新選組の軌跡を辿る旅

千葉県立図書館で新選組三昧    2006年8月2日  (ブログ記事を一部修正)

先月の日野図書館に引き続き、今日は千葉県立図書館にお籠もりしてきました。
主に千葉県佐倉市にゆかりのある、良順先生と依田学海が残した史料の中から、土方さんを見つめてきましたよ。


『蘭疇自伝』

「新選組!」にも登場した幕府御典医・松本良順は、天保3年(1832)、蘭方医佐藤泰然の次男として生まれています。
父の親友・林洞海に、そして父が下総佐倉藩主堀田正睦の招きを受けて創設した、蘭方医学の塾・順天堂に学んだ良順は、嘉永3年(1850)、幕医松本良甫の養子となりました。
安政4年(1857)には幕命により長崎へ遊学し、来日していたオランダ軍医ポンペの元で西洋医学を学びます。
文久3年(1863)、良順は江戸に帰り、西洋医学所頭取に就任、将軍家侍医となりました。

良順先生と新選組との関係は、「新選組!」でも描かれていたように、元治元年(1864)10月に江戸に東下していた近藤さんが、良順先生を訪問したときから始まります。
(蘭疇とは、良順の号。)


近藤勇来る

> 名刺を通じ予に面会を乞う。

名刺(のようなもの)が、この頃からあったんですね〜。

この時、家人門人たちは「新選組の局長が来たーーーっ!!」と恐れ慄いたという話は有名ですが、『蘭疇自伝』の記述を見ると、この頃浪人と称して、洋説を講じたり外国人と貿易する者の家に来ては、威嚇したり金銭を強奪したり、求めに応じない場合は家人を斬殺する者たちがいて、新選組もそういう類だろうと思ったのだそうです。
まだまだ江戸では(というか、実は京でも? 苦笑)、新選組が過激な尊攘浪士を取り締まっているということまでは、認知されていなかったようですね。

で、良順先生は怯える家人門人たちに、世間では近藤勇を“暴逆の人”のようにいうけれど、自分はそうは思わない。そのなせるところは大概は道理に適っている、と言って、落ち着かせたと書いています。
自伝は後に記したものなので記憶違いもあるかもしれませんが、この記述を信じるなら、良順先生は近藤さんに会う前から、新選組の仕事を理解してくれていたと考えていいでしょう。
嬉しいことですよね。


新撰組治療

> 歳三曰く、兵は拙速を尊ぶとはこのことなるべし、と。

このエピソード、大好き。

慶応元年(1865)、将軍家茂に従い上洛した良順先生は、近藤さんの招きに応じて西本願寺の屯所を訪れます。
病人や怪我人がごろごろしているのを見た良順先生は、病室を作ることと浴場を設けることを進言。
するとニ、三時(4〜5時間)の間に、土方さんがその両方を整えてみせ、良順先生は大いに驚いたという話ですね。

良順先生は他にも、厨房に残飯があふれているのを見て、豚と鶏の飼育を勧めましたが、

> のち時々(豚を)屠りて食することとせしかば、隊士はこれ先生の贈(おくりもの)なりとて大いに喜びたり。

豚肉が贈り物ですか〜〜。(笑)
そういう時代だったんですね。

さらに良順先生、山崎烝に金創縫合について教えたことについては、

> もと医家の子なり、性温厚にして沈黙よく事に堪ゆるあり。勇の最も愛する者なりし。
> (中略)
> 惜しむべし、この者のち伏見にありて納涼の夕流弾に中(あた)りて死せりと聞く。実に酸鼻の至りと云うべし。

と書いています。
その仕事ぶりでも性格の面でも、良順先生まで惜しむほどの隊士だったんだなぁ、山崎。(涙)


東走

松本良順と榎本武揚とは、親戚(榎本さんが義理の甥)にあたるそうです。
良順先生の姉つるが嫁いだ林洞海。その娘たつが榎本さんに嫁いでいるんですね。
身内だからこそ厳しい目で見ているのか、以前意見が衝突したときのことが尾を引いているのかはわかりませんが、良順先生は榎本さんとどうも合わなかったみたい。

旧幕府軍が続々と江戸を脱出していくくだりで、次のような記述があります。

> 海軍もまた榎本釜次郎艦隊を率いて奥羽に走らんとす。
> (中略)
> 予謂(おも)えらく、この人志(こころざし)壮に気鋭、幕人中やや望みを属すべきも、これを平生に徴するに、惜しむらくは深重に欠くところあり、かつ自信篤きに過ぎ、動(やや)もすれば先入主となるの失ありて、人言を用いず、依って過あるに当たっては、これを諌むるも益なし、今回の挙もまた恐らくは成功し難からんと思いたり。

「恐らくは成功し難からん」ってそんな・・・。(苦笑)

まぁ、そんな榎本評はひとまず置いておいて、親友が次々に脱走していって、「これを棄つるに忍びず、走って生死を共にせん」と欲した良順先生は、弟子たちを連れて会津へと向かいます。


ところで前述の、良順先生が上洛した際、先生は新選組隊士たちを検診してくれたのですが、検診後、先生の代わりに屯所に回診してくれた、南部精一という会津藩医がいました。
良順先生の父佐藤泰然の弟子であり、新選組の小説などにもよく出てくる南部先生ですが、その後どうされたんだろうと思っていましたら、思いがけずお名前を発見!

良順先生が会津に向かう途中、実父のいる佐倉順天堂に立ち寄ろうとすると、南部先生にばったり。
医者の足りない会津に、お弟子さんを借りられないかと訪ねてきたところだったんですね。
そこで良順先生が、「俺が行ってやるよ」と言ったものだから、南部先生は大喜び。
南部先生の先導で、良順先生は会津入りしたのだそうです。


会津に入る

会津では、面白いエピソードが。
(面白いなどと喜んでいられる状況ではないんですけど)

会津は海鮮に乏しくて、滋養のある食べ物は鶏卵しかありませんでした。
そこで良順先生は、耕牛を屠って傷病者に食べさせようとしたんです。
ところが老臣たちが口々に、会津では先祖の代から牛を殺すことは禁じられていると言って、許可を出さなかったんですって。

田畑を耕す大切な家畜ですから、老臣たちの言うことは尤もではあるんですけどね。
でも良順先生にとっては、今は非常時。
話にならん!と、先生は容保公のところに掛け合いに行きました。
すると容保様は先生の話を聞き入れて、翌日には牛数頭を、日新館で治療にあたる先生のところに贈ってくださったのだそうです。

さっそく調理して患者に食べさせようとすると、病気でもなんでもない健康な者たちまで、肉をもらいにやってくる。

> 甚だしきは前にこのことを拒みたる老臣等もまたひそかにその肉を食うに至れり。

良順先生の呆れ顔が目に浮かぶようですね。(笑)

他にも、各方面で戦い傷を負う兵士たちが、銃創を扱ったことのない村医者に治療を受けるため、結局傷が化膿して、衰弱して日新館に運び込まれるという問題もありました。
良順先生はこれも容保公にお願いして、各地の村医者たちを召集し、療法を教えたそうです。
すると、奥羽諸藩の医者が争って会津若松にやって来たといいます。
良順先生の存在が、いかに会津や奥羽諸藩を支えたか・・・。
結局奥羽越列藩同盟は崩壊し、諸藩は次々に降伏恭順していきましたが、医学の面で先生が伝えたものは大きかったかもしれませんね。

そんな良順先生に、容保公は会津を離れるように勧めます。
新政府軍はいよいよ会津に迫っていました。
この時容保様は、先生に小刀一口と掛け軸を下賜されています。


会津を離れた良順先生は、その後仙台に入りました。
ここで先生は旧幕府軍幹部と何度も会合を持ちましたが、どうしても榎本さんと意見が合わなかったんですって。

『蘭疇自伝』にはこの議論の内容が書かれていないのですが、あとでご紹介する『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』によれば、蝦夷地へ渡って徹底抗戦するという榎本さんに対して、良順先生は、今は内戦を避けて一致協力して外国に対して備える時だ、と論じていたようです。
しかし榎本さんは、時勢の何たるかはわかっているが、武士として薩長の奸策に葬り去られることは耐え難いという。

この時の意見の相違が良順先生の中にしこりとして残って、前述の榎本評に繋がったのでしょうか。
あくまで西軍と戦うという榎本さんに、だったら今は西軍がほとんど会津以北にあるのだから、輪王寺宮(奥羽越列藩同盟盟主)を軍艦に乗せて桑名に上陸し、京に上り天子を擁して錦旗を樹てればいい、と言い出す良順先生。

その時、隣りでじっと腕を組み、白皙明眸の顔を思慮深く俯けていた誰かさん。(笑)

(以下、『蘭疇自伝』の記述に戻って)
> 土方歳三曰く、君の所説すこぶる我が意と合す。
> もしこれを公言せば、脱走者はことごとく君が説に同意せん。
> 然れどもこれいたずらに榎本の勢力を損ずるのみにして事に益なし。
> 元来今日の挙は、三百年来士を養うの幕府、一蹶倒れんとするに当たり、一人のこれを腕力に訴え死する者なきを恥ずればなり。
> 到底勝算の必ず期すべきあるにあらず。
> 依って謂(おも)うに、君は前途有用の人なり。
> 宜しく断然ここより去って江戸に帰らるべし。
> (中略)
> ただ我儕の如き無能者は快戦国家に殉ぜんのみ、と。
> 予その好意を謝してその言に従う。

土方さんの、この後半の言葉は有名ですけれども、前半部分にも感動です。
良順先生を立てながら、説得する巧みな話術。
よくこの時期の土方さんは、自分が死ぬことしか考えていなかったとする小説が多いですが、そんなことはない。
旧幕府軍全体を見ているし、きちんと時勢も読めている。
その上で、自分の進むべき道はきちんと心に決めている。

なんていうかね、惚れ直しましたよ、私。(爆)
これを書き残してくれた良順先生に、心から感謝したい。
最後の一行に、良順先生の土方さんへの思いを感じました。
明治半ばになっても「あいつらは・・・」なんて依田学海などに思い出話をしていたらしい、良順先生の気持ちがわかるような気がしますよね。



『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』

これは『蘭疇自伝』や関係資料(新選組絡みの部分は、西村兼文の『新撰組始末記』や子母澤寛の『新選組始末記』、『永倉新八伝』、関係者の談話など)をもとに、鈴木要吾が松本良順の人生を綴ったものです。
かなり脚色されている部分もありますが、読み物としてはめちゃくちゃ面白い。


近藤勇と会見

『蘭疇自伝』のところでも書きましたが、元治元年(1864)10月、松本良順宅に新選組の近藤勇が突然訪ねてきたものだから、奥方もお弟子さんたちも上を下への大騒ぎ。
そしていざ良順先生と近藤さんが対面すると、今度は二人の間で丁々発止のやりとりが展開されます。
開国の是非について、良順先生の意見を聞きに来たという近藤さん。
納得できない場合は良順先生を斬ることも考えていたといいますが、やがては良順先生の見識に感服。

「今日を御縁に近藤を弟分として交りを續けて下さるまいか」
「面白い、松本も男だ、(中略)わしの及ぶ限りお力にならう」

となります。
最後に、玄関に見送りに出た良順先生と近藤さんの会話。

「今夜はどちらへ?」
「会津公の上邸へ宿って居ります」
「それは途中物騒、お氣をつけなさるがよい」
「ははははは、物騒の問屋はこちらで、」
「ははははは、如何にもな、ははははは」

近藤さん、自分で“物騒の問屋”なんて言いますか?(笑)


新選組隊士生活

> 新選組の隊士などから見れば御門主様なぞ西瓜程にも思って居ない。
> 寺門内に大砲二門を据へ付け、朝からドカンドカンと空砲を放って調練を始める。
> 猪は大好物で、絶えずじわじわと煮て食ふのだから佛も坊主も堪ったものでない。
> よくこれで佛罰が當らないのが不思議な位だ。

ここは『新撰組始末記』の記述を膨らませたもののようですが、可笑しいでしょう?
御門主様など西瓜ほどにも思っていないですって。
確かに土方さんなんか、西瓜とも南瓜ともヘチマとも思ってなさそうですよね。


そんな西本願寺の屯所に、慶応元年(1865)、良順先生が来てくださいました。
そして、例の土方さんのエピソード。

「遉(さすが)は新選組の猛者諸君丈けあって事敏捷で御座るな」
「先生、兵は拙速を尊ぶとはこの事です、前衛闘士新選組はちゃんと兵法を心得て居りますからな」
「それでこそ新選組だ、異國兵法にも Better is enemy of Good とあるから僕も早速治療にかからうかな」
「こりゃーしまった、先生は洋兵法を御存じだったのだ、一本参りましたな」

“こりゃーしまった”じゃねーだろ。>土方さん(笑)

この後、旧会津藩士・野出菖雨の談話として、

「南部(精一)の家には近藤や土方がよく来たものだ。近藤や土方は鬼のやうな亂暴者と思はれて居るが、常日はにこにこした温和しい人で、それでよく物のわかった人だった。」

と書かれています。
“にこにこして温和しい人”だったそうですよ。
ニコニコ ニコニコ ニコニコ ニコニコ・・・。
う〜ん、特に土方さんがこんな描写のされ方したことなんて、他にはなかったのでは?


良順囘天の抱圖

仙台での松本良順と榎本武揚との意見の対立、そして良順先生を説得する土方さんの言葉については、『蘭疇自伝』のところでご紹介しましたが、その後に続けて次のような描写があります。

> 榎本は當年二十九歳血氣に隼る猪武者といふ所があるが、土方は實戦百練の士、生死を超脱して居る所があった。
>「歳三は鋭敏沈勇、百事を為す電の如し、近藤に誤謬なきは歳三ありたればなり、 両子を徒らに死亡せしむるは自ら為すと雖も、其罪蓋し順のヨりて逃るべからざる所あらんか」
> 良順の手記の中にこう感無量の事を書いてゐる、土方といふ男は偉かったに違ひない。

この手記の出典が書かれていないのが残念です。
京にいる頃は新選組の衛生面を指導し、江戸に戻ってきてからは金銭面やその人脈で新選組を支援し、近藤さんや土方さんの怪我・総司の病気を治療してくれた良順先生。
自分がついていながら、なぜ二人を死なせてしまったのか・・・。
常に兄貴分として近藤さんと土方さんを支えてくれた、良順先生らしい悔恨の叫びのように聞こえますね。


良順先生は画才もあった方で、先生の描かれた水墨画や達磨絵がこの書籍には挿入されています。
この絵がなかなか味があるんですよ〜。
機会があったら、閲覧してみてくださいませ。



『学海日録』

依田学海は、天保4年(1833)、佐倉藩士・依田貞剛の次男として生まれました。
慶応3年(1867)2月に佐倉藩最後の江戸留守居役となり、情報の収集、他藩との折衝に力を尽くしました。
漢学に秀で、後に森鴎外に漢文を指導したほか、小説・文学論・劇作・劇評・社会時評など多方面にわたって著作があり、明治の文学界に大きな影響を与えた人物のようです。

その依田学海の随筆集『譚海』が、『続新選組史料集』の冒頭に収められています。
伊東成郎氏の解説によれば、譜代藩である佐倉に生まれた学海は幕府への思いがひときわ強かったようで、箱館戦争で幕府に殉じた中島三郎助や伊庭八郎も『譚海』に取り上げているそうです。
そして第4巻の巻頭に取り上げられているのが、近藤勇と土方歳三。

学海が一度だけ会って言葉を交わした、近藤さんと土方さん。
そのときの印象、ゆかりの人々から聞いた話、自分で調べた二人のプロフィールなどが、みごとな筆致でまとめられています。
そんな『譚海』の土台になったのが、彼の日記『学海日録』。
安政3年(1856)2月から明治34年(1901)2月まで、45年にわたる記録が綴られています。
単なる日記に終わらず、演劇論や政治論まで展開されているので、読み物としてもとても面白い資料ですよ。


慶応4年1月16日

佐倉藩の江戸留守居役を務めていた学海は、この日、江戸城で近藤・土方と対面しました。

> 近藤、去月十八日、伏見にて肩に痛手を負へり。
> 歳三は其手の兵を将て伏見・淀・橋本の戦にのぞみ、強の士過半を失ふ。
> しかれども己は死を脱して之に至るといふ。
> 両人も閣老に謁して再征の議を謀るといふ。
> 極て壮士なり。
> 敬すべく重ずべし。

この時、よほど二人のことが印象に残ったのでしょうね。
鳥羽伏見の戦いに敗れた旧幕府軍が続々と引き上げてきた江戸城内は、混乱を極めていたと聞きます。
その中で、二人の存在感と落ち着きに、学海は惹かれたのかもしれません。
『譚海』の中のこの時の描写も、抜き出してみましょう。(『続新選組史料集』より)

> 一男子有り。
> 躯幹豊偉、面色黎黒、布を其の肩に纏い、創をつつ裹(つつ)む者の如し。
> 怪しみ問うに即ち昌宜なり。
> (中略)
> 余、其の人を見るに、短小蒼白、眼光人を射る。
> (中略)
> 仍(かさね)て問うに戦状を以てす。
> 歳三、詳しく之を説く。
> 且つ曰く、『戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を佩び槍を執り、一も用いる所無し』と。
> 其の言質実、絶えて誇張を事とせず。
> 蓋し君子人なり。

『僕、剣を佩び槍を執り、一も用いる所無し』、この土方さんの言葉は有名ですよね。
会津の鶴ヶ城の展示の中にも、引用されていました。
口語に直され、かなりの小説の中にも使われています。
二人の描写には、学海の観察眼の素晴らしさが表れているのではないでしょうか。


慶応4年閏4月10日

学海は京の三条河原で、近藤の梟首を見ました。

> 余これを過ぎ見て慨嘆にたへず。

江戸城中で出会ってから、ほんの4ヶ月。
肩に傷を負いながらも戦意を失うことなく、次の戦について閣老に謀りに来ていた、あの時の近藤さん。
その姿を思い出して、どんなにか残念に思ったことでしょう。


明治5年2月21日

佐倉の栗山牧牛場を訪れた学海は、そこの牧牛師から思いがけず土方の最期について話を聞きます。
竹芝保次郎というその牧牛師は、榎本武揚に従い蝦夷地へわたり、五稜郭で降伏した人でした。

> このものの話にて始めて知りぬ、余が一面の識ありし土方歳三、官軍箱館を陥りし後二ノ股の戦に力を尽し、巳とし五月十一日十二字に関門に戦死す。
> 小腹に銃を受て即死せり。
> 歳三、義気あり、勇猛にしてよく小ヲ以大敵をやぶることしばしばなりき。
> 官軍の兵を用ふること神速にしてつねに敵の背に出しかば、人皆これをおそれしに、歳三ひとり背に出らるるとも懼るるにたらず、前の敵やぶればひっかへして向ふべし、是れ背にあらずして前面になる、といひしと也。

学海は3年近く経って、この時初めて土方さんの死を知ったんですね。
たとえ前後から攻撃されても、前の敵を倒して、すぐに引き返して背後の敵に向かえば、今度はそちらが前面になる。恐れることはない。
いかにも、鬼副長が言いそうなことだわ。(笑)
もし背後に敵が現れても指揮官にこう言われれば、焦りも消えて落ち着いて敵に向かっていけますよね。
土方さんが兵たちに慕われていたというのが、わかるような気がします。


明治21年10月14日

2月に日野市立新選組のふるさと歴史館で見た、松本良順先生の山南敬助切腹目撃談の記載部分です。

> 松本が京師に在りし時、近藤勇が組のもののうち、約に違ひ市中に乱妨せしものの、自殺せしめらるるものを見たりとてかたるに、その人は山南某とやらん水府人なりとぞ。

これは完全に、山南総長ではないですね。
良順先生が他の話とごっちゃにして、記憶していたのでしょう。
とにかく、市内で乱暴狼藉を働いた隊士の切腹に、同席したということらしい。

> 罪に処せしにあらず、自ら悔て死せしものなれば、断首せざる、此党の規約なりと聞えし。

だそうですよ。


明治25年7月9日

学海はこの日、史談会に、阿部井磐根による奥羽列藩同盟の話を聞きに行きました。
このときの史談会速記録は、一部『新選組史料集』に載っていますが、磐根の言葉そのまま(?)の速記録と、学海がそれを聞いて綴ったものと、微妙に表現が違うのが比べてみると面白いです。

奥羽列藩同盟の会議に、榎本武揚が同席。
榎本が奥羽同盟の敗戦の原因は、藩の寄せ集めで、それを束ねる総督がいないからだと言うと、藩の代表はそれぞれ尤もだと言う。
しかし、では総督は誰にしたらいいかという話になると、仙台候だ、米沢候だ、会津候だと、この時に至ってなお、門閥でしか考えられない。
そんな諸藩の態度を、榎本さんは笑ったそうです。
榎本さんが総督に推薦したのは、土方歳三。

> 皆々大にあきれしかど、武揚はさる人物なるに、この言あるは定めてその人なるべしとて、さらば土方ぬしを挙げ給うべしと答ふ。

仮にも藩を代表して来ていながら、榎本さん頼みでしか物事を決められないのが情けないですね〜。
さらにその場に呼ばれた土方さんが、引き受けるからには生殺与奪の権を与えてもらいたいと言うと、磐根ともう一人がそれは藩の意向を聞いてみなければ答えられないと言い出し、一同皆その意見になびいてしまう。
結局、三両日のうちに藩主の承認を得て回答するということになったものの、1ヶ月近くぐずぐずするうちに米沢、仙台・・・と次々に降伏していったというのですから、お話になりません。

さて、この時の土方さんについての描写ですが、速記録の方では、

> 其所で本人を其席へ呼んで見た所が色は青い方、躯体も亦大ならず、漆のような髪を長ごう振り乱してある、ざっといえば一個の美男子と申すべき相貌に覚えました。
> (中略)
> 土方曰く、大任ではありますが素より死を以て尽すの覚悟で御座れば各藩の御依頼は敢て辞しませんけれども是れを受くると受けざるとに於ては一応御尋申さなければならんが、苟(いやしく)も三軍を指揮せんには軍令を厳にせねばならん。
> 若(も)し是れを厳にするに於て背命のものがある時は御大藩の宿老衆と雖も此の歳三が三尺の剣に掛けて斬って仕舞わねばならぬ。
> 去れば生殺与奪の権を惣督の二字に御依頼とならば受けますが其辺は如何なものでありましょうか。

これが、学海の筆にかかりますと、

> 土方歳三を招きてそのよしを伝ふるに、歳三少しも辞する色なく、国の為に死を致さん事もとよりのぞむ所なり。
> されども、軍の勝敗は軍法の行はるると行はれざるとによる。
> もし某の不肖をかへりみず惣督の仰あらんには、軍法のそむくものは歳三が三尺の剣に衂する事をゆるさるべし。
> さならんにはこの命を奉じがたしといふ。

『学海日録』の方が柔らかい調子になっていますね。
史談会自体が、戊辰戦争から20年以上も経って開かれていますから、磐根の話にも多少主観が入っているでしょう。
さて、実際に土方さんはどんな言葉で列藩のお歴々に語ったのかな?


学海は『譚海』の中で、土方さんの最期を次のように綴っています。

> 十一日、歳三、馬に騎り鞭を執り、疾呼し戦を督す。
> 忽ち銃丸有り腹を洞(つらぬ)き、馬より墜ち死す。
> (死に得て何ぞ快なる。昌宜霊有り。健羨(けんせん)に応ず)

会って言葉を交わしたのは一度きりながら、近藤勇・土方歳三と気持ちを通わせた依田学海。
彼の脳裏に浮かぶ土方さんの最後の表情は、やはり満ち足りた微笑みだったでしょうか。

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