古代東海道餐歩
Top Page
 2009.12.27(日) 古代東海道 #10 新八柱 〜 我孫子

  【本日の行程 街道距離14km】

   新八柱駅→南増尾百庚申→茜津駅比定地→廣幡八幡宮→増尾城址→根戸城跡→我孫子駅

スタート

 9:30、前回の終着点であるJR武蔵野線新八柱駅に清水・村谷両氏と落ち合い、本街道シリーズお馴染みの常連3名で、早速前回の続き地点となる「八柱駅北口入口」交差点に向かい、県道51号線に入って常盤平駅方向へと進み始める。

21世紀の森と広場・・・松戸市千駄堀269

 武蔵野線の線路の上を越え、新京成線がぐんと接近してくる右手の三叉路信号の左手に、公園「21世紀の森と広場」の南端が見えている。湿地帯・森林など、昔からの自然を活かした自然尊重型の「都市公園」を理念に、平成5年4月29日(旧みどりの日)にオープンした公園で、面積は、50.5ha(東京ドーム11個分)もあり、かなり広い。南北の長さは1300〜1400m位ある。

 この公園の基本概念は「千駄堀の自然を守り育てること」で、広い芝生広場や、東京ドーム約1個分の千駄堀池での野鳥観察など、自然観察舎や散策路が整備され、バーベキュー等もできる森、農園がある。 春には学校・団体などの遠足・ピクニック客が訪れる。

青面金剛石碑(9:58)

 カーブしていく京成線と街道が離れ始めた先左手に、背丈の低い文化六年(1809)銘の正面に「青面金剛」と刻まれ、側面に、「左金ヶ作道」、「右小金道」とあるが、小金は、ここから北北西方向、金ヶ作は東北東方向なので、理屈が合わず、移動させられたものと考えざるを得ない。

鉄道連帯演習線跡

 更に新京成線の線路から離れ、常磐平駅の北方から街道が北向にカーブし、左手「岡田治療院」の先のT字路にぶつかり右折する。その辺りには、鉄道連帯演習線があった所らしいが、その跡が具体的にどこなのか特定できない。

 「鉄道連隊演習線」というのは、旧帝国陸軍の鉄道連隊が千葉県内に演習用に敷設した鉄道路線のことで、その前身である「鉄道大隊」(2個中隊・電信1中隊・材料廠)が日清戦争後に初めて編成され、以来、日露戦争から太平洋戦争にかけて活躍した。日中戦争以前は近衛師団隷下の交通兵旅団に属していたそうだ。

 1940年(昭和15年)7月における平時の編成表によれば、鉄道連隊の編制は連隊長(大佐)の下に連隊本部(57人)、3個大隊(大隊本部5人、3個中隊=1個中隊107人)、材料廠(23人)の計1091人だったが、鉄道第二連隊には、この外に練習部・幹部候補生隊・下士官候補生隊が付設されていた。

 敷設されていたのは、習志野線(津田沼〜千葉の16.7km)、下志津線(作草部〜四街道間の7km)、松戸線(津田沼〜松戸 の26.5km)で、その跡地の利用については、

(1) 松戸線の一部は、現・新京成電鉄用地に転用された。太平洋戦争終結後における跡地の一部を民間に転用するに際し、京成電鉄と後の西武鉄道間で争奪戦が繰り広げられたが、最終的には京成電鉄に軍配(注)が上がり、その代わり、蒸気機関車・貨車等、鉄道連隊の資材の一部が西武鉄道に引き渡され、更に西武新宿線の高田馬場〜西武新宿間の免許が与えられたと伝えられている。

 
(注)この獲得を巡って京成鉄道と西武電鉄が鎬を削り、両首脳が占領軍のGHQ詣でを重ねたが、マッカーサーの古い友人で米国士官学校出の鎌田中将の旧部下が京成に入社した関係で京成に軍配が上がったといわれている。

(2) 習志野線の一部は、戦後、陸上自衛隊第101建設隊(鉄道部隊)の演習路線に転用され、その後、習志野市内にある一部の路盤が遊歩道に転用されているそうだ。

(3) 鉄道第一連隊材料廠の跡は、国鉄のレールセンターになり、千葉駅から国鉄の専用線に転用されたが、1984年(昭和59年)に廃止それ、現在、千葉経済学園敷地内に材料廠の建物が現存している。
 また、第一連隊の作業場は現在千葉公園となり、園内に橋脚やトンネルが現存している。

 このほか、現在の新京成電鉄線路との位置的なずれの理由ほか、下記ホームページに詳しく紹介されている。
     http://www.shimousa.net/tetsudourentai/tokiwadaira.html

古代東海道“中期”ルートと“後期”ルート

 右折してから100m程先の三叉路で、古代東海道は新旧が直進と左折の二方向に分かれる。

 直進すれば、きょう予定している古代東海道中期の道と目されているルートである。「柏市史」は、左折せずこの侭直進し、藤心(ふじごころ)一丁目に「茜津駅」を比定し、そこから北柏方面に北上するルートを採っており、本日は、今日の歩行コースとしては見所が相対的に多そうでもある“中期ルート”と目される「柏市史」に基づくルートを歩くことにしている。

 左折すれば、古代東海道の後期の道と目されるルートである。古代東海道はここを左折して、北柏方面へ直線的に通じていたとの説を採れば、直前の信号で右折する迄辿って来た道の延長線として自然に思えるが、反面、今日の歩行コースとしては見所が少ない。ただ、途中にある「あかね町」を古代の「茜津(あかねつ)駅」だとする推定ルートで“後期ルート”と考えられているようだ。

 尚、参考までに記すと、これらに対して、古代のルートは、武蔵国が東山道から東海道に編入される以前、相模国から海上ルートを通って安房・上総・下総を経由してゴール地点である常陸国府に至ったルートとされているようだ。

 「いざ鎌倉」といわれた鎌倉街道についても、武家政治の中心が江戸に移って以降は次第に影を薄くし、廃止・付け替えなどで寸断・雲散してしまった箇所が少なくないが、更に古代の道となると、特定するのが一層難しくなる面は否定し得ず、結局『戦争(戦乱)は文化を破壊する』との名言を裏付ける形にもなっている気がするのである。

指さし道標(10:16)

 その分岐点に珍しい「指さし道標」がある。古い石標で、指さしマークの上にお地蔵姿が載っており、「是ヨリ 新四國八十八體石佛大師道 酒井根村ニ十丁」と刻まれている。旧東海道歩きの時だったか、どこかで指さし型の道標を見た記憶があるが、関東で見るのは初めてのような気がする。

 時節柄、誰かがこの寒空のもとで辻に建つお地蔵様に白と水色模様の帽子&涎かけに加えて、オレンジ色の暖かそうなマフラーまでして差し上げているのには、微笑ましく、心温まる風景である。

南増尾百庚申(10:40)・・・増尾台二丁目

 暫くの間、歩道のない道が続くが、やがて「南増尾」の交差点を過ぎると歩道があるようになり、歩きやすくなる。
 左手にある「百合園(ゆりぞの)幼稚園」の先の道沿いに「南増尾百庚申」がずらりと並んでおり、初めて見る壮観な光景である。10基前後あるのはこれまでも各地で見ているが、それらは道路の拡幅工事などで撤去されたものが1か所に纏められたケースが殆どだが、ここのは違う。最初から百庚申を目指したものと思われるもので、建てた人たちの思いや苦労が偲ばれる。

 現在、並んでいる庚申搭は、天保7年(1836)前後に建てられたもので、その後、昭和19年(1944)迄に21体が破損し、村中の寄附で再建されたという。

 道路沿いに幾つもの碑が並ぶ姿は、これまでに見たことのない壮観さで、向かって右の方のは背面への出入口を付ける関係で途中から2列目・3列目に移動させられたものと思われるが、数を数えてみると破損したものも含め百十数基みられる。ある庚申塔の左面に次のように刻まれている

     
増尾新田百庚申建設ハ天保七年ニシテ昭和十二(or廿一)年ニ至ル
     数年間ノ内ニ二十一体ノ破損ヲ生シタルニ付茲ニ部落
     一同協議ノ上應分ノ寄付ヲナシ再建ヲナシタリ
     寄付者名 一金五円 区長 小島島五郎
          一金五円 仝代理 岡田重藏


 形態的には、「庚申」の文字と三猿を陽刻したタイプのものが多いが、三猿の彫りの無いものや、青面金剛の字だけのもある。解説板によれば、栢市内では約七百基の庚申塔が確認されており、この付近の小字名も「庚申塚」という由である。

 千葉県内には、このほか松戸・我孫子・鎌ヶ谷・成田・印西・安食など各地に百庚申があるようで、当地方特有のスタイルと思われる。

二又の道標(10:51)

 その先、二股の分岐点があり、右手のいかにも旧道らしい方に進む。その分岐点の草むらの中に、「南無大師遍照金剛」と刻まれた天保十五年(1844)銘の道標がある。
 「左 満すを(増尾) などがや(名戸ヶ谷) 加しは(柏) 婦せみち(布施道)」「右 ふし心(藤心) 津加さき(都賀崎?) な里田ミち(成田道)」と読める。

高みを通る古代官道

 東武野田線の逆井駅を右に見ながら線路を渡る。この駅は隣の増尾駅とは300mしか離れていない。この辺りは左手も右手も土地が低くなっており、古代官道の特徴である高い所を通っていることが一目瞭然である。

 逆井駅傍のコンビニで後刻食する予定の弁当を買い入れる。今日のコースでは昼頃食事処が見つからない公算が大とみての行動だったが、果たして大正解だった。

庚申塔(11:22)

 逆井商店会を歩いていくと、左手に「青面金剛」と刻まれた文字庚申塔群と、見事な彫刻で刻まれた庚申塔が建っている。彫刻の庚申塔は、紀年が「戊戌」(つちのといぬ)と、「三」の字しか読み取れないが、持っている「歴史散歩便利帳(山川出版社)」や「図解文化財の見方(同前)」で帰宅後調べると、享保三年戊戌(1718)の年であることが判る。60年に一回巡ってくる年だからこその解明である。

道祖神(11:29)

 街道左手の「藤心二丁目14」の角に「明和九年」(1772)「十一月」と陰刻された「道祖神」が建っている。明和九年は、注記の理由で11月16日に安永元年に改元された年で、明和時代の最末期に建てられたものである。

 左面は殆ど判読不能で、右面は、「右 なりた 木下(きおろし)道」とある。隣には「光明真□」と刻まれた石塔が建っている。□は、「言」と推測するが、半ば土中に埋もれている。街道は、ここを左折する。

(
注) 明和9年(1772)2月29日昼過ぎ、江戸は目黒・行人坂の大円寺から出火し、火勢は折からの強風に煽られ瞬く間に、麻布・芝から京橋へと拡大し、日本橋・神田・本郷・浅草・千住迄の広範囲を焼き尽くしたため、語呂合わせで「迷惑年」と言われた。加えて、午後には、本郷丸山町から再び火の手が上がり、駒込・谷中・根岸など、町屋や橋も焼け落ち、大名屋敷や神社・仏閣も類焼し、14,700人もの死者を出している。

「茜津駅」(あかねつえき)比定地

 「藤心一丁目」交差点の先の低湿地のような広い空間の窪地になっている所が、柏市史による「茜津駅」(あかねつえき)の比定場所で、昔は手賀沼がここ迄あったらしい。別説では「茜津駅」は、ここではなく現在の「あかね町」にあったというのだが、柏市史によると、古代は、ここから船で行くルートと左折して道を行くルートがあった。
 我々は当然ここ(藤心一丁目交差点)を左折することになるが、ここが、古代における水・陸両路路の分岐点(逆方向からは合流点)だった訳である。

北上開始(11:35)

 「藤心一丁目」信号を左折した道は、緩やかな登り道になり、右手は低地になっている。その先右手には「増尾ゴルフ松山コース」があり、その前の道は、生垣のある道になっている。

 その先に「ニッカ通り」の標識があり、右手にニッカウヰスキーの柏工場がある。この辺りも緑に包まれた風情ある通りである。

成田山月参講石塔兼道標(11:45)

 その工場用地が途切れる所を右折するが、その角左手の森の入口に、真新しい木製の覆屋の下に「成田山月参講中」の石塔が建っている。
 石塔は道標を兼ねており、「西 すはみち」「北 かしは」「南 松戸道 江戸道」「東 ふじ古ゝ路道 ふるハし道 増尾村」という字が読め、東西南北の全方向への道しるべになっているところから考えると、往時は重要な辻だったと考えられる。

 右折した道も、ニッカウイスキー柏工場横の緑の多い素敵な道が続いている。

道六神(どうろくじん)

 その先右手に「道□神」と刻まれた小さな石塔があった筈だが、その先のことに気を取られている内に通り過ぎてしまったが、見た人の話によれば真ん中の字が風化していて判読不可能だが、表札に字が書かれ「道六神」とある由である。
 「道六神」は「道陸神」とも書き、昔から村境や道の辻、峠道などに祀られ、疫病や悪霊の侵入しないよう境を守る神として、また、旅人の安全を守る神とされ、「塞の神」とも呼ばれた。

山王権現碑と征清軍馬紀年碑(11:50)

 次の四つ角の右手角に、明治廿七年九月一日銘のある「征清軍馬紀年碑」があり、その横には文化八年(1811)銘の「山王権現」碑が建っている。

二十三夜塔(11:50)

 その筋向いの角に、弘化二年(1845)銘の「二十三夜塔」がある。

廣幡八幡宮総社(11:54)・・・柏市増尾895

 街道は、「廣幡八幡宮」に突き当たり、ここを左折するが、当然ながら立ち寄って参拝する。
 木々の茂った趣ある長い参道があり、如何にも由緒ある神社といった風格がある。

 なお、本殿前に「顕彰 規範神社」の石碑があり、“これはどういう意味だろう”と話し合ったが、帰宅後調べたところによると、総代・氏子・地域住民が協恭一心敬神の誠を捧げて神威の発揚に努め、社殿が清明且つ端正であり、鎮守の杜の護持育成に努め、祭祀を厳修し、神社の真資顕現に努めていくことが条件であり、他の神社の規範となる神社が対象で三年ごとに指定される制度らしい。

<以下、神社ホームページより>

<由緒・沿革>

 御創建は、第59代宇多天皇の御代「下総国第一鎮守宇多天皇勅願所」として鎮座したと伝えられる。鎌倉時代に至ると建久4年(1193)後鳥羽天皇の御代、柏市近郊一帯の総鎮守(守護神)として再び社殿が再興され、徳川時代には、慶安3年(1649)、三代将軍家光から御朱印地(領地)十石を賜っている。
 「下総旧事情」によれば、御朱印神社というのは、下総国で64社、葛飾郡内で18社、柏市内では当社と塚崎の神明宮の2社である。また、宝暦7年(1758)には、伯州刺吏藤原正珍から、旧領采地、病気平癒の御礼として石鳥居一基を寄進されているが、これは当社の外、布施弁天、塚崎の神明宮の二社一寺に寄進されたものだという。
 御祭神は、誉田別命(15代応神天皇)を主祭神とし、他に気長足姫命(神功皇后)・玉依姫命、そして合祀による御祭神として、父仲哀天皇と武内宿称の二柱、合わせて五柱を祀っている。
 現本殿は、天保年間(1830〜1843)の造営と伝えられ、権現流れ造り、基礎の石垣は安土桃山時代(1573〜1595)の形式を遺す貴重なもので、本殿周囲には、御祭神の事跡を刻んだ彫刻が配され、正面から右側は「養老の滝の図」、左側は「応神天皇を御抱き上げの図」、背面は、「里の童山武士を神社に案内の図」で精巧秀麗なものです。

<御神徳>

 廣幡八幡宮には、誉田別命(ほんだわけのみこと)を主祭神として、他に、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、そして、父仲哀天皇と武内宿禰(たけのうちすくね)の、合わせて五柱の神様をお祀りしています。
 八幡神こと誉田別命は、第十五代応神天皇をさし、四世紀末、その四十一年間の治世に優れた力を発揮され、わが国の文化の基礎がこの時代に築かれたとされています。中世以降、八幡信仰は、源氏の守護神となって、全国に分祀がなされました。八幡神のご神徳は、国家鎮護・殖産興業・家内安全・家運隆昌・心願成就・交通安全・災厄消除・学業教育・病気平癒など、その信仰利益も幅広いものです。
 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)は、八幡神を生んだ聖母神として、また、玉依姫命(たまよりひめのみこと)は、神婚によって神の子を宿し、子孫繁栄のシンボルとして合せ祀られており、そのご神徳は、安産子宝・子育てを中心として、勝運・開運・招福・悪病災難除け・方位除けなどです。
 武内宿禰(たけのうちすくね)は、360歳の長寿をまっとうし、五代の天皇に仕えたとされる日本一長寿の神様として有名で、その肖像は、戦前には五円と一円の紙幣の図柄として身近な神様でもありました。そのご神徳は、延命長寿・武運長久を中心に、立身出生・必勝合格・勝負事・厄除けなどです。

<浦安の舞>

 「浦安」とは、心安らかなという意で、平和を祈る心の舞である。古く日本の国名を浦安の国といったのは風土が美しく平和であったからとされている。舞は扇と鈴の舞から成り、前半は檜扇、後半は鈴を持って舞う。
 この「浦安の舞」は、紀元二千六百年奉祝が行われた昭和15年11月10日、全国の神社で行行われた奉祝祭で、神慮を慰め奉るために一斉に奉奏された神前神楽舞で、それ以来今でも盛んに奉奏されている。
 昭和天皇御製「天地の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波立たぬ世を」に当時の宮内省楽部多忠朝(おおのただとも)楽長が作曲・作舞したものである。この歌曲の前後には神楽笛の独奏する音取があり、参出音声、退出音声とがある。
 廣幡八幡宮では、昭和38年の御鎮座770年より、この舞を奉奏し、それ以来40年以上、歳旦祭(元旦祭)に奉奏されている。

増尾城址(12:11)・・・柏市増尾字稲荷下650増尾城址総合公園

 神社の参道に向って左前方に進み、まっすぐ行くのが道筋だが、左方向に「増尾城址総合公園」があるので、そちらに向かう。まず、130〜140m先を左折し、くねくねした道を進んで「芝浦工大柏中高入口」信号に出、更にその少し先右手にある駐車場横の階段を登っていく。

 予想通り小高い小山(丘)の上にあり、いかにも往時の増尾城址があった場所らしいが、現在は公園として開放されており、矢印看板に沿って右へ登っていくと広場があり、城址の解説板が建っている。

               
増尾城址
 増尾城址公園の一角には、約五〇〇年前の戦国時代後半代の築造形態を残す中世城郭が所在します。
 城跡の由来については、当時の資料が残されていない今、城主や築城の目的など詳しいことはわかりませんが、大正十一年刊行の「土村誌」には、土地ではこの山を「城山」と呼んでいたこと、同十二年に編纂された「東葛飾郡誌」には、当地は、小金領にあり小金城(松戸市)を本拠とする高木氏の家臣平川若狭守が城主であったと推測されています。
 城跡は、西側から東側へつきだした小規模な舌状の台地に立地し、南側眼下には手賀沼に注ぐ大津川の分流が流れ、北側から東側にかけてはゆるやかに下る谷とけわしい崖とになり自然地形を取り込んでいます。台地郭面の標高は約20m、河川低地面は約9mで、高低差は約11mあります。
 郭の構造は、東西約130m、南北約45〜100mで東西に長い三角形状の縄張構成となり、台地東端の先端部に三角形状の主郭(T)と台地西側の方形の副郭(U)が連続して並びます。それぞれの郭は、土塁、堀(空堀)、切岸(崖)などの防御施設で取り囲まれ、虎口(出入り口)が2ヵ所設けられています。郭内の土塁の高さは2.5〜3mあります。主郭と副郭の北西辺の土塁がとぎれないこと、南西隅に大規模な張り出し櫓があるところが特徴とされます。
 城跡眼下の河川は分水嶺(郡境)とされ、この南側一帯には、鎌倉・南北朝時代に「相馬御厨」という伊勢神宮の荘園が置かれ、『相馬文書』によると千葉氏庶流の相馬氏が代々土地を伝領したことが知られ、増尾字本郷には相馬氏の守護神とされる妙見堂跡や相馬氏の居館とされる幸谷城館跡などが点在します。
               平成十八年二月二十一日
                              柏市教育委員会


 因みに、現在は公園として利用され、北側にある芝生広場では、1ヵ月前から予約できるバーベキューサイト(一人\100)も10区画あり、傍に駐車場や管理所もある。

昼食(12:18〜12:42)

 我々は、城跡見学後、四阿のベンチで、先刻コンビニで購入しておいた各自めいめいの軽食を缶ビールなど付きで食し、その手配りの良さを確認し合った。

庚申塔など(12:58)・・・公園北出口傍左手

 公園北口から坂を下りて街道に戻った。園内北口近くの右手に「増尾湧水」がある筈だが、すぐには見つからなかったので諦めて北出口から出場したら、左手に石造物が二基建っている。

 一基は見事な3猿付きの庚申塔で、下の基壇に造立者の名前が刻まれている。もう一基は、「月山 湯殿山 羽黒山 西国百番之供養塔 木村」と刻まれている。

庚申塔(13:08)

 左手にある柏市立「名戸ケ谷小学校」を過ぎると再び登り坂になり、登り口右手に宝永六年(1709)銘の古い「庚申供養塔」があり、その横にも小さな寛延元年(1748)銘の「庚申青面金剛」が建っている。

 坂の登り口付近から暫くはカラー舗装された新しい道を曲りながら登って行くと、その先の刈込信号を過ぎた関場町2から東(あずま)2の6迄の道は、古代官道独特の見事な直線道路になっており、途中、左手に雑木林の関場町第二公園などもあって、往時の古代官道を想像することができる。

古代官道合流点

 東町保育所を過ぎた先の「荒工山団地前」交差点に出る。ここで左後方からの道と合流するが、これが今朝松戸市の「指さし道標」のあった分岐を左折してきた古代官道後期ルートで、この交差点をもって、我々が通ってきた柏市史説の古代官道中期ルートと合流したことになるのである。

 ここを右折して暫く行くと、「桜台」信号で国道16号線を越え、暫く真っ直ぐな道が続く。

手賀沼

 その先右手に「柏ふるさと公園」があり、その先で左から流れ込んでくる「大堀川」を挟んで手前右下に「柏ふるさと公園」、そして、1999年完成の斬新なデザインの「柏ふるさと大橋」を渡った右下には「北柏ふるさと公園」が広がり、その右手に大きな「手賀沼」が広がっている。

根戸城跡(13:57)

 その「北柏ふるさと公園」の北側を回り込むように通っている「手賀沼ふれあいライン」を行き、我孫子市との市境の手前(北柏2−22と24の間)を左に入って細い道を北に向かうのが順路だが、眼前に見える小山が「根戸城跡」なので、当然立ち寄るべく市境を越えて「根戸新田」三叉路を左折する。左手のコンクリートの庇が突き出ている所に「根戸城跡・金塚古墳」の看板がある。

城跡のある場所は,江戸時代には根戸村と呼ばれ、明治22年に合併して富勢村となり、昭和29年に我孫子市との合併で「我孫子市根戸字荒追」となっている。

               
根戸城跡・金塚古墳
根戸城跡と金塚古墳は、荒追遺跡という縄文時代から奈良・平安時代まで続く大きな集落跡と複合しています。
               根戸城跡
 根戸城跡は、ほぼその全体が現存している城跡としては我孫子市唯一のものです。太田道灌築城という伝説もありますが、築城時期や築城主などについてはっきりと判断できる文献資料がなく明らかになっていません。城は突出した台地の先端に構築されています。構造は2つの城郭を東西に連ねた連郭形式となっています。また、さらにその外周には深さ約3mの空堀が巡っています。第二郭は主郭の西側に接し、やや南側にずれて構えられ長方形をしています。北側と西側には土塁と空堀が設けられています。
 16世紀の北総地区は、後北条氏方の高城氏(松戸市・小金城)とそれに敵対する簗田氏(野田市・関宿城)や相馬氏(守谷市・守谷城)が争っていました。根戸城付近である手賀沼の奥まったこの場所は、水上交通・陸上交通の要地として戦略上非常に重要な場所であったと考えられます。昭和60(1985)年に行われた城跡の範囲を確認するための発掘調査では、堀より15世紀から16精気の瀬戸産の陶器片が出土していますが、城の構造からみて16世紀後半に築かれたと考えられます。
               金塚古墳
 金塚古墳は根戸城跡の西側約30mのところにあり、我孫子市内で一番西に位置する古墳です。直径約20m、高さ約3mの円墳で周囲に約5mの周濠を巡らしています。根戸城域に所在するため、当時は物見台に使われた可能性もあります。昭和38(1963)年、東京大学によって発掘調査が行われました。盗掘を受けていたため被葬者を埋葬した主体部は確認できませんでした。盗掘孔とその周辺からは埴輪のほか、石枕、立花、鉄製の短甲・鉾・小型の銅鏡などが出土しています。これらは本来被葬者と共に納められていたものと考えられます。これらの遺物は我孫子市内では唯一のものであることはもちろん千葉県下でも数少ない貴重な出土品です。金塚古墳出土遺物は平成8(1996)年に市指定文化財に指定されています。
               2006年3月          我孫子市教育委員会


 根戸城は、鎌倉時代に相馬胤村の三男で根戸三郎胤光が根戸に城を構えて「根戸城」とし、根戸姓を名乗ったと言われている。
 相馬氏はその後奥州に移り、戦国時代はこの地が高田に城があった匝瑳氏の支配下で、匝瑳氏は大田道灌の影響下にあったとも言われ、また、近くに道灌堀という地名があることから大田道灌が築城したのではないかとも言われている。

 前述のような解説板はあるものの、見学者のための入口は設けられておらず、この土地が個人の所有で、手賀沼トラスト(市民団体)が維持補修を手伝っているらしいということで、市など自治体が関与していないらしいのがいろいろな意味で気に掛かる処である。しかも、曾ての以降の東端部分が道路にかかったためか、歩道はおろか車道部分の一部にまで2階式の土台が建設されており、疑問点が多い。

ショートカットして我孫子市街へ

 その先、本来の道筋は先ほどの市境西側の位置に戻り、細くて曲がりくねったほぼ市境沿いの道(左=柏市・右=我孫子市)を北へ進み、JR常磐線を「手賀沼ガード」で潜って右折し、更にすぐ左折して国道6号線、県道7号線を越えた先の信号で右折し、ここで完全に我孫子市域に入り、今度は逆に南東方向へと進んで国道6号線を「市外入口」信号で渡り返し、JR常磐線を歩道橋で越えるのだが、見どころもなく、曾て歩いた水戸街道とも部分的に重複するので、相談の結果、ショートカットして我孫子駅前の街道への復帰へと直行した。

ゴール(14:35)

 本日の古代東海道歩き旅は我孫子駅入口北信号でゴールとし、駅近くのイトーヨーカドー2Fで軽く反省会をして帰途についた。
j
Next
Back