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古代東海道餐歩
 2009.07.26(日) 第7回目は千川から三ノ輪まで、炎天下をいく
 
【街道距離 約10km】

 千川駅→大山→平尾追分→東光寺→飛鳥山古墳群→豊島郡衙跡→平塚神社→田端文士村→道灌山→三河島→三ノ輪→浄閑寺→南千住駅

スタート

 東京メトロ有楽町線の千川駅に9時30分集合の約束だったが、小生としては珍しく35分も早く着き、いつもどおり早め到着がモットーの村谷氏と9:05には出逢ってスタートする。常連の清水氏は急な予定のため参加できず、今日の古代東海道は猛暑予想の炎天下での2人旅となる。

向原の七差路

 古代東海道と要町通との交差点が本日の街道スタート地点である。交差点を越えた先の信号は「都立板橋高校」の南西角にあたり、七差路になっている。南南西から北北東に向かう鎌倉街道や地元の道も含め七差路という複雑な交差点になっている。

板橋高校前の桜並木

 都立板橋高校の前から街道右手に桜並木が延々と続いている。既に桜の季節は過ぎているが、その時節は素晴らしい眺めになると思われる。風はあるものの猛暑予想のきょう、まだ9時過ぎだというのにこの桜木の木陰を歩けるのが実にありがたく感ずる。

大山道

 この辺りから大山までの道は、地元では、「大山道」と呼ばれているそうだ。大山という地名も大山詣でに関係があるという説もある由だが・・・

庚申塔(9:20)

 板橋高校の少し先の信号で、Y字路を右の細い道に入って行く。左手に「大山西町28」の住居表示があり、「安永五丙申」(1776)と刻んであるらしい庚申塔が建っているが、文字は殆ど判読困難なほど風化している。

板橋区立交通公園(9:27)

 その少し先左手に、昭和43年に作られた「板橋区立交通公園」がある。早くもベンチを見つけてドリンク休憩するが、きょうの行程はかなりの暑さとの闘いになりそうだ。
 横断歩道や信号など種々の交通施設があり、子供たちの交通安全教育に役立っているほか、園内では自転車・ゴーカート・三輪車・補助付き自転車の貸出し意、安全に交通ルールを学びながら楽しく遊べるようになっている。また、バスや都電の実物が展示され、内部を見学することもできる。

大山商店街(旧川越街道)

 「川越街道」(R254)を越え、250m程で東武東上線大山駅に阻まれる形で古代東海道が消える。左折して大山駅の北西で東西に伸びる「旧川越街道」を右折し、大山商店街「ハッピーロード」に入る。この商店街は、江戸時代の川越街道を構成する繁華街で、通りは大勢の人で賑わっている。川越街道は、既にわが餐歩計画に入っており、具体的旧道ルートや途中での立ち寄り予定スポットも殆ど予習済みだが、きょうここを通ることで愈々現実味を帯びて来そうだ。

移転させられっ放しの四ツ又観音

 川越街道はやがて首都高やその下の山手通(環6)に達するが、山手通を渡った一本先の細道を右に入った角に、移設された「四ツ又観音」がある。曾ては祠の横板に「元四ツ又堂主大野」と墨書きした道路公団宛の抗議文が貼られ、「工事も終わったのにまだ観音堂を元の位置に戻す約束を果たしていない」と怒り、「公団は早晩「怒」を必ず受けるあろう」との非難文があったそうだが、それは既に無くなっていたものの、破壊と近代化の矛盾を物語る小史になっているようだ。

平尾追分・板橋宿

 「山手通(環6)」を越え、「四ッ又交差点」の次の信号が、旧川越街道が旧中山道から分岐する「平尾追分」であり、曾て村谷氏と共に日本橋から歩いてきた中山道の板橋宿でもある所。今回はここを南東方向へ入るのが順路である。

 板橋宿は、武蔵國豊島郡下板橋村の一部で、いわゆる江戸四宿(板橋・千住・内藤新宿・品川)の一つとして「中山道」の賑わいと共に栄えた。武蔵國と江戸(朱引き)との北の境界にあたり、中山道沿いに約半里にわたって南北に広がり、江戸後期には上宿(京側・現在の本町)・仲宿(or 中宿、現在の仲宿)・平尾宿(現在の板橋)で構成された板橋宿は、京側入口の大木戸から江戸御府内(朱引き)として扱われた。
 上宿(現・本町)、仲宿(中宿とも、現・仲宿)、平尾宿(現・板橋)にはそれぞれ名主が置かれ、上宿・仲宿の境は板橋の架かる石神井川、仲宿と平尾宿の境は「観明寺」付近だった。本陣は仲宿に1ヶ所、他に脇本陣が3ヶ所、旅篭は54軒(天保14年=1843)だったとされている。

板橋宿案内板

 道の左手に明治期の旧板橋警察署の絵が載った「板橋宿案内板」がある。その右側を北へ向かうのが「旧中山道」である。ここは、旧中山道で言えば「日本橋から約9.6km地点」である。

平尾追分の東光寺(10:06)

 国道17号の追分北側にある「東光寺」は、中山道歩きの時には立ち寄っていなかったが、宇喜多秀家の菩提寺で、その供養塔がある寺であることを今回の事前研究で知ったので、立ち寄る。
 東光寺は浄土宗に属し、正式名を「丹船山薬王樹院東光寺」と号し、阿弥陀如来を本尊として祀っている。創建年代は不詳だが、寺伝によれば開山は芝増上寺第五世の天誉了聞上人(延徳3年寂)と言われている。江戸初期まで、船山(現・板橋3−42)辺りにあったが、加賀前田家下屋敷の板橋移転開設(延宝7年=1679)のため現在地に移っている。移転当時は境内も広く旧中仙道に面して参道が開かれ、両側には門前町が並んでいたが、その後、明治初期の火災や関東大震災などの度重なる火災や戦後の区画整理などによって縮小され狭く、現本堂は昭和57年に再建されている。山号の丹船山は、地名の船山に由来している。
 板橋宿の昔を語る貴重な石造物が3塔ある。

<宇喜多秀家供養塔>

 関ヶ原の戦いの後、一時は島津家に庇護されたものの、やがて捕まり久能山、そして八丈島に流され、約50年後の明暦元年(1655)11月享年84歳で没した豊臣家五大老の一人・中納言宇喜多秀家の墓は、没した八丈島にあるが、その供養塔がこの東光寺にあり、正面に「秀家卿」と刻まれている。
 宇喜多秀家一族が明治の大赦で赦免され、子孫の帰還が許されたのは264年後の明治3年だった。子孫は秀家の妻が前田利家の娘だった縁で板橋にあった前田家を頼ってきたという。

<青面金剛像を刻んだ庚申塔>

 ここには、板橋区内最大、都内最古の青面金剛が刻まれた寛文2年(1662)建立の庚申塔がある。この塔には、日像・月像・二童子・四夜叉・一猿一鶏・ニ鬼の全てが刻まれており、全国的にも最も勝れた庚申塔の一つとされている。高さが2m近くあり、板橋区の有形文化財に指定されている。

<六道利生の地蔵尊>

 また、元「平尾追分」にあり、明治になって当寺に移転した享保4年(1719)造立の石造「六道利生の地蔵尊」もある。全高3mもあり、区内最大級の石造物である。礎石部分にある寄進者の名を見ると、板橋宿や加賀下屋敷関係者の名が見られ、多様な人々が、亡くなった家族の後生を祈って建立したことが判るというが、読み解くには風化もありたやすくない。。(板橋区有形文化財)

 このほか、馬頭観世音菩薩の塔碑などの石造文化財もある。

(参考)近藤勇・土方歳三墓碑

 埼京線を越えた直ぐ先の左折点を通り過ぎ、次の信号右折した先の右に少し入った所に「近藤勇・土方歳三墓碑」がある。ここは、以前村谷氏と歩いた「中山道餐歩第一日目(2008.10.21)」に立ち寄り済みでもあり、清水氏がきょうは不参加になったため立ち寄りは省略する。
 幕末頃の滝野川付近には刑場があり、新撰組の近藤勇がここで処刑された関係で、「新選組隊長近藤勇墓所」があるのだが、その大看板から墓所に入ると、奥まった所に近藤勇と土方歳三の合葬墓や、近藤勇立像、近藤勇埋葬当初の墓石のほか、永倉新八の供養塔があり、解説板には次のように記されている。

         
近藤勇と新選組隊士供養塔
                           北区滝野川七−八−一寿徳寺境外墓地
 慶応四年(1868)四月二十五日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、守旧派京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
 本供養塔は没後の明治九年(1876)五月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。高さ三・六メートル程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。正面には、「近藤勇 ¥ケ 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。尚、近藤勇の諱である昌≠ェ¥ケとされていることについては明らかになっておりません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長倉新八改瘻コ義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。
                    平成十六年三月
                              東京都北区教育委員会


旧中山道から離れて・・・

 埼京線を渡って直ぐを左折し、突き当たって右折、また突き当たって左折、そのすぐ先でまた右折し、再び変速四差路に出て北東に進み、「滝野川六」信号で中山道(R17)に達する。横断歩道で国道17号を渡り、右折して国道沿い歩道左側を南東に進むと、「明治通」頭上を通る高速道路(中央環状線)が左カーブする辺りでそれと並行するように左脇道に入って頭上の高速道下に沿って真東へ進み、頭上の高速道と「明治通(R122)を左に見送るように信号でそれらを横断し、真東への直線旧道へと入って行く。

江戸の三大閻魔「善養寺」(10:42)

 次の信号を右折して寄り道すると、寺が密集しており、順に「良感寺」「清厳寺」「善養寺」「妙行寺」「盛雲寺」と続く。最初に「善養寺」の境内入ると、左手に「茶釜怐vという初めて見る珍しい名前の怩ェある。
 
                 
善 養 寺
 善養寺は、天長年間(824〜833)に、開基である慈覚大師が上野山内に創立したと伝えられる天台宗の寺院で、正式には薬王山延寿院善養寺という。東叡山寛永寺の末寺で、本尊は薬師如来像である。
 江戸時代の寛文年間(1661〜72)に下谷坂本(後の下谷区善養寺町、現台東区上野公園)に移転した後、境内地が鉄道用地の拡張にかかるということで、明治四五年(1912)に北豊島郡巣鴨村大字巣鴨字庚申塚三四七番地(現在地)へ移転し、現在にいたっている。
 本堂には高さ約三メートルの木造閻魔王座像(豊島区登録有形文化財)が鎮座し、広く信仰を集めていることから「おえんまさまの寺」とも呼ばれ、また、杉並区松ノ木三丁目に所在する華徳院、新宿区新宿二丁目に所在する太宗寺とともに、江戸の三大閻魔の一つとしても親しまれてきた。
 境内には、寛永六年(1629)造立の石燈籠をはじめ、延宝八年(1680)の駒型庚申塔、天明八年(1788)の宝篋印塔、また江戸時代中期に陶工・絵師として活躍した尾形乾山の墓(東京都指定旧跡)や、フランスでジュリオ・キュリー教授(キュリー夫人の娘婿)の指導を受けた原子物理学者湯浅年子の墓など、多くの貴重な文化財が残されている。
                  平成十四年三月
                              東京都豊島区教育委員会

 なお、江戸時代、陰暦1月および7月の16日を閻魔王の斎日と称し、地獄の釜の蓋が開く日と伝えて、閻魔堂に参詣する閻魔詣でがさかんに信仰されたが、なぜこの三体が三大閻魔と称されるかについては不明らしい。

                 
尾形乾山墓並びに碑
                                   所在地 豊島区西巣鴨四−八−二十五
                                   指 定 昭和七年七月一日
 江戸時代中期の陶工・画家光琳の実弟で「金の光琳・銀の乾山」と並び称された。
 名は惟允、通称は信三郎、権平といい、乾山は号。寛文三年(1663)京都に生まれた。画法を兄光琳に学び、陶芸は野々村仁清に学んで色絵陶器の感化を受けて、絵付け模様に特色を出し、高雅な作品を残している。当時の人は特に乾山焼きと呼んで珍重した。後世乾山風として模倣品が多く、鑑別は非常に困難である。
 晩年江戸に下り、下谷入谷村に窯を開き寛保三年(1743)六月二日八十一才で没した。下谷坂本にあった善養寺は、明治四年現地に移転した。
                  平成六年三月三十一日 建設
                                        東京都教育委員会


長徳山妙行寺〜四谷怪談「お岩」の墓・うなぎと魚河岸の供養塔(10:49)

 その先にある妙行寺は、『東海道四谷怪談』で知られる「お岩さん」の墓があることで有名で、入口に「
明治四拾弐年四谷より移轉 お岩様之寺 長徳山妙行寺」の石碑が建ち、近くの「お岩通り商店街」の名前にもなっている。
 また、その隣には「
浅野内匠頭長直公夫人 高光院殿之墓  浅野内匠頭長直矩公夫人 瑶泉院殿供養塔  浅野大學長廣公夫人 蓮光院殿之墓  浅野家歴世之墳墓數基あり」と刻まれた石碑もある。

 門柱を入ると正面の本堂に向かう参道左手に客殿、右手に手前から順に「魚がし供養塔」「浄行様」「うなぎ供養塔」「納骨堂」があり、本堂裏が「墓地」になっている。そこまでは行かなかったが、本堂左手を回り込むように80m程奥へ行くと、浅野家墓所やお岩様墓所(五輪塔)がある旨の解説板があった。
 妙行寺は元は四谷にあり、お岩さんの家は妙行寺の檀家だった由。寺には、『
お岩に塔婆を捧げ、熱心に祈れば必ず願い事が成就する』と記された看板がある由。

 高さ数メートルの「魚がし供養塔」には髭文字の「南無妙法蓮華経法界萬霊」の下に右から左に横書きに「魚がし」と大書されている。碑の裏には「
昭和十三年五月建之 施主 石黒為次郎/當山十九赤威猛院日勢(戒名、解読不正確部分あり)」と記され、魚がしの石座の裏には「妙行寺/出入 白石柏年刻」とある。
 説明板によると「
魚がしで犠牲になった生類の供養塔」とあり、石黒氏個人による建立である。

 「うなぎ供養塔」には、「
慈眼視衆生/福聚海無量/施主/東京うなぎ蒲焼商組合/東京淡水魚組合/うなぎ供養塔/法華宗管長/妙行寺十九世/大僧正日勢」とあり、裏には「原型者 高村光雲先生/鋳造者 渡辺長男先生/昭和三十五年五月二十日建之/石□□」とある。また、上の台座の後ろと、中段の台座の両横、後ろに組合加盟店名がぎっしり記されている。日本橋や上野の鰻蒲焼商組合に加え、浜名湖養魚漁協同組合、焼津鰻出荷組合などの字も見られる。

(参考)巣鴨撮影所跡

 巣鴨撮影所は、現在の豊島区西巣鴨4丁目、西巣鴨交差点付近)にあった撮影所で、大正8年、「天然色活動写真株式会社」(天活、1914年創立)が開設。妙行寺など寺社の多い地の利を活かしてロケ撮影を行ない、時代劇などを製作した。紆余曲折の末、昭和17年に撮影所は閉鎖され、曾て日本最大の映画量産地だった巣鴨から、映画製作の活気が失われたという。
 撮影所跡地には、後に「豊島区立朝日中学校」が建てられたが、2001年(平成13年)に合併統合で廃校になった。

道音坂(どういんざか)(11:04)

 元の街道に戻って先述の複雑な左折・右折の続く地帯を通り抜け、その先で、都電荒川線「西ヶ原四丁目」付近を踏切で越えると、道は下り坂になる。「道音坂(どういんざか)」と記された標識が建っている。

                    
道 音 坂
 道音坂は、西ヶ原四−二十九−一地先から滝野川一−三十二−六地先まで続く坂道で、旧西ヶ原・滝野川の村境に沿った坂道でした。明治時代の『東京府村誌』に「坂名ハ道音怎Aルニ由ル」とあり、江戸時代の地誌には西ヶ原村内「滝野川境ニアリ」と怩ノついて記されています。道は浅草道と呼ばれ、本郷と上野の二つの台地を結ぶ道で、中世は鎌倉街道だったと伝えられる古道です。


ゲーテ記念館(11:13)・・・北区西ケ原2丁目30番1号

 角に交番のある交差点を越えて200m程先の、西ヶ原三丁目38と34の間を左折して100m程寄り道すると、「財団法人東京ゲーテ記念館」がある。同館ではドイツの詩人・思想家として有名なゲーテの作品や資料を約15万点収集展示しており、内容は世界トップクラスで、海外にも広く知られているらしい。
 ゲーテは、日本ではファウストや若きウェルテルの悩みなどで有名だが、実業家の粉川忠が生涯をかけて収集したゲーテ関連文献が展示されており、ゲーテ研究者やゲーテに憧れる人々にとって貴重な存在になっている。
 入館料は無料で、開館時間は11:00〜17:30(入館は17時まで)だが、今日は休館日で入場不可。クーラーの効いた中で休憩しょうと思っていたが、あてはずれで残念。

北区飛鳥山博物館

 寄り道としてはやや遠いが、ゲーテ記念館のすぐ東の信号から「ゲーテの小径」を北上して本郷通り「一里塚」交差点を11:15に経由し、左折して王子駅方面右手にある「飛鳥山公園」に立ち寄る。古代東海道歩きで欠かせないのは、各国にあった「国衙」「国分寺」「国分尼寺」、また、それらを結ぶ「駅家」などだが、後述する「豊島郡衙跡」とも関連するエリアだからである。

 「飛鳥山公園」内には、「紙の博物館」「渋沢資料館」「飛鳥山古墳群」「飛鳥山博物館」等があり、飛鳥山博物館内にはこの近くにあった(後出)律令制下の豊島郡衙の正倉が実物大で復元(象徴展示)されているそうだが、暑さのため集中力がイマイチ・・・ということで、入場は見送る。正倉というのは、税として集めた米の貯蔵倉のことだ゜が、郡衙には正倉が並ぶ「正倉院」がつきものだった(現在、奈良東大寺に「正倉院」があるが、元々は普通名詞)らしい。
 7世紀後半〜9世紀後半、西ケ原(現滝野川公園付近)に武蔵国豊島郡衙が創設され、律令制下における地方役所が整備され(御殿前遺跡)、現・東京都の北・板橋・荒川・台東・文京・豊島・練馬区にあたる地域が武蔵国豊島郡として治められた。

 実は、飛鳥山周辺には、
*「飛鳥山遺跡」(飛鳥山公園付近)、
*「七社神社前遺跡」(七社神社付近)、
*「西ヶ原遺跡」(地下鉄南北線西ヶ原駅周辺)、
*「御前山遺跡」(滝野川公園・平塚神社付近)
などがあったそうだ。また上中里駅北部には「中里遺跡」もあったそうである。

飛鳥山古墳群

 11:21飛鳥山博物館でトイレ休憩を予て一休みした後は、園内の柵に囲まれ保存されている「飛鳥山1号墳」を見る。古墳時代後期の直径31mの円墳で、切石を使用した胴張型横穴式石室が検出されており、昼間なら柵内にも入れるそうだが、外からの写真撮影に留める。。
 公園内では他に2・3号墳が周溝のみ確認されており飛鳥山古墳群を形成しているそうだが、似たようなものと判断して、園内散策で個別探訪は省略した。

                     
飛鳥山の古墳
飛鳥山1号墳
古墳時代後期の直径31mの円墳。平成元年の調査で周囲には3.8mの周溝が廻ることが確認された。また、平成5年の埋葬施設の調査で、切石を使用した横穴式石室が確認されている。石室は玄室の左側壁の最下段と床石の一部が原位置を留めている他は、大きく壊されていた。石室の形態は残された側壁から「胴張型横穴式石室」と判断できた。石室内からは太刀や刀子の破片、鉄鏃・耳輪・管玉・切小玉・ガラス小玉が出土している。公園内では他にも古墳の周溝が確認されており、古墳が形成されていたようである。


兜稲荷社跡(11:30)

 飛鳥山公園の出口に向かう途中に幾つかあるスポットの中に、日本橋兜町にあった兜稲荷社の社跡があった。

                
兜稲荷社跡
日本橋兜町の第一銀行構内にあった洋風の珍しい社です。1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や燈籠等は現在まで遺されています。この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は、為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。


(参考)紙の博物館

 昭和25年、旧王子製紙(株)の収蔵資料をベースに、わが国洋紙発祥の地である東京北区王子に財団法人として設立され、以来紙に関する古今東西の資料を幅広く収集・保存・展示し、教育普及活動を行っており、紙をテーマにした世界有数の紙専門博物館になっている。

(参考)渋沢史料館

 入館料一般300円、北区飛鳥山博物館・紙の博物館・渋沢史料館の3館共通入場券は一般720円。
日本の近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一(1840〜1931)の生涯と、携わった様々な事業や、 多くの人々との交流を示す諸資料を、時代背景の解説と共に展示している。
 また、当初は別荘として、後には本邸として住んだ「曖依村荘(あいいそんそう)」は庭園の一部と共に、「青淵文庫」(渋沢栄一の80歳のお祝いと、男爵から子爵への昇格祝いを兼ねて竜門社(渋沢栄一記念財団の前身)が寄贈した鉄筋コンクリートの建物であり、大正14年の竣工で、栄一の書庫として、また接客の場としても使用された)や「晩香廬」(渋沢栄一の喜寿祝いに現在の清水建設(株)が贈った大正6年竣工の洋風茶室で、内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用された)が昔の面影をとどめている。 民間外交の場として、第18代アメリカ大統領をつとめたユリシーズ・グラントや中国の蒋介石など、 多くの人々が招かれた場所でもある。青淵文庫、晩香廬は国の重要文化財に指定されているが、残念ながら土曜日のみの公開で、きょうは見学できない。

七社神社(11:38)・・・北区西ケ原2-11-1

 本郷通りに出て「七社神社」に立ち寄る。予て探訪済みの村谷氏の案内で横手からショートカットして境内に入る。名称が示すように、伊邪那岐命・伊邪那美命・天児屋根命・伊斯許理度売命・市寸島比売命・品陀別命(応神天皇)・中日子命(仲哀天皇)の七神を祭神としている。
 当神社の創建は、寛成5年(1793)の火災で古文書、古記録等が焼失したため明らかではない。もとは無量寺の裏山にあった七つの社(高野四社明神・天照大神・春日・八幡)を、明治の神仏分離によって「一本杉神明宮(社殿左にある小祠で、神木の一本杉は高さ約3mの切り株を残す)」の社地に移し現在の神社になった。境内の左脇に疱瘡神の石祠がある。天然痘の神様で、当時は死病で、もし治ったとしても痘痕(あばた)が残ったそうだ。

                   
 ご 由 緒
 当神社は往昔の御創建ながら、寛成五年(1793)の火災により古文書、古記録等を焼失した為に詳ではありません。
 しかし、翌年9月23日に御社殿は再建され、故にこの日を当社の大祭日と定め、現在も賑やかなお祭りが執り行われています。
 当時は仏宝山無量寺の境内に祀られ、「江戸名所図絵」には無量寺の高台(現・古河庭園内)に「七つの社」として描かれています。
 明治時代になり、元年(1868)に神仏分離が行われ翌2年に一本杉神明宮の現在地に御遷座になり西ヶ原・栄町の総鎮守として奉祀されるに至りました。
 また、「新編武蔵風土記稿」には、「西ヶ原村七所明神社、村の鎮守とす紀伊国高野山四社明神をおうつし祀り、伊勢・春日・八幡の三座を合祀す故に七所明神と号す。末社に天神・稲荷あり云々」と記してあります。
 さらに、この境内から隣地にかけての一郭は七社神社裏貝塚として知られ、縄文式土器・弥生式土器・土師器(はじき)等が発見され古代人の生活の場であった事がうかがわれます。

                    旧一本杉神明宮社地
                                   北区西ヶ原二−一一−一      七社神社
 現在の七社神社の社地は、かつては神明宮の社地でした。神明宮は、天照大神を祭神とし、神木が樹齢千年以上といわれる杉であったことから、一本杉神明宮と呼ばれていました。明治初年に七社神社がこの地に移転してきたことにより、神明宮は七社神社の摂社となり、天祖神社と呼ばれるようになりました。杉の古木が枯れたため、明治四十四年(1911)に地上三、四メートルのところを残して伐採されましたが、現在もその切り株は残っています。
 七社神社は、江戸時代には七所明神社といい、西ヶ原村の鎮守で、別当である無量寺の境内にありました。祭神は紀伊国高野山四社明神を移し祀り、これに天照大神・春日・八幡の三神を合祀したものといいます。詳しい由来は、寛政五年(1793)の火災によって、社殿を初め古文書・古記録等を焼失したためよくわかりません。神仏分離によって、明治初年に現在地である神明社社地に移されました。現在の祭神は伊耶那岐命、伊耶那美命、天見屋根命、伊斯許度貴命、市寸島比貴族命、品陀別命、帝中日子命の七神です。境内には摂社となった天祖神社の他に、末社として稲荷神社・菅原神社・三峯神社・熊野神社・疱瘡社があります。
                    平成五年三月
                                        東京都北区教育委員会


七社神社前遺跡

 七社神社前遺跡は西ヶ原二・三丁目に広がる遺跡である。遺跡のある台地上は間断無き遺跡密集地帯で、西ヶ原遺跡群と呼ばれている。七社神社前遺跡はこれまでの発掘で、縄文時代から近代に至る複合遺跡であることが判明している。

西ヶ原一里塚(11:43)

 街道筋に戻った所に、街道両脇に往時の日光御成道の一里怩ェ両方とも残されており、感激する。

             
国指定史跡 大正十一年三月八日指定
                西ヶ原一里塚
                                    所在地 北区西ヶ原二−四−二地先
 慶長九年(1604)二月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。
 西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道の二番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩槻宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。
 旧道をはさんで一対の怩ェ現存していますが、これは旧位置に保存されている都区内唯一の一里塚で貴重な文化財だといえます。南側の怩ノは「二本榎保存の碑」と題される大正五年六月の記念碑があります。怩ニ榎は当時、東京市電の軌道延長路線上にあたり、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりましたが、渋沢栄一や東京市長・滝之川町町を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。
                平成七年三月
                                        東京都北区教育委員会


東京高等蚕糸学校発祥之地碑(11:52)

 明治19年、現在の財務省印刷局附属東京病院前の地(西ヶ原二丁目)に麹町内山下町から「蚕業試験場」が移転。蚕業試験場は後に大正時代、全国各地に「蚕糸学校」が設置される中で「東京高等蚕糸学校」となり、昭和15年に小金井に移転し、太平洋戦争後「東京農林専門学校」と合併して、現在の「東京農工大学工学部」になっている。

         
東京高等蚕糸学校発祥之地
  明治十九年十月
    麹町内山下町より移設
    農商務省蚕病試験場
  明治二十九年三月 改称
    農商務省蚕病業講習所
  大正三年三月 文部省移管
    東京高等蚕糸学校
  昭和十五年四月移転
    現東京都小金井市
  昭和十九年四月 改称
    東京繊維専門学校
  昭和二十四年五月 昇格
    東京農工大学
           平成三年十月
              東京都北区教育委員会
              東京高等蚕糸学校
                記念碑建立協賛会


滝野川公園・御殿前遺跡・豊島郡衙

 本郷通の一里塚信号を過ぎると左手に見えてくる滝野川公園に至る辺りが、古代東海道ウォーカーとして絶対に見逃せない「豊島郡衙」や「正倉院」があった「御殿前遺跡」である。滝野川公園入口近くに御殿山遺跡のモニュメントがあり、解説文の横には弥生式土器があしらわれている。
現在の滝野川公園・滝野川消防署・財務省印刷局付属東京病院・財務省印刷局滝野川工場・滝野川警察署のあるこの地は「御殿山」と呼ばれていた。明治11年の地図によれば、池を中心とする大規模庭園ないしは庭園跡地が記されている。また、ここ御殿山には徳川将軍の鷹狩り時に使用する殿舎も建っていたが、林羅山はその殿舎を舟山茶亭と呼び「舟山茶亭記」と題する一文を撰している。

                    
東京都北区指定遺跡 御殿前遺跡
 御殿前遺跡は、先土器時代から近世にわたる複合する遺跡です。なかでも奈良・平安時代に造られた建物の跡は、武蔵国豊島郡の郡衙(地方役所)と推定されています。古代の武蔵国には21の郡が置かれ、現在の東京都は豊島郡・荏原郡・多麻郡にあたります。この豊島郡衙の中心部分がこの一帯です。
                                        東京都教育委員会


 この御殿前遺跡は、「飛鳥山」を先端とする舌状の台地上に広がっているが、縄文時代頃迄はその下は海だったらしく、近くの遺跡では丸木舟も発掘されているとか。その後、海は低地になり、やがて飛鳥山公園辺りには弥生時代の大環濠集落が形成されていったようである。律令制期に入ると武蔵国府と下総国府を結び、武蔵野台地の東端にあたる交通の要衝としてこの地に郡衙ができたと考えられている。

 近年、発掘した豊島郡衙は大きな建物群で形成され、その場所は、「武蔵国豊島郡衙の発見」(中島広顕「東京低地の古代」崙書房所収)によれば、北区の大蔵省印刷局滝野川工場、北区防災センター、北区滝野川体育館付近にある御殿前遺跡を豊島郡衙として確定している。京浜東北線上中里駅から、王子駅の間の台地縁辺に造営されている。最盛期の9世紀の建物を見ると一辺が約62mの回廊が巡っている。官庁建物、それに付随する20棟の正倉(税を収納する倉庫)群が立っていた。正倉院(建物群)は内部面積が5,500uにも及ぶ壮大な郡衙である。豊島駅も豊島郡衙付近と推定されている。

防災センター(地震の科学館)・・・北区西ヶ原2-1-6

 北区防災センターは、国の「防災基地モデル建設事業」の一環として、昭和59年11月に開館された。館内の起震機による地震体験、ポンプ使用による初期消火訓練、煙が充満した通路を歩く煙体験など個別の訓練・体験のほか、防災講演会、自主防災組織のリーダー研修、ボランティア研修なども実施している。

平塚神社(11:56)

 その横の「平塚神社」は、八幡太郎源義家を祀る。江戸時代は、三代将軍家光も参拝したそうだ。ここは、また、平安時代末期以来この地域の領主であった豊島氏代々の居城平塚城があった所と伝えられている。平塚城は、文明10年(1478)太田道灌により落城させられた。

               
源氏の棟梁 源義家将軍を祀る
                    平 塚 神 社
<御祭神>
*八幡太郎 源義家命
 平安後期の武将で、源頼朝・義経や足利将軍家の先祖。岩清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号された。前九年の役(安部貞任・宗任退治)、後三年の役をはじめ数々の戦を征□□□天下第一武勇之士と称えられ、全国の武士達が臣従した。その武威は物の怪ですら退散させたといわれ、義家公の弓矢は魔除け・病除けとして白河上皇に献上された
*賀茂次郎 源義綱命
 義家公の次弟。賀茂神社で元服したので賀茂次郎と号された。
*新羅三郎 源義光命
 義家公の三弟で武田氏、佐竹氏、小笠原氏の先祖。新羅明神で元服したので新羅三郎と号された。笙の名手としても有名。
<御神徳>
 略
<略縁起>
 平塚神社の創立は平安後期 元永年中といわれている。八幡太郎源義家公が御兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。
 徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得て、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たした。その後、家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた。
以下略

               平塚城伝承地
                                        平塚神社
 平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。
 平塚城は源義家が後三年の役で欧州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい怩築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる怩ナ、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城はこの地域の領主であった豊島氏代々の居城となりましたが、文明十年(1478)一月、泰経の時代に太田道灌によって落城しています。
 江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治療を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、二五〇石の知行地を与え、この内の五十石を朱印地として平塚明神に寄進させました。
               平成四年三月                    北区教育委員会


<甲冑塚古墳>(12:03)

 曾て平塚神社を訪れている村谷氏も、その存在を知らなかったという甲冑塚古墳が平塚神社の社殿裏に大きな墳丘(径40m、高さ3.5m)として残っており、その上に石の「甲冑塚」と呼ばれているものが建っている。源義家が鎧を埋めたという伝承があるためで、墳丘上は普段は立入り禁止になっているそうたが、金網が空いていたので立ち入って見学することが出来た。

<神霊地碑>(12:03)

 その横にやはり甲冑塚古墳の石碑と同様に自然石に刻まれた碑があり、次の様に記されている。
     
源朝臣義綱命
     源朝臣義家命 神霊地
     源朝臣義光命


城官寺(12:08)

 その近くにある。明治以前においては、神社の経営には「別当寺」という特定の寺院があたった。この城官寺は、平塚神社の別当寺にあたり、城官寺は三代将軍徳川家光の病を治して信頼を得た山川城官貞久がこの寺に入り、平塚神社共々再興している。徳川家の侍医・多紀桂山一族の墓があり、東京都指定史跡になっており、山門前右手に巨大な石塔が建ってその旨を知らせている。

 ところで、官寺というのは私寺に対する称で、伽藍の造営・維持・管理等を国家が行う寺である。「延喜式」には、大寺・国分寺・有食封(ゆうじきふう)寺・定額(じょうがく)寺の等級がみえ、大寺・国分寺は天皇の発願で建てられた鎮護国家のための正規の官寺で,有食封寺・定額寺は貴族・豪族の建立で寺田・出挙(すいこ)稲・食封が与えられた准官寺であった由。

<紙本著色平塚明神并別当城官寺縁起絵巻>・・・東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
 平成3年2月22日に指定されており、原題は「武州豊島郡平塚郷上中里村平塚大明神の社并別当城官寺縁起絵巻」といい、上・中・下の3巻から構成されている。平塚明神の別当寺だった城官寺の中興住職とされる真惠を中心に製作され、元禄5年(1692)に完成したもの。その絵巻では、江戸時代に山川城官貞久によって平塚明神・城官寺が再興され、寛永17年(1640)に幕府から50石の朱印地が寄進されるまでの経緯を平塚地域に残る伝承や歴史を織り込みながら描かれている。平塚神社が所蔵(非公開)し、複製品が北区飛鳥山博物館にある。

(参考)無量寺

 無量寺の入口は、街道から一番遠い反対側(南側)にあり、隣の旧古河庭園と共に是非立ち寄りたい場所ではあったが、昼食場所探しの必要もありパスすることにした。
 旧古河庭園の東隣にある無量寺は、正式名を「仏宝山西光院無量寺」といい、古くから江戸六阿弥陀の三番目として広く知られている。春秋のお彼岸の六阿弥陀詣は、江戸時代から盛んに行われ、全部廻れば6里とほぼ一日の行程だった。
 第一番が豊島西福寺(西方浄土)、第二番が沼田延命院(息災延命)、第三番西ヶ原無量寺(福寿無量)、第四番が田端与楽寺(安楽付与)、第五番が下谷広小路常楽院(常に一家和楽)、第六番が亀戸常光寺(常時光明放つ)である。
 近くの旧古河庭園を訪れる人は多いらしいが、ここ無量寺の庭園は、知る人ぞ知る、隠れた観光スポットになっていて、静かで落ち着いた佇まいの庭園は、手入も行き届き、四季を通じて楽しめる、心の和む別天地である。

                    
無 量 寺
 無量寺は佛寶山西光院(ぶっぽうざんさいこういん)と号し、真言宗豊山派に属する寺院です。創建年代は不明ですが、調査によって十四世紀頃の板碑が多数確認されています。また、『新編武蔵国風土記稿』や寺伝等には、慶安元年(1648)に幕府から八石五斗余の年貢・課役を免除されたことや、元禄14年(1701)4月に五代将軍綱吉の生母桂昌院(けいしょういん)が参詣たこと、寺号が九代将軍家重の幼名長福丸と同じてあるため、これを避けて現在の名称に改めたことが記されています。
 本堂の正面には、平安時代後期に造られたといわれる阿弥陀如来坐像が安置されています。江戸時代には、江戸六阿弥陀詣 (ろくあみだもうで)(豊島西福寺・沼田延命院・西ヶ原無量寺・田端与楽寺・下谷広小路常楽院・亀戸常光寺)第三番目の阿弥陀として親しまれました。人々は春と秋の彼岸に極楽往生(ごくらくおうじょう)を願い、花見や紅葉狩りを楽みながら各所の阿弥陀如来を巡拝していたようです。
 阿弥陀如来坐像の右手には、本尊である不動明王像が安置されています。言い伝えによれば、ある晩、忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝捕まったことから「足止め不動」として信仰されるようになりました。
 また、大師堂の中には恵心作の聖観音像が安置されており、「雷除けの本尊」としても知られています。
                                        北区教育委員会


(参考)旧古河庭園

 東隣にある旧古河庭園に立ち寄る。江戸時代の切絵図では「戸川播磨守」の下屋敷だった場所だとか。
斜面と低地という武蔵野台地の地形を活かし、北側の小高い丘に洋館を建て、斜面に洋風庭園、低地に日本庭園を配している。
 ここは元明治の元勲陸奥宗光の別邸だったが、次男が古河財閥の養子に入った際、古河家所有となったが、その当時の建物は現存していない。
 現在の洋館と洋風庭園は、英国人ジョサイア・コンドル博士(1852〜1920)の設計で、同博士は当園以外にも、旧岩崎邸庭園洋館、鹿鳴館、ニコライ堂等の設計を手がけ、我が国建築界に多大な影響を与えている。
 日本庭園の作庭は、京都の庭師植治こと小川治兵衛(1860〜1933)が手がけ、彼は当園のほか、山県有朋の京都別邸である無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園、南禅寺界隈の財界人の別荘庭園等を作庭し、造園界に大きく貢献している。
戦後は国有になったが、地元の要望等を取り入れ、東京都が国から無償で借り受け、一般公開された。数少ない大正初期の庭園の原型を留める貴重な存在で、伝統的な手法と近代的な技術の融和により、和洋の見事な調和を実現している秀逸で代表的な事例であり、また、現存する近代の庭園の中でも、極めて良好に保存されている数少ない重要な事例として、平成18年1月26日に文化財保護法により国の名勝指定を受けている。

<洋館>
 J・コンドル最晩年の作で、大正6年5月に竣工した。躯体は煉瓦造、外壁は真鶴産の新小松石(安山岩)の野面積で覆われ、屋根は天然ストレート葺き、地上2階・地下1階になっている。
 大正12年9月1日の関東大震災では約2千人の避難者を収容し、虎之助夫妻が引き払った15年7月以降は貴賓の為の別邸になり、昭和14年頃には後に南京政府を樹立する国民党の汪兆銘が滞在し、戦争末期には九州九師団の将校宿舎として接収され、戦後は英国大使館付き武官の宿舎として利用された。なお館内の見学には事前申し込みが必要で、見学は叶わない。

<西洋庭園>

 同じくJ・コンドル設計で、左右対称の幾何学模様の刈込のフランス整形式庭園と、石の欄干や石段・水盤など、立体的なイタリア露壇式庭園の技法を合わせ、バラと洋館と調和した絵画的な景観美を醸し出している。

昼食

 「田端高台通」に入り、左手の中華店で昼食を摂る。

富士見橋

 「田端中」信号の先で「富士見橋」を渡る。下を覗くと、通っているのは山手線、左手に見えるのが新幹線や田端操車場、右手に見えすぐ先のトンネルに入るのが山手貨物線で、現在は主に湘南新宿ラインが通っている。鉄道ファンには堪えられない魅力的な場所らしい。通りの名前は「田端高台通」である。

田端文士村記念館(12:53)

 その先左手にある「Asuka Tower」の下に「田端文士村記念館」がある(入場無料)。長い階段を降りて行き、また街道に戻るために登り返さなければならないが、昼食で元気を付けた我々はすいすいと赴く。

 田端は、明治の中頃、雑木林や田畑の広がる閑静な農村でした。
 しかし、上野に東京美術学校(現、東京芸大)が開校されると、次第に若い芸術家が住むようになりました。
 明治33年に小杉放庵(洋画)が下宿し、36年に板谷波山(陶芸)が田端に窯を築くと、その縁もあって、吉田三郎(彫塑)・香取秀真(鋳金)・山本鼎(洋画)らが次々と田端に移ってきました。
 画家を中心に“ポプラ倶楽部”という社交の場も出来、まさに<芸術家村>となりました。
 大正3年、芥川龍之介(小説家)が、5年室生犀星(詩人・小説家)が転居してきました。
 引き続いて、萩原朔太郎(詩人)・菊池寛(小説家)・堀辰雄(小説家)・佐多稲子(小説家)らも田端に集まりました。
 こうして大正末から昭和にかけての田端は<文士村>と呼ばれるようになったのです。
 当館は、田端で活躍した芸術家や文士の功績を次代に継承し、紹介することを目的として設立されました。

(参考)田端八幡神社

 その先、都道458号と交差する「東台橋」の下の「田端切り通し」道(昭和8年開通の高台を貫く切り通し)を南下すると、田端八幡神社とその別当寺だった東覚寺があるが、相談の末、パスした。

 解説板には、「江戸名所図会 田畑八幡宮 與樂寺」天保5年(1834)」の絵が描かれ、鬱蒼とした緑に包まれた長い参道と石段を登りつめた境内には、溶岩の山の上に建った冨士浅間社もある。

                    
田端八幡神社
 この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)を祭神としています。神社の伝承によれば、文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺でした。
 現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年(1867)の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿前まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。
 参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠(あんきょ)となった谷田川(やたがわ)に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました。
 社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成4年(1992)に氏子たちの協力のもとで再建され、翌年5月に遷座祭が行われて現在の形になりました。境内には、稲荷社のほかに田端冨士三峯講が奉祀する冨士浅間社と三峰社があり、冨士浅間社では毎年2月20日に「冨士講の初拝み」として祭事が行われています。
                                        北区教育委員会


(参考)東覚寺

 隣にある真言宗豊山派の白龍山東覚寺は、田端八幡神社の別当寺だった。境内には庚申塔や馬頭観音もあるが、特徴的なことは、普通の仁王様が総門(仁王門)の左右に鎮座しているのに対し、当寺の場合は石像で、しかも屋外の不動堂脇にあり、一対の赤紙仁王尊と愛称される金剛力士立像であることである。
 神仏分離令で現在地に移される前は、田端八幡神社の参道入口にあったという。平成10年4月28日に北区指定文化財(有形民俗文化財)になっている。
 この石造金剛力士立像は、寛永18(1641)年8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって江戸市中に流行していた疫病を鎮めるために造立されたと伝えられているが、全身に赤紙が貼られ、通称赤紙仁王と呼ばれている。身体の悪い人が、患部に赤い紙を貼って祈願すると、病気が治ると信じられ、いまなお、祈願する人が絶えないそうだ。その横には、祈願して病気の回復した人たちによって供えられた草鞋がある。
 また、東覚寺の「福禄寿は、「谷中七福神」のひとつである。

(参考)与楽寺

 その先は左手田端駅への下り坂に、「不動坂」という案内標識があり、更に田端駅から左手崖下に山手線を見ながら、高台の縁を西日暮里駅方面へ進んでいく。右手「田端台公園」手前を右折して行くと「与楽寺」があるが、これもパスする。
「寶珠山與(与)楽寺」は、先述の「江戸六阿弥陀詣」第三番目の「仏宝山西光院無量寺」と同様、その第四番寺である。創建年代は不詳とのことだが、境内には南北朝時代の石の仏塔(四面四仏石塔屋)や、江戸時代の巡拝塔、廻国供養塔などがある。信仰を集める本尊の「地蔵菩薩」には「賊除(ぞくよけ)地蔵尊」の伝説がある。

 その伝説というのは、「ある夜、盗賊が与楽寺に押し入ろうとしたが、どこからともなく、多数の僧侶が出て来て盗賊の侵入を防ぎ、遂に、これを追い返してしまった。翌朝、本尊の地蔵菩薩像の足に泥が付いているのが発見され、地蔵菩薩が僧侶となって盗賊を追い返したのだと信じられるようになった」というもの。本尊の地蔵菩薩は秘仏となっていて見ることはできない。

道灌山

 街道の西日暮里駅にかけての高台は、「道灌山」と呼ばれ、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置している。
 江戸時代は薬草が豊富で、一年中採取者が訪れていたという。また、虫の音を聴いて楽しむ風流な場所だったという。江戸名所図会にも、丘の一角に茣蓙を敷き、月を愛で酒を酌み交わしつつ虫の音に耳を傾ける三人男や、虫籠を持った子供連の女2人が描かれている。道灌山の地名の由来は、江戸城主太田道灌の砦があったからとかはっきりしていない。
 安政3年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里四丁目附近にその名が記されていて、この公園を含む台地上に広がる寺町辺りは、「ひぐらしの里」と呼ばれていた。
 道灌山の地名の由来として、
(1)中世、新堀(日暮里)の土豪、関道灌が屋敷を構えたとか、
(2)江戸城を築いた太田道灌が出城を造った、
(3)谷中感応寺の開基関道観の屋敷跡であるとか、
の伝承があり確たる説はないようだ。
 また、「ひぐらしの里」は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季折々の景色を楽しんだところから、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたと言われている。

 道灌山・ひぐらしの里は、荒川区内最古の歴史ある所で、近辺からの出土土器や、貝塚・住居址等は、縄文時代から数千年に亘って人々の営みが続けられたことを物語っている。江戸中期頃には、人々の憩いの場として親しまれるようになり、道灌山の大半が秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になったものの、東の崖際は人々の行楽地で、筑波・日光の山々等も展望できたらしい。また薬草も豊富で、多くの採集者が訪れたり、ひぐらしの里では、寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園の景観を呈したという。
 桃さくら鯛より酒のさかなには みどころ多き日くらしの里  十返舎一九
 雪見寺(浄光寺)、月見寺(本行寺)、花見寺(妙隆寺<現在は廃寺>・修性院・青雲寺)、諏訪台の花見、道灌山の虫聴き等、長谷川雪旦や安藤広重ら著名絵師の画題となり、今にその作品が伝えられている。明治時代、正岡子規も道灌山・ひぐらしの里辺りを巡り、紀行文『道灌山』を書いている。
  山も無き武蔵野の原をながめけり 車立てたる道灌山の上   子規
 昭和48年、ここに「西日暮里公園」が開園し、区民の憩いの場になっている。

<道灌山遺跡>

 開成学園第二グラウンドを中心に広がり、縄文時代(およそ8000年前)から江戸時代にわたって営まれてきた集落址である。これまでの調査により、縄文時代の住居址、弥生時代中期の住居址と溝(環濠)、平安時代の住居址、江戸時代の溝などが検出されている。グラウンドの北側から検出された環濠は幅約1.6メートル、深さ約1.3メートルで断面形がV字形を呈する。ほぼ東西に延び、台地上における弥生時代集落の居住区域の北限を示すと考えられる。・・・『西日暮里公園内解説板』より

日暮里舎人ライナー西日暮里駅

 JR西日暮里駅の下を東に渡ると、「西日暮里五」交差点に接する「尾久橋通」交差点付近に「日暮里舎人ライナー」の西日暮里駅がある。1駅南の日暮里駅から足立区の見沼代親水公園駅迄の9.7kmを13駅・約20分で結ぶ東京都交通局の新交通システムで、平成20年3月開業の新路線である。古代東海道歩きという行為とは対照的存在である点、面白い。

三河島駅〜三ノ輪橋駅

街道は少し先で京成本線の高架を潜り、踏切で常磐貨物線を渡ったすぐ先で右折し、常磐貨物線沿いに三河島駅に向かって歩く。JR貨物線路は日暮里駅から急カーブしてきた常磐線と一束になって三河島駅へと続く。下が貨物線、上が常磐線である。

宮地稲荷(三河島稲荷神社)(13:54)

                 
宮地稲荷(みやちいなり)
 三河島稲荷ともいう。宮地の名は当社よりおこったものであろうといわれる。天正七年(1597)の創建と伝えるが、今は失われた棟札に「弘治三年(1557)丁巳八月武蔵国豊島郡三河島総鎮守」とあったという。
 祭神は倉稲魂命。猿田彦大神・天神社・神明宮・疱瘡神などを合祀している。とくに脚気に効き目があるとして参詣する人が多く、祈願成就の時には草鞋を奉納したという。末社天神社の神木の大欅は樹齢六百五十年といわれたが、現在は切り株のみが残る。社殿の右側には新吉原から奉納された安永八年(1779)二月初午銘の手水鉢がある。
                                        荒川区教育委員会


 その由来書きの横には、「江戸・東京の農業 三河島菜と枝豆」と題した解説板がある。三河島菜は、結球白菜が中国から伝わる以前から栽培されていた漬菜で、江戸時代初期に三河国の百姓が入植して当地に広めたという。
三河島枝豆は、三河島菜とともに作られてきた品種で、荒川下流の沖積土が栽培に適していたという。

石川屋敷跡

 「仲町通商店街」を抜け、都電荒川線「荒川一中前」駅の踏切を渡ると、「JOYFUL MINOWA」商店街のアーケードとなる。商店街の途中左手に「石川屋敷跡」の解説板があるとのことだが、見つけられなかった。曾てここには伊勢亀山藩主石川日向守の広大な下屋敷があった。
 伊勢亀山藩主石川日向守屋敷は、三の輪一帯(現・ジョイフル三の輪)辺りにあり、総坪数11,040坪(約36,400u)という広さだった。万治元年(1658)、主殿頭憲之の時に、三河島・三ノ輪・小塚原3ヵ村の内10,530坪(約34,700u)を拝領して下屋敷を増築し、更に寛文5年(1665)には、三河島村重右衛門の所有地518坪(約1,700u)を買上げ、屋敷・庭園を増築したという。

宗屋敷跡

 曾て現役時代、東京女子医大第二病院に都電荒川線で通院していたのを思い出したが、今その終点駅「三ノ輪橋駅」に来た。「三ノ輪橋商店街」の入口付近には「宗屋敷跡」の解説板がある筈だが、これまた見逃してしまったが、対馬藩主宗対馬守の下屋敷のあった所である。
 対馬藩は、朝鮮との外交窓口だったため、参勤交代も特例として3年に1度てく、江戸滞在も4ヶ月でよかったそうだが、下屋敷まであり、しかも下屋敷とは言え領国とは方角違いの日光道中沿いである。また、屋敷の東南角に武家屋敷取締りのための辻番所があったという。因みに、江戸時代には町人町は自身番や木戸番、武家地は辻番によって守られていた。

 対馬藩主の宗対馬守下屋敷は、面積7,800坪(約25,600u)の地を寛文元年(1661)に幕府から拝領している。都電荒川線を北限とし、南は明治通、東は日光街道より1本西側の道、西は南千住1丁目9番辺りが屋敷の範囲と推定されている。

浄閑寺(14:27)

 国道4号(日光街道)に出ると、街道は左折するが、寄り道で右折し、左手の浄閑寺に行く。日光街道と言っても、ここは新道なので、曾て日光街道を歩いた時()には旧道を通っているので、ここには立ち寄っていない。境内には、冷たい麦茶が自由に飲めるように休憩スポットにセットされており、有り難い。

                 
投込寺(浄閑寺)
 浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政二年(1855)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。
 檀徒の他に、遊女やその子供の名前を記した、寛保三年(1743)から大正十五年(1926)にいたる、十冊の過去帳が現存する。
 遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。
                                        荒川区教育委員会


(参考)小塚原刑場跡・南千住回向院・延命寺・首切り地蔵・観臓記念碑

 千住回向院は、2008.11.01に日光街道第一回目で村谷氏と訪れているので今回は訪ねなかったが、門を入ると右手がすぐ墓地になっており、当初想像していた寺院とは雰囲気が全く違うのである。向かって左側が一般の墓地らしく、右側が我々が自由に立ち入り回向できる刑死者たちの墓地域である。小塚原刑場で処刑された人々や牢死者が埋葬されており、一番奥まった右に橋本左内、左に吉田松陰や頼三樹三郎、右手前方向に鼠小僧次郎吉、高橋お伝など、歴史・講談でお馴染みの人物の墓がある。
 また、回向院入口の前左手には、「村越吉展ちゃん誘拐事件」での犠牲者を弔う「吉展地蔵尊」が建っており、遙か以前のことだか痛ましい出来事を思い出してしまう。

            
荒川区指定記念物(史跡)  小塚原の刑場跡
 小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町・千住宿の間の町並が途切れている場所に位置していました。
 小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけでなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして、回向院下屋敷(現回向院)れらの供養を担っていました。
 明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また、「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するために建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。(平成18年1月13日指定)
                    平成20年3月 荒川区教育委員会

(参考)小塚原刑場跡・首切地蔵

 小塚原刑場跡は回向院近くの南手にある。民家のブロック塀に大きな横長の木製解説板が取り付けられているが、相変わらず風化した侭でやや読みづらい所がある。隣の延命寺には大きな首切地蔵が鎮座している。刑死者の菩提を弔うべく寛保元年(1741)に建立されたものである。「南無妙法蓮華経」の見慣れた髭題目碑もある。

 前の都道464号は、「コツ通」と地図に表記されているが、通称「山谷通」とも呼ばれ、曾て両側に畑が広がり、富士山を望むこともできたというが、「コツ」の名の由来は、『小塚原(こつかっぱら)を略した』『小塚原刑場にあった火葬場に因んで骨(こつ)と付けられた』という説が有力である。。

 「小塚原刑場」は、江戸時代から明治初期にかけて荒川区南千住2丁目にあった刑場で、江戸時代には、それぞれ江戸の入口にあった「板橋刑場」、「鈴ヶ森刑場」と共に三大刑場と呼ばれた。
 小塚原刑場は、間口60間(108m)、奥行30間(54m)余の広さだった。刑場跡は、現在の南千住駅のすぐ西側で、常磐線と日比谷線の線路に挟まれた「延命寺」内にある。刑場当時の資料は現在公開されていない。

 刑場の創設は慶安4年(1651)で、死体は丁寧に埋葬せず申し訳程度に土を被せる程度だったため、夏場には周辺に異臭が漂い、野犬やイタチの類が食い散らかし、さながら地獄のようだったという(延命寺内掲示板による)。
 当刑場における刑死者供養のため、寛文7年(1667)に本所回向院の住職・弟誉義観が隣接地に「常行堂」を創建し、これが後に「南千住回向院」になり、現在も橋本左内ほかの刑死者の墓がある。回向院は後に常磐線建設時に線路が敷地中央を通過したために分断され、その時に線路の南側は「延命寺」として「南千住回向院」から独立しているので、刑場跡は現在は延命寺内に位置している。そして、文政5年(1822)に南部藩士・相馬大作(下斗米秀之進)がここで処刑されて以後、国事犯の刑死者の死体をここに埋めることになり、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎等、安政の大獄で処刑された志士たちもここに埋葬されるに至った。明治初期に西欧と対等の人権基準を設ける必要に迫られた新政府によって刑場運営は廃止されたが、創設から廃止までの間に合計20万人以上の罪人がここで刑を執行されたという(延命寺内掲示板による)。

<首切地蔵>

 1741年(寛保元年)には高さ3mほどの首切地蔵が建てられている。

<観臓記念碑>

 また、明和8年(1771)にターヘル・アナトミアを手に入れた蘭学者の杉田玄白・中川淳庵・前野良沢・桂川甫周らが、解剖図の正確性を検証するべく、ここ小塚原刑場で刑死者の解剖(腑分け)に立ち合い、図の正確さに感嘆している。昭和になり、このことを記念して寄贈された観臓記念碑が回向院にある。

ゴール

 あとは、旧日光街道から離れて、14:50に南千住駅に着き、近くを探したが打ち上げ場所が見当たらず、西日暮里駅近くで渇いた喉を癒やし、帰路についた。
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