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  四国霊場八十八ヵ所 1200km歩き遍路


    
そ れ は 定 年 後 の 足 許 を あ ら た め て 見 つ め 直 す
     “心 の 旅 路” だ っ た !


は じ め に

 完全な「歩き」での四国遍路“結願(けちがん)”の瞬間−それは、両手で岩に這い蹲り、よじ登った「女体山(にょたいさん)」越えの末、漸く辿り着いた四国霊場第八十八番札所「大窪寺(おおくぼじ)」でだった。
 思えば、故あって4回区切りでの一年越し(延べ正味40.5日)で迎えた“晴れの瞬間”だ。
 「わあ!よかったわ!とうとうやったのねえ!」妻の祝いの涙声が携帯電話機から伝わってくる。

 結願(けちがん)の瞬間、「これが法悦か!」と涙した人も少なくないそうだが、わたしは何故か泣かなかった。 しかし、携帯電話器からの妻の一言を聞いた瞬間、堰を切ったように急に万感が胸に迫り、遂にはわが声もゆがんでしまうのだった。

 「今度は君と一緒にもう一度回ろう!」 17番札所まで同行の後リタイアし、今は留守を守っている妻をそう慰め、翌日お礼参りした一番札所「霊山寺(りようぜんじ)」の売店では、早速最新版の車遍路用地図を買い求めるのだった。

 思い起こせば、あれは平成6年5月のある日のことだった。当時、ちょっぴり空いていた心の空白を一瞬で炸裂させる稲妻−超高圧電撃ショックが全身を走ったのである。実は、その日の昼の外食後、わたしは勤め先近くの書店で、以後のわが内面を左右する一冊の本−「定年からは同行二人」(小林淳宏氏著・PHP文庫)に出逢ったのだ。

 「これだ!探し求めていたのはこれだったんだ!」−それは、正にわが飢える魂を奥底から震撼させる“百雷の轟き”だった。即結論−「よし、俺も“歩き遍路”をやるぞ!」と。貪るように何度も読み返したその本は、瞬く間に手垢で汚れ、蛍光マーカーで朱いっぱいになっていく。

 それからは、サムエル・ウルマンの詩「青春」の「希望ある限り若く・・・」ばりに、「歩き遍路」完遂へ一路驀進する弾丸列車のような毎日へと変わっていく。

 まず、
* 遍路行程の徹底分析
* 完歩日程と要準備事項の具体化
* そして、計画的な準備遂行と途中点検・・・
数十冊の書籍で、インターネットで・・・と、余暇のほとんどを費やす精力的な情報収集が即日始まった。

 全長1200キロ。高い山越えや難所、三日がかりにも及ぶ何カ所かの遠隔札所、変化に富んだ山のみち・里のみち・浜辺のみち・・・また、水飛沫を上げるダンプカーや古い隧道内の排ガス、蛇・野犬、転落すれば一命すら危うい山中の峻険路・・・変化と試練に富む“弘法大師:空海修行のみち”を完全徒歩で歩き通す「脚力づくり」も課題だった。

 中年太りしていたわが肉体改造も多少は進み、妻と連れだって念願の「こころの旅路」についたのは、定年(6月)の翌年、平成13年4月の初頭である。
 “いよいよ明日から”という前夜、民宿の女将から菅笠の紐の結び方や金剛杖の持ち方などを教わり、翌早朝、一番札所“霊山寺(りようぜんじ)”門前に立った時の魂の震えは、今もって忘れられない。

 3日目には「遍路ころがし」で有名な12番札所焼山寺(しようざんじ)を何とかクリアしたものの、下り坂で爪先を痛めた妻は、17番(井戸寺(いどじ))で中断のやむなきに至り、夫婦での再挑戦を期して自分も一旦帰京。

 だが、完治には相当期間必要と判明し、翌5月、やむなく自分一人で17番から歩き遍路を再開。ところが、その先には期待していた当初の予想を遙かに凌ぐ、超充実した、生涯忘れ得ぬ日々が待っていたのだった。

 喉から心臓が飛び出すかと思うほど苦しかった登り坂、終日のごとく雨に降られた数日間、足指にできた肉刺(まめ)の傷み、肩に食い込むザックの重み、背中を流れ落ちる汗−楽して回った市街の遍路道よりも、歯を食いしばって頑張った日々の方が、遙かに想い出深く心に焼き付いているから不思議だ。

 そんな時、ふと気づくと、いつしか“無”になって歩いている・・・疲れたと思っていたのにいつの間にかランニング・ハイならぬウォーキング・ハイに浸っている・・・行き交う地元の人に明るく挨拶している・・・路上の蟻一匹をも踏むまいと意識的に避けて歩いている・・・そんな自分に思わず驚くのであった。

 また、「おはようございます」、「こんにちわ」、「頑張って下さい」・・・など、何よりの励ましとなる登下校途上の小中学生たちの明るい声、また遍路姿の自分を道の向こう側のバス停から手を合わせて拝んでいる老婦人に気づいて胸を熱くし、思わず立ち止まって合掌・答礼する自分、行き交う車中から笑顔で黙礼・激励してくれるドライバー達、わざわざ車を止め「お乗りになりませんか」と同乗を勧めてくれる婦人、「お賽銭にして下さい、冷たいものでも飲んで下さい」と紙幣や硬貨を取り出す老人など、枚挙に暇のないほど有形無形のお接待に接する度に、疲れは吹き飛び、胸は熱くなり、何よりの励まし・癒しになったものだ。それが、自分から他の遍路さん達へのお接待へと転化していく・・・

 ひとたび遍路姿で四国の地に立った瞬間、辺りは単なる“四国”から“お四国”という異次元の遍路世界に豹変することを、歩き遍路は初日から体感する。
 遍路−殊に歩き遍路を支える四国の人々の暖かさや、1200年余に亘って培われてきた“四国遍路文化”の厚み、そして、世界に類なき巨大システムの奥深さ・重厚さを感じなかった日もまた皆無だった。

 歩き遍路達とのすばらしい出逢いも多々あった。
 野宿して日々遍路するうら若き女性、きれいな澄んだ目の好青年、交通禍で失業に至ってしまった元企業戦士、70歳迄に満願したかったという老人、亡妻の遺影を胸に満願記念の写真撮影を頼む老紳士、勤め先を早期退職して歩き遍路に来たという熟女、定年後の自分探しの旅にきた元サラリーマン、そして仲睦まじいおしどり夫婦etc・・・また、足摺岬では一人歩きの白人女性遍路にも出逢った。
 人それぞれ、課題や重荷を背負っているのだろう。あるいは、これからのテーマや進むべき道を探しているのだろう・・・

 そんな中、わたしは「一人になってみて、人は決して一人でないということ」、「人と離れてみて、人は人と離れられない存在であること」を改めて思い知らされるのだった。
 金剛杖をお大師さまに見立てて歩いた“同行二人”の遍路旅、妻との二人三脚で歩いてきたわが人生、多くの社友たちとの会社生活・・・これからの人生も素晴らしい“同行二人”でありたい。

 遍路途上、山頭火の「人生即遍路」の石碑に逢う。札所は単なる通過点、「歩き遍路」の素晴らしさは“道”そのもの。正に「人生=遍路・遍歴」だ。

 遍路世界を知る前と知った後、歩き遍路をする前とした後、自分の中で何かが大きく変わった気がする。墨痕も鮮やかに菅笠に墨書されている句文「迷故三界城 悟故十方空 本来東西無 何処有南北」の意味も、少しは判ったような気がしてくる。そんな思いが人々を、そして自分を「また遍路にいこう」と駆り立てる。これを“お四国病”というそうだが、自分もこの「聖なる病」に罹ったようだ。早くまた、“お四国病院”と言われる遍路世界に再入院したいものだ。

 四国霊場88ヵ所満願の翌月、わたしは妻と一緒に高野山奥の院に参拝し、納経掛け軸に墨書と朱印をして貰った。過去のあらゆる旅行体験よりも段違い、次元違いに感銘深かった「四国1200km歩き遍路の旅」は、六十路に入った自分にとって生涯忘れ得ない“感動と輝き”の一ページとしてわが人生を彩ってくれた。

 この至福感はおそらく生涯消えないだろう。