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第三次遍路 ・・・2001年9月30日〜10月8日


2001年9月30日(日)〜2001年10月1日(月)
  第三次遍路・・・4ヶ月ぶり 再開すれど 暗雲が


 9月30日夜、雨降る中、妻に車で高幡不動駅まで送って貰い、19時34分発特急電車で第三次遍路へ出発する。20時04分新宿に着くがやはり雨のまま。今回は旅費節約のほかに、一度夜行バスでの四国入りをしてみたかったので、事前に予約していた新宿高速バスターミナル発20時30分の高松行き夜行バスに乗りこむ。

 シートは1人掛けの3列。進行方向に向かって左窓側の前から6人目。初めてなので要領がよく判らないが足許にザックを置き、その上に足を載せ、シートを倒すと快適な睡眠空間になりそうではある。スリッパあり。トイレはもとより、無料コーヒー設備もある。
 但し夜間のため進行前面はカーテンで覆われ、両窓側も全てカーテンが降ろされているので、外を見ようとしたらカーテンの端を指で持ち上げその合間からかいま見るしかない。 要するに“眠れ”と言われているようなものだ。そのための催眠用特製ドリンクも持ってきている。VTRによる運行・設備ガイドも、一通りあった。

 定刻に発車したバスは22時半頃、甲府南SAでトイレ休憩の後、一路四国へと進み、翌朝瀬戸大橋経由で坂出に停車。終着高松駅には10月1日、定刻4分遅れの6時54分に着く。やはり熟睡というわけにはいかなかったが、雨が上がっているので助かる。

 前回、義弟に預けていた一式(菅笠・金剛杖・掛軸)を高松駅まで持参して貰い、無事受取った旨を妻にも電話し、駅弁を買って特急しまんと3号に乗り込む。土讃線〜土佐くろしお鉄道乗り入れの宿毛(すくも)行き列車である。夜行バスでの睡眠が不十分だったせいか、列車の揺れがついつい眠りを誘い出し、下車駅は近づいて来るしで、落ちつかない。

 前回の区切り地点だった平田駅到着時刻が近づいてきたので、棚の上から荷物を降ろそうとして、“あっ!”と大変なことに気付いて青くなる。歩き遍路の命“菅笠”にビニール製のカバーが付いていない!これがなければ雨天に歩けない。平田駅で下車後、すぐ携帯で義弟に架電するがうまくつながらない。国道沿いの公衆電話からようやくつながり、すぐ郵送してくれるよう依頼する。

 そのために10月3日・4日の2泊の宿を予約し、4日予定の「宇和パークホテル」気付での急送を義弟に依頼し、それまでに雨に降られないことをお大師さまにお祈りする。菅笠は、晴天の時には通風の良い絶好の日傘代わりになり、雨天の時には機能的な雨傘の役割を果たしてくれる貴重な遍路グッズであるが、こうなってみてあらためてその役割の重大さを思い知る。

 “お大師さま また来ましたよ 四国路へ”

 まずは39番延光寺(えんこうじ)にご挨拶のお参りをし、前回の続きとなるここからのスムーズな遍路旅を祈願して、13時25分、今夜の宿のある宿毛(すくも)市の宿を目指しスタートするが、風が強く菅笠の端を手で押さえないと吹き飛ばされそうで歩きにくい。のども渇いてくるし、鍛錬不足のせいか早くも疲れが出てきて、結局トボトボ歩きで15時08分にようやく「岡本旅館」に着く。計算してみたら何と39番から分速63m、時速4kmという超のろ足ペースでビックリする。

 旅館は「日観連」加盟の看板もあったがごく普通の遍路宿で、早速二槽式洗濯機で洗濯する。洗剤はサービスだったが乾燥機はない。16時に完了して入浴。夕食前の17時半頃義弟に再度電話し、菅笠のビニールカバーが見つかったかどうか確認したら、OKですぐ郵送手配したと聞き安心する。

 明日からの山歩きは大丈夫だろうか。トレッキングシューズも前回の歩き遍路で底の後ろ外がかなりすり減って来ていて心配だし、今回は事前の足のトレーニングをさぼっているので二重に不安だ。

 苦しくなったら「真言」を唱えるという歩き遍路がいた。その真言とはこうだ。
「真実は不思議なり、観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」
何千回も何万回も唱えていたら意味が判るだろうか。でもこれで足の疲れは取れそうには思えない。

 伊予の国は菩提の道場と言われている。“菩提”とは、「仏教の神髄を極めること」「悟り」「釈迦の正覚の智恵」とある。釈迦が菩提樹の下で悟りを開いたのにちなんでの呼び方とも言われるが、“悟りの道場”とでも解せばいいのだろうか。自分には甚だ縁遠いと思う・・・ましてや、足の心配をしているようでは・・・

2001年10月2日(火)
  いいぞなもし 足に優しい 伊予のみち


 岡本旅館の女将に教えて貰った道案内のせいでもないのだろうが、スタートでちょっと道を間違える。コンビニで聞きOK。ただ松尾峠までは三つぐらい小山を上り下りする長いアプローチの後、一挙に標高300mまで胸突き八丁の急坂だ。例によってぜーぜーはーはー言いながら、遍路を止めてしまいたいほどの苦しい思いで登る。途中、行く手の木々の間に張られた蜘蛛の巣が鍛錬不足の我が輩を随所で歓迎してくれ、最初のうちはお杖で払っていたが登りの山道のこととてそうも行かず、かなりの苦労をさせられた。

 漸く峠にさしかかつて一息入れようと思ったら40歳前後の男がいる。挨拶して聞いてみると、ボランティアで、というより信仰心である人が峠に建てている大師堂づくりの手伝いをしていて、もう半年ぐらいになるという。そう言えば、定期配信されているメールだったか、定期購読中の遍路雑誌だったかにそんな工事が行われている記事を読んだことを想い出す。遍路途上でここにとどまり、もう半年も手伝っているというが、世の中広いもので、いろいろな人がいるものだ。

 ここ松尾峠は土佐の国と伊予の国の国境に当たり、登坂途中には曾ての番所跡もあった。
「じゃあ、頑張って」と別れてすぐ、木の香りも新しいお堂が右手に出来つつある。挨拶していこうと思ったら誰もいなかったのでそのまま通り過ぎたが、峠には、四国のみちの案内板やトイレ・休憩所もあり、石柱の「松尾峠国境碑」には、「従是東土佐國」、「従是西伊予國宇和島藩支配地」と刻んである。

 伊予の国に入ったとたん、今まで厳しかった道が嘘のようになだらかになり、にもかかわらず、山道には防護柵が設けられ、流石は愛媛県だ、県の富裕度がこんなにも違うものかと、あらためて驚く。

 一本松の集落でパンを2個買い、折良くあったベンチで一休みしていたら、1人の女遍路に出会す。話を聞くと、昨夜宿毛(すくも)で泊まって今朝6時頃出てきた由。5〜6月に39番まで回り今回が今日からの由で、小生と甚だよく似ている。

 彼女はそのまま先へ行ったが途中で追い抜き、40番観自在寺(かんじざいじ)を目指すも甚だ遠く、道を聞きつつ漸く到着する。和尚に山門の所で会う。この観自在寺(かんじざいじ)は、1番霊山寺(りようぜんじ)から最も遠くに位置しており、別名「裏関所」と呼ばれるそうだ。これまで、足摺岬の先端にある金剛福寺(こんごうふくじ)の方が遠いと思いこんでいたが、そうではないらしい。

 足はかなり鈍っていて、「民宿ビーチ」まではとてもつらく、休憩また休憩の連続で予定より大幅に遅れて到着する。すぐ風呂に入り洗濯するが、乾燥機がないため部屋のクーラーに依存する。

 夕食は18時から、朝食は6時からOKの由。妻に電話し、明日のルートについて標高470mの山越えになる柏から大門へのルートは止め、海岸の国道を回り道して行く旨話す。とても今回の脚力では今日よりも厳しいと思われる明日の柳水大師・清水大師ルートは自信がない。

 きょうは余程苦しかったと見え、途中で買ったペットボトルの茶やジュース類の量を支出メモで逆算してみたら、茶1550cc、ジュース840cc、計2.4リットルの水分を歩き中に摂っていたことに気付く。日頃どちらかと言えば水分摂取が少なめの自分としては、アンビリーバブルだ。

 ところで、床に入ってふと考える。この民宿って道路沿いの1Fが食堂と台所、客室は、台所横から階段を下りて地階だが、海側が斜面なので地下という訳ではない。しかし、窓外を見ると、万が一上の台所などから出火でもしたら、窓外は逃げられそうにないし、(これは黒こげになりかねないなあ)などと考えると、あまり気持ちよく安眠という訳には行かなかった。幸いにして当夜の火事は起こらなかったが・・・

2001年10月3日(水)
 なめた罰 春とは違う 足運びぞなもし


 民宿ビーチのオヤジさんが前夜「朝は何時でもいいよ・・・じゃあ6時20分ぐらいは?・・・じゃあ6時には作っておくよ」ということで、6時5分前に行くとすでに支度が調っている。早速食べ始めるが食欲がイマイチ。一膳半ぐらいのご飯を食べ、6時24分出発。

 きのう検討していた海岸回りのルートで行くことにする。山ルートへの入口を右に見ながら通り過ぎて間もなく、内海トンネルに入るが、ここは車道と歩道兼自転車道が別のトンネルになっており、排ガスの洗礼もなく快適ではあるが、約1kmぐらいあったが、逆に変化がなく我ながら贅沢を言うわいと苦笑する。

 海岸線を蛇行する国道56号を須の川海岸へと進む。土佐の荒々しい海とは何と違うことよ。松尾峠の登り下りでも土佐と伊予の道の険しさの落差を見せつけられたが、海もまた同じだ。猛々しい太平洋の荒波に対して、ここ宇和の海は穏やかなさざ波だけが見える平和の世界だ。「修行の道場」に対する「菩提の道場」を象徴しているかのようにさえ思える。

 更に鳥越トンネル、嵐坂トンネル・・・と通り抜け、山越えルートとの合流点である大門には思いのほか早く着いたが、段々疲れが出始め、そのうちにトボトボと足を引きずるようになる。途中、後ろから追い抜いてきた神奈川からの歩き遍路に「大分疲れてますね」と言われる。なにくそと思ってピッチを早めるが、すぐ元のトボトボ歩きに戻るのが悔しい。

 途中ラーメンを食べて元気をつけ、気を取り直して再び歩き始めるが、段々足が痛くなり、最後にはトボトボ。今次の遍路は事前のトレーニングウォーキングを殆どやらなかったため、そのつけが一挙に噴出し始めた感じだ。いわゆる、さぼった罰だ。食欲がないのも疲れのせいだろうなどと思いながら、松尾トンネルの手前まで来る。

 「国道56号の松尾トンネルは全長1710m、通過所要27分、8:00〜18:00は車両通行量が多く、トンネル内は排気ガス充満の状態になる。山上線(旧国道)は1.7km余分に歩くが,閑静で自然豊かである。日中はこの道を進行するとよい。」とガイド本に書いてある“選択”の場所だ。

 ここは当初から旧道を選ぶ心づもりだったので左の旧道に入ったが、まったくのどかな別世界だが、所々に廃車が捨てられていて美しい自然という評価は甘すぎると思ったが、のんびりと坂を登り最高175m程度の位置にある松尾トンネルを抜ける。真っ暗で歩道もなく、車が殆ど来ないのが救いだが・・・と思いつつペンライトを点けながら通り抜ける。

 やがて道が合流した祝森からまた延々と続く道を青息吐息で歩き、漸くきょうの宿「民宿みはら」にたどり着く。この民宿は宇和島城のすぐ近くだが、そんなものを見る余裕は全くない。

 早速女将さんに頼んで部屋に冷たい麦酒を一本持ってきて貰い、一気のみで自己慰労する。部屋のすぐ近くに浴室や洗濯機置き場があり、疲れた身体には超便利だった。早速入浴・洗濯を済ませ、きょうの一日を振り返ったり、あさっての新町荘旅館と民宿笛ヶ滝を予約しておく。洗濯機は全自動で手間がかからないが、乾燥機がないのでハンガーを借りて部屋干しにする。

 夕食に行くと、同宿者は自分以外は長期滞在の工事の人たちばかりで、料理内容も今までの遍路経験の中では一番地味だったが考えてみれば、通常わが家で食べているものに比べれば特に遜色がある訳じゃない、まあいいんじゃないかと自分自身に言い聞かせる。

 朝食は7時からだというので、一泊夕食のみということにし、6,000円を夜の内に清算。疲れたときは早寝に限ると床についたら、次々と風呂に入りに来る人たちの音やら、ここのお嬢さんと思しきピアノの練習が始まり、しばしの忍耐と一層の人間成長を要求される。

2001年10月4日(木)
  歯長峠 しんどいぞなもし きょうもまた


 5時53分、玄関の戸をそっと開け本日の旅立ち。コンビニでおにぎりを2個買い朝食にする。すぐ近くに番外霊場龍光院(りゆうこういん)があるが、立ち寄らなかった。後で知ったのだが、ここは弘法大師の四国88ヵ所開創発願の寺院の由で、惜しいことをしたものだ。

 名前が紛らわしいが41番龍光寺(りゆうこうじ)への県道57号は、行けども行けどもなだらかな登り坂。自転車ならしんどいぞなもし・・・と思いつつやっと着いたら、納経所の坊さん、どうやら和尚らしいが、掛軸に墨書押印し終わったとたんにドライヤーダメ論を滔々とのたまい始める。

 普通、納経帳(のうきようちよう)の場合だと、墨書押印後、すぐ乾ききっていないそのページに古新聞を切ったのを挟んで汚れを防ぐのだが、これが掛軸の場合だと絹の布だから乾きが遅く、乾いてからでないと巻けないので、大抵の寺の納経所にはヘアードライヤーを数台おいてあるのが一般的だ。

 だが、この坊さんはそんなお客様(?)の利便性はどこへやらで、一方的に「絹の布にあんな事をするのはけしからん、だから、うちには置かないんだ」と口角泡を飛ばして田舎の村会議員よろしく大演説をぶち始める。こんな坊主はこれまでにもいたからこちらは免疫充分だが、同じ事を言うにももう少し言いようがありそうなものだ。“一度自分で掛軸抱えて歩き遍路やってみろい”と言いたくなる。因みに、この寺は地元では「三間(みま)のお稲荷さん」の愛称で親しまれている所だそうな。

 境内脇の墓地から裏山へ上がり、降りたところから県道に出、42番佛木寺(ふつもくじ)に向かう。着いて参拝し終わったら、門前にいたアイスクリーム売りが買って欲しそうに視線を送ってくるが、天の邪鬼よろしく無視して歯長峠への山道に入る。

 それからはお定まりのぜーぜーはーはーの苦行が始まったが、漸く登り切った辺りからは、案内地図によれば、四国電力の送電鉄塔の先で「路面浸食流出で足許注意」の注意書きがなされているので、超迂回路になるがやむなくつづら折りの車道を通って歯長橋手前の「四国のみち」休憩所にたどり着く。

 県道29号沿いの「民宿みやこ」に立ち寄り、12時半過ぎから昼食。肉うどんが旨い。食べ終わった頃、女将がみかん2個をお接待で下さり、感謝して頂戴する。「あげいしさん」の名で親しまれている43番明石寺(めいせきじ)に向かって出発する。しかし、右折箇所が早すぎたためか、道が判らなくなり、通りがかりのおじいちゃんに教えて貰ったが、松山自動車道へのインター工事中の箇所があり遠回りしてようやく到着する。

 お参り後、標高300mの裏山を越えて県道に出るが、小雨が降り出す。さて、困った。きょうの宿「宇和パークホテル」に着かないことには菅笠にビニールカバーが付いていない。通りがかりのオフイスの軒先を借りてレインウェアを着て、ハラハラしながら急ぎ足になろうとするが、足の方はもう限界と見えてなかなか思い通りに運ばない。

 何とか到着してチェックインする。2階のレストランが受付になっていて、係の女性が親切に応対してくれる。義弟からの郵送荷物を受け取り、「足が痛くて到着が遅くなった。明日一日休養をとって足の快復を待ちたい。予約は一泊しかしていないが、もう一泊して足休めをしたい」というと、いろいろ心配してくれ、大きな湿布薬を5枚もお接待してくれる。
 ホテルの女従業員まで歩き遍路を労るやさしい心をもっている。お礼を言ってありがたく頂戴する。どこかの坊主に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいなどと、お大師さまに叱られそうなことを考える。

 この後、お定まりの行事である洗濯・乾燥作業に加えて、突然の予定変更でこの先の予約済みの宿にも宿泊日変更の電話をかけたり、妻にも連絡したりと忙しかったが、明日は休みだと思うと気が楽になったり、ちょっぴり寂しくなったり・・、心境複雑である。夕食は、別会計のレストランで般若湯一本付き。

2001年10月5日(金)
 湿布して きょうは“お足”の 休暇ぞなもし


 朝は和定食で630円。昼は鍋焼きうどんと宇和島特産のじゃこ天&コーヒーで1155円。夜は宇和ランチとお酒一本で1627円。久々に日経新聞を隅から隅まで読む。紙上、「倶会一処」〜死により人は一度は別れるが、やがては浄土に往生して、みんな一所に集まるという意味らしい。そんな言葉が眼に入った。

 昨夕湿布薬をくれた女性従業員が「お足の方、いかがですか」と聞いてくれる。「昨夜貼って寝たら少し良くなったみたいです」と言ったら、「じゃあ、今夜も貼って休んで下さい」と言って、新たに6枚も湿布薬を下さり大感激。いい所に泊まったものだと勝手な喜びよう。

 昼前に、向いのコンビニに行き明日の朝食用のパンを一個買う。夕食の時、男3人の歩き遍路と、やはり歩き遍路らしき老女をレストランで見かけるが、声を掛けるには席が遠すぎたので、離れた自席からの会釈のみにとどめる。

2001年10月6日(土)
  女将さん ご飯が固くて 食べられんぞなもし


 明け方、寒気がしたと思ったら喉が痛い。塩を貰って何回もうがいをしたら段々良くなってくる。足の痛みの方は、気持程度は楽にはなった感じだが、爆弾内蔵の懸念ありといった感じ。

 昨日買っておいたパンを食べ、足の不安を抱きつつ、5時57分ホテルを出発。ホテル前のサンクスで「おーいお茶」500mlを買う。靄が深く、日の出時刻なのに薄暗い。歩き出したが足の痛みがあまりなく、順調に進む。

 鳥坂トンネル入口のちょっと手前で姫路から来て歩いている区切り打ちの男遍路に逢い、「お宅はどうします?」とお互いに相談する。というのは、ここもかつての松尾トンネルに似ていて、鳥坂トンネル(全長1170m)を通るか、それとも1km長く1時間余分にかかるが自然味豊かな鳥坂峠越えを選ぶかという決断の場所だ。
 何となくトンネルを行った方がいいような気がしたのでそう言ったら、相手が「私もそうします」と言うので、トンネル内をライトを照らしながら歩く。トンネル内を歩くときのライト点灯は、自分の足許や前方を照らすという本来目的のほかに、車などが来た時に、自分の存在を知らせる警報目的もあるので、おろそかにはできない。

 トンネルを出ると一面濃霧で、別世界だ。昔、若かりし頃のある年の暮れ、新潟に出張することになり、同僚のKさんと汽車で向かっていたら、越後湯沢辺りでトンネルを出たとたんに向こう側が一面の銀世界で、太平洋側とトンネル1つでこんなにも別世界なのかとびっくりしたことを想い出す。こんな濃霧なら1時間余計に時間をかけて峠越えを選んでも意味なかっただろうから、いい選択だったと互いに喜び合う。

 休憩後、出発しょうとしたら急に右足に激痛が走り、驚き、かつ悩む。相手にスピードを逢わせて貰いつつ進む内、三里のツボを指圧したら急に楽になり、今度は驚き、かつ喜ぶ。
 大洲の町には、その昔の朝ドラ「おはなはん」の舞台になった「おはなはん通り」があったので、格子造りの民家や漆喰壁の土蔵が建ち並ぶ通りを懐かしいような心地で通っていった。

 ようやく、有名な「十夜ヶ橋」に着き、橋下のお大師様の寝姿にもお参りしてから、道路反対側の十夜ヶ橋食堂でラーメンを食べ、再び彼と一緒に国道を内子(うちこ)方向へと目指す。途中で遍路道に入り、内子(うちこ)駅近くで彼と別れた後、トボトボ歩きできょうの宿「新町荘旅館」に到着。早速シャワー&ビール&洗濯。

 土佐の中村市が土佐の小京都なら、ここの内子(うちこ)の町は伊予の小京都とも呼ばれ、昔の建築の見本市のような町だそうだが、楽しむ予定も余裕もない。朝食時間を訊ねたら7時半からだという。それじゃあ遅すぎるので、にぎりめしを作って今夜運び込んでおいてくれるよう依頼。

 やがて夕食を運んできてくれたが、驚いたことにご飯に芯があり、うまく炊けていない。やむなくおつゆをぶっかけて猫メシ方式で何とか一杯だけ流し込む。間もなく部屋に来たおねえさんに言ったら「やっぱりそうですか。すみません。炊いているときに女将さんに水加減がおかしいように思ったものですから、ちょっと言ったのですが、女将さんがこれでいいと言われたものですから・・・」という。

 あまり強くおねえさんを責めても可愛そうなので、「ほかのお客さんのこともあろうから、お客さんからこう言われました。そして一口食べてごらんと言われたので食べてみたら、お客が言うようにとても固くてたべられるようなご飯ではなかったです」と言っておいた方がいいんじゃないの」と言っておいたら、しばらくして、女将は謝りに来ず、先ほどのおねえさんが赤飯握りにお新香を添えて持って来た。

 「もう食べ終わったから要らない」と持ち帰るように言ったら、やっと女将が謝りに来たが、嫌々来た感じがしたので、頼んでいた明朝の握り飯も依頼を取り消した。尚、翌朝会計の時にもしやと思ったが請求金額はバッチリでおまけのおの字もなかった。「食い物の恨みはコワイぞなもし」と、またまた声なき声。

 “しからば、明日に備えて寝るとするか”と床についたら、とんでもないことを想い出した。3日の夜泊まった「民宿みはら」で、部屋に運び込んで貰ったビール代を払っていないことに気付く。原因は、朝食時間がこちらの希望どおり行かなかったので一泊夕食料金を夜のうちに精算しておこうと金額を尋ねたら、女将が6000円ですと言い、自分もビール代のことを失念して6000円をその場で払って、すっかり終わったつもりになっていたのだ。

 携帯電話ですぐ「民宿みはら」の女将に謝り、「明日にでも郵便局が見つかり次第送金しますから」と言ったら「あら、そうでしたかね。でも僅かですし、もういいですから」と言って下さる。自分としても一応ネコババ的なことはしなかったという思いにもなれたので、ここは女将のご厚情に甘えさせて戴くことにした。ドウモスミマセン。

2001年10月7日(日)
 地獄で仏の救世主 あなたは女お大師さまぞなもし


 5時43分出発。前夜調べておいたコンビニで今朝の朝食と昼食を仕入れる。きょうは途中食堂などありそうもないし、よしんばあったとしても営業しているがどうか判らないルートだからだ。内子(うちこ)橋を渡った所で6分間の朝食タイム。やがて道はなだらかながら延々とした登り一方の道になる。途中で若い歩き遍路に追い抜かれるが、お接待で貰ったと言って片手のビニール袋に缶ジュースが推定30本ぐらい入っていて、重そうにしている。しばらく一緒に歩いたが、足の痛い身としては、やはりついて行けない。

 このルートは、ノーベル賞受賞の大江健三郎さんの出身地「大瀬」が途中にあり、出身校の名誉が看板で表示されていた。町としても大変な名誉だろう。ああ、ここが出身の小学校だな、中学校だな・・・と見ながら歩く。

 やがて、右するか左するかの分岐点「突合」に到着。時に9時26分。そこから左折して小田町農協を過ぎ、落合から右折した所で、痛かった右足が遂に激痛状態になる。ちょっと休んで歩き出すが、ものの10mも進んだらまた激痛が・・・こんなことを5〜6回繰り返している内にもう1〜2歩も進めなくなる。宇和パークホテルで一日休養をとったが、不足だったようだ。

 周囲を見渡すと山また山で人はいない、通る車は15分か20分に一台来るか来ないかといった所。どうしょうもない。漸く「蔵谷」という軒付きのバス停にたどり着いて、一服しつつ人か車が通りかかるのを待つが、こういう時に限って全く来ない。よく見ると斜面に農家らしき古家があるので、もし人でも居てくれればと足を引きずりつつ行くが、呼べど叫べど気配もない。タクシーを呼ぼうにも電話番号が判らない。携帯電話を取り出して見ると、アンテナが僅かに1〜2本液晶画面に表示されている。

 妻に電話したら、「無理しないで中止にして、返ってきたら。弟(高松市)に電話しておくから今夜はそこで泊まったら」という。もうこれ以上の前進は100%無理だが、かと言って、どうやってこの山奥から脱出するか、JRの駅も一体何駅が近いのか土地勘がないから判らない。病院へ行く気はないから救急車を呼ぶ訳にもいかない。

 さて、困った、困った・・・と悩んでいるうちに思いついた最後の手段は、きょう宿泊予定の「民宿笛ヶ滝」に、先ずもって予約の取消をしなければならない、明日の予約先「長珍屋」にもだ。まず長珍屋を取消し、次いで笛ヶ滝に電話し、事情を説明して予約を取り消して貰う一方「タクシー会社に電話して、ここへ車を回してくれるように」と依頼する。

 困りきっての依頼であることが通じたのか、笛ヶ滝の女将が快く予約取消に応じてくれたばかりか、車の手配についても引き受けてくれ、「地獄で仏とはこのことか」と、見知らぬ女将の親切がお大師様の慈悲に思えてくる。このやりとりのあいだにも、電波状態が悪いため、話し中に3度も電話が切れたが、本当に親切に同情してくれた。

 自分の服装状態、すなわち、菅笠に金剛杖、衣服やザックの色など伝え、バス停でしばらく待つが、この蔵谷というバス停が、自分の現在位置が本当に久万の街から来るタクシーの運転手に判るかどうかという不安でいらいらしながら待つこと暫し。

 おー!来た来た!一台の空タクシーが向こうから来る。急いで金剛杖を振り回して合図を送る。“やれやれ助かった”と車に乗り込み、「どちらへ?」と聞かれる。そう言われてもどこへ行けばいいのか自分自身が判っていない。状況を説明したら、松山じゃ遠いし、やっぱり内子(うちこ)しかありませんねという。今朝の出発点だ。
 仕方なく「じゃあ、内子(うちこ)駅までお願いします。」と言ったら、さすがに車は速い。あれほど苦しみながら来た今日の道が、信号もない田舎道とはいえ驚くべき短時間で内子(うちこ)駅に着く。 帰りが逆方向なので・・・と言うので5000円プラス配車料3000円を支払い、車を降りる。

 時刻表を見ると13時38分発の上り特急がある。「内子(うちこ)は特急停車駅なんだ」と喜ぶ。ところが、切符を買おうにも、昼の「休憩中」の表示で窓口のカーテンが閉まっている。のんきなものだと思いつつ、時間があるので待つこと暫し。その間に買っておいた昼飯用のお握りを頬張る。

 13時になってカーテンが開いたので切符を買い、松山までの「しおかぜ22号」と高松までの乗り継ぎ「いしづち18号」の特急で、16時35分高松到着。松山駅で乗換の合間に買っておいた義弟への手土産を持ってタクシーに乗り込み、漸く足痛地獄から浮き世へと生還した。

 かえすがえすも、「なめたらあかんぞなもし」と、お大師さまに叱られた気がする。今度は用意万端ぬかりなくやろうと猛省の気持をこめて決意する。つい先日、高松駅に菅笠や杖・掛軸を持ってきて貰い、大騒ぎして菅笠のビニールカバーも急送して貰ったのに、義弟に会わせる顔がないがこれも身から出た錆というやつで仕方あるまい。

 反省だけなら猿でもするというが、とにかく、反省、反省、猛反省・・・
義弟宅で一泊させてもらったが、何年ぶりになろうか、義弟の末娘M女に逢えた。すっかり年頃の娘さんになっている。

2001年10月8日(月)
 再起期し 泣く泣く帰る わが家かな


 高松発9時46分発マリンライナー18号と、岡山発11時05分発のぞみ12号乗り継ぎで14時26分東京駅帰着。
 15時半頃、妻の迎えの車で敗軍の将ならぬ兵、恥じ入りつつマイホームに帰着す。

<追記1> 早速「笛ヶ滝」の女将宛お礼状兼お詫び状を発信した処、折り返し墨字書きの返信ハガキが到着。 以下が     その内容。

     前略 先日は過分なお礼状頂戴致しまして大変恐縮を致しております。
     歩き遍路さんにとって無理は禁物です。
     また次の機会に是非いらして下さい。お待ちしております。乱文乱筆
     お許し下さい。 かしこ

 因みに、このハガキは大事に取ってある。

<追記2> 今回の中断に至った右足の痛みは、膝関節とか足首などの関節や骨の類ではなく、事前に鈍っていた足のトレーニング不足に加えての連日のハードな酷使での筋肉疲労に過ぎなかった。まあ不幸中の幸いではあったが、次回はもう一度基本に返ってやり直さなければならないと、つくづく思い知らされた。“失敗は成功の母”にせねばせっかくの格言が泣く。