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第一次遍路 ・・・2001年4月4日〜9日

2001年4月4日(水)
 さあ行くぞ 満を持しての 遍路旅・・・
現地で遍路用品を一式調達

 いよいよ、わが人生初の挑戦であり、数年来の宿願であった“四国霊場88ヵ所歩き遍路”への出発の時がきた。同行予定の妻も軽い緊張と興奮気味・・・いや、それ以上に自分が興奮していることも、よく判っている。

 玄関・勝手口等、留守中のピッキング対策も講じ、なおかつ不在中の用心や郵便物のこと等、予め隣宅のAさんにお願いした。携帯電話番号記載のメモも預けた。郷里には明治37年生まれの老母(※その後2003年末死去)がいる。年が年だけに一抹の心配もあり、遠隔地ながら郷里の兄や名古屋在住(当時)の姉、もちろん3人の子達にも予め遍路の予定表を送った。

 同じ京王線沿線に住む娘夫婦が大枚の餞別を夫婦それぞれにとくれ、ご近所の方や現役時代の同期生からも餞別や壮行会など暖かい励ましを受け、後に引く気は毛頭ないが、引こうにも引けない“期待とやる気”でいっぱいの状態だった。

 目覚まし時計の鳴るのも待ちかねて起き、この日のために買っておいた登山用ザックに歩き遍路旅への限りない期待までもいっぱい詰め込み、朝5時25分自宅を出発。心配していた雨もなく、まずは幸先よい。こみ上げる気持ちの高ぶりを抑えつつ高幡不動駅へと向かうが足どりは軽い。ここ数週間、自宅周辺の浅川や多摩川堰堤の遊歩道を、妻と歩きに歩いて鍛えてきたおかげばかりではなさそうだ。

 5時46分高幡不動発の京王線に乗る。新宿でJR中央線に乗り換え、6時43分東京駅に到着。

 ひとは「飛行機ですか?」と問うが、北海道や九州の場合はさすがに現役当時は飛行機で出張したものの、柳田国男の「マッハの恐怖」シリーズを読んで以来、航空会社やシステムの絶対的安全性を信頼できなくなって久しい。そのあげくが、万が一にも今死ぬ訳にはいかないという、家族への責任なる美名のもとに、以来かなり徹底した『地面移動愛好者』となり、リタイア後は飛行機はまずご免蒙ることにしている。後日のことになるが、娘の結婚相手の実家(九州)にお邪魔したときも、娘夫婦は飛行機で、われら夫婦ははるばる新幹線で行ったものだ。

 東京7時07分発ひかり113号の車中人となり、11時ちょうどに岡山着。同駅構内で「にぎわい弁当」なるものを食べ、11時42分岡山発マリンライナー25号で懐かしの故郷高松に12時38分着。妻がさっそくホームの公衆電話から実家の弟に電話している。

 ここから、今回の遍路旅のスタート地点になる第1番札所の最寄り駅、徳島県の板東(ばんどう)駅へ向かう訳だが、高松発12時55分発の「特急うずしお11号」は、なんと3両編成だった。1号車の1〜4番が指定席で、5番以降は3号車まで全て自由席。しかも重い足音ならぬエンジン音のジーゼル車だ。懐かしいとは言え“ああ、ここは四国なんだ!”
 13時38分、高松・徳島を結ぶ高徳線の板野(いたの)駅に到着。後日地図で見たら3番札所「金泉寺(こんせんじ)」の近くだった。ここからの各停の乗換便は車両1両のワンマンカー。運転士兼車掌兼駅員といった感じで車内の「ご乗車の方は整理券をお取り下さい」のテープ音が珍しい。 二つ目の板東(ばんどう)駅で下車し、ホームで件のワンマン士に切符を渡す。先輩遍路がその体験記で書いていたとおり、無人の鄙びた駅だった。駅前にタクシー会社があるにはあったが、人は閑散としていて、利用客はいそうにない。

 ザックを背負った遍路予定と思しき青年が、小生が予め地図で調べて知っていた1番札所「霊山寺(りようぜんじ)」方向への道を進むあと、「いよいよだね」と妻に言いながら歩き、2時頃、予め予約の「つしまや旅館」に到着した。

 遂にやってきた。予約の時、電話口で聞いた女将の声とやや感じが違ったが、「よろしく」と挨拶してすぐ玄関口で荷物を預け、歩いて3〜4分のところにある、四国霊場第一番札所“竺和山霊山寺(りようぜんじ)”山門横の「門前一番街」という店に行く。

 目的は、明日からの遍路グッズ一式を買い求めるためだが、目的がそれだけなら霊山寺(りようぜんじ)本堂横の売店でも揃うことを予め本で読んで知っていた。だが、門前一番街を選んだ理由は2つあった。

 一つは、ここなら直径が大きい菅笠を置いてあると、事前に読んだ遍路体験記に書いてあったからである。歩き遍路は、暑さ・寒さ、雨・台風の中でも好天の日と全く同様に歩く訳だから、“ここはひとつ大きいのを買った方が、いずれ遭遇するであろう雨天の日に絶対重宝するに違いない。南国の直射日光を避ける上でも、大きい方がいいだろう”と考えてのことだった。後日談だが、これは予測どおり大正解だった。

 もう一つは、“こちらの店の方が値段も全体的に安い”と、これまた経験者の書いた本に載っていたためである。

 初めてのことなので、何と何をそろえるか、省略するとすれば、何を省略するかとか、悩みつつ買い求めたのは、金剛杖・菅笠・半袖の白衣(びやくえ)・持鈴・輪袈裟(わげさ)・真言宗用数珠を各2人分と、夫婦共用の物として納経用の掛軸(かけじく)・納札(おさめふだ)・蝋燭・線香・経本などで、引田(ひけた)(香川県の東部の町)の出身ですと言う青年店員にガイドして貰った。締めて38,650円だった。
 この青年、小生が「東京からきた」というとけげんな顔付き。「でも出身は高松だよ」と言うと「ああ・・・」と納得顔。“やはりお国訛りが出ていたのか”と、がっかりしたり、感心したり・・・

 因みに、単価は金剛杖1,200円・杖用お帽子300円、菅笠(大)2,300円、半袖の白衣1,800円、持鈴1,000円、輪袈裟1,200円、掛軸12,000円、納札(おさめふだ)100枚セット200円、蝋燭1箱250円、線香1箱300円、真言宗用数珠5,000円、経本が300円で、大体ピンからキリまである。

 買った一式を一たん「つしまや旅館」に持ち帰って預け、今度は予習のため1番霊山寺(りようぜんじ)へ様子を見に行く。なかなかの賑わいで、さすがは「一番さん」だ。貸し切りバスでの団体遍路が来ているのか、境内はごった返している。
 ここで、妻がかねがね気にしていた、貰い物の金色の納札(おさめふだ)と、もう一つ、亡くなった知人から生前に貰ったという小さな人形様のものを霊山寺(りようぜんじ)に納め、ホッとする。
 因みに、納札(おさめふだ)というのは今は殆ど略式化されているが、本来は自ら書いた写経と納札(おさめふだ)とを同時に納めるもので、その紙色は四国遍路一周を1回として50回以上の人に許されているのが「金色」、100回以上だと最高位で「錦色」の納札(おさめふだ)になる。因みにわれら初心者は「白色」、5回以上なら「緑」、8回で「赤」、25回で「銀」という具合だ。最近は殆どの遍路が写経を納める(いわゆる本来の「納経」)のを略し、納札(おさめふだ)だけ納めていると聞いている。自分たちもそうだ。

 「つしまや旅館」は2階建で、2階に4部屋、1階に1〜2部屋の客室があり、2階の8畳間に通されたが、やぐら炬燵とエアコンがあり、女将も親切だ。買い求めた菅笠に白紐を付けてくれ、菅笠のかぶり方や金剛杖の持ち方、そのほか遍路の心得をいろいろ教えてくれた。

 先ほど「遍路用品を買いに行ってくる」と言った時、「門前一番街の方が少し安いみたいですよ」とそれとなくその店を勧められたが、件の青年に「お泊まりはどちらですか」と聞かれたとき、「つしまや旅館だ」と答えると「じゃあ、菅笠に紐をつけてくれますから」と、紐を付け足してくれたが、何となく解り合っているというか、ギブ&テイクになっているのかどうか知らないが、“さすがその道だな”と思ったものだ。

 大女将の案内で、旧婚旅行よろしく妻と一番風呂へ。ややぬるめの湯に熱湯の蛇口をひねり、湯を埋めながらゆったりと入る。

 夕食は1階の食堂でだった。同宿者が集まっている。石川県の夫婦は、夫が70歳で16kg、奥方が10kgの荷物を背負い、野宿中心で1番から88番まで終わり、きょう再び1番に来てお礼回りを済ませたという。恐るべき鉄人夫婦だと思ったら、他の人たちも一様に感心と驚愕の眼差し。何でも入浴と洗濯を兼ねて週に1回ぐらい遍路宿に泊まり,あとは全て野宿だった由。また、長野出身の、夫が昭和9年生まれという登山好きの夫婦、会社仲間とおぼしきハイキング好きの中年の男性二人づれ等、われらを入れて4組8人での夕食だった。泊まり客全員が歩き遍路を始める人・終わった人だから、驚きだ。

 晩酌をしたかったが雰囲気的に言い出しにくく、記念すべき「前夜祭」とは行かなかった。その代わりという訳ではないが、目の前の櫃からご飯を山盛りでお代わりしてたっぷり2杯食べ満足。昨日までのダイエット生活から別世界に踏み込んだ感じである。

 夕食が終わる頃、大女将の作らしき布製の手作りの小袋に五円玉を添え、「お好きなものをおひとつずつどうぞ」と言われる。どうやら賽銭入れらしい。これが、いわゆる“お四国世界”の“お接待”というやつかと思いつつ、妻とひとつずつ戴き礼を述べる。遍路への労りというか、歩き遍路を支えてきた“お接待文化”の片鱗が早くも窺えた感じだ。 どうやらこれはこの宿に泊まった遍路みんなに対して常時行っているお接待らしい。まずは、旅立ちの宿として、“ここを選んでよかった”という感じのする宿だと思った。

 夕食後、まず明日の宿を予約せねば・・・と6番安楽寺(あんらくじ)手前の「民宿寿食堂」に電話を入れ、「どうぞお待ちしています」と返事を貰って一安心。それからは妻と荷物整理やら明日の順路の予習やらで過ごし、ふとテレビのスイッチを入れるとダメ巨人がヤクルトに4対5で負けたと報じており、ご気分斜めで22時前には床に入ったが、妻は炬燵があると言って喜んでいる。
 ごはん山盛り2杯が効いたのか、明日からの遍路への気持の高ぶりもどこへやら、すぐ寝入った。南国の4月とは言え夜中はやや寒かったが何とか眠れ、トイレも3時半過ぎに一度起きたきりだった。

2001年4月5日(木)
 念願の 遍路始まる 撫養(むや)街道・・・いよいよ1200km歩き旅

 快適な目覚めだ。暖房機のリモコンをONにし、炬燵のスイッチも入れて旅日記用のメモをつけ始める。後日想い出にもなろうし、何かの役に立つ時もあろうかと・・・

 6時半、1階の食堂へ行くとわれら以外の泊まり客は全員揃っており、ちょっとビックリ。生卵・味付海苔・鮭の塩焼き・昆布と沢庵の漬け物・みそ汁・ご飯・・・といったお定まりのメニューだが、生卵が不得意な妻のために、味付海苔と交換してやる。

 1泊2食の2人分13,000円を支払い、7時19分女将に見送られ、いよいよ徒歩1,200kmの旅へと出発する。後で調べたら、1200kmというのは鉄道で東京からほぼ久留米あたりまでの距離に相当する。歩くという前提で考えた場合、新幹線で行ってもぞっとする距離だが、お四国を歩くとなれば話は全く別だ。因みに車遍路の場合だと1400kmと言われている。ほどなく着いた一番霊山寺(りようぜんじ)の山門前で、折よく通りかかったお遍路さんに記念写真を撮って貰う。

 “ようやくここまできた”という思いが強い。思えば、この度の四国歩き遍路に至った背景は2つあった。
 1つは、自分の育った環境が下地としてあったように思える。生家は、高松市一宮町。すぐ近くに「讃岐一宮(さぬきいちのみや)(田村(たむら)神社)」と「四国霊場第83番札所・神豪山一宮寺(しんごうさんいちのみやじ)」が隣り合わせにあり、子供の頃はこれらの境内が格好の遊び場で、少年時代の戸外の想い出の殆どは、ここにあったと言っても過言でないぐらいだ。野球、チャンバラごっこ、その他遊び場の殆どがこの境内や広い参道・神社の広いお旅所等だった。
 大宝年間(701〜704年)義渕僧正によって創建、一国一社の勅命を奉じた行基菩薩が讃岐一宮の田村神社を建立。寺はその別当となり神豪山一宮寺と称したが、のち延宝7年(1679)、高松初代藩主松平頼重により別当職を解かれ、独立寺になった由。

 自宅には、隣接して3代程前の先祖が買い取った元遍路宿があり、わが幼年時代はうどん屋に賃貸していたが、それらの前で遊んでいると金比羅参りの善男善女たちや、一宮寺に向かう老若男女のお遍路さんたちが、前をよく通っていたことを覚えている。

 母(のち、2003年暮れ、数え年100歳で死去)が信仰心の厚い人で、私も子供の頃よくあちこちの神社仏閣詣でに連れて行かれ、神仏に対して自然と敬虔な気持が育まれてきたように思う。そんな環境で育ったことが“お遍路をしょう”との決断に至った背景の1つにあったろうことは否めないだろう。

 もうひとつの理由は、より直接的な動機である。
 それは平成6年5月のことで、昭和59年に時事通信社を退職された小林淳宏氏がPHP文庫から出した「定年からは同行二人〜四国歩き遍路に何を見た」という本を読んで強烈なインパクトを受けたことだ。「俺も歩き遍路をやろう!何が何でも絶対やるぞ!」と、その文庫本を斜め読みした瞬間に決断したのだった。
 永年生保会社に勤務し、超多忙だがやり甲斐も大いにある営業の中心的部門の一員として日夜仕事に明け暮れ、家庭や子供のことは殆ど家内任せできた一極集中人間が、ある日突然、と言っても年相応の当然ごとだったのだろうが、平成5年4月、関連会社に出向を命ぜられ、それまでとは全く別世界に身を置くこととなり、それから60歳の定年までの数年間、更にはそれに続くリタイア後の生き方や生きがいについて、いろいろ考え始めていた頃だった。

 「四国歩き遍路こそが、“これからのわが人生にとって画期的転機になる”」という、言ってみれば天の啓示のような電撃的ショックが、その本を斜め読みした瞬間わが全身を走り抜けたのだった。

 人はだれでもそうだろうが、自分にも少年時代から常に“全力で熱中できるテーマ”というものがその時期その時期で常にあった。成人してからは、それらに少なからぬ金を投じたものもあったが、好きな道だっただけに少しも惜しいとは思わなかった。そして、この瞬間から“四国歩き遍路”が四六時中頭の中を占拠する一大テーマになったのだった。

 以来、多くの経験者の体験記事その他を、書籍やインターネットを通じて読み、日毎にその思いを強くしていった。それらを通じて先人のノウハウも相当仕入れた。高田馬場の“山”の専門店へ家内と行き、ゴアテックスのトレッキングシューズやレインウェア・ザック・透湿防水あるいは吸汗速乾性の衣類も夫婦分の2セット買った。値段は高かったがちっとも高いとは思わないような入れ込みようだった。

 さて、その数年来の夢だった“異次元世界”への入口、竺和山霊山寺(りようぜんじ)の山門にようやく立ったわれら夫婦は、まず作法に従い合掌・一礼。弘法大師のご宝号である「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじようこうごう)」を三唱し、無事に当札所に到着できたことを謝した。

 次に、手水(ちようず)を使って口をすすぎ手を洗う。礼拝順序に従ってまずは本堂へ行く。なお、ついでに書いておくと、寺院の境内ではしばしば石段を登り降りする場合があるが、これも左側から登り左側から降りるのがきまりとされているようだ。

 まず線香、灯明、賽銭。そして納札(おさめふだ)・写経(持参の場合)を納める。蝋燭は後の人のことを考え上段から順にあげ、線香は同じ理由で中央から立てる。そして備え付けの鐘を打ち読経する。読経は、暗唱していたとしても経本を必ず手にして読むのが正しい作法だそうである。もとより自分は先祖代々浄土真宗だったので般若心経ほか暗唱などしている訳がない。その読経場所も、後に続く参拝者の妨げにならぬよう正面を避け、左右に寄って行うことになっている。自分は予め用意の特製虎の巻メモ、妻は経本に従ってお参りをした。

 その後の手順はこうだ。本式にはこれらの間で持鈴を1音または2音鳴らすことになっているが、自分の場合、最初の頃は持鈴も鳴らしていたが、何番目かの札所からは持鈴のみ勝手に省略させて戴いた。何ヵ所かの札所を回っているうちに判ったことだが、同じ遍路でも人によって丁寧さというか省略度合いというか、それが全く違うことが解った。それぞれ自己流でやっている訳だが、自分たちはなるだけ省略しないやり方を心がけたつもりである。

その手順とは、概略以下の通りである。
1.合掌礼拝
輪袈裟を掛け、数珠を手にかけて胸の前で合掌し、三礼しながら「うやうやしくみ仏を 礼拝し奉ります」と唱える。但し、大師堂では「うやうやしくお大師様を礼拝し奉ります」
2.開経偈(かいきようげ)(1回)
     仏の教えを讃えそれを理解したいと願うという意味で、お経の前に唱える。
3.般若心経(1巻)
自分の家の宗旨にこだわらなくて良い。札所の宗派にもこだわらない。
そらんじていても、経本を手にし見ながら唱える。
4.ご本尊真言(3回)
普通、本堂の前に掲示している場合が殆どである。
(その札所の本尊によって唱える真言が変わる)。
5.光明真言(3回)
全ての仏に通じる尊い真言と言われている。
6.弘法大師ご宝号
(「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじようこうごう))(3回)
7.回向文(1回)
8.祈願があれば小声で念じ願う。腕前で堅く合唱し、深くお辞儀しながら
「ありがとうございました」とお礼を述べ退去

 この後、大師堂へ行き、上記4を除いて同じ要領でお参りする。

 終わったら納経所で納経手続きをする。納経時間は現在午前7時〜午後5時が協定で決められており、納経料についても同様である。納経帳(のうきようちよう)だと300円、掛軸だと500円、判衣だと300円となっており、どの方法で納経するかは個人の自由である。

 因みに、自分の場合「掛軸」で行い、後日高野山奥の院にお参りの後、参道にあった表装店に頼んで表装して貰い、見栄えのしないマイホームではあるが和室の床の間に吊したら、かなり見栄えがし、掛軸にしてよかったと思っている。

 さて、そんな方法でお参りしたが、慣れないせいか大きな声を出して行うのがまだ恥ずかしく、時間もかかってしまった。あげくの果てに、この1番札所の本堂では金剛杖を忘れてしまい、遍路開始早々からお大師さまに申し訳なき大失態。すぐに取りに戻る一幕やら、1〜5番を通じて、全体に歩きは早いが札所でのお参りは遅いという、わが夫婦のパターンが顕在化した一日だった。もっとも、最初は皆さんそうかもしれないが・・・

 ひと通り終わって、2番札所に向かおうとしたら、本堂前の脇で「これお接待です」と大きな焼き芋1個と500cc入りのウーロン茶ボトルを夫婦それぞれに手渡される。“わぁ荷物が増える!重くなるう!”という迷惑顔でもしたとみえ、「お接待は断るもんじゃないわよ」と接待団のおばちゃまから強引に手渡される。

 そう言えば、遍路シーズンには、はるばる和歌山あたりからも遍路接待のために「接待団」なる集団で徳島のこの辺りの札所にやってきて、遍路達にお接待する慣習がかなり以前からあるようなことを何かの本で読んだことが思い出され、このおばちゃま達はそういう人たちなんだなあと納得し、やむなく?受け取ってしまう。

 “さて困った”と家内と顔を見合わせながら、ともかく山門で一礼して2番札所に向け、撫養(むや)街道を西へと歩き始める。昔の遍路は撫養(むや)港(今の鳴門港)に上陸して、撫養(むや)街道を一番から西へ西へと巡拝していったそうだが、この撫養(むや)街道は、1億年前にできた日本列島の背骨と呼ばれる中央構造線上に通っており、黒い酸化鉄を含む断層が至る所に露出していたそうだ。

 8時17分到着の2番極楽寺(ごくらくじ)は1番から1.2kmの所にある。境内には、大師お手植えで樹齢1100年以上と言われる杉の巨木「長命杉」がある。

 納経所の感じの良い女性に、1番でのお接待の話をしたら、その人が「わたしお芋大好きだから戴いてもいいかしら」と言ってくれ、渡りに舟と受取って貰い、“ああそうだ”と思い、ウーロン茶も「後から来る歩き遍路さんにでも差し上げて下さい」と言ったら、「ああそれは良いですね」と引き受けてくれた。ここまでは良かったのだが、「それじゃあ、これをお持ちなさい」と、傍にあった“でこぽん”を3個もお接待され、妻にもたせる訳にもいかないため、わが荷物は一層重くなり、肩が一層の重みを感じる結果となった。

 “お接待は断るものではない”と言われており、車遍路の人なら喜び以外の何ものでもなかろうが、ここは一番つらいところだった。自分もこのあと、「車にお乗りになりませんか」という車接待だけは、感謝しつつ丁重にお断り申しあげたが、この後も随所で暖かい有形無形のお接待をいっぱい頂戴することになる。

 ここで一緒になった、59回目という筋金入りのベテランの歩き遍路さん(自分よりも5〜7歳近く年上と思われる男性)の後を、妻と額に汗しつつ一生懸命について行く。荷物を載せたカートを引っ張っている人や、つっかけサンダルの人やらといった、数人の歩き遍路たちと前後して3番金泉寺(こんせんじ)には9時32分到着。

 さらに番外霊場愛染院(あいぜんいん)に寄り、さらに小高い所(H80m)にある4番大日寺(だいにちじ)(11:05着)と頑張るが、肩が荷で重く、しかも4番で手間取り、他の遍路さんに先に出発される始末である。しかも、明日宿泊予定の11番藤井寺(ふじいでら)そばの「ふじや旅館」が満員との理由で宿泊予約が叶わず、やむなく遠い回り道になるがJR鴨島駅近くの「さくら旅館」を選んで電話したら、何とか予約がとれ、ほっとする。

 さらに、12時10分に番外霊場五百羅漢堂着、12時24分着の5番地蔵寺(じぞうじ)と打って昼食にする。羅漢堂は5番のすぐ裏手にあり、確かにどこかで見たような顔の羅漢さんが何体かあり、何となく親しみを感ずる。羅漢さんというのは、仏ではないが、修行によって限りなく仏に近い存在になった高僧をいうらしい。

 12時53分 「水源」という食堂に入ったが、先客が結構いて、若干待たされそうだったので、よせば良かったのだが「麦酒一本!」と頼んでしまい、結局ここで約1時間を費やしたが、初日の歩き疲れにはいい休憩になった。蕎麦の実の入ったみそ汁・鰯のフライ・山菜の茶碗蒸しなど、安い定食だが美味しくて満足する。ほかにも何人かのお遍路さんが食べていた。
 本当は6番安楽寺(あんらくじ)まで行きたかったが、予約した民宿寿食堂がその2km手前であることもあり、きょうの歩きはその民宿までとすることとした。ところが、なかなか見あたらず、通りかかった自転車の奥様に聞いたら、親切に教えてくれ、前籠に入っていた買物袋から八朔を1個お接待される。また荷物が重くなり、「水源」からの3kmの道が疲れと相まってかなり長く感じられた。

 初日に実際に歩いて判ったのだが、「へんろみち保存協力会」によるへんろ道の案内立て札やシールが、見知らぬ土地を歩く歩き遍路にとってこの上なくありがたい。この会は、うろ覚えの記憶だがたしか元・警察に勤めておられた宮崎建樹さん(松山市在住)が、体をこわされたときにお大師様のおかげを戴いたとかで、それをきっかけに始められたボランティア活動的組織で、今風に言えばNPOと言えるのだろう。

 とにかく、歩き遍路道の草刈り奉仕団を編成して行動したり、歩き遍路用のバイブルとなっているガイド本や足で調べた詳細・貴重な地図などの発刊、更には各種道案内の立看板やシールの設置・貼付など、ほんとうに頭の下がる活動をしておられる。自分たちの今回の歩き遍路も、この会の活動や、本なくしては全く成り立たないもので、歩き遍路にとって神様とも仏様とも言える、ありがたい存在である。

 2時40分、「民宿寿(ことぶき)食堂」に到着。ドライブインの食堂棟と宿泊棟の2棟建だ。部屋に案内され一服。荷物の整理などして16時半から入浴。湯がめちゃめちゃ熱いのに、九州福岡の近くから来たという一国参り(徳島県なら徳島県だけというような遍路方式)の丸坊主の中年男性は涼しい顔で湯船に入っており、ビックリ。浴槽が大きくて少々の水ではなかなか適温にならない。業を煮やして湯船の外で体を洗い、終わりにする。

 その後、妻も入浴。並行して全自動洗濯機で2人分の洗濯をして貰う。これが一人遍路だと全部自分でやらなければならない訳だが,わが家で何から何まで全て家内に任せきりの自分としては、妻同行で大助かり・・・と、心の中で謝々!

 別棟の食堂で18時から夕食。メニューは想像外の“鴨鍋”。鴨がとても旨く、味噌仕立ての唐辛子入りでグー。但し、ついている饂飩は、本場讃岐人でなくてもびっくりのホニャララで、妻と顔を見合わせてボツにするが、辺りを見渡すと食べている人もいて???だ。幸い白飯がついているから問題ない。鍋の火のそばでのビールが一日中汗をかいた身にこたえられず、メチャウマだったが一本でやめる。

 この民宿のオヤジさんは、遍路世界では超ベテランで、大先達(だいせんだつ)の資格も持っているらしい。宿泊棟にも、廊下などに遍路関連物がいろいろとおかれていた。その横を通って部屋に帰ってからは、きょうの荷物の重さに懲りて、貰った段ボールで自宅に送り返す荷造りをする。

 大抵の歩き遍路は、あれも必要、これも必要と、いろいろ持ってきて、最初の数日で結局耐えきれなくなり送り返すのだそうだ。われらもその例外ではなかった訳である。もっとも、先人の体験記を参考に、事前にグラム単位で軽量化を図ったつもりだったが、やはり背負っている時間が長いということと、体力的に強靱でないことも一因であろうが、頭で考えるのと実際とは違うという典型的な例だろう。

 あとで知ったが、ものの本によれば、“何を持って行くか”ではなく、“何をもって行かないか”だそうな。「早く言ってくれえ!」と言いたいが後の祭りだ。

 ふじや旅館予約失敗に懲り、あさっての「民宿明日香」とその次の「井戸寺(いどじ)宿坊」を早めにと予約して一安心し、テレビをつけたら、ヤクルトを相手に巨人がまた苦戦中で即スイッチオフ。日記をつけて早寝する。Z-Z-Z

2001年4月6日(金)
 桁外れ 四国三郎 吉野川・・・
スケールのあまりのでかさに度肝抜かれる

 昨夜の夕食場所で朝食後、とりあえず都内の娘夫婦宅宛に送り返す荷物の発送を依頼し、2人分の1泊2食・麦酒代込みで14,280円を支払う。マッチと5円玉をお接待で戴き、民宿寿食堂を7時03分出発。昨夜一緒だった人たちは殆どがもう出発済みだ。

 きのうは初日でもあり、参拝が不慣れであることに加えて、参拝札所数も多く、札所での滞在時間が長くかかると予想していたため、歩き距離を予め14.7kmと控えめに設定していたが、それでも荷重のせいか大分疲れた。一夜明けてのきょうは25.4km歩かねばならない。

 7時23分6番安楽寺(あんらくじ)着、8時02分7番十楽寺(じゆうらくじ)着、9時25分8番熊谷寺(くまだにじ)着、10時13分9番法輪寺(ほうりんじ)着と、吉野川に沿って西へ西へとつながる遍路道を地図片手に回る。札所でのお参りの仕方も少しは慣れてきたとみえ、札所での滞留時間が昨日と比べて大分短くなってきている。

 11時半頃10番切幡寺(きりはたじ)への参道に入ったところで、左側の食堂から「お遍路さん!荷物、ここに置いて行きなさいよ。次の札所へはどうせ又ここを通るんだから。それにここは石段もあるからそうしたら?」と声を掛けられ、どうせお昼時間は過ぎてる、“よし、ここは一番荷物をお願いしょう”と店の前にザックを置かせて貰い、掛け軸と線香・蝋燭ほかの参拝用具だけの身軽い身になって参道の坂を上っていく。

 なるほど、あるある!漸く山門に着いたと思ったら、「是より三三三段」と石柱に刻んである。「ああ荷物を預かって貰ってよかった」と語り合いながら何とか登り切ったら次はまた234段だったか、もう、汗だくだく、息ふうふう。ちょうど見つけたベンチで一息入れ、自販機で買った冷たい飲み物を一気に飲む。

 12時20分お参りが終わって先ほどの店に寄り、お礼を言いつつ昼食にする。饂飩を二杯、ばら寿司一皿を分け合って食べ、先を急ぐことにする。

 ここから、吉野川を渡って川の南側へ出る訳だが、歩いてみて四国三郎の異名を持つ吉野川のスケールの偉大さに驚く。とにかく今まで考えていた「大きな河」のイメージを一新させられた。因みに、日本一でっかい川が利根川で別名を「板東(ばんどう)太郎」、2番目が九州の筑後川で「筑紫次郎」、そして3番目が吉野川の「四国三郎」となるそうな。

 先ず、両岸の間におおよそだが幅1.5km・長さ6〜7km位あろうか、とてつもなくでっかい「島」がある。中州程度の規模ではなく、れっきとした「善入寺島」(旧名栗島)で今は国有地らしいが大正初期に当時の島の住民約3000人が立ち退きさせられたらしい。その島へ渡るのに大野島橋(島の名とは無関係)を渡り、道路が縦横する島の中を延々と歩いていくと今度は川島橋という、島から川の南側に渡る橋が架かっている。

 その間、広大な各種田畑あり、縦横に張り巡らされた道路がありで、行けども行けども島の中。漸くたどり着いた水流部分からでもとてつもなく長く感じる川島橋を渡っていく。しかも、その橋が車が一台通ると歩行者は避けられるかな?という感じの幅の狭い橋で、ところどころ対向車をかわす待避場所がもうけられている。
 加えて、潜水橋と言って、水量が増したときには川面が橋の上になり、しかも水圧を受けにくいように細い橋にもかかわらず手すりもない、しかし長いという、今まで見たことも聞いたことも想像したことすらないスケールだ。故郷香川県のように雨量が少なく、大きな川のない所で育った人間でなくても絶対に驚くようなスケールである。しかも河口から数キロ上流での話である。東京の多摩川の下流と比べても、比較するのが滑稽になるぐらい次元違いだ。

 どのぐらい渡ってきたかな?と後ろを振り返ると、かなり後方から一人の遍路姿がわれらに続いている。渡りきったところに折よくコンビニがあったので、手洗いを借り、店の前で一服していると、その人が追いついてきて、かなり足を引きずっている。 「大丈夫ですか?」と声を掛けたら、足の後ろ側が靴擦れで痛くて困っているという。

 コンビニで絆創膏のような応急手当品を買い、「きょうはどちらまでの予定ですか?」と伺ったら、柳水庵(りゆうすいあん)泊まりの予定で、「予約の電話を入れたらもう一杯ですと言われたが、そこを何とかと頼んだら、何とかしてくれるということなので、そこまで頑張りたい」とのこと。(あとで知ったが、この男性は自分より1歳下で、ほぼ同年だった)

 でも、この状態でわれらよりも余計にきょう歩く、しかも、柳水庵(りゆうすいあん)というのが、歩き遍路最初の洗礼場所『遍路ころがし』と言われている、12番焼山寺(しようざんじ)への山道の途中にある、老夫婦経営の番外霊場付属のところであり、海抜500m地点ということを知っている身として「それでは呉々もお気をつけて」と励ますよりなかった。「さくら旅館」に着いてからも「あの人大丈夫だったかなあ。スローペースで山の中で日が暮れたら大変だなぁ」と随分心配したものだ。

 その人と途中から別れて、われらはきょうの宿「さくら旅館」を目指すが、次の札所11番藤井寺(ふじいでら)は、それを真正面とすればさくら旅館は左遠方にあり、三角形の2辺を経由して藤井寺(ふじいでら)へ行かなければならない。さくら旅館までは結構距離がありなかなか着かない。ようやく到着して、荷物を置き、掛軸と参拝用具だけの軽装になり、駅前に行ってタクシーに乗り込み、11番藤井寺(ふじいでら)へと向かう。後でこの道を歩いて帰るんだからと窓の外に目をやり、角を曲がるたびに目印になるものを記憶に止めていく。

 自分の今回の歩き遍路は、禁酒はしないが88ヵ所を、そして1番まで完全に「歩きの輪」でつなぐという一点だけは死守する覚悟で来ている。過去、そのつもりでやっていて、車同乗のお接待を受けたがために、悔やみ通した遍路が何人かいたことを体験記を通じて知っていたので、自分は絶対にその轍を踏まないつもりで来ている。

 従って、88ヵ寺を歩いて結ぶためには、これから藤井寺(ふじいでら)をお参りして、疲れた家内を車で折り返しさくら旅館に帰す一方、自分は歩いて帰り、さくら旅館と藤井寺(ふじいでら)間を歩きでつなごうという作戦だ。

 11番藤井寺(ふじいでら)は、88ヵ所のうちで唯一「・・・でら」と呼ばれる札所で、他の寺は南光坊(なんこうぼう)・神恵院(じんねいん)を別にして全て「・・・じ」と呼ばれる。境内にはおおきな藤棚があり、その時期には見事だろうなあと思いつつ参拝・納経を済ませ、それから一人で、しかもザックを背負っていないので、疲労が蓄積している一日の最終時間帯であるにもかかわらず分速100m位の、遍路としては翔ぶがごときスピードでさくら旅館に帰り着く。

 この間の距離は2.5kmだ。11番は納経も終わったので、明日朝、遍路ころがしに備えての時間節約の意味もあって、鴨島駅前からタクシーで藤井寺(ふじいでら)へ行き、お参りした後、本堂脇の遍路道入口から12番焼山寺(しようざんじ)への山登りに入れば、時間節約ができ、かつ歩き遍路道もつながっているという、「ふじや旅館」予約失敗後に考えた苦肉の作戦だった。

 夕食の案内をされ食堂に行くと、きょう法輪寺(ほうりんじ)の境内で履き物のことで家内と話をした一人歩きの老女や、寿食堂で熱い風呂に平気で入っていた九州の男性遍路と一緒になった。われら以外の向う側には、一般客の食事が用意されていた。麦酒一本・酒一合が疲れた身体に浸み入る。

 これで2日間終わった訳だが、妻はよく頑張った。ここまでよく歩いたが、さすがに最後の方では疲れていたみたいだ。道を歩いていて、小学生が自転車などで通りがかりに「こんにちわ」等とあいさつしてくれるのが嬉しい。心がすがすがしくなり、元気になる。

 食後、例の老女が足の肉刺(まめ)の水を出して消毒をしたいので針を貸して欲しいと言ってくる。返却されても“いかがなものか”という世界なので「どうぞ差し上げます」と、一本お渡しする。

 夜、襖で仕切った隣室の一般客のテレビ音が耳障りで、なかなか寝付けなかったが、いつしか寝入ったようだ。

2001年4月7日(土)
 空海の 歩みし道を 慕い行く・・・
いよいよ最初の“遍路ころがし”

 さくら旅館の朝食についている卵は目玉焼きで、生卵と意見の合わない妻は大喜び。

 歩き遍路として最初に遭遇する「遍路ころがし」と言われる今日の難コースを考え、天気予報を信じて当面不要と思われる雨具など、幾つかの荷物を明後日夜宿泊予定の井戸寺(いどじ)宿坊宛宅配便での送付手配をして、今日の荷重を軽くする。
 宅配業者が荷物を取りに来てからでないと送料が不確定なため受取人払しか扱えないそうなので、明後日宿泊予定の井戸寺(いどじ)に電話して立替払の了解を貰った。これで、きょうの「遍路ころがし」と言われる焼山寺(しようざんじ)への人生初の山登りが少しは楽になるだろうという、みみっちいが新米初老夫婦遍路にとっては大変重要な便法のつもりだ。

 「健脚4〜5時間、並足6時間、ゆる足8時間」と案内書に書かれている11番から12番への所要時間が、われらにはどうか。日頃全く登山経験のないわれら2人が果たして登り切れるかどうか。これがきょうの課題である。歩く予定距離は宿まで22.1kmだが、上り下りの斜面を考慮に入れると実質何割かの増、加えて、プラス登り・下りの労力で、平地での実質的労力に換算するとかなりの負荷になると思われる。

 昨夜の2人分の宿泊代・晩酌代計12,900円を支払うと、「きょうの行程は途中で食堂や売店がありませんから」と言って、お接待のお握り弁当と、500ccペットボトル入りのお茶を宿泊遍路それぞれに手渡してくれる。こんなお接待はもちろん初めてで驚いたが大変ありがたく、戴いてお礼を申しあげる。これが、泊まれなかったふじや旅館だと、握り弁当を作ってはくれるが有料だったと、誰かの体験本に書いていたが・・・

 11番藤井寺(ふじいでら)(標高140m)・・・(510m)・・・長戸庵(ちようどあん)(440m)・・・(626m)・・・柳水庵(りゆうすいあん)(500m)・・・一本杉庵(いつぽんすぎあん)(740m)・・・左右内(そうち)(400m)・・・焼山寺(しようざんじ)(700m)・・・杖杉庵(じようしんあん)(440m)・・・鍋岩(なべいわ)(250m)・・・と続く山坂登り下りの峻険路めざして6時40分さくら旅館出発。

 JR鴨島駅前でつかまえたタクシーで、昨日の11番藤井寺(ふじいでら)に行き、あらためてお参りして、6時55分いよいよ同寺の本堂脇の遍路道入口から出発。長戸庵(ちようどあん)、柳水庵(りゆうすいあん)、一本杉庵(いつぽんすぎあん)と順次踏破し、焼山寺(しようざんじ)には予定以上の早さで到着。と言っても5時間53分の所要で辛うじて並足基準をぎりぎり達成できた。途中ほんとうに苦しかった。ちょっと登っては休憩、またちょっと登っては休憩・・・といった連続で、ぜーぜーはーはーもいいところだったが、登り終わってみると正直なもので疲労が心地よい気がしないでもない。

 途中、柳水庵(りゆうすいあん)で休憩させて戴いたが、気になっていた、きのうの足を引きずっていた人のことを訪ねると、夜遅くに何とか辿り着け、今朝すでに焼山寺(しようざんじ)目指して起たれた由で一安心する。ここでお茶・お菓子のお接待を戴いたが、そのお菓子が今までに食べたことのないメチャウマもので、いくらでも食べられた。この老夫婦が守っておられるここ柳水庵(りゆうすいあん)は、歩き遍路にとって山中峻険路の灯台的・命綱的役割の遍路宿でもあり、心からお礼を申しあげた。後になってあんなにおいしいお菓子でお接待して貰ったのだから、歩き遍路に出すお茶代の足しにでもして下さいと幾ばくかお包みしてくれば良かったと後悔している。(後日のことだが老奥様が亡くなられ、営業不可能になったので今は無人になっているらしいが、美味しい水の補給だけはできるとの情報である。)

 漸く到着した焼山寺(しようざんじ)は、さすがに涼しい。ベンチがあったので、13時前になっていることでもあり昼食にしょうとお接待の握り弁当をいたら、何とお手紙付きだ。それも、われら夫婦一人一人に別文で和紙に黒サインペンで縦書きに書いてくれている。またまた感激する。おそらくわれら以外の人たちにも同様だろう。昨夜、われらの食事の後かたづけが終わってから、さくら旅館のご主人が一人一人の顔を思い浮かべながら書いてくれたに違いない。(以下がその原文である)

○○様へ
この度はさくら旅館御利用いただき
ありがとうございました。歩いての八十八所巡り、
きっと大変なことも多いと思います。
二人で歩けば苦労は半分、喜び二倍、徳島
でしか味わえない人々とのふれあい、思いやり、
親切、荷物にならない想い出一杯リュックに
つめてお帰り下さいね。心に写した写真、
きっと一生色あせることなく、胸ふかく残る
ことでしょう。おにぎり心こめてにぎらせて
いただきました。山でいただくおにぎり、きっと
美味しいと思います。身体のエネルギーに
なっていただけばうれしく思います。
一度歩けば二度歩きたくなるのが
「四国病」と云うのだそうです。又いつかお会い出来
苦労話や楽しかった事など話に花咲かせ
たいものです。御来館心よりお待ち致しております。
お元気でいってらっしゃいませ。


もう一通は、

この度はさくら旅館御利用いただき、ありがとう
ございました。ご夫婦で八十八所巡り出来
ます事大変お幸せですね。徳島で一番の
難所十二番焼山寺、呉々も足共に注意
して頑張って下さいね。
苦労した何十倍もの幸せ多き事、心より
お祈り致しております。おにぎり心こめてにぎ
らせて戴きました。元気の糧になっていただけ
ればうれしく思います。
目的地まで無事元気で結願出来ますように。
一度歩けば二度三度と歩きたくなるのがこの
四国八十八所巡りだそうです。又いつか御夫婦
での御来館、心よりお待ち致しております。
お元気でいってらっしゃいませ。


 愛媛から、土・日利用での区切り打ちを始めたという、眼の大変涼やかな青年と抜きつ抜かれつで登ってきたが、登りになると彼が先行し、尾根筋や下りになるとわれら夫婦が追い抜くという、シーソーゲームのような感じできたが、今回は17番井戸寺(いどじ)の近くの駅に車を置いて札所を回り、17番が終わったら車でまた帰る予定とのことで、きょう・あすの2日間の歩き仲間である。

 また、つしまや旅館で同宿だった二人連れのサラリーマン(休暇を取ってきているので23番薬王寺(やくおうじ)までの一国参りが今回の目標の由)に途中で逢い、寄井(よりい)への途中では昨夜柳水庵(りゆうすいあん)泊りの人(後に17番の宿坊で納札(おさめふだ)を交換して判ったのだが、広島県福山市から見え、通し打ち予定の昭和16年生まれのKさんと判明)にもお逢いできた。

 Kさんからは今夜の宿の予定を昨日逢ったときに聞かれ、われわれが「民宿明日香」を予約している旨答えたところ、Kさんも同じ宿を予約された由であるが、例によって足が痛いらしく、「先に行って下さい」とのことなので、妻と先行して民宿明日香に向かう。

 妻はよく頑張ったが下り坂でつま先を痛め、歩くペースを落としたが、それでもつらそうでかわいそうなことになった。やはり靴がいけなかったようだ。吉祥寺の専門の靴屋へ行き、採寸の上、遍路をやること、登り下りがあることを充分説明して買った靴だったが、やはり小生同様につま先に余裕のもてるトレッキングシューズにさせるべきだったと悔いたが遅い。
 宿までの距離がこういうときに限って一層長く感じられるものだが、全くそうだった。何とか民宿明日香にたどり着いたが、それでも当初の予定よりは若干早かったので、二人ともにっこり。初めての難コースだったが、自信になったことも確かである。

 Kさんも遅れながら無事到着され、夕食で一緒になった時、いろいろときょうの苦労話やこれからの予定など話し合う。Kさんは福山市(広島県)で製服業を経営されており、40数日かかるであろう通し打ちの遍路期間中の一切の段取りをつけてこられた由だが、将来的に眼に不安があるとのことで、その点で霊験あらたかと聞いている19番立江寺(たつえじ)の宿坊を17番の次の宿として予定しておられ、朝の勤行でよく祈願したいとのことだった。われわれは、さらにその先での宿泊を予定している旨お話ししたが、Kさんが妻のつま先を気遣ってくれ、包帯などを使わせて下さった。ありがたいことである。

 本日のおつとめは、ビール1本・酒1合。歩きは22.1km、平均分速45m(小休憩込みの時間当たり)と遅いが、最初の難所越えだっただけに納得せざるを得ない。

2001年4月8日(日)
 大栗山 大日寺まで 風になる・・・
分速100(m) 3時間疾駆 ひとり旅

 昨日の宿泊費など計14,647円を支払い、7時20分民宿明日香を出発。すぐ近くのバス停で妻と別れ、13番大日寺(だいにちじ)での再会を期す。昨日足を痛めた妻のために、バス時刻を調べ、次の札所大日寺(だいにちじ)まで一人バスで行って貰うことにした。ついでにわがザックもバスで運んで貰うことにして、一人、飲み物程度の身軽さで大日寺(だいにちじ)までの道を歩くことにした。

 ひと足先に民宿明日香を出発したが、妻は無事バスに乗れたのかなと歩きながら携帯に電話したら、その瞬間に目の前を一台のバスが通り過ぎて行っている。見ると、妻が最前列に座っている姿が車窓越しに見える。急いで手を振ったが、判ったかどうかをあとで聞いてみると、気がつかなかったそうで、ちょっぴり残念。

 自分の足は一晩の睡眠で、最初の遍路ころがしといわれる昨日の焼山寺(しようざんじ)踏破の疲れが嘘みたいにとれている。不思議だ。おかげで、18.3kmある大日寺(だいにちじ)までの道を分速100m近いスピードで快適に歩き、当初考えていた区間所要予定時間4時間15分を大幅に縮める3時間05分で歩くことができ、バスで先行した妻が予想外の早さにビックリ。ザックを背負わないとこんなにも違うものかと痛感する。例によって、Kさんは一人ゆっくり歩いておられる筈だ。

 この13番大日寺(だいにちじ)から17番の井戸寺(いどじ)までの5ヵ寺は、いずれも徳島市内で比較的近接しているため、江戸時代から「5ヵ所参り」と称して嫁入り前の娘さんをはじめ青年男女が多く回ったのだそうだ。おそらく、そういう機会に恋が芽生えたり、良縁に結びついたりしたのだろう。

 13番大日寺(だいにちじ)は、山号院号こそ違え寺号だけから言えば、初日に参拝の4番大日寺(だいにちじ)や28番大日寺(だいにちじ)(高知県)と同名であり、ややこしい。やはり如来の中の如来といわれる大日如来さまと関係があるのかどうか・・・
 この13番大日寺(だいにちじ)の真ん前には道路を挟んで一宮神社が建っており、地図には一宮札所前というバス停名もあり、別当寺だったようだ。ただ、阿波の国の一宮は1番霊山寺(りようぜんじ)が別当寺だった近くの大麻比古神社と両方あるらしい。このような例は伊予においても同様であり、別当寺と共に挙げると、大三島の大山祗神社と55番南光坊(なんこうぼう)、一宮神社と62番宝寿寺(ほうじゆじ)で、時代の変遷によるものらしい。国分寺のように最初から特定されたものでは無かったようだ。因みに、土佐(土佐神社と30番善楽寺)と讃岐(田村神社と83番一宮寺)の一宮は一国に1つずつのようだ。最も、インターネットで後日確認したら諸説あるらしいが・・・

 この5ヵ寺を歩く間、例の愛媛の青年に逢ったが、昨日以上に足を引きずっている。聞けば、S.47年7月生まれだそうで、わが次男坊と4ヵ月違いだ。焼山寺(しようざんじ)行きで急ぎすぎたと反省していたが、肉刺(まめ)がつぶれ、皮がはがれて歩くのが痛そうだ。日頃車利用で歩き慣れていないのと靴も適切でないように思える。

 15番国分寺(こくぶんじ)だったか、16番観音寺(かんおんじ)だったかを出発しようとしたら、バス遍路のおばあちゃんがわれら3人を親子とでも思ったのか、「これお接待です」といって封筒を差しだす。後で見たら1,000円札が1枚入っている。丁重にお礼申し上げ、「われわれは持ち合わせがあるから、君これ何かの足しになさい」と言ってその青年に渡してあげた。ほんとうに好感の持てる、眼の涼やかな好青年だった。

 「手打ち饂飩ぬまた」という所で一緒に昼食を摂ったが、どうせ阿波の饂飩は旨くなかろうと思って天麩羅そばを頼んだところ、結果はその青年の注文した饂飩の方が旨そうだった。府中(こう)の町中でその青年と別れ、われら夫婦は井戸寺(いどじ)へ行く前に、町中の履き物屋でつま先を痛めた妻のためにサンダルを探したり、薬局でつま先の手入れに必要なものを買ったりして、15時20分に17番井戸寺(いどじ)に到着。お参り後、15時40分同寺の宿坊に到着した。本日の歩きは27.0km、平均分速82m。

 立て替えて貰っていた宅配便の送料を支払い、荷物を持って部屋に入る。妻のつま先を見ると大分痛そうで、これは困ったと二人で顔を見合わせる。ともかく風呂だ、洗濯だということで、その後夕食に行くと、団体でもいると見えて、多人数の食事が用意されている。福山のKさんも着かれ、一緒に夕食をしたが、明日は彼は立江寺(たつえじ)泊まりで、われらとは予定が異なる。お互いに足を気遣い、今後を励まし合う。

 妻とはこの後部屋に帰っていろいろ相談したが、「きょう歩いた時の痛み具合から考えて、続けていく自信がないし、あなたの負担になる」と言うので、考えた上、今回の遍路は残念ながら本日をもってひとまず中断し、足を治してから二人で再開しようということにした。急いで宿坊の人に事情を話し、荷物を自宅宛送り返すべく、段ボールを出して貰い、荷造りを行った。
 本日のおつとめは、般若湯少々。

2001年4月9日(月)
 妻の足 気遣い中断 春遍路


 初めての経験である宿坊泊まりの朝は、「勤行(ごんぎよう)」があるとのことで、宿泊した遍路それぞれが本堂に向かう。結構な人数である。うっかりして経本や虎の巻を持っていかなかったので、般若心経も読めない。神妙にそれらしく振る舞い、最後に講話を聞いて終わりだった。こう言ってはなんだが特別に“よかった”という程のこともなければ、かと言って悪い訳でももちろんなく、特に感慨はなかった。

 朝食の時、Kさんに中断のことを話し、彼の無事の満願と眼の快方を祈りつつお別れのご挨拶をする。送り返す荷物の発送手配を終わり、昨夜の清算(寝間着借用賃込み)12,600円を支払い、呼んだタクシーで徳島駅に向かって出発。
 小雨がぱらついている。井戸寺(いどじ)を出たすぐのところで、Kさんほかの歩き遍路数名が18番恩山寺に向け進んでいる姿を車窓から見て、残念に思うがやむなし。尚、後日談だがここでお別れしたKさんは、その後頑張られ、5月18日に無事満願されたとのお便りを頂戴した。「多くの方々のお陰、感謝・感謝」と書いてあった。足を痛めておられただけに感慨もひとしおだったことと思われる。

 徳島駅にて、妻が高松の弟に電話し、ある依頼をする。待ち時間のあまりない便、岡山行き「うずしお4号」と東京行き「のぞみ12号」の指定席がとれ、大急ぎでご近所・その他への土産を買う。まずは高松駅へと向かうが、高松の一駅手前「栗林(りつりん)」駅のホームで、30秒停車の間に待ってくれている妻の弟にわれら2人分の菅笠と金剛杖・掛軸を素早く渡し、次回の再開まで保管方依頼する。

 四国内の列車でなら、遍路姿や遍路道具の携行は見慣れた風景なのだろうが、これを新幹線の中で、そして、中央線・京王線の中で、そして日野市の自宅近辺で・・・となると、やはり恥ずかしさが先行するという、未熟なるわれらの考えた便法だった。

 高松駅では2分停車だったが、妻の弟からの連絡でもあったのか、妻の従妹のTさんが鮮魚を冷蔵で持ってきてくれる。夜帰宅して開けた見たら新鮮な鰤の切り身だ。夕食で早速刺身にして美味しく戴き、残りを翌日焼いて食べたら、これまた脂がよくのっていて顎が落ちるほど旨かった。Tさん、ありがとう。

 途中、岡山駅で買った土産も加えて、早速ご近所に予定外の帰着報告と留守中のお礼、郵便物類の受取り、子達への電話など、家内は大忙しだった。