課題曲リスト(2007〜)
 
♪昔、習っていたピアノを大人になってからまた始めました。♪
 
1.《キラキラ星》の主題による変奏曲 K.265/モーツァルト
2.ノクターン第15番 Op.55-1/ショパン
3.ピアノソナタ「悲愴」第一楽章/ベートーベン
(2007 発表会演奏曲)
4.2台のピアノのためのソナタ K.448/モーツァルト
5.2つのラプソディ 第2番/ブラームス
(2008 発表会演奏曲)
6.メイプル・リーフ・ラグ/ジョプリン
(2008 ピアノ発表会演奏曲)
7.ピアノソナタ K.310 第1楽章/モーツァルト
8.即興曲 Op.90 第2番/シューベルト
9.ピアノソナタ K.533 第3楽章/モーツァルト
(2009 発表会演奏曲)
10.ノヴェレッテ 第1番 Op.21-1/シューマン
(2009 発表会演奏曲)
11.幻想即興曲/ショパン
12.前奏曲「鐘」/ラフマニノフ
 


 1   日本のピアノ
更新日時:
2009/10/27 
日本には、実はヤマハ・カワイ以外にもピアノメーカーがある。
昔はたくさんあったけど、量産化の波に乗れず、
大手に吸収されたりして、なくなってしまった。
 
でも、もちろん、独自の技術を貫いて、
今でも作り続けている会社もあって、
しかも大手とは違い、
「全てを手作りにこだわったピアノ」というところもある。
流通量が少なく、滅多に出会えない。
 
大橋幡岩さんは、もともとヤマハの職人だった方。
ヤマハが量産化へ方針転換したのをきっかけに退社し、
自分の理想のピアノを追い求めた方で、
そのブランドがDIAPASON(ディアパソン)。
 
自身もヨーロッパへ渡った天才職人だったそう。
プロジェクトXで取り上げられたそうだ。
こだわりの総一本張り調弦方式は、
国産ピアノでは現在でもディアパソンだけとか。
(グランドの一部です)
その音色は和製ベヒシュタインといわれる。
 
総一本張りは中・高音部に用いられる。
ヨーロッパのピアノには多い。
その製法は、高度な技術と多大な時間を要するそうで、
濁りのないクリアな、澄み切った音色がするそうだ。
聴いてみたい〜
 
しかし、ディアパソンは理想のピアノを追求するあまり、
採算を度外視した経営はついに、
現在のカワイに吸収されることになってしまった。
 
その条件は、大橋氏の理想とするピアノの理念や設計を受け継ぎ、
DIAPASONのブランドを残すことだったそうです。
(T_T)
 

 2   ある楽器店オーナーのお話
更新日時:
2009/07/22 
以前からメールでいろいろ質問させていただいていた、
楽器店のオーナーさんにご意見をきいてみた。
 
すると、ものすごくかっこいいコメントが返ってきた。
以下引用させていただきます・・
 
「音色の好みはまさに十人十色ではないでしょうか。
その部分で評論家の意見をきいても
ご自分の感想と違えばそれは納得できないでしょう。
お客様の感じたままで良いのだと思います。
 
・・・そもそもボストンとはスタインウェイの量産ピアノです。
現在の名門といわれるピアノメーカーをみても、
カールベシュタインは韓国サミック社の傘下となってしまいましたし、
ベーゼンドルファージャパンも破綻しました。(驚!)
名門とはいえ高級品ばかりでは経営は苦しいのは事実です。
 
スタインウェイもコストダウンを図り量産する為には、
カワイの竜洋工場が必要だったのでしょう。
現在では中国製スタインウェイでエセックスまであります。
 
ディアパソンの60周年モデルはものづくりの発想が違います。
大橋幡岩氏のデザインを変えることなく受け継ぎ、
最高の素材で仕上げられました。
しかもカタログにもありますように、
「技師による責任出荷の厳守」とあります。
この技師が乗松技師です。
乗松氏は大橋氏の技術指導を直に受けた最後の技師で、
過日、NHKの響きのスコア(BS)でも紹介された
現代の名工です。
ものづくりに対する気持ちの違いについては明らかです。」
 

 3   谷岡先生
更新日時:
2009/10/27 
モーツァルトってピアノの腕前も天才だった。
 
が、曲は長調が多いし、不協和音とかないし、
楽譜だけ見てると簡単そうに見えるんだけど、
やってみると難しい。
 
「2台のピアノのためのソナタ」も、
右手と左手、違う指運びで、同じ旋律をひいたり(脳トレ・・?)
転調、トリル、左手が主題等、
基本的に、テクニックがないとなかなか難しい。
 
ピアノの先生が言ってたけど、
音大生だった時の試験で、モーツァルトは絶対嫌だったそう。
ああいった古典の曲は、
ロマン派に比べると表現が付けにくいとか。
点が取りにくい曲?らしい。
 
そういえば、見逃していたのだめのドラマの再放送があり、
この「2台の・・」の曲について、原作にはない話があった。
 
原作ではただ
「モーツァルトがピアノのうまい知人の娘との
合奏用に作ったあっかるいサロン向き音楽」
(やっぱりモーツァルトも上級者用に作ったんだ・・・)
となっていただけだったけど、
ドラマでは谷岡先生が千秋にいい事言ってた。
 
「天才モーツァルトが生涯でたった一曲だけ作った2台ピアノ曲は、
才能ある弟子のためだと言われているけれど、
本当は彼女と向き合うことで
モーツァルト自身が純粋に音楽を楽しむ事を
思い出したかったんじゃないのかな」
 
千秋がのだめとの連弾で「小さな感動」を感じた事を
モーツァルトとだぶらせたんだろうけど、
脚本作った人うまいです。

 4   「執念のピアノ」
更新日時:
2009/10/27 
モーツァルトが名ピアニストだった・・・
 
なんでも、人類史に永遠に名をとどめる天才ピアニストについて、
「18世紀のモーツァルト、19世紀のショパン、20世紀のリヒテル」
というたとえが世界の音楽界にはあるそうだ。
 
リヒテル・・・?
 
この間から、あの大橋さんが取り上げられたという
プロジェクトXを是非観てみたいと思い、調べてみた。
 
すると大橋幡岩さんの名前ではヒットせず、
どうにかピアノに関係するものが1件だけあった。
というか、どう考えても他にそれらしい回はなく、
その題名は
「挑戦者たち〜リヒテルが愛した執念のピアノ」
というものだった。
 
リヒテルさんがヤマハのピアノを愛したというのは有名な話だそうだ。
 
つまり、(観てないけど)
ヤマハを飛び出し、
理想のピアノを追い求めた大橋さんの話ではなく、
ヤマハの話なのね。
そこは、やっぱりプロジェクトXだから。
結局、メイドインジャパン、
戦後の日本を支えました!って事で終わらないと。(^_^;)
 
当時のヤマハの前身、日本楽器と、今のヤマハは違う。
多分、大橋さんもそのリヒテルさん用のピアノの為に
協力して、登場したのではないだろうか・・・。
 
考えてみれば、今や世界の「YAMAHA」。
いわばアンチヤマハの大橋さんが出てきて、
かたや頑固に自分の理念を貫いた職人魂と、
かたやコストを下げ量産化体制に入った大企業。
 
(ヤマハも大型の国産グランド等はいいらしいです。
特にヤマハのフルコンサートは
スタインウェイに負けない、もしくはそれ以上の逸品です!)
 
それじゃ、プロジェクトXの神髄、
メイドインジャパン神話が崩れちゃうし。
 
でも大橋さんが本当のメイドインジャパン神話であって、
真のプロジェクトXは
一般の人々には知らされなかった悲しいお話?
 
でもこの回のプロジェクトX、
大変好評だったらしく、
いろいろなサイトでとても感動したと書き込まれている。
 
日本のヤマハの人にお礼がしたいと
飛行機嫌いのリヒテルさんは(千秋かよっ!)
航路と陸路で浜松のヤマハへ出向き、
作業服姿のままのヤマハの人々の前で
2時間あまりにもわたり、
コンサートをプレゼントしたそうだ。
ヤマハの人々は自分たちの作ったピアノに
命が吹き込まれたと、
感動して涙を流したのであった・・・byトモロヲ
♪風の中のすぅばるぅ〜・・
 

 5   サウンドエコロジー(音と生活環境とのかかわり合い)
更新日時:
2009/04/11 
ヤマハの「音の手帳」というパンフレットをもらってきた。
その内容がちょっと興味深かった。
 
私達の周囲には騒音があふれている。
たくさんの車、テレビ、携帯電話、駅のアナウンス、電車・・・
 
そんな中、
「人間の耳は雑音に慣らされると、
音に無感覚になり、
真の音楽の良さを味わえなくなるのではないか・・・?」
というものだ。
 
そういえば子供のころ、大きな幹線道路から
3軒ほど入った所に住んでいたので、
夜は車の通る音がかなり聞こえる環境の中で眠っていた。
それから何度か引越をしたけれど、
線路の近くで、電車の音がよく聞こえていたりとか、
隣がガソリンスタンドという時もあった。
オーライオーライと言う人の声、
ゴーッという音、
何かのけたたましい歌・・・
うるさくて、夏は窓を開けていると
テレビのボリュームを上げないと、よく聞こえないくらいだった。
 
ところが数年前に購入した現在のマンション、
怖いくらい、夜は全くの静寂に包まれている・・・
たまたまマンションの中でも奥まった場所にあり、
また周囲も住宅ばかりで、
四方には道路がない。
 
夜の静けさは都内とは思えない。
遮光カーテンの寝室はまさに、
何の音も聞こえない暗黒の世界なのだ。
ちなみに、そのお陰かわからないけれど、
私は実家にいた時より、かなり身体の調子がいい。
 
さらに・・・
「ヨーロッパにしばらく滞在すると、
日本で染みついた
人工的な物音が自分の体から次第に抜けていき、
そういう時に音楽を聴くと、
モーツァルトでもショパンでも、
全く違った感じで心にしみこんでくると言います。
おそらく優れた音楽家は、
そうした風土の中から育っていくのでしょう。」

 6   「ライブか、デッドか、それが問題だ」
更新日時:
2009/07/22 
 という、
パンフの中におもしろいサブタイトルがあった。
以下抜粋。
 
「どんな部屋にも、それぞれ固有の音響特性があります。
それを「音場」(おんじょう)と言います。
部屋の形や素材などによって音の反射や吸収の度合いがちがい、
音の響き方も大きく変わってきます。
 
部屋の中でポンと手を叩いて、
その音が大きくはね返ってくるようならライブ、
沈みこんでしまうようならデッドということになります。
 
ライブの典型はバスルーム。
四方をタイルなどで囲んだ小空間では、
音は減退せず、やたらに往復反射し、
ワンワンと歪んだ響きを作り出してしまうのです。
 
一方、カーテン、絨毯、本棚などは音を吸収し、
部屋をデッドにする要素。
例えば「無響室」のような特殊な部屋になると、
ピアノの音もボソボソと、味気ないものになってしまいます。
 
要は、このライブとデッドのバランスを、
いかに理想的な姿に保つかの問題です。」
 
それぞれのピアノの善し悪しの前に、
〜どんな部屋にピアノを置くのか〜
という事が非常に重要なのでは・・・と思っていた。
 
店頭で試弾して、その響きがいくら気に入ったとしても、
いざ自分の部屋に運び入れたとき、
絶対に印象は変わるだろうと思っていたから。
 
なので、カワイの表参道ショールームへ行ったときも、
調律師の人に、設置する部屋の条件を伝えて、
残響の長さや張弦についていろいろと質問してみた。
 
でも結局のところ、
試してみないとわからない。
 
ライブか、デッドか、それが問題ですね。
 

 7   本〜「日本のピアノ100年」 @
更新日時:
2009/04/11 
日本のピアノの歴史ほど面白い工業製品の歴史はない。
そもそもピアノは、工業製品という側面と、
しかしそれは芸術を生み出すものであって、
相反する二面性を持つ不思議な存在だからこそ、
単純にはいかなかった歴史を持つ。
 
創業者の山葉虎楠はピアノに縁もゆかりもない人だった。
モーツァルトもベートーベンもショパンも
全く知らない、きいたこともない、
ただの手先が器用な人だった。
 
そもそも虎楠、ペリーの黒船が来航する2年前に生まれた人。
お父さん、紀州徳川藩の天文係。
大河ドラマに出てきてほしい
・・ぐらいの昔の人なのだ。
 
血気盛んな若者虎楠は、藩意に背いて、
旧幕府側についたことから勘当され、蟄居の身となり、
大阪や東京へ出て、
機械器具の修理を請け負う職人になったものの、
途中賭博で文無しになったりしながら、
結局夢破れて、東海道を西へと向かう道すがら、
たまたま医療器具の修理を頼まれた
浜松病院へ立ち寄ることになった。
 
ひょんなことから浜松に寄り、
ひょんなことからオルガンの修理を頼まれた。
 
そして
「必ず売れる」という思いから
舶来オルガンの模倣製作を始めたのだ。
 
今でもヤマハ、カワイの工場があり、
日本の楽器作りの中心地である浜松は、
別に浜松じゃないといけなかったわけでもなく、
たまたま。
本当にたまたまとしかいいようがない。
 

 8   「日本のピアノ100年」 A
更新日時:
2008/11/03 
虎楠さんは、医療器具の修理の際、
協力を仰いでいた飾り職人の河合喜三郎とともに
(カワイの創始者とは別人)
風琴(ふうきん=オルガン)を分解し、
河合宅の物置で製作を始めた。
 
第一作は、全く音律の違う悲惨なものだったらしいが、
東京音楽学校の校長への紹介状を得て、
批評を乞う為に向かった。
 
これがまたすごい。
当時鉄道は新橋から国府津(こうづ 神奈川県)
までしか開通しておらず、
山葉と河合はオルガンを天秤棒で担いで出発し、
東京までおよそ250キロにも及ぶ東海道を
箱根越えして向かったっていうんだから。
昔の人ってすごい。ハングリー精神力。
 
「明治のこの頃、現代で言えばベンチャービジネスの
可能性がごろごろ転がっていた。
成功への道をたどるには、直感的に先を読んで
ビジネスチャンスを掴む閃き、
ある程度の腕(技術)と才覚、
そしてなにより失敗の連続を乗り越えて実現させる粘り強さ、
仕事に対するひたむきな姿勢が必要だった。
虎楠はその全てを備えており、
一年のうちで休みは一日たりともなかった。」
 
虎楠は社長を退いた後、
グループ企業の事業拡大に専念していたが
無理がたたって64歳で死去する。
その二ヶ月後、後を追うように創業時の右腕だった
河合喜三郎も59歳で他界する。
 
「最初のオルガンづくりのとき、
私財もなげうって事業に協力した河合夫妻には
子供がいなかったため
虎楠は息子を彼らの養子とした。
その際、虎楠はこう述べていた。
『俺が今日のようになったのはお前のおかげだから、
俺のものはお前のもの、
お前のものは俺のものと言う事に思ってくれ。』
また、自宅と併せて河合の家も同じように建てて提供した。」
 

 9   I LOVE モーツァルト
更新日時:
2008/11/11 
石田衣良氏の 「I LOVE モーツァルト」を読んだ。
 
「人生を楽しむ感じ」というところはちょっと気に入った。
 
『みんながあまりにも夢をもたなければいけないと
考えすぎているのではないか・・・
 
普通の仕事を淡々と果たしながら、
自分の人生を楽しむというスタンスもあるはずだ。
 
無理に夢を探して、自分を傷つける必要なんかない。
普通に暮らしていくだけだって
結構大変な世の中なんだから。
 
なんとか暮らしを立てて、
お金を稼ぐだけだってずいぶん立派なことなのに、
なぜそれだけではダメなのだろう。
 
モーツァルトだって夢なんか全然かなっていなかった。
でもそんなに悪くない人生だったのではないか
と考えてみれば、無理矢理夢なんか
持たなくていいんじゃないかと思うことがある・・・』
 
 
 

 10   私の好きなモーツァルト
更新日時:
2009/04/11 
その本の中で、樋口裕一さんという作家が
「私の好きなモーツァルト」というコラムで
2ページだけ書かれていて、
これが・・・、
本当に私ごときが大変恐縮なんですが・・・、
私の感じるモーツァルトと一緒なんです。(>_<)
 
『(弦楽五重奏曲第4番について)
モーツァルトの短調の曲はすべてそうだが、
この曲はとりわけ「悲痛」としかいいようがない。
第1楽章の出だしから、
引き裂かれたような魂の叫びが響き渡る。
 
同じト短調の交響曲第40番よりももっとずっと悲しい。
最初に聴いたとき、
モーツァルトのあまりに大きな悲しみに触れて、
思わず涙が出そうになった。
 
常に本音を隠し、
心の奥の絶望を如実にさらけ出すことを
避けてきたモーツァルトが、
ここで人生の絶望、
生きることの悲しみを叩きつけた、
そのような音楽に聞こえる。
 
第1楽章もさることながら第4楽章がすごい。
第1楽章と同じ悲痛なト短調で始まるが、
途中からト長調に変化する。
 
だがこんな悲痛な長調はないのではないか
と思わせるほどに、悲しい。
 
モーツァルトを聞くたびに、私は、
こんなに美しく、
こんな悲しい長調の音楽を書く人の心の奥の悲しみは
いかほどのものだったのだろうかと、
ふと考えてしまう。』
 

 11   モーツァルトの手紙
更新日時:
2009/04/14 
モーツァルトはたくさんの手紙を遺している。
今日、私達がモーツァルトの様々な研究が出来るのも、
多くの手紙があったからであろう。
 
モーツァルトという人がこんなにも愛されている理由の一つが、
この手紙からものすごくよくわかる。
 
アマデウス(神から愛される者)の名のとおり、
芸術史上最高の天才なのに、
同時に、ものすごく人間らしい一人の人間である。
 
手紙の多くは父、レオポルト宛のものである。
 
次々と即興で作曲する幼いモーツァルトの才能を確信した父は
ヨーロッパ中を旅行して、世に知らしめた。
 
モーツァルトにとって父はマネージャーであり、
よき理解者であり、先輩であり、親友であり、
世界で一番の彼のファンであったと思う。
 
それだけにモーツァルトは様々な感情を手紙で吐露している。
 
あるいはスカトロジー趣味や、
女性に宛てた性的な内容のものもある。
 
しかし驚いてしまうのは、なんといっても、
心を揺さぶられるような、
天才芸術家としての彼の鋭い真理の言葉である。
 
モーツァルトの音楽に驚嘆し、感動し、
またこの彼の分厚い翻訳された書簡集が読める幸せ。
 
モーツァルトの音楽の次に、あるいはそれ以上に
彼自身の実像に迫れるものとして
モーツァルティアンにとっては聖書のようなものだ。
 


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