その先左手に「東京医科歯科大」、右手に「国立国府台病院精神・神経センター」のある信号から街道を左に離れ、左手の江戸川河畔にある「里見公園」に向かう。

 その途中、公園手前の右手に古風な家があり、「竹寛(寶?)亭」の額や「式正織部流茶道」と題した解説板が掲げられている。
 戦国時代に美濃国の大名だった古田織部正重然(ふるたおりべのしょうしげなり)によって創始された「式正織部流茶道」は、重然が大坂夏の陣で豊臣方に内通したとの疑いで切腹を命じられたが、その後も、古田家の傍流によって代々継承されてきて、16代秋元瑞阿弥が昭和38年に没して以降は、「織部桔梗会」が千葉県指定無形文化財の保持に当たっている。

<式正織部流茶道とは>

 安土・桃山時代の茶人・古田織部正重然を始祖とする茶道の流派。古田織部正は信長や秀吉に従えた武人だが、茶道を好んで千利休に茶の湯を学び、利休高弟七哲の一人に数えられている。利休亡き後もその名声は高く、徳川2代将軍秀忠の茶道師範を務めるほどの地位を得た。また織部焼、織部灯籠などにも名を残している。武人としては、従五位下織部正に任ぜられた天正13年(1585)に山城国西岡領3万5000石の大名になり、家康にも任えたが、慶長20年(1615)大阪夏の陣で豊臣方に内通した嫌疑で自刃している。
 茶道には暗いが、文献によれば式正織部流の特色は、利休の「侘」「数寄」を強調した「私の茶」である侘茶に対して、正式な儀礼の「公の茶」であると言える。それは草庵の茶室ではなく、書院式茶室で点てるのを基本とする格調高いもので、武家的な折り目正しさが感じられる。侘茶との違いは茶道具を直に畳に置かず盆に載せて扱い、濃茶、薄茶とも呑み回しせず各服点てで、帛紗は道具用と勝手用の2種を使い分けるなど、合理的で衛生的な面がみられるという。


里見公園(11:40)・・・市川市国府台3-9

 里見公園は、国府台地区にある広さ8.2ヘクタール、真中に薔薇園があるよく手入れされた公園である。そしてここは、「里見城」とも言われた里見八犬伝で名高い古戦場跡である。そして、一帯は永禄年間(1558~1569)に小田原北条氏と安房の里見氏が激戦した古戦場でもある。
 公園内には約300本の桜があり、国府台の高台から江戸川を見下ろす眺めが素晴らしく、4月には見事に咲き誇って訪れる人や花見客を楽しませる。

 ここは「国府台城跡」でもある。国府台城は、扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が文明10年(1478)、武蔵にいた千葉自胤(よりたね)を援けて、敵対する千葉孝胤(たかたね)との下総国境根原(現・柏市酒井根付近)での合戦を前に仮陣を築いたことに始まる。この地は、その後の天文と永禄の二度に亘って、小田原北条氏と安房里見氏の間で行われた国府台合戦の舞台になっている。

 この公園は、下総台地の西端、江戸川に面した台地上にあり、辺り一帯は「国府台」と呼ばれ、「下総国府」が置かれ、往時は下総国の政治・文化の中心地であった。

 その後、室町時代の天文7年(1538)10月、足利義明は里見義尭等を率いて国府台に陣を取り、北条氏綱軍と戦ったが、北条軍が勝利をおさめ、義明は戦死し、房総軍は敗退した。続いて永禄7年(1564)正月、里見義尭の子義弘が再度国府台城で北条軍と対戦したが、この合戦も北条軍の大勝で終わり、以降この地は北条氏が支配することとなった。
 江戸時代徳川家康が関東を治めると、国府台城は江戸を見渡せる場所という理由で廃城になった。
 明治から終戦まで国府台は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街として栄えました。

 園内には天文・永禄の二度に渡る合戦で戦死した里見軍の霊を慰めるため、文政12年(1829)に建てられた「里見諸将軍霊墓」など3基をはじめ、「明戸(あけど)古墳石棺」「羅漢の井」北原白秋所縁の「紫烟草舎」などがあり、また永禄の合戦に陣鐘(じんしょう)」を掛けたという「鍵掛けの松」その鐘が落ちた「鐘が渕」などの伝説が伝えられている。

<国府台城跡>(11:42)

 この台地から西南西方向を眺めると、江戸川を隔てて、前回歩いた対岸と、武蔵国が一望できる。国府台城は徳川家康によって廃城にされたが、江戸を見下ろす場所にあったからという理由が判る気がする。園内に入った所に「国府台城跡」の碑が建ち、解説板もある。

              
 国府台城跡
 「鎌倉大草紙」によれば、文明一〇年(1478)に扇谷上杉家の家宰太田道灌が「下総国国府台」に陣取り、仮の陣城をかまえたとあり、これが国府台城のはじまりであるとする説がある。道灌は武蔵にいた千葉自胤を助け、敵対する千葉孝胤と戦うためここに陣取り、境根橋(柏市)に出陣し、孝胤を破っている。
 従是以前の康正二年(1456)、千葉自胤は兄の実胤とともに「市川城」に立てこもり足利成氏方に抵抗していたが、梁田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(台東区)に逃れていた。この「市川城」と太田道灌の仮の陣城との関係が注目されるが、同じものなのかどうかは不明である。
 国府台は標高二〇~二五㍍の下総台地の西のはしで、江戸川に平行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在の里見公園のなかに土塁状の城郭遺構が現存している。そして公園の北に向かっても城郭の遺構らしきものが確認される。
 公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいが、太田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推測もある。
 この地は、その後天文と永禄の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見氏らにより行われた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となっている。
 天文七年(1538)の合戦は、北条氏綱と小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小弓(千葉)に拠を定めた義明と北条家が担ぐ本家筋の古河公方家との戦いである。これに対して永禄七年(1564)の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに抵抗する里見義堯・義弘らの戦いであった(前年の永禄六年にも合戦があったとする説もある)。
 永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である正木氏の一族など多くの戦死者を出し安房に敗走する。現在の国府台城跡は、この合戦のなかで激突する両軍の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期のものから戦国期の城郭に進化した、とする説もある。
 現在の公園内には、江戸時代になって作られた里見軍の慰霊のための供養塔がたてられている。
 この地はその後、里見八景園という遊園地の敷地となり、その後陸軍用地となり、終戦を迎えている。
               平成十八年三月               市川市教育委員会


===昼食(11:47~11:59)===

 まだ、殆ど街道筋は歩いていないというのに、もうお昼なので、園内の売店で焼きそばと缶ビールを買い、ベンチでささやかな昼食タイムとする

<羅漢の井>(12:02)

 公園の南斜面下にあり、国府台城に里見氏一族が布陣した際の飲用水として使用したと思われ、高台にあって水源が乏しいにも拘わらず一年中清水が沸いている。
 一説には、弘法太師が巡錫の折に発見し、里人達に飲用水として勧めたとの伝承がある由。

 また、浮世絵師である長谷川雪旦・雪堤父子が描いた、「江戸名所図会」には『総寧寺羅漢井』という絵があり、井戸の周りに人々が集まっている様子が描かれているそうだ。

<紫烟草舎(しえんそうしゃ)>(12:03)

 「からたちの花」「砂山」などの作詩で親しまれた詩人の北原白秋(明治18年~昭和17年)が大正5年の夏から約1年間、この「離れ」(当時小岩にあったものをここに復元)で、優れた作品の創作を続け白秋自身が「紫烟草舎」と名付けていたが、この建物はその後、江戸川の改修工事のため取り壊され、解体された侭になっていた。偶々、本建物の所有者で市川市在住の湯浅伝之焏氏から、厚意ある提供を受けた市川市は、白秋を偲ぶよすがとして、間取り、木材等全て当時の侭、この里見の地に復元した。 それを当地に復元したのは、小岩に移る迄、白秋が真間の亀井院に住んでおり、小岩に移転後も対岸の江戸川堤から眺めるこの里見や万葉の昔から所縁の深い葛飾の野をこよなく愛していたことによるという。

 紫烟草舎の脇に歌碑があり、解説板も建っているが、残念ながら雨戸が閉じられていたため、内部を見ることはできなかった。

   
華やかに さびしき秋や 千町田の
       ほなみがすゑを 群雀立つ
                   白秋

 広大無辺な田園には、黄金色の穂がたわわに実りさわさわと風にそよいで一斉に波うっている。その穂波にそってはるか彼方に何千羽とも数知れない雀の群れがパーッと飛び立つ。この豪華絢爛たる秋景のうちには底無き閑寂さがある。
 むら雀の喧騒のうちにも限りない静けさがある。逆に幽遠な根源が眼前にはたらき形のない寂静が華麗な穂波や千羽雀となって動いている。
 大正五年晩秋、紫烟草舎畔の「夕照」のもとに現成した妙景である。体露金風万物とは一体である。父、白秋はこの観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し赤貧に耐え、以降数年間の精進ののち、詩文「雀の生活」その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正十年八月刊行の歌集「雀の卵」で実現した。その「葛飾閑吟集」中の一首で手蹟は昭和十二年十二月月刊の限定百部出版「雀百首」巻頭の父の自筆である。
          一九七〇年 佛誕の日
                              北原 隆太郎


<夜泣き石>(12:08)

 竹垣で囲まれた土地の中に、里見軍亡の碑に隣接してあり、解説板も建っている。史実とは合致しない部分もあるが、哀れを誘う伝承ではある。

               
「夜泣き石」伝説
伝えによると、国府台の合戦で北条軍に敗れた里見軍は多くの戦死者を出しました。このとき、里見軍の武将里見弘次も戦死しましたが、弘次の末娘の姫は、父の霊を弔うため、はるばる安房の国から国府台の戦場にたどりつきました。
 未だ十二、三才だった姫は、戦場跡の凄惨な情景を目にして、恐怖と悲しみに打ちひしがれ、傍らにあった石にもたれて泣き続け、ついに息たえてしまいました。
 ところが、それから毎夜のこと、この石から悲しい泣き声が聞こえるようになりました。そこで里人たちはこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになりましたが、その後、一人の武士が通りかかり、この哀れな姫の供養をしてからは、泣き声が聞こえなくなったといいます。
 しかし、国府台合戦の記録には、里見弘次は永録7年(1564)の合戦のとき15歳の初陣で、戦死したことになっています。この話は里見公園内にある弘次の慰霊碑が、もと明戸古墳の石棺近くに夜泣き石とともにあったことから、弘次にまつわる伝説として伝えられたものと思われます。
               平成四年三月
                              市川市教育委員会


<里見群亡の碑>(12:08)

 夜泣き石の横に3基の碑が木立の茂った暗がりに祀られている。

               
里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑
 永禄七年(1564)一月四日、里見義弘は八千の軍勢をもって国府台に陣を構え、北条氏康の率いる二万の兵を迎え撃ちました。しかし、八日払暁北条軍は寝込みを襲い里見の陣地目がけて一斉に攻撃をかけたのです。鬨の声に驚いた里見軍は「あるいは鎧、太刀よ馬に鞍おけと叫びまた太刀一振り鎧一領に2人三人取付て我よ人よとせり合ひ、兜許りで出づるもあり鎧着て空手で出づるもあり」という狼狽ぶりを呈しました。
 この合戦で敗北し里見軍は里見広次、正木内膳らをはじめとして戦死する者五千名と伝えております。その後、里見軍戦死者の亡霊を弔う者もなくやっと文正十二年(1829)に至って里見諸士群亡塚(左側)と里見諸将霊墓(中央)が建てられ、また年代は不詳ですが石井辰五郎という人によって里見広次公廟(右側)が建てられました。
 ここに二六五年の歳月を経てようやくこの地で討死にした里見軍将士の亡霊が慰められ、今日に残されたものです。


<参考:明戸(あけど)古墳石棺>

 距離的に園内北方にあり、立ち寄りは省略した。
 市川市の文化財に指定されているこの二墓の石棺が、古戦場跡として知られる里見公園北西部の小高くなった上に2つ並んで置かれている由である。文明11年(1479)に太田道灌が千葉自胤を援助して、臼井の千葉孝胤を攻めた際、陣を築こうとして盛土を取り除いた際に露出して発見されたと伝えられている。
 板のような数枚の緑泥片岩製の組合せ式箱型石棺で、2基とも蓋石はないが、古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)、当地方で勢力を降るっていた豪族の墓と推定されているという。
 『江戸名所図会』にもこの石棺の記述がみられ、「一つは里見長九郎弘次の墓で、一つは正木内膳の墓だという言い伝えもあるが、どちらも誤りで上世人の墓だろう」と、正しい推測をしている由。何びとの人の墓にせよ、こうした石棺は県内に多く見られものだという。

総寧寺・・・市川市国府台3-10-1

 里見公園の東側に隣接して、先にも何度か触れた「総寧寺」がある。園内の売店の直ぐ北側だが、一度門を出てから回り込まなければ行けない。曾ては大変な権威を有した古刹だが、今はその面影が薄い。
 閉じられている山門の横から入ると、山門内側に庚申塔や、数多くの石仏が参道左手に並んでいる。
 また、「曹洞宗里見城跡總寧寺」の大きな石塔がある。

               
安国山 総寧寺
 総寧寺はもと、近江国観音寺の城主佐々木氏頼により、永徳三年(1383)通幻禅師を開山として、近江国左槻庄樫原郷(滋賀県坂田郡近江町)に建立された曹洞宗の寺院であった。
 ところが、天正三年(1575)に至って、小田原城主北条氏政が、寺領二十石を与えて下総国関宿(千葉県関宿町)に移した。
 その後、関宿の地はしばしば水害を被ったため、寛文三年(1663)遂に徳川四代将軍家綱に願って国府台に移った。その折り幕府は寺領として百二十八石五斗余、山林六万七千余坪を与えている。
 総寧寺は古くから一宗の僧録に任ぜられていたが、徳川家康が天下を掌握すると宗門の統一支配の面から、総寧寺の住職に全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、一宗の大僧録に任じたのである。しかも歴代住職は十万石大名の格式を以て遇せられ、江戸小石川に邸が与えられた。総寧寺の格式の高さは今日に残る下馬石によっても分かる。
 明治五年(1872)学制の施行によって、第一大学区の大学校舎を総寧寺境内に建設することになったが、
それは後、陸軍用地となり、昭和三十三年現在の里見公園となった。
 本寺の境内には、関宿より移された小笠原政信夫妻の供養塔である二基の五輪塔、小川稽古斎碑をはじめ、国府台合戦の伝説にまつわる夜泣石等を存する。
               昭和五十四年三月
                              市川市教育委員会


<小笠原政信夫妻供養塔

 総寧寺本堂の左手に、南を向いた大きな五輪塔が2基並んでいる。向かって右側が台座を含めて総高4.25mあり、これが元和5年(1619)から下総国関宿2万2700石余を領した城主小笠原政信の供養塔である。塔正面には「為圭山瑞雲居士」と政信の戒名が刻まれ、左右にも銘文があるが判読は難しく、最終行の「今茲寛永十七上章除年孟秋二日」だけが読み取れる。これは政信の死去した年で、寛永17年は西暦1640年にあたり、孟秋二日は旧暦7月2日のこと。享年34歳、若い!

 小笠原政信は慶長12年(1607)、信幸の子として生まれた。供養塔裏面に小笠原家の系図が彫られ、「自清和天王・・・至長清賜小笠原号忠貴左衛門佐迄十九代」とある、この19代の忠貴左衛門佐が政信である。8歳で父の遺領の古河城を与えられ、元和5年(1619)に上述の関宿に移っている。

 政信の五輪塔の左手にあるもう1基の五輪塔は、台座込みの高さが3.24mで、銘に「為本慶良然大姉奉造立・・・寛永十八年辛巳暦卯月吉辰」とあり、政信の室、板倉重昌の女の供養塔とされている。
 なお、政信の供養塔は、五輪塔としては関東では鎌倉の忍性墓に次ぐ大きなものだという。

<江戸幕府と総寧寺>・・・里見公園新聞 第22号 2007年10月14日(日)発行:木ノ内博道 より

 
里見公園に隣接する総寧寺のことが気になっている。
 江戸時代には国府台一帯を地所とし、300人もの僧侶を抱えた寺が、明治に入ると移転を命じられ、わずかな土地しか与えられず、住職もいなくなり、一時は廃寺になる可能性もあった。たんに廃仏毀釈の影響だけとも思えない。なにか徳川幕府の重要な使命を帯びていたので、それが明治政府の弾圧に繋がったのではないか。
 総寧寺は曹洞宗関東僧禄寺の一つだった。江戸時代には寺院間に上下関係をつける本末制度と、宗派ごとに地域一円を支配する寺院を定めて本末制度とは関係なく支配させる僧禄制度があった。
 江戸時代、曹洞宗の信仰上の頂点にあったのは、本末制度の頂点にいた永平寺と総持寺。政治上の頂点には僧禄制度の頂点にいた総寧寺、大中寺、龍穏寺が君臨していた。この間で軋轢があったことは知られている。
 本紙17号でも触れたが、総寧寺は徳川4代将軍家綱のとき関宿から国府台に移ってきた。理由は、関宿は洪水に弱い土地であったからだが、理由はそれだけだろうか。
 徳川幕府は、江戸の要所に大きな寺院を置いて防衛にあたってきた。芝の増上寺は麹町から移転して東海道の防衛にあたってきた。上野の寛永寺(天台宗)も奥州街道と千葉街道の要所にあって東北の勢力からの防衛にあたってきた。寺院を防衛の拠点としてきたのだ。とくに上野の山は江戸城と同じ高さにあり、戦場として有利な立地だった。高台が戦略上の重要な拠点だとすれば、国府台も無視できないだろう。徳川幕府は、江戸城を見下ろせる国府台をとても気にしていた。国府台城をわざわざ壊させたほどだ。そこに同様の防衛機能をもった寺院を設置することは充分納得できる。

じゅん菜池緑地(12:34)・・・市川市中国分4-27

街道に戻って北進を開始する。右に「じゅん采池緑地入口」という信号があり、また寄り道する。道は下り坂になる。
じゅん菜池緑地は、市川市の国府台地区と中国分地区の台地の境にある細長い池で、豊富な水量を有し、池の周囲は緑豊かな木々に囲まれ、四季折々の自然の姿に触れられる水と緑の憩いの場として親しまれている。残念ながら池の水質は今ひとつで、特に北側の方は残念といわざるを得ない。
 春は梅 林の梅(梅祭り3月中旬)、夏はツツジ、秋はキンモクセイの香り、もみじ、かえでの紅葉が美しい。園内には市内で随一の約130本もある紅白の梅林もあって、2月~3月初旬が見頃である。園内の茶室「登龍庵」もあり、一般の人は無料で利用できる。

源光寺(回向院別院)(12:55)・・・市川市国府台5-26-12

 12:27に街道に戻り、回向院別院的存在の源光寺に向かうべく、ショートカットした街道をバックすると右手(西側)にある。左右には幾つかの寺院があり、完全な寺町になっている。
 本堂の裏から入ったような格好になったが、近代的な豪華本堂で、墓地の広さからも相当裕福な寺院らしいとの見解で一致した。
 寺の住職に話しかけられ、質問に対して「古代東海道を歩いている」旨答えると、その反応や表情から予期外のことを聞いたような返事で、「こんな地図もあるの?」とビックリしていた。

 源光寺は、元々は台東区の浅草松葉町にあったが、関東大震災で壊滅的打撃を受け、再建困難な折、当時住職を兼務していた回向院第二十一世荘誉浄厳上人が、両国回向院の別院的存在として昭和二年に市川市国府台のこの地において復興した。舟形三尊形式の善光寺如来を本尊として安置している。
 朱塗りの山門を入って本堂までの中程にある「一言観音」は「近世江戸三十三箇所観音参り」の第二十七番札所で、一言お願いすると願いが叶うとして、多く江戸庶民の信仰を集めていたそうだが、源光寺再建の際に震災で荒廃した両国の地から緑豊かで閑静な国府台の地に移され、現在は静かな佇まいの中にある。

 また、平成14年に回向院開基三百五十年を記念し、回向院第二十四世謹誉義敬上人により八千代市に念仏信仰を中心とした二十一世紀に相応しい文化の拠点となるべき別院が建立された。竹澤光達師や村上清師による本尊阿弥陀如来像や菩薩像などの諸仏像をはじめ、日本画の石踊達也師の壁画など、新しい時代の芸術の香り高い雰囲気に満ちている。

道標を兼ねた庚申塔(13:04)・・・市川市国府台6-2

 坂を登りつめた所、右手に見えてくる「化学療法研究所附属病院」という大きな病院の先の右手にある。左側には「北総鉄道」の「矢切駅」がある。線路は街道の地下を横切っている。
 ここからは、道の右手が市川市、左手が松戸市という市境になっている道を進むことになるが、街道右手に六臂の像を三猿が支える像が陽刻され、「元文三戊午」(1738)の銘がある庚申塔がある。道標も兼ねており、「右市川道」「左国分寺道」と刻まれている。

愛宕神社の銀杏(13:06)・・・市川市北国分1-12-24

 そのすぐ先の右手に見事な銀杏の巨木が見え、愛宕神社参道入口がある。1.7mほどの狭い間隔で大イチョウが南北に2本、寄り添うように聳えているが、2本とも雄株で、市川市の指定天然記念物になっている。
 樹高が約20~22m、胸高幹周は5.4~5.7mの大木で、樹齢は300年以上と言われているが2本とも正確な樹齢は不明である。ただ北国分は江戸時代に新しく開拓された土地なので、愛宕神社が建てられた頃に植えられたとすれば、樹齢350年前後と考えられる。

 北側のイチョウには幹の西側部分に長さ1.7m、幅50cm程の大きくえぐられた古い跡がある。何でも、30年以上前に落雷があったためらしく、今では新しい枝が成長して樹形は回復している。

(参考)堀之内貝塚
(国指定史跡)・・・市川市堀之内2-15 堀之内貝塚

 愛宕神社から直線距離で700m程東に「堀之内貝塚公園」があり、「堀之内貝塚」や「考古博物館」「歴史博物館」などがあるが、立ち寄りは省略したので、要点だけ触れておく。

 堀之内貝塚は、縄文時代にはこの辺りが入江だったために狩漁に最適だった。貝塚文化の最盛期である縄文時代の後期前半から貝塚文化の衰退期の縄文時代の晩期にかけて形成された遺跡で、今から約4000年~2000年前頃だという。
 貝層は東西に長く、長径225m、短径120mもあり、北西部を屈曲部としたU字型の馬蹄形貝塚である。出土品は多数あり、中でも土器は堀之内式と名付けられ、土器編年の上で縄文時代の後期前半の標式土器だという。また、縄文時代晩期の出土品としては、土偶破片、貝製腕輪など非実用的で呪術的な品々がある由。

(参考)市川市立市川考古博物館・・・市川市堀之内2-26-1 堀之内貝塚公園

 「市川考古博物館」は、昭和47年(1972年)に開館し、堀之内・雪谷貝塚・下総国分寺などの市内遺跡から出土した原始・古代の文化財を中心に収集・展示している。
 前室では「環境の変化」、第Ⅰ室では「最初の住民」(先土器時代)、第Ⅱ室では「貝塚の形式」(縄文時代)、第Ⅲ室では「農耕の開始」(弥生時代)、第Ⅳ室では「古墳の出現」(古墳時代)、第Ⅴ室では「律令の社会」(奈良・平安時代)というように、部屋ごとにテーマを決め、判りやすく展示している由。

(参考)市川市立市川歴史博物館・・・市川市堀之内2-27-1 堀之内貝塚公園

 「市川歴史博物館」は、原始・古代から平安時代までを扱う「考古博物館」の続きとして中世以降の市川の歴史や文化を紹介している。特に海辺の人々の生活「塩田による製塩とりの生活」「江戸時代の水路と陸路」「台地の人々の生活(米と梨づくり)」「郷土の歴史」などのテーマで資料が展示されている。

道標を兼ねた文字庚申塔(13:19)

 その暫く先で13:10に「東京外環道」の工事現場を過ぎ、直線的道を進む。
 更にその先も真っ直ぐで両市境になっている情緒ある道を進み、坂を下り切った右手に「青面金剛」と刻まれた「庚申塔」がある。天保十二年(1841)の銘があり、左側面には「南いち川 西まつど 北金ヶさく(金ヶ作) 道」と刻まれ、これも道標を兼ねている。

開発で消滅した古代官道

 再びそこから登り坂が始まる。事前に地図で調べて判ったが、松戸市との市境が右直角に変わって松戸市域に入って150m程先左手に「二十世紀が丘萩町」にある「松戸二十世紀ヶ丘郵便局」前に出る。ここから直線距離で600m程の古代官道が消滅し、1970年代に開発されたベッドタウン「二十世紀が丘」開発で古代官道が破壊され、ジグザグの新道に変わっている。
 やむなく、区画整理された大きな街路を左に右に2回ほど迂回して、元の直線的古代官道延長線上の道に繋がる。

庚申塔(13:52)

 暫く進み、「まてばしい通」との交差点を渡った先の右手に小さな「庚申塔」があるのを見付ける。彫りの深い文字で「庚申塔」と刻まれており、台座に三猿がある。右面に「文化十一甲戊歳」(1814)と紀年が入っている。

下水遺跡(13:54)・・・松戸市松戸新田127-3

 その先の左手に、「下水遺跡」と記した白い木の標柱が建っている。文面は

 縄文時代中期中頃から後期にかけての貝塚です。・・・たくさんの土器や石器が発見されています。また住居跡も・・・

と、一部判読不能だが、「下水」は「げすい」とは読まず「げす」というそうだ。

ゴール(14:22)

 坂道を下ると、国道6号(新水戸街道)を左に分けて直進してきた県道281号線が左後方から来るのに合流し、暫く行くと左手に新京成線の「みのり台駅」がある交差点を左折し、線路を渡って14:12に右折して暫く線路沿いに東進する。今日のゴール予定地である「JR新八柱駅」へと進んでいく。
 「八柱駅北口入口」を右折すると、正面に新京成線の八柱駅があり、隣接して左側にJR武蔵野線の「新八柱駅」があるので、14:22そこをゴールにする。
 時間的にはもう少し歩けるが、帰途便かつ次回出発点としての集合場所として、JR武蔵野線と新京成電鉄の駅がある所が好都合なので、ここで本日の歩き納めとした。

 駅前の「大戸屋」に入り、ヘルシーつまみで冷たいビールと冷酒でささやかに相互慰労兼以後の打ち合わせを行い、全員武蔵野線で帰路についた。
Back
Next