2010.07.25(日) 古代東海道 #13 龍ヶ崎市上大徳 〜 龍ヶ崎市下塗戸

【本日の行程】 街道距離10km

 関東鉄道竜ヶ崎駅==(タクシー)==龍ヶ崎市上大徳「」みず穂通→八代町→半田町(古代榛谷[ハンガヤ]駅比定地)→塗戸(ヌルト)町→(湯ったり館)==(循環バス)==関東鉄道竜ヶ崎駅

スタート(10:39)

 メンバーは、いつも通り清水・村谷両氏との3人旅である。清水氏とは一緒の列車だったらしく、佐貫駅で出会い、10:20関鉄竜ヶ崎線竜ヶ崎行きに乗車、10:27竜ヶ崎駅到着でいつも通り先着の村谷氏と合流する。
 定例メンバーが揃ったところで、当初予定では10:40発関鉄バス「江戸崎行き」に乗り、10:45砂町バス停着の心づもりだったが、駅前で客待ち中のタクシーに相乗りし、10:39には前回の街道終着点である竜ヶ崎市上大徳の地蔵堂のある交差点を左折して、「みず穂通」を北に向かってきょうの行程を歩き始める。

 3人とも各人なりの暑さ対策だが、共通しているのは「日傘」である。梅雨明け以来連日熱暑の続く最中での街道歩きなので、傘は大いに助かるグッズである。

県道から旧道を経て再び県道へ

 先ずは真っ直ぐな広い県道5号線(みず穂通)を1600m程進み、「上八代」バス停で右カーブする県道を右に分けて直進する旧道に入り、11:05に350m程先で右カーブすると、風邪の通り道になっているのか東西の道は涼風が全身を涼やかに迎えてくれる。
 道はそこから750m程先の「下八千代」で先刻別れた県道といったん合流する。

 旧道は流石に車が少なく、静かで気持ちがいい。両側には立派な生垣や門構えの家もある落ち着いた佇まいの道が続く。

一級河川・二級河川

 県道に合流すると「破竹川」という小さい小川を渡るが、「一級河川」と書いてある。この河川等級と河川規模の関係についてかねがね疑問を持っていたのだが、調べた処、概略次のような基準でランク付けされていることを知った。見た目の規模によるもので無いことは知っていたものの、調べてみて漸く納得できた次第である。

<1級河川>

 1級水系(国土保全上又は国民経済上特に重要な水系で、国が政令で指定)に属する河川をいう(河川法第4条第1項)。

<2級河川>

 2級水系(1級水系以外の水系で,公共の利害に重要な関係があるものを都道府県が指定)に属する河川をいう(河川法第5条第1項)。


 この水系というのは、本・支流をまとめて指す言葉で、非常に小さな川でも,最終的に1級河川に流れ込んでいれば,その川も1級河川になる。則ち、1級水系に含まれる川なら、どぶ川クラスは別としても、一定規模以上の川なら1級河川になり、2級水系についても同様である。
1級・2級の指定は水系単位で行なうため、1級水系の中に2級河川が存在することはない。

 両者の選定権限や管理責任については、1級河川は国(形式的には国交大臣、実務的には国交省河川局)が河川審議会や流域都道府県の意見を聞いた上で選定・管理し、2級河川は都道府県(形式的には知事)が流域市町村の意見を聞いた上で選定・管理している。

長峰神社と鷲宮神社(11:28)

 250m程先の左手にガソリンスタンドがある所で、再び県道を右に分けて左の旧道に入ると、暫く先の左手高台に「長峰神社」と「鷲宮神社」がある。

 最初に、立派な鳥居の奥に赤塗りの小さな社殿の「鷲宮神社」があり、更に石段を登っていった高台上に「長峰神社」があり、本日最初の神社なので謹んで合掌参拝の上、社殿の陰で暫し休息する。

 長峰神社に向かって左手前に、立派な「復古記念」碑が建ち、次の如き由緒来歴が刻まれている。

              
 復古記念
過今来を一貫して この里の創造伸展の中心的主位は長峰神社なり 祭神 天照皇大神 豊受皇大神 天日鷲命 長白羽神 市杵島姫命 火産霊命を祀り 安心立命の源泉なり 仰げば 創建極めて古し 降って明治四十一年四月 宿 五十瀬 竜ヶ井 宇賀 西坪 鷲 才ノ谷 白羽 沖前 厳島 同四十三年十二月 宿 愛宕 各祠は塗戸村社鹿島神社に合祀となる 当時の制度に従ふも必ずしも心服にあらず 故に形式に留まり 事実は旧観を固守し 伝統的祭事盛んたり 昭和二十年八月 未曾有の敗戦に伴ひ 諸制度全く改まる 人心の混迷甚だし 時に万世のため太平を開くの途は復古にありと立願の折 竜ヶ崎ニュータウン大事業該当区となる 茲に有志謀り衆議を重ね 昭和五十五年九月 長峰神社設立の実務を起こしたるも希有のこと 日夜苦心惨憺 漸く三年を閲し 同五十七年十月二十一日神社本庁統理の承認 次いで同五十八年四月二十二日県知事の認証を受け 遂に同年五月二十七日 宗教法人登記完了 芽出度く独往の日を迎ふ 嗚呼 明治より算えて実に七十六年 神界の嘉賞 正に絶大なり 報本反始の美挙を是に録し 後世に伝へるものなり


旧家・豪邸

 黒塀が長く続く豪壮な旧家のお屋敷や、名古屋城の金の鯱には及ぶべくもないが、瓦屋根に鯱が飾られた家などがあり、旧道らしい落ち着いた雰囲気が残っている。
 特に、「池田」・「矢口」姓の豪邸が目立つが、往時の繁栄ぶりやその依って来たるものがいかなるものであったのかと話題になる。冠木門を構えた立派な家もいくつかある。

観音堂(11:44)

 その先左手の、少し奥まった所に、一見お堂らしく見えないが間口4間程の建物があり、「稲荷神社」や「観音堂」寄進者名を書いた木板が掲げられた建物があり、中は窺えないが観世音菩薩像が安置されているお堂らしいことが判った。その奥側辺りに稲荷神社があるらしい。

 境内には石仏石塔群が多々あり、右手には女人講が造立した「十九夜供養塔」とか赤ん坊を抱いた石仏・庚申塔群が覆屋の下に並び、奥には、十八夜講による奉納の「半跏思惟像」(宝暦11年=1761年銘)が並び、街道との途中右手には「観世音稲荷社石坂新築紀年碑」、「馬頭観世音」碑、左手には天明二年銘の「奉納大乗妙典日本廻国」碑ほか多数がある。

古代榛谷(ハンガヤ)駅比定地

 その先、県道68号線と交差するが、この北辺りが「古代榛谷駅比定地」だそうで、茨城県史にも記されているというが、ただ田圃が広がっているだけで何の表示もある訳ではない。

 その県道を右折して、剣道絵号線沿いにあるコンビニに立ち寄り、アイス休憩とするが、熱暑に晒され続けの身には大変心地よい。既に昼食時刻だが、食堂のような所は全くなく、遠からず立ち寄り予定の“湯ったり館”に期待して先に進むこととする。

石仏三体(11:52)

 元の街道に戻り、そのすぐ先、小川を渡った左手の路傍に石仏三体がある。

 この辺りも、立派な生垣や土蔵をもった家のある静かな道が続いており、石仏には居心地の良い場所だろうと思われる。

西光寺・鹿島神社

 その先左手の奥まった高台に、西光寺や鹿島神社があるようだが、入り口が判らず、街道からも見えないのでパスする。

石仏群(12:14)

 その先左手にある「塗高公民館」があり、その奥の広場の奥に、赤屋根の覆屋に安置されて石仏群がある。

 「奉納百堂二世安楽之為也」と書かれた紙が多数貼ってある。「二世安楽之為」は判るが、「奉納百堂」というのは大変な志であり、さぞかし良き来世を迎えたことと信じたい。

道間違い

 旧道を東進し、左折して北に曲がるポイントを間違えてしまった。
 手許の古い地図に載っていた「下塗戸バス停」の立て看板が見えたのでそこを左折したのだが、正しくは、もう300m程先を左折すべきだったことが後で判明した。

 間違えた道は、広い車道でしかも緩やかな登り道だが、炎天下なので少々気合いを入れて登らなければならない。涼やかな旧道を歩くはずだったのにうっかり忘却して気づかずに突き当たりの大和ハウスの広大な敷地に突きあたる三差路まで行って、漸く間違いだったのに気づいたが、きょうは近くの“湯ったり館”で汗を流し、昼食を兼ねて喉を潤す予定だったので、ナビを取り出し、約1.2km先の温浴施設“湯ったり館”へ行く。

湯ったり館・・・龍ヶ崎市板橋町440  【電話】0297-60-1126
        http://housakumura.or.jp/yuttari/index.html

 「湯ったり館」は、龍ヶ崎市農業公園豊作村にある温浴交流施設である。入場料500円でふれあいの湯・ふるさとの湯いずれかに入れ、気泡風呂・水風呂・サウナ・露天風呂・薬湯などに入れるが、湯には全て天然石の内で最もイオン化作用の強い薬石「光明石」を通した人口温泉になっているので、ゆっくりと一日の疲れを取り、広間で渇いた喉を生ビールその他で潤せる。

 ここからなら、龍ケ崎市コミュニティバス「Bルート(湯ったり館線)」で26分間の乗車で今朝のスタート駅「竜ヶ崎駅」に帰着できるので、タクシー利用よりも遙かに経済的である。
 また、次回のスタートは、竜ヶ崎駅から同じバスで少し戻るがことになるが、竜ヶ崎駅9:47発で「下塗戸」バス停着10:06の便が利用できるので、往復のタクシー利用が避けられる筈だ。

 早速貴重品を預けて、汗を流し、持参した衣類にサッパリと着替えて、ジョッキの生ビールで、持参の、あるいは注文のつまみ物を肴に水分補給する。

 折良く、13:56発の龍ヶ崎市コミュニティバスに間に合いそうなので、些か物足りなさを感じながらも腰を上げ、100円と格安のコミュニティバスに揺られること25分、回り回っての循環バスだったが、関東鉄道竜ヶ崎駅14:30発にジャストタイミングで間に合い、14:37佐貫駅で下車。

打ち上げ

 すぐ常磐線に乗らず、いつものコンビニ内の椅子席で更に喉の渇きを癒やすこと約30分、15:17発快速電車で日暮里経由新宿西口に出、「魚や」で最後の仕上げをして散会とした。
 熱暑下での歩きだったが、距離を抑えたこと、“湯ったり館”で汗を流せたこと、充分に水分を回復し、疲労快復がはかれたことで、各人大満足気分で次回の再会を約して散会した。
古代東海道餐歩
Top Page
Back
Next