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 木下街道
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はじめに−木下街道
 2010.04.04(日) 木下街道 #1 行徳河岸〜船橋法典

スタート・・・地下鉄東西線行徳駅

 京王線・山手線・地下鉄東西線経由で「行徳駅」で9:05に下車する。西葛西在住で先着の村谷氏と逢い、駅前西口広場にある「市川の散歩道 行徳塩浜のみち」と題したタイル絵を見る。地図などと共に簡単な解説も付されているので、カメラに収めながらきょうの進路や立ち寄りポイント等を確認していると、同行予定の小川・長塚両氏とも出逢い、当初集合予定の9:30を待たず、9:15にはスタートをする

押切稲荷神社(9:25)

 北西に向かう途中の右手にある「押切稲荷神社」前に、平成20年12月に建てられた真新しい解説板が建っている。早速、本日の旅の無事と好天をお願いして旧江戸川河畔へ向かう。
 境内には、朱塗りの鐵柵で囲まれた「千壽銀杏」の大木があり、市川市指定の保存樹木になっているが、高さ20m、幹周6.5mもある巨木である。


               
押切稲荷神社 由緒
 仰も(注:「抑も」の誤り?)当押切稲荷神社本殿の御尊体は、十一面観世音菩薩で約八百五十年前、建久巳年(注:八年=1197)三月京都三条仏師の祖先とも云う、鎌足義政(又は義継)が一刀三礼の作で、大和国長谷寺の御尊体の御写とし、御丈一尺二寸五分、御身巾三寸五分の船形光背で蓮華座の立像の御尊像なり。
 当押切の地に鎮座するまでの間、種々な経緯が有り今から凡そ三百五拾有余年前に鎮座したが度々の津波等により本殿等が破壊し、御尊体は、葛飾の里鎌田邑の長寿院に預けられており、押切稲荷神社総代が御尊体が空虚なるのを日夜遺憾に思い、大正二年十一月四日長寿院に返還を申し入れし、鎌田村議の結果、大正二年十二月十九日早朝返還が相成り氏子総代一同御船にて御迎えし本殿へ無事安置と現在に至る。
               平成二十年十二月

湊水神宮(9:29)

 「押切」交差点に着く。ここを右折するのが「行徳街道」だが、その前に細い路地を直進して、川縁の「押切排水機場」を見に行く。
 川っ縁に湊水神宮があり、「祭礼の由来と行事の概要」と題した、やはり真新しい解説板が建っている。そのすぐ北側には、「行徳河岸(祭礼歌詞)旧跡」と題した同様の新しい解説板があり、市川市の文化財保護への熱意に一同感動する。

旧江戸川左岸の「押切排水機場」(9:31)

 旧江戸川堤防には「押切水門」があるが、危険防止のため立入禁止になっている。道を隔てた反対側には「押切排水機場」があり、殺風景な建物も見える。

 旧江戸川左岸一帯には「排水機場」が多々ある。文字通り、排水するための施設だが、この地域は土地が低く「自然排水が殆ど不可能」、つまり、雨水などを放置すると溜まる一方で、自然には川へ流れていかないため、人工的に川へ強制排水する必要があるのである。時間雨量50mm程度の豪雨まで排水可能の由である。

 そこで、ある人が行徳地区と、隣の同様に土地の低い浦安市を調べた処、2001年4月現在、全部で26箇所の排水機場と、3箇所の排水ポンプがあったという。

行徳街道の町並みと枡形

 「押切」交差点に戻って北東に歩き始める。この行徳街道には、何軒かの古い建物が残っており、旧街道らしい佇まいを残している。また、城下町などでよく見られる枡形になった箇所が2ヵ所ほど見られるのも理由不明だが興味深い点である。

 続いてその先左手が、本陣風な屋根のある玄関を持つ民家も個人の家。

おかね(9:37)

 街道筋の最初のクランクの1本手前を少し右折していくと、右手角に小さな共同墓地があり、正面に寛文5年(1665)造立の阿弥陀石像「おかね塚」がある。
 ここ押切には、古くからこの「おかね塚」の話が語り継がれてきている。

               
行徳おかね怩フ由来
 行徳の浜は古来塩業を以って栄えし処 押切の地また然り 浜辺に昇る塩焼の煙は高く五大木(船)の行き交う中に粗朶(薪)を運べる大船の往来するもあり為に船頭・人夫の此の地に泊る者また少なしとせず
 特に一船頭のしばしば此の地に来たりて江戸吉原に遊びかねと云へる遊女と馴染む 船頭曰く「年季を終へなば夫婦とならん」と かね女喜びてその約を懐き歳を待つ やがて季明けなば早々に此の地に来りて船頭の至るを迎ふ されど船頭その姿を見せず
 待つこと久しされば蓄へし銭も散じ遂には路頭に食を乞ふに至るもなお此の地に留る これ船頭への恋慕の情けの厚きが故なり 遙かに上総の山影を望みて此処松樹の下に果つ
 伝え聞きし朋輩百余人憐れみて資を募り墓碑を建てゝ霊を弔ふ
 噫呼 かね女の思ひの一途なる真に純なる哉 朋友の情の篤きこと実に美なる哉 聞く者皆涙せざるはなし 里人の香華を供へておかね怩ニ唱へしも時流れ日移りし今日その由知る人ぞ少なし
 茲に幸薄かりしかね女を偲びて永代供養のため古老の伝へる由来を誌して後世に伝へんとする者也  綿貫喜郎誌
               昭和五十一年六月吉日

権現みち

 行徳街道の一本東側に、行徳街道に並行して昔の農道のような細い道がある。晩年に至るまで鷹狩りや遠乗りを好んだ徳川家康が、東金・成田付近へ行く際には、今井の渡しで船を降り、行徳を通って船橋へ出たと言われており、その時通った道筋が、後年東照大権現として祀られた神君家康公の尊称を冠して「権現みち」と呼ばれている。

 関ヶ島から本行徳まで続く道の両側には寺院や神社が多数連なり、往時の行徳の雰囲気を伝えており、行徳街道より古いこの道は、行徳における静かな散策道になっているようだ。

田中幸之助翁誕生の地(9:41)

 真新しい竹垣に囲まれた一画に、お稲荷様と共に、総武線沿線から離れて発展から取り残された行徳地区に、地下鉄東西線を開通させることに尽力した田中幸之助翁の銅像や解説板が建てられている。また、田中幸之助翁の息子の金吾氏が植樹した「幸徳櫻」が時節柄ピンクの蕾を開きつつあり、目を和ませてくれる。

徳蔵寺(9:46)・・・市川市関ヶ島8−10

 街道から少し右手に入り込んだ所にある。

 天正3年(1575)武蔵国南葛飾郡小岩村(現東京都江戸川区小岩)の善養寺の末寺として、下総国行徳領(現千葉県市川市行徳)の関ヶ島に開かれた真言宗の寺院で、正式には「関東山地蔵院徳蔵寺」と号する。関ヶ島にあるため山号を「関島山」、江戸時代後期からは転じて「関東山」と称するようになった。本尊は来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像で、本堂内陣には県内でも稀な金剛・胎蔵種字両界曼荼羅が安置されている。

 開創当初の寺域は広く、七堂伽藍の殿堂等輪奐の美を極め、徳川幕府中期以降、徳川家の祈願寺として最も隆盛し、徳川家康公が御鷹狩りの際には徳蔵寺に立ち寄ったと伝えられている。寺町行徳1丁目から関ヶ島に延びる、通称「権現道」は、家康公御鷹狩りの際歩かれた道は徳蔵寺から始まっている。

 古老の話では「物心つきし時分もなお御殿女中の如き方々が駕籠にて徳蔵寺に時折参拝に来りたるを見た」と伝えられ、現在も本堂内陣には、江戸幕府初代将軍家康公より七代将軍家継公までの尊牌が安置されているという。

 しかし、安政2年(1855)には「安政の大地震」で、当時茅葺きだった本堂が大破したのをはじめ、度重なる火災津浪等の災害を被り、現在、徳蔵寺に関する記録は皆無に近いという。過去帳の記録によると、江戸末期の大津浪で被害を被り、大正6年10月1日早曉における大津浪では、濁水が梁まで達しその被害は甚大だったという。

 なお、昭和31年には「行徳のお不動さま」として親しまれていた関ヶ島の医王山宝性寺を吸収合併しており、この結果、行徳三十三観音札所巡りにおいては、徳蔵寺参拝をもって18番宝性寺と19番徳蔵寺の両寺を参拝したことになる。

行徳神輿と浅子神輿店

 神輿は古くは仏教彫刻を生業とする仏師たちによって造られたと謂われ、港町で寺が多かった天領行徳に仏師が住みつき、神輿の製作が始まったと考えられている。

 行徳の町で神輿が作られたのは、江戸中期頃からで、日光東照宮を作った宮大工が行徳地区に移り住んで神輿を作ったのが始まりとも言われているが、堅牢な神輿が有名になり、神輿づくりが盛んになったという。そして、その神輿の商談に欠かせないものが、行徳の塩だった。造られた塩が新潟、長野などの山間部へと運ばれていく時、神輿製作の依頼も受けてきたようで、1〜2年後に完成した神輿がまた、塩と共に、行徳河岸から船で江戸川を下り、東京湾から隅田川を上り、千住まで行き、日光街道、中仙道を通ってソルトロード(塩の道)沿にある宿場や村に運ばれていったという。

 行徳の神輿は、北は北海道、南は九州まで、日本全国の神社、町会等に数多く納入されているそうで、関東の神輿の大半が実は行徳製であるという。深川の富岡八幡の神輿も浅子神輿で作られたものの由。

 本行徳の「浅子神輿店(浅子周慶)」、関ヶ島の「後藤神仏具店(後藤直光)」、本塩の「中台神輿製作所(中台祐信)」の3軒の神輿店があったが、室町末期応仁年間創業の浅子神輿店が16代浅子周慶氏の急死で、平成19年10月、500年の歴史に幕を閉じたことにより、現在では、唯一中台神輿製作所が製造から販売まで一貫して神輿を手掛けている。

<浅子神輿店>

 鈴木美子氏が、江戸時代前に遡る古い神輿づくりの家に嫁ぎ、夫である十五代目から受け継いで十六代(浅子周慶)を襲名し、戦後の難しい時代、試行錯誤しつつ改良を重ね、神輿芸術と言われる程、現代にマッチした新しい行徳神輿を製作していたが、前述の通り同市の急死に伴って廃業した。

 神輿づくりには、木工・漆工・金工などの技術技法があり、浅子周慶代々の遺産としてその伝統を受け継いでいたが、市川市では、ここ行徳で長く神輿店を営んできた浅子神輿店の廃業に伴い、景観保全と街並み整備の一環として、その敷地の取得を検討し、また、建物及び神輿関連資料の寄贈を受けて、神輿等、郷土資料の展示など、行徳で初のまちかどミュージアムとしての活用方法について、検討している由。

「笹屋うどん店」跡(9:54)

 その先右手に「笹屋うどん」と標識のある古い店跡がある。 往時の行徳名物は「笹屋うどん」と「中山こんにゃく」だったという。「中山こんにゃく」は下総中山の法華経寺付近で売られたものだが、その製造元は行徳で、1丁目から街道筋にかけて「中山こんにゃく処」の看板が軒並に出て製造していたという。

 そして、日本橋小網町を出発した旅人は行徳河岸で上陸すると、先ずこの店のうどんで腹ごしらえするのが普通だったという。安政元年(1854)築の建物がその侭残っているのが凄いと思うが、一見そんなに古いようには見えない。このうどん店は、明治になって廃業し、現在は個人の住宅になっている。

 川柳に
 
「音のない滝は笹屋の門にあり」、
 「行徳を下る小船に干うどん」、
 「出ますよと笹屋に船頭声をかけ」、「さあ船がでますとうどんやへ知らせ」

 当時旅人が船を待つ間に笹屋でひと休みして、土産に干うどんを持ち帰ったそうだが、その情景が生き生きと感じられる。

 また、江戸末期に店の宣伝用に描かれた屏風や、太田蜀山人が書いたと言われる欅の大看板も残されており、これらは「市川歴史博物館」に展示されている由である。

常夜燈(行徳船の航路終点)(9:55)

 二つ目の枡形の所を左折して旧江戸川河畔に出ると、「行徳船」の発着地点として大きな役割を果たした「常夜燈」がある。一時、平成20年1月〜21年秋まで河岸整備工事の関係で仮置き場に移動していたが、その整備も終わり、元の位置に存在感を示している。護岸が以前より高くなったため、川が見えにくくなったそうだが、今は「常夜燈公園」として整備されている。。

 江戸時代、行徳一帯は塩の産地として有名で、その塩を江戸まで輸送するために小名木川・新川が開かれ、日本橋の小網町から旧江戸川のここ迄人口水路が開かれ、その目印として設置されたのがこの常夜燈という訳である。

 高さが4.31mもある大きな石造物で、往時の活況ぶりを象徴する唯一の歴史遺産として市川市有形文化財に指定されている。正面の裏面に「日本橋」と筆太く刻み、左側に「永代常夜燈」、右側に「文化九壬申年三月吉日建立」と刻み、台石には「西河岸町太田嘉兵衛、大黒屋太兵衛」ほか21名の氏名が刻み込まれている。

 寛永9年(1632)江戸幕府は下総行徳河岸から日本橋小網町に至る渡船を許可し、その航路の独占権を得た本行徳村はここに新河岸を設置しました。現在残る常夜灯は、この航路安全祈願のために、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が成田山に奉納したものである。なお昭和45年(1970)、旧江戸川堤防拡張工事のため、位置が多少当時の位置から移動された由である。

 この航路に就航した船は「行徳船」と呼ばれ、毎日明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで運航されていた。行徳特産の塩を江戸へ運ぶのが主目的だったが、成田山への参詣路として文化・文政期(1804〜30)頃からは一般の旅人の利用が増え、便数も後記の通り増えていった。渡辺崋山の『四州真景図巻』や、『江戸名所図会』、『成田土産名所尽』などには、この常夜灯が描かれている。

 この常夜燈は、文化9年(1812)江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が、航路の安全を祈願して成田山新勝寺に奉納したもの。正面の裏面に「日本橋」と筆太く刻み、左側に「永代常夜燈」、右側に「文化九壬申年三月吉日建立」と刻み、台石には「西河岸町太田嘉兵衛、大黒屋太兵衛」ほか21名の氏名が刻み込まれている。

             
市指定重要有形文化財 常夜燈   (昭和三十五年十月七日指定)
 行徳は古くから塩の産地として知られ、この塩を江戸へ運ぶために開発された航路も、やがては人や物資の輸送に使われるようになった。
 この航路の独占権を得たのが本行徳村で、寛永九年(1632)この場所に船着場を設け、新河岸とよんだ。この航路に就航した船数は、当初一六艘であったが、寛文十一年(1671)には五十三艘となり、嘉永年間(1848〜54)には六十二艘にふえた。
 これらの船は明け六ツ(午前六時)から暮れ六ツ(午後六時)まで江戸小網町からここ行徳新河岸の間を往復したので、行徳船と名づけられ、その間三里八丁(12.6キロ)という長い距離を渡し船のように就航したところから、長渡船ともいわれた。
 行徳船を利用した人たちには、松尾芭蕉、十返舎一九、小林一茶、渡辺崋山、大原幽学など歴史上、または文学史上に著名な人物も多く、特に文化・文政(1804〜30)の頃からは、行徳を訪ずれる文人墨客や、当時ますます盛んになってきた成田山参詣の講中(信者の仲)たちによって、船着場は非常に賑わいをきわめたのである。
 今に残るこの常夜燈は、文化九年(1812)江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の成田山講中が、航路の安全を祈願して建立したものである。
 現在の位置は堤防構築のため、多少移動してはいるが、かつて繁栄した時代の新河岸の面影をとどめる唯一のものである。
               平成二十一年
                              市川市教育委員会

行徳と塩

 行徳や特産品の塩に関わる歴史的出来事などを一覧にすると、次のようになる。

・天正19 1591 家康、東金遊猟の際、塩焼き方を上覧後、行徳の塩浜開発手当金一千両を下付。
・文禄04 1595 秀忠、東金遊猟の際、塩焼き百姓を船橋御殿に召出し、塩浜御普請金三千両下付。
・慶長01 1596 代官吉田佐太郎、塩浜開発奨励のため5年間の年貢を免除。
・寛永09 1632 本行徳村関東郡代伊奈半十郎の許可を得て、江戸小網町間の船路を開通。
・慶安04 1651 津波により、行徳・葛西で民家数千戸流失。
・延宝08 1680 津波のため行徳領内で死者百余人を出す。
・明和06 1768 本行徳に大火発生し、罹災家屋三百軒を数える。
・文化09 1812 日本橋の成田山講中が常夜灯を造立。
・文化13 1816 小林一茶行徳に来遊し。
・明治01 1868 行徳塩浜村々「塩浜仕法書」を作成。
・明治14 1881 行徳町大火で二百七十余戸が焼失。
・明治36 1903 本行徳に塩専売局の出張所設置さる。
・明治38 1905 行徳町に千葉県塩売捌会社設立さる。
・明治44 1911 江戸川放水路の開削着工。
・昭和05 1930 江戸川放水路完工。

本久寺(10:02)・・・市川市本行徳24−18

 「眼」の病に霊験あらたかと伝えられる日蓮聖人像がある。
 法華経寺の末寺で、元亀3年(1572)に中山法華経寺第13世瑞雲院日暁上人の弟子、本乗院日能上人によって開山された。一塔両尊(題目塔と釈迦・多宝如来)を本尊として祀っている。

 日蓮上人の木像は、身延山第11世法主行学院日朝上人(明応9年没)の作の日蓮宗にとっても貴重な宝物で、眼病守護日蓮大菩薩として言い伝えられている。 境内は、参道や路石を除いては、芝が植えられ、樹木も多く自然と調和した人を引き入れる魅力をもっている。
写真は、特別公開時の日蓮聖人一代記の欄間である。

田中家(10:08)・・・市川市本行徳3丁目

 更に進むと、左手に街道の荷問屋であり、塩田の所有者だったという「田中家」の建物がある。350年前から続く旧家で、家屋は明治10年築の木造・黒瓦の二階建で、先代行徳の塩場師(ショバシ)で、行徳町公選の初代町長だった田中稔氏が建てた。

 玄関は昔ながらの細かい格子戸・潜り戸・土間のタタキなどがあり、往時の生活様式を色濃く残している。

<芭蕉句碑>

 その軒先には、自然石に刻まれた芭蕉句碑が建っている。

   
月はやし 梢は雨を 持ちながら  芭蕉

 木下街道は、江戸から下総・常陸に至る道筋として、とくに下利根川方面へ直行できる道として貴重な往還道であり、松尾芭蕉も貞享4年(1687)にこの道筋を辿って鹿島へ月見に行き、「鹿島紀行」を著している。
 この句は、鹿島で根本寺前住職仏頂の隠棲を訪ねた際に詠んだ雨上がりの月見の句であって、行徳で詠んだ句ではないそうだ。

塩専売看板の店(10:09)

 その先(左手)には、歴史を感じる「塩専売」の看板が掛かっていた古い店「澤本酒店」の建物があるが、現在は看板もなくなり、そのつもりで見なければ単なる古民家としか判らない。

正讃寺・・・市川市本行徳23−29

 日乗上人が天正3年(1575)創建の寺院で、釈迦如来を本尊とする弘法寺の末寺である。山号は法順山という。境内も本堂も小じんまりしており、ほっとする感を与える雰囲気がある。本堂の前に、大蛇のお告げで地中から掘り出されたという石仏がある。

浄閑寺(10:12)・・・市川市本行徳23−24

 東京都港区芝の増上寺の末寺で、寛永3年(1626)に鎮誉上人が創建した寺である。当初は草庵に等しかったが、代官により、七堂を備える立派な寺院にしたとされる。当時は近くの内匠堀から直接船で入れる池が有名な寺だった由。

 本尊は阿弥陀仏如来。山門入口脇には、「南無阿弥陀仏」と六面に刻み、その下にそれぞれ「地獄・飢餓・畜生・修羅・人道・天道」と六道を彫った、高さ2mほどの名号石「六面塔」が聳え、半肉彫りの「六地蔵」も並んでいる。これらは、明暦の大火の犠牲者供養のため建立されたもので、ほかに、慶安3年(1650)の「萬霊塔」、慶安4年(1651)の「延命地蔵」が立ち並んでいる。

円頓寺(10:16)・・・市川市本行徳7−22

 天正12年(1584)、日蓮宗中山法華経寺歴世である日通上人の弟子・寂静院日圓上人により開創された寺である。明治14年(1881)4月の行徳町の大火事により本堂・庫裡が焼失し、現在の山門のみ残った。現本堂は昭和55年の再建である。

 本堂正面入口の上にある金文字の海近山の山号額は、幕末の三筆と言われた江戸末期の書家「市河米庵の筆」によるもの。また、本堂前のしだれ桜は身延山久遠寺から株分けされたものである。

妙覚寺(10:17)・・・市川市本行徳15−20

 天正14年(1586)に創建され、正覚山と号する日蓮宗中山法華経寺の末寺である。開基は心了院日通上人で、日蓮上人像を本尊して祀っている。瓦葺きの本堂がまだ新しく、植え込みにも手入れが行き届いている。

 境内には、東日本では珍しいキリシタン信仰の遺物であり、房総で唯一基のキリシタン灯籠がある。戦国時代の大名古田織部の創案と言われ、別名を織部燈籠という由。

法善寺(10:22)・・・市川市本塩1−25

 慶長5年(1600)宗玄和尚が開基した浄土真宗本願寺派の寺で、山号は仏性山という。この宗玄は曽て河本弥左衛門と言い、片桐且元に仕えていた大坂の人だった。行徳にきた弥左衛門は海岸や荒地を開拓し、塩田を造って塩焼の製法を里人に教えた。法善寺が行徳塩の発祥地として「塩場寺(しょばでら)」と呼ばれるのはこれに起因する。

 本堂前には芭蕉の「うたごふな潮の華も浦の春」の句を刻んだ「潮塚」と呼ばれる句碑がある。これは芭蕉の百回忌を記念して行徳の俳人戸田麦丈らによって寛政9年(1797)に建てられたものである。平成12年の街回遊展では、西郷隆盛の漢詩掛軸(写真)、山岡鉄舟の六曲一双の屏風、天田愚庵の漢詩掛軸などが特別公開された。

 本堂右手には見事な庭があり、四万十川の巨石と、豊臣秀吉が京都聚楽第に集めたものと同じ石が配されており、花木と相俟って見応えある風景である。

 行徳浦安三十三ヵ所観音めぐり第14番でもある。

徳願寺(10:29)・・・市川市本行徳5−22

 行徳は寺の多い街で、俗に「行徳千軒、寺百軒」と言われるくらい沢山の寺がある。中でも有名なのが「徳願寺」(浄土宗)で、正式名を「海巌山普光院徳願寺」と言う浄土宗の寺である。
 明治時代には印旛県庁が一時本堂に置かれたこともある名刹であるほか、宮本武蔵所縁の寺でもある。
 運慶作と言われる本尊阿弥陀如来像、袴腰の付いた珍しい鐘楼、武蔵の供養塔である石造地蔵菩薩像など、見どころも充分だ。

 元々は「普光庵」と呼ばれた草庵で、埼玉県鴻巣にある勝願寺の末寺だったが、慶長15年(1610)、徳川家康の帰依により新たに堂宇が建立され、徳川の「徳」と勝願寺の「願」の字をとって、改めて徳願寺の名がつけられ、聡蓮社円譽不残上人を開山として創設された寺である。

<本尊>

 本尊の「阿弥陀如来像」は、鎌倉時代の初め、源頼朝の妻北条政子が霊夢により仏師「運慶」に命じて彫らせたもので、政子の念持仏と言われている。
 当初は鎌倉にあったが、江戸時代になって家康が二代将軍秀忠婦人の崇源院のために、江戸城内三ノ丸に遷したが、婦人の逝去後、当山二世忠残上人が請けて、当寺本尊として安置した経緯があり、三代将軍家光からは、本尊供養料として慶安元年(1648)に十石の御朱印を賜っている。
 明治4年(1871)12月、印旛県庁が一時本堂に置かれた、更に明治6年(1873)に行徳小学校が、本寺を仮校舎として開校したりしている。

<本堂>

 本堂は、安政3年(1856)に火災に遭い、 その後大正5年徳譽信契上人により再建された。面積は64坪、畳数95畳、柱は阿弥陀仏の四十八の誓願になぞられて48本ある。本堂の大屋根瓦には七曜の紋と葵紋がつけられ、当寺と千葉氏や徳川氏との関わりを示している。
 現本堂は平成3年に改修され、本堂屋根瓦は銅板の本葺に葺きかえられたほか、この改修と共に書院や渡り廊下も新しくなっている。

<山門・鐘楼>

 本寺の山門と鐘楼は共に安永4年(1775)の建造で、山門の仁王像や大黒天像などは明治維新の廃仏毀釈により、葛飾八幡宮の別当寺であった法漸寺から移したものである。

袴腰の整った鐘楼は、特に珍しく、鐘は一度戦時中に拠出されたが、平成元年に再建され、朝と夕に時を刻んでいる。

<閻魔大王像>

 本堂の阿弥陀如来像のほかに、もうひとつ「運慶」作と伝えられる閻魔大王像(尺4尺5寸)が安置されている。

<地獄絵図>

 閻魔様の前では、たとえ嘘をついても前の鏡に前世が映し出され、嘘がばれて右手に持っている舌抜きで舌を抜かれてしまうという。

<観音堂>

 身代観世音菩薩。嘉永3年(1850)に徳順和上によって造られた。観音堂内の厨子には、翻波式の衣の紋様の聖観世音菩薩を安置し、その両脇に花てまりと雪洞を奉納しており、霊験あらたかということでお参する人が多いという。

<経蔵>

 明治19年(1886)、覚天上人の代に建立された輪堂式経蔵で、一切経が納められている。当日は修繕工事中だった。

<永代橋墜落による溺死者供養塔・宮本武蔵筆の達磨画・円山応挙筆の幽霊画>

 また、門前には文化4年(1807)8月15日、江戸深川八幡の祭礼に沢山の人出があり、永代橋が墜落して多数の溺死者を出した供養塔や、宮本武蔵の遺品を納めたという石地蔵などがあるほか、宮本武蔵筆と伝えられる達磨画、円山応挙筆と伝えられる幽霊画などが寺宝として伝えられている。

<宮本武蔵供養塔>

 山門を入ったすぐ横にある石の地蔵菩薩が「宮本武蔵の供養塔」である。武蔵は晩年出家し藤原玄信と称して諸国を行脚したが、その折、現・船橋の法典ヶ原の開墾に従事した。
 その途中に当寺に留まっていた因縁で、水譽上人が武蔵の遺品を集めて、正徳2年(1712)に建立したものである。

 当寺に滞在中に描かれた「八方にらみのだるまの絵」と五条の訓えの思想発展の根幹を知ることができる「書」が残されている。

<徳願寺の略史>

・慶長05 1600 徳願寺の前身(浄土宗の普光院)創立。
・慶長15 1610 海巌山徳願寺建立、開基勝願寺中興不残上人。
・元禄03 1690 十世覚誉上人33体の観音像を刻して諸寺へ納め「行徳33観音札所」を創る。
・正徳02 1712 徳願寺に単誉直心により石地蔵造立(宮本武蔵供養のためと伝えられる)。
・寛政06 1794 境内で相撲興業、谷風が来て土俵入りを行なう。横綱土俵入りの始め。
・寛政09 1797 僧上寺崩誉大僧正、運慶作の閻魔像を徳願寺に寄贈。
・文化04 1807 徳願寺に永代橋溺死者の供養搭建つ。
・安政03 1856 山門と鐘楼を残し、悉く焼失。
・明治04 1871 印旛県庁を徳願寺に仮設。
・明治06 1873 徳願寺を仮校舎に行徳小学校設立。妙行寺に原木分校、源心寺に欠真間分校仮設。
・大正06 1917 大津波、被害甚大。徳願寺が本堂を再建。
・寛政末年   葛飾北斎「ぎょうとくしほはまよりのぼとのひがたをのぞむ」を制作。
・享和01 1801 十返舎一九、行徳・船橋を経て香取・鹿島・日光を旅行。

長松禅寺(10:36)・・・市川市本行徳8−5

 臨済宗大徳寺派の寺で、山号を塩場山(しょばさん)と号する。表札には、「塩場山長松禅寺」とあり、禅宗馬橋万満寺の末寺で、天文年間(1532〜55)に渓山和尚により開山された。

 小さな山門を潜って境内に入ると、本堂の傍らに、六面の六地蔵の石柱が建っている。これは、山門が鬼門にあたっているため、正面に六地蔵を建てて厄除けにしたものの由。「三界萬霊」塔に薬師如来像が建ち、山号が塩場山というように、この辺は塩造りに関連した土地であり、かつて塩釜明神が祀られていた。
 行徳浦安三十三ヵ所観音めぐり第3番でもある。

妙頂寺(10:39)・・・市川市本行徳2−8

 山号を真光山と号する。弘安元年(1278)日妙上人により創建され、永禄4年(1561)日忍上人によって現在地に移された。
 釈迦如来、多宝如来、日蓮上人像を本尊としている。境内には、寺子屋の往時を偲ばせる筆子塚がある。

神明神社(豊受太神宮)(10:42)

 左手に「神明神社(豊受神社)」がある。解説板によると、16世紀前半のころ金海法印という山伏が中州(江戸川をはさんで対岸、江戸川区東篠崎町辺り)に伊勢神宮を勧請して建てたのが始まりで、その後1635年に現在地に遷座したとある。金海法印は、徳が高く行いが正しかったことから行徳さまとあがめ敬われた。その行徳さまがこの地の行徳の謂れになったそうだ。もっとも行徳さまこと金海法印がこの地を訪れたのは1527年、1542年、1614年と三説もあるのが面白い。

               
豊受神社
『由来・いわれ』
  豊受の大神(伊弉諾尊いざなぎのみこと)を奉祀
『歳時・みどころ』
  辻切り祭  一月十五日
  初午祭   二月
  宮薙祭   七月十五日
  祭 礼   十月十五日・十六日
  行徳五ヶ町の大祭
 秋の豊作を祝って三年に一度十月に約五百キロもの重さがある立派な宮神輿が町内を巡行します。
 神輿は本行徳神明神社で「御霊(みたま)入れ」の神事を行った後、下新宿稲荷神社へと渡ります。
 稲荷神社を出ると、本行徳一丁目から順に、二丁目、三丁目、四丁目そして本塩と渡され(渡御‥とぎょ)、当神社で宮入をした後、神明神社へと戻っていきます。

<力石>

 境内には村の力もちが持ち上げたという五拾五貫(約206kg)の力石がある

               
力石の由来
 本来力石は古い時代に石を持ち上げたり、投げたりして吉凶などの占いに使われた物でした。
江戸時代からは少年が一人前の若者に認められるひとつの儀式として使われるようになりました。
それが一般に広まり、盆や正月、特に神社の祭礼の時など力自慢の若者が集まって力試しの競技として、重い石を持ち上げることを自慢するようになってきました。
 江戸時代後期から明治時代初めにかけてのことでした。


正源寺(10:49)・・・市川市本行徳26−12

 神明神社から少し先左手にあり、「聖中山松寿院正源寺」と号する文安元年(1444)開基の寺で、正源上人の開基である。本尊は、行基菩薩の直作阿弥陀如来像である。

江戸川と橋(10:52)

 左手方向で江戸川と別れて造られた(新)江戸川(江戸川放水路)に架かる「行徳橋」を渡る。この橋は江戸時代には当然ながら無かった訳で、大正時代に放水路が開削されて、現在の(新)江戸川がある訳で、旅人は行徳河岸で船を下りると陸地続きで行けた。対岸は「稲荷木(とうかぎ)」という難しい読み方の地区である。

行徳可動堰(水門)

 この橋の下は「可動堰」になっている。「ローリングダム」とも呼ばれ、昭和32年3月に建設された当時は東洋一の可動堰だったという。


 抑もは、江戸川の流量増大のための川幅拡幅工事の際、行徳付近から河口までは川筋が蛇行、かつ、既成の市街化進行で拡幅工事が困難だったため、新たに行徳付近から東京湾に向け直線状の放水路(江戸川放水路)を掘削することになり、1916年着工、1919年に竣工した。これと同時に放水路入口に堰(行徳堰)が設けられ、行徳可動堰の前身となったが、固定式の堰だったため、台風等の洪水時の流下量増大に対処できず、1947年のカスリーン台風襲来時の教訓から江戸川放水路の流下能力増大のため、1957年に可動式の堰が構築された。これが行徳可動堰である。
 海水遡上による上流での塩害防止、渇水時の水位確保による取水の容易化(農工業用水・上水道水源確保)等の「利水」と、洪水時のゲート開放による周辺での氾濫防止等の「治水」の役割を果たしているが、

 この間、地盤沈下のため、1975年〜1977年にゲートのかさ上げ工事を行っており、更には、竣工後50年以上経って老朽化してきたため、改修が検討されている。則ち、海水によるゲート腐食など、老朽化進行のほか、その構造上、上流での水位上昇の危険が指摘され、改修の検討がなされており、現堰の上流170m付近に新可動堰設置が予定されているらしい。
 しかし、人工物とはいえ構築から相当年数が経ち、改修工事に伴う環境改変の懸念も出されているようで、堰周辺の絶滅危惧種であるヒヌマイトトンボの生息地や干潟などの保全方法など改修検討上の論点の一つになっている。

稲荷神社(11:06)・・・市川市稲荷木3−6−13

 橋を渡って暫く行った先の右手に、宇迦御魂命を御祭神として祀る「稲荷神社」があるが、狛犬代わりの「狛きつね」の片方は「親子きつね」になっていて、なかなかほほえましい。

延命地蔵(11:11)

 「稲荷神社」の先の信号が「一本松」バス停で、すぐ脇上を「京葉道路」の高架が通っている。
 慶長年間(1596〜1615)、伊奈備前守忠次が徳川家康の命で上総道を改修の折、新たに八幡と行徳を結ぶ「八幡新道」を造って、その分岐に松を植えたと伝えられているのが「一本松」という地名の由来になっているらしいが、その何代目かの一本松も京葉道路が出来てから排気ガスで枯れてしまい、昭和48年に伐採された跡の切株だけが今も残っている。

 一本松には、「延命地蔵」がある。享保12年(1727)椎名茂右衛門が辻斬りなどで非業の最期を遂げた旅人達の霊を弔い、併せて道標も兼ねて千葉街道(国道14号線)と行徳街道(八幡新道)の分かれ道に建てたものだが、その後転々として漸く現在地に落ち着いたという。その「延命地蔵」は覆屋の下に移されている。

 また、傍にある正徳三年(1713)銘の庚申塔には「これより右やはたとうり」「これより左市川国分寺みち」と記されている。

甲大(かぶと)神社(11:15)・・・市川市大和田2−5−4

 京葉道路の高架を潜った先左手に、誉田別命を御祭神として祀る「甲大神社」があるが、これまた読み方が難しい。参道左手の覆屋の下には、「庚申さま(三猿)」、「山王さま」、「お稲荷さま」、「天満宮(天神さま)」の石祠が、木製解説板と共に祀られており、その先には、関東大震災で倒潰した鳥居の断片が纏めて置かれていた。

               
甲大神社の由来
本神社御祭神は応神天皇を奉祀するとも伝え又大神の兜を祭るとも伝う創建は古く人皇第六十六代一条天皇の永延二年八月八日当地に鎮座葛飾八幡宮の摂社にて「注連下」と称し大□田村の氏神たり古来武将の崇敬厚く殊に武士たるもの当社前に於て乗打すれば落馬すると云い伝う里人の信仰ありて奉賽の誠と致すもの尠からず大正九年七月二十四日同所山皇後無格社天神社及同所無格社山王社合社の件許可せらる
               平成十三年十一月吉日
                 
             氏子中

昼食

 その先、街道はJR総武本線のガードを潜り、国道14号線(千葉街道)に出て右折して行くことになるが、潜る手前左手で折良く見つかった博多中州のラーメン店に入り、昼食を摂る。
 その先で国道14号線(千葉街道)を右折するが、ここから約1.5km先の鬼越交差点までは、「佐倉成田道」と「木下街道」が重複する形になる。

葛飾八幡宮(12:14)・・・市川市八幡4−2−1

 千葉街道に出て、次の「駅前」信号の先170m程を左折し、京成線の踏切を越えた先に「葛飾八幡宮」があり、奥に朱色の随神門が現れる。

 寛平年間(889〜898)宇多天皇の勅願により、京都の石清水八幡宮を勧請して創建された「下総国総鎮守」という由緒正しい神社で、主祭神は誉田別命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・玉依比売命である。

 武神であることから平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康など関東武士の信仰を集め、伊豆から安房に上陸して下総国府に入った源頼朝が参詣の折には、頼朝公の馬が前足を掛け、蹄の跡を残したという「駒どめの石」なるものもある。なお、家康から朱印52石を供御されている。

 この他、境内には幾つかの見所がある。
* 神社には珍しい「鐘楼」。これは、廃仏毀釈以前に上野東叡山寛永寺の末寺で天台宗の八幡山法漸寺が別当寺として管理していたもの。
* 仁王門跡地に建立された市川市指定有形文化財の「随神門」。左右両大臣像がある。
* 寛政5年(1793年)の大風で倒れ社殿西側にあった欅の根元から掘り出された元亨元年(1321)鋳造の「梵鐘」(千葉県指定工芸品)。
* 本殿東側の千本公孫樹(せんぼんいちょう)・・・国指定文化財、天然記念物
 主幹を囲んで多数の幹が寄り集まり、恰も一本の大樹の如く見える「千本公孫樹」の大木。雄株の巨木として全国有数のもので、古来より有名で、江戸名所図絵にも載り、推定樹齢1200年、樹高22m、水戸光圀も立ち寄ったと言われている。

八幡の藪知らず(八幡不知森=やわたしらずのもり)(12:24)

 千葉街道を挟んだ向かい側の竹藪の一画を言う。現在は18m平方ほどの竹藪だが、昔は広大な森だったため、迷い込めば二度と出て来られない禁足地として恐れられていた。

 古くは細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などが生い茂り、昭和末期頃迄は樹齢を経た木々の鬱蒼とした様が見られたが、近年は孟宗竹の侵食で樹木は僅かに残るのみである。

 由来には諸説あるが、少なくとも江戸時代から語り継がれ、藪の周りは柵で囲まれ人が入れないようになっている。街道に面して小さな祠の社殿が鳥居奥に設けられており、その西横に「不知八幡森」と記された安政4年(1857)伊勢屋宇兵衛建立の石碑がある。

 伝承の由来に関する有名な説が以下のように多々ある。

* 日本武尊の陣屋説
* 平良将の墓所説
* 平将門の墓所説
* その他、昔の豪族・貴人の墓所説
* 水戸黄門が迷い出てこられなかった説
* 藪中央の窪地から毒ガス発生説
* 藪に底なし沼があるという説
* 葛飾八幡宮の跡地説
* 近隣の行徳村の飛び地(入会地)説

東昌寺(12:31)・・・市川市八幡1-3-23

 天正年間(1573〜92)太誉和尚が創建した曹洞宗の寺で、当初は八幡6丁目の冨貴島小学校付近にあったが、寛永元年(1624)に万明和尚が現在地に移している。墓地内には慶応4年(1868)の戊辰戦争(市川船橋戦争)のため、八幡で戦死した官軍兵士3名を葬った2基の墓石が建てられている。

 門前に「豫州 太□□」と刻んだ石塔があるが、意味不明。「豫州」は中国の歴史的な州の一つらしいが、後の2文字は「皿」の文字に似て縦棒が1本の文字と、「冩」に似て非なる文字なのだが・・・

河畔の櫻(12:35)と坪井玄道生誕の地解説板

 その先、「境橋」で「真間川」を渡るが、堤防沿いに花見客が陣取り、花見の宴の真っ最中だったが、見事な美しさである。

 川を渡ると左手に地元出身の通訳、後に体操普及功労者の「坪井玄道生誕の地」の解説板が建っている。

深町の坂(鬼越〜船橋法典)

 その先「鬼腰二丁目」交差点(T字路)を左折して行く。
 交差点右手に煉瓦造りの蔵を構える古い屋敷は、味噌醸造元だった「中村屋」である。

 左折すると、やがてだらだらした登り坂の「深町の坂」がある。この坂で有名だったのは、明治42年(1909)から大正7年(1918)にかけ、「東葛人車鉄道」という、小さな客車を人力で押す鉄道が、鎌ヶ谷大仏駅付近から木下街道を通って行徳河原付近まで12.3kmを走っていたことである。一車輌8人乗りで、一輌につき2人の押し夫が押していたが、人力のみでは足りず、馬2匹が引いたという。

 人車鉄道というのは昔は各所にあったらしく、金町〜高砂間の京成金町線も、柴又までの帝釈人車鉄道というのが起源の由。

人車鉄道

 少しく詳説すると、「東葛人車鉄道KK」は八幡町(市川市)の高橋健・法典村(船橋市)の鈴木清・鎌ヶ谷村の徳田仙蔵・徳田金之助・長浜善兵衛らが中心になって明治42年に創業した。人車とは、線路上のトロッコを人力で押して動かす運搬車両で、同種のものは柴又や茂原、熱海などにもあったという。

 当時の木下街道は県下でも指折りのガタガタ道で、一旦降雨があると如何ともし難い泥濘道だったため、安全確実に醤油・酒・甘藷・野菜・切り干し大根・果物・木材・薪炭・肥料などを東京に出荷できるようにとの目的で開業したという。

 鎌ヶ谷から行徳河岸まで一日12往復、全区間30銭で、時間にして2時間を要したが利益が上がらず、大正7年10月廃業へと追い込まれている。
 そして、戦後の昭和25年、人車鉄道跡に「新京成電鉄」の鎌ヶ谷大仏駅が設置された。

 余談だが、新京成電鉄は元は陸軍の練習線で、この獲得を巡って西武鉄道と京成電鉄が鎬を削った。両首脳が占領軍のGHQ詣を重ねたが、マッカーサーの古き友人で米国士官学校出の鎌田中将の旧部下が京成に入社した関係で軍配が京成に上がったという。昭和21年新京成創立当時の従業員は僅か27名だった由である。

中山法華経寺(12:59)・・・市川市中山2−10−1

 坂の途中を右折して「正中山法華経寺」へ立ち寄る。
 法華経寺は日蓮聖人が最初に開いた寺である。日蓮聖人は生涯に何度も法難に遭ったが、その一つ松葉ヶ谷の焼打の折、大信者だった若宮の領主富木常忍公(日常聖人)と中山の領主太田乗明公が所領だった当八幡庄に聖人を暖かく迎えてた案内し、百日百座の説法御弘通を願い、聖人自ら釈迦牟尼佛を安置して開堂入佛の式を挙げたのが法華経寺の始まりである。

 その後文永元年(1264)11月11日、日蓮聖人が東条の郷小松原で、法難に遭い眉間に疵を負った際、鬼子母神が現われ、一命が救われ、中山に避難の折、疵の養生の傍ら鬼子母神霊験に深く感じ、その尊像を自ら彫刻開眼したという。今日「中山の鬼子母神さま」として天下泰平、五穀豊穣、万民快楽、子育守護等の祈願成就の御尊体として広く全国信徒の信仰を集めるに至っている。
 天文14年(1545)には、古河公方足利晴氏から「諸法華宗之頂上」という称号を贈られている。

 山内には、寺院・塔頭が次のように多々ある。
池本寺・智泉院・陽雲寺・大覚山本妙寺(根切の祖師)・遠寿院(荒行堂のある遠寿院流祈祷の根本道場。一時期日蓮宗公認の行堂だったが現在は「根本御祈祷系授的伝加行所」を名乗っている)・本光寺・護国山安世院・高見寺・蓮行寺・玄妙山本行院(什師屋敷)・清水寺・永昌山浄鏡寺・浄光院・法宣院・本覚山日英寺・奥之院・東照山妙円寺(黒門外にあり法華経寺貫首晋山の際の休息場所)など。

 国宝として、日蓮筆の「観心本尊抄」「立正安国論」があるほか、重要文化財の「五重塔」「祖師堂」「法華堂」「四足門 」「絹本着色十六羅漢像」「日蓮筆遺文 56巻、4冊、1帖、3幅」、市川市指定文化財(有形文化財)の「黒門 1棟」・「本阿弥家分骨墓 3基」「光悦筆扁額 3面」「本阿弥光悦分骨墓 法華経寺 1基」がある。

 また、境内には中華民国の蒋介石総統の胸像が存在ある。当時の住職が日台断交時に日台友好を願い建立したもので、日本政府と中華人民共和国(中共政権)の間で日中共同声明が発せられた昭和47年(1972)の建立である。

<五重塔>

 元和8年(1622)第18世正教院日慈上人代 本阿弥光室の本願により加賀国前田利光公の寄進により建立。軒の出が少ない。弁柄塗りが施されており、くすんだ感じを受ける。

<祖師堂>

 屋根が非常に珍しい比翼入母屋造りの堂である。この形式は、他には岡山の吉備津神社だけの由。一度巨大な破風を持つ入母屋造りに改造され、平成9年に、創建当時の比翼入母屋造りの祖師堂に復元されたという。

東山魁夷記念館(13:13)・・・市川市中山1−16−2

 道しるべに従って街道に戻り、市立第四中学校の先右手に教会風の洒落た建物の「東山魁夷記念館」がある。横浜生まれの東山魁夷は、太平洋戦争直後から亡くなる迄の約50年間、ここ市川市に在住しており、その自宅に隣接してこの記念館が建てられた。

 暫く進むと「北方十字路」がある。これまた難解な読み方で「ほっぽう」とか「きたかた」ではなく、「ぼっけ」と読むそうだ。千葉は本当に難読地名が多い。

ゴール

 その難読の交差点を過ぎると右手は「中山競馬場」である。今日は開催日らしく、人出が多い。
 その先は武蔵野線と交叉するが、右手に行けば西船橋駅、街道左手直ぐが「船橋法典駅」である。本日はここまでとし、武蔵野線で西船橋駅に出、駅中で軽く打ち上げた後に散会し、村谷氏と共に地下鉄東西線で帰途についた。