土方歳三 北征日記

注:文字の色分けは、以下の通り。
  黒・・・土方歳三の動きと主な情勢の変化
  ・・・土方と別行動の時の、新選組の動き
  ピンク・・近藤・沖田の動き
  ・・・時代の動き

6.箱館戦争

明治2年3月
 3日 箱館病院掛頭取小野権之丞、土方を訪ねるが不在。土方から手紙が届く。
 4日 小野、土方を二度訪問するが不在のため、帰宅して手紙を書く。(※1)
 18日 新政府軍艦隊が南部宮古湾(岩手県宮古市)に入港、甲鉄艦が加わっていると
の情報を入手する。(※2)
 19日 甲鉄艦奪取の作戦が軍議で決定する。
 21日 午前零時、回天・幡龍・高雄の三艦が箱館を出航する。土方・相馬主計・野村
利三郎は回天に乗船。
回天ら、暴風雨に襲われ、離散する。
 24日 回天が宮古湾南方の山田湾大沢港(岩手県下閉伊郡山田町)に到着。高雄も
遅れて到着。幡龍は行方不明となる。
 25日 高雄の機関が故障。回天が単独で宮古湾に向かい、甲鉄艦奪取作戦を敢行
する。
艦長甲賀源吾・新選組隊士野村利三郎ら十七名が討死し、作戦は失敗に終わ
る。(※3)
 26日 回天・幡龍、箱館に帰港する。
高雄、敵艦の追撃から逃げられず、羅賀海岸(岩手県下閉伊郡田野畑村)に
座礁。乗員は船に火を放ち、投降する。
この頃 玉置良三、病死する。
  
  
明治2年4月
 4日 青森に集結した新政府軍に、5日出航との命令が下る。
 5日 箱館政府に、新政府軍襲来の情報が入る。
 6日 土方、榎本の使いとして、松平定敬・小笠原長行・板倉勝静に室蘭に待避する
ように申し伝える。
土方は二股口、新選組は弁天台場を守るように命じられる。
 7日 新選組、弁天台場を本営とし、箱館山周辺の守備につく。
 9日 新政府軍、乙部(爾志郡乙部町)に上陸。
土方、伝習歩兵隊1小隊と衝鋒隊2小隊を率いて、二股口に向かい出陣。
大野村(亀田郡大野町)の市渡に宿陣する。(※4)
 10日 土方、二股(亀田郡大野町)に到着。
台場山を本営とし、同行したフランス人フォルタンの指揮により、昼夜兼行で
計19ヶ所の胸壁を築き、陣地を構築する。(※5)
 13日 新政府軍、二股攻略を開始、至近距離での激しい銃撃戦が始まる。
土方、市渡から駆けつける。この間の指揮は大野右仲がとる。
松平定敬、箱館を去る。
 14日 前日からの攻防戦が十六時間にわたって続き、二股守備軍、ついに新政府軍
を撤退させる。(※6)
 15日 市村鉄之助、箱館を脱出する。(※7)
この頃 伝習歩兵隊2小隊が二股に投入される。
 23日 二股で再び激しい銃撃戦が開始される。
二股に、伝習士官隊2小隊が援軍に駆けつける。(※8)
板倉勝静・小笠原長行・竹中重固、箱館を去る。
 24日 勝敗決せず、戦闘続く。
 25日 二股守備軍、新政府軍の猛攻に耐え、二股口を死守する。(※9)
 26日 二股で、小戦有り。
 29日 矢不来(上磯郡上磯町)が突破されたため、二股に撤退命令が届く。(※10)
夕刻、市渡へと兵を撤収する。

新選組、彰義隊・陸軍隊とともに有川村(上磯郡上磯町)に出陣、七重浜(上
磯郡上磯町)に夜襲を行う。
  
  
明治2年5月
 1日 土方、五稜郭に帰陣。弁天台場で新選組に夜襲を命じ、大町(函館市)の佐野
専左衛門方にしばらく滞在する。
 2日 新選組・彰義隊、七重浜で夜襲をかける。

フランス人、自国船で箱館を脱出し、横浜に向かう。
 3日 新選組・彰義隊、七重浜で夜襲をかける。
 4日 土方、五稜郭に帰る。

新選組・衝鋒隊、七重浜で夜襲をかける。

新政府軍、二股口を突破して大野村に進む。
 6日 新選組、ふたたび七重浜で夜襲をかけるが、躊躇して彰義隊・伝習隊・遊撃
隊に先鋒を譲ってしまう。
 7日 新選組、箱館山に地雷を仕掛けようとしていた不審人物五名を捕縛する。
 8日 新選組・遊撃隊・彰義隊は七重浜を、衝鋒隊は大川村を夜襲し、ともに勝利する。
 9日 土方、小野権之丞を訪ねる。
 10日 新政府軍の箱館総攻撃を前に、旧幕府軍幹部は豊川町(函館市)の「武蔵野
楼」で別盃を交わす。
 11日 午前3時、新政府軍の総攻撃が開始される。

新選組、敗走して弁天台場に立て篭もる。(※11)

土方、千代ヶ岡陣屋から額兵隊2小隊を率いて出陣する。(※12)
土方歳三、一本木関門において、腹部に銃弾を受け、討死する。(※13)
 
  
  
 12日 終日、新政府軍の総攻撃が続く。
安富才輔、五稜郭にて土方の戦死を伝える手紙を記す。(※14)
 13日 弁天台場に降伏の使者が派遣される。
 14日 相馬主計、新政府軍の使者とともに五稜郭に赴く。
総裁榎本・副総裁松平は、和議を拒絶する。
弁天台場、降伏を決意する。
 15日 弁天台場、降伏する。
相馬主計、永井尚志より新選組隊長に任命される。
 16日 千代ヶ岡陣屋、陥落する。中島三郎助父子、討死。
 17日 箱館政府、降伏を決意する。
 18日 五稜郭、降伏開城。

箱館戦争及び戊辰戦争が終結する。
 
  
  
※1 箱館病院掛頭取の小野権之丞は、会津藩公用人。
土方は、京の頃からなにかと世話になってきたことでしょう。
 
※2 甲鉄艦(ストーンウォール・ジャクソン号)は、本来幕府がアメリカから購入を
決めた装甲艦でした。
しかし戊辰戦争が始まってしまったため、局外中立の立場から引渡しが保留
されていたものです。

残すところ蝦夷地の平定のみとなった新政府を、諸外国が日本国政府として
認めたため、1月、甲鉄艦は新政府に引き渡されます。
すでに開陽丸も失っていた箱館政府にとって、船体をすべて鉄板で覆ったこの
甲鉄艦の存在は、大変な脅威でした。
 
※3 アメリカ国旗を掲げた回天は、宮古湾に侵入。新政府艦隊に接近したところで、
国旗を日章旗に変え、甲鉄艦に迫ります。

しかし、計画では幡龍・高雄が甲鉄艦に並行して接舷するはずが、回天は外
輪船だったため、回天の艦首が甲鉄艦の中央にぶつかる形で接舷。
さらには甲鉄艦の甲板が回天よりも3メートルも低かったため、一度に陸兵が
乗り移ることができず、飛び移ることができたのは7名だけ。
すぐに新政府軍からの反撃が始まってしまいます。

甲鉄艦に移った兵士たちにも回天にも、銃撃が浴びせられ、結局戦いは30分
で終了。回天は敗走しました。
甲鉄艦から戻ることができたのは、2名だけだったそうです。
 
※4 この夜、土方は同行した陸軍奉行添役の大野右仲・大島寅雄と盃を交わし、
「吾れ任ぜられて敗れなば武夫の恥なり。身をもってこれに殉ずるのみ」と、
覚悟を語ったといいます。
 
※5 本営とする台場山山上と中腹に11ヶ所、川岸や、山道の両側に5ヶ所、天狗岳
に前線基地として3ヶ所、合計19ヶ所の胸壁を築いて、新政府軍を待ち受けま
した。
 
※6 夜に入って二股では雨が降りはじめたため、兵士たちは上着を脱いで弾薬箱の
上に掛け、湿った弾丸は懐に入れて乾かしながら撃ったといいます。

土方が自ら兵士たちに酒を振舞って回ったというエピソードは、この時のこと。
島田魁日記には、「総督自ら樽酒を携え、諸壁して兵に贈り謂う、(中略)吾、
重賞を与う。しかれども、酔いに乗じて軍律侵すを患い、ただ一椀を与うのみ。」
とあります。
しかし、大野右仲は函館戦記に、自分(たち)が与えて回ったと書いており、
さてどちらが真実か。

唐津藩士だった大野は、会津七日町の清水屋で初めて土方と会った後、仙台
で新選組に入隊して蝦夷に渡ってきています。
以後は土方の側近として、土方の死の直前まで、ずっとその傍らで戦いました。
上官と部下というより、同じ士官として信頼し合う二人は、仲良く一緒に胸壁を
回って歩いたのかなぁなんて思うのですけどね。

さて、戦いは結局14日の午前6時頃まで続けられ、ようやく新政府軍は撤退
しました。
新政府軍およそ400人、こちら二股守備軍は130人。使用した弾丸は3万5
千発に及び、兵士たちの顔は硝煙で真っ黒になっていたそうです。
 
※7 一旦五稜郭へ戻った土方は、市村鉄之助に自分の形見の品を預けて箱館を
脱出させました。
この時市村は16歳。ここで命を散らせるのは勿体無いと思ったのでしょう。
土方は、形見の品として自分の写真と数本の毛髪、辞世の和歌を、質入れし
て路銀に換金できるように刀を二本、市村に預けたようです。

市村は7月の初めに、日野の佐藤彦五郎のもとを訪ねました。
彦五郎はその後、しばらく市村を預かっていましたが、明治4年3月に市村は
美濃大垣へ帰郷。その後、西南戦争で西郷軍に参加して戦死したと伝えられ
ていますが、確認はされていないそうです。
 
※8 この時、二股に到着したばかりの伝習士官隊隊長滝川充太郎は、土方の作戦
の詳細を知らず、敵陣に突撃して一斉射撃を受け、敢えなく敗走します。
伝習歩兵隊隊長大川正二郎は、歩兵を無残に死に追いやった滝川を激しく責め、
土方・大野がそんな二人を宥めました。
箱館に来てからは、すっかり宥め役に回っている、鬼副長です。
 
※9 23日夜7時頃に始まった第二次二股戦は、25日午前2時頃まで続きました。
激しい銃撃で、銃身が熱くなって撃てなくなるのを、川から汲み上げた桶の水で
冷やしながら撃ったというのも有名な話。
 
※10 不敗を誇った二股陣地でしたが、17日には松前が陥落。20日は木古内も落ち、
29日には矢不来も突破されました。
海岸沿いの陣は、まず艦隊の援護射撃で崩されたところへ、陸軍の攻撃を受け、
持ち堪えることができなかったそうです。

矢不来が陥落したことで、二股は孤立する可能性が出てきたため、五稜郭から
撤退命令が伝えられます。
不敗の陣を棄てなければならない土方と兵士たちは、さぞや悔しかったことでし
ょう。
 
※11 新選組は1小隊が箱館山背後の寒川に布陣、他にも市内称名寺などに宿陣し
ていましたが、新政府軍の圧倒的な兵力の前に、弁天台場へ敗走しました。
 
※12 武蔵野楼にいたであろう土方は、五稜郭へ戻る途中に千代ヶ岡陣屋へ立ち寄
り、額兵隊が布陣しているのを見つけたのでしょう。
2小隊を率いて出陣しようとしているところへ、弁天台場から駆けてきた大野右
仲が遭遇。大野は馬首を返して、土方とともに一本木関門へと向かいます。
 
※13 土方たちが一本木関門に至ると、ちょうど滝川充太郎が伝習士官隊とともに市
内から敗走してくるのに出会います。
その兵たちを立て直そうとまとめていると、辺りに大音響が響き渡りました。
箱館湾で戦っていた幡龍の砲弾が、敵艦に命中したのです。
土方は、「この機失すべからず」と大喝したそうです。
そして、「吾れ、この柵に在りて退く者は斬らん。子は率いて戦え」と大野に命
じたので、彼は額兵隊と伝習士官隊を率いて、市内へと進撃しました。

一方、関門で戦況を見守っていた土方は、回天から脱出してきた荒井郁之助
ら乗員たちが、七重浜方面からの敵に襲われているのに気がついて、援護に
向かいました。
敵を退け、荒井たちを五稜郭へと逃がした後、一本木関門へ戻った時、すでに
関門に達していた松前兵に、土方は狙撃されたのではないかということです。

土方の遺体は(首級だけかも?)、付き従っていた沢忠助ら(たぶん立川主税
も)によって五稜郭へ運ばれました。
そして、郭内の一角に埋葬されたといいます。

ところで、市内へ進撃していった大野は、一度は異国橋付近まで敵を後退させ
ましたが、やがてまた押し戻されます。
見ると、敗走する兵たちは、続々と一本木関門を駆け抜けていくではないです
か。
土方の姿が無いことを不審に思いつつ、千代ヶ岡陣屋まで引き揚げた大野は、
そこで大島寅雄と安富才輔から、土方の戦死を知らされるのでした。
 
※14 安富は、土方の甥隼人に宛てて手紙を書き、立川主税に預けて五稜郭から脱
出させます。
しかし、立川は新政府軍に捕らえられて降伏。
土方家を訪れることができたのは、赦免後、明治5年になってからでした。
 

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