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 行徳船航路沿いを歩く
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 2010.02.21(日) 第一回目は小名木川のクローバー橋まで

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 立ち寄りたいスポットがいっぱいあるのと、小名木川沿いはクローバー橋以西が川沿いの道が皆無に近いこともあり、日本橋川・隅田川・仙台堀川・小名木川をはじめ、南北に流れる大横川、横十間川を含めて橋を行ったり来たりの立ち寄りオンリールートとなるきょうは、果たして何キロメートルの距離を歩くことになるのか、予想がつかなかったが、結果的には終わってみれば全日計で34,580歩を数えていたので、現地での正味を3万歩強として、推定距離16.5km~18km程度はあったものと推定した。

日本橋魚河岸跡(9:28)・・・中央区日本橋室町1-8-1先

 最初の精神的けじめとして、既に、東海道・中山道・日光街道等の起点として何度も立ち寄り済みだが、「日本橋の魚河岸跡」は、関東大震災後「築地」に移転するまでの間、東京の台所をまかなう魚河岸だった所で、行徳船で運ばれてきた海産物の取引地でもあったので、「日本橋魚市場発祥の地」碑がある北東角に先ずは立ち寄り、ここを本日の実質スタート地点とした。

 家康の関東入国後、摂津から佃島に移り住んだ漁民が、幕府の膳所に供するべく漁業を営み、のち、日々上納した残りを舟板に並べて一般販売し始めたのが日本橋魚河岸の始まりと言われ、関東大震災まで、江戸・東京の台所として活況を呈した。
 「日本橋 龍宮城の港なり」龍宮城の住人である海の魚が悉く日本橋に集まったという意味で、記念碑のあるこの広場を「乙姫広場」と称し始めたのは、そんな由来に基づくという。

               
日本橋魚河岸跡
                          所在地 中央区日本橋室町一丁目八番地域
 日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。此処で開かれた魚市場は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御前御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。
 なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
 江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売り場を開いて売買を行ってきました。
 この魚河岸は、大正十二年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
 現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。
               平成十九年三月
                              中央区教育委員会

郵便発祥の地碑(9:35)・・・中央区日本橋1-18-1 日本橋郵便局

 我が国の近代的郵便制度は、明治4年(1871)3月1日(1871年4月20日)東京・大阪間で始まった。
 ここはその発足時、「駅逓司(後の郵政省)」と東京の「郵便役所(後の中央郵便局→日本橋郵便局)」が置かれた所で、昭和37年4月20日に郵便創業九十周年を記念して、記念碑と、郵便制度創設に寄与した前島密(1835~1919)の胸像が設置された。

               
郵便発祥の地
『現在、日本橋郵便局があるところは、明治4年(1871)近代郵便制度発足時に、駅逓司と東京郵便役所が置かれたところです。駅逓司は、新たな通信・郵便事務を統括する中央機関であり、郵便役所はその取扱機関として、東京、大阪、京都に設けられました。昭和37年4月の郵便創業九十周年を記念して、記念碑と郵便制度創設に着手した前島密(1835~1919)の胸像が設けられています。』
                              中央区教育委員会


兜神社・兜岩(9:39)・・・中央区日本橋兜町1-8

 東京証券取引所本館の北側、道路を挟んで日本橋川の辺にある小さな神社が、証券界の守り神とされる兜神社である。御祭神は、主神が商業の守護神「倉稲魂命(うかのみたまのみこと=御稲荷さんの別名)」で、大国主命(大黒様)と事代主命(恵比寿様)が左右に合祀されている。
 さほど大きな神社ではなく、神主も非常駐で、毎年4月1日の例大祭には、近くの神社から神主が出向いて執り行う由である。

 その由緒だが、弘化2年(1845)版「楓川鎧の渡古跡考」の地図に、牧野邸の東北隅・鎧の渡付近に平将門を祀ったのが起源と言われる「鎧稲荷」と、源義家所縁の「兜塚」が描かれており、この頃既に当地の鎮守として、また魚河岸へ出入りする漁民たちの信仰対象になっていたという。

 明治4年(1871)、東京商社(三井物産の前身にあたる商事会社)の移転に伴い、鎧稲荷と兜塚は、鎧の渡と兜橋の中間に遷されたが、この時、兜塚として祀られていた源義家公の御神霊を兜神社として社を創建して祀り、更にこの神社は、鎧稲荷と合祀され、新たに兜町の鎮守・兜神社となった。因みに、この年、三井組の三井八郎右衛門が「兜町」の名を東京府(当時)に願い出て許されたという。

 明治7年(1874)、兜神社は、源義家の祭祀を止め、新たに、兜町一丁目の土地を有する三井家が信仰の「三囲(みめぐり)稲荷神社(墨田区向島2丁目)」の境内摂社である福神社から大国主命と事代主命の2柱を勧請して合祀した。
 明治11年(1878)東京株式取引所(東京証券取引所の前身)設立に伴い、同取引所が兜神社の氏子総代になり、以来、兜神社は、証券界の信仰を集めるようになったという。

 昭和2年(1927)、兜神社は日本橋川と楓川の分岐点の角地・兜橋東詰北側の六十二坪の敷地(現在の場所)に再度移転し、鉄筋コンクリート造りの社殿が造営された。昭和46年(1971)高速道路延長工事に伴い、旧社殿を解体し、現在の鉄筋コンクリート、一間社流造・向拝付き・銅板葺きの立派な現社殿を造営して今日に至っている。

<兜岩>

 境内左手に「兜岩」と呼ばれる岩がある。この岩には次のような幾つかの由来があるが、いずれも裏付けがあるわけではない。

(1) 後三年の役(1080年代)で、源義家が奥州から凱旋してきた時、東夷鎮定の祈願を兼ねて、兜を楓川の辺の土中に埋めて塚を作ったという。これを当時の人達は「兜塚」と呼んだそうだが、いつしか兜岩と呼ばれるようになったとの説。

(2) 前九年の役(1050年代)で、源義家が奥州征伐に向かう際、岩に兜をかけて戦勝を祈願したことから、この岩を兜岩と呼びようになったとの説。

(3) 承平の乱(935~940)で、藤原秀郷が平将門の首を討って京都へ運ぶ際、将門の打首に兜を沿えていたのを、この地で罪滅ぼしにと兜だけ土中に埋め塚を作って供養したそうで、この塚を当時は兜山と呼んだが、そこに兜神社が建ち、いつしか兜岩だけが残ったとの説。

海運橋の親柱(9:45)・・・中央区日本橋一丁目20番先 日本橋兜町3番先

 海運橋は、その昔、旧本材木町と茅場町の間に架かっていた橋である。
 その橋名は、江戸時代に、橋の東詰めに海賊奉行の向井将監の屋敷があったことから、将監橋とか海賊橋と呼ばれていたが、明治元年に縁起を担いで「海運橋」に改称されたという。

 その後、明治8年に西洋風のアーチ型石橋に改装されて有名になったが、関東大震災で損傷を受け、昭和2年に鉄橋に架け替えられた。
 更にその後、川が埋め立てられ、高速道路が造られたことから、橋そのものは取り除かれ、石柱のみが現在残されている。

               
海運橋親柱
                              所在地 中央区日本橋一ー二十先
                                  日本橋兜町三先
 海運橋は、楓(もみじ)川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていました。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
 橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同八年に、長さ八間(約十五メートル)、幅六間(約十一メートル)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。
 石橋は、関東大震災で破損し、昭和二年鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和三十七年撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。
               平成六年三月
                              中央区教育委員会

銀行発祥の地碑(9:47)・・・中央区日本橋兜町4-4

 明治5年制定の「国立銀行条例」に基づいて、日本最初の銀行「第一国立銀行」が翌6年当地で創立された。当時の建物は、三井組の建てた「三井組為替方」を譲り受けたもので、海運橋の袂にそそり立つ壮麗な和洋折衷建築として有名になり、「三井組ハウス」と呼ばれていた由。

 現在は、「みずほ銀行兜町支店」の外壁に「わが国銀行発祥の地」の銘板がはめ込まれているだけになっているが、当時の第一国立銀行頭取・渋沢栄一邸は、この第一国立銀行の構内ともいうべき所にあったそうで、明治9年に転居した由。

               
 銀行発祥の地
          この地は明治6年6月11日(1893年)
          わが国最初の銀行である第一国立銀行が
          創立されたところであります
                   昭和38年6月建立


宝井其角住居跡(9:52)・・・中央区日本橋茅場町1-6-10

 蕉門十哲の一人「宝井其角(1661~1707)」は、芭蕉の門下に入り、芭蕉の没後、派手な句風で洒落風を起こし、その一派は江戸座と呼ばれた。
 その其角の住まいがあった場所(現在の「みずほ銀行兜町支店茅場町出張所」の敷地)に碑が建っているが、裏には「日本勧業銀行 茅場町支店」とあり、当時の勧銀の頭取名が刻まれているのにも歴史の流れを感ずる。

 次のような代表作がある。
    「錦とりてねびまさりけり雛の顔」
    「越後屋にきぬさく音や更衣」
    「日の春をさすがに鶴の歩みかな」

 
榎本其角(1661~1707)は、松尾芭蕉門下の高弟です。膳所藩本多家に仕える医者の子として江戸で生まれ、15歳で芭蕉の門に入ったといいます。俳諧にとどまらず、医学、詩学、漢籍、書、絵画にも長じた早熟の才人として知られています。元禄年間末から薬師堂のちかくに草庵をむすび、ここで没したと伝えられます。酒豪として知られ、「十五より酒を飲み出て今日の月」という句もありますが、芭蕉に大酒を戒められという話もあります。さまざまな逸話で江戸の人々に親しまれた俳人です。
                              中央区教育委員会


堀部安兵衛武庸之碑(10:04)・・・中央区八丁堀1-14 亀島橋袂

 赤穂義士・堀部安兵衛武庸(1671年~1703年)は当時の水谷町(現在の八丁堀一丁目)に居住し、赤鞘安兵衛と称し、剣道の達人として知られていたが、元禄7年の有名な高田馬場の仇討ちで、彼の武勇は江戸中に伝わった。昭和44年、八丁堀一丁目町会によって碑が建立されている。

               
堀部安兵衛武庸之碑
越後新発田五萬石溝口藩中山弥次右衛門の子寛文十一年生れ元禄元年江戸之念流堀内道場へ入門元禄四年玉木一刀斎道場師範元禄七年二月高田の馬場に於て叔父菅野六郎左右衛門之仇討其の後も京橋水谷町儒者細井次郎大夫家に居住浅野家臣堀部家の妙と結婚堀部安兵衛武庸となる禄高二百石元禄十四年十月本所林町に於て長江左衛門の名で剣道指南元禄十五年十二月十四日赤穂義士の一人として吉良邸に乱入仇討す元禄十六年二月四日歿三十四歳
法名 刀雲輝剣信士


阪本小学校(10:14)・・・中央区日本橋兜町15-18

           
  創立 明治六年三月
               第一番官立小学 阪本学校
 中央区立阪本小学校は、明治四年(1871)の文部省設置及び明治五年(1872)の「学制布告」により、明治六年(1873)三月、「第1大学区 第1中学区 第一番官立小学 阪本学校」として創立、同年五月七日に開校式が挙行された。
 我が国の公立学校の創生期において、「一、一、一」を冠した小学校は日本中でも阪本小学校だけであり、「一番学校」としての伝統と歴史を引き継いでいる。
 明治二十八年(1895)に附属幼稚園が開園された。

現校舎は、細川藩下屋敷跡に立地。大正十二年(1923)関東大震災後、昭和三年(1928)三月に落成した。
尚 文学・谷崎潤一郎、元宮内大臣・石渡荘太郎、元一橋大学長・山中篤太郎、歌舞伎名優・左団次、杵屋六左衛門ほか、多数を輩出している。
                              中央区立 阪本小学校

鎧橋と鎧の渡し跡(10:21)・・・都内最古の鉄橋

 昭和32年(1957)7月に架設された現在の鎧橋は、日本橋の兜町と小網町を繫ぐ全長56.7m、幅19m、3スパンの鋼製ゲルバー桁橋で、川の上は首都高の向島線が通り、江戸橋J.Cと箱崎I.C間での渋滞の名所でもある。
 一見ただの橋だが、歴史があり、橋の両側(対角線の位置)に「鎧の渡し」と「鎧橋」と題した各解説板がある。

<明治・大正の鎧橋>

 ここに最初に橋が架けられたのは明治5年(1972)で、三井家などの当時の豪商が自費で架けた「木橋」が始まりだとか。それ以前は「鎧の渡し」という渡し場があったという。その後、明治21年(1888)には鉄骨製のプラットトラス橋に架け替えられ、大正期に入ると路面電車を通すため拡幅されている。

<現在の鎧橋>

 その後、老朽化に伴ない、昭和32年(1957)に現在の『鎧橋』に3スパンの鋼製桁橋に架け替えられた。隣接する『茅場橋』は1スパンの桁橋である。

 「鎧」の名の由来は、平安時代に迄遡る。永承年間(1046~1053)、奥州討伐(前九年の役)に向かう源義家が、当地から舟で下総国を目指そうとしたが、風雨が強く舟が出せないため、自らの鎧を脱いで神に祈ったところ風波が治まり、無事に下総国に赴けたという伝説に由来しているという。

 いずれにしても、「鎧橋」とか「兜町」とか、真偽の程はともかく、歴史の深さを感じる名前であり、地域である。

               
鎧の渡し跡
                   所在地 中央区日本橋小網町八・九番
                          日本橋茅場町一丁目一番・日本橋兜町一番
 鎧の渡しは、日本橋川に通されていた小網町と茅場町との間の船渡しです。古くは延宝7年(1679)の絵図にその名が見られ、その後地図や地誌類にも記されています。
 伝説によると、かつてこの付近には大河があり、平安時代の永承年間(1046~53)に源頼義が奥州平定の途中、ここで暴風・逆浪にあい、その船が沈まんとしたため、鎧一領をを海中に投じて龍神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われています。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。
 この渡しは、明治五年(1872)に鎧橋が架けられたことによりなくなりますが、江戸時代に通されていた渡しの風景は「江戸名所図絵」などに描かれており、また俳句や狂歌等にも詠まれています。
     縁日に 買ふてぞ帰る おもだかも
          逆さにうつる 鎧のわたし
                   和朝亭 国盛
               平成二十年三月        中央区教育委員会

旧小網町本社ビル(10:26)・・・中央区日本橋小網町9番

 曽ての勤め先の元本社ビルを懐かしく見上げる。東京に転勤した時には既に新宿が本社だったが、支社勤務時代に研修会で上京時に立ち寄って以来、何回か訪ねたビルであり、今もって健在であるのが懐かしい。

小網神社(10:32)・・・中央区日本橋小網町16-23

 日本橋七福神の一つであり、福禄寿・弁財天をお祀りしており、福禄寿は福徳長寿の神、弁財天は営業隆昌、学芸成就の神として敬われている。
 因みに他の七福神では、水天宮が辨財天、茶の木神社が布袋尊、椙森神社が恵比寿神、寶田恵比寿神社が恵比寿神、笠間稲荷神社が寿老神、末廣神社が毘沙門天、松島神社が大国神との立て看板がある。
 また、「下町八社福参り」というのがあり、小網神社は強運厄除の神として崇敬されているが、曽て2007(H.19).01.08に東京都ウォーキング協会主催のイベントに参加して当神社にも詣でたことがあり、きょうで2回目の参拝となる。因みに、他の7社は、鷲(オオトリ)神社(商売繁盛)・今戸神社(縁結び)・第六天榊神社(健康長寿)・下谷神社(家内安全)・小野照崎神社(学問芸能)・水天宮(安産子授け)・住吉神社(交通安全)である。

<ご祭神>

  倉稲魂命 (うがのみたまのみこと)  [稲荷大神](いなりおおかみ)
  市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) [辨財天](べんざいてん)

<御由緒>

 文正元年(1466)、伊勢神宮を本宗とし、産業繁栄と悪疫鎮静の神として鎮座した。当初は「小網山稲荷院万福寺」を別当寺とする稲荷社だったが、その後昭和初期までは「小網稲荷神社」と称し、稲荷堀稲荷とも称されていた。

 太田道灌公の崇敬が篤く、社地を奉じ、社殿を造営し、社名も公が名づけたと伝えられる。小網町の名は神社に因んで定められた。
 明治の神仏分離令によって万福寺と分離し、明治6年7月5日、村社に指定された。

 現社殿は、昭和4年の造営で、戦禍も免れ、現在、日本橋地区唯一の木造尾洲総檜造りの神社建築になっている。特に、向拝には上り竜下り竜の美事な彫刻が施され、強運厄除の竜として拝されており、社殿・神楽殿共に中央区文化財に登録されている。

 ご神徳は、社運隆昌・商売繁昌と、明治期以後の戦時期に当神社の神守を身につけて戦地に赴いた者全てが、無事帰国したことから強運厄除の信仰が起こり、各地から強運厄除けの授かりをうける参拝者が多かったという。

 正月初詣・大祭(5月28日)・東京銭洗い辨財天大祭(10月28日)・東京下町の奇祭どぶろく祭(11月28日)は特に賑わう由。

<万福舟乗弁天社略縁起>

 当弁財天は、その昔、当神社と同境内にあった恵心僧都の開基と伝えられる万福寺に安置されていた弁財天である。

 その後、明治初年、神仏分離の法令施行後、当神社と分離し、計らずも寺院は廃絶したため、明治2年(1869)当神社に移され、奉斉されるに至った。弁財天は、同寺院に因み、「万福舟乗弁財天」と称え、現在、日本橋地区を中心に、神奈川、埼玉、千葉の近郊に迄崇敬を広げている。

茶の木神社(日本橋七福神・布袋尊)(10:40) ・・・中央区日本橋人形町1-12-11

               
茶ノ木神社(布袋尊)
 「お茶ノ木様」と町内の人々に親しまれている茶ノ木神社の御祭神は倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)で伏見系の稲荷様である。
 昔この土地は徳川時代約三千坪に及ぶ下総佐倉の城主大老堀田家の中屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたものである。
 社の周囲に巡られた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、芝と茶の木の緑が見事であったと伝えられている。
 その中屋敷内は勿論のこと周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、いつのころから誰言うとなく火伏せの神と崇められ、堀田家では年一回初午祭の当日だけ開門して一般の参拝を自由にされた由「お茶ノ木様」の愛称で町の評判も相当であったと伝えられている。
 又、新たにに昭和六十年布袋尊を御遷座合祀申し上げて日本橋七福神詣りに加わることになった。
 布袋尊は実在した中国唐代の禅僧で、阿弥陀菩薩の化身といわれている。福徳円満の相が喜ばれ、世の清濁を併せ呑む大きな腹をして袋の中にいっぱいの宝物を入れ、人々に福運大願を成就させる和合成就の神様として崇められている。


 昭和35年の地下鉄日比谷線敷設が決定した時、当社がその計画路線上にあったため、解体新築の止むなきに至り、工事中は御神体を都下保谷市(現・西東京市)の東伏見稲荷神社に遷座し、旧社は、解体の上、八王子市の某町会に贈られたという。
 約3年余で地下鉄も完成し、世話人たちの苦労も実って新社殿が建立され、新たに建立されている。
 明治以来の変遷は不詳だが、大正12年の関東大震災後は、喜誠会の方々の合力によって、この地を定めて社を建立し、以後、地元の人々によって守られてきているという。

銀杏八幡宮・銀杏稲荷(10:45)・・・中央区日本橋蛎殻町1-7-7


 当初の予定外の立ち寄りで、由緒その他不明だが江戸期以前の創建といわれている神社で、名前がユニークでもあり立ち寄る。新大橋通り北側に面した神社で、銀杏の木のある境内左手にコンクリート製の銀杏八幡宮社があり、右手に小さな木造の銀杏稲荷社が祀られている。

行徳河岸

 小網町を南進してきた道は行き止まりになり「箱崎駐車場」にぶつかる。昭和40年前迄は小網町の東端と箱崎町との間にも、日本橋川と直角に交差する水路が通っていた。現在、その南側だけが「亀島川」という名で残り、箱崎川第一公園から見るとその出口の水門が見える。北側の水路は「箱崎川」と言い、日本橋中洲
(注)の西側水路に繋がっていた。

 行徳河岸はこの水路の交差点の北西角にあった。水路でいえば、川のメインストリート隅田川から、横道である日本橋川を一筋入った右手の一等角地にあたる。ここで本行徳新河岸で積み込まれた行徳塩が陸揚げされ、逆にここから成田や鹿島詣でに出かける江戸の旅人が乗り込んだ訳である。

               
行徳(ぎょうとく)河岸
                           所在地 中央区日本橋小網町一~三番先
                           中央区日本橋蠣殻町一丁目一番先 地域
 かつて、箱崎町と小網町・蠣殻町の間には、運河である箱崎川が流れていました。寛永九年(一六三二)、南葛西郡本行徳村(千葉県市川市)の村民が小網町三丁目先の河岸地を幕府より借りうけ、江戸と行徳の間で、小荷物や旅客の輸送を開始して以来、ここは行徳河岸と呼ばれるようになりました。江戸と行徳とをむすぶ船は毎日運航され、成田山新勝寺の参詣などで房総に向かう多くの人びとが、この水路を利用しました。
                              平成十四年三月
                              中央区教育委員会

(注) 日本橋中洲と女橋跡
 元々、隅田川も河口に近い小名木川河口辺りに、土砂が堆積してできた中洲があった。江戸中期の安永年間(1772~81)に中州の西側を埋めて陸続きにし、三股富永町なる中洲の歓楽街を造成した処、自然に逆らっての暴挙に天の怒りをかったか、流れの行き場を失った水が氾濫した。そこで、やむなく埋めたてた元の水路を掘り起こし、町は棄てて自然の中洲に戻したという。それを、明治19年になって再び埋め立てて町としたのだが、それが「日本橋中州」として今日も地名になって残っている。


 箱崎Jct浜町入口の東に接するマンション前に「女橋」の解説板が建っているらしいが見つからなかった。やや斜めに走っているその通りが中洲の南側水路際にあった女橋跡だと考えられている。

 ところで、行徳河岸から隅田川を横切って小名木川に入っていくルートは3ヵ所あったことになる。

(1) 日本橋川を少し下り、隅田川に出て小名木川まで北上する
(2) 箱崎川を上り、女橋手前で中州の南側(箱崎川支川)を通って隅田川に出る
(3) 中州の西側を北上し、中州の北から旋回する

 いずれにしても、その辺りは隅田川の流れが三叉し、船が多数行き交う賑やかな船の繁華街であった筈で、出船・入船でルートが異なっていたのかも知れないし、行徳船とそれ以外の船で異なった交通ルールがあったのかも知れない・・・などと想像するのも、また楽しからずや、と言えようか。

高尾稲荷神社(11:01)・・・中央区日本橋箱崎町10

 日本橋川が隅田川に出る所に小公園に整備され、歩道には「日本銀行創業の地」碑や「高尾稲荷社」の案内板が建っている。

 万治元年 新吉原の遊女2代目高尾太夫が仙台藩伊達綱宗に寵愛され、身請けされることになったが、意中の人に操をたてるべく綱宗の意に反したため、その怒りに触れて斬られ、川中に捨てられたという。その遺体が大川端に漂着して埋葬されたが、その後、この話に同情した多くの人々によって「高尾稲荷」として奉られるに至った。

 たた、彼女の末路については謎めいた点があるようで、逆上した伊達綱宗に隅田川の舟中で逆さ吊にして斬殺されたという説の一方で、側室として鄭重に弔われているという説もあるらしく、いずれにしても伊達騒動の張本人綱宗を狂わせた絶世の美女だったことは間違い無さそうである。

               
高尾稲荷社について
今より約三百二十一年の昔万治二年十二月皇紀弐阡三百十九年、千六百五十九年隅田川三又現在の中洲あたりにおいて仙台候伊達綱宗により遊舟中にて吊し斬りにあった新吉原三浦屋の遊女高尾太夫()二代目高尾野洲塩原の出)の遺体がこの地に引上げられ此れより約八十米隅田川岸旧東神倉庫今の三井倉庫敷地内に稲荷社として祀られ古く江戸時代より広く庶民の信仰の対象となりかなり栄えておりましたが明治維新明治五年当時此の通りを日本橋永代通りと謂われ最初の日本銀行開拓庁永代税務署等が□□にあり高尾稲荷社は只今の所に移動しおとづれる人もおおかったが昭和二十年三月二十日戦災により社殿は焼失いたし時代と共に一般よりわすれられ年々と御参詣人も少なくなってしまいました。時折り町名変更につき当町会名保存と郷土を見なをそうとの意志により高尾稲荷社を昭和五十年三月再建工事の折り旧社殿下より高尾太夫の実物の頭蓋骨壺が発掘せられ江戸時代初期の重要な史跡史料として見直されることになり数少ない郷土史の史料を守るため今後供皆様のご協力をお願い申しあげます
                              日本橋区北新堀町々会 

               高尾稲荷起縁の地
 江戸時代 この地は 徳川家の船手組持場であったが 宝永年間(1708年)の元旦に 下役の神谷喜平次という人が見廻り中 川岸に首級が漂着しているのを見つけ 手厚く埋葬した
 当時 万治(1659年)のころより 吉原の遊女高尾太夫が 仙台候伊達綱宗に太夫の目方だけ小判を積んで請出されたのになびかぬとして 隅田川三又の舟中で吊し斬りにされ 河水を紅に染めたといい伝えられ 世人は自然高尾の神霊として崇め唱えるようになった
 そのころ盛んだった稲荷信仰とも結びついて高尾稲荷社の起縁となった 明治のころ この地には稲荷社および北海道開拓使東京出張所(後に日本銀行開設時の建物)があった その後 現三井倉庫の建設に伴い 社殿は御神体ともども現在地に移された
               昭和57年11月吉日
                           箱崎北新堀町会・高尾稲荷社管理委員会


日本銀行創業の地(11:05)・・・中央区日本橋箱崎町19

 日本銀行は、日本の中央銀行として、明治15年(1882)日本橋箱崎町において創業した。同29年、本石町の現在地に移り、唯一の発券銀行、銀行の銀行、政府の銀行として機能している。本店の建物は、ルネッサンス式石造3階建で、本館・別館に分かれ、明治時代の貴重な本格的洋風建築として、重要文化財に指定されている。

               
日本銀行創業の地
          明治十五年十月十日 日本銀行はこの地で開業した
          明治二十九年四月 日本橋本石町の現在地に移転した
          創業百周年を記念してこの碑を建てる
                 昭和五十七年十月
                       日本銀行総裁 前川春雄


永代橋(11:07)・・・江東区永代1丁目~中央区新川1丁目

 勝鬨橋・清洲橋と共に国重要文化財に指定されている。

 往時は、大川(隅田川)最下流に架かる橋で、上流から数えた順でも、架橋された順でも千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋と4番目の橋である。その中で、両国橋、新大橋、永代橋の3橋が「大川三大橋」と言われ、安永3年(1774)に吾妻橋が架けられたことで「大川四大橋」となり明治までその状態が続いたが、江戸の庶民感情としては千住大橋は仲間はずれだったようだ。

 架橋年代順にいうと、次のようになり、もちろん、当時は木橋であり、永代橋は「上野寛永寺」本堂造営の余材を使ったと伝えられている。
  千住大橋 文禄 三年(1594)
  両国橋 寛文 元年(1661)・・・別説では万治2年(1659)12月竣工とも言われる。
  新大橋 元禄 六年(1693)
  永代橋 元禄十一年(1698)

 橋名の由来としては、
(1)元禄11年(1698)五代将軍綱吉の50才記念の架橋で、徳川体制が永代続くようにとの“永代”説
(2)深川の永代寺の名から名付けたという説
(3)往時の架設位置は現在の位置より100~150m程上流で、以前は「深川の渡し」のあった場所であるが、この木橋の東詰(永代側)を「永代島」と呼んでいたためという説
等、諸説があり、都と区の説明も異なっているようだ。

 現在の橋は、全長184.7 m、幅22m、3スパン構造の鋼製タイドアーチ橋で、完成は大正15年(1926)大川最長の橋である。
 この木製橋は、船の通行を考え、水面から高い造りになっていて、筑波山、秩父連山、富士山,、房総半島が一望に見渡せ、江戸庶民に大変人気があって、浮世絵の題材にもなったという。
 また、当初は幕府直轄だったが、後年補修費の財政難から地元に管理を任せ、通行料を取って管理・補修費の財源に充てていたという。

 約100年後の文化4年(1807)8月15日、深川八幡の11年ぶりの大祭が雨で順延になり、19日に執り行われたが、人気を呼んで庶民が殺到した。その上、一橋公が船でこの下を通ったため通行止めになり、解除後短時間に群衆が殺到し、人の重みで橋が落ちて大災害になった。奉行所発表で440人が死亡したが、実際には1500人を越えていたと言われる。死体は下流の品川沖まで流される者もいた。
 後年河竹黙阿弥は「八幡祭小望月賑」(はちまんまつり よみやの にぎわい)という本を書いて大当たりを取り、落語「永代橋」はこの危難を舞台に作られたそうだ。

 蜀山人の狂歌に「永代のかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼あすは葬礼」。

 赤穂浪士は吉良邸討ち入り後の早朝、その先の両国橋を渡ろうとしたが、幕府直轄の橋のため渡れず、この永代橋を渡ったことでも有名である。

               
永 代 橋
 永代橋は、元禄十一年(1698)に隅田川の第四番目の橋として、現在の永代橋の場所よりも上流約150mのこの付近に架けられていました。当時、橋の左岸を永代島と呼んでいたことから「永代橋」と名付けられましたが、一説には五代将軍綱吉の五十歳を迎えた記念として、その名を付けられたとも伝えられています。当時諸国の廻船が航行していたため、橋桁を十分高く取ったので、「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし」といわれる程の橋上からの景観でした。
 左図は、安藤広重の天保前期の作品「江戸名所之内永代橋佃沖漁舟」であり、月下の沖合に点々と白魚舟の篝火が明滅する夜の江戸を、詩情ゆたかに描き出しています。
 永代橋が現在の場所に移されたのは明治三十年(1897)のことで、わが国の道路橋としては初めての鉄橋に生まれかわりました。その後、関東大震災で大破し、大正十五年(1926)十二月に現在の橋に架替えられました。その姿は、上流の清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重量感にあふれており、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。
               1989年4月
                              中央区


<旧・永代橋>

 最初の架橋から300年余が過ぎているが、その間洪水による流出や火災による焼失などで、幾度も架け替えられ、初めて鉄橋が架設されたのが明治30年(1897)で、道路の橋としては日本初の鋼製トラス橋だった。
 しかし、その鉄橋も大正12年(1923)の関東大震災で廃橋となり、架け替えられる。

<現在の永代橋>

 現在の橋は、震災復興事業により大正15年(1926)架設のアーチ橋で、近くで見ると重量感溢れる鋼製アーチ橋体が、上流の『清洲橋』と共に高く評価され、その美しさは「隅田川に架かる橋」 の中でも屈指の名橋と言えよう。昭和63年(1988)に改修工事が施されているが、アーチの塗装は褪せて来ている。

<忠臣蔵>

 この永代橋には、幾つもの逸話があるそうだが、中でも有名なのは「赤穂浪士の討入り」である。両国にあった吉良邸への討入り後、四十七士は永代橋を渡って、亡君浅野匠頭の眠る芝高輪の泉岳寺に向っている。

<豊海橋>・・・昭和2年築造のフィンデール橋

 豊海橋の北詰の石碑には、昔の「永代橋」の絵図板が嵌め込まれている。

               
中央区民文化財 豊海橋
                     所在地 中央区新川一丁目/日本橋箱崎町(日本橋川)
 現在の豊海橋は、大正一五年(1926)五月起工、昭和二年(1927)九月竣工。
 日本橋川が隅田川に合流する河口部の第一橋梁です。橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」)がありました。この辺りは新堀河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸揚げする所で、川に沿って白壁の酒倉が並んでいました。
 明治期には豊海橋は鉄橋になり、大正十二年(1923)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当。隅田川支流の河口部の第一橋梁はデザインを一つ一つ変えて区別しやすく工夫していました。それは隅田川から寄港する船頭に対する配慮でした。
 福田武雄はドイツ人フィーレンデールの案出した橋梁デザインを採用し、梯子を横倒しにした様な外観で重量感ある豊海橋を完成しました。この様式は日本では数ヵ所あるのみで近代の土木遺産としても貴重な橋で、区民有形文化財に登録されています。
               平成十四年三月
                              中央区教育委員会

霊巌島の碑(11:13)・・・中央区新川1-12 越前堀児童公園

 現在の新川の一部はかつて霊岸島と言い、寛永元年(1624)霊巌雄誉上人が法力をもって築造し、初めは中ノ島、あるいはこんにゃく島と呼んだという。この島にはどういうわけか落雷がなく、また南天は実らない土地と伝えられたという。

               
霊岸島の由来
 当地区は、今から三百七、八十年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の沼地葭原であった。
寛永元年(1624)に、雄誉霊岸上人が霊岸寺を創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同十一年(1635)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が、二万七千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。
 邸の北、西、南三面に舟入堀が掘られて後に越前堀の地名の起る原因となった。
明暦三年(1657)の江戸の大火で、霊岸寺は焼失して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町町が、替地として集団的に移ってきた。
 明治大正年間には富島町、浜町、四日市町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊岸島町、銀町、東港町、新船松町、越前堀、南新堀の十三町に分かれ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心であった。大正の大地震により全部焦土と化し、昭和六年七月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川一、二丁目・霊岸島一、二丁目・越前堀一、二、三丁目と改称され、更に昭和四十六年住居表示制度の実施により新川一、二丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐しい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。
               昭和五十二年三月
                              霊岸島保存会

船員教育発祥の地(11:18)

 明治維新後のわが国海運界は、当然ながら国際的に立ち後れが目立ち、船舶職員の学校教育制度を必要としていた。明治8年11月、大久保利通内務卿の命で、岩崎弥太郎が「三菱商船学校」を設立したが、これが後の東京商船大学となる。当初、この学校は隅田川に成妙丸を繋留して校舎とし、生徒全員を船内に起居させて、近代的船員教育を施したという。

               
船員教育発祥の地

 内務卿大久保利通は、政府政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎彌太郎に命じて、明治八年十一月この地に商船学校を開設させた。当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流の水域に、成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。
 爾来百年、ここに端を発した商船教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられている。
               昭和五十年十一月
                              東京都中央区教育委員会


新川之跡碑(11:24)・・・中央区新川1丁目31-4 児童遊園

 新川は、万治3年(1660)河村瑞賢が開削したと伝えられる運河である。江戸時代には廻船や輸送などに利用され、両岸は、当初は材木問屋、のち酒屋の問屋街となって繁盛していた。酒問屋は今なお根を下ろしている。

 狂歌にも「新川は下戸の建てたる蔵はなし いづれ上戸が目当てなりけり」と詠われた。

新川之跡
    万治三年(一六六〇)川村瑞賢傳開鑿此地
    昭和二十三年(一九四八)以戦災焦土埋之


               
新川の跡
                              所在地 中央区新川一丁目地域
 新川は、現在の新川一丁目三番から四番の間で亀島川から分岐し、この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。規模は延長約五百九十メートル、川幅は約十一メートルから約十六メートルと、狭いところと広いところがあり、西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。
 この新川は、豪商川村瑞賢が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治三年(1660)に開さくしたといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、数多くのさし絵や浮世絵などにも描かれました。
 昭和二十三年、新川は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和二十八年に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。
               平成六年三月
                              中央区教育委員会


永代亭跡(11:30)

  深川の西洋料理の二階から
  お花さんが又大川を眺めてるよ。
  入日の影は悲しかろ、
  細い汽笛も鳴いて来る。
  お前がひとり悲しんだとて,歎けばとて、
  つぶれた家は立ちません、
  あんまり何して粗相はしまいこと。  (木下杢太郎「お花さん」より)

 この木下杢太郎の詩に出てくる「深川の西洋料理店」は、江東区佐賀1丁目の現在交番がある永代橋の東袂辺りにあった西洋料理店永代亭のことで、1階が一銭蒸気の発着所、二階が西洋料理店の永代亭だった。
 永代亭では、明治末年ごろ木下杢太郎もそのメンバーであったパンの会が盛んに催されていた。
 パンの会は明治末期の若手美術家・文学者のグループで、西欧文化に憧れ、この下町の西洋料理店に集まっては酒を飲み、文芸談義を楽しんでいたという。

 上田敏(詩人・評論家) 戸川秋骨(フランス文学者) 北原白秋(詩人・歌人) 木下杢太郎(医学博士・詩人) 吉井勇(歌人) 山本鼎(洋画家・農民美術家) 石井柏亭(洋画・水彩画家) 倉田白羊(洋画家) 谷崎潤一郎(小説家) 石川啄木(歌人・詩人) 高村光太郎(彫刻家・詩人) 、永井荷風(小説家)、俳優の市川左団次、市川猿之助らが参加していたという。

佐久間象山砲術塾跡(11:36)・・・江東区永代1-14永代通り福島橋袂

 嘉永3年(1850)、信州松代藩真田家下屋敷に設けられた佐久間象山の砲術塾跡に解説板が建てられている。翌嘉永4年(1851)には江戸木挽町に住いを移したが、後に象山門下の2虎と呼ばれる吉田松陰(寅次郎)、小林虎三郎をはじめ、勝海舟・橋本左内・河井継之助らが象山塾の門を叩いている。

     
江東区登録史跡    佐久間象山砲術塾跡            永代1-14付近
 この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化八年(1811)松代城下で生まれ、名は啓(ヒラキ)、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保四年(1833)江戸へ出て佐藤一斉に朱子学を学び、同十三年(1842)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(1840~42)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、九月には江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。
 嘉永三年(1850)七月、深川小松町(永代一)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門していました。同年十二月、いったん松代へ帰藩しますが、翌年再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・坂本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。
 安政元年(1854)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、七月一一日、尊王攘夷派浪士に暗殺され五四歳の生涯を閉じました。
               平成二一年三月        江東区教育委員会

紀文稲荷神社(11:40)・・・江東区永代1-14-14

 境内には、本殿のほか「龍神宮」や「富士浅間神社」も祀られている。

               
紀文稲荷神社縁起
江戸中期(元禄時代)の豪商紀国屋文左衛門が京都伏見稲荷神社より御璽を拝受しこの地にお祀りしたのが当紀文稲荷神社です
紀国屋文左衛門は第五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保萩原重秀等と結び風浪を冒して紀州よりミカンを江戸に運びまた材木商として明暦の大火に木曽の木材を買い占め数年で巨万の財を築き豪遊して紀文大尽と称せられたことはあまりにも有名です
紀国屋文左衛門の店は八丁堀にありその下屋敷が現在の第一勧業(注:現みずほ銀行)深川支店あたりにありました当時この付近一帯は運河が縦横に走り此処に紀国屋文左衛門の船蔵があり航海の安全と商売の繁昌を祈ってこの地にお稲荷様を祀ったものです
以前この付近一帯は窪田家の所有地でありましたが窪田家の没落とともに祀る人もなく荒れるがままに放置されておりました
昭和の始め頃この付近に疫病が流行し行者にその平癒をお願いしたところ何処かに放置されたお稲荷様があるはずでそのお稲荷様を祀れば疫病は平癒すると言うご神示を戴き当時草原と化していたこの付近を捜索した結果荒れ果てた祠を発見し肥料商人中田孝治が発起人となり現在の社殿を建立お祀りしたところ疫病は平癒し商売も大繁盛しました
爾来商売繁盛家内安全のお稲荷様として広く信仰を集めて参りました
冨士浅間神社 龍神様 は中田孝治が富士講の講元をしていたことから冨士浅間神社の御璽を拝受してお祀りしたものです
元の境内は現在地より北西約三十米の奥まったところにありましたが昭和六十二年大和永代ビルディング建設に伴い三菱倉庫株式会社の深い信仰心に基づく真摯な移転作業により昭和六十二年三月三十一日遷座祭を執り行い現地に移転しました
又境内にある石はこの付近にあった米問屋肥料問屋等で働く力自慢の人たちが差し上げることが出来た大石に自分の名を刻み記念としたものです現在でも当神社総代鶴岡秀雄氏が会長をされている深川力持睦会がその伝統を受け継ぎ東京都から無形民俗文化財に指定されております
               昭和六十三年五月吉日


平賀源内電気実験の地碑(11:51)・・・江東区清澄1丁目2番地

 平賀源内(享保13年~安永8年=1728~1779)は、讃岐高松藩の足軽の子として生まれ、語学に通じ、自然科学者・文人・蘭学者、中でも電気学者としても有名だった。石綿(火浣布)、エレキテル、寒暖計や西洋画・陶器等の紹介を行っている。

 彼は、深川に自宅を構え、老中田沼意次の援助を受け、明和7年長崎へ遊学、持ち帰ったエレキテルを組み立て、電気の一般公開実験を行い、わが国初のエレキテル(摩擦起電機)を完成した。場所は隅田川の清洲橋近くで、清澄1丁目(読売新聞社ビル前)、道路から1m程度奥まった一角にある現江東読売ビルの敷地に「平賀源内電気実験の地」という碑が建っている。

          
平賀源内エレキテル実験の地
 27歳で脱藩し、讃岐(香川県)から江戸へ出てきた鬼才平賀源内。
安永5年(1776)、源内は深川清住町の武田長春院の下屋敷で、「西洋人が雷の理を以て考案した器械」エレキテル(摩擦起電機)の実験を一般公開した。


 また、有名なのが、CMコピーライターの元祖とも言える「本日、土用の丑の日」で、鰻屋に依頼された有名なキャッチコピーである。源内の墓は台東区橋場2丁目にある。

明治維新百年記念碑(12:04)

 清洲橋の東詰めにあり、明治神宮権宮司による明治天皇御製の歌が刻まれている

   
明治天皇御製
   いかならむ 時にあふとも 人はみな
      誠の道を ふめとをしへよ
           明治神宮権野宮司 伊達巽謹書


清洲橋(12:05)・・・中央区日本橋中洲 と 江東区清澄1丁目 の間、清洲橋通り

 「清洲橋」は、下流側の「永代橋」(大正15年架設)と対をなす橋として計画され、昭和3年(1928)3月に築造された。関東大震災の復興計画の一つとして架橋された橋で、当時世界一の美橋といわれたドイツーライン河のケルンの吊り橋『ビンデンブルグ橋』をモデルにした下垂曲線の吊り橋である。

 橋名は、ありふれた方法だが、当時の両岸の町名「日本橋中洲町」と「深川清澄町」から命名されており、何となく雰囲気のある橋名である。
 全長186.2 m、全幅22.0 m、構造は3スパンの鋼製吊橋である。

 当時の復興局技術者には、「隅田川」 の第二橋梁、「東京の門」 として恥ずかしくない橋にしようとの思いがあったようである。その復興局の記録には次のような記述がある。

 「永代橋は隅田川河口の大橋、この橋が太古の恐竜のように、大川を爬行して渡るのに対して、その上流の 清洲橋 は優しい吊橋の姿を水に映し、そのよきコントラストが都市美に抑揚を与えるように計画した 」

 この記述にもある通り、重量感溢れる男性的イメージの『永代橋』に対して、『清洲橋』は女性的で優美なシルエットの代表的な橋で、隅田川一の美橋とも言われている。しかし、そのシルエットに対して、近接してみると実際の構造は非常に堅牢であり、青色の塗装色とも相まって重量感に溢れている。

清正公寺(12:15)・・・中央区日本橋浜町2-59-2(浜町公園に隣接)

 この地は江戸時代には肥後熊本の細川藩中屋敷があったところで、文久元年(1861年)、細川斎護が熊本の日蓮宗本妙寺から勧請して創建した。加藤清正を祀っており、現在の堂宇は昭和34年(1959)に再建されたものである。元は下屋敷内にあった寺だが、江戸時代には一般庶民の参拝も許されたと伝えられている。小さな寺で、清正公堂とも呼ばれる。
 加藤清正は慶長16年(1611)、秀吉の一子秀頼の後見人として家康と二条城で会見したが、その後まもなく49才で死去している。

 都内港区芝白金に「覚林寺(一般的には清正公「せいしょうこう」と呼ばれている)」があるが、この寺は寛永8年(1631)日延上人が、肥後熊本藩の中屋敷跡のこの地に創建したものである。日延上人は朝鮮の王子で、文禄の役で清正が帰国の際一緒に来日した人物である。

 5月4・5日が清正公大祭で、門前一帯に賑やかな市がたち、「勝守(かちまもり)」と称する守り札が売られ、余の苦労を払って仕事に成功するという縁起があり、よく売れている由。

 浜町公園はもと、熊本の細川氏の中屋敷があった場所で、隣接して清正公寺があるのは、加藤家が2代忠広の代に取り潰しになった後、熊本藩を引き継いだ細川氏が、清正公を崇めることによって民心を掴もうとして建てた寺と言われている。

関東大震災避難記念碑・人助け橋のいわれの碑(12:21)・・・中央区日本橋浜町2-57隅田川新大橋西詰

 隅田川初の斜張橋で、柱にレリーフがある。
 新大橋は、関東大震災や東京大空襲の際にも隅田川の橋が悉く焼け落ちる中で唯一被災せず、避難の道として多数の人命救助に寄与したため、「人助け橋(お助け橋)」と称されるようになったという。
 現在でも、橋西詰にある久松警察署浜町交番敷地裏に「大震火災記念碑」、および「人助け橋の由来碑」が建っており、付近にある水天宮の御神体もこの橋に一時避難して難を逃れたという。

<関東大震災避難記念碑>

               
避難記念
 貴族院議員正四位伯爵有馬頼寧 篆額
嗚呼想ひ起すも肌に粟を生するを覺ゆるは大震火災の状況なり時は大正十二年九月一日所は新大橋の上難を避くる數萬の大衆の九死に一生を保ち得たるは實に神人一致の力と申すべきか此の時橋の兩側より狂ひに狂ひ燃えに燃え來る紅蓮の舌は毒焔を吐きつゝ刻一刻と橋上に迫る退くも火進むも火身を躍らして河に投せむか滔々たる濁流は一氣に呑み去らむのみ進退維れ谷り號叫の聲天に漲り慘状目も當てられす此の時大衆は橋上に御遷座あらせられたる水天宮及小網稻荷神社玄冶店橘神社の御靈代を伏し拝み神助を熱禱したり又警官在郷軍人其他有志の人々は火を導く恐ある荷物を悉く河中に投せしむ中には貴重の物とて泣きて拒みしも萬人の生命には替へ難しとて敏捷果斷なる動作は寔に時宜を得たる處置なりき漸く人事を盡し神助を待ちたるに夜も明け火も鎮まりて大衆は始めて我に還り知るも知らぬも再生の思をなして喜ひ合ひたり且つ五大橋中此の橋のみ災害を免れ得たるは正に神助と人の力となりけり其後法木徳兵衛主唱し森田恒一加藤肆郎庄野又兵衛之に賛して發起者となり此の橋上にて免れたる人々相集り大震火災新大橋避難記念會を組織し毎歳當日を期して水天宮に報賽の祭典を行ひ同橋上に集りて當時を追憶し來る乃ち本年は満十回に當るを以て思出深き新大橋西側の一隅に碑を建て事を敘して之を永久に記念となす
               昭和八年九月二日
                              水天宮 社掌 樋口悌次郎撰
                                     荷葉山㟁惣書


<人助け橋の由来碑>

              
 「人助け橋」のいわれ
 大正十二年(一九二三年)九月一日、突如として起こった関東大震災は随所で火災を誘発し、そのため各所で橋が焼け落ち多数の痛ましい犠牲者を出した。しかし幸いにも明治四十五年に建造された新大橋だけは火災からまぬがれ、逃げ惑う一万有余の尊い生命を救い、かつ、遮断された各方面への交通を一手に引受けて、避難橋としての重責を十分に果たした。そのため、新大橋は多くの人々から「人助け橋」と呼ばれ永く親しまれるようになった。
 なお、当時久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する羽鳥源作、三村光、今給惣克巳、植木機禅、伊藤盛雄、浅見武雄ら各警察官は一致協力して多数の避難者を誘導し、さらに携行してきた荷物を橋詰で適切にさばいて火災の防止と避難路の確保のために活躍されたという。一身を顧りみず沈着勇敢に行動されたその功績は、永く後世に称えられるべきものである。
    (裏面)          東京都建設局      昭和五十二年三月二十七日建造


長慶寺(芭蕉時雨塚・旧跡)(12:36)・・・江東区 森下 2-22-9

 一空全鎖(いっくうぜんさ)和尚が開基し、徳山五兵衛重政を中興開基とする曹洞宗の寺で、山号を「蟠龍山」と号する。旗本徳山氏の菩提寺であるほか、松尾芭蕉翁の句塚碑や、宝井其角(宝晋斎)墓、盗賊・日本左衛門墓(いずれも関東大震災で倒壊)があったことでも有名な寺である。

 この盗賊日本左衛門は本名を浜島庄兵衛と言い、江戸中期東海道筋を荒らし回った盗賊団の首領で、歌舞伎「白浪五人男」の一人として盗賊団の首領日本駄右衛門のモデルになった。
 延享3年(1746)京都町奉行所へ自首して江戸送りになり、同4年(1747)に火附盗賊改方の徳山五兵衛秀栄により処刑されている。

 なお、当寺には「近代小学校発祥地 東京府小学第六校 深川小学校誕生之地」の石碑が外側に建てられている。

<門弟が長慶寺に建てた芭蕉句塚>

 境内に発句塚、時雨塚、短冊塚とも呼ばれた芭蕉翁句塚跡がある。句塚は戦災で失われ、現在は台石が残るのみであるが、昭和16年(1941)当時の写真が後ろに掲示されており、当時の全貌が見られる。

 この塚について「御府内備考」続編に、「元禄七戌十月十二日はせを浪花にて卒せしを聞て江戸の門人杉風・其角・嵐雪・史邦等翁之落歯并発句を埋めり、其句に、世にふるも更に宗祇の舎り哉」とあり、芭蕉が没した元禄7年(1694年)10月12日の2ヶ月後に芭蕉の門人たちが芭蕉を偲んで、句塚を建てたことが知られる。碑の表面には「芭蕉翁桃青居士」、裏面に「元禄七甲戌十月十二日」と刻まれている。

「東都古墳志」によると、芭蕉碑の他、「宝晋斎其角墓」、「玄峰嵐雪居士」、「麦林舎乙由居士」、「守黒菴眠柳居士」、「松籟庵太無居士」、「二世松籟庵霜後居士」の六基が長慶寺に建てられたとあるが、現在は、芭蕉句塚の台石の右に「宝晋斎其角墓」の破片がかろうじて残るのみである。同寺には明和9年(1772年)に建てられた句塚碑もあったが、現在は失われてしまい、拓本のみが残っている。

<絹本着色釈迦十六善神像 一幀>

 当寺には、桃山時代後期ないし江戸時代初期の作と推定されている江東区指定有形文化財(絵画)の「絹本着色釈迦十六善神像」があり、カラー写真入りの解説板も設置されている。


深川神明宮(12:46)・・・江東区森下 1-3-17

 女流作家・宇江佐真理の著「甘露梅」の一節に、こういう件がある。

 
「深川は、元は下総国の支配を受け、後に武蔵国葛飾郡の内になったという。
 「茶と泥でつくり」と言われるほどの低地を摂津出身の深川八郎右衛門と六人の男達がこつこつと開墾したのである。当時は一面の萱野であったらしい。
 たまたま初代将軍の家康が鷹狩りでこの地を訪れ、八郎右衛門に土地の名を訊ねた由。八郎右衛門が名もない所だと答えると、それなら八郎右衛門の名字を名づけるがよいと言われ、深川となったのが主たる由来であった」


 この深川氏は、当地開拓の功績によって、代々深川二十七ヶ町の名主を務めたという。そして、深川氏は宝暦7年(1757)に七代目で断絶しているが、菩提寺の泉養寺(市川市国府台)には現在もその墓所が残っている由である。

 この神社の由来は漢字カタカナ文による石碑に詳しく説明されている。
 今から約四百年前、葦の生い茂り住む人もまだいなかった三角州を仲間たちと開拓した深川八郎右衛門は神を敬う心が篤く、屋敷内に小さな祠を建て、日頃から崇敬する伊勢神宮の天照大御神のご分霊を祀って、開拓民の幸せや深川の発展を祈念していた。これが、深川神明宮の起源と言われている。

 そして、深川の地の発展と共に、八郎右衛門の屋敷の小さな祠も、いつしか「深川総鎮守神明宮」と称せられるようになり、多くの崇敬を集めて今日に至ったという。「深川七福神」の内の寿老神(延命長寿)をお祀りしている。

 「寿老神」と共に、本殿に向かって右手前には、末社の「和合稲荷神社」があるが、古くは御神域内の各所に個別に祀られていた11柱の神々を、昭和に入って末社として合祀したものである。
 和合大神・・・・・伊邪那岐・伊邪那美の2神
 稲荷大神・・・・・宇迦御魂大神
 浅間大神・・・・・木花開耶姫
 厳島大神・・・・・市杵島姫神
 疱瘡大神・・・・・建速須佐之男神
 鹿嶋大神・・・・・武甕槌神
 大国大神・・・・・大国主大神
 御嶽大神・・・・・少名毘古那神
 金刀比羅大神・・・大物主神
 道祖大神・・・・・猿田彦神
 北野大神・・・・・菅原道真公命

江東区芭蕉記念館(12:56)・・・江東区常盤1-6-3

 江東区は、わが国文学史上で大きな足跡を残した「松尾芭蕉」のゆかりの地である。芭蕉は、延宝8年(1680)、それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住み、その庵を拠点に新しい俳諧活動を展開して、多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残している。

 元禄2年(1689)3月、曾良を伴って「奥の細道」の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道は、岐阜大垣に至る400里(2400km)の壮大な旅の始まりである。

 その草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれ、芭蕉没後、武家屋敷内に取り込まれて保存されたが、幕末から明治にかけて消失している。また、大正6年(1917)の大津波の後、常盤一丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、同10年に東京府は、この地を「芭蕉翁古池の跡」と指定した。

 江東区は、このゆかりの地に松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年(1981)4月19日に「芭蕉記念館」を、平成7年(1995)4月6日に隅田川と小名木川に隣接する地に「芭蕉記念館分館」を開館した。

              
 芭蕉記念館
由来
 新大橋と清洲橋が望める隅田川のほとり、松尾芭蕉が庵を結んだゆかりの地に、この記念館は建設されました。ここには、芭蕉研究家からの寄贈品を中心に、芭蕉関係の貴重な資料が展示されています。また、研修室(和室)は俳句や短歌を楽しむ人たちに利用されています。
 庭園には、池や滝、芭蕉の句に詠まれた草木が植えられ、築山にはほこらと「古池や・・・」の句碑があります。


 
松尾芭蕉は延宝八年(1680年)三十七歳から元禄七年(1694年)五十一歳、大阪への旅に出発するまで、常盤一丁目にあった庵の周辺に芭蕉を植えて深川芭蕉庵と称し、ここを本拠として「奥の細道」等の旅に出発し、多くの紀行文や俳句を残し、文学史上偉大な足跡を印した。
 芭蕉庵が芭蕉歿後武家屋敷となり、幕末から明治にかけて滅失してしまったのを地元の方が惜しみ、この地を「深川芭蕉庵跡」として句碑などを作り保存されてきた。そして大正十年十一月東京府の旧跡に指定された。
 しかしこの地が狭隘であったので今般江東区はここに芭蕉記念館を建設し、併せて地元の協力により「句碑」等をも移管した。
 ここに芭蕉の業績を顕彰し、永く旧跡を保存するとともに、芭蕉関係の資料等を公開し、より充実した記念館としていきたい。
               昭和五十六年四月吉日
                  芭蕉記念館開館にあたって
                              江東区長 小松崎軍次


 この芭蕉記念館は、真鍋儀十翁等が寄贈の芭蕉及び俳文学関係資料を展示すると共に、文学活動の場を提供している。芭蕉記念館の門を潜ると小さな日本庭園があり、芭蕉の俳句に因んだ花や草木、池、滝を配しており、四季折々の自然を感じることができる。玄関前には「草の戸も・・・」芭蕉句碑が、庭園築山には芭蕉庵を模した茅葺き屋根の祠(ほこら)と2句の芭蕉句碑が建てられている。

<記念館入口の自然石に刻まれた句碑>

     草の戸も 住み替る代ぞ ひなの家

<築山の句碑>

     ふる池や 蛙飛こむ 水の音
     川上と この川下や 月の友

<芭蕉年譜>

 西暦 年齢 出来事

 1644年 1 伊賀上野赤坂で生まれる。幼名金作。長じて忠右衛門。父は松尾与左衛門。
 1662  19 藤堂家伊賀付侍大将藤堂新七郎の嫡子良忠(俳号=蝉吟)に仕え、蝉吟と共に貞門
         派の李吟に師事し俳諧に親しむ。
 1666  23 良忠没。25才。芭蕉藤堂家を致仕。
 1675  32 この歳の春(もしくは前年の冬)江戸へ下向。桃青の俳号で句会に参加。
 1677  34 この頃から神田上水の工事に携わる。
 1678  35 この年(もしくは前年)俳諧宗匠として立机。立机披露の万句興行を催す。
 1680  37 神田上水改修工事終了。深川の草庵に移る。当初庵を泊船堂と称した。
 1682  39 俳号、芭蕉を使い始める。
 1686  43 古池や蛙飛び込む水の音」を詠む。
 1689  46 「奥の細道」の旅に出る。
 1692  49 第3次深川芭蕉庵に入る。
 1694  51 旅の途中大阪で没し、大津「義仲寺」に眠る。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

正木稲荷神社(13:03)・・・江東区常盤1-1-2

 小名木川の手前で東に曲がると直ぐに「おできの神様」と青地に白抜きの幟の建つ小さなお稲荷さんの祠「正木稲荷神社」がある。御祭神は宇迦之御魂命、例祭日は五月の丑の日である。

               
正木稲荷の由来
かつて深川元町万年橋北側に柾木の大樹あり その樹にほど近い隅田川の中州上に当社「正一位稲荷大明神」存す
時移る中、大樹朽ち、当社も幾多の変遷を経るが、当社古くから「腫物に効くおできの神様」との名高く、寛政十年、明和六年の文記にも当社の名が見られ、文政十年(注:1827年)六月十六日には曲亭馬琴の妻女お百も「腫物平癒」の願かけに参詣の記録があり。昭和初期の祭礼には下町情緒豊かに、花柳界の「キレイドコロ」が人力車を連ね大変賑わっていた。
  ぴいぴいも売れる柾木の御縁日
  陸奥米の籾の間に稲の神
  柾木のぴいぴい吹きながら野掛也
と当社を読む句も残っている。
 戦災後、先代三木常正宮司はじめ地元秋田勝三郎、飯田源次郎、塙善之助各氏世話人となり社殿復興す。そして平成二年の今日玉垣御社殿改修に際し、崇敬者の賛同を得て現状の整備を成す。
               平成二年五月吉日建之


 創立年月は不詳だが、当地の鎮守の深川神明宮の摂社または末社とも伝えられ、万年橋際に鎮座していたことから「万年橋稲荷」とも称されていたというが、この地に江戸時代初期かそれ以前に建立されたこのお稲荷さんは、「柾稲荷」、あるいは「正木稲荷」と呼ばれ、なめらかで厚い柾の葉が腫れ物やおできを治す御利益があるとして信仰され、腫れ物治癒の祈願には全快まで蕎麦を断ち、全快すれば蕎麦を献じたという。

 そうした経緯から、為永春水「梅暦」の挿絵にも当社が描かれ、奉納の幟に「柾木稲荷大明神 天保五年(注:1834)二月初午」の文字が見え、『江戸名所図絵』では「真先稲荷明神社」として記され、『江戸切絵図』の「本所深川絵図」文久2年(1862)版には「マサキイナリ」と記されているという。
 当社は古くから町方が支える「町内持(維持経営)」のお社として庶民の信仰を集めていたという。

史跡展望庭園(13:05)

 正木稲荷の右隣に門があり、石段を登っていくと「史跡展望庭園」があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフが建っていて、往時を偲ぶことができる。
 この、「分館」の史跡展望庭園は、隅田川と小名木川に隣接し、四季折々の水辺の風景が楽しめる。 芭蕉翁像は、午後5時になると像が回転するそうだ。そして、像はライトアップされ、隅田川を行く船々を見守る形になるらしい。休館日は第2・4月曜日(但し祝日の場合は翌日)で、入園は無料。
 芭蕉記念館分館の屋上には芭蕉のブロンズ像と、芭蕉庵のデッサン画像などが展示されている。

 庭園内のあるレリーフには、俳誌「ホトトギス」(明治42年1月号)所載の「深川芭蕉庵図」ほか、計9枚の図入り解説文が記されている。

旧新大橋の石柱(13:12)

 隅田川に架けられた三番目のこの橋が、なぜ「新大橋」なのか。一番目の橋が奥州への往来のために架けられた千住大橋だが、これは江戸の中心からはかなり離れている。二番目の両国橋が単に「大橋」と呼ばれ、その次にできた大橋だったので、「新大橋」と呼ばれたようだ。

 明暦3年(1657)の大火(俗に言う振袖火事)の後、本所深川を埋め立てる市街地造成工事が進み、元禄6年(1693)12月7日には隅田川に橋が架けられた。この橋は、万治2年(1659)に架けられた大橋(両国橋)に対して、「新大橋」と名づけらた。その位置は、現在の橋よりやや下流の芭蕉記念館の近くだった。テラスではなく、万年橋の通り、川寄りの歩道を歩くと、記念館と万年橋の間に、旧新大橋の石柱が区によって建てられているので原位置が確認可能である。

 当時、芭蕉は、弟子達によって再建された深川芭蕉庵に住んでいた。この庵は新大橋に近く、芭蕉は、橋の完成を大変喜んだと思われ、工事中の橋と、橋に初雪の降った情景をかねて次ぎの句を吟じている。
 
「初雪やかけかかりたる橋の上」

 また橋が完成したとき、

 
「ありがたやいただひて踏はしの霜」

の句を吟じており、この2句は旧新大橋跡の石柱と、新大橋の中央のポール下のブロンズ製レリーフにそれぞれ記されている。

芭蕉稲荷神社(13:17)・・・江東区常盤1-3

 鳥居の奥の境内は甚だ狭いが、小さな社の右に「芭蕉庵跡」の石碑が建てられている。実際の芭蕉庵の位置というのは「この辺り」であることは確かなものの、厳密には正確な位置が特定出来ていないという。

 これは、深川芭蕉庵が芭蕉の没後、武家屋敷になり、幕末から明治にかけて消失してしまい、加えて、大正6年(1917)の大津波の際、元々あった稲荷神社付近から芭蕉が生前愛用していたとみられる石造の蛙が見つかったことから、その地を芭蕉庵跡と推定し、祠に石蛙を祀り芭蕉稲荷としたことによる。この芭蕉稲荷神社境内には、俳聖芭蕉翁生誕百五十年祭記念碑や芭蕉庵跡の石碑があるほか、蛙の置物が数多く見られる。

 松尾芭蕉が奥の細道に旅立ったのは、元禄2年(1689)の春だった。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」と書き出している。江戸深川を発して、「行春や鳥啼き魚の目は涕」と詠んだから、季節は春である。
 さて、芭蕉は多くの門人を輩出しているが、その一生は謎めいている。元は伊賀藤堂家の家臣だったが、23歳の時に武士稼業と縁を切っている。これは敬愛していた主人の早世が原因らしいというが、奥女中との恋愛説もあるという。

 俳諧師を志し、29歳で江戸に出、51才で世を去るまで、何故旅から旅への人生を送ったのか。この間、有力なパトロンとして、芭蕉を支えたのが幕府御用達の魚屋・杉山杉風であり、深川の隅田川に面した屋敷を芭蕉に提供している。庭先には芭蕉が茂っていたので、自らも芭蕉と号するようになったという。
 現在も、芭蕉庵近くには、軒下に草花の植木鉢を並べた家が続いており、下町らしい佇まいが今でも濃厚に漂っている。
 大正時代に、地元の人たちが「芭蕉稲荷」を祀って、旧跡の保存に努めたが、戦災に遭い、昭和30年に復旧されている。

<芭蕉庵跡碑>

 碑には、「史蹟 芭蕉庵跡 昭和五十六年十一月吉日建之」とある。

<深川芭蕉庵跡>・・・東京都指定旧跡

               
芭蕉庵旧址
萬年橋の北詰松平遠州侯の庭中にありて、古池の形今も存せりという。延宝の末桃青翁伊賀の国よりはじめて大江戸に来り杦風の家に入り剃髪して素宣(そぜん)とあらたむ。また杦風子より芭蕉庵の号を譲り受け、これより後この地に庵を結び泊船堂と号す。

               深川芭蕉庵旧地の由来
 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
 ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
 たまたま大正六年(1917)津波襲来のあと芭蕉が愛好したといわれる石像の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
 昭和二十年(1945)戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年(1955)復旧に尽くした。
 しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移し江東区において芭蕉記念館を建設した。
               昭和五十六年三月吉日
                              芭蕉遺蹟保存会


深川船番所跡・・・江東区常盤1-1付近

 小名木川の水路は行徳(千葉)の塩を真直ぐに江戸に運ぶために天正18年(1590)に開削され、江戸の人口増加と相俟ってより一層重要な河川となっていった。その結果、寛永6年(1629)には、ほぼ現在の川幅にまで拡幅され、船舶取締りのために、萬年橋の北・正木稲荷神社の隣(江東区常盤1-1付近)に、「船番所」である「深川番所」が置かれた。しかし、江戸時代に小名木川に架けられていた橋は、「萬年橋」・「高橋」・「新高橋」の3つだけだったそうだ。

 この深川船番所は、「深川御番所」「深川御関所」などと言われ、江戸幕府が河川水運によって江戸に出入りする人や物を検査するために、小名木川の隅田川口に設けた川の関所で、寛文元年(1661)に小名木川の中川口(小名木川と中川[現・旧中川]の交差する番所橋付近[江東区大島9-1付近])に移転し「中川船番所」となり、明治維新まで船の番所として機能した。

 現在、史跡となっている「川船番所跡」と言う名称は、江東区の史跡として登録の際に付けたもので、行政的には正式名称となっている。歴史的にも深川番所・川船番所・深川口人改の御番所、役人は深川船(舟)改之番・深川御関所番などと、史料により様々な名称で登場している。また船と舟についても史料により両方が使用されている。

 川船による旅人通行の改めは厳格ではなかったが、川船に積まれた荷物については極めて厳しかったという。と言うのが、この番所の本来目的が商品の流通状況把握にあったからで、特に重視した物資は米・酒・鮮魚・野菜・硫黄・塩である。米と酒は江戸の米価政策に関わり、生鮮食料品は真夜中の通関を許すほどの気の使いようだった。また、江戸に入る硫黄と、出る塩は、戦略物資として特に重要視されていた。

芝翫河岸跡・・・江東区常盤2丁目の萬年橋から高橋にかけての北岸

 「萬年橋」から「高橋」の北岸を、幕末の頃から「芝翫河岸」と言った。その由来は、歌舞伎役者の二代目中村芝翫がこの辺りに住んでいたからだという。この芝翫は、後に四代目中村歌右衛門になった名優で、踊りも得意だった由。
 歌舞伎舞踊に、喜撰法師があるが、その件に、
「我庵は芝居のたつみ常磐町、しかも浮世を離れ里」という歌詞がある。

 「芝居のたつみ常磐町」は当時の芝翫の住所を指した一種の楽屋落ちの文句である。当時の中村座は、日本橋人形町にあり、芝翫河岸の深川常磐町は、そのたつみ、すなわち東南に位置したからである。

 現在、清澄通り小名木川に架かる高橋の直ぐ北に「二代目中村芝翫宅跡」の解説板が建っている。

小名木川と萬(万)年橋(13:22)

 小名木川最初の橋「萬年橋」の畔に出る。永代橋の「永代」に対抗して「萬年」と名付けられたらしく、広重はその絵に亀を描き込んで「萬年」を強調したという。

深川稲荷(深川七福神・布袋尊)(13:25)・・・江東区清澄2-12-12

 深川七福神の布袋尊を祀る「深川稲荷神社」は、建物と道路の間の小さな隙間にあるお稲荷様である。深川地区では古い神社で、御祭神には宇賀魂命を祀っている。

               
深川稲荷神社(布袋尊)
由来
 深川稲荷神社は、寛永7年(1630)の創建と伝えられています。
 以前は、旧町名の西大工町にちなんで俗に西大稲荷と呼ばれていました。関東大震災(1923)の後の区画整理により町名が変更し、昭和27年頃から深川稲荷神社となりました。
 深川七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。

 この神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から、船の往来が激しく、付近一帯には船大工が住み、造船や船の修繕をしていたのが、元の町名の由来とされている。
 なお、この神社は神官が無住の社であり、町会(清澄町二丁目自治会)によって管理運営されている。

臨川寺(13:32)・・・江東区清澄3-4-6

 深川稲荷の少し南にある「臨川寺」は、京都妙心寺の末寺で、承応2年(1653)に鹿島根本寺(茨城県)の冷山和尚が江戸の小名木川の辺りに草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、正徳3年(1713)に「瑞甕山臨川寺」という山号寺号が許可された。

 この仏頂禅師は、常陸国鹿島根本寺の住職で、鹿島神宮との寺領争いを提訴のため江戸深川の臨川庵に滞在していた。気骨ある禅師とみえ、ついでに幕府にかけあってこの庵にも臨川寺という寺号を勝ち取っている。

 延宝8年(1680)深川に移り住んだ芭蕉は仏頂禅師と親交が厚く、度々参禅に通ったと伝えられ、以来、芭蕉ゆかりの寺として知られる。のち「奥の細道」でも黒羽雲厳寺を仏頂ゆかりの寺として訪ねている。

 境内は極めて狭く、寺門を入るとすぐ本堂があり、普通の住宅のような佇まいである。境内には芭蕉ゆかりの「墨直しの碑」と「芭蕉由緒の碑(由緒塚の碑)」がある。

 「墨直しの碑」は、芭蕉門下の各務支季が、京都の双林寺に建立した師である芭蕉のことを記した鏡塔(or鏡塚)を江戸小石川の神谷玄武房白山が墨跡をここに写し、墨直しの碑を称したもの。

               
墨直しの碑
我師は伊賀の国に生れて、承応の頃より藤堂家に仕ふ。その先は桃地の党とかや。その氏は松尾なりけり。今また四十の老をまたず武陵の深川に世に遁れて世に芭蕉庵の翁とは人のもてはやしたる名なるべし。道はつとめて今日の変化をしり俳諧は遊びて行脚の便を求てといふべし、されば松島は明ぼのの花に笑い、象潟はゆふべの雨に泣とこそ。富士吉野の名に対して吾に一字の作なしとは古しへを、はばかり今ををしふるの辞にて漂泊すでに廿とせの秋くれて難波の浦に世をすみはてにけむ。其比頃は神無月の中の二日なりけり。さるを湖水のほとりにその魂をとどめて、かの木曾寺の苔の下に、
千歳の名は朽ざらまし。東花坊ここに此碑を造る事は頓阿西行に法縁をむすびて道に七字の心を伝ふべきと也。


「芭蕉由緒の碑」には、「臨川寺は、芭蕉が朝夕に赴いた道場で、仏頂禅師が芭蕉の位牌をかいた因縁から、俳人神谷玄武が芭蕉門人の各務支考により京都にある林双寺に建てられた芭蕉墨直の墨跡を写して建立した」という趣旨の碑文が記されている。

               
芭蕉由緒の碑
抑此臨川寺は、むかし仏頂禅師東都に錫(僧などが持つ杖)をとどめ給ひし旧地也。その頃ばせを翁深川に世を遁れて、朝暮に来往ありし参禅の道場也とぞ。しかるに、翁先だちて遷化し給ひければ、禅師みづから筆を染めて、その位牌を立置れける因縁を以て、わが玄武先師、延享のはじめ、洛東双林寺の墨なをしを移し、年々三月にその会式を営み且、梅花仏(各務支考)の鑑塔を造立して東国に伝燈をかけ給ひし、その発願の趣意を石に勒して永く成功の朽ざらん事を爰に誌すものならし。


清澄(きよすみ)公園(13:35)・・・江東区清澄2-2

 西側にある「清澄公園」及び東側にある「清澄庭園」の地には、元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と伝えられるが、真偽の程は不明である。享保期(1716~36)には、下総の関宿藩主久世大和守の下屋敷になり、ある程度の庭園が築かれたと推定されているが、明治11年(1878)、荒廃状態だった邸地を三菱財閥創業の岩崎弥太郎が買い取り、社員の慰安並びに賓客接待のための庭園造成に着手し、同13年(1880)に一応の竣工をみて「深川親睦園」と名づけられた。

 その後、三菱の社長を継いだ2代目岩崎弥之助が庭園の泉水に隅田川の水を引き込んで大泉水を造ったり、周囲には全国から取り寄せた名石を配するなどの改造を加え、明治24年(1891)に回遊式築山林泉庭園としての完成を見ている。
 なお、1889年(明治22年)には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による立派な「西洋館」が建てられていたが、 関東大震災で「日本館」と共に焼失している。

 その後、大正12年(1923)の関東大震災で大被害を受け、邸宅も焼失してしまったが、図らずも近隣住民の避難場所となって大勢の尊い人命が救われた。これを受け、三菱3代目社長の岩崎久弥は、1翌大正13年(1924)に東京市(当時)に庭園の東半分を公園用地として寄贈し、東京市は「大正記念館」の移築(1929年5月竣工)や「深川図書館」の新館舎建設(同年6月竣工)等の整備を進め、昭和7年(1932)7月24日に「清澄庭園」として開園するに至った。
 更に昭和48年(1973)には、残る西半分の敷地を東京都が購入し、翌年から整備を始めて、昭和52年(1977)に「清澄公園」として追加開園するに至ったものである。

 面積は34,921㎡で、東側にある「清澄庭園」に比べると小さいが、芝生広場、パーゴラなどがあるほか、中央の広場を囲むように種々の樹木が植えられており、桜、金木犀ほか、季節によりいろいろな風情を持つ憩いの場になっている。  また、池には季節により水が満た、いろいろな鳥もいるほか、譬えて言えば街道歩きの時にどこかで見たような常夜燈風の形の江戸風の時計台もある。

清澄(きよすみ)庭園(13:38)・・・江東区清澄2・3丁目

 こちらの「清澄庭園」は、泉水・築山・枯山水主体の「回遊式林泉庭園」になっている。 こうした造園手法は、江戸時代の大名庭園に多く用いられたそうだが、明治時代の造園にも受け継がれ、この清澄庭園によって近代的完成をみたとされている。

 入園料は一般及び中学生が 150円で、65歳以上は70円である。
 また、こちらの庭園の方は、昭和54年3月31日に東京都の名勝に指定されており、主な見どころは以下のとおりである。ボランティアの人たちによる園内の説明も時間を決めて行われている。

<泉水>

 広い池に三つの中島を配しており、島や数寄屋造りの建物、樹々の影が水面に映り、景観上この庭園の要になっている。往時には隅田川から水を引いていたので、潮の干満により池の景観が微妙に変化したと言われるが、現在は雨水で賄われている。

<磯渡り>

 その池の端に、飛び飛びに石を置かれていて、その石の上を歩けるようなっている。広々とした池の眺めを楽しめるのみならず、歩んでいくにつれ見えてくる景観が変るよう工夫されている。

<涼亭>

 池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの「涼亭」の建物が、この庭園を日本情緒豊かなものにしている。この涼亭は、明治42年(1909)国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたものの由。

 関東大震災と太平洋戦争の戦火のから免れたが、昭和60年度に全面改築工事を行い、現在、集会場として利用されている。また、平成17年には「東京都選定歴史的建造物」に選定されている。

<芭蕉句碑>

 
「古池や かはづ飛び込む 水の音」
 松尾芭蕉の最も有名なこの句を刻んだ石碑が、園内に建てられている。

<大正記念館>

 大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移設したもの。しかし、最初の建物は戦災で焼失したため、昭和28年に貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建、平成元年4月に全面的に改築されました。集会場として利用できます。

<名石>

 伊豆磯石・伊予青石・紀州青石・生駒石・伊豆式根島石・佐渡赤玉石・備中御影石・讃岐御影石など、園内には沢山の庭石(全部で55ある由)が置かれているほか、敷石や橋や前述の磯渡りの石など、園内には無数の石が配置されており、恰も「石庭」の観を呈している。これらの石は、岩崎家が自社の汽船を用いて全国の石の産地から集めたものである。

<富士山>

 園内で最も高く大きな築山で、関東大震災以前はこの築山の山頂近くには樹木を植えず、さつき、つつじの灌木類を数列横に配して、富士山にたなびく雲を表現していたと言われている。

<渡り鳥の飛来>

 冬を目前にした季節になると、ここ清澄庭園には、北から沢山の渡り鳥が越冬しにやってくるという。冬の寒い朝、静まり返った池の水面に沢山の水鳥が浮かんでいる様は、さながら野鳥の楽園のような景観を呈するという。

海辺橋と仙台堀川(13:55)

 「海辺橋」で「仙台堀川」を南へ渡ると、深川一丁目である。時代小説にもよく出てくるこの「仙台堀川」の名前の由来だが、北岸にあった仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来し、「仙台堀」とも呼ばれていた。以前は砂町運河(小名木川~横十間川間)、十間川(横十間川~大横川間)、仙台堀川(大横川~隅田川間)と分けられていたが、昭和40年(1965)の河川法改正で一つに纏められた。

採茶庵(さいとあん)跡(13:57)・・・江東区深川1-9付近

 「仙台堀川」に架かる「海辺橋」を南に渡った右の袂に記念碑が建つのみになったが、元禄2年(1689)3月27日に、芭蕉がここ採荼庵から「奥の細道」に旅立っている。正確には、仙台藩蔵屋敷があったことから仙台堀と呼ばれていた現・仙台堀川に浮かぶ船に乗り、隅田川を遡って千住に向かったのである。

 「採荼庵」は、芭蕉の門人鯉屋杉山杉風の別宅で、杉山家の記録によれば、元木場平野町北角で、間口27m、奥行36mの屋敷だったというが、正確な場所は特定されていないものの、仙台堀川にかかる海辺橋付近だったと言われている。

 芭蕉はこの「奥の細道」の旅出立前に、それまで住んでいた隅田川と小名木川の合流地点の岸辺にあった芭蕉庵を手放し、門人であった杉山杉風の別宅に厄介になっていたのである。採荼庵に芭蕉を住まわせた杉風は、日本橋で幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えていた。

 採荼庵の脇から仙台堀川に沿って西に向かって「芭蕉俳句の散歩道」が設定され、芭蕉の句が紹介されている。

滝沢馬琴生誕地(14:02)・・・江東区平野1-7付近

 「清澄庭園」の道を隔てた東側に、「滝沢馬琴誕生の地」解説板が建っており、その下に、山と積まれたブロンズ製の南総里見八犬伝全巻があるのは異色の光景である。この大長編小説は、文化11年(1814)から書き始め、天保13年(1842)まで28年を要したと言われ、亡くなる6年前頃まで書き続けていたことになる。

               
滝沢馬琴誕生の地(平野一-七・八付近)
 江戸時代後期の小説家。明和四(1767)年六月九日、旗本松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の邸内で生まれ、嘉永元(1847)年十一月六日、八十二歳で病没しました。名は興邦、曲亭馬琴、著作堂主人などと号しました。

 安永四(1775)年、九歳で父親と死別し、その後は、松平家の孫の遊び相手として一家を支えていましたが、同九(1780)年、十四歳の時に松平家を出ました。門前仲町に住み、文筆で身を立てようと、

武士の身分を棄てて下駄屋に婿入りし、家業の傍らるべく、寛政二(1790)年山東京伝のもとに入門しました。翌年正月に処女作として、京伝門人大栄山人の名で黄表紙(尽用而二分狂言)を発表しました。以後、儒教思想に基づく教訓・因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著し、読本作家の第一人者と称されました。
 天保五(1834)年ころより眼を患い、晩年は失明しながらも、口述・代筆で著作を続けました。読本・黄表紙から随筆にいたる迄、約四七〇種にものぼる著作を残しています。
               平成九年三月
                              江東区教育委員会


本立院(14:04)・・・江東区平野1-14-7

 日蓮宗の「妙栄山本立院」は、道路に面し、本堂は鉄筋コンクリート造りで大きな屋根が見事である。間宮林蔵の墓がある。右に庫裏、その墓は共同墓地にあるが、境内右手に探検家間宮林蔵の碑が建てられている。

 間宮林蔵は、茨城県の出身で幕府役人となり、伊能忠敬の北海道探検に随行し測量術を学んだ。樺太探検の翌年に間宮海峡((タタール海峡)を発見し、世界の地理学者の知るところとなった。著書に「東韃紀行」「北蝦夷図説」などがある。

 晩年は、深川蛤町(門前伸町付近)に住み、65歳で没し、本立院に葬られた。墓自体は本院より離れた場所にある。

霊巌寺(江戸六地蔵5番)(14:08)・・・江東区白河1-3-32

 徳川家康・秀忠・家光の信頼のあった雄誉霊巌が、寛永元年(1624)、隅田川河口を埋め立てて造られた「霊巌島(現在の中央区新川)」に建立された寺院で、深川に移ってきたのは明暦の大火(1657)の翌年=万治元年(1658)とされている。 正式名は「道本山東海院霊巌寺」と号する浄土宗の寺院である。

 境内に入って本堂左手には、老中田沼意次の後を受け、陸奥白河城主から老中に抜擢され「寛政の改革」を行った松平定信の墓所(昭和3年国指定史跡・施錠状態)が損傷されずにあるほか、江戸街道筋の入口に六体造立した銅造地蔵菩薩が現存している。

            
東京都指定有形文化財(彫刻)
               銅像地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)
 像の高さは二・七三メートル。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得て、江戸六地蔵の第五番目として、享保二年(1717)ごろ建立されたものである。製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。
 蓮台には数ヶ所湯の廻らなかったところがあり、造立銘文はこれを避けて刻まれている。また、顔や肩などには金箔が残っている。
 なお、江戸六地蔵はつぎのとおりである。
  品川寺 品川区南品川三丁目
  太宗寺 新宿区新宿二丁目
  真性寺 豊島区巣鴨三丁目
  東禅寺 台東区東浅草二丁目
  永代寺 江東区=消滅
               平成十九年三月一日
                              東京都教育委員会


               
霊巌寺(松平定信墓)
由来
 松平定信は、江戸中期の陸奥白河(福島県)藩主であり、天明7年(l787)老中となりました。
 定信が行つた政策は、寛政の改革といわれ、天明の打ちこわし後の江戸の秩序回復に努めました。とくに七分積金の制度は、町方入用を節約させ、不時の備蓄にあてたものです。明治には、東京府の公共事業に役立ちました。
 この霊巌寺にある墓は、昭和3年に国の史跡に指定されています。


 松平定信の改革は極度に厳しかったため、「白河の清きに魚の住みかねて 元の濁りの田沼恋しき」と迄歌われたが、江東区白河の地名の由来になっている。

 また、霊巌寺は、桑名藩の菩提寺でもあり、本堂左手にある墓地に桑名藩抗戦の責任をとった森常吉
(注)の墓所がある。森の墓碑は墓地の左奥にある。

(注)森常吉・・・文政9年6月12日(1826年7月16日)~明治2年11月13日(1869年12月15日)

 幕末の桑名藩士で、戊辰戦争時、上野戦争に参戦後、同藩士関川代次郎らと共に徹底抗戦派の藩主松平定敬を護衛して蝦夷地へ渡航。新選組に入隊し、箱館戦争に参戦した。箱館戦争の敗北が決まると、桑名藩は新政府軍の追及を受け、森は桑名藩の全責任をとるべく、明治2年の釈放後、自害。享年44歳。墓所は三重県桑名市の十念寺にある。

深川江戸資料館・・・江東区白河1-3-28

  
---大規模改修のため平成21年7月1日~22年7月23日まで休館中---

 昭和61年オープンの「深川江戸資料館」は、江戸時代における深川佐賀町の町並みを再現した展示室や、小劇場・レクホール等を備えた文化施設で、江戸深川に関する歴史・民俗の展示、また文化活動の場の提供等に努めている。
 「江戸の深川」の再現施設であり、往時へタイムスリップ可能なよう、当時の長屋・舟宿・火の見櫓等を再現している。加えて、当時の生活で使用していた道具類をも設置しており、見学者は実際に建物に入り込んで、そうした道具類を手にして、「八っつぁん熊さん」気分を味わえるようになっている。さらに、当時の生活ぶり再現は、照明による朝~昼~夜の時間の推移や、そこに登場したであろう様々な生活音の音響演出等によって演出されている。

 江戸幕府の安定、文化・経済の江戸集中等に伴う急速な大都市化進行に伴って不足する土地不足解消のため、埋立事業による宅地開発候補地として、隅田川(大川)対岸にあった深川地区が選択された。
 明暦の大火(1657)後は更に活発化し、埋立て・掘割り開削を主とした開発は、幕末期には木場・越中島までの広い範囲にわたって都市形成されていった。日本橋・神田・銀座等の既成市街地に近く、大川の海運(当時の物流の主流)と相まって、倉庫業や問屋・材木屋(木場)が集積し、そこに働く職人の町屋が形成されていく。また、富岡八幡宮や永代寺・三十三間堂等の寺社門前町を中心とした行楽地としての賑わいも見せていき、当時から「行楽+生活+物流動線」という要件が確立されていった。規模的に言えば、現・江東区の雛形が既に完成していたと言える。

 その幕末の深川、時は明治維新の僅か20数年前、天保も末期の頃(1842年)の江戸・深川佐賀町下之橋の橋際一帯を、当時の沽券図(土地家屋の間口・奥行・価格・地主名・家主名等を記入したもので、売買時の参考価格になった)を参考に再構成し、典型的な情景に集約して実物大に再現したのがこの資料館なのである。つまり、江戸≦深川であり、当時の深川コミュニティの認知を通じて江戸後期の庶民文化を認識できるという仕組みになっている。

猿江船改番所跡(14:36)・・・江東区猿江1-1付近、小名木川と大横川の交わる北東角

 船番所は、海の関所であり、正式には、「番所」と呼ばれており、深川番所・中川番所・猿江船改番所・船見番所(現中央区新川2)・御船手番所(永代橋付近)・浦賀番所・下田番所(須崎港 遠見番所)・下田番所(大浦)などがあった。

 「猿江船改番所」は、「中川船番所」とは別に、元禄から享保期(1688~1736)頃に設置され、川船行政を担当する川船改役の出先機関として設置されたもので、場所は「小名木川」と「大横川」の交わる北東角にあった。なお、現在は大横川を挟んだ小名木川との東西角に、江戸情緒たっぷりの木製常夜燈が設置されており、恰も行き来する船の目印になっていた様が再現されている。

 幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入する船には、 川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課されたが、猿江船改番所は船稼ぎの統制と年貢・役銀の徴収と極印(証明)等の検査をしていた。

 小名木川に架かる「新扇橋」の猿江側の脇に解説板が建っている。

               
猿江船改番所跡(猿江一-一付近)
 猿江船改番所は、小名木川と大横川が交差する所の猿江側に、元禄から享保期(1688~1736)頃に設置されました。
 小名木川は、江戸への物資輸送の重要な交通路であったため、とくに江戸の町を守る必要上、江戸時代の初め、万年橋北岸に通船改めの番所が置かれました。その後、中川口へ移転し、中川船番所として利根川水系や房総方面と江戸の間を航行する川船を取り締まっていました。猿江船改番所は中川番所とは別に、川船行政を担当する川船改役の出先機関として設置されたものです。
 幕府や諸藩の荷物を運搬し、江戸へ出入りする船には川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていました。そのため新たに船を造ったり、売買によって持ち主が替わった場合などは届け出が義務づけられていました。猿江船改番所の仕事は船稼ぎを統制することにあり、こうした年貢・役銀を徴収したり、川船年貢手形の極印の検査を行っていました。
 この他江戸市中では、浅草橋場(台東区)に同様の番所が設置されていました。
               平成六年三月
                              江東区教育委員会


扇橋閘門(こうもん)(14:41)

 新扇橋と小名木川橋の間は、地図で見ると狭くなっており、間に2つの閘門がある。この辺りは昔から工場地帯だった関係で地下水を大量に汲み上げたのが原因で地盤沈下を起こした所で、元々、ゼロメートル地帯と言われる所だ。

               
水害のない町に  扇橋閘門
 隅田川、荒川、東京湾に囲まれた江東三角地帯と呼ばれる地域は、地盤沈下により、その大半が海抜ゼロメートル以下となっています。中でも、横十間川を境に東側の地域では特に地盤が低くなっているため、木下川排水機場から荒川へ排水作業を行うことで内部河川の水位低下を図っています。
 このため江東三角地帯の中央を流れる小名木川では扇橋閘門の東側地域と西側地域での水位が異なります。市側は東京湾の満干の影響を受けて2m近く水位が変化するのに対し、東側は排水作業により常に低推移に保たれています。
 扇橋閘門は、水位差ができた河川の境界を、船舶が通行できるように設けられた施設です。前後2つの水門を用いて水位を調節して船を通過させています。

               扇橋閘門
 江東区は、東側が地盤が低く西側が高い地形になっています。そこで昭和46年策定の江東内部河川整備計画では、東側を常に水位を一定に保つ水位低下区域としてまた西側の感潮部を耐震区域として整備をすることになりました。
 この閘門は、両区域の接点に当たる小名木川の中間に位置し、水位差を調整して船舶の航行を可能にするための施設です。30億円の事業費と5年3ヵ月の歳月を費やして昭和52年に築造されたものです。この方式は、パナマ運河と同じです。


(注)閘門とは・・・(大辞林による)
 ①運河・放水路なとで水量を調節するための水門
 ②水位の高低差の大きい運河や河川などで、船舶を通過させるために水をせき止めておく装置。ロック。


猿江神社(14:48)・・・江東区猿江2-2-17

               
猿江神社由来記
伝承として昔、康平年間(西暦1058~1065年)源頼義が奥州征伐(後三年の役)の頃、この附近の入り江に、男々しき戦武士の屍がただよい着き、不思議にも、其の屍より毎夜光明を発し村人この屍を叮重に葬る。
武士の鎧に源頼義の臣「猿藤太」と記しあり、又懐中より有難き経文一巻がいでたり、よって村人「猿藤太」の頭文字と入り江の「江」をとりて、猿江稲荷と尊稱し、近郷近在の守護神となし、村落の敬神の地として仰ぎ奉り、豊作祈願、病気平癒、悪病退散等の、この地の氏神社として祭り、又それより地名をも猿江村と稱えはじめ現在に至れり
正に猿江の地名これより発祥せり
尚、当時、この村落の氏神社である猿江稲荷神社は、古来より「天照大御神」「宇迦之御魂神」とを御祭神としてゐたが武人猿藤太の御霊をも合せ加え、代々お祀り申し上げて参りました
江戸時代は猿江稲荷神社と稱し隣接せる日蓮宗寺院本覚山妙寿寺の住職が代々守護管理を司どっていたが明治以後、近年になり神保宮司を祭官として招き、合せて村、町の発展と共に町内氏子の者達が、神社の護持運営にあたり現在に引き継がれた次第であります。(以下略)
               昭和六十一年丙寅八月吉日
                              文筆者 堀江侯雄


 旧社殿が関東大震災で焼失後、再建された鉄筋コンクリート造りの社殿は、昭和六年に宮内庁設計技官の設計により当時としてはとても珍しい頑丈優美な造りの神社として築70余年を経過している。
 大東亜戦争での東京大空襲で近隣一帯(深川)が灰燼に帰した時も、当神社は奇跡的に難を免れ、錦糸町の駅からは一面の焼け野原に建つ御社殿が望めたという。
昭和二十一年に伊勢大御神を合祀し、社名を猿江稲荷神社より改称してからも「猿江のお稲荷さん」として親しまれている。一千年以上の歴史をもつとされる由緒深き神社である。

 境内社として、境内右手に「藤森稲荷神社」とその奥に「馬頭観音社」が鎮座している。

<藤森稲荷社>

 創建年不詳ながら、江戸時代初期には本所(墨田区)横網町の幕府御用材木藏に祀られていた。享保19年(1734)に御用材木蔵と共に猿江の地(現猿江恩賜公園)に遷座している。明治時代には宮内庁の御用材蔵に祀られ、四百年余に渡り木材作業に従事する人々の厚い信仰を享けてきた神社である。
 藤の木で社殿が囲まれ、毎年花の咲く時期に祭りが行われていた事がその名の由来とされる。これらの縁起により、木材作業・建築工事関係の信仰が篤い。
 平成13年に、区の有形文化財である石水盤〔貞享三年1686〕・石燈篭1対〔弘化五年1858〕と共に当社境内に遷座されている。

<馬頭観音社>

 当社も創建不詳だが長期間境内に埋没していたのを、昭和60年に「氏神と共に境内の馬頭観音を崇拝せよ」との告言により再び御姿を現され、信仰されている。馬頭観世音の刻印の上に「馬」の絵が彫られ、「馬方」の絵の石と併わせた、大小1対の珍しい石碑が祀られ、研究者から注目されている。
 心願成就・旅行・交通安全、又、競走馬関係者の参拝や、ペットの無病息災祈願も増えている由。

小名木川五本松跡(15:00)・・・江東区猿江2-1 小名木川橋北東角

 小名木川と四ッ目通が交差する小名木川橋の北詰に、右手に二つの史跡がある。まず目に見えるのが三本ほどの松の若木で、曾てはここに江戸時代、丹波綾部藩の九鬼家下屋敷があり、その庭に枝を張った形の良い五本の松老があって、徳川家光が感嘆したことから有名になった。特にその内の一本が枝を小名木川に差し出すように延ばしおり、江戸の名所の一つになって人々に親しまれていた。

 この五本松は広重に描かれたり、元禄5年(1692)秋には芭蕉が五本松に船を出して名月を楽しみ、この場所で舟を止め
「川上と この川下や 月の友」の句を残しており、五本松の解説板と共にその句碑が建てられている。
 また、この松は、明治の末に枯死したが、昭和63年9月に現在の地に復元された。

五百羅漢道標(15:01)・・・江東区猿江2-1 小名木川橋北東角

 その松の木の脇に、高さ129.5cm、文化2年(1805)銘の「五百羅漢道標」が立っている。羅漢寺は「さざえ堂」でも知られた人気寺だったらしいが、今は西大島駅の傍の跡地に二個の礎石と碑が残るのみだとか。道を隔てて新しい羅漢寺がある。

 昔はこの地にあった庚申堂の前に置かれていたようで、造立年代は不明だが、享保16年(1731)2月、寛政9年(1797)2月、文化2年(1805)8月の3回に亘って再建されており、建立したのは猿江町の庚申講の人々である。

 この道標は、大島の羅漢寺や亀戸天神社への参詣者への案内の役を果たしていたほか、小名木川を通行する船や、川沿いの道を往来する人々にとって江戸の境界を示すランドマークとしても機能していた。

 また、この道標は小名木川に向って建てられており、川岸を歩く人々のみならず、船から見えることも意図していたと考えられ、水・陸両路を対象としていたと考えられている。

左行秀作刀旧跡(15:12)・・・横十間川の「三島橋東」交差点傍

 小名木川橋で小名木川を南に渡り、「扇橋2」信号を左折して西進すると、「横十間川」に架かる「三島橋」を渡った所の信号左手に「刀工左行秀作刀旧跡」の碑が建てられている。

               
刀工左行秀作刀旧跡
 左行秀は江戸時代末期復古調の刀工として有名であった行秀は北九州に生れ刀工となり江戸にでて水心子正秀の門人清水久義の弟子となりのち土佐藩の藩工となった 国鉄小名木川駅西側附近にあった土佐藩主山内家の下屋敷において作刀したことがある 行秀の作刀のなかに富賀岡八幡宮北辺においてと銘のあるものは、この下屋敷において作刀したことを伝えている 行秀は明治初年高知県に帰り明治十八年七十四歳をもって死去した
               昭和四十三年十月一日 江東区第二十八号

 高知にも所縁の碑があるそうだが、地元では殆ど知られいないとか。坂本龍馬の短刀も、左行秀の作と言われている。

クローバー橋(15:16)・・・江東区大島1丁目・北砂1丁目・扇橋3丁目・猿江2丁目

 小名木川と横十間川が交差する水路の交差点上に平成6年に架けられた歩行者専用橋であるが、特異なのは、水路の交差点上に「たすき掛け」に架けられ、交差する川の中心部で結合していることで、大変珍しい。四つ葉に因んで「クローバー橋」と名づけられている。
 ここが、行徳船航路における本日のゴール地点の橋である。交わる橋の中央部分は高くなっている。

 南側は横十間川を利用した親水公園になっており、ボートなどで楽しめるようになっている。この横十間川が行政管轄を分ける境界線になっていたらしく、ここ迄が江戸市内であったとか。

釜屋の渡し跡(15:19)・・・北砂緑道公園西端に解説板

 クローバー橋を渡る前に、小名木川南岸沿いに少し東進すると、小名木川に架かるJR貨物線の鉄橋の西辺り、堤防沿いの北砂緑道公園内に「釜屋の渡し跡」の解説板が建っている。渡しは小幡長兵衛によって大正7年7月に始められた。

 日本橋小網町の茅場橋北岸一帯に釜屋問屋が集まっていたことは後に触れるが、ここ小名木川沿いの大島~北砂一帯がその製造拠点だったのである。太田六右衛門と田中七右衛門は共に、小網町で活躍していた釜屋問屋と同郷、近江辻村の出身である。寛永7年(1640)に江戸へ出て、幕府の用品を初めとして鍋、釜、梵鐘、仏像、天水桶などを作った。鋳物で有名な埼玉県川口に移るまでは、ここ大島辺りが鋳物生産の中心地だったのである。

               
釜屋の渡し跡   (大島1-18~北砂1-3)
 釜屋の渡しは, 上大島村(大島1)と八右衛門新田(北砂1)を結び, 小名木川を往復していました。名称は, この対岸に江戸時代から続く鋳物師, 釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があたことにちなみます。写真は明治末ごろの釜屋のようすです。川沿いに建ち並ぶ鋳物工場と, そこで働く人びとや製品の大釜が写っています。
 明治の初めごろにはすでに, 対岸の農耕地などへ往来する「作場渡し」に類する「弥兵衛の渡」がありました。「大島町誌」 (昭和7年刊行)によれば, 大正7(1518)年7月5日に「営業渡船」として許可されています。利用状況は, 平均して 1日大人200人, 自転車5台, 荷車1台で, 料金は1人1銭, 小車1銭, 自転車1銭, 荷車2銭, 牛馬1頭2銭とあります。
 「城東区史稿」(昭和17年刊行) には営業の記載があるので, それ以後に廃止されたものと思われます。
               平成9年3月
                              江東区教育委員会

北砂緑道公園(15:19)・・・江東区北砂1-2先~北砂2-15先

 小名木川南岸の北砂1丁目から北砂2丁目にかけた土手の上に、ソメイヨシノほか20数本の桜並木があり、「北砂緑道公園」と呼ばれている。

釜屋跡(15:22)

 クローバ橋の北東角を北に200m程行った横十間川東岸の「釜屋堀通り」に面した大島橋の北東脇に小さな「釜屋堀公園」がある。ここに「釜屋跡」の石碑が建っており、往時、この付近にかなり規模の大きい釜屋の鋳物工場があったことを示している。

 曾て鋳物工場が並んでいたという釜屋堀通りと小名木川との間は、今では2、3の町工場や倉庫に混じってマンションがある複合地域になってしまい、鋳物工場は見かけない。

 実は、江戸時代、日本橋の小網町2、3丁目には釜屋問屋が多数店を並べていたそうだが、その鋳物製造の工場地帯がここ小名木川沿いにあった。中でも一大勢力を張っていたのが近江辻村(現・滋賀県栗東市辻)出身の鋳物業者である。辻村は野洲川を渡って間もない国道8号線沿いの町で、辻村鋳物の歴史は古く、元明天皇の御代に日本最初の銅銭和銅開珎が鋳造された所と言われている。以来、辻村からは優れた鋳物師が出、江戸時代には江戸・大坂・京など主要各地に出店を開き富と名声を享受したという。

               
釜屋跡
太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は通称釜六釜七と称し寛永十七年今の滋賀県から港区にきてまもなくこの付近に住い釜六は明治時代まで釜七は大正時代まで代々鋳物業を盛大に続けて知られなべかまの日用品をはじめ ぼん鐘仏像天水おけなどを鋳造した
               昭和三十三年十月一日     江東区第十九号

幕府御材木蔵(15:29)・・・江東区毛利2-13

 横十間川の本村橋を西に渡る。
 徳川幕府が本所横網町にあった材木蔵をここに移し、幕府の用材を貯木したという。住吉2-28の「猿江公園」に石標や次のような解説板がある。

               
猿江貯木場と猿江恩賜公園
 この公園の敷地は、もと猿江貯木場といって材木を水に浮かべて、たくわえておくための場所でした。江戸時代の享保18年(1733年)ころ幕府の材木蔵として造られたのが始まりで、明治になってからもそのまま、新政府にひきつがれ、やがて皇室の御用材の貯木場となり、御木蔵と呼ばれていました。大正13年には、その敷地の一部が東京市に払い下げられ、市は、昭和7年猿江恩賜公園として開園しました。これが現在の住吉地区(新大橋通りの南側)です。
 その後も北側地区は貯木場として使われ木曾のひのき材を主に常時2仙石(およそ550立方メートル)の材木を貯蔵していました。
 戦後は林野庁の所管となり、東京営林局管内をはじめ、全国の山々から切り出された材木を浮かべていましたが、地盤沈下などの影響でしだいに使いにくくなり、昭和51年に貯木場は、江東区潮見へ移転し、約250年にわたった猿江貯木場の歴史も幕を閉じました。
 東京都では、この跡地を買収し、猿江恩賜公園毛利地区として整備を進めた結果、昭和58年にはその全域が完成し住吉・毛利両地区合わせて14.5ヘクタールの緑豊かな公園ができあがりました。
               昭和58年4月1日


■ゴール(15:40)

 本日の行徳船航路沿いウォークは、ここ西大島駅でゴールとし、続きは別途行うことにして都営新宿線で新宿経由帰路についた。

 きょうは、正味6時間10分を休憩なし・昼食もなしという、歩きづめの一日だったため、足の疲れは常時に2倍するものがあったが、流石に都内は見どころが多く、ついつい欲張って歩いてしまったが、中身的には大変充実した楽しい一日になった。

 次回は、クローバー橋から以東を小名木川沿いに歩けそうなので、楽しみである。