新選組の軌跡を辿る旅

日野図書館で新選組三昧    2006年7月27日  (ブログ記事を一部修正)

今日は朝から日野に行ってきました。
JR日野駅を降りて、源さんのお墓も八坂神社も、彦五郎さんとのぶさんのお墓も素通り。
ゆかりの地はどこも回らず、ひたすら日野図書館にお籠もりしてました。(爆)

昨年リニューアルされた日野図書館は、その昔、日野宿の問屋場・高札場があったところに建てられています。

日野宿問屋場高札場跡













日野図書館前に建つ、問屋場・高札場跡の石碑

甲州街道を挟んで、向かい側は日野宿本陣。
図書館の2階に上がると、窓際の一角は全部新選組関係。その隣りは幕末関係。
テーブルと椅子も用意されていて、史料や小説をじっくりと読むことができます。
窓から日野宿本陣を眺めながら、新選組の資料に埋もれる一日。
幸せでしたよ〜。


『新選組隊士山崎丞取調日記』

この日一番の目的は、『新選組隊士山崎丞取調日記』を読むことでした。
平成17年3月31日付で日野市ふるさと博物館から発行されたこの『取調日記』には、横長の帳面状に綴られた原本各ページの写真と、それを活字にしたもの、そして最後に村井益男・日野市古文書等歴史資料整理編集委員の解説が掲載されていました。

『続・新選組史料集』には隊士名簿の部分しか収められていませんが、『取調日記』には他にも興味深い記録がいくつも書かれています。
探索の記録と思われる内容、山崎本人かどうか筆者の詠んだらしき和歌、大坂の両替商の名、幕府の役人名などなど。
それらが覚え書きの体裁で記述されているのですが、その中でも一番ページを割いているのが洋式調練の号令です。

“生兵操ノ図”と題されたそれは、たとえばこんな感じ。
「前へー進メ
 小隊止レ 正面
 小隊後へー下カレ
 小隊ー止レ」
とか、
「一 小隊準備
 二 狙エ
 三 打テ
 打チ方止メ」
とか。
これが延々32ページ(途中、切り取り等あり)にもわたって記録されています。

解説の中で村井氏は、
「この号令による訓練が実際に新選組で行われたかどうか即断はできない。調練の教本を写しとめただけかもしれないからである。もしそうだとしても、新選組で洋式調練が行われはじめた時期にこれが記されていることは興味深い」
と書いています。

実際にこの通りに行われたかどうかはわかりませんが、銃砲訓練のことを記した史料は他にもありますし、こうした形での部隊調練はたぶん行われていたのでしょうね。
刀槍のみの組織ではない、銃隊としての操兵術をこの頃から土方さんが頭に入れていたとすれば、宇都宮でいきなり城を落としても、不思議でもなんでもないですよね。(笑)


他の覚え書きについては、内容は概ね慶応元年(1865)夏前後のことで、たとえば5月に昆陽宿で吉田某を召し捕ったとか、6月25日早朝に屯所を出発して、伏見寺田屋で京屋忠兵衛に会ったとか、新選組の公務の記録にはワクワクしてしまいました。
長州藩士や町人、幕府役人の名のメモ書きは、いったい何を意味するのだろうかとあれこれ想像してみるのも楽しい。

そして、唐突に書き留められている和歌や漢詩。
文字もときどき別人のような筆跡になってみたり。
見ていて全然飽きないんです。
ふと、山本土方が藤原総司に見せていた発句帳を思い出してしまいました。
あれにも発句から新選組の編制案まで、いろいろ書き留めてありましたね。

解説によれば、この史料の所有者のご先祖は近藤勇ゆかりの大坂の商家だそうで、江戸へ退去する近藤から預かった荷物の中にこの日記があったとのこと。
とすると監察方の報告書に準ずる形で、局長に提出されていたものなのでしょうか。
これを知人に預けたということは、近藤さんはこの中の何を残しておきたかったのか。
今後の戦いの参考になる洋式調練の号令か。
それとも山本土方がオダギリ斎藤に勧められて手元に残したように、隊士名簿を残そうとしたのか。
預かった荷物の中の一点ということは、他に何があったのかしら?
いろいろと想像を掻き立てられてしまいました。


『八王子千人同心井上松五郎 文久三年御上洛御供旅記録』

『続・新選組史料集』にも新選組(当時は壬生浪士組)に関する記述のみ掲載されていますが、日野の古文書を読む会研究部会から全文が発行されていました。

「征西日記」を書いた伊庭八郎ほどではありませんが、源さんの兄上も将軍家茂の警護で上洛しながら、観光とグルメでも大忙しだったようです。(笑)
その上、弟弟子たちが頻繁に遊びに、あるいは相談事にやってくる。
さぞや頼もしい兄分ではなかったかと。

読みながらふと思い立って、松五郎さんが京で弟弟子たちと会った日を抜き出してみたところ、こんな感じになりました。
(『続・新選組史料集』から拾うこともできます。)

文久3年
3/06 (沖田林太郎・本多・佐藤)井上が来る。その後、高瀬川「生亀」で酒宴。
3/13 近藤・土方・井上が来て、酒宴。
3/16 壬生寺へ行き、浪士組宿所へ行く。その後、島原へ。
3/19 土方・源三郎が来て、四条芝居茶屋で酒宴。
3/27 近藤・弟・ほか一人、来る。
4/02 大坂にて、芹沢・近藤・渡辺・新見・土方・沖田ら7人と出会う。
4/04 壬生寺で餓鬼踊りを見たあと、浪士組屯所へ寄り酒を馳走になる。
4/08 土方・井上が来て酒宴。「近藤事聞申候、色々」
4/10 土方・井上が来て、「色々談事被致」「芹沢殿心差ヲ認事、弐人共差留て居候而」
4/16 土方・沖田が留守中に来て、置手紙があった。
4/17 壬生へ行き、田中之茶屋で井上・土方・沖田・山南・斎藤に会う。
    「色々内談」し、少々酒宴。
    別記によれば「何分、近藤天狗ニ成候而、他浪士・門人一同集、近藤ニ腹ヲ立テ、
    下拙方へ談事。」
4/20 土方・井上に会い、「色々相談事」
4/22 大坂にて、土方・井上を尋ねる。
    昼頃から沖田・土方・井上と一緒に、新町九軒町吉田屋で座敷見、「天神ヲ買。」
4/24 大坂にて、芹沢・山南・平山ほか一人と酒宴。あとから近藤が来る。
5/22 沖田・井上が立ち寄る。
6/01 祇園社へ参詣。帰路、山南・永倉と会う。
6/02 会津公への用向きの帰り、土方が駕籠にて立ち寄る。
6/03 壬生から3人、来る。
6/05 祇園会の山鉾曳き初めを見てから、壬生へ行く。
6/10 近藤・芹沢から、酒を進物にもらう。
    夕刻、近藤・土方・井上・永倉・野口・佐伯ほか2人と平山が来て、暇乞いの酒宴。

こうして書き出してみて発見したのは、近藤さんと土方さんがほとんど一緒ではないこと。
近藤さんは芹沢さんと一緒のときの方が多いくらい?
すでに局長として忙しかったのかもしれないし、芹沢さんとは同じ局長同士、行動を共にすることが多かっただけなのかもしれませんが、「近藤天狗ニ成候而」と関係があるのかも。


それにしても、土方さんがこの頃、近藤さんのことで悩んでいたのがよくわかる。
こんなにも松五郎さんに相談していたなんて・・・。

あの鉢鉄を預けた、富沢忠右衛門さんが帰郷するときにも、「土方、井上両士は、なお伏見まで送らんと、辞せども聞かず」だったように、同郷の人たちにちらりと見せる土方さんの人懐こさや甘え(けして悪い意味ではなく)。
激動の京で自分たちの居場所を必死に作っていく日々の中、抱えざるをえない悩みや苦しみ、寂しさ。
そんなものが、懐かしい故郷の人たちの前で溢れてしまうんだろうなぁ。
血の通った人間らしさを感じさせる、そんな土方さんが好きです。
いつも源さんと一緒で、山本土方と小林源さんの絆を彷彿とさせますね。

ツボだったのが、6月2日の“土方さんが会津公への用向きの帰りに駕籠で立ち寄る”という記述。
うふふ、新選組副長、公務ですね。
公用方の藩士に報告、あるいは指示を受けてきたのでしょうか。
徒歩じゃなくて駕籠ですよ。
ほぉ〜、いっちょまえじゃん!って思いました。

あとはやはり、4月22日の「天神ヲ買。」でしょう。
土方さんたち、妓楼へ行って“天神”を買ったんですよ。
なんていう源氏名の天神だったのかしら?
小島鹿之助さんへの例の手紙に、「大坂新町にては若鶴太夫ほか二、三人」と書いた、その2〜3人の中の一人かしら?
ふふふ、ちゃっかりしっかり妓遊びは欠かさない、土方さんでした。(爆)



他にチェックした史料は、小島資料館が刊行している『幕末史研究』とか『小島日記』とかですね。
何冊か、じっくり読みたいなぁと思うものがあったので、取り寄せて購入してしまうかも?
会津や箱館関係の書籍も多くて、函館博物館五稜郭分館の展示図録なんかもあったんですよ〜。
思わず、歓喜の声をあげたくなっちゃいました。

とにかくとても一日ではチェックしきれなくて、目を通せなかったものもいっぱい。
昔の『歴史読本』なども、面白そうで読みたかったんですけどねぇ。
もう5時を過ぎてしまったので、諦めました。(家まで2時間かかるんだもん)

史料の中の土方さんに埋もれる・・・。
こんな幸せなことはありません。
あぁ、日野市に住みたいなぁ。
また機会があったら、お籠もりしに行きたいと思います。

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