古代東海道餐歩
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 2010.04.25(日) 古代東海道 #12 布佐 ~ 龍ヶ崎市上大徳

 【本日の行程】 街道距離13km

 布佐駅→栄橋→徳満寺(布川城本丸跡)→来見寺→布川町道路元標→布川神社→柳田國男記念公苑→薬師堂→中田切地区(佐竹街道一里塚・薬師堂・ふるけえどう)→蛟蝄(コウモウ)神社門の宮→蛟蝄神社奥の宮→大房→龍ヶ崎市上大徳→関東鉄道竜ヶ崎駅

スタート

 天気の関係などで3ヵ月ぶりとなるきょう、前回(2010.01.24)の終着点であるJR成田線布佐駅に、9:32に到着。成田線が30分毎の運転間隔なので、数回の乗継ぎに余裕のある便を利用したが、自宅最寄り駅からだと約2時間の行程だ。乗換駅の我孫子で常連の清水氏と逢い、布佐駅で先着の村谷氏とも挨拶を交わし、9:35に早速スタートを開始する。

国境・県境

 駅から北東に直進し、国道366号に出て信号を渡り、左折すぐの地元民しか通らない路地の細道へと右折して利根川縁まで行き、階段を登って利根川堤防上を通る「利根水郷ライン」に出て左折し、9:46に「栄橋南詰」信号を右折すると、利根川を渡る「栄橋」だ。
 古代東海道歩きもここで市川関所以来の下総国・千葉県を終え、愈々古代東海道のゴールである石岡の府中国府へと常陸国・茨城県内に入って行く。

 最近、「鮮魚(ナマ)街道」や「木下街道」歩きの事前研究過程で知ったことだが、上は徳川将軍家から江戸100万市民たちへの農・海産物(食糧)供給のため、関東周辺の米や江戸湾・東海沖のみでの漁獲では足りず、遠くは奥州仙台藩北部や盛岡藩の米が北上川を通って石巻を経て、海路千石船で銚子沖に運ばれ、あるいは親潮と黒潮の交錯する銚子沖の豊富な漁獲物を、銚子沖からこの利根川を遡上し、ここ布佐や木下(キオロシ)から荷駄に積み替えて鮮魚(ナマ)街道や木下(キオロシ)街道を経て松戸の納屋河岸や本行徳に陸送し、あるいはまた、利根川を更に遡上して関宿回りで江戸川に入り、納屋河岸や本行徳の河岸を経て開削された新川と小名木川を経由する水運で江戸日本橋へと運んだのである。

府川→布川

 「布佐」も現在は我孫子市になったが、その布佐や利根川を挟んだ「布川」も元は下総国の相馬郡だった。それが、明治時代になって、利根川を境として南相馬郡(千葉県)と北相馬郡(茨城県)に分かれ、別の県になった経緯がある。なお、南相馬郡は、後に東葛飾郡に編入されている。

 「布川」は往時は「府川」と称していたが、徳川家康が関ヶ原の戦い戦勝御礼のため鹿島神宮参拝の途次に当地に立ち寄った際、府川の台上から四方を眺めると、織ったばかりの布を川の中で晒している娘たちの姿があり、そこで「川に布を晒す所だから、今後は、府川を布川と改めてはどうか」との話になり、以後「布川」に改められたと伝えられている。

 往時の「布川」は、利根川に高瀬舟が年間1,000艘も行き交う水上交通の要衝で、対岸の「木下(キオロシ)」と共に大変賑わった。利根川は、西廻り航路・江戸大阪航路と並ぶ近世3大航路の一つで、高瀬舟は不可欠の存在だった。急流かつ川底の浅い日本河川の特徴に合わせ、船底を扁平にし吃水(喫水)を浅くした平底・縦長設計の船で、「米5、6百俵を積むもの常なり・・・」と利根川図志にも記されているそうだ。

 その「栄橋」を渡ったすぐ左手に小高い山が見えるが、豊島氏の「府川城本丸跡」で、現在は東側が「琴平神社」、隣接してその西側が「徳満寺」になっているので立ち寄るべく、「栄橋」信号を渡った先右手の階段で下の旧道に降りて行く。

徳満寺・・・茨城県北相馬郡利根町布川3004

 琴平神社の東隣に、元亀年中(1570~73)に祐誠上人が開山したという真言宗豊山派の寺院「海珠山多聞院徳満寺」がある。当初は今の門前に建てられたが、当地を治めていた豊島氏が慶長の乱(1600)で滅ぶと、その布川城跡(現在の場所)に寺を移した。

 徳満寺へは以下の3ヵ所から入れる。

(1.) 栄橋を渡ってまっすぐの表通りから左にある正門入口。ここには「布川城跡」の石碑が建っている。

(2.) 山門から入る。栄橋の陸橋部分の下の道から13+58段の石段を登った上にある。
 我々はこのルートを辿ったが、その石段の途中左手で大発見する。それは、「六阿弥陀第壱番」の石塔で、実は前回2010.01.24の歩きで最後に立ち寄った「延命寺」(我孫子市布佐2318)の門前で見つけた「六阿弥陀第二番」の石塔との関連だった。前回帰宅後にいろいろ調べてみたものの「六阿弥陀詣の意味」「江戸六阿弥陀」「京洛六阿弥陀」「鎌倉六阿弥陀」以外には判らなかったもので、今般「総州(注)六阿弥陀詣」というのがあるということが判り、胸がすっきりしたのである。
(注) 布川地区は、現在でこそ茨城県下だが、往時は下総国だったことは前述の通りである。

 とにかく、ここ徳満寺が第一番で、前回立ち寄りの布佐の延命寺が第二番、そしてこの後立ち寄る同じ布川の「不動堂」が第六番、「来見寺」が納経所という位置付けになっていることが判ったのである。

(3.) もう一つのルートは裏道からの入口で、西隣の「琴平神社」の脇道から行ける。

<本尊>

 徳満寺の本尊「延命地蔵尊(木像地蔵菩薩主像)」は、正門を入った正面突き当たり、山門からなら入って左手にある「地蔵堂」に安置されており、別名「子育て地蔵」とも呼ばれる丈2.2m程の運慶の一子湛慶作の立像で、第7世住職が元禄時代(1688~1703)に京都の六派羅密寺から勧請したものである。毎年11月24日から次の日曜日まで開帳され、土・日曜日には「地蔵市」が開かれる由。

 昔、ある夫婦が祝言後13年にして漸く一子を得たが、三歳で大病を患った。そこでこの地蔵堂に日参・祈願した処、7日目に「治してあげよう」との御仏の声が聞こえ、子供の病が治ったと伝えられ、以来「子育て地蔵さま」として厚く信仰されているという。

<金銅板両界曼荼羅>

 また徳満寺には、寺宝として「金銅板両界曼荼羅」という、利根町唯一の国指定重要文化財がある(ことになっている)。これは、建久5年(1194)6月、筑後国の清楽寺の僧慶弁が藤原延次に作らせたもので、徳川家康が寄進したものと言い伝えられてる。

 この現物は上野の東京国立博物館に所蔵されているそうだが、これはセキュリティ上の理由だとかで、複製が利根町歴史民俗資料館(街道筋の東方2.8km)にあるらしいが、立ち寄りには遠すぎる。

<水子(間引)絵馬>

 地蔵堂の右隣、山門から入って正面にある「客殿」の廊下には、かの民俗学者柳田國男が思春期にこれを見て衝撃を受けたという利根町指定文化財の「水子(間引)絵馬」がある。柳田國男は、13歳(明治20年)から2年余の多感な少年期を長兄のいた利根町布川で過ごし、ここでの様々な体験と、この「間引き絵馬」、そして「利根川図志」に触れたことが、後に民俗学を志す原点になったと言われている。

<日本最古の十九夜塔・時念仏塔>

 「弘法大師1100年御遠忌供養塔」の左隣に2基の塔があり、後ろに両者の解説板が建てられている。塔は右が十九夜塔、左が時念仏塔である。

               日
本最古の十九夜塔
 日暦十九日の夜、寺や当番の家に集まって、如意輪観音の前で般若心経や和讃を唱える行事(十九夜講)がありました。特に茨城や栃木などで盛んに行われていました。
 当寺の十九夜塔は、万治元年(1658年)のもので、今見つかっている中では日本最古の石塔です。

 
(注)和讃というのは、仏経の経典・教義などを日本語で記し讃えた讃歌のこと。

               
時念仏塔
 時念仏は斎(とき)念仏とも書きます。斎とは仏事における食事を指します。時念仏は食事を伴った念仏講です。
 時念仏講の時には、身口意の三業(さんごう)を慎み、精進潔斎して施しをする日です。
 当寺の時念仏講が開始したのは、寛永元年(1624年)十月二十三日で、この石塔は元禄十四年(1701年)に建てられました。


<四郡大師>

 徳満寺境内の中にある小さな「大師堂(四郡大師第88番)」だが、「四郡大師」というのは全国各地にあるらしいとは初めて知ったことで、簡単に言えば四国八十八ヵ所の地方エリア版と言えようか。

 約200年前の文化4年~5年頃(1807~1808)、現・八千代市吉橋にある愛宕山地蔵院貞福寺の「存秀」和尚が、真言宗寺院隆昌の目的で「四郡大師」(別称:下総大師)を提唱し開創したと伝えられている。

 「四郡」というのは、現在の行政区画でいうと八千代・船橋・習志野・鎌ヶ谷・市川・松戸・柏・白井・及び沼南の8市1町という広大なエリアである。この存秀和尚の檀家獲得構想は多大な成果を挙げ、四郡大師講は農民一揆を懸念させる程の爆発的拡がりを遂げ、信者数は一気に増大したという。

 この存秀和尚が「四郡」に開創した88ヵ札所は、市川、松戸地区や66番以降の札所が分離し、市川グループの「葛飾新四国」、66番以降を中心としたグループが「東葛印旛組合大師」として独立したが、松戸地区については記録が不明確でよく判らないらしい。

 これらの分離原因は、諸説あるようだが、地域が広大で信徒数が異常に増えたため、百姓一揆を恐れた幕府の徒党禁止令によって規制されたというのが定説になっているらしい。いずれにしても、この分離による欠番札所を、後日数合わせ的に補填したため不規則になったと言われているようだ。

 この他、境内には

* ずらりと並んだ石塔・・・その中に明暦三年(1657)銘の古い「二十三夜塔」がある。
* 大正3年建立の大きな宝篋印(陀羅尼)塔
* 種々の名木・古木・・・高さ28m・推定400年のケヤキ群、高さ31mのシラカシ、高さ26m・推定400年のタブノキ、雷嫌いの家康のために日光東照宮にも5代将軍綱吉が植え雷除けに一役買っているという15m余のキササゲ、高さ16.5mの木斛(モッコク)、18.5mの無患子(ムクロジ)などがある。
* 「茨城百景・大利根の展望」碑・・・解説板によれば、昭和25年に選定され、豊島台から見た栄橋と利根川の展望が素晴らしかった由。
* 小林一茶句碑・・・自然石に「段々に朧よ月よ籠り堂」の句。文化3年(1806)徳満寺を訪れた時詠んだ句碑。一茶は、師の一人である今日庵元夢(森田安袋)が布川出身でもあり、布川には49回も訪れ、宿泊日数は289日に及んだという。

<府川城跡>

               
利根町指定史跡 府川(布川)城跡
 野口如月の『北相馬郡志』によれば、府川は、寛元二年(1244)摂津の人、豊島頼保がこの地にきて開いたと記されています。
 その後、永正一六年(1519)に豊島氏は附近の村々を領し、台上に城館をつくり、小田原の北条氏につきました。
 また、豊島頼継は、永禄三年(1560)二月十一日に頼継寺(現在来見寺)を開基し七月二十一日には寺領を寄進しています。
 府川は佐竹街道・鎌倉街道の要衝であるとともに、戦国時代には関所を設け水陸の交通を監視するなど軍事上の重要な拠点でした。
 しかし、豊島氏は天正一八年(1590)に豊臣秀吉が北条氏の小田原城を攻める際、忠節をつくすため不利である北条側につき共に敗れてしまいます。当時の府川城主豊島氏は北条氏直とともに高野山に入ったと伝えられています。
 豊島氏の墓は現在、菩提寺である来見寺にあります。


琴平神社・・・茨城県北相馬郡利根町布川3008

 脇道を通って徳満寺から境内に入る。
 琴平神社の石段の下の鳥居前には「金刀比羅大権現」と刻まれた石標があるが、道標を兼ねたもので、「西とりで みつかいどう 道」とか「寛政九」(注:1797年)の字が読みとれる。

 鳥居の扁額と幟には「琴平神社」とあるが、拝殿前の解説板には「金刀比羅神社」と記され、何れもコトヒラではある。金比羅さんと言えば海上安全の守り神として夙に名高いが、本での左前には古い「水神宮」の社額が下に立て掛けられていた。

 祭神は大物主命で、社殿には立派な簾形式の独特な注連縄が掛かっている。拝殿の後方の本殿には文化財指定の篆額(注)や絵馬があるという。

(
注)杉野東山篆額
布川の書家杉野東山によるもので、裏面には、「天保十五(注:1844)甲辰盂春、彫工塗箔、押戸村椙(杉)山林哲同宗哲」とある由。

 琴平神社には、このほか利根町文化財指定の絵馬が次のようにある。

<杉野嵩雲絵馬>

 書家の杉野東山の弟・杉野嵩雲による絵馬で、琴平神が溺れている子供を救う様子が描かれており、嘉永4年(1851)に奉納されたもの。

<布川河岸絵馬>

 天保14年(1843)に奉納された絵馬で、利根川の河岸として栄えた布川の様子が描かれてる。裏面には約140名の寄進者名が記されている。

<搾油絵馬>

 文政13年(1830)に奉納されたもので、当時の油絞りの様が克明かつ生き生きと描かれている。水田中心の農業は春から秋に集中するため、比較的閑な冬期は菜種やエゴマの搾油に精出していた。書家で知られる前記の杉野東山も搾油を生業していたという。

 境内には末社として「八坂神社」や「水神宮」「稲荷大明神」「疱瘡神」等の祠があるほか、力石、一茶の句碑「べったりと 人のなる木や 宮相撲」(文化14年=1817年作)がある。

 一茶は度々当地を訪れているが、寛政7年(1795)から始められた毎年8月10日(旧暦)の琴平神社の奉納相撲は大変有名だったようで、現在でも子供相撲として引き継がれ、結構盛況の由であり、境内には青いビニールシートを掛けられた土俵も現存している。

来見寺(10:26)・・・茨城県北相馬郡利根町布川2956-1

 街道に戻って左折すると、直ぐその先で右への旧道に入ると、道の左手に「瑞龍山来見寺」があり、立ち寄る。曹洞宗の寺で、常陸国真壁郡下妻村多寶院の末寺である。

 本尊は釈迦如来で、左右に文殊普賢菩薩が鎮座する。山門には十六羅漢が安置され、庭中には御松替の梅(注)があると赤松宗旦の「布川案内記」にある由。

               
赤  門
                           指 定 昭和五十二年七月二十四日
                           所在地 利根川町大字布川二九五六-一
 この赤門は、来見寺の中で最も古い建造物で、宝暦五年(1755)に再建されました。
徳川家康ゆかりの寺の門ということから、特別に赤く塗ることを許されたもので、普通は通ることを遠慮したものだと言われています。かつては、現在の駐車場の所にありました。
 なお、来見寺は、府川城主豊島頼継により永禄三年(1560)に創建されました。当初は頼継寺といいましたが、家康公の上意により名が改められたといいます。赤門に向かって右側には「赤門やおめずおくせず時鳥」という小林一茶の句碑が建っています。
                             利根町教育委員会


 少しく詳説するならば、来見寺は、弘治2年(1556)敕特賜大光仏國禅師独峰存雄大和尚(天正15年入滅)によって創立、開山されたが、府川城主豊島三郎左衛門尉またの名を豊島紀伊守頼継(人皇56代清和天皇9代の後裔、源三位頼政から更に19代の後裔)が独峰和尚の徳を慕い、その教えに帰依して菩薩戒を請けて弟子となり、この山に永禄3年(1560)七堂伽藍を建立し、寺領32貫文を寄進して、独峰和尚を迎え入れて開山の祖とした寺院で、当初は豊島紀伊守頼継の名を冠して「頼継寺(ライケイジ)」と称していた。

 その後、慶長7年(1602)、関ヶ原の戦いに勝利して天下を統一した徳川家康がそのお礼のために鹿島神宮参拝の途上、当寺に立ち寄った。実はその時の住職が三河国龍海院出身で、家康が岡崎城主だった頃の師の日山和尚だった。そこで、先述の府川→布川の話の折に、「私(家康)が来て見たので、来見寺と改めるが良い」と言って自ら筆をとり、「布川来見寺」と書いて日山に与えた。この時から、府川は布川となり、頼継寺は「来見寺」と呼ばれるようになったという。

(注)御松替の梅
 この家康お立ち寄り時に、寺内で一本の枝振りの良い松に目を留め、感嘆していた処、住職が天下統一のお祝いとお立ち寄り戴いたお礼の印にと家康に献上を申し出た。喜悦した家康は、江戸城へ帰着後に城中にあった一本の梅の木を来見寺宛て「制札」を添えて送り届け、30石の朱印を与えた。
 その梅の木が毎年春になると、蕾がふくらみ、美しい花を咲かせ、鳥や人間を喜ばせたので、「松と取り替えた梅」という意味で、以来、本堂前に植えられたこの梅の木を「松替の梅」と呼ぶようになったという。


 来見寺の建造物の中で、本堂は近代的建物に改築されているが、宝暦5年(1755)に再建された最古の建造物「赤門」が、利根町指定文化財になって残っている。家康公立ち寄りの所縁の寺の門である処から、特に赤く塗るのを許された門で、普通は通ることを遠慮したと言われている。扁額は、明僧の心越禅師の書である。曽ては現在の駐車場の所にあった由である。

 なお、赤門に向かって右手には、そんな訳で恐れ多くて人が赤門を通れなかったのに、時鳥は堂々と通っていることを詠んだ「赤門や おめずおくせず 時鳥」という「小林一茶の句碑」が建っている。

布川町道路元標(10:31)

 街道に戻ってクランクを曲がる所左手にある「利根町商工会館」前の郵便ポスト前に、「布川町道路元標」が建っている。この場所は旧布川町役場跡だそうで、道路元標は道路の起点を表すものである。

布川不動尊(如法院不動堂)(10:34)・・・茨城県北相馬郡利根町布川3318

 街道は来見寺の先の道路もと標のある所で恰も城下町に於けるクランクのようになっているが、そこを右折して「布川不動尊」に寄り道する。

               布
川不動尊の由来
 創立は詳らかでありませんが鎌倉街道の一部と見られる布川横町に面していて由緒はかなり古いものと考えられます。現在のお堂は文政五年(注:1822)三月に再建され近年補修が加えられました。本尊の不動明王坐像は矜羯羅童子と制多迦童子を伴った三尊型で早やければ制作年代は十四世紀の南北朝時代と思われます。
 また玉眼入りの大日如来坐像の制作年代は鎌倉時代と推定されています。丸顔で胸の厚みが豊かなこと衣文の彫りが細かく裾部に松葉型のひだがあることなど鎌倉期仏像の特徴をよくそなえております。
 両像ともら利根町の文化(注:「財」の字漏れ)に指定されています。
                              布川不動講一同

     利根町指定有形文化財
               木造不動明王坐像・木造大日如来坐像
 この如法院布川不動堂の創立は不詳ですが、裏を通る古横町通りは鎌倉街道、佐竹街道の遺構と考えられており、徳川家康も通った道と語り継がれています。
 不動堂の本尊は、乱世の南北朝時代に造られた勇ましい「木造不動明王坐像」で、「昔、このあたりで病気が流行したときに、この本尊様にお願いしたところ病気が治った」という伝承もあります。また、不動明王は、仏典では最初、大日如来の使者とされていましたが、やがて、大日如来が教化しがたい終生を教えるために忿怒の姿で仮に現れたとされました。
 そのためか不動堂には、本尊様より古い鎌倉時代末期に造られた「木造大日如来坐像」も安置されています。大日如来は宇宙と一体と考えられる汎神論的な密教の教主で、その光明が遍なく照らすことから大日といわれます。また、大日経系の胎蔵界と金剛頂経系の金剛界の二種の像があり、この如来様は、智拳印と呼ばれる左人差指を立て右拳で握る無明を覗き仏智に入ることを象徴する印契をしているので、「金剛界大日如来」です。
 この二体の仏像様は、古くから地元の方々が大切に扱っていたからこそ現在まで残る古い仏像です。そのため、普段見ることはできず毎年、一月、五月、九月の二十八日に開帳されるときだけ見ることができます。
                             利根町教育委員会


<木造不動明王座像>

 布川不動堂に祀られている寄木造り(材質=檜)の坐像で南北朝時代(14世紀)に作られたものと推定され、明治期に再彩色されている。毎月28日に堂が開かれ、1月、5月、9月のみ開帳される。

<木造大日如来座像>

 「木造不動明王坐像」と同様に寄木造り(材質=檜)で、制作年代は鎌倉時代(13世紀)と推定されている。顔型が丸く肉付きが豊かで、衣紋の彫りが細かく、裾部の襞が松葉型をしている。

 不動堂は、前述の「徳満寺」の項で触れた「総州六阿弥陀詣」の第六番目でもあるが、不動堂の右手には「大師堂」と記された「四郡大師堂(大師77番)」がある。

布川貝塚(10:41)

 寄り道から街道に戻り、クランクを曲がった左手辺りに「利根町指定史跡 布川貝塚」と題する解説板がカーブミラー横に建っている。縄文時代後晩期の貝塚で、以下がその解説文である。

               
利根町指定史跡 布川貝塚
 この周辺は、「布川貝塚」といわれる縄文時代後晩期の遺跡です。
 縄文時代の「縄文」とは、日本で最初に発掘調査をしたエドワード・S・モースが報告書の中で、土器についていた紋様が縄のようであることから「コード・マーク」とよんだことに始まります。
 縄文時代には、集落の周りの斜面や窪地などにゴミが捨てられていました。とくに海に囲まれていたこの辺りでは貝殻が多く捨てられ、来見寺の境内から布川神社入口にかけて「貝塚」として今も残っています。
 利根町では、日本最古の土偶が出土した花輪台貝塚をはじめ、多数の土偶が出土したことで有名な立木貝塚などが存在しますが、この布川貝塚については、その詳細な事実は判っていません。
 しかし、小発掘調査により、主に縄文後晩期の土器・土偶・耳飾や、海人であったと思わせる骨針や製塩土器などが出土しているほか、珍しいものとして、縄文人の人骨がほぼ完全な型で出土しています。
 高台から、豊かな自然と海に囲まれていた当時を思い浮かべると、時のながれを感じます。

布川神社(10:46)・・・茨城県北相馬郡利根町布川1779

 その先200m強行った左手に「布川神社」がある。この先で訪れる予定の「蚊蝄(コウモウ)神社」と並んで古い歴史を有する神社で、前述の「徳満寺」が別当寺だったそうだ。

 高い石段の上にあり、またまた黙々と登っていく。老体には辛いが、一日一回はマンションのメールボックスに朝刊を取りに行く帰りにエレベータを使わず12階まで階段を登っているのが少しは役立っているのかも知れない。

 最初に少し石段を登ると寛政4年(1792)4月建立の明神鳥居があり、そこから上の境内迄延々石段が続き、数えると全部で74段ある。

 この神社は、寛元年中(1242~1246)頃の建立というからかなり古い。先刻立ち寄った琴平神社もそうだったが、注連縄が収穫した稲を稲木に干したのに似ており、当地方の特徴のように思える。

               
布川神社の由来
人皇第八十八代後嵯峨院寛元の頃(西暦1242年~1246年)豊島摂津守の建立と伝えられる。木の神、久々能智之命を祀る。
享保十九年六月(西暦1734年)正一位布川大明神の記録あり。明治元年布川神社と更称す。
例大祭は旧暦六月十四日、十五日、十六日の三日間行われ、十四日御神輿は〆切(現在は内宿)にある御仮殿に遷座す。一六日、御神輿は本殿に還御し境内にて尋橦(ツクマイ)が催されていた。
尋橦(ツクマイ)は元禄の頃(西暦1688~1703)より明治末(西暦1911年)まで行われていた。
               平成五年七月謹書

 祭神は、久々能智之命(クグヌチノミコト)で、古事記によると、伊弉諾命(イザナギノミコト)、伊弉冉命(イザナミノミコト)が生んだ木の神とされている。「久々」と言うのは植物の茎を表すそうで、この神を祭神として祀っているのは利根町の神社では布川神社だけである。
 また配祀としては、水波能女命(ミズハノメノミコト)、久那斗神(クナトノカミ)、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を祀っており、水神宮・道祖神・弁財天などの祭神となっている神々である。

 3年に1度の布川神社臨時大祭時には、「禊(ミソギ)」と称して若衆が水を浴びながら前記の長い石段を7往復する儀式が行われるそうで、さぞかし勇壮な催しと創造する。

 なお、「尋橦(ツクマイ)」は元禄期(1688~1703)から明治末にかけて行われていたが、明治42年(1909)以降は途絶えているという。尋橦というのは、船型に長さ8間(14.4m)程の帆柱を立て、雨蛙の面をつけ竹弓を持った舞人が、柱の上に登って種々の舞を舞うというもので、この時、童子が鶴・亀・鹿・猿・龍などの面を付けて船中で地舞を舞ったという。

 布川神社の境内社では「八坂神社」がある。境内社には「摂社」と「末社」があるが、祭神の親戚筋を祀るのが「摂社」、別の神社から勧請した神を祭るのが「末社」だそうだ。

 布川神社には絵馬が全部で7点納められており、利根町では蚊蝄(コウモウ)神社(後刻立ち寄り)と並ぶ最多点数の由である。全てが文化財指定されている琴平神社の3点ほか全部で25点があるそうで、布川神社の7点の内、町文化財指定の3点は下記のとおりで、それ以外では「神楽図」「胡笳歌図」「八岐大蛇退治図」「鶴・孔雀図」といったものがある。
 普段は閉じられているが、拝殿内に、その絵馬や額などが沢山掲げられているそうだ。

<天の岩戸絵馬>

 同じく慶応元年(1865)に制作されたもので、天照大神が、弟の素戔鳴尊の乱暴に怒って天の岩戸に閉じ籠もったいう伝説を絵にしたものである。作者は、玉蛾という絵師である。

<神功皇后と武内宿祢絵馬>

 慶応元年(1865)に制作され、布川神社に納められた武者絵で、神功皇后と武内宿祢が描かれ、構図・筆致共に優れた作品として知られているという。作者は、赤松宗旦の「利根川図志」の挿絵も描いている玉蛾という絵師である。

<宇治川先陣争い絵馬

 「神功皇后と武内宿祢絵馬」と同じく慶応元年(1865)作の藤井春川による武者絵である。5月5日の子供の日に奉納されており、男の子が丈夫な発育を祈願したものか。

旧小川家跡・柳田國男記念公苑(10:58)・・・茨城県北相馬郡利根町布川1787-1

 そのすぐ先を左に入って北進するが、200m程先の左手に「旧小川家跡・柳田國男記念公苑」があるので、右手にある管理人宅に一言断りを入れた上で立ち寄る(見学無料)。大層立派な門構えと塀に囲まれた旧家である。

 館内には、柳田國男の略年譜ほか、いろいろな解説・展示がなされている。

               
柳田國男記念公苑の由来
 民俗学者の柳田國男がまだ松岡姓だった少年の頃
(注)、すなわち明治二十年、生まれ故郷の兵庫県福崎町をあとに、ここ布川に来て過ごした。小川家には、既に兄鼎が離れを借りて医業を営んでいて、そこへ引き取られたのである。利根町が「第二の故郷」と言われる所以である。寄留は三年足らずだったが、その間に見聞したことが、やがて民俗学への開眼につながったと言われている。
(注) 13~16歳の3年弱
 國男は自分の来し方を顧みて、三階の濫読時代があったと言う。一回目は生まれ故郷にあった頃、大庄屋の三木家に預けられた時。二回目は小川家の土蔵にたくわえられた万巻の書に接した時。三回目は内閣文庫に記録課長として出稿した時である。
 小川家は代々学者だったので書籍の数はおびただしく、とりわけ國男にとって特記すべきは赤松宗旦著の「利根川図志」との出会いであった。この時大いなる興味を持って読んだ國男は後年この本を校訂復刻している。
 更に徳満寺の地蔵堂に掲げられていた水子絵馬に心が冷え凍え、また小川家の氏神の玉に神秘を体験した。
 國男は天与の資質に恵まれ、常民の暮らしに独自の考察を与え、民俗学という新しい分野の学問を樹立し昭和二十六年文化勲章を受章したのである。その業績を讃え記念としてこの公苑は設置されたのである。
                              利根町教育委員会


<小川家氏神>・・・町指定文化財

 敷地内には利根町指定有形文化財の「小川家氏神」の祠があり、横に次のようなエピソードが掲げられている。

               
柳田國男の神秘体験
 小川の祠は明治十四年から十五年頃、当主の東作が祖母の屋敷の神様にお祀りしその長命にあやかろうと日頃から愛玩していた玉を御神体としたものである。
 由来のことは知らずに、いたずら盛りの國男少年は家人の留守を見計らい石の扉を開けて見たところが予想もしなかった綺麗な玉が入っていたのに驚いて、興奮の余り気が遠くなってしまった。よく晴れた青い空を見上げたところ数十の星が見えたという。その時突然ピーッとひよどりが鳴いて通った。その拍子に身がひきしまって人心地がついたという。後年あの時ひよどりが鳴かなかったら気が変になっていたかも知れないと、異常心理について振り返り、そうした境遇に永くいてはいけないという暗示だったのかも知れないと述べている。
 当時間もなく良心が教理から布川に出て来て、学問の道へと進んだのである。
 國男少年は繊細な感受性の持ち主だったわけで、民俗学の樹立につながった資質の片鱗を垣間見るエピソードであった。

昼食購入

 事前に地図で今日のコースを下調べした結果では、昼時にレストランなどの昼食場所探しに苦労しそうに思えたので、同行各氏に諮った上、県道4号線(千葉竜ヶ崎線)に入った先の信号のある交差点の右角にあったセブンイレブンで軽食を買い求め、適当な場所で食することとした。

鎌倉街道→佐竹街道→水戸街道の一里塚跡(11:31)

 その先は、古代官道の特徴としてこれまでも度々経験してきた直線性から考えて、失われた古道の代わりに代替する現代道を如何に効率よく歩き繫いで直線的延長線上の道に辿りつくかという課題兼楽しみがある訳だが、早速その地点に直面する。

 その前に、その先左手のNTT利根電話交換センターの先で左後方から右前方への細い道が交差するが、これが「鎌倉街道(下ツ道)改め佐竹街道改め水戸街道」で、曽て完歩した水戸街道のもう一つの旧道である。治水が円滑に出来ていなかった江戸時代には、水戸街道も部分的に付け替えられたり、複数になったりしたのだが、この路が古代東海道としての可能性が最も高いと考えられるのである。
 つまりここは、古き時代からの交通の要衝だったと言えよう。

 ネットで検索した当地の地図にも「佐竹街道」の字がくっきり明示されているが、水戸街道はその後村谷氏達と歩いた水戸藩成立以降、取手・藤代経由に変更されたことを考えると、ここは「佐竹街道」と呼ぶのが最も相応しい気がするのである。

<略史>

・ 戦国時代、利根町の鎌倉街道は、常陸国の大半が佐竹氏(本拠地は上野国太田)の領地だったため「佐竹街道」と呼ばれていた。
・ 慶長7年(1602)、徳川家康は佐竹氏を秋田に転封。以後佐竹街道は「水戸道中」と改称。
・ 慶長9年(1604)、家康は秀忠に命じ江戸日本橋を起点とする一里塚を設置。
・ 慶長14年(1609)、家康の11男頼房を初代とする水戸藩が成立。
・ その後、水戸街道は布川地区をそれ、取手・藤代経由のルートに変更。

 この佐竹街道を県道から左手の細い道に少し入った右手の田圃の中に、曽ての一里塚跡が残っている。数本の木があり、5基程の石造物が建っているだけで、一里塚の特徴である「塚」らしき高さはさほど感じられない。この石造物の一つは、宝永6年(1709)建立の庚申塔だそうだが水を張られた田圃の中に島のようにあり、繋がった細道で行けなくはなさそうだっが足元が悪く近接するのは躊躇われたため確認した訳ではない。それ以外の石造物については不明だが、一里塚設置開始の慶長9年(1604)よりも1世紀以上後のことなので、佐竹街道時代ではなく、江戸時代のもの考えられている。

地蔵堂(11:33)

 県道に戻り、古代東海道の直線性を重んじてここから右への佐竹街道に入るのが最も相応しいと考え、そちらの道を選択する。その主要地方道千葉竜ヶ崎線との分岐点に「地蔵堂」がある。

 地蔵堂は外見上は何の案内表示もないが、、堂中には貴重な鎌倉時代の地蔵像が残されている。鎌倉期の作ということから、この地域が鎌倉街道の一角であったという説の根拠に充分なり得ると考えられている。
 また、ここ中田切地区には義経の伝説も残されている。
 則ち、兄頼朝に追われて弁慶と共に奥州に逃げ延びる時に当地を通り、この近く(注:大平集落に大平船着場跡がある)から船に乗っている。その時に船頭を務めたのが現在、中田切に住む河内家の先祖で、頼朝との和解ができたときには恩賞を与えるという約束状を義経から貰い永く家宝としていたそうだ。

 ところで、当地蔵堂の本尊は地蔵菩薩で、別称「赤地蔵」と呼ばれているが、実際に見ると確かに赤い色が見える。

 地蔵堂に向かって左手には小さな「大師堂」があり、その手前のブロック塀際には「石塔」が多く立ち並んでいる。ブロック塀と同時に石塔の保全等が行われた旨が、大師堂脇の碑に記されている。
平成7年(1995)7月建立とあるから比較的新しい。安永4年(1775)銘の「二十三夜供養塔」もある。

稲荷神社(稲荷大明神)(11:37)・・・茨城県北相馬郡利根町中田切118

 その角を東へと「佐竹街道」に入っていくと、左手に「稲荷神社」がある。鳥居の扁額には「正一位稲荷大明神」と記されているが、創建年代は不詳で、布川の大工藤兵衛により修復されたとある。

 格別大きな神社ではないが、境内には平成16年12月新築の「手水舎」や年代物の「燈篭」と眷属としての「キツネ」、道祖神2などがある。

 その先に「中田切集会所」があり、左手に「大師堂」、その裏左手に「庚申塔」や「供養塔」などが13基ばかり整列している。

古街道(ふるけえどう)経由で迂回

 その先を左に入って北進するが、この道は、「ふるけえどう(旧街道)」と呼ばれており、佐竹街道ではあるが道が途中から先細りしている。

 途中、「豊田南用水」際の草の生えた農道に出て座り込み、先刻買い求めて置いた軽食で暫しの昼食タイム(11:50~12:05)とする。

 この辺りは、古代官道の直線性から考えて消滅した部分と判断されるため、昼食後は「豊田南用水」沿いに右折して東進し、用水と工作する車道を左折して「新利根川」を渡り、突きあたって右方への旧道を東へと右折する。

円明寺(12:25)・・・茨城県北相馬郡利根町立木1368

 左手に見える「円明寺」の長い石段を登ると、一旦左右(東西)に走る道路と交わり、そこから更にまた少し石段を登って山門に達する。二つ目の石段下右手に「浄土宗長根山円明寺」の真新しい石柱が建つている。

 この円明寺は、創建以来、戦乱や失火などで度々火災に遭い、ために古い記録や寺宝が焼失しており、詳細な由緒などは不詳である。宗派は浄土宗だが、正式名は「長根山地蔵院円明寺」と号する。

 江戸時代には貞享3年(1686)と文政7年(1824)、更には明治4(1871)と大火に遭い、古記録焼失が寺創建に2説を生み出したという。

 山門を潜ると正面奥に本堂があり、本堂の篆額の上には千葉氏の家紋でもある月星型の寺紋が見える。これは、往時の当地勢力者千葉氏の助力で創建したとする「建長7年(1255)良忠上人創建説」と相繋がるものがある。

 境内には「鐘楼」、「四郡大師53番の小さな大師堂」、「布袋尊像」ほかがあり、山門入口の手前には二十三夜塔や台石に女人講と刻んだものなど、詳細不明の石碑が多々ある。

蛟蝄(コウモウ)神社門の宮(12:42)・・・茨城県北相馬郡利根町立木2184
 蛟蝄(コウモウ)神社奥の宮(12:56)・・・茨城県北相馬郡利根町立木882

 街道は、暫く(約600m程)進んだ四差路を左折して、県道209号線と交差する「大房四ッ角」へと向かうのが順路だが、この先、大房地区まで直進していたようだが、相馬郡の総鎮守「蛟蝄神社門(カド)の宮」、「立木(タツギ)貝塚」、そしてその後「蛟蝄神社奥の宮」へ立ち寄るべく直進する。

 まず最初の「蛟蝄神社門の宮」は左手の高台にあり、赤文字の「蛟蝄神社」の扁額の掛かった両部鳥居が迎えてくれ、石段を登った先に社殿がある。

 「蛟蝄神社」は、「門の宮」と「奥の宮」の2社殿からなっており、やや離れてはいるものの、地元の人は「文間大明神」と呼んでいたそうだ。これには「蛟蝄」→「交罔」→「文間」と変化したと考えられているそうだ。

               
史跡案内 蛟蝄神社周辺
 蛟蝄神社は孝霊天皇三年(前288)に水神の弥都波能売命(ミツハノリノミコト)、文武天皇の二年(698)に土神の波邇夜須毘売命(ハニヤスヒメノミコト)をまつったのが、そのはじまりと伝えています。記録にあらわれた最初は、延喜五年(905)に編集を開始した『延喜式』の神明帳で、「相馬郡一座蚊蝄神社」と書かれています。蛟蝄の名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇に似ていたためといわれています。門の宮のある所は、縄文後晩期貝塚(前2500~前300)で、そうした古代のありさまをしのばせます。同時にこの貝塚は全国的にみても貴重な遺跡として大切にされています。門の宮の社殿は、慶長三年(1598)に布川藩主松平信一が再建したという記録と元禄十一年(1698)に再造営の棟札が残されています。奥の宮は元禄十六年に再建されました。簡素なつくりで、彫刻でかざられた門の宮と対照的な建築物です。蛟蝄神社には日本武尊が参拝したという伝説があり、近くに弟橘姫の櫛塚や舟形山があります。また周囲には史跡や伝説が数多く残されています。
               昭和五十五年三月
                              利根町教育委員会
                               文化財保護審議委員会


 鳥居のすぐ右、立木貝塚の標柱の背後に七福神(利根七福神)の「大黒天」が鎮座している。

<中臣祓一万度行事碑>

 「中臣祓一万度行事」と刻まれた大きな石柱がある。ネットで調べたら、「中臣(ナカトミ)の祓(ハラエ)の詞(コトバ)」という1回読むのに30分ぐらいかかるものを神前で何度も読み、穢れを祓い清めた記念に建てた碑らしい。中には、万度の祓をしたという「祓串(ハラエグシ)」を近世、神職が家々に配り歩いた例もあるらしい。

立木貝塚(12:42)・・・茨城県北相馬郡利根町立木2184他

 ここ「門の宮」のある場所は、「立木貝塚」の名でもよく知られ、入口の解説板に、「立木(タツギ)貝塚」という縄文時代の遺跡があるとの説明がある。
 東西150m、南北50m程度の貝塚で、100個以上という国内最多級の土偶出土遺跡として知られている。

               
立木貝塚
 この周辺は、「立木貝塚」といわれる縄文時代後晩期の遺跡です。
 縄文時代には、集落の回りの斜面や窪地などにゴミが捨てられていました。特に海に囲まれていたこの辺りでは貝殻が多く捨てられ、馬の蹄のような形をした「貝塚」として今も残っています。
 この遺跡は、古くから知られておりましたが、正式に学会で紹介されたのは明治二十八年のことです。そのため、当時多くの採集家が小発掘を試み、その出土品は各地に分散しています。学術調査を最初に行ったのは、昭和三十七年の明治大学考古学研究室です。この調査では、縄文時代後期後半から変質し始めた関東地方の文化に、東北地方的な文化の流入が始まったことを証明するなど、相応の成果を納めました。
 そして、この遺跡を全国的に有名にしたのは、土偶・土製耳飾、貝輪、骨角器などの「珍品」といわれる遺物が豊富に出土することでした。特に土偶は、全国でも最多出土遺跡の一つとして知られるほどです。
 土偶は、祭礼や儀式に使われたという説がありますが、今でも、この遺跡の上に蛟蝄神社が建っているのは歴史の流れを感じさせます。
                              利根町教育委員会


蛟蝄神社奥の宮(12:56)・・・茨城県北相馬郡利根町立木882

 門の宮の更に東方に位置する「奥の宮」は、門の宮に比して質素な佇まいであるが、石段は75段の急角度を登らなければならず、きょうは大変いい運動になる。

 奥の宮の鳥居は門の宮と異なり赤くないが、かなり大きな鳥居である。しかも、両部鳥居ではなく典型的な明神鳥居である。

 奥の宮には町指定文化財の「雨乞い絵馬」がある。社殿内を覗き込むと、色鮮やかな絵馬が正面や左右に掲げられている。この雨乞い絵馬は、雨に悩み日照りに悩んだ末、明治になっても最後は神様にお祈りする他なかった農民が「雨乞いに慈雨がもたらされた歓び」から、感謝を込めて奉納したものと言われている。

 また、ここにも「中臣一万度行事」と刻した石柱が建っているほか、種々の碑や祠があるが紹介は割愛する。

土地改良事業による真っ直ぐな農道と縦横の潅漑用水路

 ここから先は元の四つ角に戻らず、ショートカットして「大房四ッ角」に出て北北東へと延びる一直線の道を龍ヶ崎市大徳へと向かう。。

 やがて、地図に「論所排水」と表示のある用水路を越えると、程なく「竜ヶ崎市」に入る。名実共に常陸国である。その先も真っ直ぐな道が続く。

上大徳土地区画整理事業記念碑(14:08)

 更に延々と歩いて行き、「江川」を渡る。その先の上大徳新町に小公園があり小休止する。公園には、昭和58年4月建造の立派な「上大徳土地区画整理事業記念碑」がある。

龍ヶ崎市の地名由来など

 市のホームページを見ると幾つかの説があるようだが、一番それらしく思えるのは、平安時代の末期に、この地方の地頭に任ぜられた下河辺政義が、鎌倉時代に源義経の姻戚であったことが理由で領地を没収された後、氏を龍崎と称したことが由来であるとする説であろう。

 但し、鉄道駅名は「竜ヶ崎駅」で、市内の県立高校3校も「竜ヶ崎」の文字を使用するほか、「UR竜ヶ崎タウン」も同様である。同じ高校でも「愛国学園大学附属龍ヶ崎高等学校」とか市立小中学校は当然「龍ヶ崎」である。

 この龍ヶ崎は、往時は奥州伊達藩の領地だった。伊達藩は天正19年(1591)、秀吉の領地替えで新たに仙台の地を与えられた伊達政宗を初代藩主とする仙台藩の別称だが、政宗は、慶長11年(1606)に徳川家康から常陸国河内郡と信太郡26カ村(1万石余)を与えられ、仙台藩常陸国龍ヶ崎領が誕生する。現龍ヶ崎市域の大半は河内郡に属し、政宗は龍ヶ崎村に陣屋を構えて代官を置き、常陸国における仙台領支配の中心地としたため、龍ヶ崎は繁栄した。街道の出入口には「仙臺領」と刻んだ石柱を建て、治安と防衛のために番屋を置いたと言われている。

ゴール(14:20)

 角に「地蔵尊」がある交差点の先のエネオスのある交差点で本日の歩き納めとし、古代東海道は、この先も直進して北に向かうが、ここから西方約2kmにある「関東鉄道竜ヶ崎駅」に向かい、帰路につくこととした。

 きょうのコースは、想定していた以上に見所が多く、かつ幹線道路からはずれていた関係でのんびり歩けた反面、食事処やコンビニは少なく、いわゆる典型的な田舎歩きの部分が結構多くて、楽しい街道歩きができた。

寄り道

 以下、関東鉄道竜ヶ崎駅に向かう途中、左手の「医王院」、右手にある「龍ヶ崎観音(龍泉寺)」、国登録有形文化財の「小野瀬家」、左手の「八坂神社」の4ヵ所を見学した。

医王院(14:28)・・・龍ヶ崎市砂町5147

 「曹洞宗玉光山医王院(通称:砂町"やくしさま")」は、慶長3年(1598)の創建と伝えられ、横町にある大統寺第2世の日山梵朔大和尚が開山した寺である。
 開基は、龍ヶ崎城主の土岐胤倫公(大統寺殿統厳正光庵主)で、明治37年に大統寺第23世月山正光大和尚が住職になって、独立した寺である。

 本尊は薬師瑠璃光如来で、龍ヶ崎城主土岐胤倫公が創建した十二薬師の一つである。木彫の立像で、大変端麗な仏像と言われているが、残念ながらこの薬師如来は、33年毎のご開帳の時以外は拝めない。しかし、慈悲深い仏様として昔から崇敬され、特に眼の病気にご利益があるとされ、近隣のみならず遠く江戸までその名を知られていたという。

 本堂は江戸時代初期の明暦2年(1656)に再築され、明治16年の龍ヶ崎大火でも奇跡的に災禍を免れれたため、火防の薬師としても有名である。その後何度も補修され、平成16年には大改修工事を完了し、明暦2年当時の古い佇まいを今に残す貴重な歴史的建造物となっている。

<雪中庵蓼太の句碑>

 境内には、龍ヶ崎が生んだ俳人・杉野翠兄が、文化10年(1813)に師匠の雪中庵蓼太の17回忌を弔って建てた「蓼太句碑」があり、表面に「たましひの 入れものひとつ 種ふくべ」と蓼太の句が刻まれている。
 寛政10年(1798)には小林一茶も当地を訪れるなど、龍ケ崎では俳諧を中心とした文芸が盛んだったという。

             
龍ヶ崎市指定文化財 史跡
               蓼 太 句 碑
                              昭和五十四年二月二十二日指定
 雪中庵蓼太は信州伊那郡大島村の人。
芭蕉門十哲のひとり服部嵐雪(一世雪中庵)の流れをくむ俳人で雪中庵三世を称し、江戸中期の俳壇において活躍した宗匠である。著書に「筑波紀行」、「蓼太句集」「発句小鑑」などがある。
 この句碑の表面には「たましひの入れものひとつ種ふくべ」と蓼太の句が刻まれ、裏面には「空摩居士自隠禅士の隻手の 音を聞く・・・・・・、居士は天明七年丁末九月七日を以て没す、今慈に二十七回忌の正当を営む、よって常陸、しもふさの我おしえる子等と力を合わせ、 遠つ海の石を運びて瑠璃光山に分骨を納む、なほ枯木裏の龍吟となりて、とこしなえに尽せざれと。 文化十年癸酉九月七日、筑波庵道隣謹記、薫堂井敬儀筆」と記されている。建立者道隣とは、上町杉野治兵衛氏のことで、俳人筑波庵翠兄と称して龍ヶ崎を中心とした常陸・下総に多くの門弟をもち、 晩年蓼太に傾倒し高弟となった。
天明元年(1781)、蓼太は龍ヶ崎に招かれ、数日間滞在して探題を催し、頼政塚や奈戸岡三本松などの名所旧跡の句 を残し、著作「筑波紀行」には、翠兄と同行の句がある。
蓼太の没後二十七回忌にあたる文化十年(1813)に翠兄は常陸・下総にわたる門人を集めて、その供養を営み、この句碑を建立した。
                   平成五年三月     
      龍ヶ崎教育委員会

<擬宝珠(ぎぼし)(後の市川団十郎寄進)>

 嘉永5年(1852)に内陣や天井部などに修繕を加えているが、その際に高欄の擬宝珠が新調された。この費用を負担したのが河原崎権之助と若(大)太夫長十郎であると記されているが、この若太夫長十郎こそが、明治7年(1874)市川家に戻り、後の九代目を襲名した市川団十郎であり、若太夫の養母が龍ヶ崎出身だった縁で寄贈されたと考えられている。

      新調した高欄の擬宝珠に刻まれている銘文→

<龍瓦と獅子瓦>

 いずれも改修前の本堂の屋根上に魔除け、災い除けとしてあったもので、平成の大改修時に銅板葺にしたため、現本堂の前に庭飾りとして置いてある。

 本堂の脇には、魔よけの「獅子の瓦」(左)と、以前の本堂の屋根にあった「龍の鬼瓦」(右)が今も参拝客を見守っている。

龍泉寺(14:43)・・・龍ヶ崎市下町

 東福山水天院龍泉寺は、天台宗の寺で、一般には「龍ヶ崎観音」の呼び名で親しまれ、安産・子育ての観音様として有名である。
 天正年間(1573~1592)、龍ヶ崎城主土岐胤倫の創建と伝えられ、寛永年間(1624~1644)上野寛永寺の天海僧正が再興した。

 明治初期に10余年の歳月をかけて本堂を再建したが、その落成寸前に龍ヶ崎の大火で消失し、以後永らく仮本堂だったが、昭和50年に新築し、現在に至っている。

 土岐胤倫が妻お福の方の難産に際し、山城国から弘法大師の作とされる正観世音菩薩の尊像を迎えて寺を建て祈願した処、無事出産できたと伝えられ、今も安産・子育て・出生・開運・除災の観音様として広く信仰を集めている。

 本尊は、安産祈願のため淳和天皇の勅を受けた弘法大師の作という聖観世音菩薩で、「安産観音」として有名である。水子地蔵は約200体とも言われており、赤い涎掛け姿の地蔵列は壮観である。

旧小野瀬家住宅店舗・旧小野瀬家住宅主屋(15:02)・・・龍ケ崎市4252

 上町の信号の手前右手にあり、国指定登録文化財に指定されている。

 「店舗」部分は、木造2階(一部平屋)建210㎡の大正初期建築の建物で、桁行5間、梁間3間、切妻造、桟瓦葺の平入2階建町屋で、前面に幅5尺の下屋を差し掛けている。1階店舗の1尺2寸角大黒柱や、成3尺幅1尺材などを用いて整然と組んだ根太天井、下屋部の海老虹梁など、剛直な架構に特色がある。

 一方「主屋」部分は、木造平屋建65㎡の明治初期の建物で店舗背面玄関部北に建っており、南北棟、片寄棟造、桟瓦葺の木造平屋建で、6畳・6畳・8畳の3室を南北に並べ、8畳西面に床と棚を構える。東面と北面に縁廊下を廻し、北西端に便所を配している。大正初期建築の剛直な店舗に比して、低平で端正な造りに特色がある。

八坂神社(15:06)・・・龍ケ崎市上町4279

 文治年間(1185~1190)、征夷大将軍源頼朝から地頭として常陸南郡を領した下河辺政義が、鎌倉時代以前は台地から下は沼沢地だった龍ヶ崎の開拓にあたり、台地にある高井(貝原塚町)の農民を移し、その際、農民の心の拠り所だった貝原塚八坂神社の分社して、開拓地根町に建立したのが上町八坂神社の始まりと言われる。

 祭神は建速須佐之男命で、水を主宰する国土開発の神であり、農耕・商工運輸交通の道を授け、悪事災難を取り除く守護神と言われている。

 その後の天正5年(1577)、龍ヶ崎城主土岐胤倫は八坂神社を根町の神仏同居の所から分離して八ヶ町の町割りの中央である現在の上町に遷座した。その後、龍ヶ崎の鎮守として遷宮以来、代々領主や住民の厚い崇敬を受けて今日に至っている。

 境内にあるケヤキは、現在地に遷宮の際植樹された霊木と伝えられ、太い幹がまっすぐ伸び、梢が箒状に聳える落葉高木で、毎年4~5月頃には、新芽と同時に薄い黄緑色の小さい花を咲かせる由。

 上町に遷宮された現本殿ほかの設営物は、腐朽甚だしきため元禄11年(1698)6月に再建されたが、僅か17年後の正徳5年(1715)に災禍に見舞われ炎上している。翌享保元年(1716)再建に着手し、完成が享保20(1735)年9月と、実に20年の歳月を要しているが、市指定文化財(建造物)になっている。弊殿・拝殿も同時に造営されたが、後の2構は後年改築されている。

 なお、明治維新までこの八坂神社は「天王社」と称されていた。天王とは「牛頭天王」のことで、祇園社の祭神であり、疾病や農作物の害虫などを払う神として崇められたもので、今日でも俗に「天王様」と呼ばれて親しまれているという。

 7月下旬に催される祇園祭は市内最大級のお祭りで、最終日に行われる「撞舞」は奇祭として、近隣や遠方からの大勢の見物客で賑わう由。

竜ヶ崎駅着(15:14)

 帰路は、駅の自販機で取り敢えず缶ビールで喉を潤し、15:30龍ヶ崎発、15:37佐貫駅着で一旦外に出て、駅隣接のコンビニの椅子席で簡単な打ち上げを行い、16:43佐貫駅発常磐線で帰途についた。
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