古代東海道餐歩
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 2010.01.24(日) 古代東海道 #11 我孫子 ~ 布佐

【本日の行程 街道距離13km】

我孫子駅→我孫子宿→水戸道中との追分→子之神大黒天→我孫子中学校(高野山1号墳)→東我孫子水戸街道一里塚→岡発戸→都部→中峠・天照神社→中里薬師堂→日秀・相馬郡衙遺跡→将門神社→将門の井戸→新木・葺不合神社→気象台記念公園→布佐→利根川堤→布佐駅

スタート

 集合予定地である我孫子駅9:29着の便を予定していたが、仲間たちがいつも早めに見えているので乗り継ぎがうまくいったこともあって9:10に到着。村谷氏と同じ便だったようで、間もなく到着の清水氏とも挨拶を交わし、9:24には南口から街道筋目指して早速スタートする。

安全祈願(9:27)

 街道筋の「駅入口」交差点西南角の「八坂神社」に通算3度目になる立ち寄りをし、先ずは本日の旅の無事を祈願し、東に向けて旧水戸街道我孫子宿の中心街を歩き始める。

 八坂宮は応永3年(1396)創建の神社で、素戔嗚尊を祭神として祀っている。現社殿は明治12年再建の入母屋造・瓦葺・塗りごめで、赤い柱などが印象的である。大きさは往時の「神社明細帳」の記録(社殿間数:間口3間、奥行4間)とほぼ同じだとか。

 天保12年(1841)と弘化4年(1841)銘の庚申塔が裏にある。

我孫子宿

 水戸道中の我孫子宿には、本陣・脇本陣が置かれ、東西1km弱の範囲に広がる釣形状に折れ曲がった町並みである。その規模は、天保14年(1843)の家数で114、常備人馬は各10人・10疋で、現・我孫子市本町・白山・緑・寿付近にあたる。(明治4年調べでも、141軒・人口833人)

 宿の東西の旧道筋は拡幅に伴う退去や建て替えのため、古建築は殆ど現存せず、本陣跡も、解説付き標柱が建つのみであり、脇本陣跡のみが残っている。

割烹「角松」(9:31)・・・我孫子市本町3-7-15

 古い建物が時の経過と共に無くなっていく中で、左手に長い塀の割烹「角松」の建物が見えてくる。「角松」の前身は「松島屋」という旅籠で、明治17年には明治天皇の御座所にもなった由緒ある旅館だった。

 旅館廃業後に割烹「角松」に経営が移ったが、明治43年頃講道館を興しこの近く(南側)に別荘を持っていた嘉納治五郎が屡々この「角松」を訪れ、川魚料理に舌鼓をうったと言われる由緒ある建物で、見事な松が佇まいを引き立てている。

香取神社(10:33)

 「角松」の向かい先、右手の我孫子郵便局手前を右に100mばかり入った所に「香取神社」があり、二度目だが立ち寄る。創立年代は不詳だが、5世紀末~6世紀初頭に物部小事が大軍を率いて大和から来て定住し、その後に香取神社を祀ったとされる。

 ここから南方400m程の所に「手賀沼」があるが、その手賀沼の鎮守で産土神である。8代将軍吉宗の時代に鎮座し、拝殿は昭和57年に改築されている。境内には立派な欅の木が数本偉容を見せているのが印象的だ。

大光寺(9:35)・・・我孫子市緑2-3-1

 その東隣に「南海山不動院大光寺」と号する真言宗豊山派の古刹がある。本尊は不動明王で、両脇に弘法大師、興教大師が安置されている。創建は、室町時代とされ、法流開基は小金大聖院から閑居した秀恕法印と伝えられている。

 大光寺は、度重なる火災に遭っており、現本堂は、昭和22年に改築されている。嘉永4年(1851)に高野山から夢告大師像を迎え、四十二番厄除大師として信仰され、参詣が盛んだった由。

 あるサイトで「宗派別寺院割合」なるデータがあったが、それによると、次の通り我孫子市では半数が真言宗なのには驚いた。32寺中、16寺で、うち豊山派が13寺(40.6%)だが、これは、この13寺中12寺が往時の「龍泉寺」の末寺であり、その龍泉寺がこの地域で勢威を張り、その影響で真言宗の寺院が多くなったと考えられているそうだ。
 出典 http://japanfestival.web.fc2.com/abiko/buddhism/b01-10.html

      
全国平均  我孫子市
 曹 洞 宗  26.3%  25.0%
 真 言 宗  22.1    50.0
 浄 土 宗  14.4    - 
 日 蓮 宗  12.3    3.1
 臨 済 宗  10.2     - 
 天 台 宗  7.7    3.1
 浄土真宗   4.8     - 
 黄 檗 宗   0.8      - 
 時  宗  0.7      - 
 融通念仏宗 0.6    - 
 律  宗  0.2    - 
 華 厳 宗   0.1     - 
 法 相 宗   0.1     - 
 無 表 示    -   18.8(観音堂など)
 合  計  100    100
            (32寺)


参考:龍泉寺・・・我孫子市中峠1423 >

 「南命山」と号する「龍泉寺」は、度重なる火災で詳しい由緒は不明だが、弘法大師が杖を留めたと言われる古刹で、ご本尊は波切不動尊。江戸時代には、近郷14ヶ寺を末寺として有し、勢威を誇っていたという。
 現在の本堂と山門は、昭和30年(1955)に上野寛永寺子院・凌雲院を譲り受けたもので、三葉葵の釘隠がついている。

 湖北村史によると、延暦年間(782~806)に弘法大師が、湖畔の岡陵中里村東原の草庵に立ち寄り、波切不動尊像を作って庵に安置し、当初、鷹法山竜泉寺と名乗っていたが、天文年間(1532~1554)に権大僧正永楽法印がこの地に寺を移し、現在の南命山龍泉寺に名を改めたという。

 当寺は、江戸時代には14の末寺を有する大きな寺だったが、今では檀家数は100軒ちょっとのこと。檀家数は同じ中峠(ナカビョウ)の曹洞宗正泉寺の16分の1にも満たない。

文人の里

 また、我孫子は、武者小路実篤や志賀直哉・柳宗悦ら白樺派の文人が多く住んでいた所で、前述の「大光寺」は、乳児で亡くなった志賀直哉の長女の葬式が行われた寺だという。この後で訪れる「脇本陣小熊家」の向かいには、その時担ぎ込んだという医院(「回春堂跡」)があったそうだが確認できなかった。

 立ち寄りはしないが、「大光寺」の南方、手賀沼にかけては、志賀直哉記念公園でもある「緑雁明緑地」や、「杉村楚人冠碑」のある「緑南作緑地」があるほか、手賀沼北岸沿いには「文学の広場」などがある。村谷氏は、別途YSCで、手賀沼近辺を散歩する企画をしたいとのことである。

<参考1:緑雁明緑地(志賀直哉亭跡)>・・・我孫子市緑2-7

 緑雁明緑地(みどりがんみょうりょくち)は、面積が0.19haあり、緑地内には志賀直哉が大正4年(1915)9月から大正12年(1923)3月まで過ごした書斎・解説板がある。居宅は残っていないが、モミジ、クス、モッコク等、当時の庭木と池が残っており、ありし日の面影を偲ばせている。茶室は、ほど近い所に移築され湧水もある。
 少しく詳説すると、志賀直哉邸宅跡は、昭和55年(1980)に我孫子市が買収し、居宅の建物はないが当時の庭木を残し、移築された茶室風書斎が一般公開されている。志賀直哉が生涯はじめて自家を持ったのは我孫子の弁天山で、天神山に住んでいた「白樺」同人の柳宗悦から我孫子の売り家を勧められたのを即決で買い取り、25坪余の茅葺の家をすぐ3部屋増築して我孫子住いを始めている。大正4年(1915)9月のことで、後に崖山と邸内に書斎を造った。

<参考2:緑南作緑地(楚人冠公園)>・・・我孫子市緑2-4

 緑南作緑地は、観音山の高台から手賀沼を見下ろせる所にあり、広さは、0.19haある。曾ては、黒松越しに手賀沼が眺望できた小高い丘の上に、現在ジャーナリズムの先駆者として著名な杉村楚人冠の句碑と解説板が建っている。楚人冠を尊敬する「湖畔吟社」の人々の依頼で、我孫子の陶芸家河村蜻山が作成した陶製という珍しい碑である。
 杉村楚人冠は戦前の朝日新聞の最高幹部で、大正13年(1923)に我孫子に移住し、昭和20年(1945)に当地で死去している。俳句結社「湖畔吟社」を主催し、地元文化の育成に努めている。

<参考3:白樺文学館>・・・我孫子市緑2-11-8

 白樺文学館は、平成13年1月に㈱日本オラクル元社長・佐野力氏が私財を投じて、白樺派文学と民芸運動に関わる資料館として創設したもので、最近、土地・建物・所蔵品など一切が市に寄贈され、平成21年4月1日から、市運営の「我孫子市白樺文学館」としてスタートしている。

<参考4:文学の広場>

 手賀沼に面した一角に「文学の広場」という小さな公園があり、我孫子ゆかりの文学者のレリーフが設けられている。

<参考5血脇守之助記念碑>

 文学とは関係ないが、これらのゾーンの南、手賀沼に面した「手賀沼公園」の南西の一郭に建っている。千脇守之助は、明治3年(1870)我孫子宿の旅籠「かどや」を営んでいた加藤家の長男として生まれ、東京歯科大学の初代学長になったほか、世界的に有名な野口英世を援助し、世に送り出したことでも有名である。元は生地に建てられたものを、ここ手賀沼畔に移している。

寛政元年の道標(9:39)

 街道のその先右手の「泉派出所」前に、寛政元年(1789)建の道標「従是之神(ねのがみ)道」がある。ここを右の手賀沼方向に入ると「四国相馬霊場三十八番札所:子の神神社」に行けるが、そこには源頼朝伝説もある。その「子神大黒天」には後刻道を通って訪れる予定である。

我孫子宿本陣跡

 その先道なりに左に曲がってすぐ右手にあるマンション「ジョイテル」の玄関先には我孫子市教育委員会による「我孫子宿本陣跡」の標柱があるが、辺りには往時の雰囲気は何も残っていない。本陣だった建物は、東南方向にある「子之神(ねのかみ)大黒天」への途中にその跡の一部が村川堅固元東京大学教授(西洋史学)の大正時代の別荘として移築されており、後刻立ち寄った。

脇本陣小熊(おぐま)家

 その少し先の向かい(左手)に立派な門と長い塀に囲まれた茅葺屋根の「脇本陣小熊家」があり、往時の我孫子宿の名家の面影を留めている。小熊家は、宿場の問屋兼名主を兼ねた由緒ある家柄で、茅葺き母屋や大きな欅の木が風格を感じさせる。

 この小熊家には、寛文5年(1665)の我孫子村の検地調べをはじめ、名寄帳・人別町・宿駅・年貢・助郷等の関連史料が千数百点残っている由。
 これでも、道路の拡幅工事の影響で、家屋と塀との間隔は狭くなったのだそうな。

割烹・鈴木屋本店

 車道はその侭直進すると左手の常磐線ガード下を潜るが、古代東海道(水戸街道)は右折する。その右折点左側には割烹「鈴木家本店」が古い2階建ての大きな建物を残している。この鈴木家には、柔道の嘉納治五郎が発信した懇親会の案内状が残っている由である。

水戸街道との追分の道標ほか石造物・・・我孫子市寿2-1

 その先に左へ曲がれば「青山」の渡しを経て取手・土浦方面へ向かう「水戸街道」、直進すれば木下(きおろし)を経て成田へ向かう追分があり、往時歩いた水戸街道とはここで別れを告げ、引き続き国道356号線を東南東へと直進していく。今日は、ほぼこの356号線を中心に、利根川とJR成田線の布佐駅に挟まれた所まで歩くことになる。

 その分岐には、白いガードレールに囲まれた三角地帯があり、その中に「従是右府川街道、従是左水戸街道」と刻まれた元禄四年(1691)銘の道標や、安永5年(1776)の青面金剛、「成田道・・・」の道標ほか数点の石造物がある。
 中には、近くから寄せ集められたと思われるものもあり、向きがばらばらで、傾いているものもあり、今や時代から完全に取り残され、忘れられた存在になってしまっているのが、何とも寂しく感じる。

子之神大黒天(10:05)・・・我孫子市寿2-27-10

 水戸街道を左に分けて直進していくと、その追分の少し先に「子の神」バス停があり、9:57、街道右手の電柱に取り付けられた矢印付きの大きな案内看板に従って、寄り道のため右折する。案内看板には、次のように記してある。
   
開運・厄除・お宮詣り・七五三詣り
   子之神大黒天延寿院
   関東ぼけ封じ三十三観音霊場第二番

 ここから南西の方向に、斜めに子神大黒天への参道が住宅街の中に伸びており、途中道の左右に石柱が建ち、「白花山延寿院」というのが正式名らしいことが判る。「日本正統 少林寺拳法我孫子道院」というのも院内にあることが判る。

 「子之神大黒天」は、ネズミを使徒とする大黒天を祀っており、伝説によれば源頼朝が脚気に罹ると夢に白ネズミに乗った翁が現れ、柊で足を祓うと治ったと伝えられている由。腰下の疾患に霊験あらたかと言われ、遠近参詣者で賑わったそうだが、四国相馬霊場38番札所と43番札所がある。

旧村川別荘・・・我孫子市寿2-27-9

 その「子之神大黒天」への途中、手前右手に、先刻跡地を見た宿本陣の建物の一部を移築したという「旧村川別荘」があり、無料で公開されている。

               
旧村川別荘
 旧村川別荘は東京帝国大学教授の村川堅固(西洋史学、「希臘史」「西洋上古史」など著作多数)が大正6(1917)年に購入した別荘です。堅固は旧制第五高等学校(熊本)在学中に校長であった嘉納治五郎(教育者・講道館創始者)と親交を結びました。嘉納は明治44(1911年、我孫子に別荘を設けており、堅固が別荘を設けるきっかけになったといわれています。大正10(1921)年には我孫子宿本陣にあった離れを移築・一部改装し、母屋としました(もと茅葺)。江戸時代後期我孫子宿の建築物をしのぶ資料として貴重です。また堅固は大正14(1925)年に東京帝国大学が平壌で行った朝鮮古蹟調査(石巌里205号墳発掘調査)に随行し、その際に見た建物の印象を元にデザインした新館を昭和2(1927)年に建てました。新館は大正12(1923)年の関東大震災を教訓にコンクリート基礎、銅板葺きとしています。また沼を見下ろす南側には展望を意識してガラス窓を広く取り、床には寄木モザイクを配したモダンな作りとなっています。堅固は趣味の釣りを通じて我孫子の景観を愛し、昭和初期の手賀沼干拓計画に対し我孫子在住のジャーナリスト杉村楚人冠、嘉納治五郎らと共に環境保全を訴えました。堅固は昭和21(1946)年に亡くなりましたが、別荘は息子の村川堅太郎(東京大学教授、西洋史学、「地中海からの手紙」、「古典古代遊記」、高校世界史教科書など著作多数)に受け継がれ、ここで世界的視野をもつ多くの著作が生み出され、学生たちが指導を受けました。平成3(1991)年の堅太郎没後、別荘は国に物納されましたが、自然環境を残し、別荘地として開けた我孫子をしのぶ施設として文化財価値が極めて高いことから、平成132(2001)年に我孫子市が購入して保存しています。
               2005年10月              我孫子市教育委員会


 同教授は竹を好み、竹林はもとより、外壁の竹細工が目につくほか、京都大徳寺貫主揮毫の"竹"の掛け軸があるそうだ。バーナード・リーチ設計、別荘の大工佐藤鷹蔵が作った三角椅子二脚、肥後細川家ゆかりの国学者中島広足の書などがさり気なくあるという。教授が学生のゼミ用に設計したそうである。

 村川別荘に行く手前右側には「荒井」姓の表札が掛かった超広大な敷地と立派なコンクリート塀に囲まれた、未だかつて見たことのない超々大屋敷があったが、当地の名家なのだろう。

高野山古墳群・・・我孫子市我孫子1854番1

 この後は、県道8号線の「我孫子市若松」交差点に出て500m程北上し、「消防本部前」交差点を右折して街道の国道356号線に戻ることになるが、「消防本部前」交差点に戻る前に、県道8号線の右側を歩くと、右手にある市民会館の北側に6世紀前半のものと考えられている「高野山古墳群」があるというので立ち寄ろうとしたが、工事中のためか塀囲いされていて確認できなかった。

 元は9基(8基の円墳と1基の前方後円墳)で構成されていたそうが、現在は円墳1基だけが残っているそうである。
 出土品は南側にある市民会館考古展示室にあるというが、みな格別の興味がある訳でもないので通り過ぎることにした。

 6世紀中頃、古墳時代我孫子地区第2期の前方後円墳を囲む円墳(家族墓)が8基。中心に首長のものと見られる1号墳の竪穴式石室があるそうで、1号墳の石室に7体、4号墳の石室には5体と続いて2号、3号、5号墳の順に代々営造された1系列の家族墓だという。2代目の4号墳は帆立貝形古墳に変わり後円墳と同じ大きさを保っているが、代を重ねてその規模は縮小している。直刀、鉄鏃、鍔、管玉、小玉などの出土品がある。宅地化で現存する3基の古墳の確認は難しく、その面影はない。

 手賀沼周辺には、北岸の「金塚古墳」「根戸船戸古墳群」「日立精機2号墳」「高野山古墳群」「水神山古墳群」に加え、南岸にも「天神山古墳群」「北ノ作古墳群」など、多くの古墳があったことが明らかになっている。

最勝院(10:30)・・・我孫子市高野山(こうのやま)554

 10:20に街道筋に戻り、その先600m程行った左手にある真言宗豊山派の「興旭山最勝院」に立ち寄る。本尊は不動明王で、往時はちょうど南方700mぐらいの位置にある「高野山(こうのやま)香取神社」の別当寺だった。四国相馬霊場27番札所でもある。寛永8年(1631)の五輪塔がある。これは中世の板碑以後、市内最古の墓石の由。
 文化8年(1811)に、俳人小林一茶が上総地方を巡遊の時に立ち寄ったことが、句帳「七番日記」に記されているそうだ。

(参考)高野山香取神社・・・我孫子市高野山432 >

 最勝院の南方約700m、水神山古墳の西、手賀沼ふれあいライン沿いの千勝神社の上にあり、祭神として経津主命(ふつぬしのみこと)を祀っている。敷地314坪の境内には本殿(瓦葺方形造)、拝殿(瓦葺)が建っているが、貞亨元年(1684)に本堂を再建しており、村の鎮守の趣きが深い。
 正面石段の手前に聳える「チチイチョウ」は、樹齢500年で市内有数の巨木で大木の強靭な根張り、見事な幹、素晴らしい根振りだという。また、参道右側にある「イロハカエデ」の木は、4月には幾千キロの遠い南国から「アオバツク」がふるさとを忘れず訪れるアオバツクの営巣の木の由。
 「百庚申塔」という、10個の文字塔毎に1個の彫像塔が参道両側に並んでいる。偶々、前回の古代東海道歩きで初めて百庚申を見たが、またここにも在るようだ。

高野山1号墳石室(10:39)・・・我孫子市高野山537我孫子市立我孫子中学校校庭

 その先左手にある我孫子中学校の校庭(正門付近)に、高野山4号古墳の竪穴式石室が移設され、展示されている。先刻の我孫子1854番1の高野山(こうのやま)1号墳から移築されたものである。

 我孫子1854-1にある6世紀後半の有力者の墓、長さ36m、高さ2mの鍵穴形をした前方後円石棺1~4号(竪穴式石室)のうち、4号を構内に移築。約7体分の人骨、埴輪、鉄の刃や鏃、首飾りに使う管玉・小玉が出土している。見学に当っては、事務室に挨拶する必要があるが、校門の位置から解説板やそれらしき盛り上がった石室跡が遠望できるので、それをもって良しとした。

 残念だったのは、解説板を望遠で写したのだがピントがあっておらず、その内容を正確に紹介出来ないことである。

旧道へ

 「天王台駅入口」交差点を過ぎ、次の信号(右手が東我孫子区民会館)で、国道356号線を左に分け、右折して40m程先を左折する。

水戸街道一里塚跡(10:50)

 右手に初期の水戸街道の「一里塚跡」の石碑がある。こんもりした東塚が現存し、塚の上に数本の大木が茂り、石碑には「昭和九年建之 一里塚跡 千葉県」と刻まれている。西塚は残っていない。

新四國大師道道標

 JR成田線の東我孫子駅の東端にある「向口(むこうぐち)」踏切の手前に、東京日本橋区萱場町の魚屋さんが建立した大正2年「新四國大師道」の道標が建っているということだが、発見できなかった。

 10:55に向口踏切を渡って右に線路沿いに暫く行って、再び左後方からの国道356号線に合流する。

・右手岡田建築事務所の生垣には驚いた。なんと広大な敷地の四方をすべて背の高い生垣で囲ってある。本日の街道沿いには、この種の生垣を多く見かけた。

暫し国道歩き

 その先は、暫く国道歩きが続くが、何軒かの立派な生垣の家を見掛ける。11:01、すぐ先の右手の畑の中に「地蔵堂」があり、中を覗くと可愛らしいお地蔵さんが赤い涎掛けをして鎮座しておられた。

 この辺りは「岡発戸」(おかほっと)とか、「下ヶ戸」(さげと)など、難解な地名の集落が続く。

庚申塔

 「湖北台団地入口」交差点を過ぎ、更に「岡都坂上」(おかとさかうえ)バス停を過ぎると、今度は「都部」(いちぶ)という地名になる。「都→市→いち」なのだろうか?

 「湖北台入口」バス停の先の信号を渡った左角の「法岩院入口」看板の下に、享保十七年(1732)の六臂の彫刻のある庚申塔がある。
 その先はこれまた難しい地名の「中峠台」(なかびょうだい)に入る。

長光院(11:34)

 「中峠(なかびょう)」バス停の少し先の左手にある。曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来、左右に祖師達磨大師と大権修理菩薩を安置している。「四国八十八箇寺札所」の古い石塔も建っている。

 観音堂には、観音菩薩田立像、弘法大師像が安置されているほか、境内には六地蔵や数体の石仏群がある。

阿弥陀堂(11:36)

 直ぐその先左手に墓地と阿弥陀堂があり、次のような解説板がある。

               
中峠弥陀堂墓地
弥陀堂墓地は元来中峠区有地でありましたが、永く法岩院で管理されていました。昭和二十年の世界大戦の終戦による「ポツダム宣言」により区有地は認められず市有墓地として我孫子市の管理になりました。
昭和五十七年三月市側との協議の上墓地使用者による管理組合を設立し市の依頼を受けて管理運営をして参りました。其の后墓地の払下げの為初代管理組合役員が交渉請願陳情と努力した結果昭和六十二年十一月無償譲渡され組合役員十二名の代行にて登記済になり以后は中峠弥陀堂墓地管理組合規約により円滑に管理運営され現在に至ります。
               弥陀堂
阿弥陀如来を本尊として□□浄土三部経の一つ阿弥陀佛の名号を忘れないことにより浄土に往生することが出来る阿弥陀佛の名を唱える人を守護する佛である。
               平成参年九月吉日
                              弥陀堂墓地管理組合


 また、入口左手には大きな観世音菩薩像と解説板、右手には六地蔵がある。

               
観世音菩薩建立
我孫子市中峠弥陀堂内観音像の損傷に伴い、平成八年七月吉日、中峠墓地管理組合により観世音菩薩の建立にいたりました。
観音信仰は古く四~五世紀頃インド、中国に隆盛し日本に於ては七世紀から現在に至るまで一般に普及し情け深くその名をとなえることによって人々を苦しみから救ってくれると言う有難い菩薩であります。
               平成八年八月吉日
                              中峠墓地管理組合


再び旧道へ

 そのほぼ前から街道は右折して旧道に入る。

天照神社(11:39)

 右折した突き当たりにある。鳥居の前に派手な狛犬があり、参道を入ると「伊勢山天照神社」の石柱が立つ神社がある。「伊勢山」とは、まるで寺院の山号のようで奇異な感じがするのだが・・・
 境内に聳えるイチョウとシイは驚くほどの大木で、神社の歴史を物語っている。

               
伊勢山天照神社由来
 我孫子市中峠の西端に鎮座する「天照神社」の祭神は<大日霊寶命(おおひるめのみこと)>である。
 草創は古い。社掌千濱宗輔の識書になる大正五年九月の「社殿改築記念碑文」や「湖北村史」によると、遠く<景行天皇>の御代との伝承である。
 そして、昔から下総の国中相馬七郷[岡発戸村 都部村 中峠村 中里村 古戸村 日秀村 新木村]の総鎮守として崇敬されている。旧暦九月一日が祭礼である。
 そして、八月十五日には七郷の氏子総代が親村である中峠村[芝原]に集まって談合協議を行う慣例が大正末期まで行はれていた。その祭礼は「芝原の焙烙まち」ともいはれている。そして、寛政の頃から(1789~1800年)七郷による「奉納相撲」が行はれていた。祭礼の日には大正の末期まで、湖北小学校の生徒の参拝が行はれるなど、誠に由緒深い神社である。
 現在の社殿は、平成二年十月一日に完成、社殿は本殿 幣殿 拝殿からなり、何れも銅板葺 檜造りである。本殿は、神明造り、千木 鰹木を備える。水屋は銅板葺 檜造りである。
<合祀>
 明治四十年四月二十五日
   浅間神社 (二本榎旧在)
   鹿島神社 (鹿島前旧在)
   雷 神社 (亀田旧在)
   第六天神社(高根旧在)
   山王神社 (海老宿旧在)
 明治四十一年十二月二十六日
   稲荷神社 (上溜台旧在)
   足尾山神社(下根古屋旧在)
<石祠>
 大杉大明神 寛政 四年(1792年)
 水神    文化 三年(1806年)
 足尾大権現 文化一〇年(1813年)
 月読命   明治 七年(1874年)
 石裂鎮座  
 加蘇山神社 明治十四年(1881年)
 別雷命   明治四〇年(1907年)
 大山祇命  明治四〇年(1907年)
  その他 伊勢神宮 三峰神社 出羽三山 富士 大山等の参拝記念碑多数がある。


 本殿左手に天正九年(1581)銘の「二十一仏武蔵石板碑」があり、解説板が建っている。二十一仏石板碑は全国的にも珍しく、大宮市を中心に発見され、我孫子市(中峠)は、その東限だという。
 そして、どういう経緯なのか、その解説板の前の真新しい石碑に「
この板碑は我孫子市に返還を求めここに安置した 平成十三年十一月吉日」と記してある。

               
我孫子市指定文化財 『二十一仏武蔵石板碑』
 関東地方に残る中世の石造物の中で最も多いのが板碑です。板碑とは主として死者の追善供養や、自らの現世安穏後生善処を祈願して建立したもので、後には墓石を兼ねるものも見られます。大きく武蔵板碑と下総板碑に分けられます。
 武蔵板碑は、秩父地方に算出する綠泥片岩を素材としています。頭部を山形にして中央に仏・菩薩の画像や種子を彫り、その下に造立の趣旨や年号あるいは戒名などをしるした板状の石塔婆です。千葉県下では利根川中流域から東京湾岸にかけて広く分布しています。
 二十一仏石板碑は全国的にも少なく、埼玉県大宮市を中心に発見されています。その分布範囲は狭く、我孫子市(中峠)はその東限になります。
 二十一仏信仰は平安時代に始まりました。比叡山の二十一社の諸神を、仏教の如来・菩薩・明王・天の主なものにあてはめて本地仏としたものです。
 この二十一仏石板碑は天正九年(1581年)十一月の作で、中世の宗教資料としても貴重なものです。
 平成七年五月十一日に我孫子市指定文化財に指定されました。


 街道に戻り、東へ少し行ってすぐ右折し、JR成田線湖北駅北口へと向かう。大勢の乗客が電車の到着を待っている風景が印象的だったが、成田線のダイヤは30分に1本だそうで、それにしても人数が多すぎるというのが印象的だった。

中里薬師堂(11:57)

 その先、湖北駅北口を通って線路沿いに少し行くと、右手に左手に踏切が見える。道筋としてはその踏切を渡って行くことになるのだが、寄り道のため左折する。
 すぐ先のY字路を左に入った右手に北向に建つ「中里薬師堂」に行く。

 堂内には、薬師三尊や十二神将が横一列に並び、脇侍の日光・月光菩薩は薬師如来を補佐している。
 また、右手には「子安地蔵尊堂」、左後ろには高い火の見櫓があり、沢山の石造物が並んでいるが、善光寺如来・出羽三山供養塔・伊勢大々御神樂・庚申塔・如意輪観音・地蔵菩薩等の碑、それに複合神碑(阿夫利神社・大山祇大神・大雷神・高龍神)等々、大変な数である。

              
 中里薬師堂薬師三尊及び十二神将像
 薬師三尊像とは、薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の三尊をいいます。薬師如来は衆生を救うための十二の大願を立てて仏陀となりました。日光、月光菩薩は薬師如来を補佐する役割です。十二神将は薬師如来の十二の大願に対応して、薬師如来を信じる人々を守護するとされています。また十二神将は、薬師如来の分身とされたり、薬師如来の眷属と位置づけられたりして、後になると昼夜十二の時、十二の日、十二の月を司ると考えられ、十二支と結びつくようになりました。十二の神将の名称、形など一定してませんが、近世には、この中里薬師堂にある十二神将像のように十二支をあて、子神、丑神、寅神、卯神、辰神・・・とされることが多くなります。
 我孫子市内では、十二神将像十二体が揃っているところは、ここだけであり、大変に貴重な例です。また、江戸時代半ば過ぎから定型化する十二神将像の形であることから、江戸時代後半に中里新田開発後、中里地区の人々の信仰を集めて制作されたものと考えられます。中里薬師堂のように薬師三尊像と十二神将がそろって今まで伝来していることは、地域の人々に深く信仰され、管理されてきた証でもあります。
 現在薬師三尊像は厨子の中に秘仏として安置され、年1度の祭礼のときに開扉されています。この薬師三尊像と十二神将は平成18年3月に我孫子市指定文化財(8号有形文化財)に指定されました。
               2007年3月              我孫子市教育委員会


 朱塗りの「子安地蔵尊堂」にも墨書された、達筆かつ韻を踏んだ下記文が付せられている。

               
地蔵和讃
これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる 賽の河原のものがたり 聞くにつけても哀れなり 二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬみどり児が 賽の河原に集まりて 父上恋し母恋し 河原の石を取り集め これにて回向の塔をつむ 一重つんでは父のため 二重つんでは母のため 兄弟わが身を回向して 昼はひとりで遊べども 日も入りあいのそのころに 地獄の鬼が現れて つみたる塔をおしくずす その時能化の地蔵尊 われを冥土の父母と 思うてあけくれ頼めよと 幼き者をみ衣の 裳裾のうちにかき入れて 憐れみたもうぞありがたき 未だ歩めぬみどり子を いだきかかえてなでさすり 憐れみたもうぞ有り難き
南無延命地蔵大菩薩
                                   渡邊栄二郎


相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)(12:10)・・・我孫子市日秀字西60番6の一部他 千葉県立湖北高校内

 元に戻って踏切を渡り、直ぐに左折して今度は線路沿い南側の道を行くと、老夫婦らしき人と孫らしき男児がカメラを構えて下り列車を今や遅しと待ちかまえているのに出くわす。はて、SLが通るとも思えないし・・・と訝っていると、湖北駅を通過して成田へ向かう「初詣」の特急列車がやってきて、得たりとシャッターを押していた。それにしても、良く予定時刻を調べて待ちかまえている者だと感心しながら進んでいくと、右手に「湖北高校」があり、フェンス前に「相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)」の解説板がある。

               
相馬郡衙正倉跡(日秀西遺跡)
 古代の日本では行政区分として東北から九州が六十の国に、さらに国が複数の郡に分けられ、国の中心には国府、郡の中心には郡衙(郡家)という役所が置かれ、地域に於ける支配を担っていました。我孫子周辺は下総国相馬郡とされてきましたが、中心となる相馬郡衙がどこにあるのかは長らく謎のままでした。
 昭和53(1978)年、千葉県立湖北高等学校校舎建設に伴って、(財)千葉県文化財センターによる日秀西遺跡発掘調査によって多数の意向を確認しました。1期(6~7世紀末)は竪穴建物188棟からなり、我孫子市内でも有数の古墳時代後期の大集落です。2期(世紀末~8世紀中頃)は竪穴建物を排除して掘立柱建物7棟が建てられ、3期(8世紀中ごろ~9世紀初頭)は東西12m、南北54mの広場を取り囲むように倉庫建築に用いられる総柱式掘立柱建物や礎石式基壇建物34棟が規格性をもって建てられています。基壇建物の1つからはタガネで半分に割られて地鎮祭に用いられた和同開珎の銀銭が出土したほか、建物の基礎や周囲から大量の炭化米が出土しています。4期(9世紀初頭~10世紀)は3期建物が火災で焼失した後、掘立柱建物9棟の小規模な区画で再建されたものです。特に注目されるのは3期の建物で、広場を取り囲む規格性のある建物配置は当時の官衙(役所)遺跡に共通するものであり、相馬郡衙の中核的な施設である「正倉」であると考えられました。郡衙正倉は本来、税「租」として徴収した込め(稲殻)を凶作時の備え、田植え時の種籾として貯蔵する施設で在地支配の象徴的な存在でした。また3期建物が火災で焼失しているのは奈良時代の正史である「続日本紀」に記載されている神火事件(貯蔵米の不正使用発覚を恐れた郡衙役人による放火事件。各地の郡衙正倉遺跡で火災痕を確認)による可能性があります。郡衙には正倉の他、郡庁、館、厨、駅家などの施設が付随し、郡司などの役人や郡内各地から集まった人々が居住する政治・経済・文化の中心都市であったことが文献に記載され、我孫子市教育委員会が発掘調査を通じて全容の解明につとめています。
 相馬郡が正倉跡(日秀西遺跡)は平成7(1995)年、千葉県指定遺跡となっています。
 なお出土した遺物の一部は湖北高校内の展示室でごらんいただけます。
(問い合わせ先)千葉県立湖北高等学校 電話04-7187-1541
               平成18(2006)年3月
                              千葉県教育委員会
                              我孫子市教育委員会


(以下は、湖北高校のホームページから)

 
日秀西遺跡展示室湖北高校のあたりは「日秀西遺跡(ひびりにしいせき)」という遺跡で、学校を建てる前の発掘調査で、旧石器時代から奈良・平安時代の多くの建物跡や生活の道具などが見つかりました。
 遺跡は北側の利根川と南側の手賀沼に挟まれた、周囲の水田面から15メートルほどの高さの台地上にあります。江戸時代以前は、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼や今の利根川は皆つながって太平洋から入り込む大きな内海(うちうみ)で、遺跡のある台地はその中に西の方からとび出るような形でした。さらに、湖北高校の西側には手賀沼側から北に入り込む小さな谷が入っており、交通上でも大事な位置にあったと考えられます。
 この遺跡では、旧石器時代は少しの石器、縄文時代の初めは住居跡8軒、弥生時代の終わり(1,800年前頃)は住居跡2軒、古墳時代の初めは住居跡2軒が見つかり、それまでは小さなムラだったのですが、古墳時代の終わりになると住居跡が186軒という大きなムラができます。また、奈良・平安時代には54棟もの建物が整然と建てられ、この地方の郡の役所の倉ではないかと想像されています。
これらの建物跡は全国的にも貴重な例だったので、千葉県指定史跡「相馬郡衙正倉跡(そうまぐんがしょうそうあと)」として学校の校庭の下に保存されています。

 校内に展示室が設けられ、遺跡から出土したものの一部が展示されています。平日は常時一般公開しております。ささやかな展示室ですが、ご覧ください。

遺跡保存のために広くとられた中庭

将門神社(12:19)・・・我孫子市日秀131

 湖北高校の北側の道を暫く行くと突きあたる三叉路があり、順路としては左折して踏切を越えていくのだが、この日秀地区は平将門ゆかりの地なので、寄り道のため右方向に曲がる。

 少し行った所に立て看板があり、右手の先に、「日秀将門公園」があり、旧日秀村の村社「将門神社」がある。清水氏は大変立派な社殿を想像していたようだったが、鳥居の扁額には「平親王将門大明神」と記されているものの社殿は祠程度のもので、想像通りの規模だった。
 平将門伝説は各地にあり、将門を祀る神社も多いという。

 將門神社は、天慶3年(940)の創立で、祭神は当然のことながら「平親王將門」を祀っている。將門公戦没の後、その遺臣たちが手賀沼を越えて一宇を建て、公の神霊を迎えたが、明治42年(1909)に、将門社を将門神社と改称している。將門が手賀沼を馬で乗り切り、丘の上で日の出を拝したのがこの地との伝承があるが、今は社殿はなく参道奥に石殿が祀られている。例祭日は6月6日の由。
 稲荷神社、三峯神社、大日神、天照皇大神、敷石供養塔等の石仏がある。

将門の井戸(12:25)

 先ほどの看板の位置に戻り、今度は「将門の井戸」の案内表示に従って、左の坂道を下っていくと、承平2年(932)に将門が開き軍用水を供したという「将門の井戸」がある。これまた叢の中にすり鉢状に掘られ、底の木の葉が僅かに濡れている程度の水しか溜まっていない。往時はともかく、今は水は全く湧いていないと思われ、単なる窪地になっているだけなので、案内柱が無ければ到底判らない。

 ただこれは、中相馬七ヶ村に一つずつある七つの井戸の内の一つで、日秀では「石井戸」と呼んでいたそうだ。

昼食(12:31~13:00)

 元の三叉路に戻り、右手に右手にこれが鎌倉道だったのだろうと確認しながら踏切を北に渡り、すぐ右手にあった「大村庵」で昼食とした。
ちょうどテレビで「第15回全国都道府県対抗男子駅伝」を放映していたので、区間毎に決められている高校生区間や中学生区間での力走ぶりに力を得て、再出発した。自宅では録画予約済みなので帰宅後に改めてゆっくりと楽しんだが・・・

日秀観音(13:03)・・・我孫子市日秀90

 国道356号線に戻る直前左手に「慈泯(愍)山観音寺」と号する曹洞宗の寺院がある。現在の観音堂は安政年間の創建といわれ、左にある本堂には本尊釈迦如来を安置している。
 赤い屋根の観音堂に安置された「日秀観音」は、平將門の守り本尊と伝えられる聖観世音菩薩(伝・行基作)である。

 伝説によると、承平2年(932)将門はこの地に石井戸を開き、近くに観音像を祀り、武運長久を祈願した。その後も霊験あらたかで、後に日出弾正左友治が信仰し、観音寺境内に一宇を建立したという。

 新四国相場霊場第29番札所になっているほか、一面六臂の庚申塔立像(右手に宝斧?、宝矢、左手に宝輪、宝弓)があり、邪鬼を踏みつけ、下部には3猿が見える。また、見事な彫刻の施された大師堂や、待道大権現・薬師堂・首振り地蔵尊・庚申塔群などもある。

<首曲がり地蔵(別名:首振り地蔵)>

 日秀の集落には、將門伝承が数多く残っており、観音寺境内にある首曲がり地蔵(別名:首振り地蔵)は左に小首をかしげている。これは、平将門が関東諸国を平定して新皇と称し、弟などを国司として任命し関東の独立を図り、理想の国を作ろうとしたのを朝廷は反乱とみなし、天慶3年(940)1月19日、参議藤原忠文を征東大将軍に任命し、将門の追捕を命じた。そして2月14日、将門は下総国辛島において平貞盛や藤原秀郷らによって討たれた。この間、成田山新勝寺では将門調伏の祈祷を行ったため、将門を敬愛する日秀の土地の人たちは、以後成田さんには参詣しなくなったという。この首曲がり地蔵は、そうした土地の人たちが故意に成田さんとは反対の方向に首を曲げて作ったものとされ、境内東端、成田街道に面して建てられている。

葺不合(ふきあえず)神社(13:17)

 この観音寺のある信号を右折し、国道356号線に合流して暫く進んだ先左手に、「葺不合(ふきあえず)神社」がある。森の中にある静寂・荘重な雰囲気の神社だ。街道に面し、周りに庚申塔群のある鳥居を潜ると、参道は、一旦下がってから再び鳥居を潜って石段を登っていくという珍しいパターンの神社である。

               
鸕鶿草葺不合神社拝殿改修記念
 古来より、沖田村の弁天様と崇敬されているのは、この拝殿のことである。
 この拝殿は元々独立した神社で、祭神は市杵島比売命(弁財天)が、祀られ創祀は文治二年(1186)と言われている。
 現在の社殿は明和二年(1765)に弁天堂として造営され、その後、明治元年(1868)の神仏分離政策により、厳島神社と、改名された。
 葺不合神社本殿は元来宮前の地にあり、創祀は奈良朝に遡るとされ、沖田の産土神として親しまれてきた。明治三十年に再建されたあと明治三九年(1906)の一村一社の令により、字宮前より字竹ノ内のこの地に、三峯、白山等の神社と共に合祀され、これを機に主祭神を鸕鶿草葺不合尊とした。この時に拝殿堂内の八臂弁財天を右の間に遷し、葺不合神社本殿を拝せるように中央正面の壁を観音開きとした。
 爾来、二四〇年近くの風雪に耐えた拝殿は、近年痛み甚しく、氏子一同深く憂慮していた処、新木駅南側土地区画整理事業の際に提供した明神田の協力金を以て改修の基金とする事を氏子中に諮って、賛同を得る事が出来、機運が昂揚し、改修を決定した。
 改修は、これ迄、昭和四十七年に茅葺き屋根に鉄板覆いとしてあったものを今回銅板葺きとし、床下は玉石じんぎょの間をコンクリートで固め、回廊下を布基礎とした。その他の修理や付帯工事も実施し、資金の不足は浄財を募り事業を完工した。漸くにして昔日の姿が蘇り、一同感慨無量を極めた。
茲に、なお一層の尊拝を深め、郷土の発展と氏子中の末永き平安を祈って、記念碑を建立する。
               平成十五年五月吉日         拝殿改修委員(以下人名略)

 拝殿の後ろの一段高いところに本殿がある。四面の壁面には、神話から、八岐大蛇退治、三韓征伐、天岩戸、神武東征の物語性のある見事な浮彫りが施されており、特に柱に龍がからみついた彫刻は、繊細かつ立体的な透かし彫りで、一本の木から彫られたと思われる見応えあるものである。

長福寺のお堂(13:38)・・・我孫子市下新木

 また暫く行った先の左手に新四国相馬霊場「長福寺」のお堂があるが、現在は廃寺になっており、大師堂には彫刻が飾られている。

 入口を入った左手鳥居の扁額に「榊八幡大菩薩」と記され、小さな祠がある。奥にはやはり左手に彫刻の見事な小さなお堂がある。彫刻は、先刻見た葺不合神社の彫刻に似ている。

「従是東 千葉縣東葛飾郡布佐町」石標(13:43)

 新木から布佐に入る境目の右手に「従是東 千葉縣東葛飾郡布佐町」と刻まれた大きな石標がある。
 紀年が見当たらないが新しいもので平成の時代になって再建されたものと思われる。

気象台記念公園(13:47)・・・我孫子市新木野2-5

 その先、左手に「気象台記念公園」がある。新木地区の高台にあり、以前は気象送信所だった所である。新田次郎が青年時代に勤務した場所だそうだ。

一里塚跡(14:06)

 ローソンの先、右手に「一里塚跡」の石碑がある。昭和9年に千葉県が建てたものである。裏面に漢字カタカナ混じりの碑文が刻まれている。

              
 一里塚遺跡
一里塚は慶長九年徳川家康の築設ニ係ルモノニシテ江戸日本橋ヲ起点トシ全國ノ主要ナル道路ノ両側ニ一里毎ニ塚ヲ築キテ榎樹ヲ植エ以テ里程ヲ明カナラシムルト共ニ行路往還ノ旅情ヲ慰メタルモノナリ
               昭和九年               千葉縣

石仏石塔群(14:19)、愛宕・八坂神社

 その先、右手の少し小高い脇道に、庚申塔などの石仏石塔群が約10基ある。

 その右の石段の上には、「愛宕・八坂神社」があり、本日参拝する最後の神社として立ち寄り、きょうの無事を謝する。

延命寺(14:23)・・・我孫子市布佐 2318

 その先左手にあり、予定外ではあったが真言宗の寺院でもあったので本日最後の寺院として、きょうの無事を謝する。

 門前には、「六阿弥陀第二番」の石塔、「南無阿弥陀佛」の六字名号碑、「廿三夜」塔、「門柱建立記念之塔」、陽刻された「観音座像」などが並んでいる。

ゴール

 その先左手に、利根川に架かる県道4号線の「栄橋」が見える。その道との交差点をもって「古代東海道」も「下総国」を歩き終わり、次回からは愈々対岸の茨城県利根町へと入り、古代東海道最北端の常陸国府(石岡市)へと進むことになる。

 あとは、14:28にその先の右手県道197号線へと右折してJR成田線布佐駅に向かう。途中、打ち上げ場所を探したが何もなく、缶ビールすら買えないので、14:36布佐駅到着、14:40発の直通上野行きに乗り、北千住駅で途中下車して、駅近くの店で小一時間軽く打ち上げてから散会し、再び日暮里・新宿経由帰途についた。
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