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 行徳船航路沿いを歩く
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 2010.07.04(日) 第二回目は小名木川のクローバー橋から本行徳の常夜燈まで

当初予定コースを変更

 きょうは、「木下街道」完歩に続いての「鮮魚(ナマ)街道」第1回目を歩く予定だったが、同行仲閧フ都合で来月回しにし、代わりに延び延びになっていた「行徳船航路沿いの道」後半戦(第二回目)を行うべく、街道歩き仲閧ナ地元の村谷氏の参加を得て、西大島駅で待ち合わせることとした。
 調布駅で急行本八幡行に乗換え、途中森下駅で「普通」に乗り換えて9:23に「都営地下鉄新宿線西大島駅」に到着すると、同氏が出迎えてくれる。

五百羅漢跡(9:34)・・・江東区大島4−5

 西大島駅から地上に出ると、「五百羅漢跡」の標石と解説板が建っているのを村谷氏が教えてくれ、早速カメラに収める。
 羅漢寺は東京・目黒が有名で、既に2度ほど訪れているが、元々は「本所五ツ目(現・江東区大島)にあり、徳川綱吉や吉宗が支援したそうだが、埋立地だったため度々洪水に見舞われて衰退し、明治時代に本所緑町(現墨田区)へ、更に目黒の現在地に移転している。

 なお、都営地下鉄新宿線西大島駅近くに曹洞宗の「羅漢寺」という寺があるが、前記の五百羅漢寺とは直接の関係がないようで、建物は豪華で綺麗だが、看板や掲示などは無い。

               
五百羅漢跡               大島四−五
 五百羅漢は、元禄八年(1695)に松雲元慶禅師により創建された黄檗宗の寺院です。禅師は貞享年間(1684〜88)に江戸へ出て、元禄四年(1691)から木造羅漢像を彫り始めました。元禄八年、将軍徳川綱吉から天恩山五百荒羅漢寺の寺号と六千坪余の寺地を賜り、ここに自ら彫像した羅漢像など五三六体を安置しました。
 当寺の三匝堂(サンソウドウ)は、廊下がらせん状に三階まで続いており、その様子がサザエのようであることから「さざえ堂」と呼ばれ、多くの参詣客を集める江戸名所のひとつでした。区内には、五百羅漢までの道筋を示す道標が二基現存しています。
 羅漢寺は明治二十年(1887)本所緑町(現墨田区)へ移り、さらに同四十二年(1909)現在地(目黒区)へ移転しました。
 ここに残る石標柱は、五百羅漢跡を示すために昭和三十三年に建てられたものです。
               平成二十年三月        江東区教育委員会


クローバー橋から小名木川沿いにスタート

 西大島駅通商店街を南下し、「新開橋」手前、小名木川南岸沿いに東進を開始する。クローバー橋以東は、小名木川沿いに歩けるのが嬉しい。村谷氏はこの辺りはお孫さんとの散歩コースでもあるようで、地元の強みでいろいろとガイドしてくれるので、ありがたい。

伊豆大島からの椿の木(9:52)

 クローバー橋から東進を開始して200m弱行くと、川沿いに椿園があり解説板が目に止まった。

               
“椿園について”
 昭和六十一年十一月二十一日、伊豆大島三原山の大噴火によって全島民約一万人が島外避難する有史未曾有の出来事がありました。その際、本区では区立スポーツ会館を避難所として一,〇七四名の避難者の救援に努めました。
 この椿の木は、避難者の皆様から「お世話になったお礼」にと五十本の寄贈がなされたものです。ここに大島島民の厚意を銘記するとともに、伊豆大島の繁栄を祈念して椿を植樹したものであります。
               昭和六十二年三月十日
                              東京都江東区長


釜屋の渡し跡(9:56)

 その先で、貨物専用線が高架で交差する手前の信号の所左手の川岸に、「釜屋の渡し跡」の解説板を見つける。「釜屋」と言えば、前回の歩きの最後近く、クローバ橋の北東角を北に200m程行った横十間川東岸の「釜屋堀通り」に面した大島橋の北東脇にある小さな「釜屋堀公園」に「釜屋跡」の石碑があったのを思い出す。

               
釜屋の渡し跡            大島一−十八〜北砂一−三
 釜屋の渡しは、上大島村(大島一)と八右衛門新田(北砂一)を結び、小名木川を往復していました。名勝は、この対岸に江戸時代から続く鋳物師、釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったことにちなみます。写真は明治末ごろの釜屋のようすです。川沿いに建ち並ぶ鋳物工場と、そこで働く人々や製品の大釜が写っています。
 明治の初めごろにはすでに、対岸の農耕地などへ往来する「作場渡船」に類する「弥兵衛の渡」がありました。「大島町誌」(昭和七年刊行)によれば、大正七(1918)年七月五日に「営業渡船」として許可されています。利用状況は、平均して一日大人二〇〇人、自転車五台、荷車一台で、料金は一人一銭、小車一銭、自転車一銭、荷車二銭、牛馬一頭二銭とあります。
 「城東区史稿」(昭和十七年刊行)には営業の記載があるので、それ以後に廃止されたものと思われます。
               平成九年三月
                              江東区教育委員会


川岸の遊歩道工事

 従前の殺風景な川沿いの道に代わり、小綺麗な遊歩道化工事が順次行われ、景観が良くなったようだが、川面の水流は活発ではなく、透明度もかならずしも良好とは言い難いのが残念に思われる。

大島稲荷神社(10:18)・・・江東区大島5−39−26

 次の「丸八橋」を渡って北東袂の堤防下に降りると「大島稲荷神社」があり、境内に「芭蕉句碑」と「芭蕉像」がある。元禄5年(1692)、芭蕉は深川から小名木川近在の門人桐奚(トウケイ)宅での句会に赴く途中、この神社に立ち寄っている。

   
秋に添て 行ばや末ハ 小松川

 小松川というのは、現在の旧中川と荒川の間にある「大島小松川公園」を横切っていた川で、新川の西端部分にあたっていた。行徳船は小名木川から小松川に入り船堀川へ進んでいった。荒川(放水路)が無かった当時は一本の川で「新川」と呼んだ。

 当神社は慶安年間(1648〜52)の創建といわれている。海辺や小名木川近くのため数度の津波による耕地荒廃や悪疫流行があったため、村人たちが相謀って、山城國の伏見稲荷大社からご分霊を奉遷し、当地の産土神として奉ったのが発端とされ、以来、災除・衣食住・出世開運などあらゆる産業の大祖神として、崇敬されてきたという。

 後に愛宕山勝智院境内に鎮座していた「愛宕神社」と、浅草光月町の柳川藩の下屋敷の邸内社であった「太郎稲荷」を合祀している。太郎稲荷は、柳川藩主立花家の歴代当主の崇敬を受けていた。ある時、当主の嫡男が疱瘡にかかったとき、病気平癒の祈願を行い、霊験があらたかであったことから、流行神として広く信仰を集めた。明治になって、柳川藩邸収公の際、大島稲荷神社に合祀されたという(亀戸の天祖神社境内にも太郎稲荷が祀られている)。

 御祭神は、宇賀之御魂神(うがのみたまのかみ)に加えて、元愛宕神社の迦具土之命(かぐつちのみこと)、太郎稲荷の倉稲能魂命(うかのみたまのみこと)の計3柱で、例祭日は9月19日である。

 境内の「女木塚」の碑は、其日庵社中によって建立されたもので、元禄5年(1692)松尾芭蕉が深川から小名木川を下って門弟の洞渓を訪ねる途中、船を止めて大島稲荷を参拝した際に詠んだ「秋に添て行はや末は小松川」の句が刻まれている。

 また、大島稲荷に合祀された愛宕神社には、享和3年(1803)から4年にかけて小林一茶が住んでいたとされるが、大島二丁目の愛宕神社だという説もある由。

中川船番所跡(10:41)・・・小名木川が旧中川に出る中川口

 日本橋側からの小名木川最後の橋が「番所橋」で、その北詰めに中川関所とも言われた船番所があった。ここで旧中川(元の中川本流)と小名木川、小松川が交差する。対岸を眺めると少し南にずれて、水門跡の建物が見える。近くに見るには、中川船番所資料館の東に架かる中川大橋で、中洲のような大島小松川公園に渡らなければならない。ここは江戸川区で、荒川放水路の開削前迄は、この公園は中川に面する船堀の東端にあたり、小名木川と新川(船堀川)が東西から中川に合流する水の十字路であった。広重の「江戸名所百景」にも「中川くち」として四方に行き交う船の様子が描かれている。

 船番所については、先に「深川船番所」の項で触れたとおり、寛文元年(1661)に小名木川の隅田川口にあった幕府の「深川船番所」が、中川口に移転したものである。「中川御番所」「中川御関所」などとも呼ばれ、江戸幕府が河川水運によって江戸に出入りする人や物を検査するために、小名木川の中川口に設けた川の関所である。

 中川船番所の役人には、寄合の旗本3〜5名が任命され「中川番」と呼ばれて、5日交代で勤めていた。普段は、旗本の家臣が派遣されていた。小名木川縁に番小屋が建てられ、小名木川を通行する船を見張っていたが、主に夜間の通船、女人や鉄砲などの武器・武具の通関取締り、船で運ばれる荷物と人を改めていた。

 「通ります 通れ葛西の あふむ石」と川柳に詠まれた如く、通船の増加に伴う通関手続きの形骸化が見られたらしいが、幕府の流通統制策に基づき、江戸に入る物資の改めを特に厳しく行っていた。

 この中川船番所の置かれていた地は、「江戸名所図会」にも見られるが、帆を張った高瀬船が行く「中川(現・旧中川)」と、番所の手前を流れる「小名木川」、そして行徳へとつながる「船堀川(現・新川)」が交差する地であり、利根川・江戸川(現・旧江戸川)を通じて江戸と関東が結ばれる河川交通上の重要な地点だった。

 江戸時代も半ばに入ると、江戸の後背地である関東各地での商品生産が活発化し、各地に特産物が生まれていった。野田の醤油、銚子の干鰯ほか、穀物・酒・小間物・呉服など地場産業が発展したが、こうした物資は主として河川交通を利用して運ばれたのである。

 特に、大消費地である江戸への米・酒・硫黄・俵物・樽物・古銅類・材木類・生魚・前栽物と、江戸から出る米・塩は「御規定物」とされ、通関には一定の手続きが必要とされた。また御規定物以外の品は、船頭が持つ手形と積み荷の照合を行った上で通船を許した。

 この中川船番所は、海上交通の関所である浦賀番所と共に、江戸を中心とする河川交通の関所として、重要な役割を果たしていた訳である。

 慶応3年(1867)8月、幕府は中川船番所を廃し、国産会所(産業統制機関)の設置を決めたが、幕末の不穏な政情もあり、中川番を引き続き在番させていた。江戸幕府が倒れると、明治新政府は旧旗本や水戸藩士に番所を防衛させ、通船の印鑑検査などを行わせたという。そして、明治2年(1869)2月、明治新政府は全国の関所の廃止を宣言し、同年5月3日に中川船番所は正式に廃止されるに至った。

中川船番所資料館(10:40)・・・江東区大島9−1−15

 江東区により、平成15年3月に昔の船番所の建物を再現し、現在までの水運の歴史や往時の番所を紹介する『中川船番所資料館』がオープンしている。大人200円の入場料が必要だ。

 江戸時代における人工河川:小名木川水運などに関する資料館で、3階に、当時の中川番所が実物大で再現されており、江戸から東京までの小名木川の水運の歴史が展示されている。
 2階には、和竿などの釣具展示室があり、1階では中川番所の再現ジオラマを中心に、出土遺物や番所に関する史料の展示が行われている。

 資料館と道を隔てた東側は四阿のある小公園になっており、その先が「中川大橋」、その直ぐ上流に中川(旧中川)上の高架上に「東大島駅」が見える。

旧小松川閘門(11:16)

 「旧中川」に架かる「中川大橋」で「大島小松川公園」側に渡ると、右手の公園の小高い丘の上に石造りの古い大きな構築物がある。これは「新川」(船堀川)との水門の跡で2/3程が土中に埋まっており、要塞か砲台の遺構を思わせるような厳つい塊に見える。
 これは、新川と小名木川間に荒川放水路(現荒川)を建設した際に、旧中川との間に水位差が生じるたために、間に閘門を設けた跡である。当然ながら、公園の東側の「荒川」側にももう一つの水門があったが、それは現存していないそうだ。

               
旧小松川閘門
 この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。
 閘門とは、水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。
 川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。
 ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流地点でしたが、度重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、その結果水位差が生じて船の通行に大きな障害となりました。
 この水位差を解消させるために正和絵年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、船の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、重要な役割を果たしました。
 本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影が少ないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺の移り変わりを土耐えるのに役立てる予定です。
                              国土地理院
                              東 京 都


小松川千本桜

 荒川側に出て堤防沿いに北上し、都営新宿線の先にある長い「船堀橋」で「荒川」と「中川(現・中川本流)」を渡るが、「荒川」沿いの道は桜木が多く、「小松川千本桜」と賞される桜の名所になっているが、残念ながら時期はずれであり、桜花爛漫の様を想像するしかない。

昼食(11:42〜11:58)

 船堀橋を渡った所で、村谷氏の助言に基づき「船堀駅」方面への斜めの道に入り、駅の傍の蕎麦屋で昼食タイムとする。

法然寺(12:07)

 県道308号線を南下し、「船堀小前」信号を右折して中川方向に戻り、途中左手に入った右手にある「法然寺」に立ち寄る。

               
法 然 寺
 浄土宗で光照山影尊院と号します。元和二年(1616)一蓮社尊誉了雲上人の開山で、本尊は山越の来迎阿弥陀如来像です。
 当寺は、文久三年(1863)十九世昌誉龍定によって書道家塾が開かれ、明治に入って平船学校を開設し、現在の船堀小学校の前身となっています。(寺宝として来迎の阿弥陀如来画像、釈迦涅槃画像を所蔵しています。)
 墓地内には、万治二年(1659)の笠付角柱形庚申塔がありますが、これは区内で最も古い時代のもののひとつです。
 庚申塔は、庚申信仰の信者達によって建立されました。六十日に一度めぐってくる庚申の日の夜に、眠っている人の体内から三尸という虫が抜け出て天帝に罪過を告げるという道教の教えに由来します。
 □笠つき庚申塔(万治二年銘)
 □青面金剛像庚申塔(寛文六年銘)
    ともに、区登録有形民俗文化財
               平成二年三月
                              江戸川区教育委員会

新川沿いの道へ(12:16)

 法然寺の南側から更に南下し、現・荒川及び中川から東進している「新川」北岸」に出る。南岸には後記解説板にも記載されている「新川ポンプ所」が見える。

               
新 川
 新川はかつて船堀川と呼ばれ、その川筋は旧江戸川から現在の古川親水公園を経て中川(旧中川)に通じていました。寛永六年(1629)に三角から新川口までが新たに開削されて、全長約3kmにわたる今の新川が生まれました。
 この新川は、銚子や行徳から年貢米、味噌、醤油等を江戸に運ぶ重要な水運路として利用され、江戸中期には人の往来も増え、成田詣での人々を乗せた行徳船が行き交うようになりました。
 明治時代を迎え、通運丸などの長距離の定期蒸気船が就航し、さらに大正時代には小型の定期船である通船が地元の人々の足となりました。また、この頃の新川は白魚が群れを成し、子ども達は川を泳ぎ廻るなど生活と密着したものでした。しかし、江戸川や中川に橋が架けられ陸上交通が盛んになると輸送の主力は陸に移り、正和十九年(1944)に通船が廃止され、輸送路としての役割を終えています。
 その後は、周辺の地盤沈下により堤防を高くしたため水面を眺めることができなくなるとともに、工業廃水や生活排水が流れる川になってしまいました。そこで、昭和四十七年(1972)に新川が再び私たちの生活に身近かで安全な川となるよう整備計画をたてました。
 まず、正和五十一年(1976)には東西の水門を閉鎖し、川の水位を周辺の土地より低く調整して、安全性を向上させました。そして、旧江戸川から城下用水を取り入れ中川に排水しています。
 一方、下水道計画では新川の中流域にポンプ所を建設する予定であったため、大雨のたびに汚水の混じった雨水が新川に流れ込み、きれいな水質を保つことができない状況にありました。そこでこの計画を変更し、これらの雑排水を直接中川に放流できるよう第一製薬(株)用地を一部買収して現在の位置に新川ポンプ所を建設しました。その後、周辺地域の下水道施設完備により、新川はきれいな水が豊かに流れる一級河川にふさわしい親水空間として甦ることができました。
 平成五年(1993)からは、念願であった堤防の撤去をはじめとする環境整備工事が始まりました。
 かつて舟運路として栄えた河川の姿から様々な歴史を経て、今日ここに再びゆとりある親水河川として生まれ変わりました。
                              平成九年六月


新川西水門(新川入口)

 その新川への入口が「新川西水門」であり、200m程西方にあるが、東進し始める。
 なお、小名木川と旧江戸川を結ぶ「新川」は、荒川放水路の建設によって中川の流れが分断されるのに伴って、中川と荒川とその間の中堤で分断されてしまったので、新川の西端、則ち中川への出口は水門で塞がれてしまっており、風景も途切れている。

<スーパー堤防発想の契機となった新川西水門事故>
http://www.banktown.org/what/ishikawa-setsumei/ishikawa-setsumei.htmより

 新川は江戸時代に行徳から江戸に塩を運ぶために開削された運河で、両岸を結ぶ橋が多く架かっている。また地盤沈下も激しい地域であるため、溢水防止のため護岸の嵩上げもしばしば行われた。これ以上の嵩上げは、橋の嵩上げが必要となり日常生活に著しく不便をもたらすため、両端に水門を造り、中川、旧江戸川の水位が高い時は水門を閉めて漏水や溢水を防ぐ構造になっている河川(注1)である。
 当時、エルニーニョ現象による異常に高い潮位が数日前から続いていたので、潮位が高い時は水門を閉め、中川の水位が新川の水位より低くなったら開ける、水門の自動操作を実施していた。天体潮が満潮に近づいた昭和46年9月5日午前4時頃、水門装置に欠陥があったため突然扉が開き、中川の水が新川に流れ込み、堤防を乗り越えて浸水被害が発生した。
 水門管理員は早朝にもかかわらず、事故に気づき、僅か10分後には手動操作で水門を閉鎖した。目撃証言(注2)によると護岸の上を20−30cmの水深で堤内地に流れ込み、床上浸水120戸、床下浸水600戸、被害額5千万円と言う事故が発生した。
 この事故は堤防が切れたわけではなく、護岸天端を僅か20cm程度上回った水が溢れた為に発生した浸水騒ぎである。しかも10分後には水門が閉鎖されて、浸水の原因になる中川の水は止められたのである。それにもかかわらず、床上浸水約120戸の被害である。
 もし堤防の一部が破堤したらどうなるのであろうか?溢れる水深は2−3mになり、破堤部分を応急的に止めるにも1日程度必要であろう。そうなれば、Om地域であるこの付近は、全て浸水し、この事故のように寝静まっている時刻であれば,将に「寝耳に水」であり、高潮・津波の襲来と同様の人命被害が発生した可能性は否定できない。
 このことは、Om地帯の大河川の堤防は、大地震の時でも浸水被害を起こさない構造にする事が必要であることを物語っている。

注1)東京都江東治水事務所発行「東京都江東治水事務所事業誌」平成7年 p136
注2)江戸川区発行「江戸川区史」plO33


蒸気船の模型(12:17)

 そこで、新川の北岸に沿って船堀地区を東に向かうこととする。住宅街を流れる静かな川である。
 川沿いの歩道脇に、曾て新川を航行した船の小さな模型が3種類、石柱に取り付けられた形で展示されている。中央を占めているのは行徳船ではなく、明治10年(1877)就航の蒸気船「通運丸」で、綿絵にも描かれる程の人気だったが、明治27年(1894)、市川〜佐倉間の総武鉄道開通で舟運は衰え、大正8年(1919)に廃止されたそうだ。

 その先は、<宇喜田橋><新渡橋>と北岸を歩くが、暑い、遊歩道工事中箇所がある・・・などでひたすら先に進む。

陣屋橋(12:33)

 「新渡橋」を左折して一筋北の「陣屋橋通」に出ると、陣屋橋交差点が「一之江境川親水公園」の入口になっていて、曾てここに「陣屋橋」という橋が架かっていたそうだ。近くの八幡神社に次のような由来碑が建っているそうで、神社を探したが見つからなかったので、酷暑下でもあり、断念して元の川沿いの道に戻った。。

紀元1538年(天文7年)の時 北条氏綱と里見義尭とが市川国府台に於いて戦いをされ その後十数年 再び1564年(永禄7年)に北条氏広と里見義弘とが戦いをされ その際当地に北条方が陣屋として在住され 9年後元亀4年9月17日に八幡神社 稲荷神社 白龍神を合祀され 以来陣屋組に住居される方々によって春秋年二回祭典を執行し現在に至る。

 北条氏綱と里見義尭の戦いについては、先だって古代東海道歩きで市川市の国府台を訪れた際に知ったが、北条氏の影響は、船堀のみならず行徳地区でも色濃いようだ。「内匠堀」の開発者が共に北条氏の家臣だったそうだ。

 その先も<三角橋><新川橋><新川大橋><新川東人道橋><新川口橋>と延々猛暑に耐えながら歩き、漸く<新川口橋>で左折して旧江戸川沿いの右岸沿いの街中へと入っていく。新川に架かる橋は、篠崎街道筋の「新川口橋」が最後だが、旧江戸川への出口に「新川東水門」がある。船はここから暫く旧江戸川(曾ての江戸川本流)を北へ遡上し、対岸(左岸)の行徳「新河岸」へと進んで行くのがルートである。

 現代の我々が徒歩でそこ迄辿るには、旧江戸川沿いを1km程上り、左手前に「瑞穂中学校」がある「瑞穂大橋」で新中川を渡り、公園の縁を北東に進んで旧江戸川に架かる「今井橋」を渡らなければならない。

 橋の向こうは愈々千葉県である。対岸(旧江戸川左岸)の行徳街道を歩いて、「常夜燈」のある「新河岸」迄辿り着くには、まだ2km以上の道のりが残っている。

 本行徳の旧江戸川河畔に常夜燈が建つ場所は、曾て江戸時代から明治時代にかけて行徳と江戸を結んだ航路の船着き場の跡であり、今回の我が小さな旅の終点である。。

 曾て行徳船の航路で結ばれ繁栄した行徳は、明治時代になって総武線が通らず、更に大正時代の江戸川放水路の開削に伴って、陸の孤島となって寂れていったが、その行徳を復活させたのが昭和44年(1969)の地下鉄東西線の全通だった。

新川東水門(水門監視所)

<旧江戸川>遡上

稲荷神社(13:15)

 都道450号線の「江戸川五」信号の手前右手にある稲荷神社に立ち寄る。由緒も不明だが、炎天下を歩いてきた我らにとっては、こんもりとした境内の木々の木陰が心地よい。

<瑞恵大橋(新中川)>
<交通公園>(右手)
<旧江戸川>
<今井橋>

今井の渡し旧跡(13:49)

 今井橋を渡って旧江戸川左岸を歩き始める。ゴール(常夜燈)まであと2.5kmの表示を見るが、射すように照りつける陽光を避ける日影もない川岸を北上していく。途中、次のような立て看板がある。

               
今井の渡し旧跡
 寛永八年(1631)一〇月に許可された川幅一一四間(約207メートル)、水幅六〇間(約109メートル)の渡し。 大正元年(1912)初代の今井橋が架けられて役目を終えました。
 連歌師柴屋軒宗長が永正六年(1509)浅草から船に乗り今井の津頭(ワタシバ)で下船、紀行文『東路の津登』で紹介したのが文献上のはじまりです。
 江戸時代になってからは、江戸からの脚は渡しましたが、江戸へ行く客を渡すことは禁じられていました。正保元年(1644)千葉の生実の城主森川半彌の家来男女二人久三郎とイネが駈落ちしてきて禁を犯して今井側へ渡ろうとして捕らえられて船頭とその女房を含めて五名が磔の刑に処せられました。
 今井の渡し場から一丁(約一〇九メートル)下流にあった磔場に久三郎とイネは葬られて、目印の石地蔵が立てられて「ねね悒といわれましたが、何れの頃かの洪水でその所在は不明になったとされています。(『葛飾誌略』)


旧江戸川左岸の押切排水機場

 旧江戸川左岸一帯には「排水機場」が多々ある。文字通り、排水するための施設だが、この地域は土地が低く「自然排水が殆ど不可能」、つまり、雨水などを放置すると溜まる一方で、自然には川へ流れていかないため、人工的に川へ強制排水する必要があるのである。時間雨量50mm程度の豪雨まで排水可能の由である。

 そこで、ある人が行徳地区と、隣の同様に土地の低い浦安市を調べた処、26箇所の排水機場と、3箇所の排水ポンプがあったという。(2001年4月現在)

 行徳街道「押切」信号近くの「押切排水機場」前を通り、実際の姿を見たのは「木下街道」歩きの時だったが、今日もその横を通る。。

常夜燈(行徳河岸航路ゴール地点)(14:19)

 更に延々と河岸沿いに進むと、漸く「木下街道歩き」の際に立ち寄り済みの「常夜燈」がある。一時、平成20年1月〜21年秋まで河岸整備工事の関係で仮置き場に移動していたが、その整備も終わり、元の位置に存在感を示している。護岸が以前より高くなったため、川が見えにくくなったようだ。

 江戸時代、行徳一帯は塩の産地として有名で、その塩を江戸まで輸送するために小名木川・新川が開かれ、日本橋の小網町から旧江戸川のここ迄人口水路が開かれ、その目印として設置されたのがこの常夜燈という訳である。
高さが4.31mもある大きな石造物で、往時の活況ぶりを象徴する唯一の歴史遺産として市川市有形文化財に指定されている。正面の裏面に「日本橋」と筆太く刻み、左側に「永代常夜燈」、右側に「文化九壬申年三月吉日建立」と刻み、台石には「西河岸町太田嘉兵衛、大黒屋太兵衛」ほか21名の氏名が刻み込まれている。

 寛永9年(1632)江戸幕府は下総行徳河岸から日本橋小網町に至る渡船を許可し、その航路の独占権を得た本行徳村はここに新河岸を設置しました。現在残る常夜灯は、この航路安全祈願のために、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が成田山に奉納したものである。なお昭和45年(1970)、旧江戸川堤防拡張工事のため、位置が多少当時の位置から移動された由である。

 この航路に就航した船は「行徳船」と呼ばれ、毎日明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで運航されていた。行徳特産の塩を江戸へ運ぶのが主目的だったが、成田山への参詣路として文化・文政期(1804〜30)頃からは一般の旅人の利用が増え、便数も後記の通り増えていった。渡辺崋山の『四州真景図巻』や、『江戸名所図会』、『成田土産名所尽』などには、この常夜灯が描かれている。

 この常夜燈は、文化9年(1812)江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が、航路の安全を祈願して成田山新勝寺に奉納したもの。正面の裏面に「日本橋」と筆太く刻み、左側に「永代常夜燈」、右側に「文化九壬申年三月吉日建立」と刻み、台石には「西河岸町太田嘉兵衛、大黒屋太兵衛」ほか21名の氏名が刻み込まれている。

               
市指定重要有形文化財 常夜燈   (昭和三十五年十月七日指定)
 行徳は古くから塩の産地として知られ、この塩を江戸へ運ぶために開発された航路も、やがては人や物資の輸送に使われるようになった。この航路の独占権を得たのが本行徳村で、寛永九年(1632)この場所に船着場を設け、新河岸とよんだ。この航路に就航した船数は、当初十六艘であったが、寛永十一年(1671)には六十二艘にふえた。
 これらの船は明け六ツ(午前六時)から暮れ六ツ(午後六時)まで江戸小網町から、ここ行徳新河岸の間を往復したので、行徳船と名づけられ、その間三里八丁(12.6キロ)という長い距離を渡し船のように就航したところから、長渡船ともいわれた。
 行徳船を利用した人たちには、松尾芭蕉、十返舎一九、小林一茶、渡辺崋山、大原幽学など歴史上、または文学史上に著名な人物も多く、特に文化、文政(1804〜30)の頃からは、行徳を訪ずれる文人墨客や、当時ますます盛んになってきた成田山参詣の講中(信者の仲)たちによって、船着場は非常に賑わいをきわめたのである。
 今に残るこの常夜燈は、文化九年(1812)江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の成田山講中が、航路の安全を祈願して新勝寺に奉納したものである。
 高さ四・五メートル、現在の位置は堤防構築のため、多少移動してはいるが、かつて繁栄した時代の新河岸の面影をとどめる唯一のものである。
                              市川市教育委員会


行徳と塩

 行徳や特産品の塩に関わる歴史的出来事などを一覧にすると、次のようになる。

・天正19 1591 家康、東金遊猟の際、塩焼き方を上覧後、行徳の塩浜開発手当金一千両を下付。
・文禄04 1595 秀忠、東金遊猟の際、塩焼き百姓を船橋御殿に召出し、塩浜御普請金三千両下付。
・慶長01 1596 代官吉田佐太郎、塩浜開発奨励のため5年間の年貢を免除。
・寛永09 1632 本行徳村関東郡代伊奈半十郎の許可を得て、江戸小網町間の船路を開通。
・慶安04 1651 津波により、行徳・葛西で民家数千戸流失。
・延宝08 1680 津波のため行徳領内で死者百余人を出す。
・明和06 1768 本行徳に大火発生し、罹災家屋三百軒を数える。
・文化09 1812 日本橋の成田山講中が常夜灯を造立。
・文化13 1816 小林一茶行徳に来遊し。
・明治01 1868 行徳塩浜村々「塩浜仕法書」を作成。
・明治14 1881 行徳町大火で二百七十余戸が焼失。
・明治36 1903 本行徳に塩専売局の出張所設置さる。
・明治38 1905 行徳町に千葉県塩売捌会社設立さる。
・明治44 1911 江戸川放水路の開削着工。
・昭和05 1930 江戸川放水路完工。

帰途へ

 曾て、行徳船で江戸から行徳に着いた旅人が「笹屋」で饂飩を食べた故事に倣い、わが今回の餐歩旅の締めも饂飩を食してみたい処ではあるが、地下鉄東西線「行徳駅」に向かい、駅近くで軽く打ち上げ、高田馬場・新宿経由で帰路についた。