木下街道
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 2010.05.02(日) 木下街道 #2 船橋法典〜千葉ニュータウン

スタート

 9:30集合の案内で、小川・野呂・村谷・長塚の各氏の参加を得て、前回のゴールとした船橋法典駅をスタートする。

藤原観音堂(9:45)・・・船橋市藤原3-2-18

 街道左手に赤い屋根で比較的最近新築されたと思われる、通称「身代観音」と称される「藤原観音堂」がある。行徳札所の番外霊場になっており、木造観世音菩薩立像が市指定有形文化財(彫刻)になっている。

               
市指定文化財(有形・彫刻) 木造観世音菩薩立像
                         一九六六年(昭和四一)二月二十二日指定
 当藤原堂内に安置されている観世音菩薩像は像高九十センチメートル、木造箔押し、寄せ木造りで、製作年代は鎌倉時代と推定されるが江戸初期とする説もある。当地方では珍しく端正な仏像であり、土地の人々には「身代り観音」と呼ばれ、秘仏である。
 「身代わり観音縁起」によれば京仏師観世は宇治の長者の依頼でこの像を刻み、帰途に大江山で山賊に襲われ刀傷を負ったが身体に異常は無かった。同じ頃、長者のもとで観音像から血が流れていたことから、観音像が観世の身代りになったことがわかり、篤く信仰されたといわれる。江戸時代初期に行徳の富豪田中三左衛門が、丹後の見樹寺から請い受けて持ち帰ったのがこの身代り観音であると伝えられる。この像は徳願寺に納められたが、藤原村が開かれた後、元禄三年(1690)徳願寺領のこの地に移し、寺を建てて安置したといわれている。
               一九九二年三月
                              船橋市教育委員会

道標地蔵(10:21)

 東武野田線を越え、更に船取県道を越え、鎌ヶ谷大仏駅に向かう途中右手鎌ヶ谷新田郵便局(南鎌ヶ谷3−5−62)の手前に「清長庵」という小さな寺があり、その境内に道標を兼ねた地蔵尊が一基覆屋の下にある。

 正面に「正徳五年(注:1715)己未天四月二十四日」の文字と「いんざいみち 加志ま道な里」、左側面に「かまがい道」、右側面に「じんほう道」(船橋市)と刻まれたものである。鎌ヶ谷市内では最古で、地蔵に道標が刻まれている市内唯一のものだという。設置当初の位置は不明だが、鎌ヶ谷宿を示す道標として貴重なもので、鎌ヶ谷市指定有形民俗文化財になっている。

 また、向かってその左手にも六地蔵ほか、沢山の石造物が林立している。

往時の旅籠・丸屋(10:53)

 坂を登り切ると、右手の角に「延命寺」があり、ここから鎌ヶ谷大仏にかけてが木下街道の中心とも言うべき「鎌ヶ谷」の中心でになる。

 曾てこの宿には柴崎屋・江戸屋・銚子屋・丸屋・鹿島屋・船橋屋と6軒の旅籠があったが、明治40年頃まで営業していたという。柴崎屋は酒屋に、江戸屋は岩井工務店に、鹿島屋はステッカー屋になったそうだが、鎌ヶ谷大仏駅近くの右手にある旧旅籠「丸屋」だけが、現在も太い柱に黒瓦の木造二階建の建物で往時の宿の面影を残している。明治30年頃の建物だそうだ。古くは一階の離れに8畳と6畳間があり、武士を中心に泊め、2階には6畳と8畳の部屋が6部屋あり、そこには一般の旅人達が泊まった由。

 また、曾ての銚子屋には、深さ1.5m位の「雪床」があり、冬雪が降るとそこに雪を蓄え、木下の業者たちは宿に着くなり魚をそこに冷蔵庫替わりに埋め、翌朝また掘り出して運んでいったそうだ。また、文政8年(1825)に渡辺崋山が木下街道を通った際はこの宿で昼食を摂ったと言い伝えられている由である。

鎌ヶ谷八幡宮(八幡神社)と百庚申(10:57)・・・鎌ヶ谷市鎌ヶ谷1−6

 鎌ヶ谷大仏駅のすぐ先右手に「鎌ヶ谷八幡宮」がある。

 主祭神は誉田別尊(応神天皇)で、境内の由緒書では縁起不明とあるが、明治初期の神社明細帳によると寛永6年(1629)9月の創建である。立派な神明造の本殿と拝殿があり、よく掃除の行届いた厳かな神社で、神紋は右三ツ巴である。

 鎌ヶ谷大仏駅北側に隣接しているが、駅前にこれだけ広い境内を持っているのには驚かされ、曾ての鹿島道(木下街道)に接し宿場が近かった故と思われる。

 参道左手に「百庚申塔」がずらり並んでいるのが圧巻である。天保12年(1841)〜13年の造立で、青面金剛像を彫った10基と庚申塔と刻まれた文字塔90基から成っている。

 このような数量をもってより多くの功徳を願う信仰方法が江戸時代後期から盛んになり、この百庚申もその影響を受けたと考えられているが、下総地方を中心に流行したという。

 また、同じく鎌ヶ谷市指定有形文化財になっている寛政7年(1795)銘の庚申道標もあり台座左右に、「東さくら道 西こがね道」と刻まれている。現在は境内にあるが寛政7年11月、日光へと続く日光東往還へ通じる小金佐倉道と木下・行徳を結ぶ木下街道の交わる十字路(現在の大仏十字路)塚上に建てられていたものである。

鎌ヶ谷大仏(11:05)・・・鎌ケ谷市鎌ケ谷1−5

 鎌ヶ谷八幡宮と街道を挟んで斜め向かいに「鎌ヶ谷大仏」がある。名は大仏だが、大きさは高さ1.8m程の青銅製で、安永5年(1776)11月に鎌ヶ谷宿の大重鎮で富豪の大国屋・福田文右衛門が先祖の冥福を念じて、江戸神田の鋳物師多川主膳を招いて鋳造させた露座の釈迦如来仏である。

 大仏開眼に際しては、福田家から大仏までの約3町(約327m)に琉球表を敷き詰め、僧侶50余名に稚児・楽人などを請じて練り供養が行われたというから、なかなかのスケールである。当日の料理は江戸京橋の八百善に注文し、客の二の膳には壺を置き、その中に一分銀、皿には小判を入れて贈り物にしたという豪勢な話も残っているそうだ。

<官軍兵士の墓>

 大仏墓地内に「官軍兵士の墓」がある。
 福田八郎右衛門が率いられ、慶応4年(1868)江戸城明け渡しに反発した旧幕府陸軍主力の撒兵隊と、これが鎮圧のために向かった新政府軍が房総各地で戦闘を続け、東葛地方では「市川・船橋戦争」と呼ばれる激しい戦闘を繰り広げたが、その際戦死した佐土原藩士・蓑毛次右衛門と同巳之助2名の墓が解説板と共に建っている。

道標を兼ねた魚文の句碑(11:05)・・・鎌ヶ谷市鎌ヶ谷一丁目7番

 鎌ヶ谷大仏の少し先で道は二股に分かれ、この分岐を右へ向かうのが道筋である。その分岐点に「魚文の句碑」の標柱と共に次の句を刻んだ石の道標や解説板が建っている。
   
ひとつ家へ 人を吹込む 枯野かな

 「魚文」という人は、松尾芭蕉の高弟、服部嵐雪の直系の弟子、大島寥太の高弟にあたる人だそうで、句碑は道標を兼ねている。
 正面に句が、右面に「右 木おろし道」、左面に「左 中木戸道」、裏面には「明和元年(注:1764)武陽産高橋氏建立」とある。ここを過ぎると白井市に入るが、その手前のバス停の名前が「関牧場」で、この辺りは奈良・平安時代から江戸時代まで小金牧という官馬の放牧場だった所だった名残と思われる。

昼食(11:30〜12:04)

 白井市域に入り、左手の店でラーメンの昼食を摂る。

天神社(12:26)

 この先は暫く見るべきものが無く、淡々と歩いていく。「白井新田」バス停から10分程先の左手に「天神社」がある。ここには「白井新田迄400年記念碑」という珍しい石碑がある。

 ここの狛犬は片方は普通のものだが、もう片方の狛犬は寝そべっている感じで、ユニークというかユーモラスというか横着というか、なかなか珍しいと思う。

競馬学校(12:27)

 天神社の隣には、かの武豊もここで学んだという「JRA日本中央競馬会」の競馬学校の入口がある。実際の学校や馬場はずっと先のようで、自由に入れないのは言うまでもない。

 当初は中山競馬場の分場として建設されたが、昭和57年3月、競馬学校として生まれ変わったそうだ。

 学校の裏手の地名は「根」の字一文字である。固有名詞だから変わった名前があっても当然と言えば当然だが、由来については興味を覚える。

北総開発鉄道(12:42)

 やがて「北総開発鉄道」の上の鉄橋を渡って行くが、下の鉄道用地が随分と幅広で、何故こんなに広いのか不思議な気がする。
 線路の隣は雑草が生えているが、元々複々線予定だったのか、それとも道路併設予定だったのか、千葉ニュータウンの売れ行きが予想より低くて資金計画が狂ったのか、少なくとも、ニュータウン開発計画の当初見積りよりは相当下方の状態にあることは間違いないようだ。

■白井〜神々廻(ししば)

 白井市役所前の交差点を枡形のように進むと、「白井第一小学校」の向かいに、道標や5基程の石塔が建っている。道標には、、「西 鎌ヶ谷 東京道」、「東 白井 銚子道」などと刻まれている。

鳥見神社(13:24)・・・白井市白井391−8

 国道16号を過ぎ、左手に秋本寺、その先に鳥見神社がある。
 由緒・創建年代は不詳だが、饒速日命(にぎはやひのみこと)を御祭神として祀っている。
 本殿は富ヶ谷地区の個人宅で氏神として祀られていたものが大正年間頃に現在地に移設されたとされている。

 指定文化財の石造鳥居は、市内最古の正徳3年(1713)築の明神鳥居で、高さ2.88m、「天下大平正徳三癸己四月吉祥日」と刻まれている。安山岩製の柱に奉納者9名の芳名が刻まれている。高さは288cmあり、市の指定有形文化財になっている。

 境内社として、山王社(日枝神社)、諏訪大明神(慶応2年12月)、三峯神社(明治8年勧請)、天照皇大神宮(大正5年)、藤原維武神璽(明治12年12月)、天満宮(昭和3年11月)があり、碑などとしては、不動堂、青面金剛、狛犬(大正2年10月)、出羽三山碑(明治33年7月)、出羽三山碑(昭和37年8月)、出羽三山碑(大正2年8月)、手洗鉢(明治13年7月)などがある。

 なお、不動堂に不動明王を祀っているようだが、神仏混淆になっているように思われる。また、この白井字東郷地区では土師器などが発見されており、古墳・奈良・平安と続く生活跡が発見されているそうだ。

白井(しろい)宿

 白井郵便局の辺りが、往時の白井宿の中心部だったと思われ、神崎川近く、本白井郵便局辺りの緩やかに曲がる町並みは、木下街道に残る数少ない旧街道の宿の風情である。

 左手には、旧名主家とも見える門付きの立派な旧家があり、右手には、太い梁の商家風の旧家がある。

伊勢宇橋の碑(13:32)

 「神崎川」の袂左手前に「伊勢宇橋」と彫られた小さな石碑が建っている。江戸後期、浅草の花川戸で醤油屋を営んでいた豪商の伊勢屋宇兵衛が、亡父の供養を兼ねて故郷の常陸国江戸崎から江戸日本橋に通じる道筋に百の石橋を架けたと言われ、この白井橋の元々は86番目にあたる橋だったそうだ。

 昔の人には、少なからぬ私財を投じて社会や人々のために尽くした例が各街道筋のあちこちで見掛けるが、昨今、このような奇特な人が皆無に近いのは淋しいと言わねばなるまい。

神々廻(ししば)

 橋を越えると「神々廻」という集落に入るが、読み方は「ししば」で、難解極まりないが、ATOKでは一発変換できるのが嬉しい。

庚申塔(13:38)

 神々廻バス停付近の左手の土手の上に、庚申塔がずらりと8基ばかり並んでいる。寶永・寶暦・享和・明治・平成など、多様な年代の銘が刻まれており、近くから集められたと考えられる。
 面白いのは、何れも朱色に塗られていることで、目立つことこの上ない。

道標を兼ねた馬頭観音(13:55)

 暫く行くと、左手の道路脇に道標を兼ねた馬頭観世音が3基ほど並んでいる。「馬頭観音」以外は読み取りづらいが、右側の方に「左 ひらつかみち」「右 うらべみち」と記してあるが、「平塚」「浦部」共に北方の鮮魚(ナマ)街道にある。

徳本上人念仏塔(14:19)

 「十余一」の「清戸道」信号で県道は左に曲がり、旧道は右へ入っていく。その曲がり角右手に「徳本上人念仏塔」があり、東向きの正面に「南無阿弥陀仏」、右側面に「大も里むらみち」、左側に「ふさむらみち」、裏面には寛政十一年(1799)の紀年と「一億供養塔」と彫った石塔が建っている。

 大森は、木下街道の木下から一つ手前の宿で、これから向かう道であり、一方布佐は木下より北西方向にある。

 旧道はここから先「千葉ニュータウン」で途切れているため、街道復活地点を目指して「千葉ニュータウン」を突っ切ることとなるが、ニュータウンの散歩道は、緑の並木道になっており、よく整備されている。

千葉ニュータウン北環状線との交差点で予定変更しゴールに(14:30)

 ニュータウンは木刈地区が一般住宅、小倉台が集合住宅、大塚地区が高層のビジネス街と区分けされているようだ。

 ここで、衆議一決で当初予定を変更し、千葉ニュータウン中央駅に向かい、駅前のイオンの中の店で軽く打ち上げ、北総鉄道で帰途についた。