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古代東海道餐歩
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 2009.09.23(水・祝) 古代東海道#8 南千住(JR南千住駅)~市川(JR市川駅)・・・(武蔵国完結)
 
【本日の行程 街道距離 12km】

 南千住→白髭西→隅田川→白髭東→荒川→立石→中川→江戸川→市川

スタート(9:23)

 9:30南千住駅集合で案内していたが、9:18到着で改札口に出ると、既に清水・村谷両氏が先着済みで、当街道常連3名で東口から9:23にスタートする。この辺りは、JR線路や隅田川貨物駅などで往時の道筋が分断されていたエリアだが、再開発で大きく変貌したようで、僅かにJR貨物船の「隅田川駅」の表示が見えるのが往時の名残と言えようか。

(汐入)胡録神社(9:37)・・・荒川区南千住8-5-6

 最初の信号を左折し、すぐ先の信号を右折すると、高層住宅が林立する白髭西地区に入っていく。次の信号の先右手に「胡録神社」がある筈だったが、途中で街角の案内地図を見ると南千住8-11-11からやや北の8-5-6に遷座していて、そちらに向かい、本日の無事を先ずは祈願する。

 汐入は古地名で、汐入小学校の校名に残っている。当社もその影響を受け、平成15年9月に境内地を現在地へと遷座しており、旧地は公園になっている。往時は汐入大根の栽培地として人気を集めたそうだが、今はその畑もなく、昭和末頃から汐入地区の再開発計画が進められ、平成初期には見られた木造建築の旧家も全て取り壊され、多くの地主は、高層住宅へと生活を変えている。

 「胡録神社」は、 面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)を御祭神とする永禄4年(1561)8月創祀の古社である。
 永禄4年8月の川中島合戦に敗れた上杉家の家臣高田嘉左衛門が、仲閒12名と共に逃れ、高田・杉本・竹内の3名が当地に来て永住し、その守護神である面足尊・惶根尊の両神を一祠に奉齋し崇敬したのが始まりとされている。のち嘉永5年(1852)9月に神殿を改築している。
 御祭神の面足尊・惶根尊は、神代七代の初神・國之常立神(くにのとこたちのかみ)から数えて第6代の神にあたり、体の整い足る神、國の整い足る神と言われている由。

<挽臼>

 むかし農家などにあった通常型のものとは異なり、上部の廻す石の下部が円錐形に尖り、それに合わせて下部の方は上部の尖りに対応するようにへこんだかたちになっている挽き臼は初めて見る形である。これも立派な文化財だと想われるが、解説板の下に置かれっぱなしになっており、貴重な歴史遺産として悪戯などに遭わないことを願う次第である。

               
胡粉を挽いた臼
 昔このあたりは地方(じかた)橋場村小字汐入といわれ、今から一五〇~三〇〇年くらい前、当汐入では胡粉づくりが盛んに行われ「汐入大根」と共に有名でした。
 汐入産の胡粉は品質極上で、人形、おしろい、絵具の材料、能面仕上げ、元結などに使われ“かき殻”を焼いて、この石臼で粉にし、水でさらしてから丸め、乾燥して再び微粒子にして出来上がります。
 大変な重労働でしたが、機械で作られるようになってから衰微し、今では幾つかの挽臼が汐入に残っており、これは其の内の一つです。<これからは胡録神社に保管します。>


<道祖神>

 境内入って左手に末社の「道祖神」が祀られている。

               
道祖神御由緒
御祭神 猿田彦尊
御由緒
 往古は旅行安全祈願の神様として、亦足の神様として、汐入の村落の出入口に祀られていたが、現在では、胡録神社の境内に移され祀られているのである。神代の昔、天孫降臨の砌、道案内を勤めた神様という故事により旅の安全、足の病気平癒の神様として崇められ、祈願の折は草鞋、草履を奉納して参拝する。亦耳の病気の折は二個のお椀に穴をあけて奉納するなどの風習は今でも受け継がれ守られており、最近では、道の神様でもあるという事で交通の安全を祈願する人々もおられる。


 猿田彦尊は「境の神」とも言われ、禍悪を里の中に入れないよう里との境に祀られ、延喜式祝詞には、「八衢彦(やちまたひこ)、八衢姫(やちまたひめ)、岐(ふなど)の神に、根の國・底の國より荒(すさ)び疎(うと)び来む物に相混じり相口会う事無くして・・・・」とあり四方八方からの禍を祓い除ける神として祈願されている。

<刀塚>

 前述の高田嘉左衛門は、慶長5年(1600)5月関ヶ原より落ち、「自ら刀を抜いて人は斬ってはならぬ」と鎧兜を地下深くに埋めた。昭和34年9月に町の有志たちが汐入の開拓を永久に伝えるべく、埋地と伝承される南千住8丁目1の40番地付近に祀った。平成12年4月再開発のため、関係者の総意に基づき、当宮境内に遷され、「刀塚」として祀っているというのだが、遷座の影響か、はたまた我らの探しようが悪いのか、境内では見つけられなかった。

<壁面掲示>(9:44)

 神社から街道に戻る途中、行きと反対側の歩道を通ったお蔭で、ベルポートのビル壁に、
   * 往時の「道祖神わらじ奉納」の写真
   * 大型アンモナイト模様に見える「胡粉用の石臼」の写真
   * 往時の「道祖神」の写真
   * 「旧胡録神社」の写真
などが、パネル形式で掲示されており、移転後も胡録神社が町の人々から崇められている様が窺えた。

木母寺(9:59)・・・墨田区堤通2-16-1

 左後方から大きく湾曲してくる「隅田川」を「水神大橋」で渡る。左手には、旧綾瀬川が綾瀬橋の下を通ってこの隅田川に流れ込んでいるのが見える。水神大橋を渡った所には白髭東防災拠点の高層住宅が並び、その手前の旧忍岡高校跡地を隅田川左岸沿いに右折すると、左手に「木母寺」、その先に「隅田川神社」がある。
 「木母寺」は時代小説にはよく登場する所で、「梅若伝説」でも名高く、機会があれば一度行ってみたいとかねがね思っていた所である。また、この辺りは、古代東海道の宿駅があった所とも言われている。

 木母寺は天台宗の寺院で、本尊は「慈恵大師(別名:厄除け元三大師)」である。寺伝によると、貞元元年(976)に僧・忠円が、京から人買いに連れてこられて当地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)を造り、その傍らに建てられた梅若寺に始まると伝えられる。
 天正18年(1590)徳川家康から「梅柳山」の山号を与えられ、慶長12年(1607)前関白の近衛信尹が参拝した折、柳の枝を筆代わりにして「梅」の字を「木」と「母」と分けて書いて以来現在の寺名「木母寺」に改められたと伝えられる。
 明暦3年(1657には境内に「隅田川御殿」が建てられ、以後約100年間存在したという。この間、歴代将軍や京からの訪れも頻繁にあったと言われ、幕府から朱印状も与えられているなど、幕府との繋がりも深かったらしい。
 明治に入って神仏分離に伴う廃仏毀釈の影響で一度は廃寺になったが、明治21年(1888)に再興されている。その後、白鬚防災団地建設のため現在地に移転している。

<梅若伝説>

 境内に鎮座する梅若塚は、謡曲「隅田川」によって能や歌舞伎で広く知られる旧跡である。伝承『梅若物語』は、この寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」によって描かれている。これは、家綱の時代、上州高崎城主安藤重治によって寄進されたものである。そして、この物語が、木母寺の始まりになっている。
 平安中期、京都北白川に吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘花御前の夫婦がいた。二人には子供がなく、日吉宮へ行き、お祈りしたところ、神託により梅若丸という男子を授かることができた。この梅若丸が5歳の折、父惟房が亡くなり、梅若丸は7歳で比叡山の月林寺に預けられた。
 梅若丸は三塔第一の稚児と賞賛を受けるほど賢い子供で、その賢さが災いしたのか、比叡山では東門院の子若松と稚児くらべにあい、東門院の法師達に襲われ、梅若丸は山中に迷い、大津浜へと逃れる。
そこで信夫藤太という人買いに連れ去られ、東へと下る。旅の途中病に罹った梅若丸は、貞元元年(976)3月15日、隅田川河畔で「尋ね来て 問はは応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと」の句を残し、12歳という若さで命を落としてしまう。
 そこを通りかかった天台宗の僧忠円阿闍梨が、里人と墓を築き柳を植えて弔ったのが発端である。
謡曲「隅田川」では、わが子を探し求めてきた母親が隅田川のほとりで梅若の霊と巡り会う筋立てになっている。

              
 梅若塚の沿革
 「たづね来て問はばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現の霊地として尊信されました。
 明治の世となり木母寺が廃寺の後は埋め若神社と称されましたが同寺再興の翌年(同22年)佛式に復歸しました。
現在地に遷座したのは昭和五十一年で旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています。

               梅若堂(梅若塚拝殿)
 この仏堂は、明治の廃仏で一時梅若神社とされた梅若塚が再び仏式に復帰した年、すなわち明治廿二年の建立になります。
 当寺一帯が全焼した昭和廿年四月の戦災にも消失を免れた唯一の仏堂ですが、その後の空襲で受けた爆弾々片による痕跡(□印)が所々見られます。
 防災拠点内であるため木造建造物の存置は許可されず、覆堂内に納められることになりました。
 なお、塚の二面に見える古い石垣は、さきの仏式復帰にあたり芳志を寄せられた人々の名を留めている重要記念物として旧塚から移された玉垣であります。
               昭和五十一年十一月吉日
                              梅若塚遷座に際し 住職謹誌

               「身代わり地蔵尊」の由来
 この地蔵尊は、木母寺が旧地にあった頃、門前に安置されて多くの人々から深い尊信を寄せられ、民衆守護の願いを聞き届けられた、ゆかり深いお地蔵様です。
 そもそも地蔵菩薩は、常に六道(人間が□々とする六つの境涯)を巡り、人々の悩み、苦しみを癒やし、身代わりとなって下さるという「代受苦の菩薩」としての信仰が古くからあります。
 つらいこと、苦しいこと、悲しいことがおこった時には、このお地蔵様に訴え、「身代わり」をお願いして、あなた自身は元気を取り戻してください。
地蔵菩薩の御真言(お祈りするときの言葉・合掌して三たび唱える)
 唵・訶訶訶尾・娑摩曳・娑婆訶 (オン・カカカビ・サマエイ・ソワカ)


<天下之糸平碑>

 推定だが、高さ5m・幅3m程の巨大な石碑が境内にあり、真ん中に「天下之糸平」とある。右に「明治二十四年六月建」左に「伯爵伊藤博文書」とあり、その時は知らなかったが、帰宅して調べてみてびっくりした。

 本名は「田中平八」といい、天保5年7月11日(1834年8月15日)現在の長野県駒ヶ根市生まれで、同市には「天下之糸平生誕郷」の碑があるとのこと。幕末~明治の実業家で、本姓は藤島、幼名は釜吉、名は政春と称した。結核で1884年(明治17年)6月8日に51才で他界した。
 糸平の子孫達は、現在「田中貴金属」として金相場を牛耳っているし、「糸平不動産」としても営業している。

 資産家だったが生家は米や綿相場で失敗し没落。3男の平八は弘化3年(1846)頃、現在の飯田市の魚屋に丁稚奉公に出されたが、嘉永2年(1849)頃には魚屋として独立。嘉永6年(1853)に田中はると結婚して田中家の養子になり田中姓を名乗るようになる。その後、名古屋・伊勢町や大阪・堂島の米相場に手を出すが大損をしている。

 その後、江戸は斎藤弥九郎の練兵館門下生になり、吉田松陰や清川八郎らと交わったようだが、元治元年(1864)には水戸の天狗党の乱に参加し、捉えられて小伝馬町に投獄された。この投獄を境に「剣」に生きることを諦め、商売に生きることを決意したといわれている。
とはいえ、安政5年(1858)頃から横浜へ出て、生糸・藍玉を扱う商売をしていたという説もあり、天狗党の乱の時期とは前後しており、また単に投獄で済んでいることから水戸藩士らが挙兵後に参集した群衆の一人だったとも目されている。また、平八が筑波の山林を買い占めていたために「火災を起こさないよう」天狗党首領の武田耕雲斎に掛け合ったというような逸話もあるが、志士との交流や投獄されたことによる決意も、後に名を成した者の喧伝である可能性も言われている。

 ともあれ、慶応元年(1865)横浜で大和屋の後ろ盾を得て「糸屋平八商店」を開業し、生糸・為替・洋銀・米相場等で巨利を得、通称「糸屋の平八」「天下の糸平」と呼ばれるに至った。
 しかし、慶応4年(1868)に四日市から横浜に茶を運ぶ途中船の難破により全財産を失っている。その後、明治5年(1872)には横浜金穀相場会所を設立しその頭取に、また、洋銀相場会所を設立し、その後、相場師の諸戸清六、今村清之助らと組んでイギリス人貿易商や清国人商人を相手に仕手戦を仕掛けるが、負けそうになったことから、偽札を作り見せ金とすることによって勝利するが、後日これが露見し横浜の商売から手を引ている。

 明治9年(1876)には東京で田中組(後の田中銀行)を設立し、同11年(1878)には渋沢喜作(渋沢栄一の弟)を発起人として東京株式取引所を設立し、その大株主になっている。更に明治16年(1883)には東京米商会所(後の東京米穀取引所、現在の東京穀物商品取引所)の初代頭取に就任し、この米商会所の株式を上場。これも仕手戦と化し大儲けしたという。
 病を得て熱海で療養中には、私財を投じて熱海までの水道・電話線を架設したりしたが、明治17年(1884)に没している。

 「相場は騎虎の勢い」が座右の銘で、長女の名前も「とら」。横浜ではお倉という女将に富貴楼という待合をもたせた。
 子孫には、長女とらの婿に糸平不動産や田中鉱山(後の田中鉱業)を興した三代目田中平八(北村菊次郎)、三代目田中平八の長男に日本のラグビーの父と言われる田中銀之助がいる。

隅田川神社(10:08)・・・墨田区堤通2-17-1

 その先の右である。
治承年間(1177~1180)、源頼朝が関東下向の折、暴風雨に遭い、当社に祈願したと伝えられているが、御鎮座の年代は未詳。隅田川の総鎮守であり、元の名を浮島神社と言い、古くは水神社、水神宮、浮島宮などとも呼ばれ、「水神さん」即ち水上安全の守護神として水運業者や船宿、船頭や荷船仲間など、川で働く人たちの崇敬を集めていた。また、「水神」の名から水商売の人々にも信仰された。
 
 明治5年(1872)に「隅田川神社」と改称したが、御祭神は「速秋津日子神」(はやあきつひこのかみ)
・「速秋津比賣神」(はやあきつひめのかみ)・「鳥之石楠船神」(とりのいわくすふねのかみ)・「大楫木戸姫神」(おおかじきどひめのかみ)の4柱である。

 現社殿は嘉永元年(1848)造営のものが、安政2年(1855)の大地震による倒潰で、安政5年(1858)に再建されたものである。その後、近代になっても関東大震災や太平洋戦争などで被害を受け、その都度修理を加えている。曾ては現在地より北約25mに南面して鎮座していたが、高速道路が神域をかすめることとなり、社殿に大修繕を加えて昭和50年(1975)6月現在地に遷座している。

               
水神の森跡
                          住所 墨田区堤通二丁目十七番 隅田川神社
 荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつて鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれて親しまれていました。
 昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。
 水神の森は、「江戸名所図会」にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)の鎮守の森でした。川を下ってきた人々には隅田川の入口の森として、川をさかのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていました。
 その後、震災・戦災にも消失を免れた森は、戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。
               平成十九年三月
                              墨田区教育委員会

白髭(しらひげ)東防災拠点

 木母寺や隅田川神社のある隅田川左岸一帯は、白髭東地区と言い、1969年策定の東京都の江東再開発計画に基づき、1983に建設された白髭防災拠点を利用した行政主導のまちづくりがなされており、江東地区防災拠点の指定を受けている地域である。 隅田川沿いの「東白髭公園」は、大地震や火災発生時の避難広場となる。
 公園の東側には13階建の高層住宅が立ち並び、公園・住宅・その他病院等を合わせた区域一体が江東デルタ地帯の防災拠点になっているのである。現在、墨田区は目指すべき都市像として「災害に強い防災のまち」を掲げ、「逃げないですむ燃えないまち」・「安全に避難できるまち」・「水害に強いまち」・「安心して暮らせるまち」を目標に、災害に強い安心して暮らせるまちづくりを推進している。

<防災壁>

 都営白髭団地は住宅でありながら、高度な消化設備を持った施設である。この施設は延焼遮断帯としての働きをすると同時に、非難場所を提供している。大災害時には、白髭団地東側に広がる住宅密集地で起きた火災を白髭団地西側にある避難活動場所へ延焼させないため、白髭団地は10棟すべてが横に万里の長城のようにつなぎ合わされており、これによって防災壁が形成されている。
 火災発生時には、住棟間の隙間を鉄の扉で締めることにより、火の手が広がらないようにしている。

<防災シャッター>

 火災発生時に、白髭団地西側の密集市街地からの飛び火を防ぐため火災報知器と連動して各戸のベランダに設置された防火シャッターが自動的に下りる仕組みになっている。また、5階では、災害時のベース拠点として機能するために廊下が他の階よりも広くなっているなど、様々な防災対策が採用されている。

<避難活動場所>:東白髭公園

 都営白髭団地西側に広がる東白髭公園は隅田川に望み、燃えにくい常緑樹を中心に緑豊かな公園になっている。ここには消火池、災害対応公衆トイレ、救援物資倉庫などを備えており、もし大地震や火災がおきた時には、この公園が避難広場になる。
 また、防災拠点になっている白髭公園への避難路となる鐘ヶ淵通りの拡幅整備も進められており、防災拠点と一体化した不燃空間確保による、広域的な防災性の向上を図っている。

 このほか、鉄製ゲート、非常階段の付いた監視塔、朱塗りの放水銃、スプリンクラーなどを備えた様は巨大な要塞のようである。

墨堤桜並木と榎本武揚像

 墨堤の桜は、享保2年(1717)将軍吉宗による植樹に端を発するようで、江戸後期から桜の名所として知られた隅田川左岸沿いに1.5km程続く「墨堤の桜並木」は、毎年、3月中旬から4月上旬まで「さくら祭」が開催され、多くの人で賑わうという。

<墨堤植桜之碑>
 立ち寄らないが、墨田区向島5-1にある碑には、桜の由来が書かれているそうで、篆刻は榎本武揚の書と言われている。明治16年(1883)成島柳北、大倉喜八郎らが墨堤に1000本余の桜を植えた記念として、明治20年(1887)に建てられた碑である。
 10:33、その榎本武揚像が墨堤通に面した所に大きく見えるのが、道の反対側から確認できた。

墨堤通りから古代東海道へ、そして荒川を迂回して葛飾区域へ

 隅田川神社参道を経て東にある「墨堤通」の「隅田川神社の一の鳥居」のある地点に出、そこを少し北の方に行った場所から、一段低く東へ真っ直ぐな細い道があるが、これが古代東海道である。東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅の南側を通り、やがて荒川に突き当たる。
 古代東海道は、現在の荒川の東、四木橋のやや北付近に続いていたと推定できる。

 荒川四ツ木橋緑地を左手に見ながら土手を歩き、迂回して「四つ木橋」を渡る。荒川に続いて綾瀬川を「四ツ木小橋」で横切る。橋を渡り終えて、やや北から真東に続いている古代東海道に入るのが順路だが、途中の僅かな区間はショートカットして国道右側に降りて西光寺へ南門から入る。

西光寺(11:05)・・・葛飾区四つ木1-25-8

 国道6号(水戸街道)を渡り終わった所の信号を右に入った所に「西光寺」はある。ここは鎌倉時代、武蔵国・下総国の御家人・豊島氏の一族で豪族の葛西三郎清重の居館跡である。
寺は元浅草伝法院の末寺で、南葛八十八ヶ所霊場33番札所でもある。
山門に向かって右手の塀の上に以下のような内容の解説板があり、山門を入ってすぐ右手に「清重稲荷神社」が祀られている。寺には清重の墓と伝えられる五輪塔もある。また、解説板によれば、近くに「清重塚」と呼ばれる古墳があるようだ。

 どこの寺院もそうだが、きょうは9月23日で当寺にも沢山の人々がお彼岸とてお墓参りに訪れている。

              
 葛西三郎清重の遺跡
西光寺は鎌倉時代、関東の豪族として雄飛した葛西三郎清重の居館跡として知られています。
 当寺は古く嘉禄元年(1225年)清重の創建と伝えられ、天台宗超越山来迎院と号しています。
 また、近くにある清重塚と称する古墳は葛西清重夫妻の遺骸を葬った場所といわれています。
                              葛飾区
                              葛飾区観光協会

 清重は豊島清光の三男で、葛西荘を本拠地としたため葛西氏を称した。源頼朝の挙兵時から従い、奥州藤原氏討伐後の文治5年(1189)奥州総奉行職に任じられ、東北地方の御家人を統括した。その後、豊臣秀吉の奥州仕置まで奥州を基盤に勢力を誇ったという。

 その後、立石まで、見事に真っ直ぐな道が続くが、途中、京成押上線を越えたすぐ先の「奥戸街道入口」信号で「平和橋通」を越える。

昼食(11:35~11:55)

 途中、京成立石駅近くの街道左手の中華店で、いつも通り早めの昼食を摂る。


喜多向観音(11:59)・・・葛飾区東立石4丁目45

 引き続き暫く進むと、本奥戸橋の100m程手前右手に「喜多向観音菩薩」という珍しい名前の観音さまが鎮座している。北向地蔵というのはこれまでも何回か見かけたが、「喜多向」という字の観音さまは初めてである。「喜び多く向かい給え」とお祈りする人たちの信仰を集めている由。赤い提灯が吊り下げられたお堂前で、折しもどこかの若いお母さんが合掌してお願い事を念じている姿が印象的だった。

               
喜多向観音の由来
 今から266年前ころ寛保元年1741年、徳川8代将軍、吉宗候時代鷹狩りにお出になる将軍家の御膳所寺、南蔵院と言う真言宗の寺、<<妙本>>という尼さん、金龍山浅草寺を深く信仰して千日詣の大願を起こせり、愈々念願の日、枕頭に金色燦燦と輝ける観世音菩薩の御姿が現れ、汝の願い正に叶う可し、喜び多く向わんと、謂うや何処ともなく姿を消してしまった。
 そのお礼にと、建てたのがこの喜多向観音でございます。
 世の為め人の為喜び多く向かい給えと喜多向観音にお参り信仰する者には必ず一つは叶うと言い伝え、今日に至るまで参詣する人絶えることなく諸々の苦悩を救う観世音、
 喜び多く我に迎えむ、ご利益を頂戴する者数限りなし、霊験殊に現たかなり、賽人謂集して盛況を極む、
 千日の願へは叶う観世音、
           喜び多く我に迎へよ
                平成十九年九月            喜多向観音講世話人

子育地蔵尊・馬頭観世音・道標など(12:03)

 その先、「中川」に架かる「本奥戸橋」の手前の「本奥戸橋西詰」で左折し、湾曲蛇行している中川沿いに左への土手沿いの道を進むのだが、その「本奥戸橋西詰」に、祠に安置された貞享2年(1685)銘の「子育地蔵尊」と、安政2年(1855)銘の「馬頭観世音」があり、更にその前に「道しるべ」がある。

             立
石諏訪自治会史跡
               地蔵尊・馬頭観音・道しるべの由来
 この地蔵尊は、貞享二年(1685年・江戸初期)に念仏講によって建造されたものです。建立当時は、現在の橋際の堤防内にあわもち屋という家があり、その前に在ったということです。昭和初期、本奥戸橋架設の時、現在地の向側に移転し、五十数年後の現在、 掛替工事の爲現在地に再度移転ました。
 地蔵尊は、民間信仰として庶民のあらゆる願い事をかなえてくれる仏として信心され、特に育児についての守り仏として強く結びつき、子育ての精神的なよりどころとして女性に多く信仰されていたものです。地域では老若男女多くの方が、子供達の幸せを願っておまいりしています。
 となりの馬頭観音は江戸時代の半ば以降に農耕馬や運送馬が普及してから馬の保護仏として広く信仰されたものです。現在は、地域の交通安全の守り神となっております。建造は安政二年(1855年、江戸大地震の年)です。
 道標(みちしるべ)は、出羽(今の山形県)三山(月山・湯殿山・羽黒山)の信者の人々の講中が参詣の記念に、宝暦五年(1755年)旅人たちの役にたてようと建造したものです。
 「・・・橋際に地蔵尊と道しるべの石あり。右江戸みち、左おくと渡し場道・・・と刻したり。・・・」
               昭和六十一年四月十三日
                              地蔵尊等保存会


仲通り子育地蔵尊(12:08)

 更にそこから150m位進んだ道の湾曲部の外(左手)に子育地蔵尊がある。折悪しく川沿いの高みを歩いていたので道向こうに降りていけず、直接参拝できなかったが、通りすがりに心の中で合掌した。

立石様(立石/立石祠/立石稲荷神社)(12:12)・・・葛飾区立石8-37-17立石児童遊園の中

 事前に仕入れた情報どおり、「立石様」の場所は判りにくいと思ったが、比較的簡単にたどり着けた。「立石様」は、「本奥戸橋西詰」から左折して350m程行った所を左折した裏通りにある小さな「立石児童遊園」の中の、立石稲荷神社の石の鳥居と奥の祠の間にコンクリート柱で囲まれた中に「何だ!?」と言いたくなるような見栄えのしない小さな自然石が露頭をほんの少々出しているだけのものである。ただ、江戸時代の絵図に描かれている立石の姿は、今よりも高さもあり大きく、なぜ今こんなに小さくなったのか、何の解説板もない。

 「立石様」は、日本全国に分布する立石(メンヒル・道標・墓標など)を周辺住民が崇拝あるいは畏怖の気持をこめて呼ぶ尊称だが、当地の立石様は、曾て付近に古墳があったことや、その材質(房州石という凝灰石の一種)から、古墳の石室などと同様、千葉県の鋸山付近から同地に持ち込まれたとも推定されている由。また、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたとも考えられているそうだ。

 この立石は、江戸時代には高さ60cmほどあり、、「根有り石」とも呼ばれていたそうだが、寒い時に石がどんどん欠けていき、暖かくなると元の状態に戻る奇石として注目を浴びていたという。そんな奇怪な謂われを有する奇石だった処から、文化2年(1805)に地元の人たちが、石の下はどうなっているのか?と石の根元を掘り進めた処、幾ら掘っても石の根元は見えず、そうこうしている内に石を掘っていた人や近在の人々の間に悪病が蔓延し、「これは立石の崇りだ」ということで、さっそく掘削作業は中止され、石祠を設け、「立石稲荷神社」として奉斎されるに至ったとのことである。
 後に、立石様を欠いて持つと病気に効くという信仰や日清・日露戦争時に弾よけのお守りとして欠いて持つ人が現れたり、地盤沈下などの結果、現在では地表より数センチ程度の高さしかない。

             
葛飾区指定史跡
               立  石(たていし)
                             所 在 地 立石八丁目37番17号
                             指定年月日 昭和51年3月6日
 古くから「立石様」とよばれ地名の起こりとなったものです。室町時代の文献、応永5年(1398)の「下総国葛西御厨注文」をみると、すでに立石の地名がで゛ています。江戸時代になると「江戸名所図会」「新編武蔵風土記稿」にも奇石として紹介されています。
 地元の人々の崇敬と畏怖を集め、文化2年(1805)村の名主島田新右衛門らがこの地に石祠をたて、立石稲荷神社としてお祀りしました。
 この石が古墳の石材の一部であるか、巨石信仰の一種なのか確かな用途はまだわかっていません。しかし、この付近にいくつかの古墳が築かれていたことは、発掘によって確認されています。
                              葛飾区教育委員会


南蔵院(12:16)・・・葛飾区立石8-40-25

その先左手にある。五方山立石寺という真言宗豊山派の寺である。駐車スペースがあり、そこから入口になり、左に庫裏と墓所、右に鐘楼がある。本堂は立派な基礎の上に新築の白木が綺麗な建築である。
 新四国八十八箇所霊場で、四ヶ領第十七番・荒綾第四番の札所になっている旨の真新しい石碑が左手の小堂横に建っている。
 その小堂には、清水氏が発見し教えてくれたのだが、「新四国南葛八十八ヶ所(大心講)」と題する刷り物が置かれており、お大師さまの功徳などについて実例をもとに「南葛新四国八十八ヶ所霊場」の完成に至る由来が屡々記されている。

刺抜地蔵(12:28)

 会堂正面に愛児に白抜きの幟がはためいており、見ると宝永3年(1706)造立の「刺抜地蔵」が安置されているので参拝する。

立石熊野神社(12:30)・・・葛飾区立石8-44-31

 そこから10m位バックして北に入った所にある「熊野神社」に行く。朱塗りの門の左右に詳細な掲示がなされている。神紋は○の中に五角形、そして、その中に八咫烏で、烏を囲む五角形は陰陽師安倍清明の陰陽五行説の木・火・土・金・水に象どって境内が造られていることを示している。
 御祭神は伊邪那岐大神、相殿には速玉男命、事解雄命の三柱を祀るこの神社は、東京で唯一安倍晴明ゆかりの神社で、平安時代中期の陰陽師安倍晴明の勧請と伝わる葛飾区内で最も古い神社の一つである。

 社伝によれば、当社は平安時代中期の長保年間(999~1003)、阿倍仲麻呂の曾孫で陰陽博士の阿部晴明(921-1005)が五行に形どり 三十間五角の地を相し、紀伊国熊野三社権現を勧請したものだという。創祀以来、人々の尊崇篤く、江戸時代には三代将軍家光が鷹狩りの途次参詣しており、それが発端でか、以後歴代将軍の参詣があり、八代将軍吉宗以降は御膳所として当社に休息することが通例になり、その都度、当社からは金鳥の御符と守り札を献じたとのことである。
 また、当社の御神体は「神代の石剣」で極めて珍しいと、江戸時代の地誌「四神地名録」に記されている由。

 元文4年(1739)代官伊奈半十郎に提出した記録には、江戸時代初期の社殿は荘厳な神明檜造りだったが、天明6年(1786)7月の大洪水で流失したことを伝えている。社殿は慶安2年(1649)・寛政8年(1796)・安政4年(1857)・明治12年2月に改築され、昭和37年に拝殿の一部が修復されている。

 参道右手には、「願掛け撫で牛」と呼ばれるものが手水横にあり、自分の良くなりたい箇所を撫でて願掛けするようになっている。

 また社殿の西側にある富士浅間神社の小丘は、社前を流れる中川の護岸工事の残土で大正13年に建造されたもので、 高さ約3m、立石一山講によって毎年神事が行われていた。
 樹齢300年のクスノキが社殿両側に一対になって2株ある。高さはいずれも25,m,で、目通り幹周は3.7~8mもあり、区登録天然記念物になっている。

 このほか、境内に「本田(ほんでん)ウリ」の解説板もある。江戸時代に盛んに栽培され、中川を船で下り、堅川や小名木川を通って江戸に運ばれていたという。

上小岩遺跡

 左手に見える「京成小岩駅」の右手に、弥生時代後期の遺跡である「上小岩遺跡」の解説板が建っており、「小岩」の由来も記されている。奈良の東大寺正倉院文書の養老戸籍(養老5年=721年)の中に、下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍の中に3つの集落が登場しており、「甲和里(こわり)」という集落が小岩にあたると推定されている。

   甲和里(こわり)   = 44世帯 - 454人 現在の地名?:小岩
   嶋俣里(しままたり) = 42世帯 - 370人 現在の地名?:柴又
   仲村里(なかむらり) = 44世帯 - 367人 現在の地名?:水元小合町

               
上小岩遺跡
 上小岩遺跡は、区内で最も古くて大きな遺跡とみられ、現在の北小岩六・七丁目付近と推定されています。この地域は、もとの上小岩村にあたることから嵩山記名を上小岩遺跡と呼んでいます。
 上小岩遺跡は、昭和二七年に当時の小岩第三中学校の生徒が自宅裏の用水路から土器片を発見し、同校の中村教諭に連絡したことからその存在が知られるようになりました。その後、中村氏らの調査により、この遺跡が古墳時代前期(今から約一六〇〇年前)を中心とする低地の集落遺跡であることがわかりました。
 出土品は、弥生時代中期のものから発見されており、古墳時代前期の土器類が中心です。とくにS字状の口縁をもつ台付カメが大量に出土したほか、土錘も多く出土し、半農半漁の生活をしていたことがうかがえます。
 また、奈良の正倉院文書に養老五5年(721)の下総国葛飾郡大嶋郷の古跡があります。この中の甲和里という集落が小岩にあたると推定されていますが、これまでの調査でこれを裏付ける集落跡が発見されていません。当時の出土品も少ないため、戸籍に見られる集落の存在確認は、今後の調査に期待されています。
               昭和六十三年三月
                              江戸川区教育委員会


 上小岩遺跡は古墳時代前期(3世紀)の低地遺跡で江戸川最下流に集落があった可能性が大で、3~4mの高台で数十戸の住居があったと見られている。この上小岩遺跡からは、古墳時代前期(今から約1600年前)の人たちが使用した「壺型土器」・「かめ型土器」・「杯型土器」・「結合型器台」・「小型器台土器」が出土しているほか、採集遺物は3万点にのぼり、弥生中期の物は少なく、弥生後期、古墳時代前期のものが最も多く採集されているそうだ。

 また、今から約600年前の応永5年(1397)の「下総国葛西御厨注文」という文書には、上小岩、下小岩の地名が記されている由。

真光院(13:28)・・・江戸川区北小岩4-41-6

 直線上の古代官道がきょうは殊の外多いが、江戸川河畔の「真光院」で街道は行き止まる。真光院は、稲荷山遍照寺と号する真言宗豊山派の寺である。
 真光院門前の左側には「大師供養塔」があり、右側には「青面金剛」と「馬頭観音」があり、その後ろには覆屋があって、その中に地蔵・観音などが幾つか並んでいる。この覆屋の中に、なぜかドラえもん地蔵がある。
 境内に入ると左右が墓所で、参道を行くと正面に本堂、左に庫裏がある。
 真光院の「木造閻魔王坐像」は、区登録有形文化財に指定されている。この閻魔王坐像は江戸川区史に寄進した人物について記述があり、当地出身の遊女三代高尾が、その実家を通じて菩提寺に寄進したものである。ただ、昔から話題になっている三浦屋お抱えの高尾ではなく、仙台高尾であるという。この三代高尾(田中氏)は安政5年(1858)に没しており、その墓がこの寺にあるとのこと。

              
 真 光 院
 真言宗豊山派で稲荷山遍照寺と号し、慶長七年(1602)に法印良鑁(りょうばん)が開山したと伝えられています。本尊に木造阿弥陀如来立像を安置しており、寺宝として弘法大師筆と伝えられる「鼠心経」を所蔵しています。
 昭和四十七年(1972)に萱葺きの本堂から鉄筋コンクリート造に建て替えられました。門前に青面金剛と馬頭観音が祀られ、境内には樹齢二百年といわれるケヤキとスダジイがそびえています。

<木造閻魔王坐像>(区登録有形文化財)
 寄木造りのこの像は、本堂内に祀ってあります。像高約八十一センチ。左手は掌を仰向けて膝の上にのせ、右手に笏を握っています。顔は忿怒の相で口を開き、胸飾りに日月をあらわしています。
 銘はありませんが、江戸時代後期に、檀家によって家族の供養のために寄進されたもので、その頃の作と考えられます。
               平成六年(1994)三月           江戸川区教育委員会

北野神社(13:53)・・・江戸川区北小岩 3-23-3

 真光院からは、江戸川沿いに南下し、「さくら通り」のセブンイレブンでアイス休憩兼トイレ休憩の上、堤防に出て心地よい風を汗ばんだ体いっぱいに受けて広々とした土手の上の道を進む。京成本線と交わる手前でさくら通りに降り、高架を潜ると右手に「北野神社」がある。

 旧伊予田村(現在の北小岩3、4丁目付近)の鎮守で、明治42年に江戸時代からあった稲荷神社と北方に鎮座していた北野神社が合祀され、今の北野神社となった。また、昭和39年(1964)、一里塚にあった須賀神社を合祀し、そこで行われていた「茅の輪くぐり」を継承し、当社でも行われるようになった。
 祭神には、菅原道真公・倉稲魂命・素戔嗚尊の三柱を祀っている。

御番所町跡(13:54)・・・江戸川区 北小岩 3-24-?

 その先左手に「角屋旅館」跡があり、その横に「御番所町跡」の解説板が建っている。江戸川を挟んだ対岸には後ほど訪れる予定の「市川関所」跡があり、両者が対の形で向かい合い、往時は舟渡しで結ばれていた。
 こちら側は昔、御番所町と言われた所で、京成江戸川駅から50mほど南に位置している。
 解説板には昭和25年頃の角屋旅館の写真が掲載されている。1階は瓦葺、2階は茅葺屋根の建物で、角屋旅館のほかに、いう。
この「御番所町跡」については、次項「市川関所跡」の項でその存在意義が明らかになる。

               
御番所町跡   江戸川区登録史跡
                       北野神社~蔵前橋通り(道路部分)
 ここは旧伊与田村に属し、佐倉道ともと佐倉道の合流するところで南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌「新編武蔵風土記稿」の伊与田村の項にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云」と書かれています。
 御番所町は、「徳川実記」延宝二年(1674)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩の駅(宿場)にあたるものと考えられます。現在も残る角屋旅館のほか筑前屋、清水屋などの旅籠屋を兼ねた小料理屋をはじめ、井熊鮨、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋などが並んでいたと伝えられます。東西道の江戸川に突きあたる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に大きな道標が望めました。道標は今も原位置にあり、道路の様子も旧状をとどめています。そのほかにも、江戸川畔にあった常燈明(宝林寺内)や、関所役人の中根家の墓(本蔵寺墓地)など、当時にゆかりのある旧跡がよく残っています。(以下略)


本蔵寺(13:57)・・・江戸川区北小岩3-22-19

 その先右手にある日蓮宗の寺で、やはりお彼岸の墓参り客が多い。立ち寄らず一礼して通過する。
 この寺は、元和8年(1622)浅草新寺町に起立され、京都妙顕寺の末として「大雄山本像寺」と称した。明治43年に下総真間弘法寺末の晴立寺と合併し、晴立山本蔵寺となり、晴立寺のあった現在地に移転している。
 晴立寺は、小岩市川関所役人を代々務めた中根氏の館跡と言われ、菩提寺と伝えられている。現墓地には、中根平左衛門家の代々合葬墓がある。

武蔵国完歩(14:00)

 その先は、「蔵前橋通り」に出て左折し、江戸川に架かる市川橋の半ばを以て、相模国国府跡(平塚市内)から始めたこの古代東海道歩きが、海老名にある国分寺などを経由して小野路から東京・府中市の武蔵国衙を経てここ江戸川河畔で完歩したことになる。

 当時は舟渡しだったが、我々は江戸川堤防沿いを南下して「蔵前橋通」から東進する「市川橋」で対岸の下総国へと入る。市川市である。


市川関所跡(14:07)・・・市川市市川3丁目 江戸川堤防上

 橋を渡り終えると、江戸川左岸の堤上を北に少し行くと、市川関所跡が見えてくる。
 江戸時代、江戸川にはまだ橋が無く、明治38年の江戸川橋架橋までは江戸川を挟んで小岩と市川に「渡し場」が設けられ、番所が置かれていた。これは、幕府の江戸防備戦略として主要街道の主要河川に架橋することを禁じ、渡しには幕府が定めた定船場が設けられ、それ以外の場所での渡河を厳しく制限していたのである。
以来、明治2年の関所廃止令施行まで、市川関所は入り鉄砲に出女をはじめ、人々の往来を厳しく監視していた。

 江戸川の護岸工事は過去何度も行われ、正確な往時の関所や渡船場の位置は確定できないが、その後、その番所が関所となったのである。
 市川関所跡の表示は、従来の江戸川堤防下に建てられていた昭和58年3月設置の解説板などの老朽化と、江戸川堤防拡幅工事に伴い、平成16年7月に新たに江戸川の堤防上に碑と共に移転し、往時を再現したような関所の門をはじめ、新しい解説板が建てられている。

<対岸の二村一対で一つの関所>
 「小岩・市川関所」は対岸の二村が一対で一つの関所として定められていた。幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあり、市川村は緊急のときに補佐する役割で、市川村には往来する人のために番小屋があり、船、船頭や人夫がいたという。

<市川関所跡>
 市川関所跡には市川市設置の解説版がある。そこには天保5年(1834)~天保7年(1836)発行の「江戸名所図会」の金属プレートがはめ込まれており、小岩側に茅葺の関所、市川側に国府の台、根本村、真間山、市川宿が描かれ、当時ののどかな様子が伺える。

               
「市川関所跡」
 江戸時代以前の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡し場と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌師の宗長が、その時の紀行文「東路の津登」のなかで、市川に渡があったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。
 やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡場で旅人を調べる「定船場」が設けられた。古くから渡があり市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後に関所となった。
 時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けられていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的緩やかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。
 「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され、対岸の二村が一対で一つの関所として定められていた。そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。また、江戸時代を通じて、江戸川には橋が架けられなかったので、関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では、二~三艘の船を用意し、川端に番小屋を建て、二〇人前後の船頭や人夫を雇っていた。そのため、「御関所附渡船之村方」とも呼ばれた。
 慶応から明治へと時代が変わった時、旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いの舞台となり、明治二年(1869)に関所廃止令が出されて、その使命を終えてもなお、明治三十八年(1905)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運航は続けられた。
 しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。
               平成十六年七月
                              市川市


稲荷神社(14:15)・・・市川市市川3-23-?

 街道に戻って高みを通る道路から左側の下へ降りていくと、左手に「稲荷神社」を発見したので、予定外だったが全員で参拝・合掌する。

観音寺(14:17)・・・市川市市川2-13-16

 横断歩道橋で右に渡ると、「観音寺」がある。天宮山と号するようだが、本日最後の寺社参拝に立ち寄り、更に西へと向かう。

ゴール(14:23)

本日の歩きで、古代東海道の相模国から武蔵国への2国を踏破し、愈々下総国へと入ったが、左手に見える「大門通入口」に建つ、真北突き当たりの寺「日蓮宗真間弘法寺」石柱が次回のスタート地点になるので、その道路向かい側をもって本日のゴールとし、その後はJR市川駅を目指す。
 次回は下総国府跡・下総国分寺・下総国分尼寺ほかを訪ねつつ下総路を探訪し、ゴールである常陸国国府(石岡市)を目指す新たなるスタートを切ることになる。
 駅前では、予定通り暑さに耐えた心身を相互慰労すべく、駅近くの店で生ビール&焼酎で次回以後の打ち合わせや中山道歩き再開などについて相談旁々癒やしタイムを取り、その後総武線で帰路についた。