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古代東海道餐歩
 2009.03.29(日) 第五回目は武蔵国府(府中)〜西荻窪
              F1戦闘機〜水車農家〜古代遺跡〜掩体壕・・・と、人見街道を通って東北方向へ直進

 9:30京王線府中駅改札口で村谷・清水両氏と待ち合わせ、前回見逃した「けやき並木通り」東側の「八幡太郎義家銅像」のある所へ行く。

八幡太郎義家銅像

 この像の由来だが、源頼義公・義家公父子が前九年の奥州の乱を平定の帰途、予て戦勝祈願をしていた大國魂神社へ御礼詣りのために再び立ち寄り、欅の苗木千本を寄進、これが、府中けやき並木の始まりと言われている。その後徳川家康は関ヶ原・大阪両役の際に同神社の馬市から軍馬を多く選出したことから、両役に勝利した後に欅を補植して馬場を寄進した。
 現代になり、周囲9mにも及んだ大欅は御神木として敬愛されていたが、台風などによる被害でついに枯死してしまい、その場所に御神木を奉植した義家公の像が平成4年に建てられたという次第で、欅並木は天然記念物に指定されている。

けやき並木通から桜通へ

 国分寺街道(けやき並木通)を北進すると、途中に「天然記念物馬場大門けやき並木石垣完成記念」と題する石碑が目にとまる。けやき保全のため、平成5〜7年に景観整備とあわせ御影石による石垣工事を行った旨、記してある。枯れた古木には、太い伐り跡に金属板を被せてある。

 「けやき並木北」信号右折で「桜通」に入り、折から日ごとに美感を増す桜の花を見ながら「府中の森」方向へ進み、旧道を遮っている航空自衛隊府中基地を南に迂回し、人見街道入口へと進む。古代東海道としての直線性という点では、「けやき並木北」信号から小金井街道にぶつかるまでと、新小金井街道の人見街道入口信号の間が変形になっているのが地図上で明瞭に判る。

航空自衛隊航空総隊司令部前のF1戦闘機

 その途中、守衛が厳めしい航空自衛隊府中基地の正門を過ぎた金網越しに飛行機が二機展示されているのが見える。
 人見街道餐歩時に承知済みだが、同行メンバーに概略解説する。ここから暫くは、人見街道餐歩で知り尽くしたエリアである。解説板が建っているが遠いので望遠撮影では細かい字が読みづらいが、二機共に「F-1支援戦闘機(戦闘攻撃機)」で、量産1号機の初飛行は1977年(昭和52年)。後継機であるF-2支援戦闘機の配備により、2006年3月9日に全機が退役しているそうだ。最大速度M1.6というから凄いと思ったが、後継のF-2ともなればM2.0と更に凄い。
 東京都府中市浅間町1丁目5番地5号に所在し、航空総隊司令部等が配置されている航空自衛隊の基地である。飛行場施設はヘリポートがあるだけで、滑走路は有していないらしい。

人見街道へ

 「人見街道」は、東京都府中市と杉並区大宮の大宮八幡神社を結ぶ、古くからの街道である。別名「大宮街道」、「下総街道」とも言い、2008.07.03に1人で東端の井の頭通り浜田山入口交差点から西進して歩いている。きょうは、その途中までが古代東海道と共通しており、懐かしい気分で歩ける。

 東京都通称道路名設定公告(整理番号98)によれば、人見街道の起点は杉並区浜田山三丁目の浜田山駅入口交差点、終点は府中市若松町四丁目であり、東京都道14号新宿国立線の杉並区浜田山〜三鷹市牟礼の区間と東京都道110号府中三鷹線の終点〜府中市若松町四丁目がこれに該当する。杉並区浜田山三丁目以東杉並区道であり、「八幡通り」と表示されている。府中市若松町四丁目以西は府中市道となって、旧甲州街道に至るのが本来であるが、一部は航空自衛隊府中基地となっていて通行できない。

 人見街道の名は、「人見村」を通って府中へ至る道であった説、府中市の北東部の地名「人見」ないし、その地域の一族「人見氏」に由来すると言われるが、さらに人見の北にある浅間山の別名が人見山であって、それが由来であるとする説もあるようだ。

浅間山公園・人見四郎墓所・浅間山(浅間神社)・人見稲荷神社

 寄り道すべく、人見街道に入って2本目の道を左折し、300m程北にある浅間山公園に入る。

◇浅間山公園

 浅間山公園には「前山(72.8m)」「中山(74.0m)」「堂山(79.6m)、別名:浅間山」と3つの山がある。一番高いのが西端にある「堂山」だが、そうは言っても周辺が50m程なので標高差は30m程度で、山というより小さな丘である。雑木林主体の丘陵公園だが、園内一帯は春に花が咲く「ムサシコスゲ」の群生地として知られている。

 ここは「人見原合戦」と言われる南北朝動乱期の古戦場跡である。正平7年(1352)南朝の後醍醐天皇の子宗良が征夷大将軍となって鎌倉を攻めた。主力は父新田義貞の志を継いで上野国に挙兵した次男義興・三男義宗らが足利尊氏と対戦した。当初八百騎だったがその後新田一族や諸将が合流、その数10万とも。
 迎える鎌倉幕府の足利尊氏軍にも応援が駆けつけ、双方合わせて20万の大軍がこの辺りで熾烈な戦いを繰り広げた。尊氏は形勢不利となって鎌倉に退いたが、新田勢も義興が負傷するなど追撃の余力が無く、勝敗がつかなかった由。

◇人見四郎墓所

 久方ぶりに山登り気分を思い出しながら浅間山公園の「前山」に登っていくと、頂上に黒御影石に刻んだ「人見四郎の墓跡」がある。碑には、「
ここは鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武士人見四郎の墓跡と伝えられる 平成二年三月 府中市教育委員会」と刻まれている。

 前山から中山に向かう途中、「富士山迄81km」の標識の建つ展望箇所がある。「関東の富士見百景」などと記されているが、雪を頂いた霊峰の雄姿が旭日に燦然と輝いており、なかなかの絶景ポイントである。

◇浅間神社

 「前山」の東裾を回り込んで「中山」を経由し、北側の一番高い「堂山」の頂上に、木花開耶姫命を祭神とする「浅間神社」に行く。神社と言っても小さな石祠があるだけである。手前に建っていた解説板には次のように記されている。
               浅間神社
 堂山の山頂に石で造られた小さな祠が浅間神社です。浅間神社の例にもれず、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀っているが、ご神体は、この山の中の泉から忽然と現れた銅製の十一面観音であると「新編武蔵風土記稿」に記されていますが、現在のご神体は自然石です。

 解説板には、中山北側斜面に「水手洗神社」というのがある旨記していたが、こればパスして堂山へと進む。なかなかの散歩コースを持った丘陵公園になっていて、ウォーキング姿の人、散歩中の人、ピクニック?の人など、結構地域住民に愛されている公園のように感じられた。

 標高80mの「堂山」からは、人見が原合戦場を一望に見渡すことができる。正平7年(1352)に、新田義興・義宗らが足利尊氏と人見が原・金井原一帯で合戦した。この時代、活躍したのが「人見四郎」で、人見氏は、埼玉県大里郡を本拠とする武蔵7党の内の猪俣党の人見氏と言われ、この浅間山の麓に一族が来ていたとされる。近くには、旧村名「人見村」があり、「人見街道」は府中から「人見村」、三鷹等を経由して西へ延びている。

◇人見稲荷神社

 浅間山神社から正面参道を南へ降りていくと、小さな祠程度の神社にも拘わらずなかなかの参道である。坂下まで石段や坂道が続き、一旦左手を南北に走る「浅間山通」に出て「若松町5」信号で右折すると、道なりに進んだ左手に人見村の氏神だった「人見稲荷神社」がある。昭和56年11月3日に不慮の出火で焼け、58年9月再建の碑が建っていたが、結構有力氏子がいる感じである。境内にはシラカシの樹林と大きなヤブツバキがあるが、共に府中の名木100選に選定されているとか。
 
御祭神は倉稲魂命 天下春命 瀬織津比□命三柱にして武蔵國造兄武比命の祀られし社なりと傅ふ 昭和五十六年十一月三日未明、不慮の出火に依り焼失 氏子中恐懼協力し再建す

 そこからは直ぐ南向きに人見街道(古代東海道)までビニールハウス等のある細道を通りながら立派な参道経由で進む。鳥居まであるのには感心した。「人見街道」に出て左(東)へ行き、「若松町4丁目」交差点に到達する。

人見石碑

 「浅間山通り」と交差する「若松町四丁目」の南西角に、「人見」と大きく刻まれた石碑がある。左側には「明治初期の地名(字名)」と題した古地図、右側には「人見」に関する以下のような碑文が刻まれている。

 
人見(ひとみ)の集落は、現在の若松町三・四4丁目の一部(人見街道沿い)に中心があった村落です。
古く、人見の集落は、街道筋ではなく浅間山の麓にあったと伝えられています。街道筋に集落を開いたのは、近世以降のことだそうです。幕末の地誌には、「民家五十八件、府中路(人見街道)の往来に並居す」(『新編武蔵風土記稿』)とあります。
地名の起こりは、不明ですが、武蔵七党の人見氏一族が来住していたという説があります。あるいは、浅間山(人見山)が、遠くを見たり遠くからも望める格好の場であることから起こった名義かもしれません。正平七年(一三五二年)に浅間山周辺で行われた足利尊氏と新田義興・義宗兄弟の戦いが、有名な人見原合戦です。


 交差点を横切った左角にも「人見街道」の道路標識がある。

紅葉丘文化センター

 「若松町4」から西へ進み、一つ目の信号の先左手にあるので、トイレ休憩を兼ねて立ち寄る。 公民館・児童館・高齢者福祉施設・図書館をあわせた府中市の複合公共施設である。
 「人見街道」の案内標石が前にあり、それには、「大宮街道」「下総街道」とも呼ぶ旨記されている。

素敵な住宅群

 その先左手に、共同門扉付きの素敵な住宅群が目にとまる。確か「SEBON MOMIJIGAOKA MAPLE TOWN」と記されていたが、門内から出てきた自転車乗りの主婦が表門開閉リモコンを押して門扉を開けていた。

多磨霊園

 その先の信号が「多磨霊園正門前」で、人出が結構多い。近くの中華店で早めに昼食を摂る。
 「多磨霊園」は、東京都府中市および小金井市を跨いだ場所にある都立霊園であり、ドイツの森林公園を参考にした日本初の公園墓地として、以後の日本の墓地のあり方の雛形になったそうだ。面積は都立霊園最大の128万uである。
 関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。1,000本余りの桜のほか四季折々の花が楽しめる緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多く、しかも有名人の墓地も多い。
 西園寺公望、高橋是清などの政治家、山本五十六、東郷平八郎などの軍人、菊池寛、北原白秋、吉川英治、内村鑑三、梅原龍三郎、石坂洋二郎などの作家、文化人らが眠っている。

都立武蔵野の森公園と掩体壕

 街道に戻り先へ進む。西武多摩川線の踏切を越えると、二つ目の信号の右手に都立の「武蔵野の森公園」が細長く南南東に延びており、その東側一帯が「調布飛行場」になっている。そのすぐ先は三鷹市域で、調布市の最北部が飛行場として地形的に北に突出している形になっている。

 事前に仕入れた知識としては、
(1)この区域は昭和16年(1941)、東京調布飛行場として開設、その後、陸軍や米軍の管理を経て、昭和49年に全面返還された跡を公園化したもの。
(2)「ふるさとの丘」には各都道府県の石が置かれており、そこからは調布飛行場が一望できる。
(3)また、ここには「掩体壕」という、見るのはおろか、聞くのも初めての戦闘機格納庫があるらしい。
(4)その南側には「味の素東京スタジアム」があり、甲州街道沿いには、東京オリンピック時の「マラソン折返し地点記念碑」が建っている。
(5)調布飛行場周辺には武蔵野の森公園内の2基と府中市に2基の掩体壕が残っている。
(6)府中市の白糸台掩体壕が一番見る価値があるらしい。

などで、実際に訪れるのはきょうが初めてである。

 残念なことに、正門から入ったにも拘わらず、園内の案内掲示板が見当たらない。お目当ては「掩体壕」と「ふるさとの丘」にあるという47都道府県別に展示されている石だったが、後者は調布飛行場も見渡せる小高い丘の上で見つけたものの、掩体壕の場所が発見できない。内心半ば諦めつつショートカットして人見街道筋に出ようと園内を歩いていたら、矢印表示に出会い、漸く目的の掩体壕を始めて見ることが出来た。
 掩体壕前には「野川公園サービスセンター」にパンフレットを備え付けてあると記しているので、これからの行き先途中でもあり立ち寄ることにしたが、帰宅後に貰ったパンフレットを見ていたら、我々が見学したのが「掩体壕 大沢2号」で、その外にもう一つ「掩体壕 大沢1号」というのが少し離れた園内南手にあるのを後で知ったことで、これは悔しかった。しかも、大沢1号には、傍にブロンズの「飛燕」のモニュメントもあったというのに・・・

□掩体壕とは

 正しくは「掩体」と言い、軍用機を敵の空襲から守るための格納庫で、昭和19年のサイパン島陥落で悪化した戦況下、本土空襲が激化するや、残り少ない戦闘機を敵機から隠蔽すべく調布飛行場周辺にコンクリート製掩体約30基(有蓋)と3方を土塁で囲い上に竹などを被せただけの無蓋型約30基の合計約60基が短期間に造られた。陸軍や建設会社に加えて植木組合や中学生も動員されている。
 現在は殆ど残っておらず、全国でも有蓋掩体壕が100基程度、都内では板橋区の1基と調布飛行場周辺の4基(三鷹市に2基、府中市に2基)が現存するのみになっている。三鷹市の2基は「都立武蔵野の森公園内」にあり、府中市の2基は、国道20号線の北側、西武多摩川線の東側辺りにあり、「白糸台掩体壕」と呼ばれている。飛行場名は「調布」だが、この辺りは府中市・調布市・三鷹市の市境が複雑に入り組んでいるエリアである。

□府中市指定史跡「白糸台掩体壕」

 太平洋戦争中、日本陸軍が調布飛行場の戦闘機格納庫として建設し、今も当時の様子を伝える府中市の「旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕」について、同市教育委員会は「悲惨な戦争の記憶を伝える貴重な文化財」として市の史跡に指定している。市によると掩体壕の史跡指定は都内で初めて。今後、一般公開を目指して整備を進めているようである。
 「白糸台掩体壕」は鉄筋コンクリート製の半円筒型の構造で、入口の幅と奥行きが約12m、高さは約3.7m。戦時中は戦闘機「飛燕」が納められていたという。市の調査で、壕内部の排水設備などの構造や戦闘機の車輪の跡を確認している。
 市によると、戦時中に掩体壕は調布飛行場の周囲に数多く設けられ、鉄筋コンクリート製の屋根がある有蓋型が30基、土塁などによる無蓋型が約50基造られたという。現存するのはいずれも有蓋型で、府中と三鷹両市に2基ずつある。そのうち「白糸台掩体壕」は保存状態が最も良いとされている。
 同市文化振興課は「戦後60年を経た現在でも当時の姿を残している。戦争の記憶を今に伝える地域の文化財」とし、もろくなっているコンクリート部分の補強をはじめとした保存方法を検討し、一般公開を目指して整備を進めていくという。
 掩体壕の文化財指定や登録は、これまでに旧海軍のものが4件。旧陸軍のものは、2004年2月に三重県鈴鹿市の「旧北伊勢陸軍飛行場掩体」が国登録有形文化財に登録。また、山梨県南アルプス市が「ロタコ(御勅使河原(みだいがわら)飛行場)跡3号掩体壕」を市史跡に指定している。
 数年前までは物置きとして使われていたが、土地は府中市土地開発公社が540uを約1億5千万円で取得し、壕は地下部分を埋め戻して保存しており、今は立入り禁止になっているようだ。
 昭和16年に帝都防衛の要として設置された陸軍調布飛行場の名残りだが、現在の調布飛行場からは1km程離れている。武蔵野の森公園の掩体壕のようにお化粧して保存するのではなく、極力原形に近い形で保存して欲しいものである。同掩体壕の大きさは、高さ3.73m、入口の幅12.34m、奥行12m。
 掩対壕と飛行機は誘導路で結ばれ、飛行機にロープを結びつけて人力で運んだという。

天然理心流道場「撥運館」

 街道筋に戻る。人見街道を挟んで、近藤勇生家跡の向かいに「撥雲館」がある。近藤勇の父宮川久次郎が広い屋敷内に建てた道場で、天然理心流の出稽古が行われていた。太平洋戦争が始まり、調布飛行場建設のため宮川宅は取り壊されたが、道場は門人達の手で東隣の峯岸家に移され、戦後人見街道拡幅工事の際再び現在の地に移築されたという。昭和50年代まで道場として使われていたらしい。「撥」とは取り除くという意味で、暗雲を取り除くという当時の世相に合った意味の命名の由。「撥運館」道場の前には、調布市教育委員会による解説板が建っている。
               
天然理心流道場「撥運館」
豪農であり、かつ篤農家でもあった近藤勇の父 宮川久次郎は、広い自分の屋敷内に寺子屋を開くとともに、幕末時盛んであった武術の一派「天然理心流」の道場を持って、勇とその兄たちをはじめ近在の私邸を詰めて学問や武術を指導していた。
天然理心流は、近藤長裕を初代とする流派で、江戸に道場を持つかたわら多摩地方に広く出稽古を行い、門弟の指導にあたっていた。小技よりも気迫を重んじ、いかなる相手にも動じない極意必勝の実践を大事にする武道であった。二代目近藤周助は、月に二・三回招かれて久次郎の道場に通っていたが、勇の度胸と技量を見込み、嘉永二年(一八四九)近藤家の養子として迎え入れた。時に勇十六歳、後二十八歳で四代目を襲名した。
この道場は、明治九年(一八七六)に近藤家の養子となり、勇の一人娘瓊(たま)と結婚して天然理心流五代目を継いだ近藤勇五郎(勇の長兄音五郎の次男)の道場で、勇五郎は多摩一円の門人三千人を指導したともいわれている。
勇五郎は明治九年に父から分け与えられた屋敷内の納屋を道場とした。この道場が「撥運館」である。(以下略)


近藤神社・近藤勇産湯の井戸・近藤勇生家跡

 「撥運館」のほぼその前に道を隔てて「近藤勇の生家跡」がある。近藤は天保5年(1834)にこの地で宮川久次郎の三男として生まれている。幼名は勝五郎で、嘉永元年(1848)15歳の時、兄弟3人で天然理心流近藤周助の門人になるが、後天然理心流を継ぐため、勇は近藤周助の養子になる。ここには勇の産湯にも使った井戸だけが現在も残されている。
。「近藤勇」の幟がはためく傍らに「近藤勇と新選組ゆかりの地 近藤神社」と題した「調布市観光協会」製の木製解説板があり、「
近藤神社は、徳川将軍家のために、忠誠心を貫いた近藤勇を尊び、昭和初期に東京一円の有志たちによって近藤勇の生家跡に建立された。その後、荒れるにまかせていた社を一時別の場所に移設していたが、昭和五二年に生家跡が市の史跡に指定されたのを受けて、昭和五四年に戻したものである。」と記してある。

 余談だが、この街道における調布市域は150mほどに過ぎない。
 その解説板の左の鳥居奥に「近藤神社」があり、鳥居の左脇には「近藤勇 産湯の井戸」がある。更に、次のような内容の立派な解説板が立っている。
                 
市史跡 近藤勇 生家跡
                            指定 昭和五十二年四月二十五日
この地は新選組局長近藤勇の生家跡である。近藤勇は、天保五年(一八三四)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。十五歳の時天然理心流近藤周助に入門。翌年理心流の目録を得て周助の養子となり、近藤姓を名乗った。
当時、宮川家の屋敷は面積約七千平方メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋等があり、周はケヤキ、カシその他の大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和十八年に家がとりこわされるまで使用していた井戸を残すのみである。
                           平成十二年十二月一日再建
                                        調布市教育委員会


 更にその横にも、「新選組局長 近藤勇」と題する詳細な解説板(H.16.3.26付 調布市教育委員会)があり、生家宮川家のこと、天然理心流入門並びに養子のこと、板橋で死去のこと等、宮川家復元図と共に詳述されていた。
 近藤神社のすぐ先が「野川公園入口」で、左手に公園があり、先述の通り園内にある「野川公園サービスセンター」に立ち寄り、掩体壕関連ほか、各種資料をゲットする。

龍源寺

 その少し先の左手に天台宗の「龍源寺」がある。入口に近藤勇の胸像がある。人見街道餐歩野際には入らなかった寺域内に入り、本堂の左から裏に回るとすぐ右に近藤勇の墓所がある。近藤局長率いる新選組は鳥羽伏見の戦いで敗れた後、甲陽鎮撫隊を率いて勝沼で官軍と戦うがここでも大敗し、ついに流山で捕らえられて板橋で処刑され、首は京都三条河原で梟首された。後遺髪を土方歳三が持ち帰り、会津天寧寺に埋葬し、ここにも墓石が立てられた。遺体は遺族の手が密かに引き取られ、この地に埋葬された。

 新選組局長の近藤勇(1834〜68年)は元宮川勝五郎と言い、多摩郡上石原村(現・調布市野水)出身である。15歳で天然理心流の試衛館に入門し、近藤周助に認められて先ず周助の実家・島崎家に養子入り(島崎勝太と称する)、後に近藤家に養子入って近藤勇と名乗っている。
 慶応4年(1868)4月25日、近藤勇は板橋宿にて斬殺され、首は板橋で晒されたのち京都三条河原に送られて再び晒された。近藤斬殺のとき,近藤勇の養子である近藤勇五郎は、偶々養父の処刑を目撃し、首のない遺骸を龍源寺まで運んで埋葬したと伝えられている。
 戒名は貫天院殿純義誠忠大居士。近藤勇の墓は、龍源寺以外にも板橋など数ヶ所存在している。
この龍源寺には、近藤勇の胸像や天然理心流の碑などが建てられている。天然理心流は近藤勇の子孫が継承し、現在でも多摩地区で指導しているらしい。

     <墓の前に建つ解説板>
               東京都指定文化財  近藤勇の墓
    種   別
    指定年月日 昭和11年(1936)3月4日
    所 在 地  三鷹市大沢6−3−11
 天保5年(1834)武州多摩郡上石原村の宮川久次郎の三男として生まれ、15歳で天然理心流近藤周助に入門、近藤家の養子となって28歳で天然理心流四代目を襲名した。
 文久3年(1863)土方歳三らと京都に上り、慶応3年(1867)大政奉還までの4年間、新選組として活躍した。
 京都、鳥羽伏見の戦いで敗れた後、甲陽鎮撫隊を組織し山梨県勝沼で官軍を迎え撃つが、大敗して千葉県流山で投降する。
 慶応4年(明治元年)4月25日、板橋宿で処刑された。享年35歳。
 法名は貫天院殿純義誠忠大居士。
                    平成5年(1993)10月31日
                                        三鷹市教育委員会


大沢水車小屋・国分寺崖線

 龍源寺の先から右の脇道(旧道)に入り、野川の右岸沿いの道の一本南側の「水車通り」へと右折して暫く行く。標識に従い左手に入り込んだ所に大沢の水車農家「峯岸家」がある。東京都指定有形民俗文化財で、茅葺の母屋は文化10年(1813)頃の建築。水車と共に展示されている。

 ボランティアのガイドが数人おられ、こちら側の希望時間に合わせて説明してくれる。見学者も結構多い。水車の回転運動を、上下運動に変えたり、エネルギーを次々と有効活用したり、摩滅による損耗を部分取り替えで済ませる工夫など、先人の知恵が凝縮されていて大変面白い。

 ちょうど、先週日曜日に記念に水車を廻しており、新聞にも掲載されていた。
(2009年3月22日 読売新聞)
 都の有形民俗文化財に指定されている三鷹市大沢6の水車小屋で、水路が封鎖されて以来、止まったままになっていた水車が21日、モーターの力を借りて約40年ぶりに動いた。水車小屋が建てられてから200周年を記念した市のイベントで、1日限りの復活だが、約100人の来場者が、力強く回る様子を見学した。
 水車小屋は1808年に作られ、水輪の回転力を利用してきねやひき臼を動かし、精米や製粉を行っていたが、1968年に護岸工事で水路が封鎖されて以来、動いていなかった。
 この日は、モーターで直径4・6メートルの水輪を回し、きね1本とひき臼1台を動かした。乾いた音を響かせながら動く水車に、来場者は「思ったより速い」などと感心した様子だった。
 市では来年度、ポンプを使って水路に水を流す設備を設置し、往年の姿を再現する。


 また、木板墨字書きの下記解説板も建っている。

   
          東京都指定有形民俗文化財 武蔵野(野川流域)の水車経営農家
                                   所在地 三鷹市大沢六丁目十番十五号
                                   指 定 平成十年三月十三日
 峯岸家は江戸時代の文化十四年(1817)以来、五代にわたって野川流域で水車経営に携わってきた農家である。
 現在、同家の屋敷地には文化十年(1813)代頃に建てられた母屋と、母屋に接続するカッテ、明治九年(1876)建築の土蔵、土蔵に付属する物置、昭和四十年(1965)から始まった野川の河川改修工事後に建てられた覆屋(水車小屋)などがある。そして覆屋の中には大正八年(1919)に改造され、今でも使用している水車装置が設けられているが、敷地内には、このほか水車用の用水路跡や「さぶた」と呼ばれる水量を調節する仕切り板と排水溝跡、かつて使われていた通水橋の石造欄干なども現存している。また、屋敷地には三鷹市の保存樹木に指定されているケヤキ(八本)やシラカシ(二本)の古木もみられる。
 武蔵野の水車は、江戸期以降開設が急増し、明治末期から大正期にかけて産業技術近代化の中で最盛期を迎え、昭和に入ると急激に減少している。このような中にあって峯岸家の水車は文化五年頃に創設され、その後数次の改造を加えながら今日まで伝存されてきたもので、搗き臼や挽き台など多機能性を持つ両袖型の大型水車で規模・型式ともに武蔵野を代表する営業用水車である。
 現在、武蔵野地域では昔のような水車のある風景はまったく失われている。しかし、当該地にはそれら水車とともに、水車経営を行ってきた峯岸家の母屋をはじめ土蔵・カッテ・物置などの建物や水車用用水路跡、「さぶた」も現存しており、かつて武蔵野で営業を行っていた水車農家の旧態を良く留め貴重な民俗資料を有する場所となっている。
                         平成十一年三月三十一日
                                          東京都教育委員会


出山遺跡第一号住居跡・出山横穴墓群第8号墓・湿性花園・ほたるの里

 野川の右岸に出て街道旧道に戻る。「相曾浦橋」で「野川」を渡り、今度は左岸沿いの道から「湿性花園入口」とか「ほたるの里」の案内板に従って、河畔の道を少し離れ、湿地に木橋が左に右にと曲がりながら続いている「湿性花園」の中を通る。両脇には水生植物や水辺の昆虫たちの栖になっており、夏はこの辺りが「ほたるの里」に変わる。木道の先には、丸太で保護されたハケの土の坂道を登っていく「自然観察路」の入口があり、元気よく登っていくと、突き当たりに「出山横穴墓群第8号墓」がある。
 「相曽浦橋」下流左岸の「ハケ」から発見されている七つの横穴墓群(坂上・出山・野水橋・天文台構内・原・羽沢台・御塔坂)のうち、保存状態がも良いとされる「出山横穴墓群第8号墓」で、竹林の中にコンクリートで構築された見学施設の中でガラス越しに無料公開されており、この木の道はそちらへの専用道になっている。ただ、下の入口から丸木で保護された、落ち葉たっぷりの土道の階段を左右に折れながら登っていく必要があり、昼なお暗き女性のひとり歩きには如何なものかという寂しい登り道でもある。
 その横穴墓群だが、自動照明装置、非常警報ボタン、防犯カメラ、結露防止のための二重ガラスとヒーター、音声解説ボタン・三鷹市教育委員会作成の解説パンフレットや出山遺跡出土注口土器の写真付き絵はがきのほか、もちろん肝心の横穴の奥は奥行き約6m位で四畳半大の広さの場所に、照明に照らされた人骨(8歳の推定男児、40代と30代の男、20代の女)の展示用人骨レプリカが置かれ、頭蓋骨や大腿骨・上腕骨と覚しき人骨様のものが見えた。横穴墓は古代の墓の一形態で古墳時代後半(5世紀終わり頃)から6〜7世紀代まで盛んに作られたという。平成6(1994)年3月に東京都の史跡文化財に指定されている。

 横穴墓群を見学し終わって、坂道途中から更に上への坂道を登り、「出山遺跡第一号住居跡」を見る。と言っても、解説板があるだけで、現実には何も見えず、ここにそういうものがあると言うに過ぎないのだが・・・
「出山遺跡第一号住居跡」については、昭和53(1978)年に発掘調査された三鷹市域では珍しい縄文時代後期(今から約3500年前)の竪穴住居群で、斜面地で造られていたことから、約半分は後世に土が流出し、全体の形は不明らしい。おそらく直径4〜5mほどの円形だろうと推定されているようだ。出土品は注口土器をはじめとする縄文土器、中央部には火熱の跡を残す河原石や石棒・磨石などの石器類のほかスギの炭化材がある。住居跡は、その標識の後方の土中に保存されているという。

大沢八幡神社

 街道に戻り、坂を登って新道に合流した先で「東八道路」を越えると左手に「大沢八幡神社」がある。境内は広いが古木などがほとんど無く、閑散とした寂しい雰囲気である。
祭神は応神天皇で、慶長年間(1596〜1614)創建と伝えられる。当初、現・古八幡の地にあり、京都・岩清水八幡宮の分祀で正八幡宮と称していたが、元和3年(1617)に長久寺境内に移転した。大正6年(1917)に天文台の建設のため現在地に移転し、大正15年に建立された移転記念碑が鳥居を入ったすぐ左手にある。
 稲荷と天満宮が合祀されている境内社は、元大沢山龍源寺の鎮守として境内にあったのが昭和2年に移転。更に中島飛行機製作所敷地(現富士重工)内になることから移転させられ、最終の地として昭和47年に移り、この時本殿の改築も行われた。これらを記した石碑2基が境内社の後方左手にある。
本殿に向かって右手に、太鼓ほかを格納した建物があったが、三鷹囃子関連倉庫と思われる。

◇三鷹囃子

 三鷹囃子は、大沢に伝わる囃子で、戦前まであった「マンサクシ」(万作師)と呼ばれる芸能集団により昭和6〜7年(1931〜32)頃調布の上石原から伝えられ、竹内隆三、宮崎義雄両氏の指揮によって独特の踊りが創られたという。その後、一時途絶えたが飛田給から大沢の青年に引き継がれた。昭和26年(1951)、大沢囃子を三鷹囃子と変え、獅子舞の郷土芸能として平成5年(1993)に市の無形文化財に指定されている。
 三鷹囃子の出演者は、鳴り物に、大太鼓、小太鼓、鼓、笛、鉦、拍子木、踊りに、オカメ、ヒョットコ、獅子、キツネ等で構成されている。(三鷹市教育委員会「てくてく・みたか(市内歴史散歩)」より)

三鷹天命反転住宅

 その先、信号二つ目の「大沢」交差点手前の細道を右折して「東八道路」に出、歩道橋で反対側歩道に渡ると、「天文台北」信号寄りにカラフルな「三鷹天命反転住宅」がある。
 世界で最初に完成した「死なないための住宅」というコンセプトで、全9戸の集合住宅が、14色のカラフルな外装と形でアピールしている。
 ここは、武蔵野日赤へ行く時に何度も前を車で通ったことのある所だが、全く気づかなかったスポットである。

長久寺の鷹場標石(1)

 「天文台北」信号を南に入った右手に「長久寺」があり、その境内に「鷹場標石」がある。
 「長久寺」は、寺伝によれば、創建は天文年間(1532〜54)の兵火で罹災したのを、慶長3年(1598)大沢に住した箕輪將監を開基とし、高野山の僧長裕が開いたと言われている。創建当初は三間四面の宝形屋根の祠のようなものだったが、その後、正保3年(1647)に再建されたという。享保年間(1716〜35)に第四世で中興開山とされる鑁體が本堂を建立したとされている。

 ところで、多摩・武蔵野地区は、江戸時代には幕府の鷹場だった。「お鷹の道」や「三鷹」などにその名残がある。鷹狩りは単に「狩り」のみならず、「武術(馬術・弓術など)鍛錬」、「領地査察」等いろいろな意味があった。
 ここ三鷹市の長久寺には、「従是東西北尾張殿鷹場」と刻まれた、尾張徳川家の鷹場を示す石柱が保存されている。四方の内三方が尾張領の鷹場だという所に、「武蔵野」の広大さが感じられる。
 江戸時代、三鷹は上連雀、野崎地区、大沢地内を境に、東は幕府と尾張徳川家の鷹場が隣り合ってあった。
 この尾張徳川家の鷹場を示す標石が、市内に4基残っており、大沢地区箕輪家とかにある標石は、「鷹場」の文字部分だけだそうで、他の3基は、いずれも地高約1mの細長い山角形角柱で、明和7(1770)年頃、建てられたものらしい。現在、ここ長久寺境内、その先の吉野家門前、更に先の三鷹市役所裏の3ヶ所に保存されているので、順次確認していくこととする。
               
三鷹市指定文化財  鷹場標石
   種別   史跡
   年代   明和7年(1770)頃
   指定年月 昭和53年(1978)5月8日
   所在地  三鷹市大沢2−2−14
江戸時代、江戸周辺の村々はすべて幕府の鷹場として指定されており、三鷹の北西部井口、大沢各新田は尾張徳川家の鷹場として定められた。尾張家の鷹場は北多摩から埼玉南部までの広大な地域におよんだ。鷹場の区域を示す石杭が明和7年(1770)頃に建てられた。大沢新田、野崎新田、井口新田など現三鷹市内には7基建てられた記録があり、その中の3基が現存している。これはそのひとつであるが、建てられたもとの場所は不明である。
                         平成3年(1991)10月31日
                                          三鷹市教育委員会


お屋敷街

 人見街道に戻り、西に進む。左右には広い敷地に豪壮な構えのお屋敷が多く、中でも「吉野」姓が目立つ。

吉野家跡

 街道北側に「吉野家跡」の解説板が建っている。それによると、
               
吉野家(名主の家)跡地
 吉野家は江戸時代後期に建てられた農家である。このあたりは、江戸時代、武蔵国多摩郡野崎村であり、幕府及び尾張徳川家の鷹場になっていた。
 江戸時代後期の野崎村は周辺の村と同様に水利がよくなかったことから、水田がなく、畑で大麦・小麦・粟・稗などが作られていた。その後、明治時代以降になると多くの農家で養蚕が盛んに行われるようになった。
 吉野家は名主(村の代表)を務めており、「整形六間取り」という江戸時代の農家としては最大規模の間取りをとっていたことが大きな特徴である。このほか、宅地内には土蔵二棟・納屋・門などの附属屋があり、砂川用水も引き込まれていたという。
 吉野家は、昭和38(1963)年に現在の江戸東京たてもの園に移築され公開している。
  建設年:江戸時代後期
  構造:木造平屋建
  建築面積:199.7u
  旧所有者:吉野悦時(よしとき)氏 
                                        三鷹市教育委員会生涯学習課
                                             電話 0422-45-1151

という解説文や、家屋外観写真・屋内写真・平面間取図などが示されていた。
 『江戸博覧強記』(小学館)にも間取と共に、尾張藩主とその一行が鷹狩の折、休泊に使った旨記してある。
 なお、ここに鷹場標石(2)があるはずだが、あるいは他の吉野家かも知れないが、街道筋には大きなお屋敷が殆ど「吉野」の標札になっており、地名が吉野になっていないのが不思議に思える程の吉野姓のお屋敷通りになっていて、所在の確認の方法がない。その他の豪邸では同行の清水氏と同姓の「清水」邸が2つ目についただけである。
 結局、この後に訪ねた「野崎八幡神社」(後出)近くに建てられていた「三鷹市 歴史・文化・自然のご案内」と題した案内地図板で所在が確認できたが、この元名主の吉野家跡地の北方に入り込んだ地点らしく、どういうものかが判ったこともあり、元名主家の敷地内だったのかどうかも不明の侭、次に向かうことにした。

品川用水流水路跡

 その先、「野崎二丁目」信号と「野崎」信号の中程左手に「砂川用水流路跡」がある。コンクリート板で覆われているので、ここにそういうものがあることを事前に知っていて注目しないと気付かないが、道路際の空き地と北側の私有地の間にコンクリート板を並べた東西に細長い道と化していた。

野崎八幡神社

 その先の「野崎」交差点で、ちょっと右折・寄り道し、街道の南側を並行して走っている東八道路手前の「野崎八幡」に参拝。元禄2(1689)年創建で応神天皇(誉田別命)を祀る神社で、現社殿は大正15年の再建。野崎村創設の6年前、この社地は開拓者が調布・深大寺の末寺「池上院」に寄進され、同院が八幡社を勧請した旨の解説板が前回訪ねた時はあったのに、その後撤去されたのか見当たらなかった。
 社の向きが当初の西向きから北向に変ったそうで、境内には眼病に霊験あらたかと言われる薬師如来を祀った薬師堂が右奥にある。毎年10月8日薬師の縁日の夜には、地元の人達によって「団子まき」の供養が行われ、賑わっている。
 また、北側の鳥居左脇には損傷度が大きいが数個の石造物が並び、中には、享保12年(1727)10月造立の笠付庚申塔がある。形は舟型で、中央に青面金剛像、右手に戟と矢、左手には宝輪、弓、日、月を浮き彫りにした江戸時代特有の塔である。

鷹場標石(3)

 街道に戻って更に暫く西に向かい、「市役所前」信号の先右手にある「三鷹市役所」の裏手に回ると、ここにも「鷹場標石」があり、解説板が建っている。
                 
三鷹市指定文化財  鷹場標石
  種別   史跡
  年代   明和7年(1770)頃
  指定年月 昭和53年(1978)5月8日
  所在地  三鷹市野崎1−1−1
 江戸時代、江戸周辺の村々はすべて幕府の鷹場として指定されており、三鷹の北西部井口、大沢各新田は尾張徳川家の鷹場として定められた。尾張家の鷹場は北多摩から埼玉南部までの広大な地域におよんでいた。
 鷹場の区域を示す石杭が明和7年(1770)頃に建てられた。大沢新田、野崎新田、井口新田など現三鷹市内には7基建てられた記録があり、その中の3基が現存している。これはそのひとつであるが、建てられたもとの場所は不明である。なお、この標石は、長久寺の所有のもので、同寺の好意により市が借用し、ここに設置したものである。
                       平成3年(1991)10月31日
                                          三鷹市教育委員会


失われた旧道経由で、また古代東海道の直進路へ

 三鷹市役所前を過ぎると、道は少しだが右カーブしているが、古代東海道は直進路が佐野先の「JA前」交差点の北側にある「いなげや」前に続いており、わずかな区画だが古道が失われている。
 従って、右手の「砂場」という蕎麦屋前を通り過ぎた先の左手にある「食堂彩」の先の角を左折し、一旦人見街道から離れ、直ぐ先を右折して東進すると、先述の「いなげや」前へと通じる。

 「吉祥寺通」を越えたら、次の変速四叉路で左斜め前方に進行方向を変え、一路東北方向を目指していく。

庚申塔

 連尺通が左に分岐する手前の火の見櫓下には二基の「庚申塔」が四本柱の簡単な堂宇下にある。前面は青面金剛姿で笠付で角柱型の塔である。右脇には、自然石の手洗鉢があり「洗心」と刻まれている。人見街道筋には、笠付きの角形庚申塔が数多く見られる。左横には、石碑に「
交通安全祈願のため神木大欅樹齢参百年目通り二.八五米を伐採し堂宇を再建す  昭和四十五年一月吉祥日」とある。

三木露風の墓

その先右手に「大盛寺」の墓地があり、地元出身の「三木露風の墓」があるらしいが、探す根気も関心もなかったので前回は立ち寄らなかったが、村谷氏が以前立ち寄り済みで場所も判るとのことだったので右手に入り案内して貰う。「三木露風之墓」の傍に解説板と「顕彰」碑が建っている。
               
三鷹市指定文化財
                    三 木 露 風 墓
     種   別  史跡
     指定年月日  昭和55年(1980)5月20日
     所 在 地  三鷹市牟礼5−14
 本名、操。播州龍野藩(現・兵庫県龍野市)の旧士族として生まれる。年少のころより詩文に優れ、処女詩歌集「夏姫」を自費出版した明治38(1905)年16歳で上京する。明治42(1909年「廃園」によって詩壇の地位を得る。北原白秋の「邪宗門」と並び称され、“白露時代”と呼ばれる一時期を画した。童謡「赤とんぼ」は、大正期童謡運動のさなか大正10(1921)年頃、北海道函館で作詩され、昭和2(1927)年山田耕筰によって曲がつけられた。
 昭和3(1928)年より三鷹市牟礼に移り住み、詩作と井の頭公園への散策にふけった。昭和39(1964)年12月29日下連雀で交通事故により死去。
                         平成4(1992)年7月31日
                                         三鷹市教育委員会


               
顕  彰
     三木露風氏  明治22年(1889)兵庫県竜野市に生る
明治26年 一人で届を出して幼稚園に入り、28年小学校入学以来、中学、早、慶大在学中より詩人として活躍、赤とんぼは36年の作である。大正4年、函館トラピスト修道院に逗留し、宗教と詩の勉強、昭和2年エルサレムより勲章、ヴァチカンより勲四等受章、同3年に三鷹町牟礼に新築永住、19年日本無線入社 青年学校教師となる。38年 紫綬褒章、39年3月三鷹市立高山小学校々歌作詩、39年交通事故が因で12月29日永眠された。
昭和40年 生前の功績により勲四等瑞宝章を追贈される。


道供養之塔と牟礼地蔵尊

 牟礼二丁目交差点の左手前角に「道供養之塔」と「牟礼地蔵尊」が並んで建っている。道供養というのは、毎日大勢の人たちに踏みしめられる道を供養しょうという、凡人には頭の下がる奉仕活動だが、地蔵尊には「交通安全」の文字も堂柱に記されており、道中安全祈願とか、行き倒れた犠牲者慰霊の意味もあるのだろう。

牟礼の里公園

 人見街道とは「牟礼2」交差点でお別れし、三鷹台駅方面へ直進していくと、その先すぐ左手に「牟礼の里公園」がある。手前の自販機で飲み物を買い、休憩を兼ねて立ち寄る。入口近辺は庭木戸で囲まれた和風空間で、中は栗林・竹林等を抜け傾斜面の上まで行くと「富士見台」があり、晴れて空気の澄んだ日には富士山も臨めそうだ。斜面中ほどには将棋盤の彫刻があり、トイレもあったので用を足し、しばし休憩するが、ベンチは殆ど人が座っており、市民などに愛されているようだ。

牟礼神明神社

 少し先の右手にある消防署の手前を右に入った左側に、参道があるのだが、ついうっかり通り過ぎてしまい、何が何でも立ち寄る程の所でもないかと、その侭先に向かった。
 予め予習していたことを記すと、祭神は天照皇大神と倉稲魂命(うかのみたまのみこと)である。旧格式は村社、別当寺として真福寺がある。
 天文6年(1537)扇谷上杉氏の武将、難波田弾正が隠る深大寺城に対し、小田原北条氏の家臣北条(高橋)綱種が砦を築き、芝の飯倉神明宮を勧請したのに始まる。高橋氏は江戸期以降当地に土着し、当社が牟礼村の鎮守となった。
三鷹の旧村は、他の多摩地区と同様殆ど江戸時代の新田開発によって、その体裁が整つたという。勝淵神社・牟礼神明神社・古八幡神社等、創建がそれ以前に遡るものもあるが、本格的に祀られたのは江戸時代の新田開発に伴うものになるという。

玉川上水・宮下橋〜神田川・丸山橋

 その先は、「宮下橋」で「玉川上水」を渡り、「三鷹台駅前通」を京王井の頭線三鷹台駅方面に進む。踏切先には井の頭公園の池に端を発する「神田川」を「丸山橋」で越えていく。いつぞや村谷氏達と下流に向かって河畔の道を散策したことを思い出す。
 立教女学院などの所では旧道が少しゆがめられているが、クランク状に少し曲がった道を左・右折して「井の頭通」を越えていく。

松庵稲荷神社

 「五日市街道」と交叉する「松庵小前」交差点で右に200m程行った左手の「松庵稲荷神社」に寄り道する。
               
西高井戸松庵  稲荷神社
 この神社は旧松庵村の鎮守で祭神は受持命(うけもちのみこと)です。
 松庵村は万治年間(1658〜1660)に松庵という医者が開いたと伝えられ、安養寺(武蔵野市)の供養塔にある萩野松庵がその人ともいわれています。
 境内入口には元禄三年(1690)、元禄六年(1693)銘の庚申塔があり、元禄三年のものには「武州野方領松庵新田」と刻まれています。このことから元禄三年以前にはすでに新田開発の村として開かれていたものと考えられます。
 この神社は、明治維新の際に廃寺となった円光寺(天台宗・江戸八丁堀湊町普門院末)の境内にあったもので「新編武蔵風土記稿」の松庵稲荷の項には
  「上屋二間ニ二間半内ニ小祠ヲ置社前ニ鳥居ヲ立村内ノ鎮守ニシテ例祭ハ其日ヲ定メズ」
と記されています。
 昭和九年に、隣村中高井戸村の鎮守稲荷神社を合祀以後、西高井戸松庵稲荷神社と称し、同十年には社殿を改築し、今日に至っています。
社前の五日市街道は江戸時代には「青梅街道脇道」とも呼ばれ、炭をはじめとする生活物資の輸送に大きな役割をはたしてきました。
なお、神社の北側裏手に円光寺歴住の墓地があり、元禄九年をはじめとする没年が記されているのが見られます。
 祭日は九月十五日です。
                         昭和五十七年二月十日
                                        杉並区教育委員会

 なお、社前に掲示の新聞?様の切り抜きコピーには、医師の「姓」が「萩野」ではなく「荻野」となっていたが、コピーの方も杉並区の製作になっていて???である。
 なお、社名の呼び方はいろいろあるらしく、入口の石柱には「稲荷神社」、バス停は「松庵稲荷前」、信号は「松庵稲荷神社前」、そして電話帳は「西高井戸松庵稲荷神社」だとか。
 社務所と歩道の間の空地は近年まで置かれていた高井戸警察署松庵派出所の跡だとか。

ゴール

 この後は、先ほどの「松庵前」信号に戻って中央線の線路を越えていくのが道順だが、特にその先は見るべきものが無いので、ショートカットして「西荻窪駅」南口に達し、本日の古代東海道歩きを終了とした。後は、南口にヤキトリ横丁があるというので探し、開店時間前なので別の店でメチャ旨の絶品エイヒレほかを肴にいつも通りの軽い打ち上げを行い解散した。

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