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第二次遍路 ・・・2001年5月7日〜26日


2001年5月7日(月)
  われひとり 遍路再開 阿波の春・・・
わが心 お大師さまに 試される


 第1次夫婦遍路途中の下り坂でつま先を痛めた妻の爪は何本分かはがれてしまった。近くのかかりつけ外科医によれば、完治までには半年〜1年単位での時間がかかるだろうとのこと。やむなく自分一人で歩き遍路を再開することにした。

 連休明けの5月7日。朝4時15分、張り切って起床。5時30分、妻の運転で高幡不動駅まで送って貰い、5時46分発の通勤快速で新宿へ向かう。6時21分新宿着、JRに乗換え6時43分東京着。以下、4月に妻と向かったと同じ便で四国に向かい、高松から徳島行きの高徳線(こうとくせん)の途中、栗林駅のホームで、菅笠と金剛杖・掛軸を預けてあった義弟から素早く手渡して貰い、そのまま徳島駅へと向かった。

 途中、京王線・新幹線共に車中で眠く、早起きがたたった感じだが、京王線では隣に座ったおねえ君のミニスカートのスリットから真っ白な太股がムチムチ目に入り、仕方なく目を閉じると眠さが手伝いあっという間に眠ってしまったようだ。

 13時53分徳島着。 駆け足で13時55分同駅発の徳島線に乗り換え、14時07分府中(こう)駅に着く。ここが、今回の歩き遍路の始点である「17番井戸寺(いどじ)」への最寄り駅だ。ここでも、途中板野(いたの)駅からへそ出しおねえ君が乗ってきて、座っているわが前に立って“聖なる特別期間”に入ろうとする初老の心を騒がせてくれる。これは、お大師さまが、家内と離れて一人旅に入ったわが輩を試しておられるのだろうか。

 14時09分、府中(こう)駅を出発して前回の切れ目となった17番井戸寺(いどじ)に向かう。14時26分に着き、歩き遍路中断のお詫びと再開のご報告ならびにこれからの遍路旅の無事を祈願する。これからの一人での遍路旅に思いをはせ、感無量。「さあ、洗濯も乾燥も何もかも全部自分でやらなくちゃあならないぞ」と、普段全面的に妻に頼っていた自分に言い聞かせる。

 14時45分、井戸寺(いどじ)を出発して、今夜の宿である徳島市街のはずれ、「ビジネスホテル・オリエント」に向かう。天気がいいのは嬉しいが、蒸し暑く汗が大量に出る。徳島市の中心部に近づくに従って信号待ちが多くなり、歩きのリズムが乱れる。JR牟岐線の二軒屋駅ちかくにある予約済みのホテルにようやく着いたときには、汗で背中の下部やズボンの後ろ上部がずぶぬれ状態だったのには驚いた。重いザックが背中や腰と密着していたからだろう。明日からが思いやられる。

 夕食はホテル2階の喫茶で鶏の唐揚げ弁当。いまいちなり。 部屋も、石鹸・シャンプー、その他何にもなく湯茶もなし。サービスがないのがサービスらしい。これも修行の内か!?

 夕食後、ホテルから妻に電話したら寂しくなったとおっしゃる。 娘宅に電話して、妻へのおしゃべり架電やら、孫連れでの里帰りやらを頻繁にやってくれるよう頼むも、孫の予防注射やら購入手配中の自転車の陸送受取予定やらで、帰れるのは木〜金曜日あたりなら・・・という返事。「とにかく頼むよ」ということで電話を切る。
 気になるのはそればかりではない。実は明日の天気がどうも悪そうである。第一次の遍路が全日好天に恵まれたので、今回も期待していたのだが、どうやらお天道様も妻同様ウエットになってくるらしい。

2001年5月8日(火)
 自分との 静かな対話 遍路みち・・・初めての 雨天もわが身の 修行かな


 早朝目が覚め窓の外を見ると「雨」。起床までの間、何度か窓外を覗くが変化なしで、いよいよ覚悟し、山の店で買っておいたゴアテックスのセパレート型レインウェアをまとい、ザックを背負って感じを見る。何とかなりそうだがその分暑いだろうと思い、シャツは半袖を着ることにする。

 下の喫茶室でパンと紅茶での朝食を済ませ、6,500円也を支払い出発。道中での飲み物を買おうと、すぐそばの二軒屋駅に立ち寄った後、五月雨を菅笠と雨具で受けながら、18番恩山寺を目指す。 恩山寺の手前で一人歩きの女性遍路を追い抜きながらあいさつすると、愛想悪く警戒された感じだった。見知らぬ男と口を利いて困った経験でもあったのだろうか。

 恩山寺から立江寺(たつえじ)への道は、途中ちょっと判りづらい所があり、何度か通りがかりの人に尋ね、漸く到着。遍路道中初めての雨天経験で、避けられない宿命と覚悟は決めているが、とにかく蒸し暑く、眼鏡が曇り、難儀なことであった。
 この立江寺(たつえじ)は阿波の国の関所寺(せきしよでら)で、不埒者を厳しく咎める関所の寺である。 因みに、関所寺(せきしよでら)は一国一寺で、土佐は27番の神峯寺(こうのみねじ)、伊予は60番の横峰寺(よこみねじ)、讃岐は66番雲辺寺(うんぺんじ)である。

 昼は、立江寺(たつえじ)の傍のうどん屋できつねうどんを注文したが、徳島の饂飩はどうしてこんなに旨くないのだろうか?と思う。
きょうの予定の2ヵ寺を打ち終わり、今夜の宿「民宿金子や」を目指すが、雨と疲れで非常に遠く感じられた。途中、沼江(ぬまえ)不動を過ぎ、13時頃になって雨が小やみになり、雨具を脱いでザックに片づける。防水透湿とはいえ、やはり雨具は雨具で、脱ぐと今までの蒸し暑さからぐーんと解放される。

 予定より早く、14時15分に「金子や」に着いたが、早すぎたのが気に入らないのか、それとももともとそういう人なのか、女将の愛想が宜しくない。先代の女将は大変人柄の良い評判の人だったと遍路体験本で読んだことがあるのだが、今の女将はその娘さんの筈なのに???

 とにかく洗濯したいので、水風呂でとりあえず汗を流して浴衣に着替え、洗濯機・乾燥機、一部手洗いで脱水・・・・と大忙しだった。初めてで、機器の使い方もよく判らず、かと言って、ご機嫌斜めの女将にあまり尋ねづらく、とにかく悪戦苦闘までは行かないが何とか終わりやれやれだった。洗濯が終わると後はやることがあまりないので心理的にホッとする。歩き遍路は宿を早く起ち、早く着いて翌日に備えるのが心得だそうだが,全く同感である。

 夕食の時、同宿の遍路達といろいろ話し合ったが、老男コンビ、老人夫婦、自分と同年ぐらいのFさんという埼玉県上尾市の男性、中年婦人と・・・いろいろだ。
 老男コンビの一人は80歳を越えているというが、それでも歩いている。しかも、明日は阿波の国で二番目に遭遇する遍路ころがし「鶴林寺(かくりんじ)」「太龍寺(たいりゆうじ)」を控えている訳で、頭が下がる。しかし、その人達と隣室だったが、夜中にものすごいいびき音に悩まされた。猛いびきは夜半過ぎまで続いていたようだ。

2001年5月9日(水)
 春雨に 濡れた石段 滑り傷・・・
“遍路ころがし”でスッテンコロ

 お昼の握り弁当代込みで5,950円を支払い、7時07分、「民宿金子や」を出発。登校途中の小学生達が「おはようございます」とあいさつしてくれる。爽やかこの上なく、この辺りの小学校での教育の良さが感じさせられる。それにしても早い登校だが、一体どこまで通うのだろうか。

 まもなく、先発していたらしい中年女性遍路がお大師さまの分身とされているお杖を「金子や」に置き忘れてきたとかで、あわて顔で取りに帰っているのと出会す。天気は曇りだがきょうは気温が上がるとの予報で半袖スタイルにしているものの、鶴林寺(かくりんじ)への山登りが始まるとすぐズボンも何も汗でぐっしょりになってくる。

 俗にお鶴(つる)さんと呼ばれる鶴林寺(かくりんじ)と、いったん降りてまた登る太龍寺(たいりゆうじ)は、二つ目の遍路ころがしと呼ばれるいるが、その登り下りは大変疲れた。特に、昨日の雨で濡れた鶴林寺(かくりんじ)石段で、下りの時に三度も滑り、三度目には尻餅をついて右肘をすりむく始末。下りの恐さを知らされた思いである。これがきっかけでか、以後下り階段に臆病になることになる。

 ロープウェイで登れるようになった太龍寺(たいりゆうじ)山頂では、次から次へと団体遍路がロープウェイを降り、石段を登ってくる。年配の方には便利だろうが、われら歩き遍路には無縁だ。ベンチでFさんと握り弁当を食べ、きょうの難儀をいたわり合う。

 それから長々とした下り道に入り、やっと今夜の宿「民宿龍山荘(りゆうざんそう)」に到着した。時刻はまだ13時35分。昨日金子やに着いた時間より40分も早いが、女将は大変愛想よく迎えてくれ、歩き遍路の心身の疲れを癒してくれる。

 鶴林寺(かくりんじ)山頂で再会した上尾市のFさんとは、以後太龍寺(たいりゆうじ)、そして龍山荘(りゆうざんそう)へと一緒に歩き、宿では相部屋(と言っても二間続きの2部屋)となったが、一緒に水風呂で汗を流し、洗濯機を使い、戸外の洗濯物干場に吊しておいたら、夕方までにほぼ乾いてくれ、助かった。
 Fさんは数年前に奥様を亡くされ、その供養もあって四国を回っておられるとのこと。ただ、今回は初めてではなく、もう2〜3度目のような口ぶりで、今は全部を歩き通すのではなく、ところどころ歩き、ところどころ乗り物に乗るという方式で回っておられるとのこと。奥様のご冥福をお祈りする。

 先の宿を携帯電話で予約するも、電波状況が悪く、2〜3度かけ直す始末だった。自宅の妻に電話しても不在のため、明日以降の宿泊予定先が変更になったことを留守電に入れておく。

 夕食に行くと、歩き遍路や団体遍路で多人数だったが、民宿側でも、歩き遍路の食事は場所を集約してくれてあり、共通の話題で情報交換などし易いようにしてくれている。これは、どこも宿でもほぼ同じだ。

 さて、部屋だが、Fさんとは二人で二間続きの部屋をあてがわれていたが、「後から相部屋をお願いするかも知れませんから・・・」と女将が言っていたら、ほんとにもう一人見えた。前橋からきた中年男性である。3人の内、タバコを吸わないのは自分だけなので、一室一人にして貰い、後の二人でもう一室に寝て貰ったが、隣のいびき音が大きく、外から聞こえてくる蛙の鳴き声との合唱会さながらで快眠という訳にはいかなかった。
 快眠といえば、快食・快便となるが、快食はもちろんのこと、一日汗を流し、水分を摂り、たっぷりご飯を食べ・・・で、全て快調である。若干重いが携行しているおしり洗浄器も大変便利で,重宝している。

2001年5月10日(木)
  薬王院
(やくおういん) 向かう日和佐で 小夏買い

 6時半前には朝食を終え、昨夜のビール・酒込みで7650円支払い龍山荘(りゆうざんそう)を一人で出発。川沿いの舗装路を2.4km程なだらかに登り、阿瀬比(あせび)から大根峠越えの山道を選ぶ。思いのほか難儀だ。海抜290m弱まで登り、そこから若干アップダウンしながら降りていく道を約5km進み、22番平等寺(びようどうじ)に到着したのが8時30分。1時間40分所要との案内書きだったが、1時間10分で来た計算になり、一応満足する。

 そろそろ出立しょうと思ったら小雨がぱらぱら。 雨具を着るべきか着ないでこのまま出立すべきか迷ったが、“ええい、ままよ”とそのまま出立したら、まもなく小雨もやみ、一安心する。

 平等寺(びようどうじ)からきょうの泊まり「23番薬王寺(やくおうじ)の宿坊である薬師会館」までは20.8kmあるので、気合いを入れて歩かなければならない。昨夜同じ宿だったFさんはバスで行くことになり、平等寺(びようどうじ)でお参りしている間に再会していたもののまたお別れし、代わって、昨夜同じ宿だった女性たちと抜きつ抜かれつで薬王寺(やくおうじ)を目指すことになる、

 楠木正成ゆかりの千早村から来て、23番薬王寺(やくおうじ)を打ち終わったら、明日の甲浦(かんのうら)港(高知県)発の夜行フェリーで一旦帰宅予定という二人ずれの中年女性や、勤め先の役所を中途退職してきて88ヵ所通し打ちに挑戦している50歳過ぎの女性で埼玉県の志木から見えているという人であるが、追い抜いても、ちょっと自販機でドリンクなどを買って飲んでいると、あっという間に横を通り過ぎていくという足達者たちで、こちらもオトコの意地とばかり懸命に歩いたら、思いの外歩行がはかどり、予定を上回るペースで進んで行く。

 国道55号の星越トンネルを抜けたら、当てにしていた「星越茶屋」があり、昼食のために立ち寄る。食堂のおばあちゃんが「美味しい鮎寿司が作れますよ」というので、それと肉饂飩を注文したら、どちらもとびっきり旨く、鮎寿司は姿寿司になっていてメチャウマ、饂飩も前回までとは全然違って美味しく、同じ徳島県でも大違いだ。

 テーブルの上にノートとボールペンがあり、「立ち寄ってくれたお遍路さんに一言ずつ書いて貰っているので、お遍路さんもお願いします」とおばあちゃんが言うので、「とても美味しくて歩きの疲れがとれた気がする。また遍路する時には立ち寄りお世話になりたい」という意味のことを書いた。

 食べていると、志木の女性が店に入って来た。外を見たらミセス千早村の二人ずれが通りかかり、「あれつ!寄らないの?」と聞くと、お弁当を持っている由。食べ終わって薬王寺(やくおうじ)に向かうと、程なくその二人ずれが道ばたの草むらに座って食事していたので、声を掛けて先に行く。

 途中、日和佐の手前の道ばたで土佐が本場の“小夏”を売っている所(寿果実園)があり、「地方発送承ります」と書いてあったので、わが家宛5kg3,000円・送料1,260円のところ1,200円でいいですと言われ、送りを依頼する。そうこうする内にミセス千早村が追いついてきて、あと、薬王寺(やくおうじ)まで一緒に歩く。
 14時36分医王山薬王寺(やくおうじ)到着。 平等寺(びようどうじ)を出てから途中の昼食時間を除き、4時間48分で20.7kmを歩いて薬王寺(やくおうじ)に来たことになり、途中での小休止や買物込みで分速72mというのは、長時間・荷物ありということを考えるとまずまずかと、自己満足する。それにしても女性達も健脚だ。

 山門を入ると例によって石段だが、本堂までの間に33段の女坂や42段の男坂があり、足の踏み場に困るぐらい一段ごとに小銭が置かれていて、上の方を見ると先着のお遍路さんがかがみ込みながら石段に小銭を置きながら登っている。厄よけ祈願者がそうするのだそうだが、やっている人を見るとまずは年齢がバレバレになるなあと思いつつ登る。

 まず、本堂・大師堂とお参りし、納経を終えて薬師会館の場所を聞き、そちらへ向かう。きょうで阿波の国23ヵ寺は全て打ち終え、間もなく道は太平洋側へ、そして土佐の国“修行の道場”へと進んでいくことになる。ここ薬王寺(やくおうじ)のある日和佐の町は、ウミガメの町として知られており、ほかにも見所はあるが、観光の暇はない。それにしても、ここの納経所にいた女性は美人ではあるが心不美人と見えて、あいさつにも応じず、何か勘違いしているというか、おのが存立基盤の何たるかがよくわかっていないようだ。

 薬師会館は薬王寺(やくおうじ)から100m位離れた、寺域の外側にあり、宿坊というよりも宗教のにおいの全くしないホテルのような感じだったが、廊下で逢う人たちはいずれも団体や個人の遍路達であった。係の女性は親切だし、個室には鍵もかかるし、トイレもきれいだし、全自動洗濯機や乾燥機の設備も整っているし、快適な空間で、また機会があったら泊まりたい宿の1つである。

 入浴後に向かった食堂では、きょう前後して共歩きした女性達と同じテーブルになり、楽しく食す。麦酒一本・冷や酒一杯。部屋に帰って妻に電話するとまたもや寂しそう。足さえ治れば一緒に連れてきてやれたのに、かわいそうではあるが仕方なし。

 明日からベストの着用をやめ、Tシャツ1枚で歩くことにする。久しぶりに、菅笠の頭部に当たる輪っかの部分に巻いていた和タオルも洗濯し気持ちが良い。ウェストポーチを腰の後部に回し、ザックの荷重を分散するようにしていたが、腰の後ろから臀部にかけて汗をかきやすいので、前に回すことにして、代わりに自宅宛送り返せそうなものを選品して、明日にでも通りがかりの郵便局からゆうパックで送り返すことにする。

2001年5月11日(金)
  太平洋 眺める浜道 修行の道


 4時半前に起き、昨夜に続き荷物の持ち方をあれこれ試行錯誤する。 ウェストポーチを前に回し、ザックのウェストベルトをその下側に・・とか、菅笠をザックの後ろにくくりつける方法も考案、ベストを着ないで涼しく歩く方法等をいろいろ考えたが、果たして結果やいかに?
 朝食をしっかり食べ、昨夜の清算6,825円を支払い、予定より早く7時02分に薬師会館を出発。大分歩いたところで、途中の郵便局でゆうパックを送る。

 きのう薬王寺(やくおうじ)に着くちょっと前からだったと思うが、国道脇に「室戸岬まで96km」等と書かれた標識がやたらと目につくようになった。90数qといえば、車ならあっという間だが、歩き遍路にとっては気の遠くなるような長さだ。事実、薬王寺(やくおうじ)の次の札所は、その室戸岬の突端の小高い丘の上にある「24番最御崎寺(ほつみさきじ)」だ。歩いて3日がかりの道程で、きょうも明日もひたすら歩いて泊まるだけだ。
 一日中、ただひたすら歩いても、まだ次の札所がないという、この達成感の無さこそが、修行の道場と言われる最たる理由ではないかとさえ思える。

 同宿だった志木のO女史は今夜は途中、別格霊場「鯖大師(さばだいし)」の宿坊で泊まる予定とのこと。甲浦(かんのうら)から今夜のフェリーで帰阪予定のミセス千早村の二人連れとは抜きつ抜かれつで、幾つかのトンネルを急ぎ足で駆け抜け、牟岐(むぎ)警察署の先の海辺で小休止していたら、彼女たちが追いついて来て、「これ、差し上げます」という。

 何でも、牟岐(むぎ)警察署の前の敷地内にあった歩き遍路接待所でお茶をご馳走になっていたら、警察の人が蛍光塗料塗りのビニール製交通安全タスキを呉れたという。そういえばそんな休憩所を横目で見ながらすっ飛ばして歩いてきたのだが、「私たちは今夜のフェリーで帰りますから、これ一本使って下さい」とのこと。ありがたく頂戴し、また一緒に歩き始める。どこの誰ともお互いに知らない同士だが、何度か顔を合わせている内に、同じ歩き遍路仲間として互いに認知し合うのであろう。

 先を急ぐ彼女たちとは、互いにあいさつを交わして鯖大師(さばだいし)前で別れ、自分はすぐそばにあった「鯖瀬大福」という食事処に入り、昼食を摂ることにする。またまた肉うどん、そして看板の鯖瀬大福の小を2個。うどんは「讃岐手打ち饂飩」というふれこみだが、きのうの星越茶屋のそれの方が数段「上」。「讃岐オトコはうどんにはうるさいぞ!」とは声なき声。

 志木のOさんは今夜ここ泊まりと言っていたから、朝ゆっくりたったのだろう・・・などと思いながら、腰を上げ、次に向かう。朝からずーっと国道沿いの歩道を歩いてきたので、その内、段々疲れが出てきて今夜の宿に着く頃にはヨタヨタになったが、コンクリートばかりの国道は、それまでの足にやさしい山の道・里の道とはがらりと様相が異なる。

 お大師様は実にうまく札所を配置されたものだと思う。まず最初の2日間は足慣らしで、比較的平坦な阿波の平野部を西へ西へと吉野川沿いに歩ませ、いきなり12番への遍路転がしで信仰心を試し?、また平野部の5カ国参りや恩山寺(おんざんじ)・立江寺(たつえじ)で荒げた呼吸を整えさせる。そうしたら、また、第二の遍路ころがしである鶴林寺(かくりんじ)・太龍寺(たいりゆうじ)だ。それから22〜23番への長い道のりを歩かせ、「どうだ!発心できたか!?」となり、修行の道場に入るや、いきなり「忍」の一字、「無」の一字の世界へと導いてくれる。

 まだここは阿波の一角だが事実上は太平洋側で土佐の風貌をしている。寄せては返す太平洋の荒波を左手に見ながら、ひたすら単調な国道を数あるトンネル内での轟音と車の出す排ガスの洗礼を受けながら歩いていると、例の「室戸まであと何キロ」の標識を見るまでもなく、忍耐の大切さ、ひたすら無になることの大切さを教えてくれるように思える。

 そうこう考えている内に、内妻海岸で美しい太平洋を見て気分をリフレッシュ。やがてそこから旧道に入り迷いながらもどうやら海部川橋を渡り、今夜の宿「みなみ旅館」に電話して場所を訪ねる。「今どこですか?」というので海部川橋だというと女将がバイクで迎えに来たくれた。
 ここ海部(かいふ)町はまだ徳島県である。あと9km先の甲浦(かんのうら)のすぐ手前、水床(みとこ)トンネルあたりが県境だ。例の千早村の二人は、鯖瀬で別れたが甲浦(かんのうら)港は未だ9km先だ。あの足達者ぶりなら大丈夫だろうけど、大したものだとあらためて思う。
 13時33分、みなみ旅館に着いたら、すでに風呂を沸かせて待っていてくれる。早速飛び込んで汗を流したあと、日中行事化しているお洗濯だ。「洗剤はそこにあるのを使って下さい」と言ってくれる。全自動洗濯機なのでありがたいが、乾燥機がないので、2階の泊まり部屋の前の廊下の前にある物干しに干したら、ちょうど午後の日差しがよく当たり、助かった。

 今夜の泊まり客は、遍路は自分一人、あとは2〜3人ずれの一般客が遅く着いたみたいであった。夕食は1階和室に準備され、大女将がいろいろと面倒をみてくれる。どうやら、そういう役割分担になっているらしい。今まで泊まったところと違うのが、夕食にたっぷりの生雲丹が出されたことである。晩酌が旨い。

 あさっての宿を金剛頂寺(こんごうちようじ)宿坊と考えていたが、団体遍路がいないせいかどうかダメだというので、ふもとの「民宿うらしま」に切り替え、その次の宿「ドライブイン27」も予約した。来週は火曜・金曜が曇りと雨の予報で気になるが、先のことを今考えても仕方ないと考え直し、床に入る。そういえば、昼間はあんなに暑かったのに、夜は備え付けのやぐら炬燵が役立った。太平洋側は最高・最低気温差が大きいようだ。

 尚、ここの旅館のトイレは、浴室の近くのものだけ珍しく洗浄機付きだった。これは、遍路を初めて以来、最初の特筆事項だ。

2001年5月12日(土)
  土佐のみち “空”と“海”と “無”の世界

 女将が朝6時に朝食の案内をしてくれ、嬉しい。少しでも早く出立し、涼しい内に距離を稼ぐのが歩き遍路の鉄則であるからだ。朝食内容は特筆するものがないが、時間を早めてくれハッピーな気分だ。ウォシュレット付きトイレを遍路旅では初めて使い、大女将と女将に見送られて6時38分みなみ旅館を出発。大通りへの道順を女将が教えてくれる。

 あまり朝から張り切って、昨日のように疲れが出ないようにとゆっくり目に歩きはじめる。那佐湾(なさわん)の美しさにビックリする。東洋町の生見海岸では数百人と思しき人たちがサーフィン中。道の脇では至る所で「甘夏」「小夏」「ぽんかん」の「地方配送承ります」の看板が目につく。

 また、小学生当時だったか、高知県では二毛作が普通だと習った記憶があったが、数日前の阿波の龍山荘(りゆうざんそう)では苗代で蛙の鳴き声を聞いたのに、こちらではすでに田植えがとっくに終わっており,ビックリする。

 県境は、水床トンネルという638mの長さの歩き遍路にとっては恐怖の歩道なきトンネルを越えた所だが、その先が甲浦(かんのうら)だ。港を左に見ながら、果てしなく続くと思われる国道55号を忍の一字になって歩く。

 確か草柳大蔵氏の言葉ではなかったかと思うが、“遠くへゆくものは静かにゆく”というような意味の言葉があったと記憶するが、そんなことを思い出したりする。また、自分の好きな言葉で、シルレルの「大いなる精神は静かに忍耐する」とか、誰の言葉だったか記憶が定かでないが「教養とは耐える力である」などといった言葉を思い出したりしながら“絶えろ絶えろ”と自らに言い聞かせつつ歩いていく。

 伏越の鼻の先で海岸と岩の記念撮影。中学生と思しき美少女に「こんにちわ」とあいさつされ、ハッピーな気持になる。やがて、ゴロゴロ岩の長い海岸。ここは昔は国道がなく、遍路達も、住民も皆その海岸のゴロゴロ岩の所を大変な苦労をしながら何キロも歩いたとガイド本にあったが、正に賽の河原も顔負けの凄い所で、土佐の自然のスケールや厳しさは、瀬戸内育ちの自分には全く圧倒されてしまう。

 家もなく、自販機すらない、限りなく拷問に近いという表現がピッタリの何キロも続く長い国道を通り、ようやく当てにしていた机坂食堂に着き、営業中の暖簾を見て地獄で仏とはこのことかと思ったりする。遍路に出て以来二度目になろうか、昼に缶ビールを飲み、ラーメンと巻きずしセットで1,050円。「あと7.5キロ、2時間半ね」と女将に言われ腰を上げる。

 出がけに飲み物を買おうと思ったら自販機がないので聞いたら、この店は周囲に人家がなく、夜は鍵を閉めて住まいは別だとのことだが、暴走族などが夜自販機をこじ開けたりする被害が何度もあったので撤去して貰ったとのことだった。

 それからまた延々と歩き、漸く今夜の宿「ロッジ尾崎」にたどり着いたら留守で、わんちゃんが一匹留守をしている。さてどうしたものかと考えている内に、携帯で電話してみたら、近くと思しき海の家に行っている女将に転送され、2階の1号室に入っていてくれとの返事。あとで判ったのだが、海の家というのは、ここの女将が兼営している所だそうな。今はまだ5月も半ばだというのに、さすがに土佐だ。

 しばらくして帰ってきた女将に聞き、洗濯機や浴室の場所を教えて貰う。「あとで、女のお遍路さんが見えるはずですから」と言い残して女将は夕食の食材の仕入れに出かける。なんとものどかなものだ。

 2階の泊まり部屋の窓から見渡しても商店は見あたらなさそうな所だが・・・といらぬ心配をしていると、東の方から歩き遍路がいかにも疲れたという感じでトボトボヨタヨタと歩いてくる。“あああの人かな”と思って見ていたら、何と鯖大師(さばだいし)前で別れた志木のOさんだ。

 「おーい!Oさ〜ん」と呼ぶと、気付いてにっこり。考えてみると、この女史とは、金子や・龍山荘(りゆうざんそう)・薬師会館・そしてここロッジ尾崎と、4ヵ所目の同宿だ。 昨夜は、国民宿舎加島荘に泊まったという。 あとから地図で見てみたら、何ときょうはたっぷり40キロ弱も歩かれた計算になる。疲れ切って当たり前だ。

 足達者な人だとは思っていたが、いやはやおそれ入谷の鬼子母神というところ。が、待てよ、おかしいな。確か鯖大師(さばだいし)本坊に泊まると行っていたのにと思って「同行2人別冊」(へんろみち保存協力会発行の地図)巻末の資料を見ると、鯖大師(さばだいし)本坊から2.5kmの距離なので、どうやら宿泊場所を何らかの理由で変更したものと推測する。

 きょうの泊まり客は2人のみ。夕食は2号室のOさんと一緒に、1階のカウンター前の椅子席で女将とわんちゃんに囲まれてとる。この民宿を知るきっかけになったのが、PHP文庫発刊「定年からは同行二人」で、著者小林さんのこの本が自分の歩き遍路に至る原点になったことを話すと、女将が、「小林さんとはその後も年賀状その他、お便りを戴いたり出したりしていますが、最近お身体を悪くされたみたいです」とのこと。その本を読んで、ここに泊まろうとここ数日間の歩程を調整した自分だが、何か因縁もいたものを感じる。

 女将の話では、ここのわんちゃんは拾いっ子の由。女将の優しさの対象は何も歩き遍路だけでないようだ。

2001年5月13日(日)
 遂に来た 室戸の洞で 見る“空
(くうかい)”・・・ 虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)は想像外

 6時半、前夜と同じ1階でO女史と一緒に朝食。女将がデザートに枇杷を出してくれる。枇杷はご当地の名産の由で、このあたりでは地方配送もやっているらしい。

 7,100円也の清算を済ませ、疲れているのでゆっくりしたいというO女史や女将に見送られ、涼しい内に距離を稼ごうと7時ちょうどに出立。早朝だというのに、何一つ遮るもののない海岸線、左後ろからの朝日が南国だけあって早くもきつい。菅笠の中にタオルをかませ、左後頭部が陰になるようにしながら歩く。

 昨日までの2日間の半袖Tシャツによる両腕の日焼けを気にして、きょうは長袖シャツにしたものの、やはりうっとうしい。かなり歩いたら、向こうの方に高い像が見えてくる。 「ああ、あれが青年大師像だな」と思いつつ歩を進める。その先に御蔵洞があり、青年空海が虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を修した所である。入って外を見ると視界の中は確かに上半分が空、下半分が海だけという「空海」の名前に変えたいわれが判った気になる。明けの明星がここで修行する空海の口に飛び込んできて悟りを開いたのだそうな。

 室戸岬の景色はほんとうに素晴らしく、道の左、海側に見とれている内に右側にあった最御崎寺(ほつみさきじ)への登山口を見過ごして、半島の先端まで行ってしまう。気付いて大あわてで引き返し、急坂を汗かきながら登り始める。3日ぶりにお参りする札所「24番最御崎寺(ほつみさきじ)」に着き、心を込めてお参りする。

 下りは、岬の反対側へ降りるスカイラインの車道を通るが、眺望が素晴らしい。空中に大きく突き出した道は、ブランコに乗ってぐーんと上がった頂点のようで、高所恐怖症でないからいいものの、おっとっと・・・の感がしないでもない。

 室戸岬までは、太平洋の荒波を見ながら一路南南西に進んできたが、最御崎寺(ほつみさきじ)から降り立った瞬間から今度は“北北西に進路を取れ”となる。

 国道沿いの内側を並行して走る旧道に出て進んでいくと、地元で津寺の愛称で親しまれる25番津照寺(しんしようじ)が室津港に近接してある。急勾配の石段を上がった本堂からの景色が見事だった。ここ地元では津寺と呼び、これに対して東の最御崎寺(ほつみさきじ)が東寺(ひがしでら)−お東さん、津照寺の西の26番金剛頂寺(こんごうちようじ)は西寺(にしでら)と呼ばれているそうだ。

 藩主山内一豊が沖合航行中に大嵐に遭い、遭難寸前のところ、いずこからともなく一人の小僧さんが現れて船舵をあやつって無事室津港に入港させた。そこで気がついてみると小僧さんの姿はなく不思議に思いながら津照寺にお参りすると、なんと本尊の地蔵菩薩が海水でずぶぬれになっており、以来舵取り地蔵と呼ばれているそうだ。

 13時50分、きょうの宿「民宿うらしま」に到着し、缶ビールで喉を潤してからザックを預けて軽装になり、26番金剛頂寺(こんごうちようじ)を目指す。別名を“鯨寺”とも呼ばれ、鯨の博物館や捕鯨八千頭精霊供養塔などが境内にあった。海抜165m位のところだったが、気合いを入れて往復・参拝。3時前に民宿に帰り着き、早速洗濯だ。乾燥機がないとのことなので西日の当たる位置に干す。入浴・夕食後、15〜16日の宿を予約し、それから妻に電話する。
 きょうは愛娘の誕生日でもあり、娘にも架電する。昼間、夫婦・子供の3人で妻のいる実家に行き、どこかでケーキを食べたら甘すぎて気持が悪くなった由。平和で結構。

 月・火の台風情報では、月曜日は少し好転し雨の確率も下がったようだが、火曜日は確率70%とのことで、気が重い。

2001年5月14日(月)
 “真っ縦”の 神峯寺
(こうのみねじ) 打ち終える

 きょうは、予定している距離がたっぷりあるので、昨夜、朝食時間を6時半で頼んだら自信なさそうだったが、6時20分頃覗いたらちゃんと準備してくれていた。バナナ2本をお接待だと言ってくれ、ちょっと愛想が悪いが案外いい親父さんだった。外でちゃんと見送りもしてくれた。晩酌代込みで6,950円支払い、6時45分に出発する。

 ひたすら歩く。すぐ足が重くなったり、肩が痛くなったり、前頭部が菅笠の輪っかの圧迫で痛くなったりしたが、何とかごまかしながらひたすら歩く。道の駅キラメッセ室戸、吉良川大橋、羽根川橋、奈半利川橋と来て、その先の、“ラーメン豚太郎”という店でラーメンを食べる。遍路客は自分一人で、ちょっと異色だ。

 安田川大橋を越えて、漸くきょうの宿「ドライブイン27」に着く。時に12時30分。ここからが、きょうのメインイベントである。“真っ縦”の異名で歩き遍路におそれられている?神峯寺(こうのみねじ)(こうのみねじ)への参拝だ。片道4.5kmある上に、高さ430mの山上で急勾配というふうに、遍路案内に書かれている。ここへ行って帰る往復コースである。

 ザックを預け、掛軸に参拝用具だけの軽装になってすぐ出発する。行き68分、帰り48分、神峯寺(こうのみねじ)で30分ということで、略々2時間半弱かかり、ドライブイン27に帰り着いたら3時を少し回っていた。登り坂はさすがにきつい。特に細い車遍路道をショートカットするように、草ぼうぼうの薮こぎ道を、選んだり避けたりと様子を見ながら登っていったが、車でも上るのがきつそうな急坂もあり、“真っ縦”の異名にふさわしかった。しかし、今でこそ簡易舗装されているものの、昔は当然土道で、雨や雪など悪天候の時は容易ならざる難路であったと想像される。

 参拝後、本堂からの石段を降りたところに筧から流れ落ちる当寺自慢の石清水を飲む。有名な名水らしいが確かに旨い。宿に帰って一息入れ、早速洗濯したい旨話すと、女将が「泊まって戴くのはここではないんです」と言って、車で近くへ連れて行ってくれる。ドライブインは食事処専門のようで、泊まる場所は近くだが別とのこと。行ってみると、相客は74歳の夫と病み上がりの妻という、老夫婦の車遍路一組だけだった。

 とにかく、洗濯・脱水・乾燥を済ませ、夕食にドライブインまでつっかけを借りて歩いていく。料理はかなりのご馳走で、どんぶり飯もあって腹いっぱい。宿所に帰って17〜18日の宿の予約電話を入れたが、清滝寺(きよたきじ)の拠点となる「喜久屋」と青龍寺(しようりゆうじ)を打ち終えてからの「汐浜荘」はどちらも長期滞在の工事の人で満杯のためとれず、それぞれの近くにある「白石屋」と「国民宿舎土佐」に宿泊予定先を変更する。

 妻にその変更を電話すると、娘と孫が来ているという。結構、結構。娘に感謝するや大。

2001年5月15日(火)
  ひとり歩き 白人女性も 遍路する


 4時起床。夕食後は明日の行程の予習をしたあとはテレビもほとんど見ないで早寝するという、遍路パターンの毎日で、目覚めはいつも早い。窓の外の雨音やいかにと耳を澄ますが、何も聞こえない。きょうの行程をもう一度予習してから、階下の老夫婦遍路を気遣いながらトイレに行き、部屋に帰って着がえる。

 5時頃、日の出と共に戸外を見ると全く降った様子はなく、何やら空が明るい。テレビをつけると昨夜の予報(曇り/雨)から曇りに変わっているので、急遽半袖シャツから長袖にチェンジしたり、荷物の組み替えを行う。

 6時10分前に荷物を持ってレストランの方へ行くと、前夜の約束(6時朝食)どおり準備してくれていたので6時15分には出立できた。当初の心づもりより1時間15分ほど早い。

 昨夜、夜中に目が覚めたとき、足が疲れているなぁと感じていたが、昨日の長距離歩行(35.6km)や“真っ縦”登降坂ですっかり疲労したらしく、歩きはじめてまもなく、早くも足の疲れを感じ始め、午後には一層ひどくなってきた。

 途中から海沿いの自転車ロードへ入ったり国道歩きに戻ったりを繰り返して気分転換していると、金剛頂寺(こんごうちようじ)や神峯寺(こうのみねじ)で出会った青年野宿遍路に3度目の出逢いをする。香川県琴平町出身で、近くの丸亀市で一人住まいの由。

 何でも、今回が3度目の遍路とのこと。1度目は自転車で始め、途中知り合った歩き遍路と同行するうちに歩きの良さを痛感し、それから以後は歩くようになり、2度目はオール歩きで、そして今回はオール歩きのオール野宿でやっているという。だから、背負っている荷物がすごく重そうで、若いけれども歩行ペースは自分よりもかなり遅い。ただ、話を聞いてみると、野宿の場合長時間歩行で距離が稼げるので、少々歩行スピードが遅くても一日の歩行距離は自分の場合と大差ないようだ。

 途中、夜須町あたりを通っていたら、道路脇のベンチで歩き姿の女性遍路がお握りを食べている。話しかけようと思ったら何と白人女性遍路だ。一人ですごいなぁと思うが、日本語専門の小生としては「オハナシワカリマセーン」の口なので、右手を挙げ「はーあい」と笑顔であいさつして通り過ぎた。

 赤岡町から海岸沿いを離れ北へと歩いて、きょうの「旅館かとり」到着が13時53分。凄い!鉄筋でホテル並み。オートロック式で清潔・洗濯機と乾燥機が各4つずつ完備で、今までの中では最高だ。ありがたや、ありがたやと洗濯・乾燥を済ませる。

 食堂が別棟になっているので明朝の朝食時間について聞きに行こうとしたら、何と件の外人女性遍路がやってくる。オドロキ!しかも日本語が殆ど話せないみたいで、旅館の女性従業員もとまどっている。ますますオドロキ。一体これまでの遍路宿の予約など、よくできたものだと不思議に思う。

 夕方食堂棟へ行くと、ちょっと遅れで彼女もくる。折よく、英会話のできる初老の遍路がいて、何かと教えてやっているので他人事ながらほっとする。それにしても感じの良い美人でスタイルもとびっきり良い。

2001年5月16日(水)
 老遍路 若き遍路に お接待


 晩酌なしでも清算7,350円と少々高めだが、いい旅館で大満足して、6時朝食、6時15分出発。

 28番大日寺(だいにちじ)、札所で3つ目の同名札所は小高い山の上にある。きょうの道は今までの国道と違って本来の遍路道らしい道で、反面ややこしい。地図片手に29番国分寺(こくぶんじ)(これも一国一寺だから同名の二つ目)、今は決着したが正当30番札所争いで名高い30番善楽寺、ペギー葉山の「南国土佐をあとにして・・・」の歌詞に出てくる簪を買った坊さん純信がいたという31番竹林寺(ちくりんじ)と打っていく。

 余談だがこの純信、安政2年(1855)に愛しい娘お馬と駆け落ちして讃岐の琴平で捕らわれ、純信は伊予川之江で寺子屋の師匠に、お馬は土佐須崎の庄屋預けの身となり、後、大工米之助に嫁いだ由である。後で知った話だが、この時の純信の歳は37歳でお馬は17歳の村娘だったそうで、お馬は嫁いだ後子供にも恵まれ、晩年は維新後の東京で穏やかな生活を送ったらしい。
 なお「純信」という名は竹林寺(ちくりんじ)に修行に行って付けられた出家後の名前で、本名は慶禅と言い、宿毛湾近くの柏島にある護念寺の息子で、墓もここにあるらしいが見るも哀れな小さな墓の由。

 国分寺(こくぶんじ)で見かけた青年野宿遍路は、わが家の近く立川の美容室で修行し、大阪の大東区で近々開業予定という24歳の青年。野宿で風邪をひいたらしく時々咳をしている。

 善楽寺から竹林寺(ちくりんじ)まで話をしながら同行したが、竹林寺(ちくりんじ)への途中、一昨日泊った「民宿うらしま」のおばあちゃんがくれたお接待のヨーグルトキャラメルをやったり、暑いので100円ジュースを自販機で買ってやって一緒に飲んだり、竹林寺(ちくりんじ)前の竹崎食堂では、昼食のざるそばとアイスクリンをご馳走してやったりと、節約旅の青年野宿遍路をお接待してあげた。
 これまで自分に対してお接待してくれた四国の人たちの数々の真ごころのお裾分けのつもりだ。

 五台山竹林寺(ちくりんじ)へは案内書に従って山への遍路道を登っていく。大きな植物園があり、見ると「牧野植物園」とある。日本の植物学の基礎を築いた有名な牧野富太郎博士ゆかりの所だ。そこを回り込むようにして表山門に着いたが五台山の上一帯はかなり広かった。

 参拝・昼食後、竹林寺(ちくりんじ)山門で客を降ろした戻りタクシーをつかまえ乗りこむ。遍路行程上、高知市内に宿をとらざるを得ないので、「ビジネスホテルときわ」を予約し、そこへはタクシーで行き、明朝はホテルからここまでまたタクシーで戻り、竹林寺(ちくりんじ)山門前から明日の歩きを始めようという、歩きにこだわった考えからの行動だ。

 セミダブルベッド、シャワレット付きのビジネスホテルだが、夕食を付属の1F食堂で食べたら、2,570円と高くついた。

 裾野市の長男夫婦宅に行っている妻と、杉並の娘に電話し、コミュニケーション。2〜3日前から左足小指に水虫ができたみたいで困った。一日中汗をかきながらの歩行で、湿気過多とみえる。

2001年5月17日(木)
 渡し船 昔ながらの 遍路みち


 昨夜、何となく左腰に痛みを感じ、“もし荷物を背負えなくなったら・・・”と夜中に不安に襲われたが、朝にはほとんど治っていて助かった。部屋代5,700円を支払い、タクシーを呼んで貰って山上の竹林寺(ちくりんじ)に向かう。
 山門から合掌参拝。遍路道である下山路の入口は昨日確認しておいたので問題なかったが、降り始めるとまもなく直進か左折か判りにくい場所に出くわす。直感で左折したら、正しかったことがほどなく判り、ほっとする。

 32番禅師峰寺(ぜんじぶじ)も小高い山の上だ。神社・仏閣というのはどこでも大体高いところに建立するもののようで、その分ありがたみが増すのかどうか知らないが、参拝者は大変だ。そこを打ち終わってからは浦戸湾方向を目指し、種崎の県営渡船場に向かう。桂浜に通ずる浦戸大橋というのも架かっているが、歩き遍路にとっては若干遠回りになる。

 この県営フェリーは県道扱いされ、歩行者と自転車は無料で、古来遍路世界ではこの船も「歩き」として扱われているそうだ。車や自転車と一緒に乗りこむと、ほんの4分ぐらいで向いの長浜に着く。旧東海道における「宮(熱田)」と「桑名」の渡しと同じ類か。 この渡船は、当然ながら山手線並みの間隔で発着している訳ではない。朝でも15分、昼間は最大40分間隔の時間帯もあり、歩きの遍路はここに至る間のスピード調整も必要な所だ。

 そこから33番雪蹊寺(せつけいじ)はそう遠くない。むかし高松勤務時代に社内旅行で来たことのある桂浜も久方ぶりに見たかったが、今回は観光旅行でなく、タイムスケジュールにも入れてなかったので諦めて先を急ぐ。雪蹊寺は、11番藤井寺(ふじいでら)と並んで臨済宗妙心寺派に属する禅寺である(四国88ヵ所の中の禅寺では、このほか15番薬王山国分寺(こくぶんじ)が曹洞宗)。

 四国併呑の野望に燃えた長曾我部の兵火は、四国の由緒ある多くの寺社を焼き払った点において悪名高きことこの上ないが、その長曾我部元親の庇護を受けて臨済宗に改宗、元親の死後菩提寺になったのを機に元親の号をとって「雪蹊寺(せつけいじ)」と改名した寺である。

 阿波の遍路道に比べ、土佐のそれは全体的に道標が少ない。次は34番種間寺(たねまじ)だが、途中、現在場所が判らなくなり、ガソリンスタンドに立ち寄り地図を見せながら尋ねる。要領を得ず困っていたら、そこに給油に来た客が明快に教えてくれ助かった。

 へんろみち保存協力会の地図(通称「別冊」−後に改訂版では「地図編」となる)は、貴重な情報が満載で正に歩き遍路必携のバイブルだが、全体の中での位置づけが判りづらい面があり、その欠点を補うべく昭文社の県別地図を四国各県分買い、必要箇所をカラーコピーして携行し、両方見ながら歩いて重宝しているのだが、それでも時折、新道ができたりして解りにくくなっていることがある。

 きょうも暑さと疲れで最後の1〜2kmはヨタヨタ状態だった。そう言えば、これは昨日のことだが、30番善楽寺(ぜんらくじ)に向かう途中ではじめて「車でおくりましょうか」とのお接待の声が、車を止めた中年男性からかかった。もちろん丁重にお礼を申しあげた上で辞退した。
 ただ、「折角声を掛けたのに・・・」と気分を害され、以後歩き遍路にそのような声掛けをいやがられるようになったとしたら、たまたま疲労困憊していて車接待を渇望している他の遍路にとって困ったことになるということも考えられるので、遍路体験者が書いた本にも載っていたが「ありがとうございますが、私は歩きで通させて戴いておりまして、まだ疲れもひどくありませんので、このまま歩かせて戴きたいと思います。どうかこれからも、これに懲りられずに、疲れている歩き遍路さんを見かけられましたら、声を掛けてあげて下さいますように」と申しあげた。相手の男性は残念そうだったが・・・

 今回の遍路旅では、人間の全くできていない自分としては珍しく、一挙手一投足に至る迄、自分の行いが原因で他の歩き遍路が地域の人たちなどから不快に思われたり、不信に思われたりすることの絶対にないように、これだけはかなり気を遣っており、われながら不思議に思っている。

 次の35番札所への途中、仁淀川に架かる仁淀大橋を渡る。川幅の7〜8割は田畑になっており、残りの2〜3割の水流部分も結構幅広で、橋全体の長さは歩いていて飽き飽きする程だった。渡り終わったら川岸に沿って右折し、しばらく行くと土佐市高岡の街中に入る。最初泊まろうと思っていたが予約満杯だった喜久屋旅館の真ん前にある白石屋旅館に着き、すぐ洗濯にかかる。

 部屋は清潔、料理も旨く、希望の宿が取れなかった恨みは全くない。旅館のお孫さんらしい男の子が親しそうに話しかけてくるので一緒に遊んでやったりして洗濯が終わるまでの時間つぶしをする。
 夕食は1階でカウンター形式とちょっと変わっている。 カウンターとなれば雰囲気的にすぐ食事にとはならないのが長年の習慣だ。夕食後、明朝の食事を6時半でお願いし、早めに床につく。先のことだが、23〜24両日の雨50%予報が気にかかるが、ちょっとこれは考え過ぎか。

2001年5月18日(金)
 初めての 国民宿舎は“真っ縦”の上


 白石屋旅館を7時02分出発。支払いは6,300円。女将が「どうせ清滝寺(きよたきじ)の次はここを通って行くんだから荷物を置いて行ったら」と言ってくれたが、お礼を言ってザックは背負っていく。順路を微変更するかも知れないという考えがあってのことだった。

 35番清滝寺(きよたきじ)は、これまた小高い山の上にあり、遍路車がすれ違えないような細いくねくねした道を登っていく。思ったほどきつくはなかったが、99段の石段もあり、往路50分かかった。帰りに高岡郵便局でゆうパックで荷物を一部送りかえした。

 次は36番青龍寺(しようりゆうじ)を目指すが、完成直後の塚地トンネルを避け、その手前右から海抜200mの塚地峠越えの山道を選ぶ。しかし、本当に人がほとんど通らない山中の遍路道で、登りも下りもいやはや大変というやつで、宇佐の海岸に出た頃にはどっと疲れが出ていた。

 ジョン万次郎ゆかりの店と店内に書いてある「新漁丸」で五目そばと生ビールの昼食を摂り、それから長さ645mと言われる宇佐大橋を渡って行く。この橋は昔はなく、お遍路達は「龍の渡し」と呼ばれる舟で渡ったらしいが、海の荒れた日は当然ながら宇佐泊まりを余儀なくされたらしい。宇佐大橋は海面からの高さも結構あり、風にあおられないようにと菅笠を片手で押さえていなければならないのと、橋の上だからという遍路世界独特の理由から、杖はつかないで持って歩くため、結構負担になる。
 この、独特の理由というのは、昔お大師さまが伊予の国の十夜ヶ橋(とやがばし)付近で一夜の宿を乞うたところ断られ、やむなく橋の下で一夜を過ごしたら、寒さのために一夜が十夜ほどにも感じたそうで、その橋が十夜ヶ橋と呼ばれるようになる。今そこには番外霊場が建立されているが、その橋の下にはお大師様の寝姿の石像が祀られ、線香の絶える時がないほどになっているそうだ。このことから、橋の下で休んでおられるかも知れないお大師さまをお起こししては申し訳ないということで、以来、橋の上を通る時に遍路が杖をつかないようになった・・ということだそうな。

 自分も、遍路を初めて最初の2〜3日は時々うっかりミスをしていたが、それ以後は、絶対に橋の上では金剛杖を手に持って歩いている。後の話だが、遍路の時以外の日常の山歩きの時でも橋の上ではストックはつかないように習慣づいてしまった次第で、習慣は恐ろしいものであるというより、そうしないと気持が落ちつかなくなったというのが本音だ。

 やがて、浜沿いの道から右折して青龍寺(しようりゆうじ)へと向かう。横綱朝青龍の名前は、高校(明徳義塾)がこちらであること、部屋の親方が土佐出身の元大関の朝潮関(高砂親方)であることと無縁でない。今回の遍路で青龍寺(しようりゆうじ)を知ってから、まだ入幕直後ぐらいだった朝青龍を以後応援するようになったが、精進して、後には角界の頂点にまで立つようになったのは、私にとって快事である。

 さて、青龍寺(しようりゆうじ)での納経を終え、国民宿舎土佐の場所を訊ねると、指を指し示して「そこから山道を登っていけます」とのこと。瞬間,悪い予感がする。

 はたして予感が的中。歩きはじめたら、雨降りならそこが滝になるであろう険しい岩と石の上り坂、それも岩をつかんで文字通り“真っ縦”の垂直近い箇所を大股で冷や冷やしながら登っていかなければならず、これにはびっくり仰天した。もとより全てがそんな急峻ではないが、そこを通らないと行けない。はじめから予想もしていなければ覚悟もしていない急峻だったため、驚きは二倍、三倍だった。これが奥の院への道らしいのだが今夜の宿「国民宿舎土佐」もその近くにあり、舗装されたドライブウェイがみえてきた時には正直「命拾いした!助かった!」という思いしかなかった。
 ところが、着いた国民宿舎はホテル並みに快適で、洗濯も乾燥も食事も従業員の態度もオール100点でほっとする。きょうは低山だが清滝寺(きよたきじ)往復から始まって塚地峠越え、国民宿舎への急峻登りで、歩いた距離の割には疲れが大きい。さて、明日のコース取りをどうするか、これが今夜のこれからの宿題だ。

2001年5月19日(土)
  次の寺 2日がかりで 60km先


 さすがは国民宿舎だ。朝食は6時50分からでないと準備できかねるとのことだったので、6時43分呼んだタクシーで出発し、昨日の青龍寺(しようりゆうじ)に6時50分着。昨日あれほど苦労して登ってきたのに、車で行けばルートは異なるが僅かに7分。この一見無駄にみえる時間が、ひたすら無になれる、自分との対話ができるゴールデンタイムになっているんだと納得する。

 青龍寺(しようりゆうじ)から歩きはじめれば、88カ所の歩きは線でつながる。次の札所は60km先、2日がかりのスタートだ。ルートは、昨日の宇佐大橋を渡って浜街道を行くコース、もう一つは横波スカイラインを通って合流するコースだ。前者を選んで大橋を渡り戻し、当初宿泊希望だった民宿汐浜荘の前を通って朝日の陰を探しつつ歩く。
 途中、朝食用にパンを2個買う。2回に分けて1個ずつ食べ、さらにその先でお握りも2個買い、食べる。浜街道は、じぐざぐに陸と海が入り組んでおり、歩く距離の割には直線距離が稼げないが、これが修行だ、これが遍路だと自らに言い聞かせる。

 途中、おばあちゃんから50円、車に乗った中年男性からポカリスエットの缶飲料をお接待され、ありがたく戴き、また歩く。きょうも暑く、そのうち足が痛くなり始める。いつもと違って右足の小指が痛い。途中で靴下を脱いでみたら、果たして肉刺(まめ)ができている。

 これまでの歩きで全く肉刺(まめ)はできなかったので、水泡をつぶして水を出したり、消毒液を糸に浸して中を通したりするための裁縫針や糸、また、その針消毒用のライター等、もう不要と思い自宅宛返送済みの身として、困ったことになった。とりあえず何とか応急手当をして妻に電話したり、「民宿あわ」についてから、近くには薬局がなく、タバコ屋が見つかったので針消毒用にとライターを買ったり、女将に言って針を一本戴いたり・・・

 そうこうしている内に、沖縄から自分と同姓の男性遍路客が投宿する。この初老の男性は昨年6月に徳島県内を歩き、そして今回は高知県を一国参り中とのことで、5,000円の格安航空券で来た由。

 枇杷の葉が肉刺(まめ)に効くと徳島県内を遍路しているときに訊いたことを思い出し、きょうの途上それらしき葉を5〜6枚採ってきたが、民宿あわの女将に聞くと、「これは枇杷の葉っぱじゃないわよ」とのことで、残念。

2001年5月20日(日)
  久方の 宿坊泊まりぞ 岩本寺
(いわもとじ)

昨夜同宿の沖縄のYさんと一緒に6時朝食、6時25分出発する。ビール&酒込で6,800円也。

 昨日の肉刺(まめ)の行く末不明のため、きょうは素晴らしい自然の道といわれる焼坂峠(やけさかとうげ)越えの遍路道は避け、国道歩きを選択。ペースが違うので途中で彼と別れ、先を急ぐ。さらに久礼駅手前の大川橋を過ぎたあたりから3本のルートがあり、一番北がそえみみずへんろ道、真ん中が国道ルートだが、一番南のもうひとつの遍路道コースを選ぶ。

 最初のうちはよかったが、海抜80mの登坂口から七子峠(287m)迄の500mで200m強登る所が大変急坂で、漸く着いた峠では、真っ先にアイスクリンのおじさんに一本指を差しだす有様だった。時にまだ9時50分。昼食には早すぎるので小休止と飲み物だけで窪川方面へと再出発する。

 途中、前から来た車が対向車線で止まって、窓からおいでおいでする。何かと思って自分を指さし疑問顔をすると、小夏を一個手に持って見せ、もっていけという。車に気をつけながら近より、お礼を言ってお接待を受ける。

 その先の、「根っ来」という店で、美味しい昼食ができた。デザートに先ほどの小夏を食べたらメチャウマだった。風通しがよく、雰囲気も不思議な良さがあり、へえー、こんな所にこんな店が・・・というような、いい感じの店だった。おかげでゆっくりくつろぐ。
 それからまた歩き、土讃線終点のJR窪川駅に立ち寄り、数日後に備えて帰京時の乗車券・特急指定席券を買う。ここから先はJRではなく、中村経由で宿毛まで土佐くろしお鉄道という第3セクターの鉄道路線になる。時間調整のためちょっぴり駅にて休憩。

 2日がかりの37番岩本寺(いわもとじ)には14時06分到着。本堂の天井には何と575枚だそうだが本堂新築の時に全国から公募したという絵が飾られていて、中にはマリリンモンローほか、寺らしくない絵もいっぱいある。面白い企画だと思う。お参り・納経を済ませて宿坊に14時21分着。早すぎて入れてくれないかなと思ったがOKだった。

 泊まりは、宿坊の部が遍路二人、ユースホステルの部が一人のみ。もう一人の遍路は、滋賀からの区切り打ちのおじいちゃんだった。少人数なので、朝食は勘弁してくれと言われる。寺のすぐ傍に朝5時半からやっているモーニング喫茶があるとのこと。話には聞いていたが、寺も自分の都合に合わせてやっている。

 明日からは天気不良の予報で気が重い。普通、遍路をしていると殆どテレビは見ない。もちろん新聞もだ、天気予報だけは常に最新情報を知りたいけど、部屋にテレビのある旅館・民宿ばかりではない。たまたま朝食の時などにテレビで天気予報をやっていれば儲けもの位に考えていた。もっとも最初の頃はカード型の軽量のラジオを携行していたが、結局周波数あわせがうまくいかず、殆ど使わなかったし、音楽などを聴きながら歩こうという気にも全くならなかった。

 後で気がついたのだが、折角NTTドコモの携帯電話を持っていたのだから、全国共通の177番で聞けばよかったと後悔している。自宅にいるときには以前の話だが、明日がゴルフなどという時に時折利用していたのに、その後、177番の存在そのものをすっかり忘れていた。頭の老化の始まりとは思いたくないが・・・

2001年5月21日(月)
  近回り 命からがら 峻険路


 天気予報があまり良くない。降られぬうちに距離を稼ぎたいのと、今夜の宿への投宿可能時刻(14:00)との調整が難しいが、とにかく6時16分出発する。門前の喫茶でモーニングセットを食べ、6時半に実質スタート。早いが客が7〜8人来ていて、新聞やら週刊誌などを片手に思い思いの時間を過ごしている。高知県というのは、こういう喫茶店が多く、そして利用好きなところだと何かの本で読んだことを想い出す。

 歩き出してしばらく経つと、何となく雨がぱらつき始める。民家の軒下を借りて雨具をつけたら何となく蒸し暑いがいたし方ない。表示に従い、四国電力の資材置場を左折し、本来の遍路道に入る。後半の急坂をハラハラしながら降り、途中ほとんど道が崩落して無いようなオットットの急斜面を何とか降りきったら、漸く国道に出られてほっとする。しかし、まさに足の踏み場を探しながら、へっぴり腰でこわごわ進んだ箇所には、肝をつぶした。これが土砂降りの日だったら下りで確実にスリップして、へたをしたら転落・大事故になりかねない危ないところだった。よく地図を見ると、国道歩きに比べてそれなりにショートカットはできていたが、もう二度と遍路道はいやだとその瞬間だけは思ったものだ。

 雨が上がったり、また降りそうになったりと鬱陶しい天気の中、結局雨具をつけたまま、挙ノ川峠で休憩したり佐賀温泉でおでんを食べがてら小休止。さらに「コーヒーハウス散歩道」で野菜炒め定食での昼食(ママが食後コーヒーをお接待して下さった)、土佐佐賀駅のベンチでの休憩兼時間調整などで、結局予約時の約束より5分早い13時55分に「内田屋旅館」に到着。

 若旦那とみえる好青年が迎えてくれ、感じの良い部屋へ案内してくれる。何と、真新しい鍵付きの個室で清潔な感じにほっとする。風呂に湯を入れて貰って一番風呂に入り、全自動洗濯機で日課の洗濯が続く。残念なのは乾燥機がないとのことなので、部屋のハンガーに吊してエアコンを除湿にセットする。

 洗濯を始めた頃から雨が本降りになってくる。到着後で良かった。早だちしていてよかった。鶴林寺(かくりんじ)・太龍寺(たいりゆうじ)から平等寺(びようどうじ)まで一緒だった上尾市のFさんのものにそっくりの黒バッグが隣の部屋に置いてあるのが半開きのドア越しに廊下から見えたので、もしやと思って若旦那に聞いてみたら別人のものだった。がっかり。

 肉刺(まめ)の方は、右足小指がいまひとつすっきりせず、薬局を見つけて手当て用品を何か買わねばならない。夕食が旨く、ご飯をお代わりまたお変わりで4杯も食べてしまう。普段の自宅での食事や外食でもそうだがとても考えられないことで、それだけ身体が欲しているのだろうとプラス思考で考えることにする。

 食事の時、一昨夜だったか、「民宿あわ」で同宿だった沖縄のYさんに逢う。こうした再会は以前にもあったが不思議なご縁だ。聞いたら明日の予定は中村市泊まりだという。これまた自分と同じだ。

 この度の歩き遍路は、まだ2回残っている職安通いとの関係であと僅かで中断予定だが、その最終日の宿を手配すべく、若松屋旅館に電話したら休業中とのことで、近くの嶋屋にしたら電話での受け答えがいまひとつピンと来ず、一抹の不安を残す。でも、あの辺りにはほかにも宿があるので万一の時でも何とかなるだろうとお得意の割り切りで心配しないことにする。それにしても、明日の天気は悪そうだ。

2001年5月22日(火)
  小雨けぶる 四万十川越え 小京都 着きたる宿は豪華膳


 6,700円を清算し、7時06分、内田屋旅館を沖縄のYさんと一緒に出立する。雨。レインウェアに身を包み左に太平洋を見ながら小雨そぼ降る国道56号を、一路中村市へ向かう。当初の予定より早く出ているので、時間調整したつもりだがなかなかうまくいかず、途中で見たら1時間以上当初の予定より速いペースだ。

 それなりのペースがあるのでY氏と別れて一人歩きになって間もなく、通り道に薬局を見つけたので立ち寄る。肉刺(まめ)の手当用にと、消毒液と傷ガード用の絆創膏みたいなのを買う。剥がす時に傷口に全くくっつかない優れものだった。

 雨は降ったりやんだり、相変わらずはっきりしない。途中のコンビニでお握りを2個買い、その前の駐車場のコンクリートの車止めの上に腰を下ろして食べるがわびしい。

 途中、やはり歩きで赤いポンチョを着た初老の遍路にあったが、何とも感じの悪い横柄な感じの人で、追い抜いて行ったが結果は今夜の同宿者だった。質問はするが返事はしないという、変わり者だった。延々と歩く以外にない。歩くほどに足摺が近づいて来る。そう思って歩き続ける。
 いよいよ四万十川だ。日本最後の清流と言われているそうだが、河口に近いせいかただの大河にしか見えないが、雨で濁っているのだろうか。上流へ行けばきっと素晴らしい景観や自然そのままが現存するのだろう。長い中村大橋を渡ってちょっと行った左に、きょうの宿「中村新館」があった。

 まだ13時07分だが、快く迎えてくれる。早速一階の洗濯機置き場へ行って恒例の日課を始める。風呂は16時からなので、それまで我慢しなければならない。沖縄氏は別の旅館と見えて同宿にはならなかった。

 夕食は、今までの遍路宿で前代未聞的超豪華版でビックリ。惜しむらくは、宿の配慮で歩き遍路同士ということだろうが、昼間追い抜いた感じの悪い遍路と同卓の向かい合わせでセットされていたことだ。このオヤジも、用意された前代未聞的超豪華版の膳をみてビックリして写真に納めていたっけ。とにかく食べ切れぬほどのご馳走三昧で、結局ご飯は茶碗一杯がやっと。こんな馳走ははじめてだ。

 妻との電話で、高松の兄宅から収穫した空豆と玉葱を送ってきたということと、兄が入院したらしいというので、見舞金を1万円送っておくよう依頼する。

2001年5月23日(水)
 “マンボウ”の 珍味味わう 足摺の宿


 朝食に行ったら、朝も超豪華版で、ほんとにこんな旅館は初めての最後だろうと思う。ご飯は一杯きりで終わりにし7,300円を清算して、本格降りの中を7時06分スタート。

 昨日の中村大橋を渡り返して右折する。雨水が舗装道路を川のように流れており、対向車線の大型トラックからの水しぶきがそれこそ“ドバーッ”と全身を襲う。でも、概して言えば歩き遍路にとって厄介なのは一般の乗用車で、ダンプカーなどの運転手は歩き遍路を気遣った運転をしてくれる人がほとんどである。

 今度は、下流の四万十大橋を渡っていよいよ足摺を目指す。とても今日中には行けない遠隔地だ。国道321号線を進み伊豆田トンネルにさしかかる。1,620mあり、歩道は片側しかない。予め本で知っていたので、車の通行が少ない時を見計らって歩道のある側に寄ってトンネルに入る。約20分かかった。

 下ノ加江橋を渡った所で、これから向かう38番金剛福寺(こんごうふくじ)の次の39番延光寺(えんこうじ)への道がここで分岐する打戻コースを採る予定なので、その分岐場所を確認して記憶ボックスにしまい込む。

 途中、後ろから来たセダンが横で止まり、「お乗りになりませんか」と言う。よく見たら40歳ぐらいの映画俳優のようにきれいで上品なご婦人だ。どこの誰とも判らぬ見知らぬ男を車に乗せようというのも、お四国ならではの独特の文化だとあらためて思う。「ありがとうございますが・・・」と例によって他の遍路のことも考えたお断りをして先に歩を進める。

 時刻は間もなく13時だ。大岐海岸にさしかかった所にあった「喫茶ビーチ」に入り雨具を脱いでラーメンを注文する。食べ終わる頃、ママが「薄皮ごと食べて下さい」と甘夏風のものをデザートにお接待して下さった。旨い。

 以下は、この店の湯飲みに書かれていたもので、面白かったのでメモしておいた。
題して「健康十訓」

     少肉多菜 少塩多酢 少糖多果 少食多噛 少衣多浴
     少言多行 少欲多施 少憂多眠 少車多歩 少憤多笑

 正に、言い得て妙。心すべきことばかりだ。

 大岐海岸では、近道になる砂浜歩きは最後の国道への戻り場所が判りづらくてやった人が難儀したと本で読んでいたので、500m位遠回りになるが国道をそのまま進むと、今度は軽トラを止めていた男性が、「お遍路さん、枇杷、好きなだけ持って行きなよ」とお接待の申し出。見ると今摘み取ってきたばかりのあまり器量の良い枇杷ではないが、折角のお志なので小さいのを1房戴き礼を言う。「そんな少しでいいの?」と言われたが、こちらは長距離ウォーカーで、丁重にご遠慮する。 ここで先日間違えたが枇杷の葉は、ああこれだったかと納得する。

 14時20分、以布利の「民宿旅路」に着く。老夫婦経営の何とも鄙びた家族的な民宿で、着いたら早速女将が洗濯しますから汚れ物を出してお風呂に入って下さい」とおっしゃる。洗濯のお接待は初めてだったが、ありがたくご厚意に甘えることにする。乾燥についても「明日までに乾かしてあげます」とのことで、大助かりである。

 風呂から上がって一服していると、もう70歳には充分達していると思われる旦那が、通された二階の部屋に夕食を一皿ずつ階段を上がって運んできてくれる。何とも要領がいまひとつだなと思ったが、この理由は翌日女将が話してくれてわかった。

 それはこうだ。旦那は元漁師で、最近はバイクにばかり乗って全然歩かないので、足の衰えを気にした女将が2階まで回数多く歩かせているのだそうな。夕食は魚づくしである。ここを予約したとき、電話口に出た旦那が「お客さんは魚は好きかなあ」と言ったので「大好きです。肉か魚かと言われたら、断然魚の口です」と言っておいたが、刺身に、煮物に、焼きにとたっぷりの魚料理で、さすがに地魚は旨いと思った。珍しかったのはマンボウの酢の物でなかなかの味だった。普通食べられないだけに得をした感じである。

 余談だが、話によれば平成4年の大阪勤務時代のある休日家内と見に行って、その巨大さに驚いた南港の海遊館のじんべいざめは、ここ出身だとのこと。思いがけない話を思いがけない場所で聞くものだ。今もここで別のじんべいざめを飼育している由。

 明日は足摺の突端にある、38番金剛福寺(こんごうふくじ)を目指す訳だが、行って帰って33km近い一日コースであり、ここでもう一泊「民宿旅路」を予約してある。「明日は昼食のお弁当をお接待させて戴いておりますから・・・」と女将が言ってくれたがウエストポーチに入らないため訳を説明してお断りし、洗濯の乾燥のみよろしくとお願いする。この洗濯物は、廊下にロープを張って一晩中扇風機を回して乾燥させてくれたらしく、申し訳ない限りである。

 夜は隣にもう一人の歩き遍路が来たようだったが、部屋にあった「お四国旅日記」という遍路紀行本を読んでいる間に寝入ったようだ。

2001年5月24日(木)
  室戸の対 足摺岬を軽装で 往復した夜は 二泊目に


 朝食は1階でだった。器に割入れてあった生卵をカーペットの上にひっくり返す大失敗をやらかし、平謝りしながらティッシュペーパーで拭うがきれいに取れない。ちっともいやな顔をせず「良いですよ。大丈夫、大丈夫」と言ってくれる。食後トイレに行ったら、ここはおつりが来そうなボットン式で、幼い頃の故郷の古い家を思い出す。

 朝食の時に出してくれた自家製の紫蘇入り茶がとても旨かったので、そう言ったら、350ccのペットボトルに飴・キャラメルを付けてお接待してくれた。きょうの道中で楽しめる。

 ザックを民宿に置き、掛け軸やウエストポーチに入れた参拝用品だけの軽装で6時36分出発。女将が「近道になる遍路道があるので・・」と県道に出る途中までの道案内をしてくれる。泊まってくれた歩き遍路みんなに朝の同行道案内をやっている由。旦那の健康のこと、独立したこども達のこと、嫁に来た頃からのこと等、面白おかしく聞いている内に海っぷちや急坂の遍路道を通って県道に出る。

 「じゃあ、お気をつけて」の声に見送られ、女将と別れるが、帰りのことも考え、道の分岐の表示を頭にたたき込み、曲がりくねった県道を歩きはじめる。車もあまり通らない。ましてや人などほとんど見かけない道を快適に歩く。途中、またまたショートカットの遍路道があり、そちらを選んだが、その入口というか登り口が前日の雨で濡れた石の斜面を滑らないように手をついて登るという、おっとっとの危険箇所で、最初はどうなるかと思ったがやがてのどかな道になり、ほっとする。

 途中、逆方向から打戻りのお遍路に2人ほど逢い、互いにあいさつを交わして一路足摺を目指す。道が広くなったり狭くなったり、歩道があったり無くなったり・・・と進むうちに、2時間58分で38番金剛福寺(こんごうふくじ)に着く。東京から最も遠い札所である。香川生まれの自分から言っても、四国の最果てだ。

 お参りのあと門前のレストラン2階で冷やしうどんと生ビールで軽く自己慰労し、それから岬の展望台をざっと見て民宿旅路への帰路につく。まさに太平洋だ。何日か前の室戸岬からだけでも何と遠かったことか。途中、室津とか津呂とかの集落はあったが、それ以外は“無”の世界だ。

 軽装に物を言わせてすっ飛ばしていると、向こうから一昨日中村新館で同宿だった生意気オヤジがやってくる。後ろから女性遍路が来ていると言っていたが逢わなかった。休憩でもしていたのか、からかわれたのか・・・

 わかりづらそうだった今朝の近道の遍路道は避け、県道・国道を通り、途中1回地元の人に道を尋ねたが、14時10分無事「民宿旅路」に帰り着く。きょうの歩行は32.7km、平均分速88mと軽装の効果100%だった。肉刺(まめ)さえ無ければもっと・・とは負け惜しみか。

 帰り着くと、これで4度目の遍路だというベテランが、きょうは40km歩いたといって到着していた。自分も明日はそれ以上歩かなければ予定の宿に着けない。入浴・肉刺(まめ)の治療も終わり、明日に備えてあとは休養する。きょうも洗濯・乾燥を女将のお接待に甘えてお願いしてしまった。

2001年5月25日(金)
  修行の道場” 最後の歩きは 40余キロ


 5時起床。ボットントイレ。洗濯物の回収。足指へのテーピングテープ貼り・・・と一連の行事をこなして5時55分朝食開始。6時36分、お接待で作ってくれた昼の弁当と例の美味しいお茶を貰って出発。一昨日中村から来た道を逆方向へ急ぐ。地元の人にあいさつすると、気持ちの良いあいさつが返ってくる。こんな時にも、歩き遍路全体への印象を良くしたいという気持が働いている。

 「旅館かとり」で同宿だった白人の女性遍路が向こうからやってくる。おそらく夕べは「民宿久百々」あたりに泊まっていたのかと想像する。近づいてきたら、顔を覚えていたみたいで、“Oh!”と言いながら手を挙げにっこりする。「グッドモーニング」というと、「オハヨウゴザイマス」と日本語で返ってくる。ビックリしたが、よく考えてみたらフィフティフィフティだ。無事の旅路を祈りながらすれ違う。
英会話が得意だったら、いや、たどたどしくてもしゃべれたら、いろいろ話できたろうに、仕方ない。

 軽トラの男性から車同乗のお接待を言われるも、例によって丁重に感謝の気持をこめてご辞退する。思いの外遠く、途中予定表が時間を計算違いしていることに気付き、折角の早立ちがパーになる。逆にペース的に遅れているのを知り、一層足を速めるやら休憩を減らしたり・・・と大忙しになった。

 三原村に至る道は山中の車道ではあるが、通る車は皆無に近いほどで、ある所で右すべきか左すべきかわからない地点に出くわした。訊ねようにも人はおろか車さえ殆ど通りかからない所だ。山の中になればなるほど例の“へんろみち保存協力会”の赤いお遍路シールや矢印シールが多くなり、本当に助かるのだが、たまたま見つからない。経年劣化で赤色が剥げたり、風雨にさらされたりすることもあろう。困って左に道を取ったら間もなくそれが順路であることが別のシールで証明され、思わずシールに向かって「ありがとうございます」と言ったものだ。これまで、山の中でシールを見つけて順路の正しいことを確認でき、「ありがとうございます」と一体何回シールに向かって礼を言って来たことだろう。この先も、満願まで何十回何百回と言うはずだ。

 この会の主宰者宮崎建樹氏のおかげでこうした歩き遍路も容易にできるようになったが、同氏がお元気な内はいいが更にその先は再び歩き遍路道が崩壊しかねないと大いに危惧するものである。草刈り奉仕団にしても宮崎氏を尊敬する人たちがあご足自弁で参加してやっておられる訳だから、本当に活動の尊さに頭の下がる思いがすると同時に、その先を大いに心配する。

 例の小林氏の書いた本では、歩き遍路は年間300人ぐらいらしいとあったが、最近では1500人ぐらいになっていると言う。それがまた歩き遍路受難の時代が来て激減することのないよう、祈るのみだ。

 右行左行しながら行くが何ヵ所か「頭上落石注意」の看板がある。注意せよと言ったって、どうすりゃ委員会などと駄洒落を言ったり、まじめに“南無大師遍照金剛(なむだいしへんじようこうごう)”を復唱してお大師さまに無事をお願いしながら進むが、さすがに急ぎ足は疲れる。

 道ばたの排水溝の外に座り込み、水のない排水溝に足を入れる形で休んでいたら、通りがかりの車が病気か怪我の歩き遍路だとでも思ったのかスピードを緩めて来て止まりそうになったので、“大丈夫!大丈夫!”と身振り手振りで合図する一幕もあった。
 ちょうどお昼頃に通りかかった天満宮の裏手にベンチがあったので、お接待の弁当を開くと飴や封筒に入れた1,000円札が入っている。“民宿旅路さん、どうもありがとうございます”と感謝して戴く。歩き遍路に対する暖かい気持があらためてジーンと胸に迫る。(後日談だが、この後正月には民宿旅路さん<本名:坂下様>から丁重な年賀状まで頂戴し、二重三重に恐縮したものだ。)

 船ヶ峠を越えさらに歩いて懐かしの国道56号に出ると左折、しばらく行って表示に従い右折し、1kmちょっとで土佐の国“修行の道場”の打ち納め寺「39番延光寺(えんこうじ)」に着く。お参りしていると、いつしか胸が“じーん”と熱くなり、涙ぐんできた。やはり20日間近い今次遍路旅のラストだからか、阿波・土佐と前半2国を打ち終えたぞという感激からか、それとも線香の煙の故か・・・・・

 15時30分、予約の時の応対でちょっぴり心配していた「民宿嶋屋」に着く。老夫婦の経営で、洗濯・乾燥全て年老いた女将がやってくれ、翌朝にはきちんと畳んで部屋に持ってきてくれるという、しっかりした宿で、事前の心配は全く杞憂だった。

 一番風呂に入れて貰い43km余の行軍の疲れをとるべく、足をもむ。今回の遍路はとりあえずこれで中断し、一旦帰京して八王子のハローワークに行かなければならない。ふくらはぎの筋肉は凝っているが気分はすっかり緊張緩和だ。

 夕食の時、向い側に座った国分寺市のEさんと話が弾み、定期購読している「月刊へんろ」への彼の投稿の話とかいろいろ盛り上がる。打ち上げのビールが一段と旨い。

2001年5月26日(土)
  予定どおり 土佐打ち上げて 帰京かな

 ビール一本込み6,500円を清算し、8時10分「民宿嶋屋」を出て、「平田」駅に向かう。終点の宿毛9時発、平田9時07分発の土佐くろしお鉄道に乗る。特急「南風10号」は岩本寺(いわもとじ)のある窪川からのJR土讃線に乗り入れる岡山行きの直通便だ。高松の義弟への土産と昼の駅弁を買い窓の外を見るが、先日延々と鉄道沿いの国道を歩いたことを思い出しながら中村・古津賀・西大方・土佐入野・浮鞭・・・・佐賀公園・土佐佐賀・伊与喜・・・・と過ぎゆく景色を懐かしむ。

 高知から阿波池田・琴平を通って多度津で下車し、予讃線に乗り換え高松駅に着くや、タクシーで市内の義弟宅に向い、義父母の仏前に手を合わせてから遍路用具(菅笠・金剛杖・掛軸)を預ける。そして再び高松駅に戻る。

 駅の売店で、重かったが小瓶入りの「四万十海苔」の佃煮をあちらこちらへの手土産用にたっぷり買い込み、マリンライナー38号・のぞみ22号乗り継ぎで帰京する。久方ぶりのわが家には、駅まで車で迎えに来た家内と共に20時45分頃無事帰着し、今回の区切り打ち遍路旅をひとまず終わる。

“南無大師遍照金剛
(なむだいしへんじようこうごう)
 “お世話下さった徳島・高知の皆さま、暖かいお接待を下さった皆さま、ほんとうにありがとうございました!”

 (注)この後の遍路は、梅雨時期、さらに酷暑のシーズンを迎えるため、同年秋に行うことにした。