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川越街道餐歩記・・・第二回・・・
 2009.09.16(水) 川越街道 #2 大和田宿:新座駅北入口~川越宿:菅原町交差点・・・街道距離推定13.2km
 
第二回目スタート

 JR「新座駅北入口」交差点を8:41にスタートする。天気晴朗にして湿度が低く、爽やかなれど日中の気温は最高28度予想なので、それ相応の覚悟でスタートする。結果的には、帰宅後の情報でそれ以上になったようだった。

大和田宿

 大和田宿は、大和田地区の県道沿いにあった筈だが、本陣跡はおろか、宿場の場所さえも特定できないらしい。当然、往時の佇まいも皆無に近く、大和田1丁目の大和田郵便局辺りが宿の中心地だったろうと推測するしかない。僅かに手前の白壁土蔵や、先の空き地に立つ地蔵がそれらしさを醸し出している。地蔵の傍に観音堂があったそうだが、廃家以外に堂らしきものは見当たらない。

鬼鹿毛の馬頭観音(8:42)

 大和田地区に入って緩やかな坂を下り始めると、すぐ右手高台の大きな杉の木の下に「鬼鹿毛(おにかげ)の馬頭観音」がある。元禄9年(1696)の造立で、新座市内最古最大の石造馬頭観音だとのことである。傍らの解説板に「鬼鹿毛伝説」が詳しく書かれてある。死後も主人を乗せて駆けた忠馬物語である。
 馬頭観音に向かって左手には、背丈のある「馬頭観世音拝禮塔」や、やや小ぶりな「武州上岡馬頭観世音大護摩紀念碑」も建っている。

              
市指定有形民俗文化財
               鬼鹿毛の馬頭観音
                              平成二年五月十日指定
 昔、秩父の小栗という人、江戸に急用があって、愛馬鬼鹿毛に乗り道を急ぎました。大和田宿に入ると、さすがの鬼鹿毛も疲れが見え、この場所にあった松の大木の根につまずき倒れました。
 しかし、さすがは名馬、ただちに起きあがり主人を江戸まで届けたといいます。所用を終えた主人が先ほど馬をとめたところまで戻ると、いるはずの鬼鹿毛の姿が見えません。不思議に思いましたが仕方なく家路を急ぎました。
 やがて、大和田の地にさしかかると、往路愛馬が倒れた場所に鬼鹿毛の亡きがらを見つけました。鬼鹿毛は主人の急を知り亡霊となって走り続けたのでした。
 村人は、のちに鬼鹿毛の霊を弔って馬頭観音を建てたといいます。これが「鬼鹿毛の伝説」です。
 鬼鹿毛の馬頭観音は、元禄九年(1696)に建立され、市内では最古・最大の石造の馬頭観音です。
 像高は、約百二十七センチメートルで、三面六臂(三つの顔と六つのひじ)の丸彫立像です。
               平成三年十二月
                              新座市教育委員会
                              新座市文化財保護審議委員会

 また、文化5年(1808)5月25日、小林一茶は草津に向かう途中、膝折宿で鬼鹿毛について次のように記しているが、鬼鹿毛の馬頭観音には触れていない。

 脛(膝)折駅といふ有。昔鬼鹿毛といへる馬の脛折りし所といふ。いかなる逸物にやありけん、今の代迄里の名によぶ。彼畜生界にてもほまれなるべし。其屍を葬て、印を植て鬼かげ松といふ。
                              「草津道の記」


<川越街道解説板>

 「鬼鹿毛の馬頭観音」の解説と並んで「川越街道」の解説板もある。ここでは川越まで43kmと記され、国道ベースの距離に近い。13里との乖離については触れられていない。

              
 川越街道
 川越街道は、川越往還と呼ばれ、江戸日本橋から、川越まで、約十一里を結び、五街道と並ぶ重要な道でした。江戸時代、川越は、江戸の北西を守る要となり、藩主には、老中格の譜代大名が配置されました。又、家康以下、三代将軍も鷹狩や参詣にこの街道を往来し、松平信綱が、川越城主となってからは、さらに整備されるようになりました。
 街道には、上板橋、下練馬、白子、膝折、大和田、大井の六か宿が設置され、人馬の往来が盛んでしたが、各宿場の村にとって、伝馬役の負担も大きかったようです。
 「新編武蔵風土記」によると、大和田町は、
郡の西にあり。江戸より六里余。村内東西を貫きて、川越街道一里許係れり。この街道を西行すれば、入間郡竹間沢村に至り、東行すれば、郡内野火止宿に至れり。
と述べられ、街道沿いには、人馬にまつわる伝説や道標が残り、往時の宿場のにぎわいが、しのばれます。
               平成六年三月         新座市教育委員会
                              新座市文化財保護審議委員会


<芭蕉句碑>

 鬼鹿毛の馬頭観音の右隣には芭蕉句碑があるが、雑草などの背丈が伸び、なかなか碑面が読み取りづらい。寛文6年(1666)、芭蕉23歳の時の句で、碑は、嘉永5年(1852)10月に、武州新座郡大和田宿中野の人で細沼忠兵衛(東雲)が建立している。
 「
花は賤(しず)乃眼にもみえけり鬼薊(あざみ)」とあるが、この句についての解説は付されていない。

旧鎌倉街道(8:56)

 「大和田中町」交差点まで緩やかな下り坂が続き、その先右手の大和田郵便局のある所から道が西に伸び、大和田4丁目の河幸米店の横から右に出ているのが旧鎌倉街道だそうだ。

行き止まりの県道(9:00)

 県道109号線は「柳瀬川」に架かる「英橋」で左後方からの国道254号に合流するが、往時の旧道は県道と分かれてまっすぐ右の道を通り「土橋」で柳瀬川を渡っていたそうだ。面白いのは、県道の左車線(川越方面)は川手前で行き止りになり、東京方面への右車線のみが国道からの道に繋がっている片方だけの行き止りという珍しい道である。従って、ここまで川越に向かって車で来た場合はUターンして、郵便局を戻り過ごして「大和田中町」交差点から右折して「大和田」信号右折で国道254号線に入り、英橋先の複雑な五差路インターチェンジを直進して新座市中野地区へと入って行くことになる。

 歩道はというと、橋を渡ると右手にあるトンネルでインターチェンジの道を潜り、国道254号&463を陸橋で越えて直進し、今度は登り坂へと進んでいく。

三国第一山

 インターチェンジの先左手の「跡見女子大学」の手前の、急勾配の石段の右横に「御中道修行」の石碑があり、石段上には正面に民家が見え、右手の高みに「富士塚」があり、「三国第一山」と刻まれた大きな石碑が建っている。
 浅間神社の鳥居などに、よく「三国第一山」という額が掛かっていることがあるが、「三国第一山」はもちろん富士山のことで、甲斐(山梨県)・駿河(静岡県)・相模(神奈川県)の三国の境界に位置する山だからである。

 余談になるが、現在は、神奈川県の県境は三国峠になっているが、曾て相模の国境はもっと富士山寄りにあったようで、現に富士山の東側は地図で見ると判るが静岡・山梨の県境も8合目から上は表示されていないという現代の大不思議が存在するのである。
 というのは、実は、富士山頂は「県境未定領域」である。富士山頂は富士山本宮浅間大社(富士宮市)の「私有地」だったりする(最判昭和49年4月9日判時740号42頁)。その浅間神社が登記未了のため県境が確定せず、地形図でも8合目より上は県境が途切れているのである。山頂の神社や郵便局の住所は、「〒418-0011 静岡県富士宮市粟倉地先」で、「山頂で働く人たちに郵便物を出したい」と問い合わせれば、郵便局ではこの住所を案内する由。

 ところで、この石段は奥行(縦幅)が極端に狭い急階段で、手摺りもないので下りる時には片手をついて横歩きで降りないと危険極まりない。民家の住人は恐らく別の出入り道があるのだろう。

ケヤキ並木の道

 「富士塚」を見たあと、引続き国道左側の歩道を進むと、「資料館入口」交差点で手前の新座市から入間郡の「三芳町」に入る。但し、この辺りは少し南側には所沢市が迫ってきている。中央分離帯の先端に「川越街道」と記した縦書の大きな石碑が川越方面に向かうドライバーを出迎え、ここから見事なケヤキ並木が始まる。
 国道両側の歩道と中央分離帯との三列並木だが、主役は石垣造りの中央分離帯にある。分離帯を設けるだけの広い道幅を確保するのは大変だったろうが、そこを並木で埋めるのも大決断を要したと思われる。しかもその中央分離帯のケヤキは、歩道の各一列とは異なり、2~3本植えられている幅たっぷりの分離帯なので、涼感・景観・その長さ共に素晴らしいの一語に尽き、この街道を歩いて得した気分にさせてくれる優れものである。思わず先だって8月2日や9月6日に歩いた日光杉並木を思い出すが、甲乙つけがたい圧巻ぶりである。

木宮(きのみや)稲荷神社(9:35)・・・埼玉県入間郡三芳町藤久保

 「三芳町役場入口」交差点の少し先左手に「木宮稲荷神社」がある。入口が狭いが緑の静寂の中に、楚々とした佇まいである。手前に木製の両部鳥居、直ぐ奥に石造明神鳥居がある。
 三芳村の開発は正保年間(1644~1648)から元禄年間(1688~1704)にかけて行なわれたとされ、集落・藤久保の地名由来は地区にある窪地に大きな藤の木があったことによるという。

 木宮稲荷神社は、寛文元年(1661)に当地を領有していた中山治左衛門が大阪在藩時に稲荷の神が藤久保に下るという夢を見たことから、紀州の良材を当地に送り稲荷社を建立したことに始まり、御祭神には宇賀豊受比売命を祀っている。以来、木宮(きのみや)と称された。
 明治5年に村社に列格し、明治40年には旧別当東乗院15代目当主祠掌鈴木文昌氏により同村字東および同村字富士塚より八坂神社・浅間神社を境内社として境内左手に移転している。氏子地区は藤久保地区である。
 ただ、台座上の狛犬ならぬ狛狐が、老朽化による危険防止のためか、金網囲いになっているのが時の流れを弥が上にも感じさせる。

 中央分離帯と並木はその先で終わるが、振り返るとこちら側にも「川越街道」と彫られた大きな石柱が建っており、東京方面へ行くドライバー達に見えるようになっている。

御嶽山蔵王大権現(9:46)

 道路右手の沿いのユニクロの先に背丈の低い石の鳥居が見え、傍らに「御嶽信仰と塚」の案内標識が建てられている。民家の敷地内に塚が築かれ、「御嶽山蔵王大権現」が祀られている。木曽御嶽山に対する山岳信仰で、藤久保では「覚明講社」という御嶽講が結成されていた。

広源寺(9:51)・・・入間郡三芳町藤久保1007

 その先左手に予定外の「広源寺」を見つけ、立ち寄る。曹洞宗の寺院で大榮山と号する禅寺である。川越市渋井の連光寺の末寺だが、寛永16年(1639)竜国呑海大和尚の開基とされ、川越街道の成立や藤久保の開拓着手時期と同時期の創建とされている。
 本尊は釈迦如来座像で、また、明治七年藤久保小学校開校場所であり、三芳町の教育を語る上で欠かせない所でもある。
 境内は禅寺特有の端正さで、境内左手には立派な休憩コーナー、右手には東司も備えられ、街道ウォーカーにとってはありがたい場所でもある。

藤久保の松並木

 「藤久保」交差点の200m程先から再び立派な並木の聳える分離帯が始まり、ふじみ野市との市境付近まで続いていく。ここからの「藤久保の松並木」は主役のアカマツに混じって、杉やケヤキも混じり、面白い。川越街道で唯一残った松並木だそうで、松の巨木が20数本に欅、桜、ヒマラヤ杉等の樹木が混じって植えられている。
 「その昔 殿が通りし松並木 今はあなたが守ります 三芳町」等と表示されているが、何しろ国道の排気ガスに日夜苦しめられっ放しの並木なので、いつまで健在でいてくれるか、心配である。

 道路の右手は広く、綺麗なベンチが数ヶ所置かれてあったり、彼岸花が満開だったりして眼の保養になり、角には、享和2年(1802)銘の「庚申塔」、中央には「川越街道」と横書きされた石碑がある。

川越街道解説板(10:12)

 その先の歩道右手に「川越街道」の解説板が建っている。それによると、川越街道は、長禄元年(1457)古河公方に対する防衛道とするため以前からあった古道を繋ぎ合わせたのが起源とある。この説明が唯一、川越迄の13里と実際の距離との差異について解説している。

               
川越街道
 川越街道は、長禄元年(1457)上杉持豊が川越城と千代田城(江戸城)を築いた際、古河公方に対する防衛道とするため以前からあった古道をつなぎぎあわわせたのが起源であるといわれ、現在のような道筋に整備されたのは江戸時代の寛永年間(1624~1643)とされる。現在、三芳町内の川越街道は中央分離帯によって上下二車線になっているが、江戸時代の道筋は現在の上り車線にあたる。
藤久保・竹間沢地区に残る杉や松の並木の起源は寛永期までさかのぼると思われ、延宝六年(1678)の尾張藩鷹場絵図には、既に中野(新座市)から藤久保を経て大井まで松とおぼしき並木が街道の両側に整然と描かれている。昭和四十年代頃までは、富士駆歩交差点の南側に松並木、北側に杉並木が続いていたが、現在では、わずかに残る藤久保交差点北側の松の古木に往時の面影がしのばれる。
 なお、この川越街道の並木の景観は「三芳町みどりの景観八景」の一つに選定(平成四年九月二十二日)されている。
 「川越街道」と呼ばれるようになったのは明治時代以降のことで、江戸時代には「川越往還」「川越道中」「江戸街道」などと呼ばれるのが普通であった。川越街道には、大井宿(大井町)、大和田宿(新座市)、膝折宿(朝霞市)、白子宿(和光市)の四つの宿場が置かれ、板橋宿(板橋区)において中山道と合流し日本橋に通じていた。
 「九里四里(栗より)うまい十三里半」という川越いもの特徴を誉めた言葉があるが、川越の大手前(現川越市役所前)から日本橋までの距離は十一里三十四町三十三間半(四十六・九三メートル)である。二里(八キロメートル)ほど短いようであるが、生産地の三芳と集積地の川越の距離を合わせると十三里半となり、見事に距離も一致する。
               平成五年三月
                              埼玉県
                              三芳町


 ここ三芳町に宿駅はなく、ただ通り過ぎるだけの村だったのに、街道に対する愛情はどこにも負けなかったようだ。

 ふじみ野市の大井に入っていくと、目の保養にもなった松並木の分離帯が終わり、車の流れが2倍になる。4つ目の「川越街道」碑は、ふじみ野市の大井集落によるもので、筆つかいも三芳町の3基とは違っている。

克福稲荷神社(10:22)・・・ふじみ野市大井

 その先、バス停名が「大井下組」「大井坂上」「大井坂下」「大井中宿」「大井上宿」と続いていくが、「大井下組」バス停の先左手の民家の庭先らしき所に「克福稲荷神社」があり、社殿前の鳥居の数や川越街道に設置された大鳥居などを見ると、現在もかなりの信仰があるらしい。この克福などという名前も大いに評判源なのかと想像される。おそらく、克福稲荷神社はお定まりの宿出入口にあって宿を災難・疫病などから守る神様だったと思われる。
ただ、街道沿いの鳥居から奥を覗くと社は大分奥の方らしく見えないので、立ち寄らず街道からの合掌のみにとどめた。

大井宿下木戸跡(10:22)・・・ふじみ野市大井

 その道向かいに「下木戸跡」の解説標識がある。ここに大井宿の南木戸があったという。木戸の傍らに道中安全を守る「石地蔵」があったが、現在ではこの先の街道左手の「徳性寺」に移されている。
               
下木戸跡
 江戸時代、江戸をはじめとする城下町や宿場町などの出入口には、治安維持を主な目的として、夜間や非常時に閉鎖される警備用の木戸が設けられました。言い伝えによれば、大井宿にも南北を貫く道巾六メートル余の川越街道の入り口二か所に木戸が設けられ、そのかたわらには、旅人の道中の安全を祈るために、石の地蔵が立てられていました。大井宿の施設を詳細に描いた絵図や文献等の資料が発見されていないため、木戸の形については明らかではありませんが、両開きの大扉の左右に、緊急時の通行用であるくぐり戸を設ける形式であったと思われます。


大井稲荷神社(10:26)・・・ふじみ野市大井224-1

 バス停「大井坂上」辺りから道はその先の坂下の「大井橋」に向かって緩やかに下っていく。途中、右手に「大井稲荷神社」がある。「大井橋」の下には鎌倉時代に掘られたという砂川堀が通っていたが、現在は「砂川堀都市下水路」が一部分暗渠になって埋まっている。

徳性寺(10:30)・・・ふじみ野市大井954-1

 街道左手に「徳性寺(とくしょうじ)」がある。山門を入った左手隅に、往時南木戸跡にあった明和4年(1767)銘の石地蔵と、近くで出土した弘安4年(1281)銘の古い板碑などが並べられている。
 特に、「阿弥陀一尊板碑」は、高さ117cm、幅31cm、厚さ3cmで、ほぼ完形に近く、大きく立派なもので、鎌倉時代後期の有力者によって造られたと思われる。この板碑は、大井氏の館跡と思われる場所の一角、東台の「坂上の石塔畑(せきとうばた)」から出土したと言われている。徳性寺境内にある他の大小板碑もその周辺から出土したと伝えられている。

              
 徳 性 寺
 天台宗天龍山本乗院徳性寺は、川越市古谷の灌頂院の末寺で、伝承によれば、今から四五〇年程前の室町時代、秀山律師により開かれたという。一時、寺勢が衰えた物の、江戸時代前期、第一四世祐円和尚(万治三年・一六六〇年没)により中興された。明治一四年(1881)一月一六日の大井町の大火により本堂・庫裡などの建造物と共に当時の歴史を記した記録も失われてしまった。
 現在の本堂は、昭和四八年(1973)に、庫裡は昭和五五年(1980)に再建されたものである。
 本尊は、室町時代のものと考えられる阿弥陀三尊像である。本堂には江戸時代初期に大井を領地とした旗本の米津彦七郎(過去帳には彦七とある)の位牌(天和二年・一六八二没)が祀られている。また本堂裏手の墓地には歴代住職の墓塔のほか、元和九年(1623)銘の五輪塔(新井家墓地)があり、寺の歴史の古さを今に伝えている。山門は、大火の後の明治二五年(1892)に移築されたもので、川越の南院(廃寺)のものとも川越城の遺構であるとも言われている。この山門の脇には、坂上(小字東台)近くの石塔畑と呼ばれる場所から出土した弘安四年(1281)の銘を持つ板石塔婆をはじめとする二十数基の板石塔婆や大井宿の南木戸(江戸側)に立っていたとされる石の地蔵など大井の歴史を物語る多くの石造物をみることができる。
 また、当時では、近年まで、遺骸を埋葬する場所(埋め墓)と墓塔を建てる場所(詣り墓)とが異なる両墓制を見ることができた。
               平成十三年十一月
                              ふじみ野市教育委員会
                              ふじみ野市文化財保護審議会


大井宿

<道標>
 「大井中宿」バス停の先の小林理髪店前に「従是川越迄二里十八丁」の道標が建っている。

<高札場>
往時にはこの辺りが大井宿の高札場だったというから宿の目抜き通りだったのだろう。

<新井本陣跡>
 続いて左手に「大井宿と本陣」の解説板がある。本陣だった「新井家跡」で、現在は「池坊いけばな教室」の看板が掛かったモダンな感じの家である。新井家は名主、問屋場も兼ねていた。
 川越藩主の参勤交代時には、江戸に近いため宿泊はせず、休憩と人馬の継立業務だけを行っていたそうだ。

<火災>
 大井宿は、明治時代に3回もの大火で焼失し、往時の宿場町の面影は皆無である。敷地内に建っている解説板によれば、この宿には「河内屋」、「柏屋」、「うどん屋」、「中屋」という4軒の旅籠と「中島屋」という木賃宿があったという。

旧大井村役場(10:43)・・・ふじみ野市苗間34-6

 「東入間警察入口」交差点を越えた左手の大井小学校の前に「旧大井村役場」の建物がある。明治42年(1909)築の落ち着いた雰囲気の建物で国指定有形文化財になっている。
この建物は、昭和12年(1937)に大井村役場庁舎として建てられた寄棟形式の2階建木造建築で、延床面積は196.24㎡である。外壁はモルタル施工され、飾りの少ないシンプルな外観である。
 川越街道に面した正面入口を入ると、1階正面がカウンター越しに事務室、左には村長(町長)室があり、2階は議場・議員控室などになっていた。1階南側には和風の付属室があり、用務員室・宿直室になっていた。昭和46年12月まで大井町役場として使われたが、その後は東入間警察署・大井小学校・大井町教育委員会が利用していた。
 昭和初期の官公庁建造物が次々と姿を消す中、川越街道沿いでは唯一残されているのがこの旧役場庁舎である。外観上、一部に手が加えられているが、基本的な構造など建築当時のものがよく残されていること、数少ない官公庁の木造建造物であることなどから、平成14年2月14日に国登録有形文化財に指定されている。

移された馬頭観音

 その先、僅かながら富士見市勝瀬地区が東からふじみ野市域に食い込んでいる。その勝瀬地区入口にある信号の先で、旧川越街道は国道254号線を右に分け左側の細い旧道へと入っていく。 この分岐に「馬頭観音」があったそうだが、今はこの先再び国道に合流する所にある「神明神社」の西側の空き地に移されているそうなので、後刻立ち寄りたいと思っている。。

道標を兼ねた「角の常夜燈」(10:55)

 分岐して600m程行った先の信号で、旧川越街道と、地蔵街道・大山道が交わる。その右手前角の分離帯に出来た小公園に、享和2年(1802)建立の道標を兼ねた立派な常夜燈がある。
 正面には「奉納 阿夫利神社常夜燈 亀久保中」、左側面には「大山 武蔵野地蔵 ところさわ 道」、右側面には「享和二壬戌年三月吉日 明治参拾丁酉稔八月再磨之」と刻んでいる。
 横には小休止できるベンチもある。

               
角の常夜燈
 旧川越街道と地蔵街道の交差するこの地を、「角(かど)」と呼びます。丹沢の霊峰大山の阿夫利神社へ参詣する際に、亀久保村から最初の曲がり角に建つ常夜灯なのでこの名があります。
 この常夜灯は、享和二(1802)年に建てられたもので、明治三十(1898
)年には、笠石と台石部分が再建されています。当時は街道の中央におかれ、夜になると火袋に灯を上げて農作物の収穫を祈りました。
 道標もかねており、ここを起点に役場に向かう道が大山道で、地蔵街道とも呼ばれ、元禄七(1694)年、三富開拓(上富は、亀久保村から移住した四八軒が開発にあたる。開発名主は亀久保村の組頭三右衛門=後に忠右衛門と改名)のために開かれた道です。農作物の神と雨降りの神をまつる大山参拝をはじめ、富の地蔵様へのお参りに利用されました。

(注)明治三十年は1897年が正当


亀久保地蔵院(11:00)・・・ふじみ野市亀久保3-11-11

 更に300m程進むと、右手に「地蔵院」がある。

               
地 蔵 院
 真義真言宗木宮山地蔵院。新座市大和田普光明寺の末寺。武蔵野地蔵尊とも呼び、別名佉羅陀山薬王寺とも称する。正和三年(1314)一一月覚応の開基という。
 鎌倉~南北朝時代の武将二階堂氏が、鎌倉末期の武蔵野の戦の折りに不思議の霊験を見たので再興し祈願寺としたという。本尊は二尺五寸(約七六cm)の地蔵尊座像。昭和二七年火災により、江戸時代文化年間(一九世紀初)建立の本堂(間口八間半・奥行七間半)、建久・建仁(一二世紀末~一三世紀前半)の仏具、江戸時代の大般若経六〇〇巻が同時に消失し、焼け残ったのは本尊と山門だけである。
 幕末まで六郷氏(二階堂氏)の庇護があったと言われる。江戸時代参勤交代の折に休憩所として使われたともいう。昭和初期まで毎年八月に大般若会が行われた。
弘安五年(1282)・建武三年(1336)の板碑が、昭和一五年新道(川越街道)建設工事の際に発見され、現在当院に保管されている。
 本堂向かって左にある薬師堂の本尊は島田氏の大本家のおばあさんの夢枕に現れ、「しょうじん場」(江川)より掘り出されたと伝えられている。秘仏であって、見た人はいないまま昭和二七年の火災で焼失した。今では一寸八分(約五cm)の石の慈眼菩薩が祀られている。毎年九月八日が縁日で、眼の病に利益があるといわれている。
               一九八五年
                              ふじみ野市教育委員会

 現本堂はコンクリート造で再建されている。

 境内に入った直ぐ左手に「無憂樹」ありり、下記解説板が付せられている。

               
無 憂 樹
 釈尊の生母摩耶夫人が出産のため生家に帰る途中、藍毘尼園(ランビニオン)の菩提樹の下で釈尊を生んだ。安産であったため、この樹を無憂樹という。花を無憂華(むゆうげ)といい赤い花を咲かせる。


 無憂樹の右隣には、赤い涎掛けをした「六地蔵」が覆屋の下に立ち並び、その右隣に前掲の地蔵院に関する解説板がある。

 山門を潜ると、参道右手にある「しだれ桜」の枝が参道を塞ぐように覆い被さっている。

            
ふじみ野市指定文化財 天然記念物
               地蔵院のしだれ桜
                              昭和五十三年四月一日指定
           樹
   高  六・三メートル
           目通り周囲  二・七メートル
           根回り周囲  三・九メートル
           枝張り(西側) 七・五メートル
 ふじみ野市の天然記念物に指定されている地蔵院のしだれ桜は、春の彼岸に花を咲かせる江戸彼岸桜の変種で、樹齢は、三百五十年前後(江戸時代中頃)と推定されています。
 しだれ桜のある亀久保地蔵院は、鎌倉時代の創建と伝えられている古刹です。寺の歴史には及ばないもののこの桜は、地蔵院とともに亀久保の歴史の移り変わりを見守ってきたことになります。
 しだれ桜の寿命は、三百年前後といわれており、近年、樹勢にやや衰えが見られるようになったため、平成十年に樹勢回復の措置が取られました。この措置により、当分、陽春には見事な花が、私たちの目を楽しませてくれることでしょう。
               平成十一年九月
                              ふじみ野市教育委員会


亀久保神明神社(11:09)・・・ふじみ野市亀久保2-16-22

 旧道が右後方からの国道254号線に合流する手前左手に、慶長3年(1598)創建の亀久保の鎮守「神明神社」がある。

               
亀久保神明神社
 当社の正確な創立年代は不詳ながら、慶長三年(1598)の創立で、大日孁尊尊(おおひるめむちのみこと 天照大神)を祀り、当初より村の産土神として崇敬されています。
 新編武蔵風土記稿などから、地蔵院が当社の別当をつとめていたことが明らかです。
 口伝によれば天文十五年(1546)四月二十日川越夜戦(上杉氏と北条氏との戦い)の時敗れた斉藤利長、信洋親子(斉藤別当実盛の子孫)は入間郡野老沢(所沢)に住みつき一族の武運隆昌を祈って弘治二年九月二十一日京都より所沢に神明社を勧請したといわれています。信広より六代目の次男勝之丞は出家して惠海法印と称して亀久保地蔵院座主となり、享保年代に所沢の神明社を木の宮稲荷社の地へ勧請し、自ら地蔵院別当となったということです。
 かっては、境内に周囲一丈三尺(四m)ほどにおよぶ老杉があり、古社としての風格を色濃く残していたといわれます。
 拝殿には、宝暦八年(1758)・明和二年(1765)・寛政十一年(1799)などの古い大絵馬を奉献するほか、境内に天保十二年(1841)の手水鉢や、力石四十貫(一六〇kg)と三十貫(一二〇kg)の二つが現存しています。
 明治五年(1872)の社格制定の際、古社であり、また一村の鎮守であることから村社となりました。
 大正十二年(1923)四月に神饌幣帛料供進神社に指定されました。昭和四年(1929)本殿裏に古神札納所が設置され、さらに昭和八年(1933)社務所が改築されました。
 その後、昭和三十二年(1957)四月、拝殿や幣殿が老朽化したため、氏子の寄付によって再建されました。その際、解体した梁木に文化期(1804~18)の鷹匠の墨書が確認されたといわれています。
 なお境内社には、天保十二年(1841)正月創立の八坂神社と、明治四十年(1907)五月九日に武蔵野より移転した稲荷神社とが祀られています。(以下、祭礼日など掲載省略)


 市の文化財に指定されている亀久保神明神社奉納の3点の絵馬の内、宝暦8年(1758)の「大江山の鬼退治」の絵馬は、大きく鮮やかな武者絵である。境内にある「八坂神社」に大井宿の新井家(本陣)から浅野家に嫁いだ八重という女性が奉納したと伝えられている。また、同じ拝殿内に掛けられている明治19年の奉楽絵馬は、大きさが縦68cm、横104cmある。

 また、本殿右奥には、かなり太い古樹の「御神木」の切り株が覆屋に覆われて祀られている。2個の「力石」は、その近く(本殿右手)に石の台座の上に載せられている。武蔵野稲荷神社は境内左手にある。

馬頭観音

 神明神社西側の空地を利用して、富士見市勝瀬の旧道分岐点に昔あった馬頭観音が堂内に移転・安置されているというが、矢印付きの案内立て札はあったが肝心の本体が見当たらない。
 その馬頭観音は、先に触れた大和田宿の鬼鹿毛伝説に関わりがあると伝えられている。その昔3人の武士が早馬で江戸を目指して走ったが、川越の伊佐沼で1頭が倒れ、亀久保で1頭、さらに大和田で最後の1頭が倒れたという。そして、亀久保の1頭がここの馬頭観音で、大和田で倒れた1頭が、鬼鹿毛伝説になったというのだが・・・

■昼食(11:22~11:38)

 国道254号線に合流し、その先「亀久保交差点」右向こうにある「七兵衛」に入り、つけ麺で昼食とする。なかなかの風変わりな旨麺だった。

鶴ヶ丘八幡神社・・・ふじみ野市鶴ヶ岡三丁目

 再出発すると、三度目の中央分離帯始まり、ケヤキ並木が景観と涼感を提供してくれる。約1km程先の「藤間歩道橋」で、再び国道を右に分けて左の旧道へ入っていくが、いよいよ川越市である。そのすぐ手前左手に少し入り込んだ所の右側に「鶴ヶ丘八幡神社」がある。鶴ヶ丘村の鎮守で、古樹らしきものはあるが何となく殺風景で、社殿も質素かつ素朴である。
境内社が右手に2社あるが、社名ほか不明である。

               
鶴ヶ丘八幡神社
 鶴ヶ丘の鎮守である八幡様については新編武蔵風土記稿に「八幡社 村の鎮守なり 亀久保地蔵院の持」と記されているのみで、沿革の記載はありません。
 小規模ながら切妻造りの拝殿(六坪)と神明造りの本殿を配しています。祭神誉田別命を祀り、境内約三〇〇坪を有し、稲荷神社と八坂神社・御嶽神社の三社を合祀しています。
 鶴ヶ丘村は正保の頃(1644~48)の検地帳にはその名が見えず、貞享三年(1686)に検地実施の記録があります。当時は神仏混淆の時代であるため、地蔵院で八幡神社を管理したいというのに対し、村の鎮守であるし、元来村方支配により維持してきたのでそれはできかねるといった、地蔵院と村方とのやりとりがあり、一度は村方支配に落着したが、数年後の文政期(1818~30)には地蔵院支配となっています。
 八幡神社資料としては「奉納八幡宮 鶴ヶ岡村中 文政十三年三月吉日」と刻された鰐口が高山祐一家に所蔵されています。
 参道入口には、鶴ヶ岡発生を語る芝開き地蔵尊が祀られています。
 なお、この地域一帯には、縄文時代中期(今から四千五百年前)の遺跡も包蔵されています。
(以下、例祭については略)

芝開き地蔵尊・・・ふじみ野市鶴ヶ岡三丁目

 鶴ヶ丘八幡神社から街道に戻る直前の南東側に、比較的新しい木造の建物の中に2体の石造物が祀られており、街道側に立つ大きな太い木柱に次のように記されている。

 
交通安全鶴ヶ丘厄除地蔵尊
  奉 建立地蔵菩薩念仏供養菩提也
  此地芝開三名厄除地蔵尊施主都古人
  元禄七甲辰年十月九日武蔵入間郡靍ヶ岡邑


旧川越街道 藤馬中宿跡

 川越市域に入ると、10/17~18川越まつりのポスターが目立つようになり、塀や門構えの豪邸が結構目についてくる。苗字や商店名には新井とか沢田などの姓が多くある。大谷石の塀に薬医門を構えるお屋敷には新井姓の表札が掛かっている。
 「いもせんべい本家あらい」の行灯を垂らしている店先の藤棚の下に「旧川越街道 藤馬中宿跡」の標柱があるのを発見したが、正式な宿ではないし、大井と川越の間にあった間の宿だったのだろうか。「藤間」は川越市内の地名だし、バス停では「藤間下」・「藤間中」等があるが・・・

東光寺(12:06)・・・川越市藤間1126

 車が急に少なくなった通りを暫く進むと、街道左手に曹洞宗の「東光寺」がある。山門前の左右には、石仏や石碑が並んでいる。山門は綴じられており、やむなく山門の右の坂を登り、突き当たりを右折すると正面に本堂がある。曹洞宗の禅寺にしては佇まいなどに荘厳さが無く、道の右手にある寺経営の幼稚園からの雑音で殊更雰囲気がない。

 当寺は、江戸時代初期から元禄年間(1688~1704)まで藤間村の地頭だった米津彦七郎が、慶長15年(1610)に開基した寺で、寛永2年(1625)に僧舟海久呑が中興開山している。宗派は曹洞宗、山号を医王山と称し、渋井(古谷地区)の蓮光寺の末寺である。本尊は坐像の薬師で、安阿弥の作と伝えられる。
 江戸時代初期までは藤間の集落が国道の東側、寺尾に接した辺りにあったので、この寺も東久保にあったが、元禄16年(1703)、川越藩士で柳沢吉保の家臣・柳沢帯刀保誠によって現在の場所に移されたことが本堂にある銅鐘銘文によって知れる。なお、この寺にはもう一つの本尊として阿弥陀仏がある。
 本堂の左手には、覆屋の中に六地蔵が並んでいる。その右側には、比較的新しい像が高い基壇上に建ち、脇の幟に「聖観世音菩薩」とある。

首切り地蔵(開明地蔵大菩薩)(12:10)・・・川越市砂新田

 その先の三叉路(逆Y字路)角の覆屋の中に、鎮座した丸彫りの石地蔵「開明地蔵大菩薩」がある。入口から見上げると、文字の書かれた白布を首に巻いたお姿である。
 これは宝永6年(1709)3月の建立で、川越藩の「御仕置場跡」つまり処刑場があった場所である。仙波、小中居上留村、自井沼、上村、留村、二ノ関の各村から2人ずつの僧と、近くの村に住む有志が建てたもので、一名「首切り地蔵」とも呼ばれている。元は烏頭坂の近くにあったが、段々人家が出来、江戸時代中期になってこの地へ移したのだという。
 ここから道の左側は砂新田地区になる。

吉田神社(12:19)・・・川越市砂新田374

 約600mほど先の左手高台に、「吉田神社」の小さな社殿がある。長い石段で登っていく。
高階中学校の西向かいに鎮座するこの神社は、極く小さな丘の上に境内があり、入口脇には「吉田神社」の石柱社号標と当社の祭神となった「吉田次兵衛政次翁命之奥城」木碑が建ち、石段の上には、南側の建物に接して、小さな社殿がある。

 この社には解説板がなく、勧請年月・縁起・沿革等は一切不明だが、川越城主松平伊豆守信綱の家臣吉田次兵衛が、自分の所領地だったこの地に、秘蔵していた武具を埋めて塚を築いたものと言われ、別名「次兵衛神社」とも呼ばれている由。
 「川越の民話と伝説」には、この社の御祭神となった吉田次兵衛政次翁が、榛名神社の申し子を自分の子供として大事に育て、やがて当地で木喰上人となったので、榛名湖の竜神が次兵衛塚のある砂新田だけは雹や落雷、集中豪雨の被害から守っている・・・という伝説が残っている由。

春日神社(12:33)・・・川越市砂新田140

 更に800m程先の右手には「春日神社」がある。境内入口の明神鳥居を潜ると石段があり、その左右に狛犬が配されている。

 この神社は東武東上線・新河岸駅の西北西約650m、高階郵便局北に鎮座し、小さな神社ながら、石垣の上の境内は古墳の上に建てられているとも言われる通り、周囲に比してここだけ高くなっている。鞘堂内の本殿は江戸彫彫刻で飾られた小型の一間社流造で、屋根はこけら葺を模した板葺である。覆屋の板床上に据えられているが、覆屋は三方に高欄を付けた舞台風の造りになっていて、彫刻も細かく手が込み、全体的に工芸品を思わせる。壁面の彫刻は、左側面が竜と琴を弾く婦人、右側面は虎と翁と童子で、背面にはなく、立体感があり、「東都彫工嶋村俊正(花押)」の刻銘がある。

 御祭神は、天児屋根ノ命・比売ノ神・経津主ノ命・武甕槌ノ命を祀り、境内社として八坂神社・稲荷神社がある。旧村社で砂新田の産土神であるが、慶安年間(1648~52)の創建と伝えられ、子供の成長を願う神様として崇敬されている。

としとらず川(12:39)

 350m程先で小さな「不老川」に架かる「御代(ごだい)橋」を渡る。この不老川の水源は、小さな湧き水に端を発し、その流れは冬枯れで年を越さないため、「としとらず川」と呼ばれているとか。「としとらず」と知れば思わず立ち止まって御利益を戴きたくなるが、ともあれ、その流れは「新河岸川」に注いでいる。
 その先左手のセブンイレブンでアイス休憩とをしていたら、以前次男の嫁さんに教えて貰った平型ペットボトル入りのドリンクを見つけたので購入。これからの秋・冬シーズンにはポケットに入れやすい優れものなのである。

長田寺(12:47)・・・川越市岸町2- 30-5

 御代橋から300m程先左手に「長田寺(ちょうでんじ)」がある。山門を潜ると正面に本堂があり、本堂右手には宝篋印塔、左手には石仏が並んでいる。
 長田寺は、曹洞宗養寿院の末寺で、この村の地形が東西に長く湾曲しているところから、山号を月村山と称している。開基と伝えられている長田金平は、岸村の地頭でここに館を構えていたという。彼は後北条氏の家臣だったが、後に徳川氏に仕え、慶長元年(1596)に没した。岸月院殿久山長田居士という法名の位牌が今もこの寺に残っている。開山は養寿院四世明梵和尚である。
 参道左側の竹垣が終わると、左に曲がった塀の陰に六地蔵が並び、その向かい側には小さな塔婆に囲まれて、無縁仏が祀られている。

烏頭坂(12:54)

 道はなだらかに登っていく。左には鬱蒼たる森が見え、熊野神社の石の階段の麓に「烏頭坂」の石柱がある。解説板には次の様に記されている。

               
烏頭坂 (市指定・史跡)
 旧川越街道を岸町から新宿町二丁目・富士見町へ上る坂道で、往時は杉並木がありうっそうとしていた。新河岸川舟運が盛んな頃は、荷揚げされた荷物を市内の問屋街に運ぶときに必ず通らなければならず、難所として知られていた。川越の地名として古くからあり、文明十八年(1486」頃、この地方を遊歴した道興准后の『廻国雑記』に、「うとふ坂こえて苦しき行末をやすかたとなく鳥の音もかな」という歌がある。
               昭和三十三年三月六日指定
                              川越市教育委員会


熊野神社(12:55)・・・川越市岸町2-21-7

 左右を繁みに囲まれた数十段の石段を登っていく。境内入口の台輪鳥居(稲荷鳥居)、参道の二の明神鳥居、拝殿前の昭和10年生まれの岡崎現代型狛犬を構えた「熊野神社」は、鬱蒼たる木々に囲まれなかなか趣がある。また、歩いてきた方向が眼下に開けていて、その道程を思い起こす。
 拝殿奥の本殿には、本殿を護る江戸流狛犬が控え、阿は子狛を連れ、吽は右前脚を上げた変わった姿をしている。
 境内最奥には石塔型の末社群が立ち並び、左から、御嶽神社、霊神、三峰神社、疱瘡神、榛名神社、稲荷大明神、鎮守熊野三社大権現、神明神社、秋葉神社、稲荷明神、八坂神社、戸隠神社、諏訪神社の順に祀られている。
 また、参道の左側にはやはり境内社の「月見稲荷」があり、石灯籠の下側面に狐を彫ったレリーフが見える。また、参道右側には、靖国鳥居と神門の奥に「御嶽塚」が祀られ、塚の上には、御嶽神社・八海山神社・三笠山神社碑・大江大権現碑・日天社碑・霊神碑・大日大聖不動明王碑・木曽御嶽一心講霊神碑、摩利支天社碑、覚明霊神碑、普寛霊神碑、一心霊神など、大変な集合ぶりである。

(注) 八海山と三笠山は、御岳山と峰続きの山で、御前山(おまえやま)とも言われる。

川越大橋と複雑な交差点(13:08)

 その先で旧道は国道254号線と合流し、少し先の「新宿町北」交差点で交差する国道16号に254号線は右折合流するが、旧道は大きく煩雑な「新宿町北」交差点を歩道橋で渡ってほぼ直進して県道39号線へと入って行くことになる。愈々川越市内中心部へと入っていく訳だが、大いなる立ち寄りのためこの交差点を右折して国道を北東に進む。歩道橋の交差点下を東武東上線とJR川越線が二方向から接近し「川越駅」方向に並進している。

富士浅間神社(仙波浅間神社)(13:11)・・・川越市富士見町21-1

 街道から少し右に入った所、国道16号線沿いに「浅間神社」がある。神社は、通称「母塚」と呼ばれる円墳の古墳上に鎮座している。因みに、国道16号線を隔てた少し北東側にある「愛宕神社」が「父塚」である。この後訪問する予定である。

<鹿見塚>

 入口の鳥居の脇に「占肩(うらかた)の鹿見塚(ししみづか)」の碑がある。この辺りには昔「鹿見塚」というのがあったが、東武東上線開通時(大正3年)に壊されたという。
 万葉集巻十四の「武蔵野に占へ肩灼きまでにも告らぬ君が名うらにでにけり」の歌の誕生地とされ、県指定旧跡になっている。昔、亀の甲を焼いて吉凶を占なったというのは何かの本で読んだような気がするが、ここでは鹿の肩を焼いて占いをしたようだ。

                
占肩の鹿見塚碑
 万葉集巻十四の
 武蔵野に占(うら)へ肩灼(かたや)きまでにも
 告(の)らぬ君が名うらに出にけり
 という歌は古代日本人が多く住んでいた鹿を持し、その肩を焼いて吉凶を占った習慣にことよせた情緒深い歌であるが、この誕生地が長いこと謎だった。
 この仙波の地には、父塚・母塚もふくめて古墳群が形成されていた。しかし、この鹿見塚は大正3年に消滅してしまったが、土地の小名にも「シシミ塚」「シロシ塚」などと記録されている。シシとは鹿のことである。
 建碑の場所は便宜上浅間神社の前を選んだのである。
                平成四年三月
                                川越市教育委員会


 40段弱の石段を登ると、すぐ右手に「廿三夜塔」がある。

               
浅間神社古墳(市指定・史跡)
 円墳で、その規模は高さ約五メートル、周囲
(注)四二メートルである。現在この古墳の頂上には、浅間神社が祀られており、このためかなり削りとられて墳頂部は平坦になっている。古墳のすその部分に低いところが見られる事から周溝が巡っていたと考えられる。愛宕神社古墳と共に仙波古墳群の中では規模も大きく、群集墳が発生した初期の頃に築造されたものであり、6世紀の中頃のものであろう。仙波地域一帯が農業を専業とする人々によって村落が形づくられ、その指導者の墓として作られたものであり、川越市内では、的場古墳群、南大塚古墳群、下小坂古墳群のひとつである。
                昭和六十三年三月
                                川越市教育委員会

(注) 「周囲」とあるのは、「直径」の誤記。また最近の調査では、高さ5.8m、直径38mとなっている


<本殿の天井絵>

 本殿は大正12年9月の関東大震災で倒壊したが、同年10月にすぐ修復再建されており、それだけに地元の人たちから大切にされているものと思われる。
 本殿内は一般公開されておらず残念だが、天井の1枚1枚の板に平安絵巻のような、人物絵が描かれているそうで、四国霊場を歩き遍路した時に高知県窪川の第37番札所岩本寺の本堂で見た天井絵のようか等と想像する。関東大震災以前、創建当時に描かれたもので、大分傷みが激しくかなり色褪せや剥がれが目立つらしい。何とか修復・保存できればいいのだが、修復には数千万円かかるそうで、ちょっと難しいらしく、雨漏り補修などの現状維持がやっとらしい。

<富士塚と噴火口>

 社殿の裏に回りこむと、富士山の噴火口のように溶岩で築いた富士塚と、噴火口を表す穴が穿ってあり、穴の傍に次のような石版プレートが建てられている。

     
此のお穴わ富士山の
     噴火口を表し聖地です
     初山に開運及び安産等を
     祈願致します
     汚さぬようにいたしましょう
      昭和五十年七月 崇敬者總代


 この当日は、沿道に沢山の夜店も並び賑わうらしい。

 この浅間神社の冨士詣は宝暦3年(1735)頃から盛んになり、現在まで続いている富士山信仰で、遠く駿河まで参拝に行けない人々が、この神社に足を運び、神社裏手にある冨士の噴火口を現した池に賽銭を投じて、安産や開運を祈願しているのである。
 社殿奥に末社らしき祠が5つあるが、名前などは記されていないようで判らない。

(仙波)愛宕神社(13:26)・・・川越市富士見町33-1

 街道からはずれるが、国道16号線沿いに北東に進み、道の右手にある「愛宕神社」に行く。
 先述したように、ここには古墳があった。40段近い石段を登る。

               
愛宕神社古墳(市指定・史跡)
 仙波台地の東南端上に築かれたもので、かつてこの付近一帯には六つ塚稲荷の名称から考えても多くの古墳群が存在していたことがうかがえる。高さ六メートル、東西三十メートル、南北五十三メートルを有し、基壇のある二段築成の円墳で、幅約六メートルの周堀が東南の傾斜地を除いて巡っている。六世紀中葉期のものと思われる。現在は愛宕神社が祀られている。
               昭和六十三年三月
                                川越市教育委員会

               愛宕神社
 地形は、高さ六メートル、東西三十メートル南北五十三メートルの円墳で父塚といわれ川越市の指定文化財になっています。鎌倉時代(1182~1331年)いまから七~八百年前、武蔵七党の一つの村山党に属した仙波七郎高家の墓という説があります。
 祭神は火産霊命で、一五九三年・・・文禄二年正月、山城の国(今の京都)の愛宕山に鎮座する愛宕神社から分霊したものと伝えられています。
 古来より火伏の神、麻疹の神として信仰されてきました。麻疹が軽く済むようにと母親が子供を抱いて社殿櫓の下をくぐり抜ける習わしがあります。その祭礼は、七月二十四日で、七月十三日の浅間神社(母塚・・・初山)の後に行われています。


 富士浅間神社の母塚に対して、父塚とも呼ばれる愛宕神社古墳は、墳丘南側の鳥居を潜ると、墳頂まで石段があり、墳頂は平に削られ、北隅に愛宕神社の社殿が鎮座しているが、その南側には曾てのより大きな社殿があったことを示す基礎の切石が見える。恐らく、建て替える時に規模を縮小したものと推定する。

仙波氷川神社(氷川明神)・・・川越市仙波町4-19

 愛宕神社の更に先の国道左手に位置している小さな神社である。
 参道正面に拝殿があり、裏に本殿がある。本殿の右脇に川越祭りの山車「仙波二郎安家」の山車蔵がある。本殿右手には「稲荷大明神」がある。境内はそこそこ広く、彼岸花が満開だったのが印象的だ。
 普段観光や参拝に訪れる人は殆どいないのどかな佇まいの神社である。
 歴史的な感じというよりも、どちらかと言えば長閑な雰囲気のお社である。川越の総鎮守である有名な川越氷川神社は後ほど参拝予定だが・・・

天然寺(13:47)・・・川越市仙波町4-10-10 [小江戸川越七福神の第二番寿老人]

 氷川明神社から更に国道16号線を進み、今度は左手にある「川越七福神」の第二番目「天然寺」に行く。先刻立ち寄った仙波浅間神社前を真っ直ぐ国道16号沿いに700m程行った場所になる。場所(特に入口)が判りにくく、地元の人に訊いてやっと判った。

 七福神巡り2番目「寿老人」で有名で、本堂右手に寿老人を祭るお堂がある。寿老人は、中国の神様で、老人星の化身、福禄寿と同体異名であるとも言われ、そのお姿は多様である。当寺の寿老人は、彦根智教寺に安置されていたもので、長頭、長髭、右手に杖を持ち、左手に長寿の印の桃を持っている。富財、子宝、諸病平癒とそのご利益は多岐にわたるが、何と言っても長寿の神として信仰されている。また左手には「願掛観音像」「絵馬」のほか「水琴窟 癒し」があり、建てられた竹筒の先に耳をあてると滴りの奏でる癒しの音色が楽しめる。境内は広くはないがこじんまりと良く纏まり、小さな潜水には紅白の鯉が戯れていた。

 天然寺は、「自然山大日院」と号する天台宗の寺院で、本尊として大日如来(金剛界)を安置しているが、この木造大日如来坐像は平安時代末期藤原朝作で、川越市指定文化財になっている。
 慈覚大師草創の地と伝えられているが、天文23年(1554)9月に開山栄海上人によって創建された。境内には、慈母観音菩薩像、本堂脇には六地蔵尊がある。平成3年5月に新本堂・客殿・庫裡が完成し、寺観を一新している。

 川越七福神として有名なだけでなく、「武蔵国十三仏霊場」にもなっている格式の高い寺で、「十三佛偕同の塔」は、平成5年造立の新しい建造だが、菩薩・如来・明王などの見本市のようで珍しく感じる。

                
木造大日如来坐像(市指定・彫刻)
 像高一五九・八センチ、寄木造、彫眼、漆箔。胸前で智拳印を結び結跏趺坐する。
 頭部内刳部に建武二年(1335)、体部背板に永禄十三年(1570年)の修理銘がある。
 様式・形制から十一から十二世紀頃の造立と考えられる。後補の部分が多く、面部も大幅に削り直しを受けているが、市内に現存する仏像としては、最も古い作例の一つである。
                平成四年四月十六日指定
                                川越市教育委員会


 
多宝塔は、寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。
 その後、老朽化が進んだため、明治43年(1910)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築されました。
 ただし、移築に際し大幅に改造されていたので、昭和48年(1973)に現在地に移し解体修理を実施し復元しました。
 総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根がのります。
 江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています。

                大日如来
 「大日如来」は、宇宙の実相を神格化した根本仏で、七世紀後半、インドにて密教(言辞によって表せない奥深い教え)によって、救済活動がみとめられ、法を人格化して太陽を超えすぐれたるものとの意味で、「大日如来」の尊称が与えられました。
 当寺の「木造大日如来坐像」は条帛裳(じょうばくも)と呼ばれる絹の衣をまとい、胸前で金剛界(強力な武器として知られる金剛杵の威力にもたとうべき智法身・煩悩を粉砕する力を中心とする世界)の智挙印を結んだ坐像で、川越市内最古の仏像です。
 古くから安産の霊験があり、大日様と親しまれております。

川越観音・長徳寺(13:59)・・・川越市仙波町3-31-23

 天然寺に立ち寄った機会に、その少し北にある天台宗の川越観音「長徳寺」にも足をのばす。「喜多院」の末寺である当寺は、「川越観音」として知られる。
 下記のように、仙波(せんば)氏の館跡と推定されているようだ。仙波台地の東端に位置しており、荒川低地を一望できる処から、居館の立地としては最適な場所と目されているようだ。

                
市指定・史跡
                仙波氏館跡
 大仙波の長徳寺は天台宗の末寺で、「新篇武蔵風土記稿」によると「永正甲戌(1514)天台宗沙門實海」の名が古い過去帳に記されていたという。境内に、もと若干の土塁と堀があったといわれ、小字に「堀の内」という地名も残っているところから、仙波氏の館跡だと推定されている。「保元物語」に仙波七郎高家、「吾妻鏡」に仙波平太・同太郎・次郎・八三郎・左衛門尉などの名がみえ、これらは在名をもって氏としたことが考えられる。ただし郷庄の唱えではこの大仙波村は山田庄に属し、仙波庄を唱うる村はこれより南部の市内高階地区と上福岡の・大井・富士見・三芳の各市町に広がっているものが多く、仙波氏の支配した荘園と考えられる。
                昭和五六年一一月
                                川越市教育委員会

 「武蔵野歴史地理」には、長徳寺について次のように記されている。

 
氷川社の北方数町を離れて寺院長徳寺がある。此の寺は天台宗、小仙波喜多院末、冷水山浄土院と号する。開山は慈覚大師と云へる。古過去帳の序に「永正甲戌仏涅槃天台沙門実海」と記してあったともいへば、或は星野山諸院と同じき古寺であろうか、元禄十五年十二月十六日仙波東照宮正遷宮祭の時高家戸田中務大輔氏興は将軍名代として来り詣で、其の夜此寺に一泊した。

 寺が崖上の高台にあり、東に荒川沿岸の田圃を見下せる眺望が美しい処から、その宿坊に選ばれたと考えられ、現在も当時の宿札を蔵するという。このためか、山門裏の石灯篭には葵の紋が陰刻されている。
 拝殿の床下には、コンクリート製の三つの祠が造られおり、石仏・石碑が納められている。

妙善寺(14:20)・・・川越市菅原町9-6 [小江戸川越七福神の第一番毘沙門天]

 天然寺の直ぐ南側にある国道16号線の「仙波町」交差点まで戻り、今度は右折・西進して街道に戻り、信号から左折して南にバックし、右手にある「妙善寺」へ行く。正式名を「道人山三心院」と号する天台宗の寺院である。
 階段を昇り本堂の戸口からコンクリート造りの小江戸川越七福神の第一番毘「沙門天」が祀ってあるのが見られる。毘沙門天(梵名ベイシラマナ)は、仏教の守護神で多聞天とも呼ばれ、鎧・兜に身を包み、左手で持つ宝塔で無量の宝物を衆生に与えて福徳を授け、右手の鉾は邪を払い魔を降す徳を示している。心に勇気決断、くらしに財と、物心共々の福を施す神である。

 妙善寺は、開山尊能法印が寛永元年(1624)に創建、堂宇は天明8年(1788)の火災で焼失し、昭和53年に再建している。内部はこぢんまりしているが煌びやかさがあり、正面に見える本尊の不動明王は圧巻で、智証大師(円珍814―891、55才の時天台座主)の作、脇仏として阿弥陀如来が安置されている。

 本殿前には「川越さつまいも地蔵尊」があり、サツマイモが供えてある。川越と言えばサツマイモを使った芋菓子が有名だが、他にも芋餃子、芋釜飯、芋そうめん、芋鯛焼きなどバラエティに富んでおり、変わり種探しの小江戸探索客が結構いるらしい。10月13日には、ここ妙善寺で「いもの日まつり(いも供養)」が行われるほか、参加自由のイモにまつわる話や奉納芸能もあるとか。また、健康祈願(ガン封じ)のオイモも配布され賑わう。

               
 『川越さつまいも地蔵尊』建立由来記
 川越と言えば、サツマイモと言われるほどイモの町として有名です。その歴史は約二百五十年以上あります。寛政の頃(1789~1801)江戸の町に焼き芋屋が現れ、その焼き芋用のイモとして、「川越いも」は発展し、有名になりました。
 過去において、飢きんや戦争での食糧難を救ったサツマイモですが、現在は「美容食」「健康食」「宇宙農産物」として見直され、ひろく人々に愛されています。
 瀬戸内海の島々には、江戸期、サツマイモで飢きんを乗越えたことから、イモを伝えた先人の徳を偲び、「芋地蔵」が各地につくられ残っています。いまは飢えることはなくなりましたが、逆に「健康」を願う人々は増えました。『サツマイモを食べて健康になろう』の祈りを込め、現代版の芋地蔵の建立を、平成七年九月に地元川越のサツマイモ関係者の間で思い立ちました。
 いま、川越のマチを歩いてみますと、各種のサツマイモ商品があふれていますが、昔、この妙善寺周辺でも美味しい「川越いも」がつくられていました。10月13日はサツマイモの日ですが、その日には、この川越いも地蔵を中心に、イモに感謝を表す「いも供養」(いもの日まつり)が妙善寺で催されます。
     二〇〇五年
     さつまいも伝来四百年記念
                            川越いも友の会
                            川越サツマイモ商品振興会
                            かわごえさつまいも地蔵尊奉賀会
                            社団法人小江戸川越観光協会


菅原神社(16:24)

 その直ぐ北側左手に、「菅原神社」と「六塚稲荷神社」がある。
 傍に「大仙波神殿開郷三百周年祈念碑」が建っている。

                
菅原神社
祭神 菅原道真公
創建 寛永元年(1624)妙善寺開山尊能法印により勧請され、天神社と称する
   大正二年、稲荷神社が合祀され、菅原神社と改称される
社殿 本殿昭和二十一年改築・拝殿昭和十六年改築
例祭 毎年四月十五日及び十月十四・十五日に行う
   学問の神様として知られる
                六塚稲荷神社
祭神 保食命別名稲倉魂命(ウケモチノミコト別名ウガノミタマノミコト)
   正一位六塚稲荷大明神といわれる
創建 天文十八年(1549)現在の朝日生命ビル附近にあった塚上に勧請される・大正二年天神社に
   合祀されその後昭和二十六年現社殿に奉還される
社殿 建築年代不詳(旧菅原神社本殿)
例祭 毎年三月十四日宵宮祭(びしや講)十五日本祭
   五穀豊穣・商売繁盛守として知られる
                                菅原町自治会

第2日目ゴール(14:27)

 妙善寺の北二つ目の信号で本日の街道歩きをゴールとし、左折して川越駅に向かい、東武東上線・武蔵野線経由で帰途についた。駅の売店で買った缶ビールの旨さは抜群だった。
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