土方歳三の故郷 日野を巡る旅 2004年6月15日 (「2004年 夏 つぶやき」より)
今日は“千葉県民の日”で、息子が学校お休み〜〜♪
それならということで、二人で土方さんの 故郷・日野へ行ってきましたぁ。\(^O^)/ 片道2時間、往復4時間、さすがに千葉からは距離ありますが、これも愛する土方さんのため!!(爆) 日帰りできるだけでも感謝せねば。 中央線日野駅下車。まずは観光案内所で自転車を借ります。今日どうしても見に行きたいところを全部回るには、自転車で移動するのがベストなはず!! 走り始めると、日差しは強いけど風は爽やかで、気持ちいい〜〜。(*^o^*) 今年は大河ドラマ「新選組!」を放映中なので、街はたぶん新選組一色だろうと思っていたら、やっぱり新選組だらけでした。(^^) いやもう、至る所にだんだらの幟やら旗やらポスターやらがあって、思わずにやけてしまう。 新選組が結成され活躍したのは京の町だったけど、この日野で近藤と土方が出会わなかったら、日野の人たちが天然理心流を支えてこなかったら、京に上った近藤・土方たちを支えてくれなかったら、きっとその結成も活躍も有り得なかったんですよね。そう考えると、“日野は新選組のふるさと”というのも大いに頷けます。 さぁ、今日はそんな新選組のふるさとを駆け回るゾ〜〜。 最初は駅のすぐ近くにある宝泉寺へ。ここには、新選組六番隊組長 井上源三郎の墓があります。 源さんは、近藤・土方・沖田らとともに試衛館門下で新選組旗揚げメンバーであったにもかかわらず、3人に比べて名前があまり知られていないんですよねえ。食客だった、山南・藤堂・原田・永倉の方が有名なくらい・・・。 でも、源さんって確かに目立つ功績は無かったかもしれないけれど、他人には見えないところで、 近藤・土方・沖田たちをずっと支えてくれていたような気がします。先の読めない時代の流れの中、荒れる京で必死に頑張るみんなを、陰からずっと労わり励ましてくれていたような・・・。 戊辰戦争で真っ先に戦死してしまうのも、近藤・沖田が戦線を離れたため一人奮闘していた土方を、まるで庇って逝ったような印象があるんですね。近藤・沖田がいない分も、自分が土方の力に ならなければ!と、源さん、張り切り過ぎちゃったんじゃないかなぁって・・・。 だから、そんな源さんに感謝を込めて、墓前でそっと手を合わせました。 さて次は、日野宿本陣跡を目指します。 途中、八坂神社にちょっと寄り道。ここには、今日は公開されていませんでしたが、天然理心流の門下生たちが、剣の上達を願って奉納した額があるんです。土方さんの名前は無いけどね。だって、入門したの翌年なんだも〜ん。(^^;;; 日野宿本陣は、甲州街道の宿場町だった日野の中心でありました。そして、名主であり土方の義兄であり新選組の後援者でもあった、佐藤彦五郎の屋敷でもありました。 町の自衛のために天然理心流を学んだ彦五郎は、屋敷の中に道場を建てて理心流の発展に貢献するとともに、京に上った近藤たちに金銭的・精神的援助を続けます。まだ会津藩から手当が出る前の近藤たちに、何度もお金を送っていたようですし、近藤や土方からは、嬉しかった時・辛かった時・悩んでいる時、彦五郎に心中を訴える手紙が何通も届いています。だから、彦五郎が新選組を多摩から支えていたと言っても、過言ではないかもしれない。それほど、文武両道に秀でた大きな人物だったようです。 ![]() 日野宿本陣跡 そんな彦五郎さんの屋敷は、本当に立派な建物でした。参勤交代の大名がここで休息し、明治天皇も休憩をとられたというのですから当然なんですけれど、柱や鴨居、杉戸にいたるまで、その建材のしっかりしていること、欄間や調度のみごとなこと。質素な中にも大変豪華な作りのお屋敷でした。 ボランティアの方が一間一間案内をしてくださったのですけれど、嬉しかったのはやはり、土方さんがここに立ち寄った際、寝転んで昼寝をしていたという部屋。甥っ子が庭で転んだ時は、飛んで行って抱き上げて、部屋に運び入れ、介抱してやったという・・・。そんな、土方さんの普通の生活が 垣間見える場所というのが嬉しくて・・・。土方さんの体温をふと感じられるような気がしました。 さらにその奥には、土方の小姓を勤めた市村鉄之助を、戊辰戦争終結から2年もの間、匿ってやったという部屋が・・・。 鉄之助は、官軍による函館総攻撃の直前、土方の命により函館を脱出し、土方の形見の品を佐藤家へと届けます。土方とともに討ち死にしたかったという、叶えられなかった自分の願いと、“まだ若い(16歳)お前は新しい時代に生き残って欲しい”との土方の願い。そのはざまで揺れながら、鉄之助はどんな思いを抱えて、この部屋での日々を過ごしたのでしょうか。やがて彼は、出身地である美濃大垣に戻った後、西南戦争に参加して戦死したと言われています。そんな彼の心中を思うと、胸に込み上げてくるものがありました。 今日はちょうど、佐藤家のご子孫にあたられる佐藤福子さんがいらしていてお話を伺うことができたのですが、近年発見された彦五郎さんの日記の中から、今までの定説を覆す新しい話をしてくださいました。 鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に戻ってきた近藤・土方は、新選組を含む甲陽鎮撫隊を率いて甲府に向かって出陣します。その時、故郷に立ち寄ってどんちゃん騒いでいる間に、官軍が甲府城に入ってしまい、惨敗したと今までは伝えられていたんですよね。「なんでそんな馬鹿なことをしたんだろう?土方さんがついていながら・・・?」と私も不思議に思っていたんですけれども、新しく見つかった日記によって、実はそうではなかったことがわかったのだそうです。必死に先を急いで行軍したのに、それでも官軍の方が先に甲府に入ってしまった。油断していた訳じゃなくて、タイミング的に仕方なかったんですね。それを伺って、ほっとしました。「良かった〜。お馬鹿じゃなかった〜。」って。(笑) どうもありがとうございました。着物をお召しになった、とても上品な女性でした。 係の方たちも皆さんとても温かくて、息子に声をかけてくださったり、写真を撮ってくださったり。 思わず長居をしてしまいました。 さてこの日野宿本陣跡、昭和26年、隣家の材木商宮崎氏が佐藤家から屋敷を買い受け守り続け、後年そのご子息(になるのかな?)が、座敷の一部を使って蕎麦屋を始められました。ところが、昨年、日野市が屋敷を買い取り、史跡として正式に公開されるようになったことから、宮崎さんが経営されるお蕎麦屋さんはお店を移転したんですね。 お昼は絶対、佐藤家所縁のお蕎麦を食べようと心に決めていた私たちは、さっそく市内にある移転先に向かいました。 お蕎麦は白くて細めながらしっかりコシがあり、つゆはやや濃い目かな? とても美味しかったです。息子が足りないかなぁとお蕎麦を1枚追加したのですが、残したら少しもらおうと思っていたのに、しっかり全部食べられた。一口くらいお母さんに残しておいてくれたって・・・。(T_T) お昼時ということもありますが、次から次へとお客さんがやってきて、席が空くのを待たなければならないほど。新築された店内は広くて明るくすっきりしていて、年代物の柱時計や戸棚が風情を醸し出していました。 次はいよいよ土方歳三資料館!! お蕎麦屋さんから万願寺に行く道が今ひとつはっきりしないので、レジにいらしたおかみさんに伺ったら、お忙しい中、ご主人まで出てきてくださって、地図を書いてくださいました。どうもありがとうございました。 日野の皆さん、優しいんですよ〜。温かいんですよ〜。皆さんの笑顔が本当に素敵です。 さぁ、土方さんのご実家に向かって、いざゆかん。 “土方さんの故郷”日野をめぐる旅(大袈裟?笑)。いよいよ本日のメインイベント、土方歳三資料館で土方さんの愛刀和泉守兼定にご対面です。 土方歳三資料館は、土方家のご子孫(正確には、家を継がれたお兄さんのご子孫)が、お住まいの一室を資料館として開放して下さっているものです。 話には聞いていましたが、実際に伺ってみると、本当に閑静な住宅街で、本当に普通の住宅の一室なんです。なにか入っていくのが申し訳ないような・・・、でも逆に、土方さんのお家にお邪魔するようで、ちょっと嬉しいような気分でもありました。 平日の、それも閉館30分前だったのですけれど、中はいっぱいの人。日曜日などは、門の前で 1時間半待ちなのだそうです。 去年までは第1・第3日曜日だけ開館されていたのを、今年は月〜金曜日も開館してくださっているんですよね。来館者が途切れることがないため、10分おきくらいに説明をしてくださいました。閉館時間も近くなってきて、ずいぶんお疲れだと思うのに、嫌な顔一つせずに、細やかな気遣いをしてくださり、優しく声をかけてくださるんですよ。 もうね、そこまでしてくださる土方家の皆さんに、深く深く頭を下げたい思いでした。本当にありがとうございました。 さて、部屋に入ってすぐ目に飛び込んできたのが、正面の大きなお仏壇でした。中央に安置されているのが、まさしく土方さんのお位牌です。まさかお仏壇があるとは思ってもみませんでしたので、本当に感動しました。息子と並んでしっかり手を合わせてきました。お仏壇に飾られた大きな紫陽花の花が、とても印象的でしたねえ。 でもね、思ったのですけど、たくさんいらした来館者の皆さん、ご位牌を覗き込みはしても、ほとんど手を合わせる方がいなくて・・・。(T_T) 土方さんのご位牌だよ〜。土方家のお仏壇だよ〜。魂が宿っているんだよ〜。資料館と言っても、公の博物館の展示品じゃないんだからさぁ。たとえそんなに土方さんに思い入れがなかったとしても、たとえウォーキングの途中にふらりと寄っただけだとしても、お仏壇にご位牌があったら、覗き込むついでに形だけでも手を合わせるのが常識でしょう〜? 後ろにいらっしゃるご子孫のお気持ちを考えたら、ちょっと悲しくなりました。(泣) 気を取り直して・・・。 展示ケースの中央にどど〜んと飾られているのが、和泉守兼定です。いつもは年1回、ご命日の歳三忌の時だけ公開している刀身を、今年は特別に常設展示してくださっています。柄の真ん中、巻かれた柄糸が少しへこんでいて、土方さんが握った手の跡なのかなぁと見つめていました。この兼定で戦い抜いてきたんだよねえ。最期までずっと一緒だったんだよねえ。はぁ・・・、抱きしめたい気持ちになってくる・・・。(爆) その上には、京へ上る前に書き溜めた俳句を綴った発句集と、京から佐藤彦五郎へ鉢金を送った時の書簡とが並んでいたのですが、京へ上る前と上った後とでは、土方さんの文字が少し変わってきているんですね。 土方さんの筆跡はよく女性のようなと言われるのですけれど、確かに発句集の方は細くて繊細な、なよなよくねくねした(笑)字なんですが、京に上ってからの書簡の方は、しっかりとした力強い筆跡なんですよ。あれ?と思っていたら、最後に説明してくださった土方陽子館長が、「多摩でのんびりしている時と、京で命を張って治安を守る仕事についてからとでは、やはりその心境の変化が文字にも表れてきたのでしょう。」とおっしゃっていました。今まで史料本に載っている写真などで土方さんの筆跡を見てきてたけれど、文字の変化にまでは気づかなかったなぁ。 他にも、函館で撮影された土方さんの写真とか、安富才輔が最期の様子を伝えてきた書簡とか、ファンには堪らない展示品がたくさん並んでいました。 あ、仙台から一緒だった函館政府総裁榎本武揚が、明治になって土方さんを悼んで書いた書も飾られていました。「入室しょ(にんべんに且)清風」とあり、「この人が部屋に入ってくると清らかな風が吹くような、爽やかな人だった」という意味なのだそうです。 また資料館の外には、土方さんが植えた矢竹や、小さい頃張り手の稽古をしたという当時のご実家の大黒柱があって、こうしていろいろな遺品や史料を実際に間近で見てみると、生身の土方さんを感じられるような・・・、土方さんの息遣いが伝わってくるような、そんな気がしてきます。あぁ、本当に生きていたんだなぁと改めて実感しました。 土方さんの魅力って、信じるものを最後まで貫き通した潔さだと思うんですよね。武士への憧れ、新選組へのこだわり、近藤勇や試衛館の仲間たちへの友情・・・。自分にとって大切なもののために真っ直ぐに生き抜いた姿こそが、私たちを惹き付けてやまないのだと思います。 さらに彼は、最初から人間が出来ていた訳じゃなくて、京に上る前は自分の生きるべき道が見えずに悶々としていたりする。新選組を結成してからは、自分と仲間の夢と志のために、ひたすら冷徹に感情を押し殺していく。そして幕府が崩壊し、戊辰戦争を戦っていく中では、仲間の死や来たるべき自分の死を見つめながら、優しく大きくなっていく。そういう人間的な成長が見えるところが、身近に感じられて嬉しいんです。歴史上の大人物じゃなくて、日野の石田村の普通の兄ちゃんなところがね、だけどたいしたヤツだったっていうところが、素敵だなぁって憧れてしまうんですよ。 そうそう、そういえば、ご子孫でいらっしゃる館長やお嬢さんが、土方さんのことを「歳三さん」と呼んでいらして、それがなんともいい感じで、親しみと愛情がいっぱいに感じられました。改めて、「あぁ、お身内なんだなぁ。」と思いましたね。 いつまでも遺品に囲まれていたい気持ちでしたが、閉館時間を過ぎていたので資料館を後にし、石田寺にある土方さんのお墓に向かいました。 ここは、中学3年の時に一度お墓参りに来ているんですよね。その時のことはかなり遠い記憶になってしまっているのですが・・・。 ![]() 石田寺 ここに土方さんのお墓があります。 大きなカヤの木が目印。 お花とお線香を持ってきたかったけれど、ここまでの道中を考えるとやっぱり無理だったかな。「手ぶらでごめんなさい。」と土方さんに心の中で謝る私。もちろん、墓石の下に、ご遺骨は入っていないのですけれど・・・。 先程、土方歳三資料館で、そのご遺骨の話を伺いました。お仏壇に位牌のあるご先祖様たちの中で、遺骨の無いのは歳三さんだけなのだとか。新選組局長近藤勇が前年、斬首の上、晒し首となっており、副長土方の遺体も、もし官軍の手に渡ればただでは済まないだろうと、周囲の人間がとにかく埋葬地を口外しないようにしたため、遺体の在り処は、諸説あれども、本当のところはまったくわからなくなってしまった。でも、もしも遺骨が見つかるのならば、故郷のこの日野に帰ってきて欲しい。・・・そうおっしゃっていました。 私は今日一日、日野を歩いてみて、またご位牌とお墓に手を合わせてみて、土方さんの魂はすでにこの日野に戻ってきているような、そんな気がしたのですけれど。日野の広い空に、爽やかな風に、浅川の流れに、土方さんの魂が優しく故郷を見守っているんじゃないかって、そんな気持ちを抱いたのですけれど。やはりご子孫の立場となると、できれば遺骨を故郷の土にと願わずにはいられないのでしょうね。 一日も早くご遺骨が見つかって、里帰りできることをお祈りします。 さてさて、土方さんの故郷をめぐる旅、最後は浅川を渡って高幡不動尊へ向かいます。 この境内には、春に「新選組!展」で拓本を見た、殉節両雄之碑が建っているんです。 土方歳三資料館にも拓本の複製が展示されていて、「実物は雨風に晒されて、もっと読み難くなっていますよ。」というお話でしたけど、やはり一度は本物を見ておかないとね。 実際に見てみると、読めないことはないけれど、確かに拓本の方が読み易い感じでした。近藤・土方を称える内容のこの顕彰碑は、明治政府からなかなか建立の許可が下りなかったそうです。明治9年に碑文が書かれて、実際に碑が建ったのは21年。そんなに長い間許してもらえなかったのね。 勝てば官軍と言いますけれど、新選組も尊攘派もやったことは同じなのに・・・。というより、尊攘派が“天誅”と称して人を斬ったり治安を乱したりするから、新選組はそれを取り締まっただけなのになぁ・・・。 高幡不動尊の境内は、今、あじさいまつりの真っ最中。七色の紫陽花が、全山みごとに覆っています。 小腹も空いてきたので、境内のお土産屋さんでソフトクリームを食べました。このソフトクリームの メニューがね、「近藤勇(抹茶)、土方歳三(黒ごま)、沖田総司(バニラ)、井上源三郎(ブルーベリー)、榎本武揚(北海メロン)」と書いてあるんですよ。何もそこまでしなくても・・・と笑ってしまいました。それに、源さんのイメージってブルーベリーか?本当にそうなのか? いっそのこと、土方さんをブルーベリーにして、源さんを黒ごまにした方が合うような気がするんだけどなぁ。 とりあえず息子はバニラ、私は、ここはやっぱり土方さんを食べないと!と、黒ごまにしました。(笑) 美味しかった〜〜。(*^^*) ようやく日が傾きかける頃、高幡不動尊の山門に見送られるように、息子と私は土方さんの故郷に別れを告げました。 来て良かったなぁ・・・。この自然とこの町の人の人柄が、まさしく土方さんを育てたんだと思えるような、爽やかで優しい土地でした。 また来たい。その時には、今日は回れなかったふるさと博物館も見に行きたい。井上源三郎資料館にも行きたい。 是非また、今度は秋にでも、第2回“土方さんの故郷をめぐる旅”に行きましょうかね。 あぁ、土方さん! また会いに行くからね〜〜!!(^o^)/~ |