2009.09.13(日) 川越街道 #1 板橋宿:平尾追分~大和田宿:新座駅北入口・・・街道距離推定16.8km |
■スタート 当初は、重陽の節句である9月9日の予定だったが、板橋駅に着いたらパラパラと小雨模様で出鼻を挫かれてしまったため、「街道は逃げない」を言い訳に今日のスタートに延期したのだが、今日は板橋駅東口に出たらジャスト9:30a.m.で天気晴朗気温高し、早速一人旅をスタートする。 先ずは旧中山道の平尾宿(板橋宿)を歩き始め、中山道から川越街道が分岐する「平尾追分」に向かう。前を若くて素敵な女性が颯爽と歩いている後を地図を見ながら進むと、通りには昔の町並みが線画で描かれた絵をバックにして「平尾宿」と大きく記された垂れ旗の左脇下に「板橋緑宿 いたばし縁むすび通り」という統一表示がずうっと垂れ続いている。街おこし策の一環だろうが、この「縁宿」の意味がイマイチよく判らない。帰宅後ネットで検索してみたら、 板橋区商店街連合会第一支部のPR誌“板橋縁宿 散策マップ/お店ガイド”が好評だ。(中略)“散策マップ”欄では、同支部が街おこしのシンボルとして整備してきた旧板橋宿の名所のエノキ“縁切榎”と、旧板橋平尾宿に位置するケヤキ“むすびのけやき”をスタートとゴールに設定。都営板橋本町駅前の“縁切榎”から名所旧跡を回りながら同支部所属十商店街を歩き、JR板橋駅前の“むすびのけやき”までをたどるコースとしている。(以下略)」 云々とあり、街おこし策の一環のネーミングのようだった。 ■板橋宿 板橋宿は、武蔵國豊島郡下板橋村の一部で、いわゆる江戸四宿(板橋・千住・内藤新宿・品川)の一つとして「中山道」の賑わいと共に栄えた。江戸(朱引き)との北の境界にあたり、中山道沿いに約半里に亘って南北に広がり、江戸後期には上宿(京側・現在の本町)・仲宿(or 中宿、現在の仲宿)・平尾宿(現在の板橋)で構成された板橋宿は、京側入口の大木戸迄が江戸御府内(朱引き)(注)として扱われた。 (注)御府内(朱引き)とは・・・ 江戸時代、江戸の府内・外の境界を地図上に朱線で表したことから朱引きと言い、その内側を「御府内」、もしくは「朱引き内」と称した。 江戸市中(御府内)の範囲を幕府が公式に示したのはただ一度、それも、幕府誕生から二百余年後の文政元年(1818)になってである。同年、「御府内とはどこからどこまでか」との質問への回答のため、目付の牧助右衛門が「御府内外堺筋之儀」という伺い書を出し、幕府評定所で評議の結果「江戸朱引図」が作成されたもので、後にも先にもこれが「江戸の範囲」としての幕府唯一の公式見解になった。 天正18年(1590)の家康江戸入府以来、発展・膨張を続けた江戸は、享保期(1716~1736)には、町数一千超、人口百万人超の巨大都市に発展していったにも拘わらず、江戸の範囲については、意外や幕閣の間でも統一見解が無かった。 というのが、身分社会の江戸時代は、町民・武士・僧侶毎に支配する所轄機関が異なり、今日でいう行政区画の制度がなかった。即ち、市中の町地については町奉行支配、寺社地は寺社奉行支配、武家地は大目付・目付支配と分かれ、行政区画も統一されていなかったのである。 そこで幕府が統一見解と示した「江戸朱引図」は、外側の線が朱引き(御府内)、内側の線が墨引き(町奉行所支配地)で、一部 目黒付近で墨引きが朱引きを越えていたが、これは当時の庶民の行楽地として大変賑わいを見せた目黒不動があったことによるという。 *内側の墨引き線(町奉行支配場堺筋) *外側の朱引き線(札懸場堺筋 並 寺社方勧化場堺筋) (注)札懸場・・・当該地における変死者や迷子の年齢、衣服の特徴等を記した高札掲示場所 (注)勧化場・・・寺社等修復のために金品の寄付を集めた場所 基本的には、江戸城を中心にして、徒歩で一日だ往復可能な範囲が御府内とされた。 上宿(現・本町)、仲宿(中宿とも、現・仲宿)、平尾宿(現・板橋)にはそれぞれ名主が置かれ、上宿・仲宿の境は板橋の架かる石神井川、仲宿と平尾宿の境は「観明寺」付近だった。本陣は仲宿に1ヶ所、他に脇本陣が3ヶ所、旅篭は54軒(天保14年=1843)あった。 また、江戸側からは「川越街道(川越・児玉往還)」が分岐、京都側に少し離れた所にある志村一里塚を過ぎると、相模国大山へ向かう「ふじ大山道(現在の富士街道)」が分岐していた。 文久元年(1861)4月、中山道は公武合体政策の一環として将軍家茂に輿入れした皇女和宮の関東下向路(荷物は東海道利用)にも使われ、板橋宿は賑わいを見せるが、宿内にあって不吉とされる「縁切榎」が覆い隠され、通過時には迂回用の別ルートを造って利用している。 ■(参考)板橋宿案内板 道の右手に明治期の旧板橋警察署の絵が載った「板橋宿案内板」がある。その右側が北へ向かう「旧中山道」で、左側の国道17号線歩道にあたるのが、これから行く「旧川越街道」である。ここは、旧中山道で言えば「日本橋から約9.6km地点」である。 ■(参考)東光寺・・・板橋区板橋4-13-8 中山道歩きの時に立ち寄っていなかったが、その後、この川越街道歩きの事前研究をしている時に「宇喜多秀家」の供養塔がある寺であることを知り、その後に歩いた「古代東海道歩き」の際に立ち寄り済みなので、きょうの立ち寄りは省略する。 東光寺は浄土宗に属し、正式名を「丹船山薬王樹院東光寺」と号する。開山は芝増上寺第五世天誉了聞上人(延徳3年寂)。江戸初期まで、船山(現・東板橋体育館辺り)にあったが、前田家下屋敷開設(延宝7年=1679)のため現在地に移転している。当時は境内も広く中仙道に面して参道が開かれ、両側には門前町が並んでいたが、その後、度重なる火災や戦後の区画整理などによって縮小され、現本堂は昭和57年に再建されている。板橋宿の昔を語る貴重な石造物が3塔ある。 <宇喜多秀家供養塔> 関ヶ原の戦いの後、一時は島津家に庇護されたものの、やがて捕まり久能山、そして八丈島に流され、約50年後の明暦元年(1655)11月享年84歳で没した豊臣家五大老の一人・中納言宇喜多秀家の墓は、没した八丈島にあるが、その供養塔がこの東光寺にあり、正面に「秀家卿」と刻まれている。 宇喜多秀家一族が明治の大赦で赦免され、子孫の帰還が許されたのは264年後の明治3年だった。子孫は秀家の妻が前田利家の娘だった縁で板橋にあった前田家を頼ってきたという。 <青面金剛像を刻んだ庚申塔> ここには、板橋区内最大、都内最古の青面金剛が刻まれた寛文2年(1662)建立の庚申塔がある。この塔には、日像・月像・二童子・四夜叉・一猿一鶏・ニ鬼の全てが刻まれており、全国的にも最も勝れた庚申塔の一つとされている。高さが2m近くあり、板橋区の文化財に指定されている。 <六道利生の地蔵尊> また、元「平尾追分」にあり、明治になって当寺に移転した享保4年(1719)造立の石造「六道利生の地蔵尊」もある。全高3mもあり、区内最大級の石造物である。礎石部分にある寄進者の名を見ると、板橋宿や加賀下屋敷関係者の名が見られ、多様な人々が、亡くなった家族の後生を祈って建立したことが判る。(板橋区の文化財登録) ■旧川越街道「平尾追分」スタート(9:35) 旧中山道は、「埼京線」を「板橋駅」の北側で横切り、国道17号(新・中山道)と「板橋2丁目」交差点で交わり、その先で北に向きを変える国道の東側を北へ並進する。一方、この「板橋2丁目」交差点が往時の「平尾追分」で、ここを起点に西進していくのが「旧川越街道」である。僅かに、角の「平尾交番」に「平尾」の名前が名残を留めている。 この通りにも「板橋縁宿四ツ又商店街」の提灯が結構吊り下げられている。 ■(参考)移転させられっ放しの四ツ又観音 川越街道は直ぐその先の同名の「板橋二」信号で国道17号を右に分け、首都高の下を山手通(環6)まで、幅広の「四つ又通」を約350m程行く。途中高速道建設に伴う道路拡幅工事で、南側の商店街は全て移転させられ、往時の雰囲気は皆無である。山手通の左手前に移設された「四ツ又観音」があるが、祠の横板に曾ては「元四ツ又堂主大野」と墨書きした道路公団宛抗議文が貼られており、「工事も終わったのにまだ観音堂を元の位置に戻す約束を果たしていない」と怒り、「公団は早晩「怒」を必ず受けるあろう」との抗議文が記されていたが、先日の古代東海道歩きの時には既に撤去されたのか見当たらなかった。今日は重複するのでチラッと横目で眺めるだけで通り過ぎたが、祭礼用の提灯などを満載した小型トラックが横に止まっていた。 ■大山商店街~ハッピーロード大山 9:43大山東町」信号で「山手通(環六)」を渡ると、大山東町のアーケード街遊座大山商店街「YOU-ZA OYAMA」に入る。急に細い旧道になるが典型的な下町商店街の風景で活気がある。「四つ又通」や「山手通(環6)」上を覆っていた首都高板橋Jct付近の圧迫感から解放され、歩き心地が良くなる反面、結構車の往来も多くなかなか油断がならない。。 「遊座」と言うのは、大山商店街発行の地域通貨としての小判が参加商店間で流通していることと関連しており、江戸期の金座、銀座の「座」を拝借した小粋な遊び心の「遊座小判」ということのようだ。 日曜日なので大山東町の祭礼日らしく、子供神輿が置かれ、10時繰り出しスタートの予告放送や笛太鼓の音、テントなど、なかなか賑々しい。 9:51、商店街は暫く先で東武東上線の踏切を越える。先だって村谷氏と歩いた古代東海道が左から後ろへ通っていたことを思い出しながら渡るが、この踏切は、普段の日の朝は開かずの踏切になるらしい。踏切を越えると、アーケードのある別の商店街「ハッピーロード大山」に変わる。遊座商店街の方がより下町っぽく、こちらはやや店も大きい感じがする。 ■大山福地蔵尊(9:58)・・・板橋区大山町54 次の信号で左後方からの新川越街道(R254)と合流し、150m程先でまた新道を左に分け、右前方の旧道へと入って行くが、「大山商店街」の出口付近右手、川越街道に突き当たる寸前進行方向右側に70m程行った左手に「大山福地蔵尊」(お福地蔵)がある。 縁 起 今より百五十年前文化文政の頃に鎌倉街道(日大交差点付近)にいずれからかおふくさんという行者来りて街道筋の人々の難病苦業を癒し大山宿の住民から大変に慕われておりました。 ついに大山に住み衆生につくしましたので後に地元大山の人々によりおふく地蔵としてまつられ現在に至っております。 大山福地蔵尊奉賀会 御開帳日 毎月三日、十三日、二十三日 平成十五年四月建之 普段は施錠されていて、地蔵尊像を直接拝顔できないが、今日は運良く十三日のため扉が開けられており、直接参拝できる。掃除や手入れは大変行き届いており、供物(バナナ・リンゴ・菓子など)・供花・お水などがあげられ、地元の人たちから今もって大切に崇められている様子が実によく感じられる。 8月13日がお福さんの命日なので、毎月3・13・23日を縁日にし、命日には朝11時から寺の住職が来て経をあげ法要を行っている由。建立した昭和25年当時は、今のハッピーロード商店街の裏にお堂があったが、昭和28年に現在場所に遷座している。その間に本堂も改築され、参拝する時に道を通る車に接触しないよう元の東向きから南向きに変わっている。 狭い境内だが、お堂の前には「お身洗地蔵尊」が東向きに祀られている。 また、お福地蔵のお守りやお札は、ハッピーロードのアーケードの終点、地蔵尊通りと川越街道が交わる角にある「松野薬局」で取り扱っている。その前では「大山西町」の子供神輿を中心にこれまた大勢の人だかりである。 ■上板橋宿・古い菓子屋さん(10:10) 「日大病院入口」交差点で国道254を左に分け、右の「下頭橋通」に入って行くと、右手の「弥生郵便局」の隣に、「辰屋 かぎや」という二重の屋号を持つ和菓子工房がある。腰板で由来を解説しており、初代が今から200年程前に京で和菓子の修業をし、板橋で鍵屋を開業。明治27年に板橋の大火で廃業後、分家4代目の栗原登喜雄が辰年生まれに因み「辰屋」を号して「かぎや」を復活したという。 ただ、1階の前面はピンク色のけばけばしい塗りで、目立つけれども「和菓子」とか「伝統」とはかけ離れていて、そのセンスには同調しがたい。 ■豊敬稲荷神社(10:13)・・・板橋区弥生町12-? すぐ先の右手に「豊敬稲荷神社」があり、境内に入って左手「上板橋宿概要図」が建っている。祭神は宇迦魂大神・猿田彦神・大宮賣神を祀っている。また、境内左手には、「豊敬稲荷神社玉垣建設記念」碑も建っている。 上板橋宿概要図 この旧道は江戸時代から明治初年にかけ川越と江戸を結ぶ主要な街道で川越道又は脇往還とも呼ばれていた。弥生町一帯は当寺伝馬役を負担していたため上板橋宿といい、宿内は三宿に分かれていた。 伝馬とは街道の貨客を運ぶ際宿から人夫や馬を提供するもので、江戸から上板橋また次の宿下練馬村までが上板橋宿の負担であった。(図面略) 文政6年(1823)の上板橋宿の町並みは、長さ6町40間(740m)、道幅3間(約5.5m)、家数90戸だった由で、街道沿いに幾つかの家が記されている。載っているのは、下宿では「はくらくの屋号大野家」、中宿では先に見た「かぎやの屋号栗原宅」、「かがい屋号の大村家」、「上板橋宿副戸長榎本家」、「大正時代説教強盗侵入し捕われる三春屋」、「お代官とよばれた醍醐宅」、そして「上板橋宿世話役栗原佐左ェ門宅」等である。現「弥生小学校」は牧場だったことが判る。その「弥生小入口」交差点角に、前述の、板壁が美しい「三春屋」の2階建の建物がある。 上板橋一帯は、牧場、蹄鉄屋、伝馬駅など、馬と深く関係があった様子が窺われる。図にあった「はくらく大野家」は蹄鉄屋で、伯楽とは、中国の周代に名馬を見つけた人の名で、そこから馬の鑑定人、獣医のことを指すことは言うまでもない。 <説教強盗> 大正末期から昭和初めにかけて、都内で奇妙な説教強盗が出没した。夜間に侵入して金品を盗り、見つかっても逃げず、ナイフで脅しつつ居座り、「庭に灯りをつけよ」とか「犬を飼え」などと、防犯心得や提案?を数時間にわたって静かに家人に説いたという。番犬を飼う家が増え、「猛犬注意」の張り紙が増えたのも、彼の提案によるそうで、三春屋でも彼の説教を受けたが、現場にあった指紋から、ある左官職人が逮捕され、無期懲役になったが、模範囚として、後に仮釈放されたという。 ■飯島家の私設里程標 三春屋の筋違い(街道左手)に、「飯島」とか「飯じ満」という表札を掲げ、往時の旧家のような雰囲気の家があり、玄関先に「板橋」の杭柱、窓の横には日本橋迄の距離標「距 日本橋二里二十五町三十三間」が立て掛けられている。約10.6km程の計算になるが、余程街道好きな人の住まいと思われる。 「下頭橋商店街」は、先ほどの大山商店街ほどではないが、大山商店街が敗戦直後の闇市からの発展に対し、「宿場町上板橋」の歴史を背景にしてか、のどかな下町風情が豊かに思える。上板橋宿は、大きくはないが、この先の上板橋宿の西端にあたる下頭橋まで、下宿、中宿、上宿の順で続いている。 ■下頭橋の六蔵祠・他力善根供養碑・・・板橋区弥生町55 「中板橋駅入口」を右折すると駅だが、なだらかな下り坂を進んで「下頭橋商店街」を通り、「石神井川」に架かる「下頭橋」を渡り、すぐ左斜めの道へと続いている。石神井川は浅い水流を北に向かって流れている。下頭橋の右手袂に「下頭六蔵菩薩」堂があり、その境内に「他力善根供養」の石碑がある。 下 頭 橋 弥生町を縦断する道が旧川越街道で、大山町境から石神井川までが上板橋宿跡である。宿端の石神井川に架かる下頭橋は、寛政十年(1798)近隣の村々の協力を得ることで石橋に架け替えられ、それまでひんぱつした水難事故も跡を絶ったという。この境内にある「他力善根供養」の石碑はその時に建てられたもの。 橋の名の由来については諸説がある。一つ目は、旅僧が地面に突き刺した榎の杖がやがて芽をふいて大木に成長したという逆榎がこの地にあったから。二つ目は、川越城主が江戸に出府の際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて出迎えたから。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからというもので、六蔵祠はこの六蔵の道徳を讃えて建てられた。同橋と六蔵祠は昭和六十一年度の板橋区登録記念物(史跡)に認定された。 平成六年八月 板橋区教育委員会 ■長命寺(10:33)・・・板橋区東山町48-4 その先の「板橋中央陸橋」信号は、左後方から来るR254やそれとほぼ直角に交わる環七との五差路であり、旧川越街道はここでR254(新川越街道)に合流するが、交差点の先の左角に、真言宗の「長命寺」がある。総本山は奈良県桜井市初瀬の長谷寺である。 長命寺は「板橋七福神」の一つで「福禄寿」が祀られているが、この長命寺が、「板橋城址」であるとの説があり、門前にも「板橋城推定地」の解説板が建っている。ただ、長命寺=板橋城という説は否定されつつあるようで、板橋城の比定地は他にも幾つか候補が挙げられ、それらのいずれも確定されるに至っていないという。 板橋城の名は当時の文献にも登場しており、その存在自体は確実な城だが、依然謎に包まれているようだ。栃木県で活躍した板橋一族は有名だが、彼らも武蔵板橋氏の流れであるという。板橋氏は豊島氏の有力な庶流で、戦国時代には小田原北条氏に仕えていたと記されている。『小田原記』には板橋肥後守が千葉次郎に属していたと記されているから、赤塚城の千葉氏の指揮下にあったようだ。北条氏の滅亡と共にその城も廃されたという。そうした眼で見るせいか、参道への石段下の石垣は、古城の石垣に見えるから不思議だ。 長 命 寺 東光山医王院長命寺 宗派 真言宗豊山派 本尊 薬師如来立像 「新編武蔵風土記稿」に「開山、長栄、寛文十年(1670)十一月二十四日寂す」とあり、伝存する過去帳も承応元年(1652)から書き始められていることから、当寺は江戸時代の前期にはすでに創建されていたと考えられます。江戸時代には、天祖神社(南常盤台二丁目)や氷川神社(東新町二丁目)をはじめ付近の神社の別当(管理者)でもありました。 明治時代には、豊島八十八霊場の二十一番札所にもなり、またいたばし七福神の一つ福禄寿も祀られています。 当寺周辺は、室町時代「お東山」にあったといわれる板橋城跡の伝承地の一つでもあります。 平成十一年三月 板橋区教育委員会 ■下練馬宿へ 暫しの間、新川越街道(R254)を歩き、「東新町一」信号の次の信号(右角が上板橋橋山ビル)を旧街道は右斜めへ入っていく。すると、また商店街になる。国道は右側を歩いたため、日差しがきつく暑いことこの上ない。細い旧道にはいると街道左手の家々の日陰が利用でき、体感温度差が大きい。 間もなく右手方向の東武線上板橋駅から南下してくる「上板橋南口銀座」商店街と交差する信号を越えると、次の「上板橋2」信号で商店街の街並みは一旦途絶える。 その先300m程で一旦板橋区から練馬区の北辺地区に入り、赤塚で再び板橋区に戻る。その僅かな練馬区域に「下練馬宿」があり、下宿、中宿、上宿と続いていく。 ■五本欅(10:57)・・・上板南口銀座が国道254号線にぶつかった直ぐ左手 街道と上板橋駅からの道との交差点が「上板南口銀座」商店街の中心で、この辺りには初代上板橋村長だった飯島弥十郎家の屋敷があった。上板橋宿で見た表札と同姓である。昭和初期の新川越街道(現R254)建設時に、道路予定地が飯島家の屋敷林にかかったため「五本の欅」を残すことを条件に売却したという。それが現在「五本欅」としてその交差点を左折していった国道254号の直ぐ左の中央分離帯に残っており、通行するドライバー達の一瞬の目の保養や一里塚的存在になっている。 ■子育て地蔵尊(10:59) 旧道に戻ると、すぐ左手に小さな「子育て地蔵尊」があり、合掌する。 子育て地蔵の由来 当地に安置さている地蔵は、通称「子育て地蔵」と呼ばれ、人びとに広く親しまれています。お堂の中にある二体の地蔵は、もともと栗原堰の一本橋(現在の桜川一丁目5番地)付近に建っていたものといわれていますが、それを裏付けるように、石仏の台座や本体には貞享五年(1688)や安永六年(1777)といった造立された年号や、上板橋村栗原を中心とした奉納者の名前が刻まれています。 明治初年に、これらの地蔵は、川越街道に面した「ガッカラ坂」と呼ばれる当地に移ったといわれています。大正三年(1914)川越街道と東上鉄道(現在の東上線)の上板橋駅を結ぶ道(現在の上板南口銀座)が通じた時には、両道が交差した角地に据えられていましたが、この時すでに地蔵は倒され、放置された状態であったといわれています。また、移転した当初には三体あった地蔵も、いつしか二体となっていたといいます。 その当時、宝田豆腐天主であった宝田半二郎氏は、地蔵が荒れ果てた状況にあったことを憂慮し、大正十二年頃に店舗に隣接した現在の場所へと地蔵を移しました。さらに昭和十年頃になると、半二郎氏の子息である宝田源蔵氏と七間家の木下仙太郎氏が中心となって、地蔵をお祀りする地蔵講を結成しました。講員も三百名をかぞえたといわれています。 都市化がすすんだ現在も、子育て地蔵は、人びとの素朴な願いを引き受ける仏様として、商店街を中心に大切に守られ、お祀りされています。また、四月から九月にかけての七の付く日には、地蔵堂の前の旧川越街道で縁日が開かれるなど、地域の活性化にも一役かっています。 平成十九年七月七日 上板橋子育て地蔵講 ■大欅(11:04) 「内田酒店」とか上板橋局の隣の「初音家だんご店」など、古い佇まいの店先風景を懐かしみつつ、「上板橋2」交差点を越えると、商店街の色が薄まった住宅街の一角に五本欅に負けない程の屋敷林を抱え込んだ大邸宅が右手に現れる。「東洋クリーン」の社名札と「木下」の表札が頑丈なブロック塀に掛けられ、欅の枝張りは街道を覆い道向かい(左手)のマンションの5階上辺りまで広がっている。 ■練馬宿 その木下邸から少し進み、練馬区に入った北町1丁目は「北一商店街」になり、商店街の最初と最後にゲートがあって判りやすい。間口の広い「野瀬商店(米屋)」、「まつもと魚屋」、「内田屋呉服店」、「戸崎とうふ」など、旧街道下町情緒がいっぱいだ。練馬宿の中心地がどこだったか、よく判らないが、練馬北町郵便局が北町1丁目の北一商店街にある処からすると、この辺りだったと思われる。 北町2丁目に入ると、「北町商店街」と名前が変わる。「東武練馬駅」前を過ぎると「ニュー北町商店街」と名前が変わっていく。 セブンーイレブン前に来ると、看板が馬の全身像に変わり、街灯の笠のガラスにも蹄鉄と馬が白ペイントで描かれている。蹄鉄が共通のモチーフになっているようだ。 ■下練馬の大山道道標(11:12)・・・練馬区北町1-25 商店街は環八に分断されるが、環八は下を通っている。その交差点は川越街道と富士大山道との分岐点で、宝暦3年(1753)下練馬村名主内田久右衛門と並木庄衛門とが建てた道標が覆屋の下にある。環八通りの工事中は一時北町児童遊園に仮置きされていたが、平成20年6月に元の位置から8m程西側の現在地に設置されている。 神奈川県の中部にある「大山」は、富士・日光・筑波などと共に古くから関東の霊場として知られ、山頂に祀られる大権現参拝者が江戸時代から絶えなかった。この大山への道は、大山道と呼ばれ、石神井、保谷、田無、府中を経て神奈川県の伊勢原へ通じていた。現在の富士街道(環八通りを含む)がこれにあたる。 この道標は、高さ約1.5mの石造物で、環八通りの工事開始前は旧川越街道と大山道の分岐点にあった。宝暦3年(1753)8月に下練馬村講中が建てたもので、正面に「従是大山道」と願主名が刻まれ、右面には講名「武蔵豊嶋郡下練馬村 講中四拾八人」、左側面には「宝暦三年癸酉八月」の年記と共に、「ふじ山道 田なしへ三里 府中江五里」と刻されている。 下練馬の大山道道標(平成五年度・練馬区指定文化財) 旧川越街道とふじ大山道の分岐点に宝暦三年(1753)八月、下練馬村講中によって建てられた道標です。上部の不動明王像は後に製作されたものです。 江戸時代に盛んであった富士・大山信仰に関する資料として貴重なものです。 東高野山道標 「左東高野山道」と刻まれた角柱は、高野台三丁目の長命寺への道しるべです。長命寺は紀伊の高野山を模して伽藍を整え、山号を東高野山と称しています。 この二つの道標は、環状八号線の工事により元の位置から八メートルほど西側に移動し、現在の場所に設置されたものです。 移転前は、さがみ野大山への道しるべとして、また東高野山への道しるべとして江戸方面から来る人々のため、東南東の向きに置かれていました。現在は見学しやすいように向きを変えています。 平成二十年六月 練馬区教育委員会 ■浅間神社(11:23)・・・練馬区北町2-41 右手にある「練馬北町郵便局」を過ぎ、2丁目の「北町商店街」に入るとすぐ右手に「浅間神社」がある。富士講が盛んだったころ、山に登れない人のために、近隣に富士塚を造ってそこに詣でた訳だが、小さな浅間神社の社と富士塚が商店街の間にすっぽり収まっている。 浅間神社 御祭神 木之花開耶姫命 境内社 天祖神社 大日要貴命 神明社 大日要貴命 當社は、明治先代に上□地に築かれたと伝えられ、徳川五代将軍綱吉の頃には時を揚げての祭典もあり、又古く此の地は宿場街として大変な賑わいを見たところで、爾来富士浅間神社の霊山として厚く崇敬され今日に及んでいる。 なお、山は明治の前に第一回、明治五年六月に第二回の築造がなされ、街内の発展に伴い昭和二年六月第三回目の築造により現今の様態を□□至った。 境内入口に、旧川越街道下練馬宿の解説板がある。 旧川越街道下練馬宿 この道は、戦国時代の大田道潅が川越城と江戸城を築いたころ、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道でした。 江戸城には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。日本橋から川越城下まで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藷の宣伝にも一役かいました。 下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村ヘ二十六丁、下白子村ヘ一里十丁、道幅五間、南ヘ折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。 上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています。 通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継の問屋場などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。 浅間神社の富士山、大山不動尊の道標、石観音の石造物に昔の面影を偲ぶことができます。 平成六年三月 練馬区教育委員会 <下練馬の富士塚 > 江戸時代中期から昭和初期にかけて、江戸八百八講と言われるように、富士山や神奈川の大山に登拝しに行く富士講や大山講などの山岳信仰者の集まりが練馬区内にも多々結成された。 富士講は、霊峰富士に登り浅間神社参拝を目的に結成され、年毎に講を代表する参拝者を選び、必要経費を講員全員で負担していた。江戸時代末期頃からは、代表に選ばれなかった講員でも信仰欲を満たせるよう、富士山に似せた富士塚が各地に築かれ、その富士塚登拝をもって実際の富士山詣でと同じ御利益があるとされた。 下練馬の富士塚は、高さ約5m、径が約15mあり、下練馬上宿、中宿の丸吉講が江戸時代に築いたと考えられている。明治5年(1872)と昭和2年(1927)には修復工事が行われ、現在も町会の有志により、7月1日に山開きが行われている。 ■昼食(11:28~11:48) その少し先を左に入った右手にあった「幸楽」という中華店に入り、熱々の湯麺で腹ごしらえをする。 ■北町観音堂(11:48)・・・練馬区北町2-38 その先、右手の「東武練馬駅」からの道との交差点右手に、寛文2年(1662)建造の「北町観音堂(石観音堂)」がある。 北町観音堂(石観音堂) ここには、天和二年(1682)銘の「北町聖観音座像」をはじめ馬頭観音や庚申塔など数多くの石造物があります。江戸周辺を探訪した小石川の僧が記した紀行文「遊歴雑記」にも、文化十二年(1815)にここを訪れた記述があり、往来の人々の信仰や赤塚村への分岐道ともなっていたことが分かります。 ●練馬区指定有形民俗文化財 「北町聖観音座像」 平成八年二月指定 高さ二七〇センチメートル、区内最大の石仏。背には「武州河越多賀町隔夜浅草光岳宗智月参所 奉新造聖観音爲四恩報謝也 旹(時)天和二年八月・・・」台座は川越街道沿いの二十九の地名が刻まれています。 ●練馬区登録有形文化財 「北町の仁王像」 平成十一年一月登録 向かって右、阿形像、左、吽形像。重厚な造りの像で、両像の背には「天和三年・・・奉立之施主光岳宗智・・・」の銘があり、聖観音座像建立の翌年に建てられたことが分かります。 平成十一年三月 練馬区教育委員会 ■庚申塚(12:12)・・・街道左手の地下鉄赤塚駅出入口の手前 北町3丁目に入ると、12:05に街道下を通る新大宮バイパス(R17号線)の上を越え、その先で左後方からの国道254号線に再合流する。 その先、12:12に三本の大樹が聳える一郭の最東部にある石の「庚申塚」を発見する。道標を兼ねており、「右 川古江」「左 登古呂澤」と刻まれ、川越と所沢への分岐であることを示している。 ■供養石柱(12:28) その先、街道右手の「あいおい損保」ビルの西横に古びた供養石柱があるが、風化がひどくて文字は読み取れない。 ■庚申塔(12:31) その先の今度は左手にある「小林商店」というたばこ屋の前でも縦に細長い自然石を台座に載せた「庚申塔」を発見する。近寄ってみると、「庚申塔」の文字の他に、「萬延元年(注:1860)庚申臘月再建」とある。 ■小治兵衛窪庚申尊(12:39)・・・板橋区成増2丁目 坂を下った右手の「赤塚交番」横に覆屋の下に2基の石造物、その左脇に「小治兵衛窪庚申尊」の標柱が建っている。天明3年(1783)の浅間山噴火と飢饉の犠牲者の供養のために造立されたものだが、次のような言い伝えがある。 昔、ここは川に丸木橋が架かっただけの寂しい場所で、毎晩の如く強盗が出没していたが、ある朝立派な橋が架けられており、橋の手摺りに「悪業を悔い、罪ほろぼしにこの橋を造る。小治兵衛」と記された木札が下げられていたという。先刻の下頭橋の六蔵のエピソードと似たような伝説である。 2基の石造物のうち、向かって右は「第百七拾週年(注:原文の侭)記念碑」、左は下部に三猿が陽刻された「庚申塔」である。その間に次のような解説板が建っている。 庚 申 塔 庚申(かのえさる)の日に、近隣の人々が集まり豊作や健康を祈る行事を庚申待という。この供養に立てたのが庚申塔である。 この塔の正面には六手を持った青面金剛が陽刻してある。手に弓矢、宝剣を持ち、頭髪は上指て三猿の上に座っている。座像彫刻は比較的珍しい塔である。右面には武州豊嶋郡狭田領上赤塚村とあり、左面には天明三癸卯(みずのとう)年(注:1783)二月吉日と刻んである。甲申様は道祖神として交通安全や町内安全の守り神ともなっている。 このあたりは「小治兵衛久保」という地名で呼ばれていた。また、「橋を作ってくれた盗人小治兵衛」の民話が残っている。この民話と共に古くから残る庚申塔は一度は松月院に永代供養を依頼した時期もあったが、成増南町会周辺の数少ない史跡として、再びこの地に安置し、町民の心の支えとして、末永くお祭りすることにした。 昭和六十三年一月吉日 成増南町会氷川神社管理運営委員会 ■八坂神社(12:58) 国道254号の「成増駅入口」交差点で旧道は右に入り、国道の側道を白子川方向へ降りて行く「新田坂」へ向かう。国道は崖を切り通した長い坂を下っていくが、旧道は暫く右の台地上を進み、その後、急に下っていく。途中右手の林の中に、石地蔵、常夜灯、道祖神を集めた「新田坂石造物群」の一郭があるという情報だったが見当たらない。道路工事の関係でここに周辺から集められたものらしいが・・・ 左手の国道との間には小高くなった位置に小さな「八坂神社」がある。共に国道からは見えない場所に移転されたものである。 新田宿(しんでんじゅく)と八坂神社 板橋宿の平尾(板橋三丁目)で中山道と分かれた江戸時代の川越街道は、上板橋宿、下練馬宿を経て、白子宿へ向かいます。 八坂神社右手の道が当時の川越街道で、この付近は、白子側へ下りるための大きく曲がった急坂(新田坂という)になっていました。 新田坂から白子川の間は、新田宿と呼ばれた集落で、対岸の白子宿から続いて街道沿いに発達していました。昭和初期には、小間物屋や魚屋、造り酒屋などが軒を連ねていました。 八坂神社は、京都の八坂神社を勧請したといわれ、「天王さま」とも呼ばれています。御祭神は素戔嗚尊と稲田比売命です。元々は現在地よりやや南側にありましたが、昭和八年(1933)の川越街道新道(国道二五四号線)工事の際に移されました。 平成十一年三月 板橋区教育委員会 ■白子橋(13:02) この「新田坂」は「白子川」の手前まで続くが、その辺り(東京都板橋区と埼玉県和光市との境界近く)のアパートに住んでいた「清水かつら」作詩の「お~て~てつ~ないで」で知られる童謡「くつが鳴る」の歌詞(一番と二番)を記した銅板プレートが、白子橋の欄干左右に2ヵ所ずつ取り付けられている。 清水かつらは関東大震災で和光市白子に疎開し、53歳で亡くなる迄この地で暮らし、「靴が鳴る」や「叱られて」など、多数の作品を生み出している。 ■白子宿 白子橋を渡った先の交差点を左折する。この交わった通りを「白子宿通」と言うが、その交差点の角に「白子村道路元標」がある。 「白子橋」から「白子坂上」迄の町並みが「白子宿」で、橋を渡るとすぐ右手に「旧白子下宿本陣」であった新坂家があり、更に先の県道109号との交差点角にある白子郵便局が、「旧白子中宿本陣」の「冨澤家」だった。このほか街道沿いにモダンな茶タイル貼りの冨澤薬局、冨澤整形外科医院が並び、薬局裏側の白壁土蔵などが僅かに旧家の名残を留めている。 「白子宿」は、「板橋宿」(東京都板橋区)・「上板橋宿」(東京都板橋区)・「白子宿」(埼玉県和光市)・「膝折宿」(埼玉県朝霞市)・「大和田宿」(埼玉県新座市)・「大井宿」(埼玉県ふじみ野市)・「川越宿」(埼玉県川越市)と続く7宿の3番目にあたるが、白子は、古くは新羅からの渡来人の里だった。少しく詳述すると、「白子」は天平宝字2年(758)に朝廷の命によって、渡来してきた新羅人のために新設された武蔵国新羅郷が、転訛したものとされている。 即ち、8世紀中頃、新羅から渡来した人々の一部数十人が、果てしない武蔵野原野の一画を開拓して新座郡の前身である新羅郡をつくった。白子や新座のみならず、志木(志羅木)、清水かつらの母方実家のあった新倉などの地名も新羅の派生だという。事実、新倉にある「午王山」では、当時の住居跡が発掘され、新羅郡郡衙跡の候補地とされているそうだ。 ■白子熊野神社(13:06)・・・和光市白子2-15-50 冨澤薬局の裏側に白子の鎮守「熊野神社」がある。当地は川越街道の白子宿の中心にあたるため、隣接する「不動院」と共に多くの参詣者を集めてきた。ここ白子の鎮守は、元々は氷川神社だったが、いつしか氷川社が衰微し、代わって熊野社が鎮守になったという。 明治5年(1872)に氷川神社を合祀して村社になり、明治40年には氏子地域(白子全域)に当たる坂上の諏訪社、牛房の八雲社、市場の稲荷社、境内社の氷川社を合祀しているが、これらの諸社は旧地に残されている。 境内は広くないが、右手に躑躅の木々に覆われた塚の上に文化2年(1805)以来の登山記念碑が建つ「白子の富士山」(富士塚)があり、信仰の篤さが窺える。藤塚は高さ12m・直径30mもある立派なもので、2ヶ所の登山口もあり、実際に登ることが出来る。頂上には古びたベンチが一つと、祠がある。 普段は凛とした雰囲気が漂うが10月の第1日曜日には神輿祭り、12月7日には熊手市の華やかな行事が続く。 熊野神社 熊野神社は、白子の鎮守さまとして栄えてきた。発祥は不明であるが、社伝によると、およそ一千年前といわれている。 祭神は、伊弉冉尊・建御名方命・速須佐男命・速玉男命・事解男命・倉稲魂命とされ、また、境内神社として、富士嶽神社、國平神社がある。 中世、熊野信仰は、全国的に武士や民衆の間に広まった。熊野那智大社(和歌山県)に伝わる「米良文書」の中の「武蔵国檀那書立写」には、多くの武蔵武士とともに「しらこ庄賀物助、庄中務丞」の名があり、和光市域の白子に居住していた領主にも、熊野信仰が伝えられていたことがわかる。 平成七年一月 埼玉県 和光市 境内左奥に「乃木大将修業の瀧」があり、細い水流ながら水が落ちている滝があり、囲い塀に解説板が取り付けられている。 乃木大将修業の瀧 日露戦争(明治37年2月~明治38年9月)において、ロシア帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順港の撃滅が日本の命運を決すると言われていました。乃木大将指揮する日本軍は、壮烈なる激戦の末、ついに旅順要塞を攻略し、太平洋艦隊撃滅された。 乃木大将は、旅順への出陣に先立ち、不動院本堂に一週間の参籠。この不動の瀧に打たれ修業を行い『知者不惑』の扁額を残し出陣されました。今も本堂にその扁額が祀られ、不惑の文字に、その当時の乃木大将の心境が偲ばれます。 又、日露戦争を決意された宰相の桂太郎(第十一・十三・十五代内閣総理大臣、陸軍大将)も、不動の瀧に打たれ不動明王に祈願されました。瀧行を頭上から静かに見守って下さる不動明王は、二人の祈願に大いにお応え下されたと伝えられています。 本堂の前面上には、「山瀧神」(右起左行)の金文字の額が懸けられ、「太郎書」とある。本堂のその左下には「桂太郎総理大臣」の軍服姿の写真が額入りで置かれ、写真下に「日露戦争を勝利に導いた宰相 本堂正面入口上に“神瀧山”の扁額奉納」と記されている。 そして、その反対側には「乃木将軍」の軍服姿の写真が同様に額入りで置かれ、写真下に「日露戦争における旅順攻撃への出陣を前に本堂に篭り不動の瀧に打たれ修業、「知者不惑」の扁額を残し出陣」と記されている。 ■不動院(13:12)・・・和光市白子2-15-47 熊野神社の隣、神社左手の古びた幅狭の石段を登った所に天台宗の「神滝山清龍寺不動院」がある。 天台宗の高僧慈覚大師円仁が山中の自然湧水を見て、清涼な霊気を感じ、当地に一宇を建立したのが始まりと言われ、ベッドタウン化が進んだ今日も、湧水池から黙々と「不動の滝」が流れ出ている。 当寺は、滝行のみならず、徳川家との深い繋がりもある。家康が本能寺の変の際、自らの危機を救った伊賀忍者たちに、白子の土地を与え、徳川家の警護の任を与えたというのである。その後、白子に位置する不動院は伊賀忍者の監督を務めるようになり、徳川家と深く繋がるようになった。その証として、家康が戦の時に必ず首から下げていたと言われる不動明王像が当寺に納められているという。現住職は55代目にあたるという歴史のある寺院である。 境内には、見上げると木の幹に草のような寄生植物が生えている「子宝の木」や、秋に色づく大きな「夫婦銀杏」、黄金色観音のお堂、溶岩の窪みに立つ行者のような石像などが見られ、横道を辿れば胎内巡りのできる洞窟もある。また、日本最初の国営養魚場・不動院流拳法発祥の地等々、色々と見所や話題の多い場所である。 ■大坂通~白子上宿 白子局のある交差点で県道109号を越えると道は「大坂通」になり、驚くほどの急坂をS字カーブで登っていく。右手の黒々とした格子がみごとな旧家も冨澤家だ。屋敷林のなかにクリーム色に醸成された白壁土蔵がみえる。 途中左手下には「大坂ふれあいの森」の看板が掛かり、湧き水と貴重植物を育む森として自然保護を訴えている。 この坂一帯は「白子上宿」にあたり、坂下の冨澤宅から坂の途中まで、両側を樹木で護られた静かな急坂に、旧道の趣が結構残っているのが嬉しい・・・と言いたい処だが、急登続きの上に上から照りつける熱射で喉がからからになる。途中にあった「上宿本陣」は6階建のマンションに変身していた。坂上は新しい家やアパートがつづく住宅街になっているが、県道にもどる手前右手にも冨澤宅が2軒並んでいる。 ■代官屋敷(13:30) 旧道は「笹目通(県道68号線)」を「坂上歩道橋」で横切り、「くらやみ坂」をなだらかに下っていく。、坂を下りた所右手に、長屋門を建て替えたモダンな門構えの大きな屋敷がある。垣根越しに、茅葺屋根をトタン板で覆った巨大な屋根が見えるが、「代官屋敷」と呼ばれていた所で、旗本酒井家の代官を勤めた豪農「柳下(やぎした)家」の邸宅である。その先に古い門と土蔵のある古い家があり、郵便受に「(有)柳下商事」「柳下長治」の表札が並んでいた。 ■馬頭観世音(13:33) 暫く進むと、左手の和光市消防団第6分団の向かい角の高台に「馬頭観世音」がある。文化15年(1818)の建立で、現在の東松山市上岡の妙安寺にある馬頭観世音を模して造られたそうだ。台上に上がって観音を覗き見るように写真を撮ると、顔が三方を向いた三面観音になっている。 名称 馬頭観世音 馬頭観世音は頭上に馬の顔が刻まれた観音で、怒った顔をしている。 光背型座像形の馬頭は市内唯一のものである。 銘文は「上岡村写、天下泰平国土安穏、当村馬持中在々諸村馬持中、文化十五戌寅季四月大吉辰」と記されている。 建立は文化十五年四月(1818年)で、近郷近在の馬持ちにより、現在の東松山市上岡の妙安寺にある馬頭観世音を模して造られた。 馬頭観世音は本来畜生道の救済のための観音で、馬や牛の守り神として祀られた。また、馬が怪我をして倒れた処とか、病気で死んだ路傍に馬の霊を祀るために建てられたものもある。 こうしたことから、交通安全を願う意味にも解せられたり、なかには道しるべの役目をしたものもある。 牛・馬を使っての交通運輸が唯一のものであった当時には想像もつかない苦労があったものと思われる。 これら動物は、それに対する愛情によって像として刻され、神仏を符合させ、そして守護されていったのである。 昭和五十四年六月十五日 和光市教育委員会 和光市文化財保護委員会 やがて、右後方からの県道109号に13:39に合流し、その先で東京外環自動車道の歩道橋を渡る。この辺りから次の「膝折宿」近く迄、県道109号線の南側を国道254号線と併進し、その南側に「陸上自衛隊朝霞駐屯地」が広がってくる。 「本町小学校」交差点のすぐ先で、旧道はマグドナルドの右側の細い道へと入っていく。格別旧街道の風情が残っている訳でもなく、道は200m強で再び元の県道109号線に戻るが、この僅かな間に和光市(本町)から朝霞市(栄町)へと市境界を越える。 ■膝折不動尊(14:16) 「幸町三丁目」交差点で「城山通」を越え、朝霞警察署前バス停の先で左に曲がる県道と分かれ、街道は直進する旧道へ進んでいく。この旧道部分も300m程で再び先ほどの県道と一緒になるが、その県道への合流点近くの左手に「膝折不動尊」があるのが唯一旧道らしい情緒を残していると言えよう。この県道と合流したあたりが膝折宿上宿である。 急坂を下って県道と合流するこの坂を昔は一人で荷車を引き上げるのが難しく、坂下に車の後押し専門人夫が待機していたという。このため、いつの頃からか「かせぎ坂」とも呼ばれるようになったという。坂下あたりから膝折宿が始まっているが、膝折の地名由来については次項の「一乗院」の項で触れる。 ■一乗院(朝霞観音)(14:21~14:34)・・・朝霞市膝折町 1-16-17 合流して100m程先を右に入った所に真言宗智山派の寺院「一乗院(朝霞観音)」がある。この土地に定着した渡来人高麗氏の開基と伝えられるが、「一乗院略縁起」と題する解説板記載の由来が興味深い。 一乗院略縁起 当山は山号を並流山、院号を一乗院、寺号を平等寺と称する。弘法大師空海上人によって平安時代に立教開宗された真言密教の法燈を斟み、京都東山の智積院を総本山とし、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の三大本山と、全国三千ヵ寺に及ぶ寺院を以て組織される真言宗智山派に属する寺院である。御本尊様は、十一面観世音菩薩で、御顔が十一の面からなり、あらゆる方向に顔を向けて苦しむ衆生を見逃す事なく救ってくれるという誓願を戴く仏様である。 門□は寺伝によると「古来人ニ依ッテ成ル」とされ「七一六年(霊亀二年)駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野ノ七国ノ高麗人、一七九九人ガ武蔵国(現在の入間付近)ニ移住シ、高麗郡ガ置カレタ。ソノ後戦乱アリテ高麗ノ城陥レリ時、主将某ハ敵ノ為ニ討レ畢ヌ。家臣五人遁レテ落人トナリ此ノ膝折ノ地ヘ来レリ、其頃ハ只原野ナリ。彼ノ五人ノ者力ヲ合ワセテ遂ニ家ヲ作リ居住ノ地トセリ、高麗氏ヲ家號トセル者アリ、ソノ時乱世ノ平和ニ立チ還エル事ヲコイ希イ、且世ノ人々ノ後生ト縁者ノ菩提ヲ願イテ守リ本尊タル十一面観世音菩薩ヲ勧請安置シ一宇ヲ建立ス」というのが起源とされ当時は観音寺と呼ばれていた。 その後星移り物替って南北朝時代の初期に宇治の尊師に依って間口七間奥行五間の本堂が建立された。[現在の寺域よりも東北百米の地で板碑百四十基が点在した場所、因に板碑は、[三五〇年(大和三年)より一四八〇年(文明十二年)が現存]序で本堂前に稲荷社を配し右手に地蔵堂、左手に大日堂が安置された。更に西に時明院を有し、その奥手に阿弥陀堂(現在の閻魔堂)が建立された。(注)安政年間(一八一七年頃)に二度に亘って火災に遭遇し客殿、大日堂等を焼失する。現在の山容は大戦後照興(中興)に依って定まれる。 夕ぐれに いちじょういんの鐘の音が 佛のめぐみしみじみときく 照與作 (一乗院御詠歌より) 昭和六十二年三月彼岸 第三十二世 秀弘 敬白 (注)安政年間は1854~1860。1817年は文化14年が正当。 山号の「並流山」には次の様な由来がある。現在では小川に蓋がされ往時の面影がないが、朝霞警察署の上方から流れ黒目川に注いでいた川と、もう一本、朝霞第一中学と緑ケ丘の浄水場の間に小川が流れ、膝折の長寿庵付近で地下に潜っていて、その場所を末無川と呼ぶが、閻魔堂付近から再び湧き出て黒目川に注いでいる小川が並行して流れていたので、その間のお寺という処から「並流」を山号にしたというものである。また、院号「一乗院」の「一」とは唯一無二の教えと言われる仏教を、「乗」は衆生を乗せて覚りに赴かせる意であるそうな。 ところで「膝折」の名は、寺前の坂で武士の乗った馬が膝を折ったという「鬼鹿毛」伝説との関連で語られるという。膝折の名が記される古い記録は、文明18年(1486)に京都聖護院門跡の道興准后が著した紀行文「廻国雑記」で、当時膝折名物の竹篭(かっけ)を詠み込んで、「商人は いかで立つらん膝折の 市にかっけ(脚籠)を 売るにぞ有ける」と膝折の地名をかっけ脚籠の掛け言葉にした和歌を詠んでおり、このことからは、約500年以上前に既に市が開かれている膝折集落があったこと事が判る。 当寺の開山年代は不詳だが、鎌倉~室町時代造立の板碑(朝霞市文化財)が、140基程出土した点を考えると、室町時代後期と思われる。また、新編武蔵国風土記稿には、「この地の開闢は、先人の伝える所に依れば、古き世の事なり。昔高麗の城陥りし時、主将敵のために討たれ軍ぬ、家臣遁れ出て落人となりこの地へ来たれり。彼の者力を合わせて家をつくり、今その子孫分かれて住せり」と記されている。そして京都宇治の醍醐山の尊師により、都から十一観世音菩薩を勧請し、乱世の平和に立ち還かえる事を冀い願い、余の人々の後生と菩提を願って守り本尊とし、一宇を建立したのが始まりで、それを開基としている。その後江戸時代に間口七間、奥行五間の本堂が建立された。以後寺門は暫時整備され、本堂前に大日堂、左手に地蔵堂が建立された。その後時の太閤の命によって稲荷社が配された。膝折氷川神社は住職が別当職であった。また、膝折宿に「持明院」があり、その奥に薬師堂、現閻魔堂(朝霞最古の薬師木像<室町期作>)があり、一乗院を上寺、持明院を下寺と呼称していた。因みに今の中村屋住宅設備機器(株)(水道工事店)付近を大門と呼んでいる。(現在は閻魔堂のみ現存) 安政年間の火災で古文書が焼失したが、過去帳だけは残り、それには江戸初期の壇徒の法号(戒名)が記されている。 寺子屋も行われており、明治五年の学制発布により、明治七年に膝折学校が設置され、爾来一乗院の客殿が学校の役目を果たしていた。30年後に現在場所に移されたが、境内には「膝折学校発祥之地 明治七年(注:1874)五月三十日開校 朝霞市立第一小学校前身」と刻まれた碑があるほか、その学校で教鞭をとった横山久子先生の碑や、先生に関する詳細な解説板が建っている。 墓地手前に、14~15世紀にかけての古い板碑140基が収蔵されているが、その保管箱の窓ガラスからは汚れで内部は見えにくいが、これだけ多くが年代順に揃っているのは歴史的に大変価値があると言えよう。 ■膝折宿と脇本陣家(14:37)・・・朝霞市膝折1-14-23 膝折宿を中心部に歩いて行くと、右手に脇本陣「村田屋(高麗家)」がある。大きな茅葺屋根が遠目には何の素材か見分けがたいが金属様の板でカバーされ、玄関入口は現代風のガラス戸になっているが、重厚な屋根と端麗な格子は古家の品格を保っている。裏庭には車が止まり、人も住んでおり、表札は「高麗」とあった。一乗院の縁起を裏付けるかの如く、当家に限らずここ膝折には「高麗」姓の家が多いのだ。 膝折宿は、川越街道4番目の宿場町で、中山道の脇往還として、また平林寺や川越東照宮への参拝者・川越藩の参勤交代などで賑わった。しかし、交通量増大につれ宿場の継立業務に人馬を提供する助郷の村々の負担も苦しくなり、屡々争いになったという。 なお、膝折は、溝沼・浜崎・田島・宮戸・上内間木・下内間木等と共に尾張藩の鷹場に設定されていたため、そうした鷹場の村には境界を示す杭が建てられていたが、今でも市内浜崎3丁目の「浜崎氷川神社」には鷹場の境界を示す石杭が残っているという。 ■本陣跡(14:40)・・・朝霞市膝折2-3-45牛山家 その先左手にある膝折郵便局の隣が元本陣だった「牛山家」だが、家は現代風に建替えられ、往時の本陣としての名残は皆無である。右手の「中村屋」住宅は門構えの長塀や、白壁の土蔵、塀からはみ出る程の庭木が見えるお屋敷だ。 ■黒目川 膝折宿は数百メートルで終わり、街道は「膝折宿町内会館」交差点を左折し、やがて黒目川に架かる小さな「大橋」を渡って、その先で新座市域へと入って行く。「黒目川」は、以前は全然知らなかったが、以前加入していた「水歩会」という山歩きの会のメンバーでそれをハンドルネームにしている一級建築士がおられ、それで知ったのだが、川沿いは散歩コースとしても知られているらしい。 「膝折3丁目」交差点を過ぎると道は右にカーブし、小さな庚申塔が立つY字の分岐点を左にとり、「たびやの坂」とよばれる急坂を登っていく。 ■横町の六地蔵ほか(15:06) やがて、マンションや戸建住宅に挟まれた街道は、右後方からの県道109号線に合流し、すぐ先、朝霞市から新座市への市境をなす水道道路と交わる「野火止下」交差点に達するが、その手前左に「横町の六地蔵」があり、白い涎掛けをしたお地蔵様が並んでいる。 享保17年(1732)銘の六地蔵のほか、その左手には宝暦6年(1756)銘の庚申塔、右手には正徳4年(1714)銘の地蔵菩薩立像が並んでいる。 横町の六地蔵 川越街道沿いには、様々な石仏・石碑が、堂や、道筋に残り、人々の信仰や、生活の様子を今に伝えています。 横町の六地蔵は、享保十七年(1732)に造立された六体の地蔵菩薩の丸彫立像です。 地蔵菩薩は、釈迦如来の後に、弥勒仏が現れるまでの間、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界)に迷い転ずる人々を救う菩薩として、古くから信仰され、親しまれてきました。 袈裟をまとう僧侶の姿に、それぞれ、錫杖や、宝珠、香炉等を持ち、合掌をし、六つの分身となって、街道沿いの人々を見守っています。 ここには、他に、正徳四年(1714)に造られた地蔵菩薩の立像や、宝暦六年(1756)銘の刻まれた庚申塔が、あります。 平成八年三月 新座市教育委員会 新座市文化財保護審議委員会 ■新座 先にも触れたが、「新座(にいざ)」の地名は天平宝字2年(758)武蔵国に新羅郡が設置されたことに由来し、後に「新羅郡」が「新座郡」に改称された。町村合併促進法で昭和30年3月、大和田町と片山村の合併で古い地名の新座郡(にいくらごおり)から名をとり、新座町(にいざまち)となり、昭和45年11月1日に市制が施行された。 ■平林寺(15:30)・・・新座市野火止3-1-1 坂上で道が平らになると、道幅は更に狭まり、新座市の野火止8丁目を通っていく。「野火止大門」交差点で交わる南北の道が「平林寺大門通」で、そこを左折して片道1.5km程先右手にある「平林寺」へと進む。謂わば、この交差点が「平林寺」へと向かう参道の入口である。 交差点の南西角に「金鳳山平林禅寺」と彫られた大きな寺号石がある。道向かいには見事な茅葺の家がある。 以前から「野火止用水」沿いの道を「平林寺」迄散策したいと思いつつ未了に終わっているため、少々遠いけれども折角の機会として敢えて今日「平林寺」立ち寄ることにした。 この平林寺には、日本画家の速水御舟が大正期に仮住まいし、制作の傍ら参禅して心の修養に努めたという。 途中、「こもれび通」と交差する「新座市役所前」交差点に「野火止用水」の大きな解説板がある。この地は武蔵野東端にあたる野火止台地で、自然の水利に恵まれなかった。承応四年(1655)川越城主松平信綱の命で用水工事が始まり、玉川上水から取水して現・志木市を流れる新河岸川に至る「野火止用水」が開削された。昭和20年頃まで住民の生活用水としても利用されていたという。現在、その一部が平林寺境内に残っている。 平林寺の総門受付で入場料300円を支払うが案内図はくれない。有料パンフはあるが、無料なら傍の案内看板を見るしかない。 間口2間1尺に1丈4寸の両扉を付し、6本柱に茅葺の切妻造りで、石川丈山作による「金鳳山」の額を掲げる「総門」を潜ると、寛文4年(1664)築で間口3間、奥行2間に両扉を付した重層入母屋造りの木造茅葺「山門」、その奥に末広がる間口6間、奥行5間半の単層入母屋造りの美事な茅葺「仏殿」、更にその先に、間口8尺、奥行1間4尺で両扉を付けた切妻造りの「中門」(以上は昭和48年3月9日埼玉県指定建造物)、「本堂」と続き、これらが一直線上に配された禅寺特有の様式になっている。順路に沿って行くと、木橋の架かる「野火止用水」があるが、水路というより雑木林をぬう天然の溝(乾いた窪み)である。 武蔵野の面影を残す国天然記念物の雑木林が周囲を覆い、順路奥には川越城主松平伊豆守信綱の墓がある。その奥にも雑木林が広がっており、平林寺の境内林は超広大かつ超静寂である。散策路の両側は、紅葉の木が立ち並び、紅葉時期には燃えるような鮮やかさに染まると思われる。 臨済宗妙心寺派の「金鳳山平林寺」は、臨済宗妙心寺派の別格本山で、本尊は釈迦牟尼佛である。この平林寺は、北朝の永和元年(1375)大田備中守によって武蔵国騎西郡渋江郷金重村(現・さいたま市岩槻区)で創建され、開山は当時、鎌倉建長寺の住持をしていた石室善玖禅師である。 天正18年(1590)、戦国の争乱による兵火のため堂宇の大半が灰燼に帰したが、翌年、徳川家康が鷹狩りの折に焼け残った寺の塔頭で休み、寺院の由緒と石室善玖の高徳を知り、再興を約する。翌天正20年、家康は、静岡臨済寺の鉄山宗鈍禅師を迎えて中興開山し、その後、雪堂禅師が跡を継ぎ、寺の伽藍を再興している。 寛文3年(1663)石院禅師の時代に、川越藩主松平信綱の遺志を受けた子の輝綱が松平家の菩提寺としてここ野火止に移転している。というのが、ここ平林寺は川越松平領の最南端に位置し、川越と江戸の中間点で、江戸往復途上の一服場所として格好の場所であるとの理由でこの地に移転したと言われている。そして、七堂伽藍が整備されたが、慶応3年(1867)12月、本堂庫裏等が火災に遭って消失し、明治13年(1880)、藍渓禅師が再建して今日に至っている。 なお、宗派も当初は臨済宗建長寺派で、その後大徳寺派になり、これらを経て現在の妙心寺派の寺院になっている。 時間的に差し迫っていたため、駆け足見学になってしまったが、歴史という年輪の重みを弥が上に身感じる重厚な佇まいの名刹である。 ■睡足軒の森(15:40)・・・新座市野火止1-20-12 帰途予定時刻が段々迫ってきたので大急ぎで見学する。平林寺の総門の向かい(西側)にある。 新座市睡足軒の森 「睡足軒の森」は、国指定天然記念物平林寺境内林の一部であり、九千三百七十九㎡を有する緑豊かな景勝の地です。 このあたりは江戸時代に、上野国高崎藩松平右京大夫家が飛び地として野火止・北野・菅沢・西堀・大和田の五か村を支配していたとき、高崎藩の「野火止陣屋」がおかれていたところで、現在も「陣屋」という地名が残されています。 近代になって、「日本の電力王」の異名を持ち、実業界で活躍する一方で、茶道にも造詣の深かった昭和の大茶人・松永安左エ門(耳庵)氏の所有地となりました。 松永氏は、横浜三渓園で有名な原富太郎(三渓)の世話により、昭和十三年に飛騨高山付近の田舎家をこの地に移築しました。 その後、昭和四十七年に屋敷地が菩提寺である平林寺に譲られました。 このたび平林寺のご厚意により、睡足軒とその敷地が新座市に無償貸与され、ここに文化遺産として広く公開することにしたものです。 平成十四年十一月一日 新座市・新座市教育委員会 平林寺の睡足軒や坐禅堂を改修し、古材で復元された92㎡の木造茅葺田舎家・茶室・大炉の板間のある古民家の睡足軒は、現在、茶道・華道・俳句などの日本文化を楽しむサークルなどに利用され、また、紅葉亭はギャラリーとしても活用されている。更に、園庭は、新緑・紅葉シーズンは無論のこと、年間を通して癒される場所になっている。入園は無料。 こちらは入場料無料なのに「ご利用のご案内」と題したB4二つ折りの印刷物が置いてある。 ■神明神社(16:12)・・・新座市野火止5-11-1 15:58に街道(県道109号線)に戻り、西進してJR武蔵野線のガードを潜り500m程進むと、「大和田小学校入口」信号の手前、右手奥に清楚な「神明神社」がある。最初の鳥居から奥10m程の間に鳥居が四つも建っているのには驚いた。最初の三つが石造り、一番奥のが木造である。 解説板には、下記したように「昭和の始めには野火止用水が境内の横を流れ…」とあるが、今では境内の内外を見渡してもそれらしき窪みは認められない。神社は野火止地区の西端に位置し、ここを越えると大和田地区(旧大和田宿)である。 当社は江戸初期の川越藩主松平伊豆守信綱が開発した野火止新田に鎮座し、明治の社格は村社。 明治40年7月、同じく村社であった北野ノ稲荷社を合祀している。 入口にある「常夜燈」の右のものには富士講のマークがあり、確認してみると『冨士常夜燈』とある。また、本殿左奥には境内社の稲荷神社がある。 神明神社 江戸時代に幕府が編纂した地誌書「新編武蔵国風土記稿」には、 氷川社 下分のはしにあり。祠は二間四方許。 (中略) 神明社 上分にあり。本社間口三間、奥行二間半、又側に九尺二間の祠あり。是も神明を祀る。 稲荷社三 村内にあり。 と記され、神明神社は、野火止上の教会に位置しています。 祭神は、天照大神と倉稲魂命が、祀られています。 明治四十年北野八軒の稲荷神社を合祀して、境内社として稲荷神社を祀っています。 境内には、石工銘の刻まれた鳥居や、常夜燈、御百度石、庚申塔、秋葉権現石祠、金比羅宮石祠等、多くの石造物が置かれ、信仰の様子がしのばれます。 昭和の始めには、野火止用水が、境内の横を流れ、水車をまわし、又、旱魃の際には、雨乞いの行事が行われました。 平成六年三月 新座市教育委員会 新座市文化財保護審議委員会 ■第一日目ゴール 16:20「神明神社先の新座駅北入口」信号で、「平尾追分」からの街道距離が16.8kmとみて、ここで本日の街道歩きのゴールとする。本当はもっと歩けるし、街道距離からすると2回分割で完歩可能なのだが、ゴールの川越市内で相当立ち寄り予定を考えている関係上、その所要時間を勘案して3回区切りとし、次回は、JR川越駅を帰着点とする予定である。 16:33発府中本町行きの便に乗り、帰宅時刻は17:25と何とか予定時刻に間に合ったが、暑い一日で大量の汗を発汗できた。 |