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川越街道餐歩記・・・はじめに・・・
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  「川越街道」は、「江戸城」や「川越城(河越城)」等を築いた「太田道灌」が、部分的にあった古道を繋ぎ、更に江戸期に「川越藩主松平伊豆守信綱」が、「中山道」の脇街道として整備したものである。

 当時の川越街道は、「板橋宿平尾追分」で中山道から分岐し、川越城の大手門へと至る道だった。更に、川越からは「児玉街道」が上野国藤岡に通じて中山道に合流し、この両道を合わせて「川越児玉往還」と称していた。中山道を通るより距離が短かいため、通行する人たちも多く、物資輸送の新河岸川舟運と合わせて、川越・江戸間の重要な交通路になっていた。
 なお、新座市の北の入間郡三芳町や、ふじみ野市近辺では、現在でも街道筋の松並木が残り、往時の風情を残している。

 街道沿いの宿場としては、次の7宿である。

     1.「板橋宿」(東京都板橋区)
     2.「上板橋宿」(東京都板橋区)
     3.「白子宿」(埼玉県和光市)
     4.「膝折宿」(埼玉県朝霞市)
     5.「大和田宿」(埼玉県新座市)
     6.「大井宿」(埼玉県ふじみ野市)
     7.「川越宿」(埼玉県川越市)

 なお、「現在の川越街道」は、起点が「国道254号の豊島区“池袋六ツ又交差点”」、終点が「国道254号の川越市“新宿町北交差点”」になっている。また、現代交通機関で言えば、平尾追分〜川越城大手門跡の部分は、概ね東武東上線に沿っていると言えよう。

(注1) 川越の特産品である薩摩芋を、江戸時代「十三里」と称したとか。「栗(九里)より(四里)うまい十三里」の言い回しで、江戸で大いに宣伝文句として使ったらしい。なお、芋の主産地は川越への街道途上、入間郡三芳町が中心だったという。

(注2) 「旧川越街道」の正確な距離は、残念ながら信頼に足る文献に出くわしていないが、G00gle地図で測ると、前記「平尾追分」を起点にして川越城大手門まで概ね32.6km程度で、これに平尾追分・日本橋間の距離9.6kmを加えれば、日本橋からは42.2km(約10里)となる。

(注3) 実際には、JR赤羽線の板橋駅を起点とし、JR武蔵野線新座駅、JR&東武東上線川越駅で区切った3回分割歩きを行うこととし、最終回は街道距離としては甚だ僅少だが、たっぷり寄り道して川越市内の名所・旧跡を訪ねることとした。
 日本橋〜板橋宿平尾追分の間は、既に「中山道」として完歩済みである。