木下街道
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 2010.06.06(日) 木下街道 #3 千葉ニュータウン〜木下河岸

スタート

 きょうは、前回の第二回目で予定外に中断した千葉ニュータウン以遠を歩くので、距離は短い。参加者は、小川・長塚・村谷各氏と小生の4名で、北総鉄道千葉ニュータウン駅に10:30集合し、10:45には前回の中断地点から歩き始める。

 しかし、商店やコンビニなども見あたらず、買い物には不便だ。フコク生命の体育館を越えると道がなくなり、歩道上には「歩行者・自転車の方はこの先通行できません」という看板が出ていて、その先の自動車道のT字路で現在の道も一旦途絶える。旧道はその先の土手の道なき叢を下り、農道に出て先に進むとT字路の角に「鈴木梨園直売店」がある。ここから、旧木下街道が復活する。

旧道へ

 千葉ニュータウン北環状線(県道189号線)を坦々と東進し、約1.7kmでフコク生命の体育館の先で県道61号線と交わるのだが、ここから先の道探しに少々手間取った。則ち、千葉ニュータウン開発で消滅したエリアから、その先の旧道に繋がる道筋がよく判らないのである。

 結局、新たに出来た北東への県道61号線延伸部分へと一旦左折し、150m程先を南下する車を発見してその道筋を選ぶと、これが大正解だった。木標としていた「鈴木梨園直売店」の前に繋がり、そこから左折して東進していけばいいのである。

朝採り新鮮野菜をゲット(11:24)

 その「鈴木梨園直売店」前に、朝採り新鮮野菜を直売しているのに気づき、1袋100円の新鮮空豆2袋と、サヤインゲン1袋を買い込む。少々重い荷物になるが、それを食する期待の方が大きい。仲間たちもそれぞれ好みのものを買い込んでいた。

旧道〜鹿黒(かぐろ)

 復活した旧道を歩き始めると、この辺りは「泉新田大木戸野馬堀遺跡」といい、江戸時代の馬の放牧場だった所だそうで、「印西(いんざい)牧」というのがこの付近らしい。野馬土手というのが巡らしてあったというが、土手らしきものはよく判らない。

新泉寺跡(11:32)

 鈴木梨園の前を通って行くと、その先左手に「庚申塔」や「十九夜塔」「廿三夜塔」「半跏思惟像」などがずらりと並んでいる。この泉新田地区で曾て有名だった「新泉寺跡」だそうだ。このあたり左手は石造塀の大きな農家などが続いている。

八幡神社(11:34)

 その前方にある鬱蒼とした辺りが「八幡神社」だが、本殿の正面の拝殿のあるべき位置に「泉会館」があり、不可思議な建て方になっている。こういうのは初めての経験でだが、どういう事情があるのだろうか。

 その隣地が泉王寺だ。

草に隠れた道標(11:43)

 木下街道は、その泉王寺の先、県道4号の手前を左折する。左折地点の右手角のガードレール下に、草に隠れるように小さな道標がある。
 小さくて判読しにくいが、「北 大森 六軒 木下 布佐 道」と彫ってあるのだそうだ。

広大な空き地

 そこを左折して県道の千葉竜ヶ崎線に合流する。暫らく行くと、「鹿黒(かぐろ)」バス停付近で、左右が急に開け、牧草地帯のような草原が現れる。「住宅都市整備公団」の看板があるので、ここも千葉ニュータウンの予定地と思われるが、広大な映画のロケ地にもなりそうである。

 県道4号は車が多く、歩きづらい。歩道も右側にしかついていない。県道の左側は梨畑が広がる。右側は工事中の原野である。左右両方とも千葉ニュータウンの用地らしい。「房総の街道繁盛記」(山本鉱太郎)の地図では、県道の左側に旧道らしきものがあるらしいが入口を見過ごしてしまい、その侭直進する。他のホームページ見ると、両方通っている例があるようだ。

昼食(12:00〜12:25)

 きょうは、見るべき立ち寄り箇所も少なく、ひたすら歩き続けているのだが、食事処もなく懸念していたところ、県道の右手に折良く「嶺久庵」なる日本蕎麦店を発見し入店。夫々好みのものを注文し、小生は野菜天せいろを食する。

大森宿・大森陣屋跡・馬頭観世音

 県道右手の東京電力印西変電所の先の「鹿黒橋」を渡って、坂を登った所が「大森坂上」で、「大森宿」の中心部だった所と思われるが、往時の宿場らしい雰囲気は残っていない。

 「大森坂上」バス停の先は「大森陣屋跡」と伝えられている。佐倉藩主稲葉氏が享保8年(1723)山城国の淀に国替えになったが、この辺りは淀藩の飛び地で残ったそうで、その淀藩の陣屋があった所だという。

 12:48、その先の大森坂下付近の右手の歩道の真ん中に、大きな「馬頭観世音」の石碑がある。歩道の中にある石碑は珍しいが、そう古い物には見えない。


観音堂ほか

 木下の町に入っていく。旧道はその先の「日本デキシー千葉工場」に遮られて消滅しているため、「印西署入口」信号を右折して工場の南側を迂回して旧道に出る。

 13:04、工場の角を右折した所に、千葉県指定有形文化財の「銅像十一面観音立像」を安置した「観音堂」があり、その傍らに「いんざい七福神」の寿老人像をはじめ、沢山の石碑・石像が集められており、中には道標を兼ねているものもある。恐らく、周辺から移動させられたものが多いと思われる。

 「右江戸道 左さくら道」と刻まれた天明2年(1782)の庚申塔もある。

吉岡家

 旧宿場らしい建物。柏屋の前を通って、利根川沿いの先川魚料理の看板をあげた「銚子屋」の前に、この界隈きっての豪商「吉岡家」(吉岡土地家屋調査士事務所)がある。江戸佐久間町の萬屋五左衛門と競り合って木下河岸の問屋としての営業権を獲得し、明治20年代には銚港丸という蒸気船を4隻も持った大きな船問屋だったが、後にょうしきせんに買収され、現在残されている吉岡家の文書は、印西市にとって重要な文化財になっているそうだ。

吉岡まちかど博物館(13:20)

 吉岡家の土蔵が博物館になっているが、残念ながらは毎月第一土曜日だけ開館なので入館できない。

 吉岡家は、江戸時代から問屋を営み、明治20年代には「銚港丸」という蒸気船を4隻も有した船問屋だったという。
 庭先に、「木下貝層」の貝化石で造られたという燈籠があり、三足で貝化石で造られた燈籠は県下随一の由。

木下河岸(13:22)

 「銚子屋」の裏手が「利根川」で、その土手に「木下河岸跡」の解説板がある。

 それによると木下河岸は江戸から明治にかけ、利根川水運の要衡の地として栄えた。文化、文政期には利根川を下って、香取、鹿島、息栖の三社を参拝し銚子の磯を楽しむ、「木下茶船」の旅が流行した。最盛期には50軒あまりの旅籠や飲食店が軒を連ねていた。

 しかしその後の成田鉄道の開通による木下駅などの開業と、利根川の河川改修に伴い、木下河岸周辺の家々が木下駅周辺に移転し、木下河岸はその役割を終えたという。

木下街道完歩

 「行徳船航路」に繋がる「木下街道」のてくてく旅もここで終わり、JR成田線「木下」駅から常磐線経由で帰途につき、途中北千住駅で途中下車して、完歩の祝杯を挙げた。

 この木下駅への道筋で、古希祝いに子達に買って貰ったSONYのナビ(徒歩・自転車・車用の切り替え可能)を使ってみたところ、ちゃんと人しか通れない裏道の近道でガイドしてくれ、おかげをもって13:37発の列車に間一髪間に合った。