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川越街道餐歩記・・・第三回・・・
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  2009.10.11(日) 川越街道 #3 川越宿:菅原町交差点〜川越城大手門跡

第三回目スタート

 前2回の歩きで、川越街道は殆ど完歩一歩手前まで来ているが、きょうは我が愛妻同伴で古都川越の街をとことん史跡探訪するつもりで、たっぷり1日てくてくコースを予定している。
 従って、街道距離そのものの残り距離は2.6km程度に過ぎないが、立ち寄り箇所はいっぱい予定しており、実質距離は17〜18km程度には充分達する筈である。果たしてこのところ長距離ウォークに遠ざかっている妻の脚力が心配だが、とにもかくにも川越駅東口を9:10にスタートする。
 きょうは近来稀な、雲一つない秋晴れの好天に恵まれ、適度な風が心地よい絶好の散策日和である。

川越八幡宮(9:21)・・・川越市南通町19−3 
[願いごとめぐりコース1ヵ所目]

 駅から東進し、街道筋に出て左折、350m程先の左手にある「川越八幡宮」に向かう。
 「八幡宮」の扁額と注連縄の掛かった入口の明神鳥居を潜ると、正面の社殿前にも同型の鳥居があり、その下に「八の字」型の足形が埋め込まれている。その上に両足を載せ、末広がりの幸を願うという寸法になっているらしいので、既にいい年には達しているが一応足を乗せて福徳を願っておく。
 境内の配置は、参道正面に拝殿、右手に「水屋」と「社務所」、左手に「縁結びの木」と「民部稲荷神社」がある。

 川越八幡宮は、創建から約980年、人皇第68代・後一条天皇の御代の長元3年(1030)に甲斐守源頼信によって創祀されたと伝えられる古社で、御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)である。
 現社殿は、昭和48年8月〜昭和50年8月(竣工祭は51年5月)の2ヶ年間をかけて本殿と拝殿を改築、幣殿を新築、社殿は鉄筋コンクリート造り・朱塗りで、屋根は銅板葺である。

 長元元年(1028)、下総国(千葉)の城主前上総介平忠常が朝廷に反旗を翻し、安房・上総・下総3カ国を従わせ、大軍をもって破竹の如き勢いで武蔵国に攻め入ったが、この「長元の乱」は、3年に亘って鎮圧できず、有力武士だった冷泉院判官代甲斐守源頼信(多田満仲の御子源光朝臣の御令弟)が長元3年に平忠常追討の倫旨を賜った。
 源頼信は当地で必勝祈願の上、敵陣に斬り込み、平忠常の軍勢を三日三夜に亘って激しく追討し、遂に乱を平定した。そこで、頼信が御神威に感得喜悦し、直ちに当地に八幡神社を創祀したのがここ川越八幡宮の始まりである。尚、東松山市の箭弓稲荷神社も頼信が当社と同じ祈願主旨で同時期に御社殿を建立した。

 当時、この辺りは、豪族河越氏の所領で、鎌倉時代には神社後方に河越氏の館があった。応永32年(1425)には、関東管領足利持氏河越兵庫助の館跡地の半分を当神社に日供料として寄進したと伝わっている。
 長禄元年(1457)、河越城(後の川越城)が完成したが、河越城は、武蔵国が扇谷上杉氏と古河公方足利氏の両勢力の接点だったため、足利勢への対抗目的で上杉持朝が家老の太田道真、道灌父子に命じ、「道灌かがり」と呼ばれる手法で築いた城であるが、築城の名手だった道灌は当神社を篤く崇敬し、分霊を城内の守護神として奉斎した。

 爾来、川越の歴代城主・城代の崇敬殊の外深く、特に天正18年(1590)以来の城主・酒井氏一族の崇敬はすこぶる篤く、社殿の造営・神田・神宝の寄進が相次ぎ、酒井氏は国替後も崇敬を加え、屡々改築費や修繕費等を奉納している。
 文化9年7月1日(1812)、姫路城主・酒井雅楽頭源朝臣忠衛は御神号「河越八幡宮」(文字は向鳩形)の額と掛物一幅を奉納し、寛永2年(1625)には、3代将軍家光が日光社参の折、酒井備後守忠利が道中安泰祈願をし、その功により葵紋付祭器の寄進を受けている。

 「縁結びの木」は、根本部分がくっついた二本のイチョウの大木で、植樹76年程でこれ程の大木になるのかと驚くほどである。横に次のような解説板が付されている。

               
縁結びイチョウ由来(川越八幡宮御神木)
 平成明仁天皇がお生まれになった御年(昭和八年十二月二十三日生)川越八幡宮の氏子によって、男イチョウと女イチョウ二本を植樹したが、いつしんその二本の木は寄り添い合い一本に結ばれたことに由来する。
 固く結ばれた二本の御神木に触れ、手を合わせると良縁に巡り逢うといわれている。


 その左に隣接されている「民部稲荷神社」は、通称「足腰健康の神様 相撲稲荷」として、古くから崇められている。箱根駅伝出場選手をはじめスポーツ選手の参詣が多いという。歴史散歩を兼ねての街道歩きが趣味の小生にも、おあつらえ向きのお稲荷さんであり、共々に祈願する。

 川越市内には「願いごとめぐりコース(全14ヵ所)」という観光コースがあり、この川越八幡宮の「相撲稲荷」もその一つになっている。きょうは「小江戸川越七福神めぐり」と、この「願いごとめぐりコース先」の各寺社を交えながら、小江戸川越市内史跡を徹底的に巡り、かつ川越街道の完歩を期す予定である。

               
民部稲荷神社
   御祭神 倉稲魂神
 創立年代は不詳であるが、川越に感誉上人の開山した蓮馨寺(注:後刻探訪予定)がある。この感誉上人に随従して来た人に猪鼻民部がいた。川越に土着して蓮馨寺の門前町を拓いた。
 ここが猪鼻町(現在仲町、連雀町の銀座通り商店街)と呼ばれた。子孫が脇田町分に移り名主役を務めたゆえ、猪鼻町が飛地とされて大字脇田で八幡神社の氏子となっている。八幡神社は今は東に入口があるが昔は脇田に向いていた。
 「川越素麺」によると、梵心山民部稲荷の老狐物語の伝説が記されている。昔八王子在に老狐が人に化身して民部と名乗り浪人になりすました。ある夜某寺の和尚が小僧にお前はいつもどこえ(注:原文の侭)出かけるのだと尋ねると民部様のところですと答えた。和尚は驚いてかかる武士の邸宅も住いもない所ゆえ小僧が物の気につかれたと思い、お前がお世話になる民部様にお礼を述べ、ご挨拶がしたいからお越し下さるようにと小僧にお奨めしてこいと申し付けたら、早速翌日の夜分参上するとの返事であった。和尚の手厚いもてなしと四尤山話に花が咲き、話が角力のことに及んだら民部は膝を乗り出し角力自慢をはじめた。早速民部の供の者と小僧と相撲を取って興趣を添えた。翌朝小僧は庭掃除に行くと、昨夜の相撲場のあとに狐の毛が沢山散らばっていた。これを和尚に告げると和尚は小僧に口外を秘めさせ、民部様にお礼の使者を立てたら民部は故あって川越の梵心山と言う所に新しく移り住むことになったと厚く礼を述べ打身の手当を教えたと伝説に遺されている。
 この梵心山に民部稲荷が古くあったが荒廃し、後に八幡神社の境内に移されて角力の絵馬額が今もお納められている。打身、挫きの時角力絵馬を納めれば霊験があらたかだとされている。面白いのは角力にこじつけ四畳半相撲の水商売の人達の信仰が栄であった頃もあった。 以上

中院(なかいん)(9:42)・・・川越市小仙波町5−15−1

 いつ頃だったか、やはり妻と2人で川越の街を散策したことがあるが、その時の記憶が甦る最初の場所が、ここ「中院」である。
 その由緒に触れる場合、「中院」と隣接する「仙波東照宮」及び「喜多院」の3寺社は、元々一体的関係にあったことを念頭に置かねばならない。

* 平安初期の天長7年(830)、人皇53代淳和天皇の命により、円仁(慈覚大師)が当地で「星野山(せいやさん)無量寿寺」と号する寺を建立した。
* その無量寿寺は中院を中心に「北院(現・喜多院)」・「中院」・「南院(後に廃寺)」の3支院で構成され、永禄年間(1558年−1570年)頃まではこれら3院が並存していた。そして、それら各支院が、無量寿寺の中で「仏蔵院」、「仏地院」、「他聞院」と称していた。
* 鎌倉時代の末頃、これらの支院が無量寿寺から分離し、喜多院(旧北院)・中院・南院として独立した。喜多院に天海僧正が来往する迄は、この中院が最も強い勢力を持っていたという。
* 寛永15年(1638)1月28日、川越の町で大火があり、街と共に寺も多くの建物が焼失し、中院のあった場所には仙波東照宮が建てられた。
* このため、中院は更に200m程南の現在位置に移り、南院は明治時代初期に廃院になり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆やお地蔵様が残るだけになった。県立総合高校の北に南院(他聞院)跡地があり、人家に囲まれ、お地蔵様等だけが目立つ寂しい感じの場所になっているという。

 さて、その中院は正式名を「天台宗別格本山中院」というが、正式の山門の手前に、上部に鐘楼の付いた門(後で鐘撞堂と判明)があり、それをてっきり山門と思いこんで潜ると、直ぐ左手に正面に本堂にしては質素な建物があり、これはどうやら「神殿」と称する建物だったようだが、まず参拝する。

 その前右手には、「郷土誌“多濃武(たのむ)の雁”著者 秋元侯家老 太陽寺盛胤一族之墓」という標柱が横に建った3基の墓がある。秋元侯は川越城主のことである。そして、ここでいう一族とは、太陽寺盛胤の祖父盛昌・父盛方及び妻のことである。
正面右手には、自然石に刻まれた「狭山茶発祥之地」碑や、次のような碑文を刻んだ石碑が並んでいる。

               
河越茶 狭山茶の起源
 夫れ茶は遠く平安の昔博教大師最澄和尚 中国天台山国清寺より伝来し京都に栽培せしより始まる
 後慈覚大師圓仁和尚天長七年(830年)當地仙波に星野山無量寿寺仏地院建立に際し比叡山より茶の実を携え境内に薬用として栽培す これが河越茶 狭山茶の起源である
 當山茶園の茶株を此処に移植し長く伝承す


 以後、川越や狭山の各地で本格的に栽培され、名産になったが、「色は静岡、香りは宇治、そして味は狭山」と言われ、深みのある味わいが特徴で、30年ほど前までは境内にも茶畑があり、茶摘みをしていたそうだ。

 左奥が墓地になっており、ここには、島崎藤村の義母・加藤みきの墓があるが、加藤みきは、文久3年(1863年)に川越松平藩蔵前目付の次女としてこの地に生まれ、4歳の時に母に伴われて上京し、以後大正12年に再び川越に戻り、昭和15年5月に73歳の生涯を閉じた。墓石に「蓮月不染乃墓」と彫られており、この墓銘は藤村が書いたものである。
 また、その北側には、藤村が義母に贈った茶室「不染亭」(川越市の文化財指定)が移築されており、藤村書の「不染」の碑があるほか、「成田山川越別院」の開祖・石川照温上人の墓などもある。

               
不染亭
 不染亭は昭和の文豪島崎藤村先生が静子夫人の母堂加藤みき刀自に昭和四年に贈られた茶室で川越市新富町に建てられて在りました
 この度此処に株式会社長谷工がマンションを構築することになり 川越市当局 長谷工 藤村学会 地元有志の熱愛に依り 加藤家の菩提寺星野山中院に移築することを依嘱されました
 委嘱に当って住職並びに中村工務店は責任を以って事に当り、茶道会館に学び表千家妙風会の尽力を得て誠心誠意遂行されました
 茲に藤村先生の母堂に贈られた孝心と遺徳を偲び昭和の川越市の文化財として長く活用し伝承して行きたいと思います
               平成四年十一月十七日     星野山中院六十七世 表千家妙風会々長   仁平信海


 あらためて正式の山門から入り直す。山門は、向って右に「天台宗 星野山 中院」、左に「日蓮上人傳法灌頂之寺」の石碑の奥に“これぞ中院というに相応しい”立派な山門があり、墨跡鮮やかな「元関東八箇檀林」と「天台宗別格本山」の木看板が古刹の風格を醸し出している。
 入った左手に先述の不染亭やその碑が建ち、正面に立派な本堂がある。
 右手に「出世観音像」があり、本堂前には、美事な「しだれ桜」がある。境内に5本の彼岸桜と枝垂桜があるが、一番の古木(しだれ桜)は樹齢約400年と言われている。

                
市指定・史跡 中院
 中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長七年(830)慈覚大師によって創立された。元来星野山無量寿寺のなかに北院・中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、多聞院と称していたものである。
 当初の中院は、現在の東照宮の地にあったが、寛永一〇年(1633年)東照宮建造の折に現在地に移されたものである。
 喜多院に天海僧正が来住する以前は、むしろ中院の方が勢力をもっていたことは、正安三年(1301)勅願所たるべき口宣の写しや、慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。秋元候の家老太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母加藤みきの墓などがある。
               平成四年三月
                              川越市教育委員会


仙波東照宮(10:01)・・・川越市小仙波町1−21−1
[願いごとめぐりコース2ヵ所目]

 中院の北側、移転前の元中院があった場所にある。江戸時代に「仙波御宮」と称された仙波東照宮は、喜多院第27世住職・天海僧正が徳川初代将軍家康を祭神として祀った神社で、日光、久能山と並ぶ三大東照宮のひとつとして崇められた。

               
重要文化財・建造物 仙波東照宮
 徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した元和三年(1617)三月、喜多院に四日間逗留して供養したので、天海僧正が寛永十年(1633)一月この地に創建した。その後寛永十五年(1638)正月の川越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年六月起工、同七年完成した。当初から独立した社格をもたず、喜多院の一隅に造営されたもので日光・久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれている。社の規模は表門(随神門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。本殿の前には歴代城主奉献の石燈籠がある。なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の、三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。
                              埼玉県教育委員会
                              川越市教育委員会


 解説板では上記の通り簡単な概説にとどまっているが、もう少し詳説すると次の通りである。

 家康は、元和2年(1616)4月17日、75歳で死去後、一旦は静岡県の久能山に葬られたが、その遺言に従い、元和3年(1617)、2代将軍秀忠が家康の遺骸をあらためて日光山に移葬した。
 久能山を同年3月15日出発し、日光に至る途次の同23日、仙波喜多院の大堂(薬師堂、後に東照宮本地堂とも称した)に到着し、天海僧正が導師となって26日までの4日間、衆憎を集めて、丁重な法要を厳修している。この法要後の元和3年(1617)9月16日、天海僧正は家康在世の渥恩に謝意を伝え、また遺柩止留の跡として家康公の像(高さ8寸8分)を造り、喜多院の境内に大堂を造り祀ったのが東照宮の初めである。

 天海は、この東照宮を広く多くの人たちに崇拝して貰うべく、当地に高さ5間の丘陵を築き上げて立派な社殿を造って寛永10年(1633)11月16日に遷祀した。同年12月24日には、後水尾天皇が宸翰御神号として「東照大権現」の勅額を下賜された。
 寛永15年(1638)1月28日、川越街に大火災が起こり、仙波の神社、堂塔、門前屋敷まで延焼し、これを聞いた3代将軍家光は、直接東照宮再建計画を立て、同年3月、川越城主堀田加賀守正盛を造営奉行に命じ、天海僧正を導師として、寛永17年(1640)5月に竣工したが、現社殿はこの時のものと言われている。

 寛永17年(1640)の竣工以降、前記事情により社殿・神器等全て幕府の運営となったが、元々が自祭であり、祭資は幕府から支給されていなかったため、喜多院第29世住職周海僧正(天海の高弟)は祭典の完備を期し、寛文元年(1661)3月、松平伊豆守信綱(川越城主)を通じて、4代将軍徳川家綱に願い出、大仙彼の地200石を祭資として賜った。その後も、幕府の手で屡々修理され、弘化4年(1847)に大修理を行った。
 明治2年(1869)、諸領一般上地の令によって社領を奉遷し、逓減割となり、同年の神仏分離令により、喜多院の管理を離れるに至った。
 そして、明治以降の神仏分離による衰退や、昭和34年の台風禍で破損後、昭和36年に修復されているが、本殿・唐門・瑞垣・拝殿・幣殿・石鳥居・随身門は国の重要文化財になっている。拝殿は単層入母屋造、幣殿背面は入母屋造、前面は拝殿に直結している。

               
東照宮随身門・石鳥居
 境内入口にある随身門は朱塗八脚門・切妻造でとち葺形銅板葺きである。八脚門とは三間×二間の門で、門柱四本の前後に各一本ずつの控柱をもっている屋根つき門のことである。以前には後水尾天皇の御染筆なる「東照大権現」の額が掲げられていた。記録によるとこの勅額は寛永十年(1633)十二月二十四日とあるから東照宮の創始の時期を知るひとつの資料となっている。石鳥居は寛永十五年(1638)九月に造営奉行の堀田正盛が奉納したもで、柱に「東照大権現御宝前、寛永十五年九月十七日堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれており、様式は明神鳥居である。
                              川越市教育委員会


 雰囲気は静かで落ち着いており、喧噪さは微塵もない。そして東照宮自体も質素で落ち着いた雰囲気で、あの日光のような騒々しさが無く、それでいて東照宮らしい独特の雰囲気を醸し出している。
石の明神鳥居が参道の「隋身門」の後ろに建ち、奥の階段の上に拝殿や本殿がある。その横の広場ではベンチもあって休憩可能である。
随身門から東照宮へ向かう途中を右手に行くと「弁財天厳島神社」があり、それを囲むように池があって春から夏にかけてはホタルが放たれるそうだ。
少し急な石段を登ると、堂々たる葵の御紋つきの門があり、色調や飾りが華やかでとても綺麗な本殿を目にすることができる。

             
  重要文化財・建造物
                 東照宮拝殿・幣殿
 拝殿は桁行三間(5.36m)、梁間二間
(注)(3.64m)で、単層入母屋造、正面は向拝一間(1.82m)あって銅板本葺である。幣殿は桁行二間、梁間一間で背面は入母屋造り、前面は拝殿に接続し、同じく銅板本葺である。内部も朱塗で美しく、正面に後水尾天皇の御染筆なる東照大権現の勅額が懸けてある。記録によると寛永十年(1633)十二月二十四日とあって、東照宮創建当時に下賜された貴重なものとされている。川越城主であった柳沢吉保や秋元但馬守喬朝の頃に大修復があったと伝えられているが、松平大和守の弘化四年(1847)にも修復が行われたという。
平成三年三月
                              埼玉県教育委員会
                              川越市教育委員会
(注) 「二間」の文字は、原文には欠落している。

 また、拝殿の周囲には川越藩主たちの献燈による石灯籠が十六基も建っており、早い時期に造立したもの程、立地が良いように思われる。

               
石燈籠二十六基
 燈籠数  献備年月日
(筆者注)       献備者(川越城主)   高さ

 二基 明暦二丙申年七月四日
(1656)     伊豆守松平信綱   七尺八寸
 二基 寛文十一辛亥年八月四日
(1671)    甲斐守松平輝綱   七尺八寸
 二基 貞享四丁卯年十一月十六日
(1687)   伊豆守松平信輝   八尺
 二基 元禄十五壬午年二月十六日
(1702)   美濃守柳沢吉保   八尺七寸
 二基 享保六辛丑年二月十七日
(1721)    伊賀守秋元喬房   八尺
 二基 享保十九甲寅年十一月三日
(1734)   伊賀守秋元喬房   八尺
 二基 延享二乙丑年四月十七日
(1745)    摂津守秋元凉朝   八尺
 二基 寛延
(注)二己巳年六月五日(1749)   但馬守秋元凉朝   八尺
 二基 宝暦十四甲申年五月九日
(1764)    但馬守秋元凉朝   八尺
 二基 安永八己亥年正月二十二日
(1779)   大和守松平直恒   八尺七寸
 二基 寛政五癸丑年九月
(1793)       大和守松平直恒   八尺七寸
 二基 文化六己巳年十月
(1809)       大和守松平直恒   八尺七寸
 二基 弘化四丁未年十一月
(1847)      大和守松平斉典   九尺

(注)「寛延二」のものについては、掲示されていた一覧表には「寛永二」とあったが、前後関係から見て明らかに表記ミスと思われるので、「寛延」に訂正表記した。

 「願いごとめぐりコース」の一つで、仙波東照宮は「災難除け」のご利益が看板になっているとか。

喜多院(別称:川越大師)(10:17〜11:17)・・・川越市小仙波町1−20−1
     
[小江戸川越七福神の第三番大黒天]・[願いごとめぐりコース3ヵ所目]

 喜多院は「願いごとめぐりコース」の一つでもあり、「苦抜き地蔵」、「厄除け大師」などもあって多くの人々から信仰を集めているが、正月の初大師には「だるま市」が立ち、30万人の参拝者が集まるという観光スポットである。きょうも、ここだけは別格で、マイカーや観光バスで訪れた善男善女達がいっぱい訪れており、他の寺社とは別格の感が強い。道を隔てた北側には、大型観光バス用の広大な駐車場もある。

 山門の遙か手前に、「星野山喜多院」の大きな石柱建っている。石柱の先右手に「中興第二十七世 天海大僧正」の立像があり、境内社の「白山神社」(後述)が右に続く。

 喜多院の由来については既述したとおりだが、良源(慈恵大師、元三大師ともいう)を祀り、「川越大師」の別名で知られる関東天台宗総本山で、天長7年(830)慈覚大師円仁が阿弥陀如来を安置して無量寿寺を開いたのに始まり、永仁4年(1296)に尊海が慈恵大師を勧進して北院・中院・南院等を再興した。そして、比叡山を初め各地で修行を積んだ天海が、天正16年(1588)に入寺し、北院二十七世を継ぎ、寺号を喜多院と改めた。その後川越に鷹狩りに来た徳川家康と接見以来、家康並びに幕府中枢の信任を集めた。寛永15年(1638)の火災で山門以外の伽藍を焼失したが、翌年、3代家光の命で、江戸城御殿の一部を移築している。これが現在に残る客殿、書院、庫裏である。
 また、大人400円の拝観料、客殿・書院・庫裡・慈恵堂内部(本堂)・五百羅漢をコースで見ることが出来るが、内容・見応えから言って充分ペイするだけの価値がある。

<山門・番所>
               
重要文化財・建造物 山門
                 県指定・建造物 番所
 山門は四脚門、切妻造で本瓦葺もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていた。冠木の上の斗供に表には竜と虎、裏に唐獅子の彫ものがあるほか装飾らしい装飾もないが、全体の手法が手堅い重厚さをもっている。棟札が残っており、天海僧正が寛永九年(1632)に建立したもので同十五年の大火を免がれた喜多院では最古の建造物である。
 山門の右側に接続して建っているのが番所で、間口十尺(約3.03m)、奥行二間半(約4.55m)、起(むくり)屋根・瓦葺の小建築で、徳川中期以降の手法によるもので、県内に残るただ一棟の遺構である。
               平成二年二月
                              埼玉県教育委員会
                              川越市教育委員会


<白山権現(白山神社)>

 山門の手前右手に、脇社の「白山権現(白山神社)」がある。奈良時代に疱瘡が流行した時、聖武天皇が白山権現に使いを出して祈祷して貰った処、疱瘡がおさまったと伝えられ、川越の白山権現(白山神社)は現在でも天然痘の守り神として祀られ信仰されている由。社殿自体は祠程度のものだが、鳥居・岩・木々に囲まれた佇まいは荘厳そのものである。

<五百羅漢>

 すぐ目につくのが右手に南面して石彫りの五百羅漢を曼荼羅型に並べた一郭がある。門柱に「天明二年建立 五百羅漢尊」と刻んだプレートが取り付けられ、喜多院名物の五百羅漢群を垣間見ることができるが、見学有料エリアなので鉄柵の門扉などで囲まれ、覗き見る程度しかできないが、実に表情豊かである。後刻その先の茶店横から入場・見学したが、異界にきたような荘厳な雰囲気がある反面、実に様々な羅漢さんの表情や服装・ポーズに、親しみやすさを覚える。
 手には、仏具とか日用品を持ったり、動物を従えていたり、大小様々だったりと、いろいろで実に見学のし甲斐がある。

 五百羅漢と言えば、東京・目黒で拝観したそれとか、四国遍路途上、阿波国板野の第五番霊場「地蔵寺」の本堂裏の石段を登った所にある奥の院の「羅漢堂」のそれをつい思い出してしまうが、限りなく仏に近いと言われる羅漢さんの顔々は、表情が洵に豊かで個性的というか、いつまで拝顔していても飽きない。

 喜多院の五百羅漢は、川越北田島の志誠(しじょう)の発願によって、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたって造立されたものだという。
 十大弟子・十六羅漢を含め533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎両菩薩、左右高座の阿弥陀如来・地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座している。
 羅漢というのは、「阿羅漢」の略称で、仏教において、「尊敬や施しを受けるに相応しい限りなく仏様に近い聖者」という意味である。

 玉垣を周囲に巡らし、「尊者」の文字を台石に彫りつけてある27体以外の大多数は殆ど座姿で、40〜60cm程である。中央に高く安置された三尊のみには、寄進者の姓名も彫られている。鉄扉を設ける以前は、人が夜中に忍び入り、稀に悪戯する者がいたようだが、今では全て復元され、有料だが見学可能になっている。

<太子堂>

 五百羅漢の南側に六角の太子堂あり、石版に刻まれた解説板が建っている。

               
喜多院太子堂縁起
本年氏聖徳太子御忌一千三百五十五年に当ります申すまでもなく聖徳太子はわが日本の文化史上における代表的偉人でその政治上の功績は云うまでもなく学問著述教育宗教音楽芸能工芸築建医療養護社会施設その他諸道の祖として信仰されております特に室町の時代末には仏教宗派にとらはれず太子を芸道の祖として尊ぶ信仰が生れ大工左官屋根職等の仕事師の絶対的信仰をあつめたのであります
当山の太子堂は弘化四年(注:1847)三月当山末寺金剛院境内地に創建され明治以降廃寺にともない日枝神社境内に移し更に明治四十二年三月現在の多宝塔建立地に移築しそして昭和四十七年十一月この地に立派な六角太子堂として再興したものでありますこの度慈恵堂多宝塔大修繕の勝縁を記念して太子堂再興新太子像奉刻木遣恊ホ垣等建設と共に川越鳶職組合(代表西村甚平氏)が中心となり喜多院大師講の結成を見まして十方有縁の篤信徒に太子のお徳を戴けることはまことに佛天の恵み千載一遇の法縁であります
ここに略縁を誌し記念とする次第であります
               昭和五十一年二月二十二日
                              星岳亮善 識


<木遣(きやり)塚>

 太子堂に隣接して、石塔の「木遣塚」と解説プレートが建っている。

               
木遣恁嚼ンの碑        昭和五十年四月吉日
木遣とは、建築用材に用いる大木を運ぶ時、大勢の力を合わせて引く歌を云い、木曳歌と同義語である。木曳の際の号令の役目をした掛声が木遣歌となった。我々の祖先はその音頭に合わせ真棒と曳綱に命をかけて建設への基礎造りを続けて来たが現今では、木遣りと云えば木遣音頭を以て代表され諸々の行事に広く歌われるようになった この度川越鳶職組合は、近隣鳶組合と計りここ喜多院太子堂の聖地に木遣怩建設しその由来を記し祖先の偉業を讃えると同時に鳶の伝統の保持と新時代に即応した業界の発展を祈念しょうとするものである。恁嚼ンに当り多数の御賛助を得たので御芳名を刻み永く伝えたい。(以下略)


<多宝塔>

 次に目につくのが、その先の茶店の先、水屋の後ろにあり、総高13m、方3間の「多宝塔」である。素人目にもなかなかの建築物と思われる。

               
県指定・建造物 多宝塔
 「星野山御建立記」によると、寛永十五年九月に着手して翌十六年(1639)に完成、番匠は平之内大隅守、大工棟梁は喜兵衛長左衛門だったことがわかる。この多宝塔はもと白山神社と日枝神社の間にあった。明治四十五年道路建設のため移築(慈恵堂脇)されたが、昭和四十七年より復元のため解体が行われて昭和五十年現在地に完成した。多宝塔は本瓦葺の三間多宝塔で下層は方形、上層は円形でその上に宝形造の屋根を置き、屋根の上に相輪をのせている。下層は廻縁を回らし、軒組物は出組を用いて四方に屋根を葺き、その上に漆喰塗の亀腹がある。この亀腹によって上層と下層の外観が無理なく結合されている。円形の上層に宝形造の屋根をのせているので組物は四手先を用いた複雑な架構となっているが、これも美事に調和している。相輪は塔の頂上の飾りで九輪の上には四葉、六葉、八葉、火焔付宝珠がのっている。この多宝塔は慶長年間の木割本「匠明」の著者が建てた貴重なる遺構で名塔に属している。
               昭和五四年三月
                              埼玉県教育委員会
                              川越市教育委員会


<慈恵堂(本堂)>

 慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)を祀る堂宇で、「大師堂」として親しまれ、「潮音殿」とも呼ばれる。裄行9間、梁間6間、入母屋造りで銅版葺。現在、喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王を祀り、毎日不動護摩供を厳修している。
 川越大火の翌年、寛永16年(1639)10月にいち早く再建され、近世初期の天台宗本堂の遺構として貴重なものとなっている。昭和46年度から4年間に亘って解体修理が行われた。

<大黒堂>

 慈恵堂に向かって右手、多宝塔の前に赤地に白抜きの「大黒天」の幟の立ち並ぶ奥に「大黒堂」があり、中にその小江戸川越七福神めぐり第三番の「大黒天」が祀られている。
なお、第一番目の毘沙門天(妙善寺)と、第二番の寿老人(天然寺)については、前回(2009.09.16-水)参拝済みであり、きょうは3〜7番を巡ることになる。

<客殿・書院>

 五百羅漢とセットで拝観料が必要だが、慈恵堂の右隣には文化財指定の「家光公生誕の間(客殿)」、「春日局化粧の間」(書院)がある。もとより家光は川越生まれではないが、喜多院が寛永15年(1638)の災禍の後、三代将軍が直ちに再建を命じ、天海の懇請に応えて江戸城の間の一部を移築したというのが実態である。謂わば、天海の政治力が後世の寺勢や観光収入源になっている訳である。
 江戸城から移築された建物なので、所縁の建造物や品々を拝観出来、当時の歴史を感じることが出来る。徳川家光誕生の間の「厠(現在で言うトイレ)」は、広い部屋の中央に便器がポツンとあり、慣れない者には使い辛そうである。部屋数も多いが、一番広い部屋は17畳半もあり、流石と思われる。

<松平大和守家廟所>

また、慈恵堂の奥(西側)の人気の少ない方に「松平大和守家廟所」がある。所々崩壊も見られ、見ようによっては臣下となった松平家の寂しさのようなものが感じられる。
 大きな堀が裏手にひっそり残っているが、曾ては寺院の周囲に巡らし、家康公の御霊を護る砦の役割を兼ねていたものと思われる。

               
松平大和守家廟所
 松平大和守家は徳川家康の次男結城秀康の五男直基を藩祖とする御家問、越前家の家柄である。川越城主としての在城は明和四年(1767)から慶応二年(1866)まで七代百年にわたり十七万石を領したが、このうち川越で亡くなった五人の殿様の廟所である。北側に四基あるのは右から松平朝矩(霊鷺院)、直恒(俊徳院)、直温(馨徳院)、斉典(興国院)の順で、南側に一基あるのが直候(建中院)となっている。いずれも巨大な五輪塔で、それぞれの頌徳碑が建ち、定紋入りの石扉をもった石門と石垣が巡らされている。
               平成五年三月
                              川越市教育委員会


<慈眼堂>

 慈恵堂に向かって左手にある「慈眼堂」は、慈眼大師天海を祀る御堂で、規模的には、裄行3間、梁間3間の比較的小さな御堂で、屋根は中央から四方の隅へ流れる宝行造り、本瓦葺の建物である。
 天海僧正は、寛永20年(1643)10月2日寛永寺において入寂したが、正保2年(1645)に3代将軍家光の命によってこの御堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置された。
 小高い丘の上にあり、この丘は7世紀初頭の古墳を利用しているという。

<苦ぬき地蔵尊>

 本堂の左手には、北面して「とげ抜き」ならぬ「苦ぬき地蔵尊」という石地蔵がある。色とりどりの幟で囲まれ、赤い縁取りの涎掛けを付けている。丸彫り、有輪、珠杖を持ち、立高1.2m程で「苦抜き地蔵」と陰刻している。
 苦抜きと言うのは、抜苦与楽を意味する仏語だそうで、基壇の東面には、「仏日増輝世界平和報恩仏徳八十余年」、西面には「昭和三十二年十月二十四日願主本間中治奉造」、南面には「星岳堂舎完成伽藍安穏防災着工云々」と山主筆になる文が陰刻されている。
 堂舎完成落慶を期に、本間某氏が八十余歳の長寿を保ち得た報恩を兼ねて奉納したものである。

<どろぼうばし>

 南側の仙波東照宮との間に「どろぼうばし」と呼ばれる橋がある。

               
どろぼうばしの由来
                             所在地 川越市小仙波町一丁目
 昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。
 ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行では捕えることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、その盗賊は寺男たちに捕らえられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐ろしさを知った。盗賊は厄除元三大師に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立直ることができた。そこで寺では幕府の寺社奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。
 この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来この橋を「どろぼうばし」と呼ぶようになったということである。
               昭和五八年三月
                             埼玉県


<鐘楼門>

 慈眼堂の真東にあり、仙波東照宮から来ると、真っ先に此の門が目につき、知らない人にはこちらが山門かと間違えるほど立派な門である。

               
鐘楼門 附銅鐘  (国指定重要文化財・建造物)
 江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当時鐘楼門は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。また、上層にある胴鐘を撞いて時を報せ、僧達の日日の勤行を導いたと考えられます。
 鐘楼門は、裄行三間、梁間二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は堅板張の目板打です。上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗と平三斗を組みます。中備はありません。正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫物をかざり、背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾ります。 上層には、元禄十五年(1702)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。寛永十五年(1638)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠どから判断して銅鐘銘にある元禄十五年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。
    昭和二十一年十一月二十九日指定          川越市教育委員会

 この鐘楼門横の売店で串団子を買い、持参のパンと合わせてお昼代わりの軽食とした。ここでたっぷり1時間を費やしたので、これからの立ち寄り予定先が適当時間内に全て回りきれるか少し気になってくる。

<喜多院の七不思議伝説>

 「川越城の七不思議伝説(後述)」というのがあるが、それとは別に、「喜多院の七不思議伝説」というものがあり、名刹に秘められた知られざる怪異として楽しめる。

 日々、参拝客・観光客で賑わう喜多院の境内は、ミステリームードとは些かアンマッチな感じもするが、実はここは奇談の宝庫とも言える程のミステリアス・ゾーンで、その名残りは、今も喜多院の七不思議として伝えられているという。別の「喜多院の七不思議伝説」もあり、いずれがどうかの真偽の程は不明で、伝えにより内容に相違もあるが、ポピュラーなものを選ぶとなると次のようになる。

(1) 山内禁鈴
 鎌倉時代、喜多院に大変蛇好きの僧がおり、近くの池の畔で見つけた小さな蛇を寺に持ち帰って育て始めた。次第に蛇は大きく生長し、件の僧も持て余す程になる。そこで僧は「私が鈴をならすまでは決して姿を現わしてはならぬ」と申しつけ、蛇を五重の塔(一説には多宝塔)下に封じこめた。やがてその僧が死に、事情を知らない僧がうっかり鈴を鳴らした処、大蛇が現われて猛り狂った。以来、喜多院では鈴を鳴らすのを固く禁じ、縁起ものの鈴を売るようになっても振子を付けないようにした。

(2) 潮音殿
 喜多院の本堂は、鎌倉時代に慈恵大師(元三大師)を勧請したため「大師堂」と呼ばれているが、別名「潮音殿」とも呼ばれ、ここに入って耳をすますと潮の音を聞くことができるという。

(3) 五百羅漢
 山門の右側にある石の羅漢像は全部で538体もあり、それぞれの表情の豊かさに定評があって、一つとして同じ顔をしたものがない。このため、深夜一人で行って一体一体の顔をなでて行くと、必ず一体だけ温もりのあるものがあり、それに印をしておいて朝方来てみると、その顔は亡き親の顔、あるいは自分の顔にそっくりだという。残念ながら、現在は昼間しか拝観できないので試せないが、じっくり見ていくと、確かに親の顔や自分の顔に似たお顔にお目にかかれるという。

(4)底無しの穴
 享保19年(1734)9月、川越藩の普請奉行が本堂修理のため調査していたら、床下に4〜5尺の穴が見つかり、そこから4本の横穴が東・西・北・北西にのびていた。寺の話では、その昔、尊海僧正が竜を封じこめた穴だろうというので、それ以上調査されなかったが、先に述べた潮の音というのは、あるいはこの穴と何か関係があるのかもしれない・・・

(5)三位稲荷
 喜多院では、箒を寝かせて置いたり、柄を上にして置かない。また、擂り鉢と擂り粉木を使った後、一緒には絶対に置かない。もしそれを破ると寺に凶事が起こるからと言われ、これは第二十七代住職の天海僧正を慕って童子に化けた三匹の狐が使った道具を供養する意味があるとされている。その狐を祀った「三位稲荷」が、境内西手の築山の上にある。

(6)鐘楼門の鷹
 山門を入った左側に慈眼堂の山門だといわれる鐘楼型の門がある。この門には、前面に竜、背面に鷹の彫刻が二体ずつはめ込んであるが、名工・左陣甚五郎の作と伝えられ、あまりの出来映えに、境内の鳩は恐れをなしてか、この門にだけは寄りつかないという。

(7)お化け杉
 閻魔堂の傍らにあった杉で、これを切ると血が流れ出たので、この名が付けられたという。またここには、人が死ぬと新しい足跡がつくという「亡者杉」なる奇木があったが、現在はお化け杉ともども失われてしまったという。

川越日枝神社(11:19)・・・川越市小仙波町1−4−1

 喜多院の山門を出ると、左前方の道路の向かい側に「日枝神社」があり、鳥居手前に「赤坂日枝神社の本社です」の看板がある。観光客はあまり見向きしないのか、静かな落ち着いた空間である。元々は喜多院の鎮守社としてその境内にあったが、明治初期の神仏分離令により現在では喜多院門前の道を隔てた東側に社殿を有している。この道は大正時代に古墳を開削して造られたもので、古墳の上には曾て多宝塔(現在は喜多院境内に移築)があった。

 日枝神社と言えば東京赤坂のそれが本家本元かと思いがちだが、太田道灌が江戸城築城の際、ここ川越の日枝神社から城内の鎮守社として分祀(その後現在地に遷座)されたもので、次の赤坂日枝神社のホームページにもその旨記されている。
http://www.hiejinja.net/jinja/hie/yuisho/index.html

 この川越日枝神社も、更にルーツを辿ると、元々は近江国(滋賀県)の日枝山(現・比叡山)坂本に鎮座した神様で、比叡山に延暦寺創建以来、天台宗の守護神として崇められていたようだ。喜多院が天台宗寺院なので、その境内にこの日枝神社が分祀されたと思われる。
 このように、当地に日枝神社があるのは、天長7年(830)に慈覚大師が星野山開山の折、比叡山坂本の日枝山王社を守護神として勧請したもので、赤坂日枝神社の本家のようで厳密にはやはり分家なのである。

 社殿左脇のこんもりした丘の上に碑があり、道路側から見ると

   
仙 波 日 枝 神 社 古 墳
    六世紀中期前方後円墳頂之証
   平成十年五月日枝神社崇敬会之建


と横長の板に墨書したものが建てられ、境内側から見た反対側の面には、その縁起が次のように墨書されている。

               
仙波日枝神社古墳縁起
 わが国に歴史のはじめ訪れし六世紀大和朝の御代、ここ彩の国も古墳文化全盛を迎へ川越郷仙波の古墳群の内仙波日枝の古墳は典型の前方後円形にて当地の東国首長の邦在りし証左として仙波有史文化黎明の象徴と申すべく郷土の誇るべき至宝と云うべし
 また更に後世九世紀は天長の代慈覚大師星野山開山に当り此の閃址を尊び給ひ神佛祀られしは亦むべなりと云われる可く川越の近古代文化の源この丘より萌芽すと云へども遍言に非ざる可し
 仙波鎮守日枝山王の御社は此の聖地に建ちて千歳□福の歴史の経緯踏まへつつ多衆の崇敬を集め今日に至れり
 然るに近代激動の世に至り心なき都市化文明の余波及び長年の風水の害重なりて貴重なる立麓部及周辺の御神杉を喪ひしは痛恨の極みなれど首記の証後世に伝ふべく境内に証柱建て神木の社碑遺し奉納仕つるもの也
               平成十年六月申
                              仙波日枝神社崇敬会


 この辺りは仙波古墳群と言われるぐらい多くの古墳が点在していたようで、「慈眼堂」の建つ場所も元古墳であり、古社の下には古墳が眠っていることが多い例の一つと言えよう。この古墳の西側は道路で、交通量はさほど多くないが、昔は大宮へ通じる道で、道路の拡張のため、古墳は削り取られている。

 御祭神の大山咋命(おおやまくいのみこと)を祀る日枝神社本殿は、朱塗りの三間社流れ造り、銅板葺で、規模は小さく質素。建築時期は寛永15年(1636)の火災後の再建か、それ以前の建築か不明らしいが、建築の一部に古式造りが認められ、室町時代末期頃(17世紀前半〜16世紀後半)とも推定され、国指定重要文化財になっている。因みに正面にある蟇股は後に追加されたものと見られている。

 鳥居の右側に「国宝 日枝神社」と彫られた石柱が建っているが、現在の区分では「国宝」ではなく「国指定重要文化財」である。本殿の国宝指定は昭和21年1月29日で、この時点では昭和25年施行の「文化財保護法」でなく、その前の「国宝保存法」に基づいており、同法では現在の「国宝」と「国指定重要文化財」の区別がなく、全て「国宝」と称されていた。

 拝殿は、旧拝殿の老朽化に伴い平成16年に新拝殿へと再築されており、桁行3間、梁行2間の規模で、屋根は入母屋造、柿葺型銅板葺である。

■成田山川越別院(11:29)・・・川越市久保町9−2
     
[小江戸川越七福神の第四番恵比寿天]・[願いごとめぐりコース4ヵ所目]

 交通安全祈願の寺院として知られる大本山成田山川越別院は、喜多院の北側にある。地元では「川越のお不動さま」とか「久保町のお不動さま」として親しまれている。毎月28日の蚤の市や11月の火渡り祭が有名である。また、境内の「出世稲荷」は大本山成田山新勝寺のダキニ天を招請し祀っている。

              
 成田山川越別院
 成田山川越別院は、成田山川越別院本行院と称し、いつの頃からか「久保町のお不動様」とも呼ばれるようになった。
 本尊は不動明王で、内外の諸難や汚れを焼き払い、人々を守るといわれ、願をかける時などに奉納する絵馬のため、境内には絵馬堂も建立されている。
 当寺は、江戸時代も末の嘉永(かえい)六年(1853年)、ペリーが黒船を率いて浦賀に来航した年に、下総の国新宿(にいじゅく)(現葛飾区)の石川照温が、廃寺となっていた本行院を成田山新勝寺別院として再興したのが始まりといわれている。石川照温については、次のような話が伝えられている。
 農家に生まれた石川照温は、三十歳の頃に目が見えなくなってしまった。光明を失くした照温は、ある日のこと自ら命を絶とうとしたが、その時不思議なことに光を失った眼前に不動明王が見えたので、にわかに仏道に目覚めそれまでの生活を改めるとともに、有名な成田山新勝寺のお不動様を熱心に信仰するようになった。
 そのかいあってか、失明した目もいつか昔のように見えるようになったので、いよいよ仏道に励み、当地に寺を建立し、多勢の信者から慕われるようになったとのことである。
 なお、照温の碑が、近くの中院墓地に建てられている。


 正式名を「成田山川越別院本行院」と言い、江戸時代末期の天保13年(1842)、石川照温によって開創された真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王、関東三十六不動尊第27番目札所である。そして、成田山といえば交通安全、交通安全といえば成田山と言われる程、交通安全にご利益があるとして広く知られている。

 石川照温(俗名=留五郎、仮名=一心)は、文化2年(1805)下総国葛飾郡で農家の三男として生まれ、幼少より他国に出て種々苦難の中で両眼を失明して前途の希望を失ない、三度も自殺を試みたのに果たせず、神仏未だ我を見捨て給わずと気づき、成田山新勝寺で断食の行に入ったという。
 その修行で、不思議なことに両眼共に僅かずつ視力を回復し、満願の頃にはほぼ元通りに平愈することができ、不動明王の偉大な加持力と大慈悲に感銘・感激し、生涯を不動明王のために捧げることを誓った。時に39歳のことで、天保13年(1842)、成田山の貫首・照阿上人を慕って出家得度するに至った。
 その後、照阿上人の許しを得、一念発起のもと不動明王の御霊コを鼓吹するべく諸国巡歴の旅に出たが、ここ川越の地に不動明王を安置して石川照温を住せしめんと、十数人の地元有力世話人達が廃寺になっていた川越久保町の本行院を再興すべく川越城主松平大和守に願い出、その許可の下、嘉永6年(1853)本行院復興と共に成田山貫首照輪上人が御本尊不動明王の御分霊を開眼し照温に授与して、これが成田山川越別院本行院の起源になったという。

 「成田山川越別院本行院」と公称するのは明治10年からで、従来の本行院の建物等一切を本山の管理に移し、本行院は本山の最初の別院となった。これが、全国における成田山別院の魁となり、初代住職には照輪上人、歴代の本山貫首を兼務住職として迎えている。
なお、「成田山新勝寺」の別院は、ここ「川越別院本行院」のほか、「東京別院深川不動堂」、「札幌別院新栄寺」、「横浜別院延命院」、「函館別院函館寺」、「大阪別院明王院」、「名古屋別院大聖寺」、「福井別院九頭龍寺」の8ヵ寺がある。

・ 成田山川越別院は喜多院の北隣に位置しているが、境内の配置について順に触れていくと、まず「山門」だが、美事な彫刻がなされている。
・ 山門右手には、高さ4m、重さ約20tの「みまもり不動」が、その名の通り我々を見守るように見下ろしており、近寄ると迫力がある。
・ 山門を入った右手に、手前から順に「大師堂」「開山堂」「出世稲荷」「福寿殿」と並び、左手には休憩所(甘酒茶屋)、そして正面に本堂がある。本堂左脇に「祈祷殿」と「受付」がある。
・ 「大師堂」には「真言宗開祖弘法大師(空海)」を中央に、左右には、「興教大師(覚鑁。平安後期の真言宗の高僧、真言宗中興の祖、新義真言宗始祖)」、「理源大師(平安前期の真言宗の僧、光仁天皇の子孫」)の三大師が祀られている。
・ 「開山堂」には、成田山川越別院の開祖、石川照温師を祀っている。
・ 「出世稲荷」は、大本山成田山新勝寺のダキニ天を招請して祀っており、家内安全・開運成就をはじめ、合格成就にご利益があるとして尊崇を集めている。
・ また、「福寿殿」や七福神めぐり第四番目の「恵比寿天」を祀っている。商売繁昌、家内安全をはじめ開運成就にご利益があるという。
・ 「祈祷殿」では交通安全の祈祷を行っている。
・ 「本堂」には御本尊の不動明王が中央に鎮座し、左右に四大明王が安置されている。その前右手には「おびんづる様」が安置され、参拝する人々に親しまれている。
・ あまり知られていないようだが、本堂の右脇には「亀の池」があり、また違った景観が楽しめる。池には200匹以上いると言われる亀や鯉が泳いでおり、「縁結七福弁財天」や「水掛不動尊」が鎮座している。

西山歴史博物館(川越歴史博物館)・・・川越市久保町11−8

 成田山別院の前にある。川越城築城530周年を機に開館したもので、川越の古代から現代までの歴史を、ここでしか見ることができない実物を展示して、判りやすく展示している。
 武士の刀や甲冑、忍者の手裏剣や胴衣、江戸時代の綺麗な簪などが展示されている。
AM10:00〜PM5:00開館・休館日なしで、入館料が大人(高校生以上)\500必要。

   1F受付・展示室(川越藩の捕り物具・灯火具・陶磁器・他)
   2F展示室(考古学資料・古鏡・川越城ゆかりの品・他)
   3F展示室(武器・武具・甲冑・他)
   4F事務所・収蔵庫

 特に注目を惹くのが、展示されている武具が全て本物であることで、後藤又兵衛の兜を筆頭に、著名な武将たちの甲冑を数多く展示しており、他では見ることができない珍品もある。主要展示品は次の通り。

* 大坂の陣で真田幸村らと共に戦った豪傑後藤又兵衛基次所用の「廻り鉢六十二間星兜」
* 戦国最強と恐れられた武田の騎馬軍団が所用の「啄木威朱漆塗二枚胴具足」
* 賤ヶ岳七本槍の一人、加藤嘉明所用の「叩塗菱綴桶側二枚胴具足」
* 朝倉義景所用の兜と伝えられている朝倉家伝来の「黒漆塗二枚折紙頭立兜」
* 九州黒田家に伝わる黒田職高所用の甲冑「紅糸威中浅菊腹巻」
* 戦国時代の馬鎧。読んで字のごとく馬につける鎧で、革を乾燥し漆塗り仕上げで、軽くて丈夫。相手を驚かす意味で面をつけた。

浮島稲荷神社(11:45)・・・川越市久保町17
 [願いごとめぐりコース5ヵ所目]

 「喜多院入口」信号を北に入ると右手の浮島公園の奥に「浮島神社」がある。鳥居を潜り、両脇にある灯籠を抜けると本殿が正面にあり、途中左手には池があり、敷地内はちょっとした小公園になっている。本殿は大きくなく、境内は比較的広めであるが訪れる人もなく、うら寂しい佇まいである。
 
 この「浮島神社」は、「子授かり・安産」の神様として親しまれているそうで、「川越城の七不思議(後述)」伝説の「片葉の葦」の舞台になっている。浮島公園は春には桜、6月になれば紫陽花が映え、憩いの場所になっている。

               
浮島稲荷神社
                              所在地 川越市久保町
 地元の人々から「うきしま様」と呼ばれ、広く親しまれているこの神社が、いつ頃建てられたのかは定かでない。かつては末広稲荷とも呼ばれ、安産の神として麻を奉納する風習が伝えられている。
 言い伝えによれば、大昔、星野山(今の喜多院)にあったのを慈覚大師が喜多院を開いたときここに移したとか、また一説には、大田道灌の父大田道真が川越城を築城した際に、城の守護神としてこの地に祀ったものとも伝えられている。現在ある社殿は、大正四年(1915)に改築したものである。
 今では、この一帯もすっかり様子が変わってしまったが、以前は「七つ釜」といって、清水の湧き出る穴が七つもあり、一面葦の生い茂った沼沢地であった。そのため遠くから神社を眺めると、ちょうど島のように浮かんで見えたところから、浮島神社と呼ばれるようになったという。
 また、伊勢物語を初めとして、昔からしばしば和歌に歌われた「三芳野の里」や「たのむの沢」は、このあたりを指すのだともいわれている。
               昭和五十七年三月
                              川越市


富士見櫓跡(11:56)・・・川越市郭町2丁目15

 浮島神社の北方に位置する高台に登ってみると「御嶽神社」と「浅間神社」が祀られており、、曾ては川越城の「富士見櫓」が建っていた。川越城本丸御殿裏手にあたる。川越城は現在の郭町1〜2丁目全域に跨る広大な城だったという。下の原っぱには「川越城富士見櫓跡」の大きな石柱が建てられ、横でトンボ取りの子供達が楽しそうに遊んでいた。

               
川越城跡
 川越城は、長禄元年(457)に太田道真、道灌父子によって築城され、上杉氏六代、北条氏四代の持城であったが、当時は後の本丸、二の丸を合わせた程度のものであった。
 江戸時代になって、松平信綱が城地を拡大し、八郭・三櫓、十二門をもつ徳川家の親藩、譜代の大名の居城として有名であった。
 しかし、明治維新後、堀は埋められ、土塁は壊されて、現在ではこの富士見櫓と、本丸御殿の一部が残るのみとなった。
 富士見櫓は築城当初に、本丸西南の隅櫓として建てられた三重の櫓で、城内第一の高所として天守閣の代わりをつとめた。
               平成五年三月
                              川越市教育委員会


 櫓は矢倉とも書き、合戦時の物見や防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられていた。現在は櫓もなく高台になっているだけだが、天守閣の無かった往時の川越城には、城の中央には「太鼓櫓」、東北の隅に「虎櫓」、本城の北に「菱櫓」、南西の隅に「富士見櫓」の四つの櫓があったという。そのそれぞれの機能は次の通りである。

*富士見櫓・・・高台にあり天守閣代わりで、敵からの攻撃や侵入を見張っていた。今では木々や建物に囲まれて、眺望も失われているが、往時はこの高台からその名の通り遠く富士山まで臨めたと思われる。
*虎櫓・・・・・城の出入口を固めて警護した。
*菱櫓・・・・・食料を保管していた。
*太鼓櫓・・・・太鼓が置かれ、時刻と非常時にはそれを打って城下一円に知らせた。

 元来、城の構造や建造物は戦略上の明らかにされない部分が多く、正確な規模は不明だが、江戸末期の慶応2年(1866)の川越城測量時の記録によると、富士見櫓は長さ8間3尺(約15m)、横8間(約14m)あった。「櫓」を偲ぶものは何もないが、きちんと空間が保存されているのは嬉しい。
 この富士見櫓は高台になっていて、頂上まで階段で登ることができ、富士見櫓の前はちょっとした広場になっている。また、富士見櫓跡と同じ場所に「川越城田曲輪門跡」の石碑がある。

 後ほど訪れたかった「川越城本丸御殿」の中に、「川越城富士見櫓模型」が展示されていたそうだが、大規模改修閉館中のため、残念ながら見ることは出来ない。

川越城本丸御殿(12:09)<休館中>・・・川越市郭町2−13−1

 川越城は、今では城と呼べるものは何も残っていないに等しいが、三芳野神社の左手に「川越城本丸御殿」というのがある。残念ながら、平成20年10月21日から保存修理のため、平成23年3月(予定)まで休館中であり、表にカラーパネル張りの簡単な解説文が付せられている。

 川越城は、扇谷上杉持朝が古河公方の足利成氏への対抗のために長禄元年(1467)に家臣の太田道真・道灌父子に命じ築城させたもので、当初の規模は、後の本丸・二の丸を合わせた程度と推定されている。やがて北条氏が支配し、武蔵国の支配を決定的にした「川越夜戦」後に城代として譜代の重臣大道寺正繁を配置した。

 天正18年(1590)、秀吉の関東攻略に際し最前線の上野国松井田城を守備していた大道寺正繁は早々と豊臣軍先鋒の前田利家軍に降伏。自ら先鋒として軍勢を先導したため武蔵国内は総崩れとなり川越城は開城に至った。(武蔵国内で善戦した城は北条氏邦の鉢形城<城兵三千五百で前田利家・上杉景勝・本多忠勝・真田昌幸ら精鋭五万の軍勢を相手に一ヶ月間奮戦>と城主成田氏長不在の忍城<攻勢の石田三成の杜撰もあり小田原開城後も健在であった>ぐらいなもの。大道寺正繁は不忠であるとして小田原開城後に秀吉によって切腹を申しつけられた)

 同年8月の家康江戸入時に、江戸城北方の守りの要として重要視され、譜代の酒井重忠が1万石をもって封じられ、川越藩の基礎が成立した。爾来、川越城主には重臣が配され、歴代城主には酒井忠勝・堀田正盛・松平信綱・柳沢吉保等、老中大老格の重臣が城主となった。
 川越城の基礎を作ったのは、寛永16年(1639)に藩主になった松平信綱と言われ、川越城の拡張・整備を行い、近世城郭の形態を整えた。即ち、本丸、二の丸、三の丸等の各曲輪、三つの櫓、十二の門よりなり、総坪数は堀と土塁を除いて4万6千坪に及ぶ広大なものだった。現在の川越高校、川越小学校、川越第一小学校、三芳野神社、初雁中学校などの全ては、川越城の跡地に建てられたものである。

 川越城本丸御殿は嘉永元年(1848)に藩主松平斉典が再建したもので、本丸御殿全体では16棟、1025坪の広さがあったが、明治維新後徐々に解体され、現在は大唐破風造りの玄関、書院造りの大広間、移築復元された家老詰所が残っているのみである。
 玄関部分が現存する本丸御殿前に「川越城本丸門跡」碑が建っている。

 川越城本丸御殿は、嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典が造営したもので、16棟、1025坪の規模をもっていたが、明治維新後次第に解体され、現存しているのは玄関部分と、移築復元された家老詰所のみであるが、埼玉県指定文化財になっている。

<見どころ(以前に貰ったパンフレットから抜粋・要約した)>

* 家老詰所

 明治6年(1873)上福岡市の福田屋の分家に移築され、昭和62年(1987)まで母屋として使用されていたもので、これを貰い受けて修理・復元した。
 市内光西寺所有の「川越城本丸御殿平面図」によると、この建物は本丸御殿の奥に土塀で囲まれた家老の居所であり、現在地より約90m西側に建てられていたものである。
 建坪は54坪・木造平屋で寄棟造り、桟瓦葺の屋根で外観は質素であり、室内は、正面に床の間・床脇を備えた10畳を奥とし、8畳・8畳の3室を中心に構成されている。1間置きに5寸角の柱、高い天井とそれを支える竿縁の力強さが、武士の館に相応しい。川越城主松平大和守斉典の時代の建物である。

* 大広間(36畳)

 城内での会議を行う際に使用された部屋で、普段は、留守居役のような者が詰めていたようである。

* 家老用部屋

 光西寺に残されている絵図には「御老中」と記されている。床の間と床脇を備えた10畳敷である。川越藩は、幕府の有力大名であったため、藩主は年間を通じて江戸詰めであり、藩の政務は家老中心で行われていたと考えられ、この部屋が、その中心であった。床の間を背にした武士(模型)を中心に協議が進められている。

★歴代川越城主一覧
   〈上杉・北条氏時代の川越城主〉

       上杉持朝(もちとも)
       上杉政真(まさざね)
       上杉定正(さだまさ)
       上杉朝良(ともよし)
       上杉朝興(ともおき)
       上杉朝定(ともさだ)
       北条氏綱(うじつな)
       北条氏康(うじやす)
       北条氏政(うじまさ)
   〈江戸時代の川越城主〉
       酒井重忠(しげただ)
       酒井忠利(ただとし)<老中>
       酒井忠勝(ただかつ)<大老>
       堀田正盛(まさもり)<老中>
       松平信綱(のぶつな)<老中>
       松平輝綱(てるつな)
       松平信輝(のぶてる)
       柳沢吉保(よしやす)<大老格>
       秋元喬知(たかとも)<老中>
       秋元喬房(たかふさ)
       秋元喬求(たかもと)
       秋元凉朝(すみとも)<老中>
       松平朝炬(とものり)
       松平直恒(なおつね)
       松平直温(なおのぶ)
       松平斉典(なりつね)
       松平典則(つねのり)
       松平直候(なおよし)
       松平直克(なおかつ)
       松平康英(やすひで)<老中>
       松平康載(やすとし)

三芳野神社(12:10)・・・川越市郭町2−25−11 
[願いごとめぐりコース6ヵ所目]

 本丸御殿改修中の掲示を見て、直ぐ近くの「三芳野神社」に向かう。参道入口をうっかり通り過ぎてしまったらしく、横から境内に入った後、あらためて後述の「行きはよいよい帰りはこわい」参道から入り直した。
 三芳野神社は、川越城築城以前から当地にあったが、川越城築城に伴って城内の天神曲輪に位置するようになった。このため、一般庶民の参拝が難しくなり、「お城の天神さま」と言われるようになる。
 しかし、一般庶民の信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められた。しかし、一般参詣客に紛れて密偵の城内侵入を避けるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられており、それらの理由から、当社の参道が舞台といわれる童謡「とうりゃんせ」にその様子が歌われると共に、「行きはよいよい、帰りは怖い……」との歌詞になったという。
そして、境内には「わらべ唄発祥の地」碑がある。

   
とおりゃんせ とおりゃんせ
   ここはどこのほそみちじゃ
   てんじんさまのほそみちじゃ
   ちょっととおしてくだしゃんせ
   ごようのないものとおしゃせぬ
   このこのななつのおいわいに
   おふだをおさめにまいります
   いきはよいよいかえりはこわい
   こわいながらもとおりゃんせ とおりゃんせ


 参道入口に次のような解説板が建っている。

               
三芳野神社(市指定 史跡)
 巳芳野神社は、平安時代の初期に成立したと伝えられ、川越城内の天神曲輪に建てられている。この為、「お城の天神さま」として親しまれている。この天神さまにお参りするには、川越城の南大手門より入り、田郭門をとおり、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向う小径を進み、巳芳野神社に直進する道をとおってお参りしていた。
 この細い参道が、童唄「通りゃんせ」の歌詞の発生の地であるといわれ、現在でも静かな環境を保持しており、伝説の豊かな地である。
 なお、参道は、江戸時代より若干変化している。
               平成十一年三月
                              川越市教育委員会


 参道の入口を入ると、幅約3m程の細道があり、途中に公園、途中左手に「天神様の細道、通りゃんせ」の標識がある。そして正面に「拝殿」、右手に「水屋」と「蛭子社」、左手に「大黒社」、「わらべ唄発祥の地碑」、「川越城の七不思議の碑」等があり、拝殿裏に「本殿」がある。

 本殿の脇には、「初雁の杉」と呼ばれる大きな杉(現存する杉は三代目)があり、毎年秋になると北方から雁の群れが飛来し、杉の真上で3度鳴き、杉の回りを3度回って南を指して飛んでいったという伝説が残っている由。この杉に因み、川越城は別名「初雁城」と呼ばれているそうだ。

 本殿手前左手には、次のような一部判読しがたい箇所がある由来書きの石碑や、「川越城の七不思議」の解説板(後述)、歌碑などが並んでいる。

 三芳野神社は平城天皇の大同二年(紀元807)に□ 祭神は当初素戔嗚尊奇稲田姫命を奉齋し中世に菅原道真を明治二年に城内宇佐八幡宮を合祀された
 神体は正平二十四年新田泰氏が巳芳野に出陣の折戦勝祈願に奉献した赤銅の五本骨の開扇を神爾として祀る 室町期を代表する文部省指定重要美術品である
 三芳野の里とは川越一帯の称で初雁の名所としてこの地を訪れたという在原業平の歌が伊勢物語に伝えられている
 長禄元年太田道灌川越城築城と共に城の守護神として社殿を修覆管理 天正十九年徳川家康は社領二十石を寄進 徳川家光も来城 神鏡三面を寄進し城主酒井忠勝に社殿の造替を命じ寛永二年天海僧正を導師として遷宮に奉仕 その後代々の将軍により修覆がなされ 宝物の奉納あり 幕府直営の神社となる 昭和三十年県指定文化財となり今日に至る 爾来郷土の守護学問の神として崇敬が厚い
               昭和六十一年三月       川越初雁ライオンズクラブ結成十周年記念  撰文□□□□

(歌碑) 三芳野神社
  我が方に よると鳴くなる 三芳野の 田面の雁を いつかわすれむ
                              伊勢物語より


 当社は、大同2年(807)の創建と伝えられるが、大宮の氷川神社を勧請したとも、京都の北野神社を勧請したとも言われており定かでない。この三芳野という「社名」は在原業平の『伊勢物語』に出てくる「入間の郡三芳野の里」という地名が川越の旧地名であるところから付けられたという。

 現存する三芳野神社の社殿は、川越城の鎮守として、寛永元年(1624)城主酒井忠勝によって造営されたと言われ、優美な権現造りの社殿は、名前の由来となった「三芳野天神縁起絵巻」と共に市の指定文化財になっている。
 翌寛永2年(1625)には、天海大僧正を導師として遷宮式が行われ、以後、喜多院・仙波東照宮と共に江戸幕府の直営社となっている。

 明暦2年(1656)には、4代将軍家綱の命を受けた川越城主松平信綱により大改造が行われ、この大改造時に江戸城二の丸の東照宮本殿を移築して当本殿とし、寛永に建てられた拝殿との間に幣殿を新しく設け、権現造りの形態としている。
 近くは、平成元年(1989年)に大修理が行われ、平成4年(1992年)に完成し、埼玉県指定文化財になっている。

<川越城の七不思議>

先 述の「喜多院の七不思議伝説」とは別に、川越城の七不思議伝説」があり、ここ三芳野神社境内にその内容が記されている。歴史に秘められた知られざる怪異として楽しめる内容だ。

(1) 霧吹きの井戸
 川越城の東北の隅(現在は農業センター)、その前に、石囲いの井戸がある。これが、昔から語り伝えられる霧吹きの井戸である。普段は蓋をしているが、万一敵襲の一大事の場合は、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ちこめ、すっかり城の周りを包んでしまい、城は霧に隠れて敵から見えなくなったという。このことから、川越城は一名霧隠城とも言われている。

(2) 初雁の杉

 昔、城内にある三芳野神社の裏に大きな杉の老木があったが、枯れてしまい伐採されてつい最近まで神社の脇に置かれていた。
 この辺りは「三芳野の里」と言われ、『伊勢物語』に詠われている次の歌のように、昔から有名な歌枕だった。
     三芳野の田面(たのむ)の雁はひたぶるに 君が方にぞよると鳴くなる
     わが方によるとなくなる三芳野の 田面の雁をいつかわすれむ
 この歌に詠われる雁と、三芳野神社の杉について次のような言い伝えがある。
 いつの頃からか、三芳野の田面(たのむ)の里に、毎年北方から初雁が少しも時を違えず飛んできた。いつも杉の真上まで来るとガアガアと三声鳴きながら杉の回りを三度回り、南を指して飛び去ったという。この故事から、川越城は別名を初雁城と言われている。
 また、太田道灌がこの杉の梢に旗を立てた処から、旗立の杉とも言っている。

(3) 片葉の葦

 浮島稲荷社の裏手一帯は、つい十年ぐらい前までは、水の湧き出る池が何ヵ所もあり、萱や葦の密生する湿地帯だった。自然の湧水を「釜」といったので、そういう所が七つあった処から、一名「七ツ釜」とも言われている。最近では、地下水位の低下や、下水道の完備、埋立ての進行、宅地化の進行等により、曾て七ツ釜といわれた沢地の面影は薄れている。
 この辺一帯の沢地は、田面(たのむ)(多濃武)の沢と言い、昔から『新古今集』などの歌によっても有名な所である。ここに生える葦は、不思議なことに片葉で、次のような話が語り伝えられている。
 多分戦国時代の事だろうが、川越城が敵に攻められ、落城も明日に迫った時のこと、城主の一人の姫がその夜乳母に導かれて城から逃げのび、漸くこの七ツ釜の所まで来たが、足を踏みはずして釜の中へ落ちてしまった。驚いた乳母が懸命に助けようとしたが、どうすることもできなかった。
 周囲を敵にとり囲まれているのも忘れて、大声で救いを求めたが、誰ひとり助けにきてくれる者は現れず、哀れや姫は浮きつ沈みつ、ただもがくばかりだった。漸く川辺の葦にとりすがり、葦にすがって岸へ這い上がろうとしたが、葦の葉がちぎれ、再び水中に戻されてしまった。とうとう力尽きた姫は、葦の葉を掴んだ侭、暗く深い水底へ沈んでいき、哀れな最期を遂げた。
 このため、この沢地には生える葦は、姫の恨みか、どれを見ても片葉であるというものである。

(4) 天神洗足(みたらし)の井水(せいすい)

 太田道真・道灌父子が川越城築城に際し、堀への水源を探して毎日踏査して歩いたが、適当な水源が見つからず、困っていたときのことである。ある朝、道灌が何げなく初雁の杉の辺りを通ると、一人の老人が井水に足を浸して洗っているのに出会い、そこにはこんこんと湧き出る泉があった。道灌は大いに喜び、正しく日頃信仰する天神の御加護と、感謝した。そして、その老人に、当地築城に当たって水源を探している旨を語り、その場所を尋ね水源へ案内して貰った。
 そして、満々と水をたたえた底知れぬ深さの水源地を見て道灌は喜び、謝意を表し、再会を約して別れた。こうして、懸案を解決できた道灌は、川越城を完成させることができたのである。
 かの老人とはその後再会の折もなかったが、曾て井水で足を洗っていた折の老人の姿が、気品に溢れていたので、これぞ三芳野天神の化身であったかと納得し、以来この井水を「天神御洗(みたらし)の井水」と名づけ、大事にして神慮に応えたという。
 以来道灌は、益々敬神の念を深くし、城内で連歌の会を催し、千句を天神に奉詠した。
 なお、この水源地は城内清水御門辺りとも、八幡曲輪とも、三芳野天神社付近とも言い伝えられている。城の堀の水源としてはもちろん、城下周辺の用水としても利用されてきたという。

(5) 人見供養

 太田道真・道灌父子が川越城を築いた頃、城の三方(北・西・東)の水田は泥深く、殊に城の南には「七ツ釜」と言う底なしと言われる深い所が七ヵ所もあったため、築城に必要な土塁が容易に構築出来ず、道真父子の苦心は大変だった。
 ある夜、竜神が道真の夢枕に立ち、「当地に築城するのは、人力の到底及ぶ処ではないが、どうしてもとなれば一つだけ方法がある。その方法とは、汝が人身御供を差し出せば、必ず神力によって速やかに成就する。それには、明朝一番早く汝のもとに参った者を、我に差し出せ」と言ったという。
 道真は意外さに驚き、不審に思つつも、毎朝最も早く訪ねてくるのは愛犬であった。不憫とは思いつつも築城のためやむなしと考え、承知の旨返答したという。
 やがて夜が明け、道真は昨夜の不思議な夢を思い出しつつ、竜神に差し出す約束の愛犬が不憫だったが愛犬の来るのを待ったいた。
 ところが、何故か今朝に限って愛犬が来ず、最愛の娘の世禰(よね)姫が慎ましい姿でやってきた。道真は、失神せんばかりに驚き、姫の朝の挨拶にも応えられず、早くも眼に玉の露を宿す有様であった。
 姫は父の前で両手をつき、昨夜父と全く同じ夢を見たことを告げ、堅い覚悟で城のため、人のために一命を捧げんと、いつもより早く起きて来たと言い、犠牲になることを父に申し出るのだった。
 天下にその名を知られた勇将太田道真も、いかに築城のためとは言え、最愛の娘を竜神に捧げることは、耐え難いことであったが、姫の堅い決心は変らなかった。この上は、父に内密でと姫はある夜、隙をうかがって館を出、城の完成を祈りつつ、七ツ釜のほとりの淵に身を投げて果て、この尊い犠牲があってから後、川越城は間もなく完成したという。

(6) 遊女川(よながわ)の小石供養

 昔、川越城主に大変狩猟好きな殿さまがいて、毎日のように鷹狩りに出かけていた。そのお供をしていた家来の一人に、一人の美男の若侍がいた。
 ある小川の畔を通るたびに、きまって一人の美しい百姓娘に出会った。名前をおよねといった。若侍はいつの頃からか、この娘を恋するようになり、娘もまた、若侍を待ちこがれる身になった。
 こうしていく度もめぐり会いを重ねるうちに、いつしか住まいを問われ、名を問われる程の間柄となり、やがてこの百姓の娘は、十六の春、若侍の家へ嫁入りした。
 二人の仲は至って睦まじかったが、姑は武士の家に百姓娘は似つかわしくないと言い、事ごとにおよねをいびったという。ある年の夏、およねは過ってその家秘蔵の鉢を取り落として壊してしまい、それがまた姑がいびる口実になり、遂にはおよねは追い立てられるようにして、実家へ帰されてしまった。
 その頃およねは、若侍の子供を宿していたが、自分では気づいていなかった。実家へ帰ってから、それに気づいたおよねは、せめてこのことを夫に知らせれば、再び呼び戻して貰えるのではないか、曾て夫が殿さまの狩猟のお供をしてきて、自分とめぐり会った小川の畔で待っていれば、いつかは再会でき、子供のことを告げられるだろうと思い、毎日そこへ出かけて行ったが、遂にめぐり会えず、殿さまがその頃、病気で狩猟に出られなかったことも知った。
 暫く後、およねは殿さまの他界を知り、もう夫には逢えないと絶望して、夫と出会った思い出の小川の淵へ身を投じてしまった。
 名もないこの小川は、この哀れな娘の身投げにより、やがて「よな川」と呼ばれるようになった。川の名は「およね」からきているとも、よなよなと泣く声が聞えるからとも言われている。現在は「遊女川」と書いて「よな川」と読んでいる。
 いまでも若い人たちは、この小川のほとりを通るときは、「およねさあーん」と呼んで、小石を拾って投げ込む。小石が底へ届いたと思われる頃、底の方からあわが浮いて出てくるのを、およねさんの返事だといって彼女の霊を慰めている。また、浮いてくる泡は、およねが嫁入りしたときの、定紋の形になって現われるとも言われている。

(7) 城中蹄(ひずめ)の音

 江戸時代初期の川越城主酒井重忠侯は、不思議なことに夜毎矢叫びや蹄の音に眠りを妨げられていた。天下に豪勇をうたわれた重忠侯だったが、あまりに毎夜続くので、ある日易者に占ってもらった処、城内のどこかにある戦争の図が災いして、安眠を妨げているという卦がでた。
 早速土蔵を調べさせた処、果して、堀川夜討の戦乱の場面を描いた一双の屏風画が出てきた。
 さすがの侯も、意外さに驚き、考えた末、日ごろ信仰し帰依している養寿院へ半双を引き離して寄進してしまった。すると、その夜からさしもの矢叫びや蹄の音も聞えず、安眠することができたという。現在でも養寿院では、この時の屏風画を秘蔵している。筆者は住吉具慶筆と伝わる。

(注) 養寿院・・・川越市元町2−11−1
 後刻訪れた「見立寺」の隣にある曹洞宗の寺院で、ここには、その屏風絵のほか、国指定重要文化財の「銅鐘」や、「河越太郎(大河ドラマ義経で、義経の正妻として登場する萌姫の父)の墓」がある。
               
養寿院
                              川越市元町二丁目
 養寿院は、寛元二年(1244)河越太郎重頼の曾孫にあたる経重が開基となり、大阿闍梨円慶法師が開いた寺である。初めは天台宗であったが、天文四年(1535)曹洞宗に改め、江戸時代いは御朱印十石を賜るなど、曹洞宗の古刹といわれている。
 本堂には、河越氏が新日吉山王社におさめた銅鐘(重要文化財工芸品)が保存されている。この銅鐘の鋳物師は鎌倉の大仏を作った丹治久友の作である。また、銅鐘の「池の間」に刻まれた"河越"の文字は、川越の歴史上まことに価値の高いものである。
 墓地内には、河越太郎の墓と川越城主秋元但馬守に仕えた名家老岩田彦助の墓(市指定文化財)があるが、岩田彦助は才智に富んだ人物で殖産、開発に努めたことで知られている。
               昭和五十七年三月
                              川 越 市


 また、「願いごとめぐりコース」としては「学問の神様」として崇められている。

川越市立博物館・・・川越市郭町2−30−1

 更に北側には、市立博物館があり、城下町川越の歴史に関する諸々の展示を行っている。
「川越のあけぼの(原始・古代)」、「武士の活躍と川越(中世)」、「小江戸川越(近世)」、「近代都市川越の発展(近・現代)」、「川越の職人とまつり(民俗)」の5コーナーに分けて展示しており、時刻を定めて展示解説も行っている。
 近・現代展示室は蔵造りの町並みパノラマが模型でリアルに再現されており見応えがある。体験学習室ではお手玉、メンコ、こま、ケン玉、おはじき、輪投げ、べーゴマ、だるまおとしといった昔ながらの遊び道具が置かれ、親子でも楽しめる。

 入館料は一般 200円(川越城本丸御殿・川越市蔵造り資料館との共通入館料は一般300円、隣の川越市立美術館との共通入館券もある)

川越市立美術館・・・川越市郭町2−30−1

 川越市立博物館の西隣にある。川越城趾の二の丸跡に位置し、商家の要素を加えた外観で周囲の建物との調和を図っている。
 郷土ゆかりの作家・作品などを中心に収集した日本画、洋画、版画を展示する常設展示室や、川越市名誉市民である洋画家・故相原求一朗の作品を展示している。このほか、企画展示室では年4回程度の特別展を開催している。入館料は一般 200円(川越市立博物館との共通入館券あり)

氷川神社(12:43)・・・・・・川越市宮下町2−11 
[願いごとめぐりコース7ヵ所目]

 博物館・美術館前を西に進み、突き当たりを右折して北に向かうと、その突き当たりに、氷川神社がある。日柄が良いのか境内には結婚式の受付が設けられ、新郎新婦や親戚一同が境内を行進する行列も見られた。昔から縁結びの神としてのみならず、家庭円満の神としても尊崇されている。なお、川越祭りは氷川神社の神幸祭が起源とされている。
 本殿前右手には「おがたまの木」が植えられている

               
県指定・建造物 氷川神社
 川越の総鎮守である氷川神社の歴史は古く、その創建は欽明天皇の即位二年(540)九月十五日武蔵国足立郡氷川神社を分祀奉斎したと伝える。祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命・脚摩乳命・手摩乳命の五柱という。
 長禄元年(注:1457)太田道真・道灌が川越城を築城するにおよび、道灌は当社を篤く崇敬し
     老いらくの身をつみてこそ武蔵野の
               草にいつまで残る白雪
との歌を献納している。江戸時代においても、川越城主代々の崇敬厚く、毎年元旦には奉幣の儀が行われ、社家は登城城主目通りの上年賀を言上している。
 本殿は、川越城主松平斉典を筆頭として、同社氏子の寄進によって天保十三年(1842)に起工され五ヶ年の歳月を要して建立されたものである。
 間口十三尺五寸(4.08m)・奥行八尺二寸(2.48m)の三間社・入母屋造で前面に千鳥破風及び軒唐破風の向拝を付した銅瓦ぶきの小建築であるが、彫刻がすばらしく、当代の名工嶋村源蔵と飯田岩次郎が技を競っている。構造材の見え掛りは五〇種におよぶ地彫が施され、その間江戸彫と称す精巧な彫刻を充填し、十ヶ町の山車から取材した彫刻や、浮世絵の影響をうけた波は豪壮華麗である。
               昭和五四年三月
                              埼玉県教育委員会
                              川越市教育委員会


<太田道灌手植えの矢竹>

 境内(本殿右手前)に、道灌が植樹したという矢竹があるが、特に古いものには見えない。

               
太田道灌手植えの矢竹と献詠和歌
     老いらくの身をつみてこそ武蔵野の
               草にいつまで残る白雪
 長禄元年(1457)川越城の築城にあたった太田道真・道灌父子は城の戌亥(神門)の方角に既に鎮座していた当社を城の守護神として厚く崇敬した
特に道灌は当社に詣でて自らこの矢竹を植え冒頭の和歌を献納した


<木製の大鳥居>

 境内右横からの入口に明神型の大鳥居が聳え立っている。
               
氷川神社大鳥居 明神型・杉材
 平成の御代替わりを奉祝し 同二年に建立された高さ十五メートルの大鳥居は、木製のものとしては国内随一の規模を誇る(笠木の幅二十メートル・柱周六メートル)中央の扁額の社号文字は幕末の幕臣勝海舟の直筆によるものである。


<八坂神社>

 境内には摂社・末社と呼ばれる社が沢山祀られており、本殿左脇に「八坂神社」がある。氷川神社本殿と同じ素盞嗚尊を祀っており、氷川本殿共々埼玉県指定文化財となっている。

              
 八坂神社本殿
                      昭和三十一年埼玉県指定文化財
 八坂神社本殿は、寛永十四年(1637)徳川三代将軍家光により、江戸城二の丸の東照宮として建立された。
 後に東照宮の統合により川越藩に下賜、明治五年(1872)には当社境内に移築され、現在に至る。
 江戸城内の宗教的建造物の遺構としては全国唯一のものとして、その歴史的価値は高く評価されている。
 尚、当社殿は平成二十年放映NHK大河ドラマ『篤姫』でも紹介されている。


<柿本人麻呂神社>

 境内西南に「柿本人麻呂神社」がある。

               
柿本人麻呂神社
                              例祭日 四月十八日
   歌道上達神
   学業守護神
   火防神
   安産守護神
 万葉の歌人 柿本人麻呂を祭神とする武蔵国内唯一の社である 人麻呂の子孫である綾部一族が戦国時代川越に移住した際に奉齋した
 神像は吉野朝の歌人である頓阿上人の作と伝え神像をお納めする宮型は明治初期の工芸家柴田是真により製作奉納された 今日では歌道上達 学業成就の神としてのみならず
  人丸=火止マル(火防)
  人丸=人産まる(安産)
の神として遠方からの参詣者も多い

 柿本人麻呂神社の右脇には、山上憶良の歌を刻んだ碑があり、有名な「令反惑情歌」(まどえるこころをかえさしむる歌)が記されている。第19代山田衛居宮司と懇意だった中嶋与十郎氏による碑文である。

 また、その姿が鼻先を神前に向けた戌(いぬ)に似ていることから「戌岩(いぬいわ)」と呼ばれる岩(片耳が垂れた戌の顔)があり、妊婦が撫でると、安産になると言われている。
 境内には多くのご神木もあり、本殿裏手のご神木は樹齢600年を超えるほどで周りを巡れるように石段組みになっており、8の字を描くように廻るとよいと言われている。

 このように、学問・歌道の神様、安産・火防の神様、縁結びの神様として、古くから多くの信仰を集めている。

<護国神社>・・・本殿の右手にある。

               
川越市護国神社
                              例祭日 四月十八日
 西南ノ役以降の川越出身の英霊二千九百七十柱を奉齋する
明治十四年七月十二日当時の川越町長岡田秋業等が内務省の特許を受け招魂社として建立し例祭日を西南ノ役出征の日に因み四月十二日と定めた
 以来 祭祀の主催は旧士族の温知会 在郷軍人 連合分会と引き継がれたが 昭和十五年川越市議会の議決により川越市の公祭となり 同年社名を護国神社と改めた
 昭和十年の社殿改築遷座祭には山本五十六中将(当時)が参列し盛大に齋行された
国と郷土川越とを守るために清らかな命を捧げられた英霊のもとには今日も多くの市民が集い慰霊の誠を捧げ続けている


 本殿の裏には沢山の末社がある。

<稲荷神社>・・・【商売繁盛】

 五穀豊穣・商売繁盛の神様で、京都の伏見稲荷大社を中心に全国で数多くの稲荷神社が祀られている。神様のお使いが狐であることはよく知られているが、祭神は豊受姫命である。

<加太栗嶋神社>・・・【婦人病の治癒、手芸の上達】

 女性の願いを叶える神様で、殊に婦人病の治癒・手芸の上達にご利益があると昔から言われている。元々は和歌山県にある神様で、祭神は少彦名命である。

<日吉神社>・・・【家内安全】

 山の神様であるが、その昔、皇室の守り神になることを誓われた神様とされ、転じて一般庶民の安全も守ってくださる神様になっている。祭神は大山咋神である。

<琴平神社>・・・【水に関わる人の安全を守る】

 航海や舟・水上の安全を守る神様で、元々は香川県琴平町にある金比羅様である。

<御嶽神社>・・・【悩み事の解決】

 家内安全や悩み事の解決をしてくださる神様で、長野にある御嶽山をご神体とする御嶽講がはじまりである。江戸から広まり川越にも伝わると、当社の境内にも祀られるようになった。祭神は大山咋神、国常立命である。

<三峯神社>・・・【魔除け、盗賊除け】

 魔除け・盗賊除けの神様として信仰されてきたが、家内安全の神様でもある。秩父の三峯神社を川越の講が当社の境内に祀ったもので、神様のお使いが大口真神(狼)である。祭神は、伊耶那美命(いざなみのみこと)である。

<子ノ権現社>・・・【足腰の健康】

 足腰を丈夫にして下さる神様で、足腰が悪い時にお参りし、祠にある履物を一組戴き、治ったらお礼に履物を二組奉納する。祭神は大己貴命、天日鷲命である。

<蛇霊神社>・・・不詳

<春日神社>・・・【健康長寿、家内安全】

 奈良にある春日大社の分祀で、健康長寿・家内安全にご利益があると言い伝えられている。祭神として、武甕槌神、天児屋命、斎主神、比売神を祀っている。

<松尾神社>・・・【商売繁盛(醸造業)】

 家業繁栄、特に醤油・酒などの醸造業とそれに関連する仕事の守り神様とされている。川越では曾ては醤油や酒の醸造業も盛んで、醸造業の守り神様として信仰されてきた。

<菅原神社>・・・【学業成就】

 菅原道真公を祀る祠で、学業守護の神様として信仰されている。

<水神社>・・・【水の守り神様 厳島神社】

 昔、当社境内からは御手洗川という湧水が湧いており、脇の上尾街道の憩いの場所だった。水の守り神様である。

<疱瘡神社>・・・【伝染病の治癒】

 昔は疱瘡の予防法もなく、その伝染病を治してくれる神様として信仰された。祭神は少彦名命を祀っている。

<八幡神社(・厳島神社・馬頭観音)>・・・【武道上達、勝負祈願】

 全国に多く鎮座している八幡神社は、誉田別命をご祭神とし、古くから武家の氏神、守護神として信仰されている。外敵から身を守り、武芸、武術の上達にご利益があるとされてきた。

<雷電神社>・・・【落雷避け】

 落雷を避け身を守ってくれる神様で、その昔川越城に雷が落ちた時、殿様の命によって祀られるようになったという。祭神は大雷神である。

<嶋姫神社>・・・【水害除け】

 水害の災難を避けてくれる神様で、祭神は祖島姫神である。川越には「島」のつく地名が多いが、これは昔、荒川や入間川が氾濫によって出来た土地で、人々は荒れる川からこの土地に避難し助けて貰ったという。

川越夜戦跡碑(東明寺境内)(13:08)・・・川越市志多町13番地1 東明寺(とうみょうじ)境内

 川越は「新河岸川」が内周を、入間川が外周を囲んだ所に立地し、いわば典型的に平城の堀の役目をそれらの川が担っている。その内堀的な新河岸側の南岸、川越からみれば川越台地の先端が水田地帯に接する北の端に、時宗の「稲荷山称名院東明寺」がある。
 開山は一遍上人(正応2年=1289寂)。本尊の虚空蔵菩薩は慈覚大師作の秘仏である。稲荷・諏訪・天満の三社の別当寺だった処から、「稲荷山」と山号がつけられた。

              
 虚空蔵菩薩
 鎌倉時代以前に創立されたと言われる當山、稲荷山称名院東明寺の本尊様は「虚空蔵菩薩」であります。この菩薩様は智恵と福徳をお持ちであるところから「虚空蔵菩薩」と名づけられた。求聞持法とよばれる“頭脳を明晰にし、記憶力を増す”ための修行をする時の本尊なのであるが、後世になって、一般大衆に広く仏教が広まるに従い、福徳の面が一層強く信心されるようになり、現在のように学問と福徳を授ける菩薩として広く崇敬され、信仰されるようになった。
 尚この菩薩様は、十三仏の一仏で十二支の丑寅生れの方々の守り本尊でもあり、亦毎月十三日が縁日であります。

 山門の内に有蓋の四面塔が建っている。台共に総高2m程で、円頂・立姿の地蔵を1面に2体ずつ横列させ、3面で6体を浮彫りし、残る1面にはこれを造立した縁起を彫り込んである。明治24年(1891)に、藤沢の清浄光寺遊行上人が川越に巡錫した記念としてこれを造立したことが、詳しく彫りつけてある。

 また、境内には低い小塚がある。この塚の下は古い井戸であったのを土を埋めてその上に塚を造ったものと言われている。

 その昔は広大な寺領を有しており、天文15年(1546)の上杉勢と後北条氏が戦った「川越夜戦」はここ東明寺寺領と境内で争われたという。東明寺近辺には旧領奪還を目指す扇谷上杉朝定が陣を敷いていたが、北條方の夜襲を受け、激戦の末に朝定は討死した。

               
川越夜戦跡
                              所在地 川越市志多町
 天文六年(1537)の戦いで、北条氏綱に川越城を取られた扇谷上杉朝定は、再びこれを奪還すべく山内上杉憲政、古河晴氏と連合して総勢八万騎をもって、同十四年十月に川越城を包囲した。一方、福島綱成のひきいる城兵は、わずか三千でたてこもっていたが、翌十五年春にはすでに兵糧も尽きて非常な苦戦におちいっていたところ、北条氏康が八千騎をひきいて援軍としてかけつけ、四月二十日の夜陰に乗じて猛攻撃を開始した。これに呼応して城兵も城門を開いて打って出たので、東明寺口を中心に激しい市街戦となった。多勢をたのんで油断しきっていた上杉・古河の連合軍は、豊穣型の攻撃に耐えられず散々となって松山口に向って敗走をはじめ、この乱戦の中で上杉朝定は討死し、憲政も上州に落ちのびたと伝えられている。敵に比べて問題にならないくらい少ないヘス力で連合軍を撃滅したこの夜戦は、戦略として有名である。
               昭和五十八年三月
                              埼玉県


 全国的には地味で、これまで知らなかった歴史の一地方局面だが、こうして訪れた「東明寺境内」で未知の史実を知るのも、街道歩きの醍醐味と言えよう。
 境内にその「川越夜戦跡」の石碑も建っている。

               
東 明 寺
                             所在地 川越市志多町
 東明寺は、時宗(開祖一遍上人)の寺で稲荷山称名院東明寺と称し、本尊は虚空蔵菩薩である。
 お寺の位置は、川越台地の先端が水田地帯に接する北の端にある。このあたりからは、新河岸川を境として川越の町の北側を入間川を主流とする分流が幾筋も流れ、水田地帯を形成しており、古くからこの穀倉地帯を領する多くの武士団が存在した。東明寺は、こうした土豪の一人河越氏の庄園の東端に連なる広い寺領を有していた。その寺領は、東明寺村、寺井三か村、寺山村などに及び、広大な境内を有して、その惣門は今の喜多町の中ほどにあったと伝えられている。このことから、喜多町の古名を東明寺門前町と称したといわれている。天文十五年(1546)四月に戦われた上杉、北条軍の川越夜戦は、一名東明寺口合戦といわれ、この地の要路松山街道を含んだ東明寺寺領と境内で争われたものである。
               昭和五十七年三月
                                   埼玉県


広済寺(13:24)・・・川越市喜多町5−1 
[願いごとめぐりコース8ヵ所目]

 東明寺の少し南にある「広済寺」は、「青鷹山慈眼院」と号する曹洞宗の寺で、東京都青梅市根ヶ布の「天寧寺」の末寺である。河越夜戦の2年後の天文17年(1548)に、後北条氏の川越城代になった大道寺駿河守政繁が建立、開山したのは天寧寺第5世の広庵芸長和尚で、中興開基は本田右近親氏である。

 境内には山門や本堂、庫裏、位牌堂、鐘楼などが建ち、郷土資料として大変貴重な「三芳野名勝図会」三巻を著わした「中島孝昌」の墓がある。中島孝昌は幼名を徳三郎と言い、後に徳右衛門と改め家業を継ぐと共に、5代目絹屋与兵衛を名乗って川越・鍛冶町の名主役を務めた。墓石には「啓宗其馨居士」とあり、辞世の句(「消えてこそまことなりけり雪仏」)も刻まれている。

 山門を入った右手に、南面して広い「地蔵堂」があり、堂内に2基の石仏(地蔵)が安置されている。

<その1・腮(あご)なし地蔵>

 虫歯や歯痛に霊験がある「腮(あご)なし地蔵」は、丸彫り・円頂・珠杖を持ち、高さ90cm程で外観は一般の石地蔵のようだが、下顎が短小なので恰も腮(あご)が無いように見える。腮がないから歯がない。歯がないから歯痛がない。歯痛に苦しむ人がここに来て祈願すれば、歯痛が治る・・・と信じられ、治ったら柳の枝で楊子を作って奉納するのだそうな。

<その2・シャブキ尊(シャブキばば)>

 それと並んで、咳きや喘息によく効くと言われる「しゃぶきばば(シヤブキ尊)」の石仏があり、百日咳によく効くとの信仰がある。この石仏は上下2石で造られており、高さは60cm程、耳・鼻・眼・唇及び四肢は全く無く、やや丸型の石が頭部と思われ、胴・脚と思われる一石は下半が二股になった感じの一石で、正確には地蔵と言えるのかどうか疑問無しとしないが、一応地蔵とみる。何故か縄や紐などでぐるぐる巻にされている。

 当寺の第二十六世大棟叟が自ら墨書した縁起書には、次のように記されているという。

 
頃は天保八年丁酉冬十二月二十六日の正夜半、寝室のうち、光明赫灼として昼のごとくなるところへ、御丈ようやく五尺ほどの年頃七、八十ほどの女僧、鼠色の衣をかけ、われは当院内のしやぶき神なり。和尚、日ごろ、わが縁由を知りたいよし念じおられるは奇特なことなり。われは今泉の産なり。縁日は五日、供物は何を供えても納受せんということなし。なかんずく、金米糖に煎茶などなり。折節、招請せられ、俗家へ越したとき、病の軽重により専談するに安きこともあり。このほかに告ぐることなし。これより旧社へ帰らんと告げ、座をたち、戸をあけ給うと思いければ、夢たちまちさむ。これを縁由とする志なり。

 地蔵堂に行ってみると、金米糖を供える人はないが、灯明の代りに茶殻に油を浸ませて火を点じ、尊像の股の下が真黒に煤けている。祈願したら頭部を荒縄で縛っておいたのを解いてやる。殆どいつも頭部を荒縄で縛ってある。
 思うにシヤブキは、寿和婦貴尊と相通じ、所沢市久米の長久寺にある六体尊と何かの関係があるかもしれない。概ね風邪とか、百日咳とかの呼吸器病に功徳利益があるという。
 シヤブキ、スワブキ共に植物学上では菊科に属すツワブキのことを言い、根を煎ずれば薬用となる。

<牢屋地蔵>

 寺の境内に東面して「金比羅堂」があり、その南に墓地があり、その墓地の中に北面して一基の「地蔵尊」がある。その名を「牢屋地蔵」と呼び、次のような由来がある。姿は舟型の面に円頂、立姿の地蔵を浮彫りし、高さは1m程ある。

 
往時、江戸時代に当寺の南に近いところに高沢町(今の元町)があった。そこは川越の刑場の跡で、牢獄があった。そのころに処刑された人は、この場所において斬首されるに先立って地蔵尊の前で念仏することが許された。大正の終りごろになってこの土地は伊藤某の所有となったが、地蔵をそのままにしておいてはもったいないからと、広済寺和尚に頼んで墓地に移した。

 舟型光背の一部が欠けているのは、夜陰に乗じて悪徒が密かに来て小石で塔を叩き、落ちた石の粉を紙に包んで持ち帰る。この粉を懐中所持しておれば、悪事をしても捕えられないと信じられていた。こういう伝説のある石彫り地蔵である。

 「あごなし地蔵」、「シワブキ地蔵」、「牢屋地蔵」、いずれも説話のある当寺の名物である。

大蓮寺(13:39)・・・川越市元町2−8−25

 広済寺の次はその西手にある浄土宗の寺院「来迎山紫雲院大蓮寺」に行く。入口が判らず、寺の廻りを一周してしまったが、境内に入って正面に寄棟造の本堂があり、左に墓所、右に庫裏があってその右隣に地蔵尊堂がある。

 開創は室町時代の末期の永禄10年(1567)8月12日。川越城を攻略した北条氏康は家老の大導寺駿河守政繁を城将としたが、政繁の母堂蓮馨尼は信仰厚く、感譽上人(北条氏康の次男)に帰依していたため、川越に感譽上人を招き「蓮馨寺」・「見立寺(共にこの後参拝予定)」を建立した。
 感譽上人は、その後永禄6年(1563)〜9年(1566)の間、増上寺の十世を勤め、辞して「蓮馨寺」に帰り、翌年蓮馨尼が没すると導師を勤めている。このように、大蓮寺の開創が蓮馨尼の没年月日とイコールである点から、蓮馨尼の菩提を弔うために開山したと考えられている。感譽上人は、学徳高く信徒3,000人・弟子600人、数多くの高僧を育て、開創した寺は9ヶ寺に及んでいる。

 その後、延宝年間(1673〜80)、七世超譽上人の代に火災に遭い、本堂・古記録を焼失したが、大蓮寺に信仰のあった川越城主酒井河内守の支援で同じ延宝年間に再建している。現在の本堂は万延元年(1860)に改築、客殿は平成7年(1995)の新築である。

 話は変わるが、川越の妖怪に「大蓮寺」というのがあるそうだ。いわゆる「怪火」である。

 
雨の降る晩などに田んぼの小道を歩いていると現れ、目の前に来ると幾つにも分かれて見える。それに構わず過ぎれば、火の玉は自然と遠くにいってしまうが、驚いて騒いだりその火を消そうとすると、目の前を遮り、傘に取り付いて酷い目にあわされるという。その際、傘は燃えないそうである。現れる季節も決まっており、九月から二月の小雨の夜に多かったという。かつてこの地にあった大蓮寺という寺より出たため、この名でよばれているという。
                    『日本伝説叢書 北武蔵の巻』 藤沢衛彦


本応寺(参考)・・・川越市石原町1−4−9

 立ち寄りは割愛したが、大蓮寺の少し西にある。仁王像が守る「力神門」を潜った奥に本堂がある。「長久山」と号する日蓮宗の寺院「本応寺」には、「一切経蔵」があり、教典が格納されているので知られている。

               
一切経蔵
 川越の蔵造り様式にもとづくこの建物は、「一切経蔵」という。
 中には「輪蔵」と呼ばれる、八角形、極彩色の、回転する経蔵が奉守され、その内部にお釈迦さまが説かれた経典のすべてが、大切に格護されている。
 「輪蔵」に納められている教典は、身延山法主で日蓮宗の初代管長、新居日薩上人所蔵本で、縁あって明治初年、当山第二十二世智定院日延上人の代に格護することとなり、この「一切経蔵」もまたその時、全檀徒の寄進をうけて建立された。
 爾来百有余年、風雨に破損せしを「日蓮聖人御入滅第七百遠忌」(昭和五十六年)御報恩記念事業の一端として大修復工事に着手し五十三年七月、その完成をみたものである。
               昭和五十三年八月十三日
                              長久山本応寺


見立寺(13:49)・・・川越市元町2−9−11 
[小江戸川越七福神の第六番布袋尊]

 「札の辻」に出ると、どこからこんなに多勢の人達が湧いてきたのかと驚くほどの人出である。そこを西進して左折した所にある「見立寺」に行く。見立寺は「寿昌山了心院」と号する浄土宗の寺院で、川越七福神の布袋尊を祀っている。
 永禄元年(1558)、後北条氏の重臣で川越城将大導寺駿河守政繁は、城下に一寺を建立し「建立寺」(後に見立寺と改名)と名づけ、一族中の感誉存貞和尚を小田原伝肇寺から招請して開山とした。存貞和尚は、永禄6年(1563)増上寺十世となったが、永禄9年(1566)見立寺に再住した。そして先に政繁の母が平方村に造営した蓮馨寺を川越に移して両寺を兼帯した。
 天正18年(1590)豊臣秀吉の禁制書に、「武州川越蓮馨寺同門前 見立寺」と記されているが、蓮馨寺門前から当地に移った年代・経緯などは不詳で、恐らく、延宝年中(1673〜1681)と考えられている。                      
 見立寺は文政11年(1823)3月25日の石原火事で類焼し、更に天保11年(1840)4月8日にも焼失し、再度の火災で、古文書等も焼失して現存していない。現本堂は、明治14年(1881)に建立されたものである。
 その他、当寺には、板碑(青石塔婆)2基、徳本上人名号碑、松平(松井)周防守家の阿弥陀如来坐像並藩主位牌、古誌に記されている石灯籠、赤穂浪士矢頭右衛門七妹の墓(六地蔵の隣)などが現存している。

 見立寺は小江戸川越七福神めぐりの第六番札所、七福神の「布袋尊」が本堂の手前右側の祠に朗らかなお姿で祀られている。布袋は中国唐末期に実在のお坊さんで、本来の名は契此(かいし)と言う。小柄で太鼓腹、大きな団扇を手に持ち、袋を背負って各地を放浪し、吉凶を占い、福を施して倦むことがなかったという。そのお姿から「布袋」という俗称がついたという。また未来仏たる弥勒菩薩の化身とも言われ、昔から崇められている。
 七福神を祀る各寺院では、秋の七草が育てられているが、見立寺の秋の七草は、葛(くず)で、花言葉は「根気」、「努力」である。因みに、川越七福神全てについて列挙すると、次の通りである。

 第一番 毘沙門天(妙善寺)・・・女郎花(おみなえし)  美人
 第二番 寿老人 (天然寺)・・・桔梗(ききょう)    変わらぬ愛
 第三番 大黒天 (喜多院)・・・萩(はぎ)       想い
 第四番 恵比寿天(成田山)・・・撫子(なでしこ)    貞節
 第五番 福禄寿神(蓮馨寺)・・・尾花(すすき)     勢力、活力
 第六番 布袋尊 (見立寺)・・・葛(くず)       根気、努力
 第七番 弁財天 (妙昌寺)・・・藤袴(ふじばかま)   思いやり、落ち着き

(参考)川越まつり会館・・・川越市元町2−1−10

 「菓子屋横丁」はパスし、市営の「川越まつり会館」に立ち寄ろうと思ったが、人出に圧倒されパスした。建物は古い2階建で趣がある。川越まつり会館は平成15年9月28日に開館し、市内の祭りに関する様々な展示がある。

 外観は店蔵でさほど大きく見えないが、中は意外に広そうで川越まつりのあの大きな山車がすっぽり入って展示されているそうだ。また、その豪華絢爛な山車を中心にお囃子の実演・大型スクリーンによる川越祭りの上映など、祭りを判り易く再現しており、伝統ある川越まつりの雰囲気が体感できるという。

 目玉は、何と言っても実際に川越まつりで曳かれる本物の山車2台を、定期的に入れ替えながら展示している山車展示ホールだそうで、囃子の実演も定期的に行っているとか。

川越城大手門跡(川越街道ゴール地点)(14:19)・・・「市役所前」交差点北東角

 市内の各名所を効率的に廻ろうと、大分寄り道して街道歩きが「川越八幡宮」以降横道にそれっ放しだったが、「札の辻」を経由して、その東にある「市役所前」交差点に行く。この信号の北東角にある川越市役所庁舎前の「川越城大手門跡」が街道のゴール地点で、石碑がある。その背後には川越城を築造した大田道灌の弓矢を持った立像が建っている。
 街道の歩いていない部分(川越八幡宮〜市役所前交差点)はこれからまだ立ち寄っていない数ヶ所に立ち寄りながら帰途終着駅に向かう途中でカバーすることにした。

 交差点近くに、何年前だったか、やはり同伴で市内観光をした時に立ち寄った「讃岐うどん」店があったが、日曜日で休業していた。

蔵造りの町並みと川越大火

 小江戸を象徴する町並みとして、蔵造りの町並みが有名だが、実はこれは明治時代に造られたものである。即ち、先にも触れたが、明治26年(1893)3月17日の出火が北西の風に煽られ、忽ち西から東へと焼失地域を拡大した。その被害は、「家屋1,065軒、土蔵100余り、神社4、寺院5、それに時の鐘の鐘楼」(現存する明治の銅鐘の銘文より)であった。この大火で川越の町の2/3が焼けてしまったのである。

 商家が多かった川越の町並みは、一夜にして焼け、人々は全財産を焼失したが、川越の商人は強かった。「今度は火事にも負けない土蔵で建築しょう」と起ち上がった。この頃江戸では、すでに石壁やレンガ建築があったにも関わらず、新建材や建築技術を取り入れて火事に強かった土蔵で勝負したのである。江戸から多勢の職人を集め、今日に残る風情溢れる古い町並みが造られたのである。

 日曜日ということもあろうが、車が多い通りを大勢の観光客と共に歩くのは大変気ぜわしく、また危険でもある。

大沢家住宅(14:25)・・・川越市元町1−15−2

 「札の辻」から一番街通りを南下した左手すぐの所にある。
 規模は間口6間(約10.9m)、奥行4間半(約8.2m)、切妻造り平入り・桟瓦葺きで、屋号は小松屋と言い、1階では、川越の民芸品を販売している。また2階では、佐藤章画伯の描いた、川越の蔵造りと日本各地の民家を常設展示している。観覧料は大人200円。
 平成元年から同4年に亘って大規模な修理が行なわれ、寛政4年(1792)当時の姿に復元されている。

 耐火のための土格子造り、スペース有効利用の2階への箱階段、厚さ30cmで中に縦と横に5cm丸竹を使い、あけびのつるで結束した壁面、かなり頑丈そうに見える重厚な防火扉、外から順に土格子・漆喰戸・木戸・障子となっている三重窓ほか、見ていて飽きない工夫が随所に施されている。

 この「大沢家住宅」は一番街に並ぶ蔵造り建築の中で最も古く、呉服太物を商っていた近江屋半右衛門が1792(寛政4)年に建てた蔵造りの店である。元々が蔵造りだったため明治26年の川越大火の焼失からも免れ、川越最古の蔵造りとして国の重要文化財に指定されているのである。
規模は間口6間(10.92m)、奥行4間半(8.19m)、切妻造り平入り、桟瓦葺き。

川越市蔵造り資料館・・・川越市幸町7−9

 大沢家住宅から一番街を南下した右手にある「蔵造り資料館」は、明治26年(1893)の川越大火直後、類焼を免れた数軒の蔵造り建物や東京の日本橋界隈の商家を参考に、当時煙草卸商を営んでいた小山文造(屋号「万文」)が建てたものである。
 万文の前身は万屋と言い、幕末頃に煙草の商いを始めたと言われている。

 資料館では、川越の蔵造り家屋の意匠や構造、敷地内の様子を実見でき、今なお息づく明治の佇まいを体感することができる。
 壁の厚さは30cmで、中は大沢家住宅と同様手法で縦・横に丸竹を使い、あけびのつるで結束してある。柱と柱の壁が緩やかに膨らんでいるのが判る。

鐘撞堂(時の鐘)(14:36)・・・川越市幸町15−2

 その先「時の鐘入口」信号を東に入る「鐘つき通り」北側にある。川越を舞台にしたドラマなどでも必ずといって良いほど登場する鐘撞堂で、川越のシンボルで市指定文化財になっている。高さがあり、街に電線が張り巡らされていないので美的景観も良いが、人出が多すぎてカメラのシャッターを押すのも一苦労である。

 時の鐘は、江戸幕府が江戸市中に鐘を鳴らして時を告げていたことに倣って、寛永年間(1624〜44)に川越城主酒井忠勝が、城下多賀町(現・幸町)に建てたのが最初と言われている。一説には、酒井忠勝は時間厳守の人物だったらしく、江戸城登城時刻がいつも正確だったことから、時計代わりにされていたという。

 文久元年(1861)に小川五郎衛門栄長によって鋳造された銅鐘は明治26年(1893)の川越大火で鐘楼と共に焼失し、現在ある鐘楼は、川越大火の翌年に再建されている。高さ約16mの3層構造の塔で、寛永の創建から約350年間、川越の町に「時」を告げてきた。

 「時の鐘」の再建には、町と町民が一体となって積極的に取組み、火災後の整備義捐金として寄付が募られたという。川越に関係する実業家・政治家・学者や、川越町長、県知事と明治天皇下賜金1,500円、合計2,700余円が集められた。当時の大阪・東京間JR普通運賃が3円56銭だったことから考えると、大変な大金だったことが判る。
 そして大火の翌年の明治27年(1894)7月26日に完成したこの銅鐘は、全長2.23m、龍頭の長さ40p、最大外径82p、同内径66p、重量731.25kg(195貫)の由である。

 昭和五十年(1975)、川越市文化財保護協会が自動鐘撞機を寄贈し、現在の時の鐘はこの自動鐘撞機によって1日4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)、蔵造りの町にゴーンと低い鐘の音を響かせている。

 また鐘楼の規模は、高さ15.9m、トタン屋根三層造りの木造鐘楼で、階段が付設されている。よく均整がとれ、蔵造りの家並みを圧し、高く聳えるその景観は、今日の城下町川越の紛う方無きシンボルとなっている。平成8年(1996)、環境庁主催の「残したい日本の音風景百選」にも選定されている。

<参考:江戸時代の時の鐘>

 江戸の最初の時の鐘は、通称『石町(こくちょう)の時の鐘』で、日本橋に近い本石町(ほんこくちょう)(現在の中央区日本橋室町三丁目)に鐘楼があり、1日に12回時報を打っていた。
 時の鐘の撞(つ)き方は、まず、3回続けて捨て鐘というのを撞き、そのあと少し間をおいてから時刻の数(九ツなら9回)だけ撞いて、時を知らせた。
 時を知らせる鐘は全国で造られ、50,000個程あったのではないかと言われている。この数字は村の数で、各村に1つあったらからという説があるとか。

<参考:江戸の時刻>

 現在は、1日を24時間とする時刻が使われているが、江戸時代は現在と全く異なる時刻を使っていた。
 まず、日の出前の薄明るくなった時を明六ツ(あけむつ)、日没後のまだ薄明るいたそがれ時を暮六ツ(くれむつ)と呼んで、昼夜の境目とし、これを時刻の基準とした(季節によって多少異なるが、明六ツ、暮六ツは、日の出前、日没後いずれも約36分前後の由)。そして、明六ツから暮六ツまでの昼の時間と、暮六ツから明六ツまでの夜の時間をそれぞれ六等分して一刻(いっとき)とし、1日を12刻(とき)に分けた。

 時刻の呼び方も変わっており、明六ツの次が五ツ、四ツと減っていき、四ツの次は数字が飛んで九ツ(正午)となる。九ツの次は、八ツ、七ツ、暮六ツ、五ツ、四ツと減っていき、また四ツの次は九ツ(真夜中)になり、さらに八ツ、七ツ、明六ツと進むという面白い数え方である。

薬師神社(眼病平癒)(14:36)・・・川越市幸町15−8
[願いごとめぐりコース9ヵ所目]

 「時の鐘」の鐘楼を潜った奥にある小さな神社だが、眼病に著しい効果があるとされ、「めめ」と書かれた沢山の絵馬が奉納されている。元は「薬師堂」と言い、江戸時代には「市の神」として栄え、往時は本町にあったが、現在地に移って「瑞光山医王院常蓮寺」という寺になり、明治初頭の神仏分離の際「薬師神社」と改称している。
 御本尊は、高さ60cmの行基菩薩作の薬師如来の立像である。五穀豊穣・家運降昌・特に病気平癒のご利益があり眼病には著しい効果があるとされ、「願いごとめぐりコース」に入っている。
 明治26年の川越大火では時の鐘と同様に焼失したが、翌年再建されている。

<稲荷社>

 なお、薬師神社境内に入ると右手に水屋、正面に拝殿、拝殿の右隣に鳥居があり、「出世、開運、合格」に著しいご利益があるとされる「稲荷社」が右手にある。但し、これは後述する同じ「願いごとめぐりコース」に入っている「出世稲荷」とは異なる。注連縄で首巻きをしている感じだが、よく見ると小さな割に迫力あるお姿である。

<「川越小唄」の石碑> 水屋の近くにある。

            
川越小唄  西条八十作詞 町田嘉章作曲
     春はうらうら
     多賀町あたり
     鐘も霞のヤンレヤレコノ
     中で鳴る
     鐘も霞の中で鳴る
          昭和四十五年一月十二日
                              旧多賀町薬師講
                                  桃林書
                                  山崎石材店刻

雪塚稲荷神社(商売繁盛)(14:44)・・・川越市幸町5−8 
[願いごとめぐりコース10ヵ所目]

 「時の鐘入口」信号に戻り、一本南側の露地を西に入ると正面突き当たりに「長喜院」があり、その右側に小さな「雪塚稲荷」がある。文政6年(1823)に町民が一匹の白狐を打ち殺した事件に端を発し、その祟りを静めるために建てられた社である。
 願いごとめぐりコースの一つで、「商売繁盛」に霊験ありとされている。

               
雪塚稲荷神社縁起
 当社は、城下町川越の十ヶ町の一つ、南町の氏神として崇拝されてきた。南町は、江戸から明治にかけて六十軒あまりの町であったが、江戸店を構える大商人を多く生み出し、明治十一年(1878)には県下初の国立銀行を開業させるなど、十ヶ町の中でも中心的商業地であった。
 神社の創始は、口碑に『江戸の昔、ある大雪の夜、南町の通りに一匹の白狐が迷いあらわれた。これを見た若い衆数人が白狐を追い回してついに打ち殺し、挙句の果てにその肉を食したところたちまち熱病にかかり、さらに毎夜大きな火の玉が街に現われるようになった。町内の者はこれを白狐の祟りだとして恐れおののき、近くの長喜院の境内に社をたて、白狐の皮と骨を埋めて塚を築き、雪の日のできごとであったことにちなんで、雪塚稲荷神社と名付けて奉斎した』という。
 明治二十六年の川越大火によって、本殿・拝殿焼失、同三十年四月二十八日に再営した。その際土中のご神体を改めたところ、白狐の毛が逆立つのを認め驚いて再び埋納したという。
 また、昭和五十五年社殿の修理中、床下中央部から石板が発見され、『雪塚稲荷神社遺躰文政六年二月十二日御霊昇天 同年三月十二日御霊祭日と定め同年同日雪塚稲荷神社と称す』との銘文があった。
 文政六年(1823)以来、とくに商売繁盛に霊験あらたかさをもって知られ、町内のみならず、遠隔地の講中や近隣末社の人々の不断の信仰に支えられてきた神社である。


蓮馨寺(れんけいじ)(15:10)・・・川越市連雀町7−1
    
 [小江戸川越七福神の第五番福禄寿神]・[願いごとめぐりコース11ヵ所目]

 元の一番街方向に戻り、「孤峯山蓮馨寺」へ行く。蓮馨寺には、「小江戸川越七福神めぐり」第五番の福禄寿神が祀られており、参詣者で賑わうが、右手に霊芝、左手に神亀を持ち、長寿安泰福徳のご利益があると言われる。
 また、願いごとめぐりコースでは「子育て・安産」に霊験ありとされ、崇敬を集めている。

               
蓮馨寺
                              所在地 川越市連雀町
 蓮馨寺は、天文十八年(1549)、時の川越城主大道寺駿河守政繁が母の蓮馨尼を追福するために、感誉上人を招いて開山した浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来である。慶長七年(1602)浄土宗関東十八檀林の制が設けられると、この寺もその一つに列せられ、葵の紋所が許されるなど檀林(僧侶の大学)として栄えた。しかし、明治二十六年に鐘楼及び水舎を残して全焼してしまい、現在の堂は、その後の再建になっている。入口正面の呑龍堂は大正初期の建築で、民衆から慈悲の生仏と崇められた呑龍上人の像が安置されている。
 また、元禄の銅鐘(市指定文化財)は、入口向って右手前の鐘楼に掛っている鐘でね元禄八年(1695)鋳工木村将監の作である。この寺は室町末期の創建であるが、本尊である木造阿弥陀如来座像は、明らかに鎌倉時代の様式が見られるので胎内銘にある弘安時代の作と思われる。
               昭和五十七年三月
                              川越市


 門を入ると右手に大きな鐘楼、左手に講堂がある。参道を進むと、正面におびんづる様が置かれている祈願所・その右隣に本堂、左手に上部の木彫りの彫刻が見事な水舎(詳細後記)と将監地蔵尊(詳細後記)、右手に水子地蔵尊がある。
 おびんずる様は、元お釈迦様の16人の高弟(羅漢)の1人で、病人や悩みを持つ人を救って歩いたと言われており、喜多院や成田山川越別院にも安置されていた。鎮座するこの「おびんずる様」は、身体の悪い箇所を触ると病気が治るといわれ、古来人気がある。

 大正初期築の「呑龍堂」には、呑龍上人(1556〜1623)像が安置されているが、「子育ての呑龍様」として親しまれている。呑龍上人は、各地を巡って困窮する多くの人々を救い、貧しい家の子供達を寺に預かって勉学の機会を与え、諸々の相談事を受けては解決するという、正に生仏として崇められた、社会事業の先駆者であり、今日でも、霊験あらたかな仏様として、祀られている。毎月8日が縁日で、出店が並び講釈など芸能イベントもある。

 また、境内にあった浴場は、八つ(午後3時)の鐘を合図に庶民に開放され、その鐘は今も川越の町に時を告げている由。元禄時代の梵鐘、水舎の欄間に彫られた唐獅子などが当時の面影を残している。

               
水  舎
 明治二十六年の川越の大火に、当山は、類焼の厄に遭い、山門諸堂を失いましたが、その時残ったのが、鐘つき堂と此の水舎でした。
 水舎は、銅板葺きの屋根に四本柱の簡単な構造ですが、欄間の彫刻は見事なもので、鶴亀や牡丹唐獅子・唐子遊びの図などが、精緻に彫られて、昔の堂宇の華麗さをしのばせています。
 又、水鉢の龍頭は、日展評議員・東京学芸大学名誉教授・川越出身の彫刻家橋本次郎氏の制作になるものです。
                              当山

               将監地蔵尊
 松平伊豆守信綱侯が川越城主の頃数ある重臣の中に遊佐将監という人がいました。将監は地蔵菩薩を信仰し、遂に自ら一体の石地蔵を完成して後世に残されました。そのお地蔵様は、将監の歿(寛文八年、1668)後百余年を経ても種々の神変を現わしましたので忽ち評判となり、毎月三の日(三日十三日廿三日)の縁日には、遠近の信者がお堂にあふれました。遊佐地蔵とか将監地蔵とか呼ばれて慕われたそのお地蔵様が、百年振りにお堂を出て、今、露座の席にお立ちになっています。どうか近寄って親しく御参詣下さい。
 お地蔵様を拝む人には、十福といって、十の御利益があります。
  女人泰産 身根具足 除衆病疾 寿命長遠 聡明智慧
  財宝盈溢 衆人愛敬 穀米成熟 神明加護 証大菩提 (延命地蔵経)
               昭和六十年五月吉日       当山


熊野神社(縁結び)・・・川越市連雀町17−1
 [願いごとめぐりコース12ヵ所目]

 蓮馨寺から街道に出ると、街道を横切りその侭東進する。一本目を右折して「大正浪漫夢通」に出ると、少し先の右手(西側)の「菊岡琴三弦店」の手前の露地を西に入った所にある。
 「銭洗弁財天」の幟がはためいている。

 鳥居を潜ると、参道の左右に平成16年元日開設の「熊野神社足踏み健康ロード」がある。裸足で歩くと健康サンダルのように埋め込まれた丸石の刺激で血行が良くなり疲れがとれるというのがウリだが、試しに靴を脱いでその上を歩いた処、その激痛たるや言語に絶するものがあり、後悔することしきりである。帰途その上を幼時が歩いていたので「痛い?」と聞いたら「痛くない!」と言われてしまった。面積当たりの体重差か、はたまた単なる老化か、それとも問題箇所だらけの体なのか?

               
熊野神社御由緒
<通 称>「おくまんさま」 当社は開運・縁結びの神として信仰されています。
<御祭神>御祭神は熊野大神で伊弉冉尊(いざなみのみこと)、事解之男尊(ことさかのおのみこと)、速玉之男尊(はやたまのおのみこと)の御三神です。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊は、一番最初に出てくる夫婦の神様です。多くの国生みをなされたほか、天照大神、須佐之男命など多くの神々の御親神でもあり、あらゆる命を生み出す御神徳の高い神として人々に敬われています。
<御社紋>三本の足を持つ「八咫烏」で、熊野大神のお使いです。烏は夜明けを呼ぶ鳥、太陽を招く鳥といわれ、人生の闇に悩む人々を明るい希望の世界に導く霊鳥として広く信仰されています。
<御由緒>当社は、天正十八年(1590)蓮馨寺二世然誉文応僧正が、紀州熊野より勧請したことに始まり、正徳三年(1713)社殿を改築し鳥居を石造りにしました。現在ある二の鳥居がそれです。
<御例祭日>春季例大祭 四月十五日  秋季例祭 十月十五日

 通称「おくまん様」とか「お酉様」と呼ばれ親しまれ、「酉の市」が有名で、縁結びの神、知恵の神として信仰を集めている。明治2年の神仏分離令により蓮馨寺の管理を離れた。

 第二の鳥居を潜ると、正面に拝殿、右手に水屋と「厳島神社」など小さな社が4つある。順に「加祐稲荷神社」「秋葉神社」「厳島神社」「大鷲神社」となっており、「厳島神社」は銭洗い弁財天で、ここでお金を清めて持ち帰り大事にすると金が貯まると言われている。鎌倉の銭洗い弁天は有名だが、ここ川越にもあるとは知らなかった。銭洗い弁財天の参詣の仕方というのが掲示されていた。

               
加祐稲荷神社御由緒
<通 称>「おいなりさま」「おいなりさん」
     本来は穀物農業の神であるが、現在は産業全般を司る神
<御祭神>倉稲魂命
<御由緒>『新編武蔵風土記稿』及び『武蔵三芳野名勝図会』に当社の名は記されているが御由緒は不詳
口碑によれば、蓮馨寺開祖以前からあり此の神を帰信したところ、種々の厄災を免れたことが数多くあった。ここに於いて偏にこの神が祐を加えて下さるということで加祐という名前を社号に冠し崇め来たと言うことである、云々。其の社号が今なお古い旗に書かれているのが残っていたと言われる。そのことから室間と時代永禄年間(1558〜1570)には既に当社は存在していたことが明らかであると推考できる。明治二年蓮馨寺境内より遷座して熊野神社の御末社となった。
<御例祭日>例祭 三月五日
      縁日 毎月五日


               
厳島神社御由緒
<通 称>「べんてんさま」「銭洗弁天」
     音楽、福智、延寿、除災、得勝を司る神
<御祭神>市杵島姫命
<御由緒>鍛冶町の名主中島孝昌著『武蔵三芳野名勝図会』(享和元年[1801])によればその昔は蓮馨寺南側の林中にあったが、当時、秋葉神社の西側に移したと記されている。よって御由緒は不詳であるが、口碑によれば、蓮馨寺開祖が以前より寶池(熊野神社裏より蓮馨寺境内にかけてありと)に鎮座していた当社を崇敬し、池名寶池を取って寺号となし、寶池院としたと言う。明治二年蓮馨寺境内より遷座して、熊野神社の御末社となった。
<御例祭日>例祭 六月十七日  縁日 毎月十日

               秋葉神社御由緒
<通 称>「あきばさま」
     火防(ひよけ)火伏せの神
<御祭神>火之迦具主命
<御由緒>新編武蔵風土記稿(江戸時代文化文政年間)によれば第十代川越藩主秋元喬房(六万石宝永元、十二、二五〜正徳四、八、十四年)氏により、享保八年(1723)に造立、秋元氏が蓮馨寺住僧東譽圓悦なる者に議り、当社安置の地を熊野神社に十□丘を築き、勧請させた。昭和三十三年までは、その小丘が残っていた。
<御例祭日>例祭 十一月十八日
      縁日 毎月十八日

               大鷲神社御由緒
<通 称>十二月三日の酉の市は「おとりさま」と呼ばれる。戦時中は、武運長久の神として、現在は家内安全、商売繁盛、開運の守護神として信仰されている。
<御祭神>天之鳥船命
<御由緒>大正十一年、南埼玉郡の鷲ノ宮神社の分霊を奉齋したと伝えられている。
初め熊野神社に合祀されたが、後に流れ造りの社殿を建立し、遷座祭を執行して末社とした。川越市とその市民の繁盛のため毎年十二月三日に「酉の市」を開催し、大神の福を呼ぶとされる「稲穂付きの熊手」や「百万両小判」を授かろうと近郷近在より善男善女が集まり、年毎に益々盛大になっている。
<御例祭日>例祭 十二月三日
      縁日 毎月三日


連雀町の「道灌の山車」蔵(15:35)・・・川越市連雀町17−1

 熊野神社に隣接して、左手に「道灌の山車」の蔵がある。我らの場合は偶々法被姿の男達がシャッターを上げて何やら作業をしていたので、実物を生で見ることが出来た。
屋上に川越城を最初に造った太田道灌の人形が載せられており、10月第3土・日の川越祭りの時には各町内にある山車と共に市内を曳き回される。
 きょうだけでももの凄い人出なのに、一週間後の祭礼日には、おそらく市内観光など出来た者ではあるまいと話し合ったものだ。

 道灌の山車は、二重鉾、四つ車、唐破風付きの屋根を持つ囃子台で、廻り舞台になっていて、川越の山車の中では最も横幅が広い。

 この山車は宮大工 印藤順造の作で昭和27年に完成している。飾られている人形は、川越城や江戸城を上杉持朝の命で築城した太田道灌を題材にした西田光次作の「道灌の狩り装束の勇姿」、唐破風の龍の彫刻は、名人島村源三の作である。
 囃子の流派は堤崎流で雀会囃子連。連雀町「道灌の山車」は、平成14年10月19日に川越市歴史文化伝承山車の指定を受けている。

火除稲荷(15:40)・・・川越市連雀町22−1 
[願いごとめぐりコース13ヵ所目]

(火災除け)

 熊野神社東側の通りを南進し、信号を左折東進し、直ぐを右折し、更に次も右折すると、突き当たりの角の手前左手に安田屋米穀店がある。その前(西側)に「火除稲荷大明神」の社額が鳥居に掛かった火除稲荷がある。

 この連雀町の「火除稲荷」は熊野神社から分祠されたもので、正式には「正一位火除稲荷大明神」と言う。明治初期にはすでにあったようで、明治23年の川越大火の時、ここで火が止まったことでも知られている。
 住宅地に囲まれた細い路地にひっそり佇む、拝殿と水屋があるだけの小さな神社だが、稲荷紋のような絵が描かれた火除けの絵馬が奉納されている。

出世稲荷(15:43)・・・川越市松江町1−7
 [願いごとめぐりコース14ヵ所目]

 今度は、安田屋米穀店で東に曲がり、直ぐ右折して程進んで突き当たったT字路を左折して東に向かうと、左手に「稲荷神社」がある。天保2年(1832)に京都伏見稲荷大社から分社した稲荷神社で、川越市内「願いごとめぐりコース」という観光コースの一つ“出世祈願”を願う人たちに尊崇される「出世稲荷」である。
 鳥居の両脇には、川越市天然記念物に指定されている2本の大イチョウが聳えているが、樹齢600年、川越市内最大のイチョウと言われ、あたりを圧倒するような高さで2本聳えている。

               
稲荷神社由来
 当稲荷神社は天保二年(1832)地主、立川氏が屋敷鎮守として、京都、伏見稲荷大社本宮より分社したるものなり。
     宇迦之御魂大神
  祭神 佐田彦之大神
     大宮能売ノ大神


 
古来、稲荷神社は元明天皇(和銅四年)創建以来、農民による稲作、穀物の豊作祈願の神として祭られたもので、宇迦之御魂大神を穀神、佐田彦之大神を地神、大宮能売ノ大神を水神、と説明する。
 天慶四年(942)朱雀天皇より正一位を賜る。
 中世から近世にかけて庶民信仰が広まり、五穀豊穣のみならず、衣食住、商工業、開運出世、進学、就職、縁組、安産等諸々の願い事が叶う神様として、幅広い神徳が仰がれるようになった。
 大祭は毎年四月十日
                              稲荷神社世話人

               
イチョウ
 いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。向かって右は幹回り(目通り)五・六七メートル、根回り七・六メートル、左は幹回り七・二五メートル、根回り九・七メートルあり、二本とも樹高は厄二六・五メートル。樹齢は六〇〇余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。雌雄異株で、種子はいわゆるギンナンで食用となる。
               平成元年二月
                              川越市教育委員会


妙昌寺(15:59)・・・川越市三光町29−1 
[小江戸川越七福神の第七番弁財天]

 コースから外れるが、七福神めぐりの最後の寺院として三光町の「妙昌寺」を訪ねる。池上本門寺第四世の大鷲妙泉阿者梨日山聖人によって開創された寺で、開山は法眞院日意上人である。
 境内の本堂左脇の坂を下って裏へ抜けた所に、「小江戸七福神めぐり」の第七番「経ヶ嶋辨財天弁財天」を祀っている。

               
妙昌寺
 当山は、日蓮宗大本山池上本門寺の末寺として、法眞山と号し、室町時代永和元年(1375)、現在の幸町に開創。諸堂は旧多賀町及び旧本町にあり総門は旧江戸町にあったが、江戸時代寛保元年松平伊豆守信綱公が川越城を改修するため、当寺を現三光町の旧浅場孫兵衛侍屋敷跡地に移築したものです。
 平成四年(1992)十月、本堂客殿を落慶、平成十四年四月、立教開宗七百五十年慶讃事業として辨天堂の改修、水屋の新設等境内整備を行いました。(以下略)

               経ヶ嶋辨財天
 室町時代 時の地頭が小石に法華経を書写し、塚を築いて辨財天をまつって守護神としたのが始まりです。
江戸時代長禄元年(注:1457)に、太田道灌公が川越城を築城する際、辨財天の社が川越城の裏鬼門に向いていたことから、鬼門除けの守護神として尊崇(信仰)厚かったと伝えられています。
 当地はその昔、螢の名所としても知られていました。(昭和二十四年川越市史跡より)(以下略)

 弁財天は大別して八臂と二臂の像があり、八臂の像は弓・矢・矛・鉄輪・羂索などを持ち、二臂の像は琵琶を持つことが多い。
 弁財天は、七福神唯一の女神で、開運、商売繁盛、弁舌、芸術、財福、延寿の神として、ご利益があり、古くから商人や芸人ほか幅広い人々の信仰を集めており、ここは小江戸川越七福神の霊場として参詣者も多く訪れる。ご縁日は毎月一日である。弁財天堂の入口に見事な松があるが、枝振りが良すぎて写真に収まりきらない。
 弁財天堂の真向かいに、小さな庭園があり、「宇賀大善神」が祀られている。

 妙昌寺に着いた時に作業を始めていたが、帰ろうとすると本堂前に大勢の七福神巡り専用の意匠(赤・青・黄色の派手な衣裳)を着た人達が20人ぐらい集まり、川越音頭?を歌い始めたのには驚いた。

川越街道完歩

 後は、ショートカットになる近道を選び、東武東上線本川越駅に16:24帰着してゴールとした。心配した奥方の脚力もかなりなハードコースだったのに良く最後まで頑張ったものだ。朝霞台・北朝霞経由で武蔵野線を経て帰途につき、夕食は久々に地元の駅ビルの店で冷たい麦酒と松茸料理などでしめた。
 それにしても、川越市内にはよくこれだけ見どころがあり、しかも道標・案内板などが整備されているのに感心した。これは、第1回目の写真撮影が99枚、2回目が87枚だったのに対し、最終回のきょうは179枚も撮っており、それだけ見どころ・中身があったと言えようか。