古代東海道餐歩
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 2009.05.06(日) 第六回目は懐かしの旧居「西荻窪」から「要町」&池袋西口界隈

 
西荻窪駅北口・・・西荻北3丁目→善福寺川→荻窪八幡神社→観泉寺→妙正寺→妙正寺池→田中家長屋門→井草観音堂→森田家→鷺宮→中村八幡神社→御嶽神社→良辨塚→練馬大鳥神社→桜台→江古田浅間神社富士塚→向原・・・JR池袋駅西口

懐かしの西荻北3丁目

 42年ぶりに、懐かしの西荻窪駅北口に降り立ち、お馴染みの清水・村谷両氏と落ち合う。スタートからの道のりとしては、本来なら前回の終点である中央線南側の踏切から繫いでいくべきところだが、特別な見どころも途中に無く大勢にも影響無しとの判断から、若干ショートカットして、9:33駅北口からの第六回目餐歩をスタートする。

 若き頃、郷里から初めて新宿本社勤めの辞令を受け、新婚早々で入居した会社のボロ家族寮がここ西荻窪の地にあり、きょうの街道筋にあたる。従って、新婚一年目の住まい近辺の42年後の近況をば元新妻・現北政所に報告しなければならない。
 「西荻一番街女子大通」を西進し、右手の「まるわ家具」の角を右折・北上していく。当地に住んだのは僅かに一年弱だったが、初の東京生活だっただけに想い出が深い。とは言うものの、初の東京生活や本社勤めに慣れるのが精一杯だった当時のこととて、格別な想い出と言える程のものはないが、敢えて言えば、毎日通った銭湯、坂、大きな木などのあった通りだが、光陰矢の如しで、町並みも含め往時の面影は皆無に近い。

 下り坂の先が「善福寺川」になるが、その手前左手に大きな木が往時の侭残っており、その先右手の元独身寮の古い建物を家族寮として使っていた会社の寮があった場所は、退去後に建て直された建物も撤去され、売却されて新しいアパート建築工事が始まっていた。

善福寺川

 「善福寺川」を「原橋」で渡る。善福寺川は、西方にある「善福寺公園」内にある「善福寺池」を源流とし、区内を北西から南東に貫くように流れ、中野区の地下鉄丸ノ内線「中野富士見町」駅近辺で神田川に合流している。
住宅地の低地を流れる関係上、古くから氾濫する川として知られ、集中豪雨・台風対策として神田川・環七地下調節池設置等の対策を行ったようだが、2005年9月4日の集中豪雨では、想定貯留量を超える雨水が川へ流れ込み、中野・杉並両区の一部民家約3000戸が浸水被害に遭っており、テレビなどでの報道の記憶がまだ残っている。現在でも橋梁付近には防災警報、カメラ設置、土嚢常備等、警戒態勢をとっているそうだ。

消え失せた旧道

 善福寺川を越えると、道はお定まりのパターンで登り坂に変わる。緩やかに右カーブし、北東へと進むが、西荻窪駅から北に延びている「北銀座通」を越えた先で、マンションに突き当たって直進道が途絶える。やむなく、左折し、直ぐ右折して「荻窪八幡」へと立ち寄る。

荻窪八幡神社と道灌槙(9:45)

 青梅街道に面して東西横長に広がる森が、2009.2.12(木)の第2回「青梅街道」歩きの時に北政所共々参拝した「荻窪八幡神社」である。懐かしさに加え、同行各氏を案内する意味もあって境内に入って行く。

 青梅街道に面した入口鳥居を潜ると、左手に延宝7年(1679)の銘のある都内の石造り狛犬では二番目に古い狛犬が本堂前に安置されている旨を記した案内標柱がある。ちなみに一番古いのは、「浅草寺淡島大黒堂」の延宝3年(1675)造立だそうだ。ただ、狛犬の基台は新しいもので、紀年銘も見当たらなかった。
 荻窪八幡神社は、寛平年間(889~897)の創建と伝えられ、源頼義奥州征伐の時に必勝を祈願、凱旋の時も感謝して厚く祀ったという。鬱蒼とした森の中にある本殿左手前には太田道灌が石神井城を攻める際、戦勝祈願に立ち寄った際に植えたと伝えられる「道灌槇」があり、杉並区指定天然記念物に指定されている。また境内の「秋葉神社」は、環状8号線拡張のため四面道(注)から移設されたものである。猿田彦神社も祀られている。

(注)「四面道(しめんとう)」とは、環八と青梅街道の交差点名にもなっている往時の地域呼称である。四面道の地名由来は、光明院(環八と中央線の交叉する北西角にある)所有の四堂が街道に面していたからとの説と、交差点先左手にあった「秋葉堂」境内の常夜灯が、天沼・下井草・上&下荻窪四ヵ村を照らし「四面燈」と呼ばれていたからという説とがある。荻窪八幡神社境内の末社秋葉神社にある嘉永7年(1854)の四面燈と宝永6年(1709)の法華六十六部塔は、元々四面道の南西端にあり、昭和44年の環八道路拡張時にお宮ごと移されたものである。

               
荻窪八幡神社
 この神社は旧上荻窪村の鎮守で、今から約千八十年前の寛平年間(注:889~897)に、応神天皇を祭神として建立されたと伝えられています。
 永承六年(1051)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願し、のち康平五年(1062)凱旋の時、神恩に感謝して当社を厚く祭ったといわれています。
 また文明九年(1477)四月、江戸城主太田道灌は、上杉定正の命をうけ石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、源氏の故事にならってこの神社に武運を祈願しました。この時植えた槇の樹一株が、五百年の歳月が経過した今も「道灌槇」と呼ばれ、御神木として大切に保護されています。
 なお、当社には、永仁二年(1294)、嘉慶二年(1388)、応永二十九年(1422)銘の板碑、その他土器や石器類、社宝の勝海舟の大幟、掛軸などがあります。
 祭日は九月十五日です。
     昭和五十四年二月一日                  杉並区教育委員会

 境内参道右手には、猿田彦神社や末社である御嶽・稲荷・須賀・琴平・祓戸の各社が祀られ、神門を入ると本殿に向かって左手に「道灌槇」が威風堂々聳えている。
               
道 灌 槇
 関東管領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。
 之を激怒した上杉定政は江戸城主太田道灌に出陣を命じた。
道灌は文明九年(注:1477)四月十三日平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃遷都して江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し後世「江古田の合戦」と伝えられる戦斗を開いたが豊島軍利あらず、道灌軍は騎虎の勢いをもって石神井城に迫った。
 文明九年(注:1477)四月十六日、道灌軍は東及南より石神井城を攻撃するに当って、道灌は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行い、槇樹一株を献植した。
 これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが、昭和九年の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢五百年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。
 昭和六十一年三月、杉並区・天然記念物(植物)に指定された。
                                 荻窪八幡神社社務所

               荻窪八幡神社のコウヤマキ 一本
 当社本殿前のコウヤマキは、幹周囲(目通り)二m、樹高二十m、樹齢は三〇〇年以上と推定される巨樹です。コウヤマキは日本特産の常緑高木で、天然生育地は限られていますが、日吉社、権現社あるいはこれらに属する系統の社頭には、神木として植栽されることもあります。当社のコウヤマキもこの例と思われ、太田道灌が石神井城攻撃に際し戦勝祈願の為献植したとも伝えられています。三〇〇年を越える樹齢にもかかわらず樹勢も優れ、都内でも有数なコウヤマキ貴重なものです。
                                 杉並区教育委員会

桃井防災公園

 その先「荻窪警察署前」交差点を信号で渡り、古代東海道の直進性を尊重して少し西に歩き、荻窪消防署の右手を北に入り、少し先で「桃井防災公園」を斜めに横切って北東に進む。
 桃井防災公園は、旧中島飛行機荻窪工場の跡地であり、その後日産プリンス跡地→桃井原っぱ広場→桃井防災公園となり、地域住民の憩いと安全の場所になっている。

 その公園を斜めに突っ切って公園東側の道に出、右手「不二交通KK」の北側を北東に入る斜め道に入っていくのが、北東に延びる古代東海道跡と推定されているが、寄り道の関係上、公園北東角の「荻窪病院前」交差点に出て北上し、「観泉寺」へ向かう。往時の古道は、「不二交通KK」から北東に細道を入って、程なく突き当たった所から道が途絶えているので左折・右折で進むしかない。その先の「妙正寺池」の先の中瀬中学校の北東角までのかなり長い区間、真っ直ぐ北東に向かっていたと考えられるが、現在は迂回して行くしか方法がない状態になっている。

観泉寺(10:02)

 桃井防災公園の北東角(荻窪病院前交差点)の北200m程の所にある「宝珠山観泉寺」という曹洞宗の寺院に立ち寄る。ここは「今川2丁目」で、かの今川家ゆかりの土地だそうで、知ってビックリの典型である。山門手前の左右には、石造物が林立しているほか、往時の境内が広大なものであったことが窺われる。

□観泉寺の石仏石塔群

 観泉寺参道の左手に、近隣にあった石仏石塔が集められた一画がある。その内、祠があるのは、「三谷子育地蔵尊」、「原北向き地蔵尊」だ。右手にずらり並ぶ石塔の真中に、文政七年(1823)の「馬頭観世音」があり、右側「西ふちう」、左側「東江戸」と刻まれ、道標を兼ねている。また、貞享二年(1685)や宝永二年(1705)など、古い三猿の彫刻入り庚申塔も見られる。

<石碑>
  
原北向地蔵尊並右側六石
杉並区西荻北四丁目三十七番より移し昭和五十三年当境内地に安置す
  地蔵菩薩念佛講女中
 𦾔境内西南角地村道沿より昭和三年当境内地に移し安置す
  日本廻国供養塔・南無馬頭観世音
上記二体は𦾔観泉寺山門参道(百二十間)南端より移し昭和九年当境内地に移し安置す  三谷北向地蔵尊
 杉並区桃井四丁目十六番より移し昭和五十六年当境内地に安置す

□観泉寺の七観音・六地蔵

 本堂前にある文化二年(1805)銘の宝塔は、大変巨大なものである。本堂左奥の墓地入口には元禄6年銘の「七観音」と「六地蔵」が横一列に並んでおり壮観な眺めである。七観音というのは初めてだが区内でも唯一のものだとか、また、六地蔵は区内最古だそうだ。

 曹洞禅宗寶珠山観泉寺は、慶長2年(1597)中野・成願寺の住職・鉄叟和尚が下井草で創建した「観音寺」に端を発する。桶狭間の戦いで織田信長の奇襲を受けて倒れた今川義元の息・氏真は凡庸な人物で、戦国の世の中で再起を図れず、武田家の駿河侵攻、徳川家康による掛川城攻略等により事実上滅亡するが、氏真は徳川家康の庇護のもと、慶長年間に近江国野州郡長島村500石を受領。その後、正保2年(1643)、氏真の孫・13代目直房が殿中の儀礼、朝廷との交渉、日光・伊勢への代参等の役を勤める高家衆に取り立てられる。そして、直房は正保2年(1645)京へ上って家康の霊に「東照宮」の称号を授与された功績で、井草村300石、上鷺宮135石、中村64石など、計500石の加増で当地一帯を賜り、観音寺を現在地に移転して今川家の菩提寺とし、名も「観泉寺」と改めた。更に直房は寛文2年(1662)「万昌院」(当時は市谷田町にあり、現在は中野区にある万昌院功運寺)に葬られていた祖父氏真の墓を観泉寺に移し、今川氏真を観泉寺の開基としている。墓地内には今川氏累代の墓がある。

 宝暦13年(1763)に本堂等を焼失したが翌年(明和元年)再建された本堂は、杉並区内で現存する最古の大形木造建築物の由。また境内にある今川氏累代の墓は東京都旧跡に指定されているほか、枝垂桜、紅葉などの名所としても知られている。本堂右手の竹林の周囲も雰囲気があって良い。
 往時の観泉寺は、今川氏の領地支配の拠点でもあったようで、領民からの年貢取立てや裁判なども寺の門前で行われていたそうだ。今川氏は明治時代に断絶したが、現在の当地の地名『今川』の由来になっている。

 左手には、「東京百観音聖観世音菩薩第六十七番霊場」碑が建っている。また本堂前左手にある「宝塔」は文化二年()の銘が入った巨大なものである。

            
観 泉 寺           今川2-16-1
 当寺は、宝珠山観泉寺といい、本尊は釈迦如来で、戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として広く知られています。寺伝によれば、慶長二年(1597)今の下井草二丁目付近に開山鉄叟雄鷟大和尚により創建され、観音寺といわれました。
 正保二年(1645)今川十三代直房は、将軍家光の命をうけて京に上り、東照大権現の宮号宣下の使者を勤めました。その功により井草村など三か村五百石の加増をうけましたので当寺を菩提寺と定め、現在地に移して寺号を観泉寺と改め、祖父氏真を開基とし、信仰厚く伽藍建立に寄与した姉(観泉寺殿簾室慶公大姉)を中興としました。その後万昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改葬しました。
 ここに眠る開基氏真は、二十三歳の永禄三年(1560)五月十九日「桶狭間の戦」で織田信長によって父義元を失ない、その後出家しましたが歌人としても多くの歌を残しています。当寺にはこの氏真の百首和歌や短冊類をはじめ上下井草村の古文書、板碑などが数多く保存されています。墓地には都指定旧跡の今川氏累代の墓があります。(<注>以前の既述が削除されている)
                    昭和五十四年二月一日
                                          杉並区教育委員会

               今川氏累代墓
                         所在地 杉並区今川二丁目一六番一号 観泉寺墓地内
                         指 定 昭和一八年三月
 戦国時代、桶狭間の戦いで、織田信長に敗れた今川義元の子孫は、江戸時代には高家として幕府に仕えました。今川家は知行所として上・下井草、鷺宮、中村などを給され、幕府の儀式典礼を司り、将軍の名代として京都への使者や、日光、伊勢などの代参を勤めました。
 義元から三代目となる直房は、この観泉寺を今川家の菩提所とし、今川家の始祖9に氏義元など今川一族の供養を供養を行うようになりました。墓碑が残るのは義元の子氏眞以降の当主や一族出身の女性や子供どなど多岐にわたっています。
 また、観泉寺は今川家の所領支配の衷心でもあり、年貢の徴収や裁判の拠点となっていました。
 この周辺の今川という地名も今川家と観泉寺とのかかわりに因むものです。
                    昭和二十年三月 設置
                                          東京都教育委員会

妙正寺

 その後は、「荻窪病院前」交差点に戻って東進する。往時は前述の防災公園横の「不二交通KK」の所から「妙正寺池」に向かって北東方向に向かう道があった筈だが、途絶えているので荻窪病院前信号から東に向かって「妙正寺」へと進むことになる。
               
妙 正 寺            清水3-5-10
 法光山妙正寺は、日蓮宗の寺で十界諸尊を本尊とし、ほかに大黒天・鬼子母神・三十番神・弁財天などの諸像が祀られています。
 約六百年前の文和元年(1352)、中山法華経寺(千葉県)の第三世日祐上人が、妙正寺池のほとりに堂を建て、法華経守護の天照大神・八幡大神・春日大神など三十番神を勧請したのが草創であり、正保三年(1646)中興開山日明が社殿再建してから、広く信仰されるようになったといわれます。
 慶安二年(1649)、三代将軍徳川家光が鷹狩の折、神前に武運長久を祈願し、葵の紋幕と朱印地五石を寄進してからは。「御朱印寺」として一層有名になりました。現在でも、毎年十月二十五日に三十番神堂に、葵の紋幕を掲げて一般に公開する法会が行われています。
 天保元年(1830)に本堂は古文書類とともに焼失しましたが、天保三年には再建され、昭和六年に改築して今日に至っています。
 また、三十番神堂及び鐘楼は安政三年(1856)の大暴風で倒壊し、安政六年に再建されました。なお、現在の鐘楼は、昭和三十八年に新しく建て替えられました。
 当寺に伝わる鎌倉期から室町期の板碑八基は、妙正寺池周辺の古い村落のことがうかがえる貴重な文化財です。
 鬼子母神像は、「生毛鬼子母神」と称され、安産に霊験ありとして、江戸城大奥にありましたが、天保改革(1841)の大奥粛清の時、この寺に移されたもので、それ以来この地域の人々に「安産の神」として親しまれてきたといわれます。
 なお、弁財天像は、もと妙正寺池の弁天島に祀られていたものです。
                    昭和五十五年二月二十日
                                          杉並区教育委員会


 「妙正寺」は妙正寺公園の妙正寺池の南方高台にあり、墓地には「井草の五輪仏」と呼ばれた寛永年間(1624~1644)の五輪塔二基が安置されている。また、妙正寺にある本因坊知伯(江戸時代の囲碁の家元。その六世本因坊)の墓は、昭和58年に杉並区指定史跡文化財の指定を受けている。

妙正寺公園・妙正寺池(10:47)

妙正寺の北側にある「稲荷神社」の脇をすり抜けるようにして、北にある妙正寺池に向かう。公園名も池の名も先刻の妙正寺に由来する。妙正寺池には噴水があり、公園として憩いの場となっているほか、野鳥等も観察されているそうだ。トイレもあり小休憩にピッタリの場所である。

妙正寺川
                    
妙正寺川                 清水3-22
 妙正寺川は、妙正寺池を水源とし、区内北部をほぼ東へ流れる延長約9㎞(区内部分約1.2km)の川で、中野区・新宿区を経て神田川に合流し、最後は隅田川にそそぎ込みます。
 武蔵野台地上にある杉並区では、地下6~7mに武蔵野砂礫層が堆積しており、その中を流れる地下水が、標高約50m付近にある窪地から地表に湧き出て、飲料水などとして利用されてきました。
 この湧水も現在ではほとんど見ることができませんが、妙正寺池もその一つです。本川の流域には、小規模な縄文・古墳時代の遺跡が点在しており、古代から人々の生活に適した環境をつくり出していたものと思われますが、水量はそう多くはなかったので、江戸時代になって、千川用水より引水し、神田川上水の助水として利用されてきました。
 しかし梅雨の頃になると水量が増えるので、人々が集まり、竹竿の先につけたジョレンなどを使い、川をさらったり、長く伸びた川藻を刈取ったりしました。
 又昔は、神奈川県の大山阿夫利神社を信仰する人が多く、その講中の人々は、代参人を大山に送る時、下流の寺前橋付近にあった「清めの不動様」を祀る大水門で、水垢離をとったといわれ、日照りが続くと阿夫利神社からの神水と、妙正寺から借りた太鼓を先頭に、大水門から村中を練り歩き、最後にその神水を川に流し、雨の降ることを祈ったといわれています。
                昭和60年3月
                                        杉並区教育委員会

 妙正寺池から東に向かって池を水源とする「妙正寺川」が流れている。元々は、西武新宿線下落合駅の東側で流路を南に変えて、今の神田川の滝沢橋~落合橋間の地点で神田川と合流していたが、大雨の度にこの合流地点が川水で氾濫したため、更に下流の高田橋で神田川に合流するよう流路変更された経緯があるようだ。

 ところで、大山阿不利神社講中の人達は、代参を送る時にこの200m程下流の「寺前橋」付近にあった「清めの不動様」を祀る大水門で水垢離をとったという。日照り続きには、阿不利神社からの神水と妙正寺から借りた太鼓を先頭に大水門から村中を練り歩き、最後にその神水を川に流して、雨降り祈願したと言い伝えられている。

田中家長屋門(11:04)

 さて我々は、妙正寺公園東側を北上し、早稲田通りを越えた先右手の中瀬中学校の北側へと右折し、回り込んだ所から北東に延びる古代官道の延長線路に入る。入って一本目を右折して寄り道すると、その先左折した所に「田中家長屋門」と記した解説板と見事な長屋門の家が目に入る。 田              
中家長屋門           下井草4-12-2
 長屋門は江戸時代に大名や旗本の武家屋敷の前面に建てられた門で、門番の家臣や下男が住む長屋が棟続きに設けられていたことから長屋門といわれます。その形式や規模はその武士の身分・格式によって異なり、厳しい定めがありました。ですから本来長屋門は武家以外の家では建てることができませんでした。
 ところが江戸時代後期になると、領主の許可により村役人(名主・年寄・組頭)層も建てられるようになりました。
 当家は初代田中市郎兵衛(貞享2年没)以来村役人を勤めてきた旧家です。井草村領主今川氏は代々幕府高家(儀式を司る官職)として日光東照宮や伊勢神宮などに将軍の代参をしましたが、その折有力農民を士分としてとりたて従者に加えました。田中家もたびたびそのお供をしました。また御用金を献上するなど領主のために大いに貢献しました。このようなことから長屋門を建てることが許されてのだと思われます。特にこの長屋門には、庶民には禁止されていた出格子作りの武者窓がつけてあるのが、特徴です。
 間口十間(約十八メートル)奥行二.五間(約四.五)建坪約二十八坪の風格ある造りは屋根こそ瓦葺になったとは言え創建当初の姿をよくとどめています。記録がないので正確にはわかりませんが、当主の六代前(江戸末)に建てられたと言われる貴重な文化財です。
             平成元年三月
                                        杉並区教育委員会
   門の中は公開していません。入場はご遠慮下さい。


地蔵菩薩(11:14)    杉並区下井草三丁目28

 その「旧早稲田通」を越えて少し先の左手の影に隠れるようにして、「地蔵菩薩像」が建っている。石塔四面には、正面から「南 ほりのうち道」「東 ぞうしがや道」「北志んかうや道」「西 とりゐさき道」と刻まれている。いずれも近在有名寺院への道しるべで、「志んかうや」は、関東の高野と言われた練馬区谷原の「長命寺」のことである。

井草観音堂

 もう少し足を伸ばし「旧早稲田通」で下井草駅西側の踏切を渡った北側に「井草観音堂」がある。江戸初期の建立で、寛文7年(1667)銘の「如意輪観音」と「地蔵菩薩」が安置されている。

                    
井草観音堂             井草1-3-14
 井草観音堂は、「久保の観音様」ともよばれ、江戸初期に建立されたといわれています。お堂の中には如意輪観音と地蔵菩薩が納められ、それぞれ高さが一メートルの舟形をした石塔に浮彫りにされています。二基とも、造立年号が寛文七年(1667)と刻まれており、区内に現存する石塔の中ではかなり古い年代のものです。
 その当時、この辺りは今川氏の所領となっており、下井草村字久保と称されていました。このお堂や石塔は、此治を開墾した農民によって造立されたものと思われます。
 観音塔には、「おくに」「おたつ」など女性の名前と思われる文字がかすかに見られるので、これらの女性を供養するために造立されたものと思われます。また左下には「榎本半内」と願主名が刻まれています。
 地蔵塔には、同行十六人と刻まれていますが、これは、下井草村久保と向井草地区の十六軒の農家が講中をつくり造立したものといわれています。この地蔵菩薩は地元では「子育児像」とよばれ、観音様とともに幼児の虫封じ・歯痛・夜泣きにご利益があるとして親しまれてきました。
 明治三十七・八年、日露戦争の頃、付近一帯に疫病が大流行したので、村中で「観音様」と「お地蔵様」の供養をしたところ、次第に病気が直って一層進行が盛んになったという話が伝えられています。
 また、昭和初期まで、「念仏講」が伝えられ、ソウバンとよばれる大きな鉦をたたき講中の家々を供養してまわった後、このお堂で「百万遍のお数珠」とよばれる大きな数珠をまわしながら念仏供養するのがならわしだったといわれています。
 現在のお堂は、昭和五十六年に改築されたものです。
                   昭和五十七年二月十日
                                         杉並区教育委員会

昼食

 下井草駅の傍に折良く中華店があったので飛びこみ、昼食を摂る。

豪農森田家(11:43)

 ここで寄り道のため街道筋を離れ、旧早稲田通を北に向かうと、「下井草駅南」信号の北東角に豪農「森田家」がある。東と北に塀が延々と続いて、塀の中は鬱蒼とした緑に包まれている。

御嶽神社(11:55)

 道標を兼ねた庚申塔のある角に戻り、街道を歩き始める。その先で少し左折右折すると、中野区白鷺三丁目に入り、再び真っ直ぐな北東への道が続く。角に地蔵尊もある。

 西武新宿線の踏切を渡って暫く行くと、「鷺宮五丁目12」の左手に、小さな「御嶽神社」がある。その横の四つ角左手には、宝暦9年(1759)造立の「地蔵菩薩立像」が建っている。

庚申塔と首なし地蔵

 四つ角を越えた左手の角にも木下に隠れるように元禄十年(1697)二月銘の「庚申塔」と「首なし地蔵」や小さな狐?のような石造物もあり、そのお地蔵の右側には元文3年(1738)の銘と「ゑど道」、左側に「いぐさ道」と刻まれ、これも道標を兼ねている。

笠付庚申塔(12:05)

 その先左手に「中野史跡めぐり」と書かれた石標があり、街道の後ろ方向に「御嶽神社」、これから向かう方向に「笠付庚申塔」と記されている。
 その先で「新青梅街道」と交わるが、その手前右手に、その「笠付庚申塔」がある。元禄10年(1697)銘の年代物である。

八幡神社(練馬区中村南3-2) (12:27)

 新青梅街道を越えて暫く行くと、北東への道が途切れ、右手に「中村ゴルフクラブ(練習場)」がある。左に右に迂回して、南北の「中杉通」に突き当たる。そこを寄り道で東進し、次の信号を左折して北に入った先左手にある。

                    八幡神社
 この八幡神社は旧中村の村社で、祭神は応神天皇です。『新編武蔵風土記稿』に「村ノ鎮守ナリ、南蔵院持」とあります。南蔵院は、ここから東方約四百メートルにある真言宗の古刹で江戸時代は当社の別当寺でした。
 本殿は、社伝によると、江戸期のものといわれ、練馬区内でも屈指の古建築物です。
 境内本殿向かって左手にある文政十三年(1830)奉納の御手洗石に、卍の彫刻のあるのが目につきます。神仏混淆時代の名残りをとどめる石造遺物として注目されます。記念碑のまわりには、むかし若者たちが力競べに興じた力石があります。なかには目方が彫ってあるものもあります。
 当社裏の一角に「首つぎ地蔵」があります。首と体と別々にあった地蔵尊が、信心深い二人のひとの夢枕に立った結果、首と身体を継ぐことができたと言い伝えられています。その名にちなみ、昭和初期の不況時代には「首切り」を免れようと、参詣者でにぎわったといいます。ここは廃寺となった南蔵院の末寺・西光寺の旧地にあたります。地蔵堂前の石造物がわずかにその面影を残しています。
                    昭和六十一年三月
                                        練馬区教育委員会

                    練馬区登録有形文化財 八幡神社の本殿
覆屋に納まっている小祠。一間社、流れ造り、こけら葺。八角柱で土台建。向拝や紅梁の彫刻は素朴で、外面全体は赤く塗られていた痕跡がある。国内では古い建造物で、十七世紀頃の建築と推定される。
                    平成十一年三月
                                        練馬区教育委員会

御嶽(おんたけ)神社

 「中杉通」に戻って、少し北の「中村南3北」信号の少し先を再び北東方向へ入っていくと、右手に「御嶽神社」がある。
御嶽神社
中村の御嶽神社は、幕末期に谷原村野増島大傳によって創建されたと伝えられます。大傳は、行者一山の門人としてすでに谷原村に一山講社を結び、御嶽神社(富士見台三丁目稲荷神社)を興し、近隣への布教にも励んでいました。中村では字中内を中心に御嶽山一山信衍講が結ばれ大傳を開山として、二代先達内田清心(初太郎)三代先達神田明照(市五郎)と続き現在に至り、奉齋神は天御中主神・高皇産神・神皇産神・天神地祇・国常立尊・大巳貴命・少彦名命です。
 現在の社殿は昭和五十二年に新築されました。本殿西側には稲荷社があり、初代大傳はこの祠で祈祷を行っていたといわれています。
 その他境内には御嶽山一山講社の講祖一山霊神をはじめ当社先達たちの慰霊碑があります。また明治初年以降の古文書や絵馬が手数保存されています。
                    昭和六十二年三月             練馬区教育委員会

南蔵院(杉並区中村1-15)

 立ち寄りはしないが、何度も出てくる南蔵院について略記すると、寺録によれば、延文2年(1357)、良弁僧都が中興し、慶安2年(1649)には12石余の寺領が与えられている。正面の門は、江戸時代中期に建てられた区内唯一の鐘楼門で、その門は三間一戸、入母屋造り、浅瓦葺きの楼門形式で、赤彩されているという。上階は吹き抜けで、正徳5年(1715)銘の梵鐘が吊るされ、当時の建築様式を伝える貴重なものとされている。本尊は薬師如来で33年毎に開帳される秘仏である。
 なお、明治9年(1876)11月に南蔵院の本堂を使って豊玉小学校が開校している。

史跡良辨塚碑と道標付き石塔   杉並区中村3-11

 御嶽神社の先、左手柵の中に南蔵院が管理している「史跡良辨塚」碑がある。良辨は、全国の霊場を巡拝した後、ここから500m東の中村の南蔵院に留住して人々を教化した。手前にある「此の方右ハ下ねりま道」「此の方左ハ上ねりま道」と刻まれた元文5年(1740)銘の道標付き石塔の彫刻が見事だ。僧良弁が延文2年(1357)にお経を埋めたと伝えられていたので、掘ったところ金筒が出てきた旨記されている。その経筒は南蔵院に寺宝として保管されている由。その他いろんな石仏がある。
 僧良辨は、全国を行脚して各地の寺院にお経を奉納した後、この地に永住したらしい。

                    
良 辨 塚
 南蔵院(ここから約五百メートル東にある)中興第一世の良辨僧都は、日本国中の霊場を巡拝し、数百部にのぼる法華妙典(「妙法蓮華経」)を写経し奉納されましたが、最後にこの中村の南蔵院に留任して人々を教化されました。当時はこの前の道路は鎌倉街道の一つでしたが、街道から南蔵院に入る角に、経塚を築き、供養して人々の幸せを願ったのです。それがこの良辨塚で、碑文によりますと延文二年(1357)三月二十一日に建立されています。南蔵院は真言宗のお寺で、真言宗の開祖である弘法大師が高野山で入定されたのが承和二年(835)三月二十一日ですから、この月日に合わせて建てられたものと思われます。建立の時に埋められた経筒(直径三センチ、高さ十センチで銅製の筒)は、江戸時代に塚が改修された時から、南蔵院に保管されています。
 なお、『新編武蔵国風土記稿』に良辨僧都を永正年間の人と記しているのは誤りです。又、東大寺再建に尽力した良辨僧都とは別人です。
 庚申塔や道標などは後にここに移したものと考えられます。
                    昭和六十一年三月
                                         練馬区教育委員会


石憧七面六観音勢至道しるべ

 柵内の前方に、練馬区指定有形文化財「石憧七面六観音勢至道しるべ」(平成十年三月 練馬区教育委員会)がある。区内で唯一の七面石憧で、元文5年(1740)の銘があり、高さが約2.5mある。
 七面の各面には、准提(じゅんてい)、十一面・馬頭・勢至・千手・聖・如意論の7つの真言系観音と勢至菩薩等が彫られている。台石座の東西南北が道標になっており、「東 此方なかのミち、目ぐろみち」「西 此方た可いど 大山ミち」「南 武州豊嶋郡 中村里」「北 此方ねりま 川口ミち」と刻まれている。元は現在地より数十m東にあったと言われている。

中村垢離取地蔵尊(12:39)

 その先、道を横切った先左手にある「中村公園」の角に「中村垢離取地蔵尊」がある。大山信仰について記された解説板があったらしいが探しても見つからず、大山街道を踏破した我ら3人には興味あるところ乍ら残念である。以前建てられていた解説板には、日照続きになると、村人がこの不動尊に集まり、代表で大山詣でに行く若者数人が水垢離して体を清め、この不動尊に祈願して出発、大山で水を汲み、汲んできた水を休むことなく持ち帰ると必ず雨が降ったが、途中で休むと休んだ場所に雨が降ってしまうので、リレー方式で休むことなく水を運んだというようなことが記されていたという。

練馬大鳥神社(13:07)

 「中村公園前」信号の東側から北東への街道筋を進み、その先で突き当たりを右折して「千川通」に入り東に向かう。
 「練馬駅前」信号の一つ手前の路地を右に入って行くと、「おとり様通」右手に「練馬大鳥神社」がある。
                    
練馬大鳥神社
 社伝によると江戸時代の初め正保二年(1645)、この地中新井村に三羽の鶴が飛来しました。村人たちは、その鶴を瑞祥としていつまでも厚く保護しました。のちに鶴の霊を祀り、和泉国一宮大鳥神社(堺市)の祭神天日鷲命の御分霊を勧請したといいます。
 以来近郷の崇敬篤く、特に十一月酉の日の祭礼は、福徳円満・開運熊手を購う群集で賑わいます。
 拝殿には由来となった大きな鶴の絵馬が奉納されています。
 境内左手に石の薬師如来が祀られています。この薬師様は、ここから五百メートルほど南の路傍にあったものです。薬師様には、万病を治癒し、延命を願う信仰が昔からあり、特に眼の病に効があると今も香華が絶えません。
                    昭和五十九年三月
                                        練馬区教育委員会


 大鳥神社から天日鷲命を勧請したとするが、当時の大鳥神社の御祭神は日本武尊とされていた(現在は日本武尊と大鳥連祖神)。阿波忌部の祖である天日鷲命が祭神であったという歴史はないので、元はこの神社も日本武尊を勧請し、祭神としたと考えるのが自然かもしれない。実際、 都内の大鳥神社の多くは日本武尊を祭神としており、酉の市で有名な浅草の鷲神社が天日鷲命と日本武尊を祭神とするようになったので、それに影響されて祭神が変わったとも考えられる。

桜の碑

 「桜台駅前」交差点で「桜台通」と交差するがその左手に「桜の碑」と「桜の記念碑」と題する解説板があり、「千川上水」について解説している(次項の「清戸道と千川上水」の解説板内容参照)。そして、「
桜台という地名は、この千川上水沿いに桜並木が植えられた桜並木にちなんでつけられた駅の名前によったものです。」と解説している。

 13:24「桜台駅前」交差点の北東角にある「みずほ銀行桜台支店」前に、三枚の石から出来ていたという由来を持つ元・三枚橋があった由。グリーンベルトには、昭和62年5月「千川通りに桜を植える会」が建てた「桜の碑」があり、その南側の果物店と隣の珈琲館の間の狭い路地を2番目の中新井分水が流れていた。明治10年の分水口は1寸5分四方で、1番目、3番目の分水ともで、田は11町を潤していた。この狭い路地を隔てて、先は豊玉上2丁目に入る。

「清戸道」碑(13:18 & 13:30)

 その先で交叉する環七の桜台陸橋の150mほど手前の右手にある都営バスの練馬車庫手前左手グリーンベルトにも「清戸道」(明治以降の名称)の石碑や「清戸道と千川上水」と題した解説板が建っており、同様のことが記されている。
清戸道と言うのは、文京区の江戸川橋北詰から西北へ五里、清瀬市中清戸に至る片道3、4里の道で重要な農作物流通路だった。
                    
清戸道と千川上水
 この前の道路を清戸道といいます。清戸道は練馬区のほぼ中央を東西に横断し、区内の延長は約十五キロメートルになります。東へ行くと目白駅を経て江戸川橋に至り、西へは保谷・東久留米を経て清戸(清瀬市)に達します。
 大正四年に武蔵野鉄道(西武鉄道の前身)が開通するまでは練馬・石神井・大泉から市中へ出るのに、この道が最も近道でした。朝早く大根や野菜を積んで町に向かい、昼過ぎには下肥を積んで帰ります。清戸道は練馬の農業にとって、なくてはならない道でした。
 この辺は、清戸道に沿って千川上水が流れていたので、千川通りとも言います。千川上水は元禄九年(1696)江戸小石川、本郷ど城北方面の飲み水として玉川上水より分水された上水道です。開通から十一年後の宝永四年(1707)、上水沿い二十か村の農民の願いで、潅漑用水として利用することが許されました。用水の管理は、工事を成功そせた功により、代々千川家が当たりました。千川の水を引いた田は一反(約十アール)について米三升(五・四リットル)を水料として千川家に差し出しました。千川の水の恩恵を受けた田は全部で百町歩(百ヘクタール)にも及んだといいます。
 この辺りは、昭和二十年代の終わり頃から暗渠工事が始まりました。
                     平成十六年三月
                                        練馬区教育委員会


武蔵大学構内の水路

 環七を渡ると、右手に武蔵大学がある。先刻の解説板によれば、武蔵大学構内に千川上水から田に引いた分水の跡が残っているらしい。

武蔵稲荷神社(13:40)

 武蔵大学の向かい側、即ち街道の左手に「武蔵稲荷神社」がある。門も社殿も、彫刻が立派だ。社殿に掛かった扁額には「武蔵野の鎮」とある。
その先、左手にある「スズキ病院」の先を左折して、西武池袋線の線路に突き当たる一本手前の道を左折し、線路を渡ると、「江古田駅」の北口の前に「浅間神社」がある。

浅間神社・江古田の富士塚 (13:48)

 浅間神社は「茅原浅間神社」と通称される。浅間神社にある「富士塚」は高さ約8m・直径約30mで、都区内にある富士塚の中では、大きな部類に属し、「江古田の富士塚」として、国指定重要有形民俗文化財になっており、毎年正月三が日と7月1日の山開き及び9月の第2土曜日&第2日曜日以外は公開されておらず、一般の人たちの登拝が許される日は限られている。築造は、天保10年(1839)とされているようだが、一説には文化年間(1804~1817)とも言うが、築造者は「小竹丸祓講」と言う講で、「下練馬村・中新井村・中村」の各富士講から構成された連合体で、こういったケースは珍しいらしい。
 登山道の両側や要所には、富士山の溶岩も配置されていて、なかなか凝っているとか。また、この塚は元々は古墳で、その南面の土を崩してから頂上に積み上げて造ったという説もありらしい。残念ながら、大正12年(1923)の関東大震災で壊れてしまったが、すぐに復旧され、現在に至っている。

 東京には富士塚が42基現存しているそうだが、その内、江戸期建造で残っているのは7基、更に当時の姿を残しているものは3基に過ぎず、復旧されたとはいえ、江古田の富士塚は、江戸以来の形を残している3基のうちの1基であり、歴史的価値は高いと言えよう。なお、残りの2基は、台東区下谷の「坂本富士」と豊島区高松町の「高松富士」である。
「果てもなき武蔵野の茅原に富士ばかりこそ山ぞ見えけり」の碑文がある

12年間住んだ懐かしの地を見てゴールへ

 その先、「日本大学芸術学部」を右手に見ながら東北東に向かって直線路が伸びている道を進む。古代官道独特の道路形状が千川通に入って以降殆ど消滅していたが、漸くその直線路に戻ったことになる。

 600m程歩くと、街道左手が板橋区、右手が懐かしの豊島区に入る。「要町通(都道441号)」と交わった地点で本日の街道歩きを終了とし、右折300m先の東京メトロ有楽町線の千川駅に14:13到着する。
地下鉄で池袋駅に出る予定だったが、歩き足りない我ら三人は打ち上げのビールの喉越しの快感を弥が上にも高めるべく池袋駅までの2.5kmを更に歩くことにする。
 途中12年間住んだことのある現役時代の会社の家族アパート跡(新築マンションに変身していた)や当時の近隣宅の表札などを懐かしく確認して14:47駅西口前の「日高屋」にて恒例のささやかな打ち上げを行い、懐かしの「池袋駅」から帰途についた。
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