土方歳三 北征日記

 

箱館でともに戦った戦友たち    ※ブログ記事を編集

                  ※年齢は、明治2年(1869)箱館政府降伏の年のものです。
                   ちなみに土方歳三は、天保6年(1835)5月5日生まれで、35歳。

    * 「新選組!!〜土方歳三 最期の一日」  登場人物より

  榎本武揚   …片岡愛之助さん

榎本武揚は天保7年(1836)生まれで、34歳。土方の1歳下。

江戸の旗本の次男に生まれた彼は、チャキチャキの江戸っ子でした。
昌平黌で儒学を学ぶも、卒業試験で丙の成績を取ったため幕府の官吏にはなれず、江川太郎左衛門の英龍塾で蘭語・蘭学を、ジョン・万次郎から英語を学びます。
さらには堀利煕の小姓として蝦夷探索調査に参加。
その後、長崎海軍伝習所に学び、築地海軍操練所で教え、やがてオランダに留学しました。
文官よりも技官に向くタイプだったのでしょう。

オランダでは蒸気機関学・砲術・科学・軍艦運用術などの他に、モールス信号の技術や国際法なども学び、デンマークとプロシア・オーストリア間の戦争も視察しました。
ちょうど幕府がオランダに建造を依頼していた、軍艦開陽丸に乗って帰国。
帰国後は幕府海軍の軍艦奉行に任じられ、そのまま戊辰戦争に巻き込まれたのです。

写真を見ると八の字の口ひげが印象的な、ダンディーな男ですが、柳川鍋が好きで号を“梁川”にするなど、お茶目な人だったみたいです。



  大鳥圭介   …吹越満さん

大鳥圭介は天保4年(1833)生まれで、37歳。土方の2歳上。

播州播磨の医家に生まれ、藩校で学んだあと、大坂に出て緒方洪庵の適塾で、江戸に出てからは坪井忠益の私塾や江川太郎左衛門の英龍塾で、蘭学や医学・工学・築城・砲学などを学びました。
大鳥はアルバイトとして翻訳の仕事をしていたので、軍事書の翻訳の需要が多かったことから、自然と西洋兵学に精通していきます。
やがてその知識を買われて幕臣となり、幕府陸軍、のちの伝習隊の育成や訓練に当たるようになりました。
そして、その伝習隊を率いて戊辰戦争を戦うことになった訳です。

以前はよく小説などで、実戦経験豊富な土方に対して僻み根性丸出しの、学者肌で根暗な男というように描かれたのですが(苦笑)、ほんとは明るくて前向きで面白い人だったようです。
学生時代のエピソードに、芝居好きだった大鳥は、朝、役者の声色を真似て寮の友人を起こしていたとか。
戊辰戦争から入牢していた頃のことを書いた日記「南柯紀行」は、どこか飄々としていて、平気で泣き言も言うし、でもすぐボケてみせたりして、可笑しいんですよ。
自分の人生も芝居に見立てて、面白がっているというか、面白く読ませようとしている感じがします。

マイペースで開き直り屋で、ポジティブシンキングの楽天家。
経歴こそ違いますが、武士以外の身分から、自分の力で幕府に取り立てられたという点では、土方と同じ。
意外と気の合うところもあったかもしれません。



  永井尚志   …佐藤B作さん

永井尚志は文化13年(1816)生まれで、53歳。

三河国奥殿藩主松平乗尹の次男として生まれ、旗本永井尚徳の養子となりました。
37歳の時に目付となり、勘定奉行、外国奉行、軍艦奉行、京都町奉行などを歴任します。
元治元年(1864)には大目付となり、第一次長州征伐では幕府代表として総督徳川慶勝を補佐。
第二次長州征伐の際に、長州訊問使となって芸州に行きました。この時、近藤勇たちが随行したのですね。
慶応3年(1867)に若年寄に就任し、将軍慶喜の側近として大政奉還を推進します。
鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻った後は、若年寄を罷免され、榎本武揚とともに箱館に向かいました。

交渉能力に大変優れた人物で、その腕を買われて出世していったのでしょう。
旗本から若年寄まで出世したというのは、異例なのだそうです。



  島田魁   …照英さん

島田魁は文政11年(1828)生まれで、42歳。土方の7歳上。

美濃大垣の郷士・近藤伊右衛門の次男に生まれましたが、木曽川奉行だった父が御用材木を流失した責任をとって自刃。母も後を追って自害したため、親戚であった川島嘉左右衛門の養子となりました。
「新選組!」では、人が良いから養子縁組を断れないなどと紹介されていましたが、こんな悲しい過去を持つ魁さんだったんですね。
その後江戸に出て、心形刀流坪内主馬の門人となり、永倉新八と出会い、剣の腕を買われて、大垣藩士・島田歳の養子となりました。
文久3年に脱藩し、浪士組の最初の隊士募集で入隊しています。

大変な巨漢で、力持ち。
箱館で降伏、釈放後は京都へ戻り、剣術道場を開く傍ら、西本願寺の夜警を勤め、生涯新選組隊士たちや戊辰戦争犠牲者の供養をしたといいます。
土方歳三の戒名を肌身離さず身に付けていたともいわれますね。



  尾関雅次郎   …熊面鯉さん

尾関雅次郎は天保15年(1844)生まれで、26歳。土方の9歳下。

和泉高取藩士・尾関文左衛門の次男に生まれ、文久3年6〜8月に新選組に入隊。
元治元年12月、旗役を勤めており、会津以降は指図役を勤めました。



  相馬主計   …小橋賢児さん

相馬主計は天保14年(1843)生まれで、27歳。土方の8歳下。

常陸笠間藩に生まれ、慶応3年に新選組に入隊しているようです。
近藤投降の際には、松浪権之丞の手紙を新政府軍本営に持っていき、捕えられます。
謹慎・釈放後は、陸軍隊に入隊して旧幕府軍に参加。
陸軍奉行添役として土方に従い、また新選組とともに箱館市中警備を行いました。

弁天台場降伏時には新選組隊長に任じられ、五稜郭開城後、榎本たち箱館政府幹部とともに東京に送られます。
明治3年、終身流罪が決まり、新島に流されました。
そして明治5年、赦免されて東京に戻りますが、突然割腹自殺をしたと伝えられています。(殺害説もあり)
真面目な性格だったんでしょうね。突き詰めて考えちゃうタイプというか。



  蟻通勘吾   …山崎樹範さん

蟻通勘吾は天保10年(1839)生まれで、31歳。土方の4歳下。

文久3年6月頃に入隊したとみられる、古参隊士です。
大きな出動で功績を挙げていて、池田屋事件では土方隊に所属し、金十両・別段金七両の報奨金を、三条制札事件でも金千匹宛の報奨金を手にしています。

鳥羽伏見以降、新選組とともに転戦。
慶応4年5月1日、白河口黒川の戦いで、会津藩兵とともに3名で一番槍を入れる活躍をしましたが、被弾。
敵兵が死骸と思って捨て置くほどの重傷を受けながら、刀を杖にしてようやく味方の陣地に辿り着いたといいます。
それほどの重傷の身で、箱館に渡った蟻通。

箱館病院に入院したまま、明治2年2月には、ついに重体に陥りました。
この時新選組の隊士たちが、自分たちで看病したいからと病院に申し入れ、19日に蟻通を退院させて旅宿に移したことが、『函館病院日記』に書かれているそうです。

ちなみに蟻通は、この後奇跡の回復を遂げたのか、中島登の『戦友姿絵』には「五月十一日箱館山の上にて討死す」とあります。
本当に、勇猛果敢な隊士だったのでしょう。



  山野八十八   …鳥羽潤さん

子母澤寛の『新選組物語』によれば、新選組には一時期“隊中美男五人衆”と呼ばれた隊士たちがいて、それは楠小十郎、佐々木愛次郎、馬越三郎(大太郎)、馬詰柳太郎、そして山野八十八の五人でした。
同『新選組遺聞』には、八木為三郎の談として、山野は「愛嬌のある可愛らしい顔で、絣の着物に白い小倉の袴をつけ、高下駄をはいて歩いている姿は、さっぱりとしたなかなか気の利いた侍でした。」とあります。

八月十八日の政変前からの古参隊士で、島田魁や松原忠司には及びませんが、旗持ちの尾関雅次郎、文学師範の尾形俊太郎、会計方の河合耆三郎らと同時期に入隊したと思われます。
元治元年10月江戸での第一次隊士募集後に作られた行軍録では、沖田総司の一番隊に所属し、蟻通勘吾の後ろに名前があります。
きっと、剣の腕もなかなかのものだったのでしょう。

壬生寺裏手にある水茶屋の娘が隊士たちに人気があって、その娘を落としたのが山野だったとか。(『新選組遺聞』)
京を引き揚げる直前に女の子が生まれたそうですが、山野は新選組とともに、鳥羽伏見、甲州、会津、箱館と転戦しました。

箱館の『降伏人名簿』には、山野の名はありません。
新政府軍攻撃の前に離隊して、その後京都へ戻っています。
土方が箱館から逃がしたという話もあるようですよ。



  市村鉄之助   …池松壮亮さん

市村鉄之助は嘉永7年(1854)生まれで、16歳。

鉄之助のエピソードは、もう皆さんご存じかと思いますが、兄辰之助とともに慶応3年に入隊。
兄は流山で脱走したようですが、鉄之助は田村銀之助、玉置良蔵、上田馬之助とともに、少年兵として土方付属となり、箱館まで付いていきました。
新政府軍が蝦夷地に上陸してきた時、土方は鉄之助に自らの形見の品を預け、日野の佐藤彦五郎のところへ届けてほしいと、箱館から逃がします。
7月、鉄之助はようやく日野に辿り着き、最後の任務を全うすることができたのでした。

※「土方歳三北征日記 6」と「土方歳三の故郷 日野を巡る旅」の中でも、このエピソードについ
 て触れています。
 よかったらご覧ください。

とにかく、涙なしでは語れない鉄之助の話。
史実と思われる記載は『聞きがき新選組』の中にありますが、小説としては中村彰彦氏の「五稜郭の夕日」(『新選組秘帖』所収)が秀逸。
生かそうとした土方の思いを受け止めきれない鉄之助の煩悶が、苦しくなるほど切ないです。
そんな鉄之助を見守り、義弟土方に思いを馳せる佐藤彦五郎の哀しみもまた・・・。
是非一度読んでみてくださいませ。
 

    * 土方歳三を支えた陸軍奉行添役

陸軍奉行添役は何人もいるのですが、特に土方に付き従っていたと思われるのは、相馬主計、安富才輔、大島寅雄、大野右仲の4人です。
彼らはどんな風に土方と関わっていたのでしょうか。


  相馬主計

前項、「新選組!!〜土方歳三 最期の一日」登場人物より をご覧ください。



  安富才輔

安富才輔は天保10年(1839)生まれで、31歳。土方の4歳下。

元治元年10月、江戸での隊士募集で入隊しました。
慶応元年5月の編制表では馬術師範になっており、慶応3年12月の編制表では勘定方になっています。
流山で近藤が降伏した時には、安富が隊士たちをまとめて会津に向かい、その時にも流山で資金集めをしてから出立しました。
会津戦争の頃は、隊長となった斎藤一を副長として支え、蝦夷地上陸の折りには、土方と行動を別にした新選組を指揮。
平定後は陸軍奉行添役として土方に付き従い、箱館総攻撃の日もともに出撃。土方の最期に立ち会っています。

佐藤彦五郎の覚え書には、
  「土方討死
     付添
       澤忠助
       安富才輔
       別当熊蔵
     安富者馬ヲ牽五稜郭江行」
とあります。

安富は土方の馬を牽いて五稜郭に戻る途中、千代ヶ岡陣屋に立ち寄り、箱館市内から敗走してきた大野右仲に土方の死を伝えたのでしょうね。
そしてその5日後、安富は土方の甥隼人に宛てて、その死を知らせる手紙を認めました。
土方歳三資料館に展示されていますから、ご覧になった方も多いはず。
その筆致には、戦の最中、慌てて書いた様子が見てとれます。

  「町筈(外)れ一本木関門ニ而諸兵隊之指揮被遊、遂ニ
   同処ニ而討死せられ、誠ニ以残念至極ニ奉存候、拙者
   義未た無事、何之面目や可有候」

淡々とした文章ですが、無念さが滲み出ています。
そして、

  「隊長討死せられけれは

     早き瀬に力
       足らぬや
         下り鮎」

という句が添えられているんですよね。
もう、この句を見ただけで泣ける。
土方の想い、そして安富の思い。・・・堪らないでしょう?



  大島寅雄

大島寅雄は天保13年(1842)生まれで、28歳。土方の7歳下。

相馬、安富は新選組に入隊し、隊士として京から土方とともにありましたが、大島と大野は旧幕府軍の土方と出会い、部下となりました。

大島は旧幕府軍に加わり江戸を脱出。伝習第一大隊書記となり、6月には土方付属となります。
7月下旬には伝習大隊分隊長となり、一隊を率いて新選組とともに母成峠を戦って、9月には仙台で30人あまりの伝習隊士とともに新選組に入隊。
しかし松前攻略時に新選組と離れて、軍監として土方に従い、そのまま陸軍奉行添役となりました。

伝習隊にありながら、大島はずっと土方の傍にいたんですよね。
土方が望んだのか、大島が望んだのか。
上官として、部下として、きっとお互いに認め合っていたのでしょう。
二股口の戦いの前に、大野と大島に土方がその覚悟を語ったことは、「土方歳三 北征日記 6」に書いたとおりです。
部下というより、戦友に近いものを感じます。

土方の最期にも、大島は安富とともに傍にあったのでは?
そして、安富とともに、大野に土方の死を伝えたのでは?
本人が書き残したものが特に残っていないのですが、人となりがもう少し見えてくると面白いのになぁと思います。



  大野右仲

大野右仲は天保7年(1836)生まれで、34歳。土方の1歳下。

唐津藩士で、変名松川精一。
昌平黌にも学んだ秀才であり、幕府老中を務めた世子小笠原長行の側に仕え、江戸脱出の折りには藩士たちをまとめて長行に随行し、会津に入りました。
そして、七日町の清水屋に到着した土方を訪問しています。
大野は土方から、江戸脱出以降の戦い、特に宇都宮戦争のことなどをいろいろ聞いて、共鳴するところがあったようです。
このことがきっかけになったのでしょう。
仙台で長行への随従が制限された時、唐津藩士23名は、大野が取りまとめる形で新選組に入隊、蝦夷地へと渡ったのでした。

箱館政府誕生とともに、大野は陸軍奉行添役となり、その後はずっと土方の右腕として戦っていきます。
二股口の戦いでは、土方が後方の市渡に下がっている時、あるいは五稜郭に戻った時には、代わりに全軍の指揮をとり、土方が前線で指揮をとっている時には、常にその傍らにあって、各胸壁の兵たちに土方の命令を伝えていたようです。
大野が書いた「函館戦記」の“二股の戦争”のくだりを読むと、土方の指揮・大野の補佐で、いかに激戦を戦い抜いたかがわかります。

5月11日の一本木関門での戦いの流れは、「土方歳三 北征日記 6」に書いたとおりです。
土方に背後を預け、額兵隊と伝習士官隊を率いて、弁天台場を目指して、新政府軍に戦いを挑む大野。
一度は敵を後退させるも押し戻され、さらには兵たちが敗走する勢いを止められず、土方は?と思って千代ヶ岡陣屋まで引き揚げた時、知らされた土方の死。

「函館戦記」に、翌日の記述があります。

 『吾れ夜堤上を歩きて見るに、月は欠けて天に在り、曠野渺漫たり。砲台は湾を隔てて雲煙の
  中に髣髴たり。独り兄事する所の奉行の死を嘆き、同胞の如く交りたる者は皆彼に在りて、
  吾れのみ敵陣の遮る所と為りて至るを得ず。涙を垂れて、楚の項羽の「時利あらず、騅行か
  ず」の句を吟ず』

大野・・・。この一節を読んだ時、泣きました、私。
月の欠けた晩に、五稜郭の堤の上を独り歩く大野。兄とも慕っていた土方は、既にいない。
その死をともに嘆こうにも、新選組の仲間たちは敵の遮る弁天台場にいて、駆けつけることもできないでいる・・・。
大野の悲しみとやるせなさが、胸の中に沁み込んできませんか?


*********************************************************************************

新選組の小説などを読むと、試衛館のメンバーを失った土方さんがあまりにも孤独に見えて、
死に場所を探しているように感じることが多いんです。
でもいろいろ史料を見てみると、土方さんにはこんなに頼もしい部下たちがいて、ともに戦っていたことを知ることができます。
試衛館のメンバーには及ばないかもしれない。新選組の隊士たちとは、また違う繋がりかもしれない。
でも、上官と部下の関係を越えるほど、強い信頼で結ばれた仲間がいた。
そのことに、なにかほっとしたものを感じます。

 

戻る