Top Page
後書きへ
Back

第四次遍路 ・・・2002年3月31日〜4月15日


2002年3月31日(日)〜4月1日(月)
  半年ぶり 始めた遍路は 大誤算ぞなもし


 今回は、事前のトレーニングバッチリで、足底が片ちびしたトレッキングシューズも買い換え、満を持しての四国入りである。一等最初の目標は「2回区切り」だったが、妻の足、小生の足とアクシデントで結果的に4回目となった今回は、これで88番、いや1番までの最終回にしなければならない。

 前回からの再出発地点は、愛媛県内子(うちこ)町から久万高原に向かう途中の蔵谷バス停だ。松山行きの夜行バスもあるが、高松の義弟に預かって貰っている菅笠・金剛杖・掛軸を受け取る関係から、今回も高松行きの夜行バスで行くことにする。前回の夜行バスとは若干異なり、瀬戸大橋経由ではない。淡路島・鳴門経由で東讃(とうさん)から高松経由丸亀行きの夜行特急バス「ハローブリッジ号」だ。

 3月31日19時15分、自宅から妻の運転する車で高幡不動駅に向い、同駅19時26分発特急で19時54分新宿着。20時30分発の高速バス1号車1番C席を予約済みだ。C列は通路で後方の手洗いに直結しており、他人をあまり気にせずに利用できるということから選んだ席だった。

 定刻発車で、22時甲府SA、翌4月1日4時淡路島SA、5時10分香川県大川郡の大内バス停通過で、小生初めて通過の高松自動車道経由で定刻6時10分より早い5時53分に高松駅に到着する。

 程なく義弟が預けものを届けてくれ、駅ビルにて朝食を摂る。時間がたっぷりあるので日経・朝日を買ってゆっくり読み、高松発松山行き特急「いしづち5号」に乗り込む。途中多度津駅で岡山発しおかぜ1号を連結して、10時03分に松山着。6分の待ち合わせで、連絡便の「宇和海5号・宇和島行き特急」に乗換え、10時31分内子(うちこ)に到着する。

 さあ、いよいよだ。昨秋の苦い経験を想い出しながら、今回は自信たっぷりにタクシーに乗り込み、前回の中断地点に向かう。途中、コンビニで昼食用のお握りを仕入れておく。落合を過ぎ蔵谷バス停に11時05分到着。早速菅笠をかぶり身支度を整えて11時20分勇躍出発。

 目指すは、前回大変ご迷惑やらお世話をかけた「民宿笛ヶ滝」だ。女将さんにお礼を言わねばならぬ。本当はもっと先で宿を取れば行程上便利なのだが今回はそうはいかない。11:59〜12:09の10分間で途中昼食。道は登り一方だ。標高410mの上畦々(かみうねうね)から大迂回する車道から離れて山道に入り、12時49分、海抜570mの下坂場峠に到着。10分休憩し、再び車道・山道と登坂し、13時16分葛城橋通過、14時12分遂に最高地点790mの鴇田峠(ひわたとうげ)に到着。

 ベンチで休憩するが、風が涼しい。気分的にも今日のメインイベントをこなした安堵感から爽快である。後は、民宿笛ヶ滝(485m)まで約2キロの下りだ。途中で2人の歩き遍路を追い越したが、あの人たちも順調に来ているだろうか?などと、今回は若干の余裕がある。

 15時03分笛ヶ滝着。ところが入口に張り紙がしてある。今夜の予約客の名前を書き、「用事で留守にしますが4時頃には帰れると思います すみません」。とある。しからばと、当初は明日で考えていた近くの札所44番大宝寺(たいほうじ)をきょう打つことにして即出発。1.6キロの坂を登った560m地点の寺だ。1つ手前の43番からは約62kmと2日がかりの距離だが、自分には半年がかりとなった距離である。

 再び民宿に帰り着いたのが16時05分だった。幸い、帰宅してくれている。疲れがないといえばウソになるが、半年ぶりの再挑戦の初日が終わったことへの満足感の方が大きい。女将に半年前のことをあらためて謝し、ようやく泊めて戴くことができましたと挨拶する。

 夕食は珍しく自家飼育の雉料理で、舌鼓を打つ。ご主人、女将さん、他の歩き遍路さんと話ながら食事し、明日の予定の話に話題が移ると大変なことになる。どうやら、明日の行程の距離を実際より短く考えているらしいのだ。これは大変。女将さんは「明日はどこに泊まられますか」と言うので、長珍屋を予約してあると言うと、それはちょっと無理ですよという。次の45番岩屋寺(いわやじ)は、長珍屋とは反対方向にあり、いわゆる打戻りをしなければならないのだが、どうやら自分が地図を見て予定を考えた際に距離を見間違えたか、計算違いをしたかで、結論的に難しそうだと判る。

 しかし、この後の宿は数日分予約済みだし、実は先行きで会社時代同期のO君が同行して遍路体験したいという話があり、大歓迎の旨返事してあるので、そちらの日程にも関係してくるし、しかも、歩いて88ヵ寺を結ぶという大目標は絶対崩したくない。今次遍路の早々から超無理歩行もしたくない。頭の中で脳みそが何か妙策はないかと相談しあう。 その結果、万事休すの危機を突破するために思いついた非常手段とはこうだった。
1.先ず、明朝ここから岩屋寺(いわやじ)へタクシーで行って参拝する。
2.岩屋寺(いわやじ)からの帰途は、当然歩く。そして、大宝寺(たいほうじ)の参道まで歩きでつなぐ。
3.そこから次の長珍屋へ歩いていく。これなら歩きでの輪は保てる。
 女将もオヤジさんもそれなら大丈夫ですねと言ってくれ、ほっとしたものの、何でこんな見積り違いを起こしたのかが、我ながらよく判らない。またまた、Oh!アンビリーバブルだ。

 まだ自分のやったポカに納得がいかないので複雑な気持だが、何とか苦肉の策ながら間一髪の解決策もできたし・・・と、明日に備えて寝ることにする。

 「遍路」という字は、「遍く」と「路」すなわち「全てが路」であり、「路」は「足偏」すなわち「全て歩き」が当たり前とある。誓いとは破るためにあるという迷言もあるらしいが、「事、1〜88〜1番札所の全里程を歩きの輪で繋ぐ」というこの一点に限っては、いかな意志弱き自分でも、微塵の妥協もする気はなく、悪魔の誘惑にかられることもない。これも、歩き遍路決断の発端となった小林敦宏氏の本に出ていた失敗者の体験を肝に銘じたばかりか、全面的に共感したからにほかならない。

2002年4月2日(火)
  ポカのお陰 きょうは44km“四”の行軍ぞなもし


 6時58分ハイヤーで出発。歩いての帰途のことを考え、通る道を指定しながら角の目印を記憶にたたみ込みつつ岩屋寺(いわやじ)への県道12号を行く。7時15分には岩屋寺(いわやじ)山頂下の駐車場前に到着。団体遍路のバスその他が何台か止まっている。ここは高さ440mで、670mの岩屋寺(いわやじ)まで急坂と石段を登らされる。途中で若い坊さんに追い抜かれたが、毎日登っているせいか涼しい顔をしてすいすい登っていくが、こちらは例によってぜーぜーはーはーだ。

 18分かかってやっと登った45番岩屋寺(いわやじ)は、巨岩に抱きしめられたような絶壁下の境内に各堂が立ち並び、まるで修験者の世界を思わせる幽玄の世界だ。44番の大宝寺(たいほうじ)からは山越えの遍路道もあるが、片道タクシー利用をしたのと、歩行スピードや疲労度に加えて、きょう歩かなければならない距離の長さ等を考えた場合、県道回りがベストと判断した結果である。

 先ほどの駐車場横には8時04分に降りてきて、ここからが打戻りの県道歩きだが、国民宿舎古岩屋荘や久万高原ふるさと旅行村、更には本当なら泊まりたかった「民宿和佐路」等の前を通りながら飛ぶがごときハイピッチで駆け歩き、峠御堂トンネルを抜けて大宝寺(たいほうじ)への参道入口まで帰ってくる。さあ、これからが県都松山方面への歩き開始だ。

 海抜500mから710mの三坂峠まで一路登り勾配の国道33号を行く。結構きつい。三坂峠は四国の分水嶺石鎚(いしづち)山脈の西部に位置し、三坂峠からの下り遍路道は、国道開通以前は古来から伊予と久万(くま)地方、更には土佐を結ぶ土佐街道の最難所かつ要衝路だったそうだが、案内書によればとんでもない急坂を下ることになり、かつ、苔むした滑りやすい石や岩があり、油断するべからざる峻険路となっているようだ。峠のドライブインは今でも三坂峠天候路面状況照会所となっている。

 君子でもないのに、凡夫危うきに近寄らず・・・ということで、当初から遠回りにはなるが国道回りで考えていた。国道をなだらかに降り始めると、何人かの歩き遍路に追いつき追い越したが、皆さんお疲れの様子で、殆どの人が足を引きずっている。一緒に歩いたがペースがあわないので「お先に」と言ってまた先行するが、塩ヶ森バス停の近くから46番浄瑠璃寺方面への道に入る。

 小型のマイクロバスや乗用車に乗ったお遍路達の車が次々と追い越していく。逆方向からも来る。手を振ると、乗っている遍路が「あら、あの人、歩いてるわ。大変ね。」と言っているように感じられる。

 民宿長珍屋は、鉄筋4階建て、全室冷暖房完備、コインランドリーありで、これまでに泊まった宿とは別格の大規模旅館だ。民宿とは名乗っているが、これは心理的にその方が気軽に泊まりやすいからという理由もあるらしいことを、先刻承知済みだ。玄関横に今日の泊まり客の名前が歓迎の文字と共に貼りだされている。自分の名前を確認してから、先ずはすぐそばの浄瑠璃寺(じようるりじ)にお参りする。納経時間は17時までだからちょうど良い。

 16時52分、長珍屋に投宿。売店まであり、いろいろな遍路用品が販売されている。中は団体遍路でごった返している。夕食の大広間でも、歩き遍路はほんの数人で、後は団体さんばかりだった。名前入りのタオルを戴いたが、いい記念になる。

 入浴、洗濯後、売店で納札(おさめふだ)の手持ち分が減っていたので買い足す。朝食は6時の部で予約し、バタンキュー。今日はよく歩いた。いや、距離を見積り違いしていたため、当初の予定以上に歩かざるを得なかったというのが正直なところだ。

2002年4月3日(水)
 一日で 七ヵ寺は 最多新記録ぞなもし


 その日の参拝札所が多いと、どうしても印象が薄くなる。ましてや、遍路初期と異なり“慣れ”がよけいに印象を薄くするようだ。今日のように一日に7ヵ寺も回るのは後にも先にもない最高数だ。阿波・讃岐がそれぞれ23ヵ寺、土佐が広いにもかかわらず16ヵ寺で、伊予が最多の26ヵ寺だから、一日の札所が多いのも無理はないが・・・

 つい先だっては札所間で62km近くあったのに、そんなに急いでどこへ行く?と言いたくもなるほど今日は多い。それも松山市内だ。

 47番八坂寺(やさかじ)は、遍路の元祖衛門三郎(えもんさぶろう)の故宅跡があり、ここからお大師様へのお詫びの旅に出たらしい。48番西林寺(さいりんじ)は、普通と少し異なり、土手から石段を下りて山門に行く不思議な寺だ。刺身のつまにする松山名物の水藻ていれぎが自生している。

 49番浄土寺(じようどじ)は空也上人ゆかりの寺。50番石手寺(いしてじ)は道後温泉とセットで一番観光地化しており、遍路以外の人間が境内で最も多い寺という形容がピッタリだ。明治の廃仏毀釈までは境内に熊野十二社権現の社殿が建っていた由で、この辺りの寺は、熊野の影響を多分に受けている所らしい。

 昼食は石手寺(いしてじ)前の「和食みよし」で肉うどんといなり寿司。近くの郵便局でまた少々荷物を送り返す。

 遍路も一番から始めてこの辺りまで来ると、何となく遍路同士の付き合い方が変わってくるような気がしてならない。最初の頃は不慣れも手伝ってか自分と同じような歩き遍路に出逢うと、何となく身近な人にあったような気がして話しかけたり、相手の話を真剣に聞くが、この辺りまで歩いてくると、遍路仲間から聞ける情報も新鮮さが薄れ、何となく自立心も旺盛になってくるのだろうか。52番の太山寺(たいさんじ)へ向かっている途中、前にいた歩き遍路から太山寺(たいさんじ)への道を尋ねられ、同じ行き先だから一緒に参りましょうかと言って歩きはじめたのだが、どうも何かピッタリ来ないで、前述の印象が特に感じられ驚く。

 また、道後温泉の近くでは商店の奥さんに道を尋ねたら、もう40歳ぐらいになる女性なのに、自分の嫁ぎ先の家が東西南北のどちら向きに建っているのか知らないと言う。地図の読めないナントカに話を聞かないナントカという本があったが、それ以上のスーパー奥さんで呆れてしまった。結局手持ちの地図を示してここがどこかと現在位置を聞こうにも全くお役に立ってくれなかった。

 漸く着いた太山寺(たいさんじ)は、山門から奥に片道850mという前代未聞の寺だった。着いたと思ったら実はまだだったという感じで、いろいろな寺があるものだと驚く。その後53番円明寺(えんみようじ)を打って今夜の宿「民宿伊予路」を探すが見つからない。堀江郵便局前で座り込み電話をかけたら「今どこにいますか」と訊ねられ、かくかくしかじかだと答えたら、そこから未だ随分遠いことが判る。言われたとおりに行ったら漸く着いたが、何のことはない。珍しく遍路地図に記載している場所が少し違っていたのだった。

 16時22分到着。地図では600m位実際の位置より北寄りに表示されていた。それだったら、円明寺(えんみようじ)を出てからの道も別ルートがあったのに・・・と思うが、時既に遅しである。早速お定まりの洗濯作業をしたが、乾燥機もあったので助かった。
 この民宿では、夕食の時に30畳位ある大広間へ案内されたが、何と客は自分ひとりで、女将がつきっきりで相手をしてくれる。幅広の床の間に見事な掛軸がずらりと掛けられている。圧巻ものだ。自分も88ヵ寺の納経掛軸を持ち歩いているが、ここにあるのはスケールが違う。

 1つは88ヵ寺プラス別格20霊場での108ヵ寺のもの、更には、これまた1枚のでっかい掛軸だが、西国33ヵ所、坂東33ヵ所、秩父34ヵ所、計100観音が1つになっている圧巻掛軸だ。女将がそれとなく自慢そうに説明してくれるのだが、バスに乗って団体で行ってきたのだそうだ。団体の場合は参拝者がいちいち納経所に行かなくても団体バスの運転手などが纏めて納経手続きしてくれるし、金さえ払っておけばできるのだろうが、それにしても見事なものだった。こういう掛軸は特別の時しか作られないので、普通の遍路では入手不可能と思われるだけに、価値も高いと思われる。

 そういえば、札所で納経した時に、その寺のご本尊のお姿を黒印刷した紙片(お御影<おみえ>とかお姿と呼ばれる)をくれ、人によってはこれで掛軸を作ったり、アルバム式に並べて保存できるものも売られているのだが、瀬戸のしまなみ街道だったかの完成直後には色刷りのものが記念に作られたそうだ。これなども同じ類か。ほかにも、見事な掛軸がいくつか掛けられていたが、「こんなの見たことない」という超珍しいものばかりで、ほかではなかなかお目にかかれないお宝ものだった。

2002年4月4日(木)
 やっぱりね 瀬戸内海は 平和ぞなもし


 7時07分民宿伊予路を出発。県道39号から国道196号に入り、しばらく行くと左手に穏やかな瀬戸の海が見えてくる。心地よい潮の香りと共に朝の清々しい涼風が頬に当たる。“ああ、いい気持だ。やっと瀬戸内に来たぞ”と実感する。しばらく行くと登校途上の小学生の女児が来たので「オハヨー」と言ったら「おはようございます」と元気な明るい返事が返ってくる。挨拶って本当にいいものだ。

 今回の遍路行は、事前のトレーニングも充分してあったので、わが足は快調である。殆ど不平を言わない。程なく松山市から北条市へと入る。番外の養護院を過ぎてから右に入り、これまた番外霊場だが「鎌大師」へ向かう。

 今回の遍路では、88ヵ所は当然の本来目的として、それ以外の別格20霊場や番外霊場、奥の院などは原則的に行路の通りすがりにある場合のみ軽く手を合わせてお参りにもならぬお参りをする程度でご勘弁戴いているが、これから行こうとする「鎌大師」は明らかに目的を持って向かう所だ。

 鎌大師の庵主さんは、手束妙絹(てづかみようけん)さんといい、明治42年4月生まれのご高齢だが、この妙絹さんが出された本「花へんろ一番札所から」、更にこれに感動して買った「お遍路でめぐりあった人びと」等を数年前に読んで、是非一度お逢いしてお話ししたいと思っていた方である。「人生は路上にあり」という本もあるが、これは一般の書店では手に入らない。

 北海道生まれ、台湾育ちで小学校から東京。女学校卒業後結婚して一男出産、名古屋に住み、終戦後独り身となり、農場の炊事係、紡績工場の寮母、パキスタンの紡績工場のハウスマネジャーなどを経て、昭和40年から熱海に在住し、そこで茶花道・煎茶道教授をしながら昭和42年に曹洞宗得度。

 この間、15回の四国徒歩遍路を重ね、そのご縁で昭和54年末から愛媛県北条市の鎌大師堂庵主となられ、俳人協会会員でもあるという方である。このことをくちコミやインターネット情報その他で知っている歩き遍路の多くは、ここを訪れ、庵主さんのお人柄に益々傾倒していくようだ。

 小さな池を右手に見てなだらかな坂を登った右側に、鎌大師堂はあった。腕時計を見ると9時35分だ。境内にはベンチや水場が設けられている。ベンチにザックを降ろし、大師堂にお参りする。般若心経もよむ。

 大師堂に向かって左側に庵主の居宅があるが、あいにく白いカーテンが全面におろされていて、まだ休まれているのか、それともお体の具合でも悪いのか、不明である。もしそうだったら、ご高齢でもあるし、お起こししては申し訳ない、そう思って残念だがお逢いするのは断念し、庵主のご健康をお祈りしつつ鎌大師を後にする。

 そこからは、小さなサミット越えになるが、坂を登っていたら突然若い男がにこにこして近づいてきて握手を求めるように右手を差しだす。拒絶する理由もないから、こちらも笑顔で手を出したら、握るやいやな両手で強く握りしめられ、異様な声を発して握った手を強く上に下にと振り始める。びっくりして手を離そうとするが、ナントカの馬鹿力で強く握りしめられていて、容易に離れない。15回か20回位振られたところでやっと相手が一瞬握力を弱めたようだったので漸く手をふりほどいたが、これには驚いた。

 理由は程なく判明した。すぐ先に施設の建物が見え、向こうから散歩にでも連れ出していたと見える引率の先生に従うそれらしき顔付きの男女の若者たちがぞろぞろと遠足よろしく施設に帰ってくる。中には手を振ってくれる子(?)もいる。オハヨーと言うとみんながオハヨーゴザイマスとちゃんと挨拶が返ってくる。それにしても、ビックリしたぞなもし。

 坂を下りきったら再び海。北条市から菊間町に入る。菊間町というのは全国的にも有名な「瓦」の産地だ。何でも、700年以上続く瓦の街らしい。道の両側にそれを家業としている家々が立ち並び、道ばたのそこかしこに瓦が積まれている。家々の屋根瓦も迫力ある鬼瓦や龍か何かの彫刻入りのものなど、凝ったものが見られる。

 番外の遍照院の先の左手に大きな敷地があり太陽石油と書いてある。そこが太陽石油前バス停になっていたので、まずはベンチで一服する。

 更にまた歩いていて、ふと時計を見ると12時半になっているので昼食にする。民宿伊予路さんが今朝くれたお接待弁当がある。道ばたの木陰でありがたく戴き、腹一杯になったところでまた歩きを開始。

 中学生の男の子が自転車で後ろから追い抜きながら「頑張って下さい」と笑顔を向けて声を掛けてくれる。とっさに「アリガトー」と返事したものの“えっ!男の子だろう?東京にこんな子いるかな?”と思うがとても嬉しい。今朝ほど来の歩き疲れがすうーと無くなっていく気がするから不思議だ。

 次の大西町へと入ったら、オー・ワンダフル!オー・ビューティフル!何ということだ。歩道の脇に赤・白・ピンク・黄など色とりどりのチューリップが植えられている。それも半端な数じゃない。“花いっぱい大西”の立て看板と共に、場所によって異なるが幅2〜5列のチューリップ花段が、延々3kmぐらい続いている。菜の花ではないけれど、“これぞ伊予の花へんろ”と眼も気持も楽しませてくれる。“これって、大西町独特の歩き遍路へのお接待かなもし”と都合良く考えたりする。チューリップにもおませと晩生があるのか、青春まっただ中の花びらから、こっちらのようにしぼみかけているのまでいろいろある。色によって違うのかな?どうもそうらしい。

 15時10分、JR大西駅そばの「あさひや旅館」に投宿。早速日課である洗濯ジーさんを演ずる。全自動洗濯機&乾燥機で大助かり。それにしても、一転してきょうは札所ゼロ。昨日とは大違いぞなもし。でも、明日はまた多くて6ヵ寺の予定だ。

2002年4月5日(金)
 本物遍路と乞食遍路の差は一目で判るぞなもし


 5時50分あさひや旅館出発。空気が清々しい。こう感じる時は、睡眠たっぷりで体調万全の時だ。Aコープに立ち寄り、パン2個を買って食べながら54番延命寺(えんめいじ)に向かうと、程なく大西町から今治(いまばり)市へと入る。ここ今治(いまばり)はタオルの町だ。

 6時41分延命寺(えんめいじ)着、それから途中墓地の中の遍路道を通って7時50分に今治(いまばり)市の中心街かつ今治(いまばり)駅前近くの55番南光坊(なんこうぼう)に着く。

 真念の「四国遍路指南」によれば、南光坊(なんこうぼう)を三島宮と書き、「是ハ三しまの宮のまへ札所也。三島までハ海上七里有、故に是よりおがむ」とある。別の本でも社は三島明神、宮守を金剛南光坊(なんこうぼう)といふ。本尊大通智勝仏・・・・で、要するに南光坊(なんこうぼう)は日本惣鎮守として有名な大三島にある大山祗神社の数ある坊の1つに過ぎなかったようだ。北隣に別宮大山祗神社で、明治の神仏分離以前はここが札所だったらしい。

 ついでに書いておけば、一宮に関して調べているとき、こんな記事をインターネットサイトで見つけた。

  一番初めは一宮(いちのみや)
 二に日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)
  三は讃岐(さぬき)の金比羅(こんぴら)さん
  四は信濃(しなの)の善光寺(ぜんこうじ)
  五つ出雲(いづも)の大社(おおやしろ)
  六つ村の天神(てんじん)さん
  七つ成田(なりた)の不動(ふどう)さん
  八つ八幡(やはた)八幡(はちまん)さん
  九つ高野(こうや)の弘法(こうぼう)さん
  十で所(ところ)の氏神(うじがみ)さん。

一宮とは

  一宮(いちのみや)とは、昔の66ヶ国の各々において、中央からのお達しなどを最初にその神社に伝えることになってい た神社で、多くはその国において最も格式の高い神社ということができます。
  ただし伊勢神宮のように、別格扱いで、一宮にはなっていない例もあります。出雲の場合も、昔は一宮は熊野大社でし たが、出雲大社に譲っております。そのため毎年10月15日には出雲大社から熊野大社に餅が贈られ、熊野大社の社 人がその餅に難癖を付けるという行事が行われます。

 8時41分56番泰山寺(たいさんじ)着。お参りを済ませて出ようとしたら、若い僧籍かも知れない遍路が門前に座り、前に托鉢用の鉢を置き、合掌姿勢で瞑想している。その姿に何かぴーんと感じるものがあり、修行の邪魔にならぬよう、そっと100円玉を入れる。

 歩き遍路も、本来は民家の前に立ち、その家の先祖の菩提と一家の繁栄を祈願する托鉢行を一日七軒以上行うがよいとされているようだが、今時そんな歩き遍路は皆無に近かろう。だが、何かその青年のしゃきっとした背筋の伸びた瞑想の姿を見て、自分とは次元の異なるただ者ならざる何かを見た気がしたのである。

 泰山寺(たいさんじ)を出て蒼社川を渡り右折、小高い丘の上の57番栄福寺(えいふくじ)に9時53分着、更にそこから犬塚池のほとりを経て作礼山という高さ280mにある58番仙遊寺(せんゆうじ)へ向い、10時47分着。この登りの急坂は結構きつかった。団体遍路バスがすいすい追い抜いていくが、こちらは1馬力ならぬ初老の1人力だ。

 次の59番国分寺(こくぶんじ)まではちょっと距離がある。と言っても、今日のコースの中ではという意味だが、6.1kmだ。途中、パン屋があったので、買ってまた食べながら歩く。田舎道だから人も殆ど通らないのでこういう時は好都合だ。

 13時01分到着。門前にある商店から女店員が出てきて、「これ、お接待です。どうぞ」と汗拭きタオルを下さる。そういえば想い出したが、何でも、ここの社長が遍路に大変理解のある方で、歩き・バスを問わず、国分寺(こくぶんじ)に参られる遍路1人1人に自家製のタオルをお接待していると何かの本で読んだことがある。ありがたいことだ。

 お参りをして出ようとしたら、先ほど門前に座り込んで盛んにこちらにウインクならぬサインを送っていた遍路姿の男が、媚びを浮かべたお追従笑いの顔を向け、盛んにモーションを送ってくる。最初見たときに、一目で「ああ、こいつは乞食遍路だな」と思ったものだから無視して通り過ぎたが、泰山寺(たいさんじ)前の瞑想遍路とは月とすっぽんの大違いである。「こっちら、長年生き馬の目を抜く世界でやって来てるんだい。本物と偽物の区別ぐらいは一瞬さ!」とは、例によって声なき声。

 ここからきょうの宿「ビジハウスイン国安」までは10.8kmある。近くまで来て道順が判りづらい。電話したら漸く判り、到着したら驚いた。名前はハイカラなのでビジネスホテル風の所を想像していたら、180度正反対だった。

 幸いにも、オヤジさんも女将さんもいろいろ親切にしてくれるが、まあ片手間に遍路宿をやっているって感じだ。洗濯を済ませ、外に干していたらパラパラッと夕立らしきものが来て、急いで軒下に入れる。いろいろな経験ができるぞなもし。

2002年4月6日(土)
 遍路ころがし 伊予でも終わって 一安心ぞなもし


 6時13分出発。女将がお昼のためにお握り弁当をお接待してくれる。ありがたく頂戴して60番横峰寺(よこみねじ)へと向かう。横峰寺(よこみねじ)は、西日本最高峰(1982m)と言われる「石鎚山」の中腹にあり、山自体が行者の修行の場にもなっているらしい。遍路ころがしの1つに挙げられるこの寺は、海抜745m地点にあり、山の経験皆無の自分にとっては、中途半端な高さではない。

 田舎の道を県道150号、155号、147号と右折・左折を繰り返しなら進み、道はやがて右に高い残雪を頂いた石鎚の山々を見ながら登っていく。妙雲寺、大郷集会所、八幡神社と目印を次々にクリアーする。

 途中、急坂登りに備えて路端で靴・靴下を脱ぎ、肉刺(まめ)予防のテーピングテープを貼る。漸く舗装路が切れた所が300m地点らしい。高みに四国の道休憩所の四阿があり、遍路や地元の人らしい人が何人か高みの下の石垣そばから湧き出る水をくんだり、飲んだりしている。時に9時38分。

 ここから四阿のあるところへ石段を登ってそれから本格的な登山道だ。約450mの高低差を1.6kmの距離で登らなければならない。携帯電話を取り出してみたが、やはり液晶画面にはアンテナは立っていない。docomoといえども「圏外」である

 10分休憩していよいよ登りだ。32分で登り終え、10時22分に60番横峰寺(よこみねじ)に到着。やれやれだ。お参りしてから腹がへっているのに気付き、お接待で戴いたお握り弁当をベンチで食べる。

 さあ、「下りも気合いを入れないと」と11時52分山頂を後にして下りの遍路道に入る。山の中、何もない。ドンドン高度を下げ、61番奥の院の先の四国の道休憩所に着いたのが13時21分。小休止して61番香園寺(こうおんじ)を目指し、更に山道を降りていく。

 「伊予の子安さん」と親しまれ、安産・子育ての霊験あらたかな香園寺(こうおんじ)、62番宝寿寺(ほうじゆじ)を打ち終え、きょうの宿「ビジネス旅館小松」についたら、玄関は開いているが誰も出てこない。更に呼んでいたら2階の階段上から先着の泊まり客らしい遍路さんが、「留守みたいですよ」と言う。さて困ったなと思ったら、玄関内側に張り紙があり、そこが兼業先の店らしいが電話番号が書いてあったので電話して漸く部屋に上がった。

 ところが、2階の3人相部屋らしく、それはいいのだが珍しいというか久しぶりだ。夕食前になったら、「お客さん、こっちへ来て下さい」と1階の洋間に自分1人案内され、「こちらで休んで下さい」と言う。よく見ると、テレビ付き、ロック付き、セミダブルベッドに応接セット付きで、文句の付けようがない。ありがたやありがたやと単純に喜ぶ。全自動洗濯機、乾燥機完備でベリーベリーベリーグッド。


2002年4月7日(日)
  伊予の札所 残り少なくなったぞなもし


 6時56分、ビジネス旅館小松を出発。1.5kmで63番吉祥寺(きつしようじ)に着く。故郷高松に通ずる国道11号沿いである。そこから国道沿いの旧道に入り、更に東へ3.2km行くと64番前神寺(まえがみじ)だ。8時27分に打ち終えてしまうと、後はもう今日巡拝する札所はなく、明日の65番三角寺(さんかくじ)で菩提の道場も終わりになる。

 歩いていると、杖代わりと思しき乳母車を押したおばあちゃんが向こうからやってくる。自分の姿を見つけたと思ったら立ち止まり、急に手提げ袋を取り出して中をもぞもぞやり始める。“ははあーん”と思ったら予想どおりお接待だ。200円も下さる。おそらくそんなに多くはないお年寄りの小遣いだろうに、申し訳ないが、お大師さまへのお賽銭だと思ってありがたく戴き、合掌答礼する。

 この辺りは西条市だが、やがて新居浜市となり、さらに土居町(その後合併で四国中央市)へと続いていく。ひたすら歩いて途中のガストで昼食を摂ったが、後はまた、ひたすらウォーク&ウォークで今日の宿「松屋旅館」に15時06分到着する。ここも全自動洗濯機に乾燥機があり、臨時独身の初老には便利だ。

 今日は、日中特に書くようなことも無かったが、夕食時に一緒になった同宿の遍路から、凄い話を聞く。聞かせてくれたのは50歳位の男性遍路、話の対象はこれまた同宿の20代後半の姉妹遍路にまつわる物語である。この男性遍路は、その姉妹と前日も同じ宿だったそうで、その時に聞いた話だとのこと。

 その姉妹というのは、もちろん独身だが、双子のように背丈も体型も顔もよく似ていて、すらりとしたお嬢さんたちだが、その母親が熱心な遍路経験者で、その姉妹にとっては一番最初に母に連れられて四国88ヵ所を歩いて回った由。そして話はそれからだが、何日か何ヶ月かしら経ったら、その母親が「今度はおまえたち2人で行って来なさい」と言い、行ってきたらその母親が曰く。「お前たちはお遍路して何を得てきたのか」。そう娘たちに問うたそうな。

 ろくに気の利いた返事もできないでいたところ、また「行って来なさい」と言われ、行って帰ったらまた同じ繰り返しで・・・・・と、今回で8回目だとのこと。「何を得てきたか」を問い続ける母親、母親の気に入る答えができるまで「また行ってこい、得てこい」と言われ続ける娘たち。世の中は本当に広い、本当にいろいろな人がいるものだ。

 ところでこの男性、「明日はどちらで泊まられますか?」ときた。どこも何も明日泊まれる宿は雲辺寺(うんぺんじ)への登り口にある「民宿岡田」しか無いことは、歩き遍路を考える人なら誰でも知っているイロハのイだ。そこで、「民宿岡田」を予約してあると言うと「そうですか。いいですね。私はもう満員だと言って断られてしまって困っています。」と言う。

 泊まりの予約は、その日の午前中ぐらいまでならかなりの所が宿泊可能な場合が多いが、ここで断られたらほかには代替の宿がないという、ポイントになる箇所というのが何ヵ所かあり、その最たる所がこの民宿岡田である。

 じつは、ここも老夫婦でやっていたが、つい先年女将が急逝され、一時休業していたらしいが、ほかに宿はなく、ここが営業を止めたら、歩き遍路は続けられないSOS地点になっている所である。 そのことを百も承知のご主人が何とか遍路のためにとまた細々と営業を再開してくれているというのが実態の宿である。この種の遍路宿情報は然るべく仕掛けているインターネット情報で比較的早く入ってくるようにしてある。

 “仕方ない。しからば自分がここはお大師さまの代役になって、この人をお助けしてやるか”と殊勝な気持ちになって、携帯電話で民宿岡田のご主人に電話し、「自分は相部屋でもいいから困っているこの人を、同室に泊めてあげる訳にはいかないだろうか」とお願いしたら、「お客さんがそれでいいのだったら、じゃあお受けしましょう」と言ってくれ、件の男大喜びして三拝九拝する。考えてみれば、二晩連続して一緒の宿に泊まる遍路仲間は久しぶりだ。確か土佐で沖縄のYさんとの同宿以来だが、明日は相部屋だ。

2002年4月8日(月)
 “翔ぶが如し”とは この姉妹遍路のことぞなもし


 6時42分、松屋旅館出発。今日は同行者がいる。今夜相部屋することになった男性だ。国道11号沿いの遍路道を歩くが、国道の方が現在位置が信号やバス停で確認しやすい。例の姉妹遍路はというと、同じ道を通っている訳ではないが、追い抜いたり追い抜かれたりで、結局三角寺(さんかくじ)到着時点では姉妹の方が早かったと思われる。

 「へんろ別れ」と遍路地図に記された所から右折して登り道に入り、戸川公園で野宿の青年遍路が顔を洗っているのと挨拶を交わし、一服してから三角寺(さんかくじ)への本格的な登山にかかる。500mだから、ちょっとしんどい。

 それでも、伊予最後の札所となる65番三角寺(さんかくじ)に10時30分に到着し、途中で買っておいた昼食代わりのパンを食べる。11時03分山頂を出発し、一昨日の横峰寺(よこみねじ)同様に下りにかかる。延々と歩いている内に車がきたので避けようと道の右側の側溝に近づいたら、足許不注意で側溝に右足をつっこんでしまい、靴がぐしょぐしょになる。しまったと思ったときはもう遅かったが、幸いなことにハイカットのトレッキングシューズで防水も一応してあるので、中までは汚水が浸透せず、助かった。

 平山集落の付近で判りづらい所があり、車で通りがかりの農家の人らしき人に尋ね、何とか判ったが、高知自動車道の工事の橋桁などができていて、なかなか判りづらかった。

 漸く国道192号に出るところにきたら、左に番外霊場常福院(じようふくいん)(通称椿堂(つばきどう))があり、例の姉妹が庵主さんと親しそうに話している。8回目ともなるとそういうことかと納得しつつ横目に見ると、まだ話が続きそうなので、しからば今の内にと、先行を試みたが、しばらくして後ろを振り返ると彼女たちがひたひたと迫ってきている。驚いたが、何しろスピードが化け物クラスだ。当然ながら追いつかれ、追い越されるが、疲労の蓄積しかかっている初老には、朝と違って抜き返す気力も体力もない。

 彼女たちが早いには、幾つかの理由があると、たいしたこともないオトコのメンツをつぶされた者として考える。
* 彼女たちは、足が長い。
* 彼女たちの背中のザックは、不思議なぐらい超少量で、おそらく目方も超軽量に違いない。
 (なぜそんなに少ないのか是非聞きたいところだが、相手が娘さんでは支障があろうと思いとどまる)
* 彼女たちは8回目であり、道順は地図を見る必要なく、難所の場所も事前に判っているのでペー  ス配分が上手にできる。

である。

 しかーし、である。人間、自分の身丈に合わせた自然体が一番楽、一番歩きやすい。男が女に負けたっていいじゃないか、100%等身大の自分で十分じゃないか、実力以上に自分を見せる必要など考えてみればもうどこにもありはしないんだ・・・そんな言葉が頭の片隅から囁きかけてくる。確かに、現役中には背伸びして自分を見せようとしたことはあったろう。でもそれは所詮自己満足、自己欺瞞だったように思える。同行二人・・・お大師さまと歩いていけばいいんだと納得する。

 だらだらと国道を登りながら進むと、道は愛媛県(川之江市)から徳島県(池田町)に通ずる境目トンネル(全長855m)に達する。ここを抜けると、民宿岡田まであと1キロ半だ。海抜は240mの地点らしい。

 民宿岡田に着いたら、彼女たちはもう洗濯がほぼ終わっていた。いやはやおそれいりました。早速洗濯に入浴と定例行事をこなし、お楽しみの夕食膳に着く。老ご主人は本当によくやっておられる。元教職の人だとか聞いたような気もするが違っているかも知れない。

 Mr.相部屋、健脚姉妹のほかに、明日以降讃岐の札所を殆ど前後して一緒に回ることになる埼玉県坂戸市のKさんや、大阪は富田林市のEさん、川崎市のTさん、盛岡市のMさん等、何名かの歩き遍路達と一緒に、目前になった難所で標高910mの雲辺寺(うんぺんじ)についていろいろ話に花が咲く。民宿のご主人がいろいろとアドバイスしてくれる。「送電鉄塔のある所までが苦しいが、そこまで行けば後は楽ですよ」・・・・と。

 ようし、頑張るぞと、Mr.相部屋(名前を聞いたが記録なく忘却)と相部屋で寝る。彼は、例の姉妹が健脚にものを言わせて明日相当な距離を歩く予定だと言っていたのを聞いて、自分もそうしたいので朝は彼女たちと一緒に早く出ると言って、相部屋してくれた礼をはやばやと言う。彼とはおそらく今夜が最後だろう。

2002年4月9日(火)
 大興寺
(だいこうじ) 友人O君 合流す

 6時43分出発。民宿のオヤジさんが「曲がり角まで一緒します」と言って先頭に立って案内してくれ、夕べ相宿のKさんとEさん、それにTさん・Mさんを含め5人が従う。ほどなくオヤジさんと別れた後、Eさん・Mさんは「私は足が遅いですからどうぞ先に行って下さい」と言うので、3人旅を始める。

 坂戸市のKさんは40歳前後で背は低いががっちりしたスポーツマンタイプの人。自動車のN社勤務と言っていたから休暇での通し打ちだろうが、重いビデオカメラを持っていて、それでいて足取りは一番軽く、先行しては後続の2人を待ってくれる。
 富田林のEさんは、70歳過ぎの白髪で姿勢のいい晩酌好きの好々爺である。これまでKさんと数日間一緒歩きしてきたらしい。もう1人が小生だが、後続のTさんは見るからに肉刺(まめ)でもできているのか、痛々しいような歩きぶりだったが、いつの間にか見えなくなった。
 このKさんは、この後いつの間にか自分の姿も撮ってくれていて、後日のことだが、撮ったビデオを編集して全3巻を自宅宛送ってくれたので、早速礼状も出し、彼が旧東海道歩きにも興味を持っていたようだったので、いろいろ情報提供してあげたら、年賀状も来たりして、その内に新宿あたりでイッパイやりながら懐旧談でもしましょうと言っているが未だ実現していない。現役は忙しいのだろう。

 さて、民宿を出てから10分後に山道に入ってからは、文字通りぜーぜーはーはーだが、富田林のご老体はなかなかのもので、自分とは対等以上だ。何とか頑張って88ヵ所中最も高い位置にある66番雲辺寺(うんぺんじ)の山門をくぐったのは、民宿出発後1時間56分後の8時39分だった。遍路地図では、雲辺寺(うんぺんじ)口から雲辺寺(うんぺんじ)まで登坂3時間と書いてあったので、同じ距離で言えば自分たち3人は1時間46分で登った計算になり、まずまずと評価できそうだが、本には所要時間を多めに書いておいたのかなと思わないでもない。

 ここ雲辺寺(うんぺんじ)は、分類上讃岐23ヵ寺の最初の寺、いわゆる涅槃の道場の最初の寺であるが、行政上での位置は徳島県池田町である。ただ、境内全体で言えば、境内の中を香川県と徳島県の県境が縦断しているようだ。

 Kさんがビデオを盛んに写している。何年か前から雲辺寺(うんぺんじ)には香川県側からロープウェイでも登れるようになったが、もとより我らには関係がなく、9時07分にはKさん、Eさんと3人で香川県側に山道を下り始める。67番太興寺(だいこうじ)目指して落ち葉を踏みしめながら、またきわどい山道を慎重に降りていくが、下りの方が足への負担が大きい。

 漸く11時36分に太興寺(だいこうじ)到着。境内のベンチで懐かしい顔が待ち受けてくれている。会社時代の同期生のO君で千葉からの参加である。自分が遍路すると言ったらほかの関心ある仲間と何度か新宿で遍路同好会をやって盛り上げてくれ、壮行会までしてくれた友人の1人だが、将来彼も歩き遍路をやってみたいということで、いわば予行演習のような形で参加させてくれないかとの話が現実化したもの。今日から88番大窪寺(おおくぼじ)まで自分と同行遍路し、14日昼に88番大窪寺(おおくぼじ)を打ち上げたら、その足で千葉へ帰る予定である。

 お参りを済ませ、境内のベンチで民宿岡田からのお接待弁当(O君は予め買ってきた弁当)を食べ、久方ぶりの再会を懐かしむ。

 次の68番神恵院(じんねいん)と69番観音寺(かんおんじ)は珍しく同一境内にある。そこまでは8.7kmだが、ここで大失敗をやらかす。O君と小生、それからKさん・Eさんの4人で出発したのはいいが、途中ではてな?と道がおかしいのに気づく。

 聞くと、K・E両氏は70番本山寺を先に打つべくそちらに向かって歩いているとの返事だ。てっきり観音寺(かんおんじ)方面に向かっていくものと頭から信じていたので、自分自身で確認しないでついて行っていたのが原因で、O君には合流早々から申し訳ないことになった。と言っても、決定的なロスには至らない段階で気づいたのでまだ不幸中の幸いだったが、要するに太興寺(だいこうじ)を出て国道377号に出たところで左折するべきところを右折して、K・E両氏について行ってしまったのである。

 若干のロスは生じたが、昭文社の県別地図のコピーを携行しているので、こんな時にも行路をどう補正すればいいかは一目瞭然で助かった。やむなくここでK・E両氏と別れる。財田川を挟んだ向こう側が目的の札所で、こちら側が今夜の宿泊予定地だ。橋を渡り神恵院(じんねいん)・観音寺(かんおんじ)にお参りする。納経所も1ヵ所になっており、得をした気分とちょっぴり味気ない気分が交錯する。

 「もともと神恵院(じんねいん)も観音寺(かんおんじ)も山頂に建つ琴弾神社の別当で、明治初年の神仏分離で神恵院(じんねいん)の本尊阿弥陀如来の居場所がなくなり、この時に観音寺(かんおんじ)の西金堂に移され、以来同居となったらしい。どちらの本尊も弘法大師作ということでトラブルがないのだろう」ということらしい。

 この一体は標高58mの琴弾山(ことひきやま)の公園になっており、登れば海岸の砂浜に掘られた大きな寛永通宝などが見られるらしいが、観光目的でないことと、雲辺寺(うんぺんじ)登りから始まって、道間違えで余分に歩いた疲労もあったので、先ほどの橋を渡り返して、予約してある「観音寺(かんおんじ)観光ホテル」を探す。到着は15時35分。

 名前は立派だが、実態はどこが入口か表に回ったり裏に回ったりで戸惑った程だが、中身は悪くない。早速洗濯をして、一服後付帯設備である食事処でO君歓迎の祝杯を挙げる。やはり1人で飲むのと違って旨さが違う。ましてや気の置けない入社以来の仲間だから殊更だ。

 涅槃の道場と言われる讃岐・香川県は札所数が23ヵ寺だが、自分の予定では初日の今日を含めて5日半で回れる。よくここまで来れたという思いの反面、もうあと4日半しかない・・・間もなく遍路が終わってしまう・・・という寂しさめいたものも心の中に生じ始めてきたようで、心境は複雑だ。

2002年4月10日(水)
 お大師さまの 故郷“善通寺”は超でっかい

 6時55分、昨日の三架橋を渡って札所の手前から財田川の川岸沿いに行くと70番本山寺(もとやまじ)だ。Kさん・Eさんはこの近くの本大ビジネスホテルに泊まった筈だ。次の71番弥谷寺(いやだにじ)は12.2km先だが、死霊の集まる山とされる剣五山(382m)の中腹にあり、麓から寺まで21分もかかった。

 谷間の登り坂の参道が260余段の石段をはじめ数百メートルの賽の河原になっており、石の地蔵が点々と並ぶ。途中に「俳句茶屋」というのがあり、店内には俳句が天井と壁とを問わずいっぱい架かっているが、ここはお参りの後立ち寄って昼食にした。山自体がタイムスリップした他界の空間とされている。

 次の72番曼茶羅寺(まんだらじ)と73番出釈迦寺(しゆつしやかじ)は400m位の至近距離にある。曼茶羅寺(まんだらじ)は弘法大師の先祖佐伯氏の氏寺として推古4年(596)の創建だそうな。出釈迦寺(しゆつしやかじ)も山号が同じく我拝師山である。74番甲山寺(こうやまじ)を打ち、いよいよ聖地善通寺(ぜんつうじ)に到着する。時に14時48分。お大師さまゆかりの寺で、スケール・雰囲気など全てが他の札所とは別格・別世界の感がある。

 O君が以前職場が一緒だった先輩のOさんが徳島から駆けつけてきてくれ、歓談している。先輩のOさんも以前、車で88ヵ所参りをしたことがあるとOさんの同期のTさんから以前に聞いていたが、遍路には人一倍ご理解があるのだろう。小生にまで手土産の菓子を持ってきてくれ恐縮したが、はるか以前名古屋で勤務の頃、おなじ本部内でOさんと一緒だったこともあり、たまには酒やゴルフもご一緒した間柄だったので、お元気そうな姿を拝見して、心のやすまる思いがした。
 今日の宿はこの近辺でと何ヵ所か以前に電話したがなかなか希望どおりに行かず、結局「一富士旅館」を予約したのだが、若干探して街の人に聞いたら裏通りに入った所だった。15時25分着。

 老ご夫婦の経営される旅館だが、よくよく話を聞いてみると、ご子息が曾ての我らと同じ生保会社に勤めていることが判り、お互いにビックリする。所属を聞いたり年齢を聞いたりしたが、世代も違い、畑も違うので知らない後輩だが、ご両親は息子のことをどうぞ宜しくとサービスこれ努めてくれる。洗濯物もお接待で乾燥までやって、きれいに折りたたんで部屋まで持ってきてくれたり、夕食の時も女将がつきっきりでサービスしてくれる。ダンナも笑顔を絶やさない。親の愛情というのは本当に凄いものだとあらためて思う。また、縁は異なもの味なものというのはこういうことか?
 結局、きょうは6ヵ寺打ったが、明日の予定は5ヵ寺。“あー残り少ないー、終わってしまうー”というのが正直な感想だ。

2002年4月11日(木)
  おじいちゃん 硬貨どっさり お接待


 6時50出発。国道319号に出たところで、コンビニを見つけたO君がちょっと待ってくれと言う。O君、一昨日、昨日と2日間歩いてみてどうも荷物が重すぎると言っていたのだが、一部を宅配便で送りかえすという訳だ。ああ、その方がいいよと言って交差点で待っていると、通りがかりの人が「ごくろうさまです」とか、「がんばってください」とか、暖かい言葉をかけて下さる。

 再びO君と76番金倉寺(こんぞうじ)を目指し、途中から国道の右側の遍路道に入る。金倉寺(こんぞうじ)のすぐ隣にある郵便局は「金蔵寺(こんぞうじ)局」で、JR駅も「金蔵寺(こんぞうじ)」であり、おなじ発音なのにややこしい。善通寺(ぜんつうじ)が弘法大師誕生寺なら、金倉寺(こんぞうじ)は智証大師誕生所だそうで、何でも平安期には19人の大師号を持つ僧がいたうち、5人が讃岐出身だった由。

 道は善通寺(ぜんつうじ)市から多度津(たどつ)町、宇多津(うたづ)町と続いていき、77番道隆寺(どうりゆうじ)、78番郷照(ごうしようじ)寺から坂出市の高照院(こうしよういん)へと進んでいく。79番高照院(こうしよういん)は、保元の乱に破れ讃岐に流された崇徳上皇が恨みの中で崩御され、訃報を京へ奉聞する間、上皇の棺を当寺に安置したことから天皇寺(てんのうじ)と改号されたが、神仏分離令により本尊を末寺だった高照院(こうしよういん)に遷座し、札所高照院(こうしよういん)になった由である。

 途中、坂出駅前のうどん屋で、うどんと肉玉丼セットの昼食を摂る。出てしばらく行ったら、向こうから来たおじいちゃんが「これお接待だ」と言って、布袋に入った硬貨の袋を差しだす。受け取ってみるとたっぷり入っていて重い。ありがたく戴いて、お名前を聞いたら「高崎だ」と言う。

 しばらくして、歩きながら中を覗くと、10円玉やら5円玉やらがどっさり入っている。目分量で半分に分け、O君に半分渡す。このお金は、以後高崎さんの健康をお祈りしつつ、各札所でのお賽銭に使わせて貰ったが、おそらくあの高崎さんは、遍路に逢ったらあげようと貯めていたものだろう。南無大師遍照金剛(なむだいしへんじようこうごう)。

 連日好天に恵まれていたのに、高照院(こうしよういん)を出た頃から雨が降り出し、レインウェアを着るが、鬱陶しい。80番国分寺(こくぶんじ)に着いたら14時40分だった。昔、子供の頃この近くの国分八幡宮へ母に連れられて、電車に乗ってバスに乗って歩いて・・・と、毎月の如く一日がかりでお参りに来ていたことを想い出す。あれも小高い山の上だったなあと思いつつ周囲を見渡すが、雨で見通しが悪い。
 途中Kさん・Eさんらとまた出逢い、前後しながら国分寺(こくぶんじ)に着いたが、今日の宿はすぐ近くの「えびすや旅館」だ。15時10分到着。明日の山登りに備えて近くの自販機でペットボトル茶を買い込む。民宿岡田以来2度目の同宿となったKさん・Eさんを交えて、ビール・酒つきの夕食時がまた楽しい。

2002年4月12日(金)
  山登り 山駆け下りて ふるさとへ


 6時48分出発。この日もKさん・Eさんたちと、つかず離れずの同行行脚となった一日だ。宿を出てしばらく行ったところで若干ややこしかったが、雨が上がっているので助かる。山に向かっていくが、坂が急になってもO君はすいすい登っていくのに、自分はぜーぜーはーはーのお得意パターン。

 そう言えば、弥谷寺(いやだにじ)の坂でも彼は楽々登っていたが、同じ年でこんなに違うものかなあと残念がるが、実力の違いでしょうがない。平地歩きなら十二分に対等の付き合いができるが、地球の引力に抵抗するのは苦手だ。後日判ったが、これは永年の生活(?)パターンの違いで生じた「心肺能力」の差だ。

 約1時間後の7時57分一本松の峠に出て、小休止のあと白峰寺(しろみねじ)方向への山道を進む。9時ちょうどに到着し、9時22分に折り返して、82番根香寺(ねごろじ)への分岐点を10時14分通過。10時30分に「みち草」という尾根上の食堂に入りうどんとおでんの昼食をする。向いの席にいた男性客が帰り際に話しかけてきて1000円お接待してくれる。聞けば高松競輪に出ているとかでていたとか話していた。早速それでO君と2人分の食事代の足しにさせて貰った。

 10時47分に店を出て、11時06分に根香寺(ねごろじ)到着。きょうの前半がこれで終わる。ここから83番の一宮寺(いちのみやじ)は遠い。また、東南方向なので東西南北が中心の道を鍵型に右折左折を繰り返すややこしいコースとして有名で、多くの歩き遍路が自分の現在位置が解らなくなるコースである。

 逆打ちして、国分寺(こくぶんじ)から行けば、ほぼ一本道に近い解りやすい所だが、始めての遍路には悪評判の区間だ。最も、一宮(いちのみや)生まれ、一宮(いちのみや)育ちの自分は大体の土地勘があるからその東方の山の形を覚えていて、あの方向に向かっていけば、近づけばおらが庭だとO君、Kさん・Eさんと共に山下りを始める。鬼ヶ島伝説にまつわる「鬼無(きなし)」という所へ降り、それから右行左折が始まる。郷東川を渡り、新たにできている高松自動車道下をくぐり、懐かしの母校一宮(いちのみや)小学校までくると、後は目をつぶっても行ける。

 14時23分に83番一宮寺(いちのみやじ)到着。向こうは知らないが、子供の頃から知っている住職夫人の加藤さんが納経所で掛軸に墨書押印してくれる。ご主人は既に故人だが、その昔はわが勤務先の代理店を引き受けてくれていたことを想い出す。

 14時57分、勝手知ったる自分が先頭に立って、高松中心部の方角を目指し出発。今夜の宿は、Kさんは一番遠くまで行く屋島(やしま)方面、Eさんは天下の名園栗林(りつりん)公園の近く、O君と自分は、中心街、琴電(ことでん)瓦町駅近くのビジネスホテルアサノだ。最初はホテル・ダイマルインを予約していたが、確認したら乾燥機がないと言うので「こまったなあ」と言ったら相手の女性が「それでしたら、系列ですぐそばにコインランドリー設備のあるホテルがありますから、そちらになさったら」と言って教えてくれたのが「BHアサノ」だった。

 約5キロぐらい歩いた所でKさんと別れ、栗林(りつりん)公園前でEさんの泊まるホテルを探してあげ、われらのホテル到着は16時40分だった。本当は,一宮寺(いちのみやじ)近くの実家にも寄りたかったが、友人と同行だし、他の遍路仲間もいるので今回は遍路に徹することにしていた。

 早速洗濯乾燥作業をO君と2人でやり、夕食は近くの大衆中華料理店で、餃子・野菜炒め・ライス・酒1本で1900円。もっともホテル到着後に自販機で缶ビール1本ドリンク済みだったが・・・

2002年4月13日(土)
  懐かしの 屋島
(やしま)・八栗(やくり)から 長尾寺(ながおじ)

 素泊まり5500円は前夜支払い済みだが、朝食がサービスで付くとのこと。ありがたくご馳走になることにして付属のレストランへ行く。ビュッフェスタイルだが、得した気分になり、7時07分出発。

 勝手知ったる国道11号を屋島(やしま)に向かって進む。真正面からの朝日が眩しい。高松琴平電鉄、通称琴電(ことでん)の志度線沿いの道を詰田川(つめたがわ)、春日川、新川と過ぎ、左折すると84番屋島(やしま)寺(じ)への参道だ。子供の頃は何回もきた所だがいつもケーブルカーだったから、歩いて登るのはきょうが初めてである。朝の散歩をしている人もいるが、自分にとっては散歩気分で登れる山ではない。たかだか284mと言うが、O君がすいすい登った後を追いかけるがいつの間にか後ろ姿が遠くなり、やがて見えなくなる。

 8時43分ようやく到着してお参りする。昔来たときとは目的が違うせいか、やはり受ける感じも違う。ここから次の85番八栗(やくり)寺(じ)へは、源平合戦で名高い屋島(やしま)壇ノ浦古戦場のある東側へ行けば、急斜面を降りる遍路道があるらしいが、どうせ草ぼうぼうのヤバイ道だろうと思って登ってきた道を降りようとしたら、昨夜栗林(りつりん)公園前のホテルで泊まったEさんが山門に入る所で出逢う。「やあ!お疲れさん!」と声を掛け、参道を下っていく。小さな池のあるところから左折してしばらく行った所で明神橋を渡り、146号を一路八栗(やくり)寺(じ)へと進む

 八栗(やくり)寺(じ)は屋島(やしま)と入り江を挟んで向き合う五剣山の南腹にある。ここにも屋島(やしま)同様にケーブルがついているが、ケーブル駅の横から登坂道に入る。すぐ左にあった茶店に立ち寄り、よもぎ餅を頬張り、お握りを買う。ここからの登り道も屋島(やしま)同様にきついが、O君は楽々登っていく。11時ちょうどに標高230mの八栗(やくり)寺(じ)に着いてお参りして11時28分山頂から別ルートを降り始め、途中右手の池の畔でお握り昼食にする。

 それから延々歩いて志度の街に入る。志度出身の平賀源内邸の跡があったが、観光目的ではないので通り過ぎ、13時ちょうどに86番志度(しど)寺(じ)に到着。境内の風景はちょっと他と違うが、うまく表現できない。

 13時38分に志度(しど)寺(じ)を出て、今度は南の阿讃(あさん)山脈方面へと進む。きょうの終着地・長尾である。県道3号線を南へ南へと進み87番長尾寺(ながおじ)に到着する。ここは静御前が尼になった寺(じ)と言われているが・・・。札所もいよいよ残り少なくなってきた。

 門前の前にある幾つかの遍路宿の1つ「やなぎや旅館」に投宿。時に15時42分。O君はもちろんのこと、Kさん、Eさんも同じ宿である。

2002年4月14日(日)
 最後のクライマックス“女体山
越え”で 遂に88番大窪寺で結願(けちがん)

 いよいよきょうは最後の結願(けちがん)日だ。6時54分、同宿だったおなじみの仲間にもう1人几帳面そうな老紳士が加わり、88番大窪寺(おおくぼじ)へと出発する。7時55分前山ダム到着。ここから進路は2ルートに別れる。女体山(によたいさん)越えコースと県道迂回コースである。案内板には詳しい説明書きがあり「女体山(によたいさん)コースは距離は少し短いが時間はT時間ほど余計にかかる。でも見晴らしは最高。足に自信のない人は県道コースを選ぶのが無難」と。

 ここは一番オトコの勝負所で、女体山(によたいさん)という名前が遍路の身でありながら拒否し得ない魅力もあるではないかと、とっくにこちらの山道選択を考えていた・・・というのは他人に言う場合の冗談で、本心は、せめて結願(けちがん)に至る最後ぐらいは折角用意されている眼前の難路を真正面から挑戦し、クリアーして、心の満足感を最高水準に高めたいという殊勝かつ欲張りな考えからであった。他の人たちもおそらく思いは同じだっただろうと想像するが、県道を行こうという人は皆無である。しからばとコンクリートのダムの上を渡って難コースと言われる登坂路へと歩武を進める。

 この辺りが標高120〜130m程度らしいから、女体山(によたいさん)頂上の740m迄、山道、沢道を登り詰めていき、最後は、両手で岩に這い蹲りよじ登る想像外の汗闘を要求されるのだが、岩に這い蹲って上へ上へと目指す関係から、被っている菅笠の後部と背負っているザックの上側がぶつかりあって難儀する。また、手に持っている金剛杖が、道中あれほどお役に立ってくれたとは言え、この時だけは両手で岩に手をやって身体を支えなければならないので邪魔になったりで、漸く岩山の上まで登ったら、一陣の風が全身を涼しく被い、讃岐平野を見下ろす絶景と、遍路最後の難行をやり遂げた達成感、そして難路を登り切れたという安堵感が心臓いまなお静まり止まぬ心身に超心地よい。

 同行した人たちも大同小異だと思うが、一様にこの絶景と快挙に暫し陶酔の感ありと見受ける。さてそれではと、今度は降り始めるが擬木の階段の段差が結構大きく、膝への負担は少なからぬものがあるが、引力への抵抗よりはまだましだと降りていくと、“ごーん”と大窪寺(おおくぼじ)のものと思われる梵鐘が、えもいわれぬ快音として聞こえてくる。

 ようやく着いた。一年がかりだ。妻も連れてきてやりたかった。一緒に結願(けちがん)できたらもっとよかっただろうに・・・と思いながら境内に入っていく。いつもより念入りにお参りする。記念写真を撮って貰う。

 見知らぬ老遍路が奥様の遺影らしきものを胸に抱きしめ、シャッターを押してくれと言う。Kさんもビデオに撮りながら感激の声をナレーションよろしく入れている。3000円もとられるが結願(けちがん)の証明書を寺から貰って胸に抱いて写真に納まっている人もいる・・・・・

 この瞬間、歓喜に涙したという人も多いが、なぜか自分はお参りした瞬間もみじんの涙も出なかった。だが、ベンチに座って留守をしている妻に無事結願(けちがん)できた旨電話して「わぁよかったわ!とうとうやったのねぇ!」という妻の声を聞いたとたんに万感胸に迫り、顔も声がゆがんでしまった。周囲を見渡すと、みなそれぞれの思いで満願の喜びに浸っているように見える。

 結願を喜ぶ妻や 電話口

 大窪寺(おおくぼじ) 満願嬉しや 寂しさも
 ここで、お世話になった金剛杖や菅笠を奉納する人が多いそうだが、私は記念に持ち帰り、義弟宅に預けてある妻の分と共に、また2度目の遍路に使うため、持ち帰ることにした。人によっては自らの棺に入れて貰って、死出の旅路に携行していく人もいるらしい。

 1番札所で新品の金剛杖をつき始めてから、ここまで一体何回ついたことだろう。杖は山道では少し変わるかも知れないが、歩行4歩に1回つくのが普通である。四国一周で普通10cmから雨天が多いときは15cm位禿びるそうだ。ある歩き遍路はその体験記に「185万歩の旅」と名付けている。1200km÷185万歩=1歩当たり65cm弱だから、計算は合っている。4歩に1回なら46万2500回ついた計算になる。これで10〜15cm禿びるのだ。自分のお杖も確かに短くなっている。

 まだ終わった訳ではなく、これから1番霊山寺(りようぜんじ)まで行かないと、お四国歩き遍路の輪はつながらない。仲間たちと門前の「八十八庵」で昼食をする。すぐ近くの遍路宿「民宿八十窪」では満願遍路のために赤飯を出して祝ってくれると体験者の書いた本に出ていたが、自分のきょうの泊まりは再び徳島県である。

 食べ終わってから、太興寺(だいこうじ)以来同行してくれたO君とお別れする。彼は、まだ仕事持ちの身で、月曜日には仕事が待っているので、これから千葉へ帰宅するべくタクシーその他切符の手配も完了している。予定どおりに満願できて本当によかった。

 O君と別れた後、Kさん・Eさんと3人で、一番へのお礼回りをするべく、阿讃山脈越えで10番切幡寺(きりはたじ)方面へ行くことになっている。今夜の宿は、両氏は切幡寺(きりはたじ)近くの某民宿、自分は評判のよい旅館八幡(うどん亭八幡)を予約してある。

 12時10分「八十八庵」出発。それからは三人で歩きに歩き、16時03分漸く切幡寺(きりはたじ)下の交差点まで来る。ここで今夜の宿が異なる両氏と別れ、更に南下して県道12号沿いの旅館八幡(うどん亭八幡)に着いたのが16時23分。鉄筋造りで清潔、応対も感じよく、全自動洗濯機・乾燥機共にバッチリで、和室も10畳以上ある、ロック付きのいい旅館だ。唯一の難は食事で、同じ経営ながら下の店へ食べに行かなければならないぐらいだが、ある意味では好みのものが食べられるのでいいとも言える。

 結願(けちがん)を祝していつもより若干だが多めの晩酌になるが、お大師様もお許し下さるだろう・・・と都合よく解釈する。

2002年4月15日(月)
 お四国(1〜88〜1番)の“胎蔵界曼荼羅”の輪完成


 一泊朝食付き5775円を支払い、6時53分出発。

 お礼回りのルートはいろいろある。
大窪寺(おおくぼじ)を打ち終わってから10番切幡寺(きりはたじ)を経由して1番へと帰っていくルート。
88番から3番金泉寺(こんせんじ)へ出て1番に帰るルートである。
 いずれも途中の各札所をお参りしながら1番へと戻っていくのが基本らしいが、自分は1〜88〜1番という完全な“循環の輪”を作りたかったので、旅館八幡から各札所を経由しないで霊山寺(りようぜんじ)に戻ることを目標としている。
 だから、それこそ一番歩きやすそうで、一番自分の現在位置が確認しやすいルートを選んで、可能な限り俊足で霊山寺(りようぜんじ)に向かった。後で計算すると21.1kmを小休止込みで平均分速88mで歩いたことになり、掉尾を飾るには充分満足ラインであると思う。

 きょうの午後の列車で帰京するので、ぎりぎりにならないよう、リードタイムを持てるよう、持ち前のせっかち丸出しで先を急ぐ。現役時代の効率重視・スピード重視の習慣が身体に染みついていると見えて、“お遍路さん、そんなに急いでどうするの?”と問われてもやっぱり急ぐ、早くやり終わって安心したい、万一のアクシデントがあっても大丈夫なようにしたい・・・という気持がいまもって強すぎるのだ。

 また、ある住職はこう言う。「お礼回りは10番から9番・8番・・・・1番へ」と。その意味は、「かつて初々しい気持で霊山寺(りようぜんじ)からスタートして、今度は満願後、10、9、8、7・・・・・と順番に曾て巡った寺々を再度巡ってみて、当時の気持と現在の気持を比べて見なさい。あなたの何が変わったのか、考え方の何が変わったのか、それらを考え、感じ、検証する絶好の場なのです・・・」。

 通算40余日の歩きの過程で、多くのことを学ばせて戴いた。多くのことを感じさせて戴いた。多くのことを考えさせて戴いた。それだけで私は充分満足している。もし、この四国遍路をしなかったら、一体自分はどんな気持でこれからのリタイア後の生活をしていくのだろうか、人たちとどんな接し方をしていくことになるのだろうか・・・そんなことを考えるとき、「ほんとうに四国遍路をしてよかった、させて貰ってよかった」と心の底から思う。

 11時04分、一年越しの霊山寺(りようぜんじ)に到着し、感慨新たに参拝。一年前に恥ずかしがりながら口の中でぼそぼそとつぶやいていたような読経と異なり、大きな声で般若心経などあげる自分を意識しながら、きょう無事結願(けちがん)させて戴いたことを感謝する。本堂、大師堂はもとよりのこと、最初の時は余裕がなくてお参りできなかった多宝塔・十三仏ほかもお参りする。池の鯉にも挨拶する。四国遍路もこれで終わると思うと、境内の隅々まで記憶に留めんとあちこちに眼を見やる。

 嘗ての自分のように、汚れなき新品の白衣に身を包んだお遍路が、これから四国一周の旅に出発しようとしている。そんな中に、一周してお礼回りに来たらしいお遍路も何人か見える。思いがまた一年前に遡る。お杖の長さも確かに短くなっているのが検証できる。

 霊山寺(りようぜんじ) 白衣と古衣の 入り混じり

 本堂脇の売店で最新版の車遍路用地図や、ついでに帰りの汽車の中での読み物として外人の書いた遍路体験記(見開きで和訳付き)を買ったら、荷物が重くなる。これで土産を買ったら更に重くなる〜・・・とは声なき声。
 そうこうしていると、Kさん・Eさんがやってくる。やあやあと言葉を交わし、寺(じ)脇の門前一番街で待ち合わせ、3人で文字通り「打ち上げ」を始める。彼ら2人はこれから高野山に向かうそうだ。自分は板東(ばんどう)駅14時発の便で一旦帰京し、日を改めて妻と高野山参りをするつもりである旨話す。聞けば彼らが泊まった昨夜の宿は、自分が予測していた通り、いやそれ以上だったらしく、洗濯機の脱水装置が壊れていて大難儀させられたり、所々床がいたんでいたりしたそうな。彼らも途中のお参りは省略して来たのだろうか、そこまでは聞かなかったが・・・
 Kさん、Eさんとあらためて納札(おさめふだ)を交わしあい、名残を惜しんで別れる。
 14時坂東発普通、14時19分板野(いたの)発うずしお16号で高松へ行き、手土産を買って車で義弟宅へお礼かたがた金剛杖・菅笠を預けに行く。掛軸は、東京に持ち帰って妻に見せてやらなけばならない。再び高松駅にとって返し、売店で好評の四万十海苔や高松名物のお天ぷらその他を買い込み、16時10分発マリンライナー46号、岡山からののぞみ26号乗り継ぎで高幡不動に着いたのは京王線の最終特急で22時31分だった。妻運転の迎えの車に乗り込み、22時35分無事ご帰還と相成る。

                                        
−おわり−