vol. 9
宏が目を開けると、すぐに目の中に飛び込んできたのは、やつれ果てた母親の姿だった。
疲れているのだろう、彼女は座り心地がいいと決して言えないような椅子に腰掛けており、重いまぶたを閉ざしたままうつむいていた。目じりには年輪をうかがわせる皺-俗に言う『カラスの足跡』-が数本刻まれている。恐らくこの1件で、さらにその皺が増えたであろうことは言うまでもないだろう。
久しく見る懐かしい母の顔に、なんとはなしに、思わず涙が滲んでしまう。
お、母さ、ん・・・。
声に出したつもりではあったが、言葉は霞となって部屋の空気に混じり溶ける。
宏は、懸命に息を吸い込んだ。そして、吐き出すと同時に、
「おかあさ・・・ん・・・。」
呼びかけた。宏をいたわるように布団の上に置かれている母の手に視線をやり、自らのそれを動かさんとする。-が、全神経を刺激する激痛が電流となって四肢に行き渡り、思わず呻き声が出る。
母の手が、ピクリ・・・と動いた。
腫れぼったいまぶたが、細かく震え、ほんの数回まばたきを繰り返して焦点を合わせようと目を細める。小さく欠伸を一つして、やはり小さくため息を一つ、ついた。目じりの涙をぬぐってから、彼女はまだ目覚めることのないであろう息子の顔を見た。
-!!
「宏!!」
母は叫んだ。
彼女は信じられないとばかりに、これ以上開かないだろうと思うほどに目を見開いた。
それもそのはずだ。
目の前の愛息子が、目をあけたのだから-。
彼女は、宏の頬をやさしく包んだ。
これを奇跡と呼ばずしてなんと言おう。
「お、母・・・さ・・ん。」
少年の目からは涙がとめどなく溢れてくる。それは、母に関しても同じことが言えた。
二人とも、後はもう言葉にならなかった。慈愛の涙-、それで十分すぎるほどにお互いを想うことができたのだった。
宏が交通事故に遭ってから、2週間という時間が流れていた。
医者は、すべての手を尽くしていたし、外傷もゆるやかではあるが、回復しつつもあった。
だが、少年は目を覚まさなかった。
両親は、来る日も来る日も足しげく宏のいる病院へ通いつめた。特に母親はほとんどの時間を宏と共にしていた。
そして、変わることなく規則的にリズムをとり続けている電子音のみが織り成すだけで、それ以外の音をこばみ続ける病室のベッドで眠ったまま目を覚まさない我が子を、見守り続けていた。
また、縁のあまりなかった神社にお参りにも行ったし、彼岸や盆くらいしか顔を見せることのなかった墓参りもした。すがれるもの全てにすがりつきたかったのだ。
だが、そんなことも、もうしなくてもいい。
宏は、たった今、目を開けたのだから-。