土方歳三 北征日記

 

流山での別離    ※ブログ記事を編集

土方歳三が北へ向かうきっかけともなったのは、やはり流山での近藤勇との別離でしょう。
その二人の別れについて、ちょっと書かせていただきます。


勝沼の戦いに敗れた新選組は、再起を賭けて隊士を募集し、五兵衛新田に屯集。
その後、流山へと転陣します。
流山に着陣してからの簡単な流れは、こちらをご覧いただければ、だいたい掴めるかと思います。


西軍(新政府軍)に囲まれた時のことを、中島登は『中島登覚え書』の中に、島田魁は『島田魁日記』の中に、次のように記しています。

是ヨリ下総之流山ニ至宿陣ス。四月三日ノ昼敵兵不意ニ四百余人本営エ襲来ル。此時薩藩有馬藤太ト申者応接トシテ来。右ニ付土方公出会云々有之、近藤某附添野村利三郎村上三郎右有馬藤太同道ニテ、板橋駅官軍本営ニ至リ形勢云々有之由。」(『中島登覚え書』)

村上三郎途中ヨリ流山ニ帰ル。其夜土方公附添両人召連江戸表ニ行キ、大久保一翁、勝安房両公エ対談シ云々有之。其ヨリ形勢ヲ察シ暫ク江都ニ有。」(『島田魁日記』)


さらに詳しく書き残しているのが、近藤芳助の『新撰組往時実戦譚書』です。

大兵ヲ以テ勇ノ本陣トセシ家屋十重廿重ニ包囲シ、如何ントモ為ス能ハズ。
(中略)折柄隊中ノ者弐三名ヲ除クノ外、歩兵ヲ引率シ野外練習之為、壱弐里ヲ隔ツ山野ニ有リ、力戦スル事能ハズ。勇ハ已ニ割腹ノ決心ヲ以テ暫時時間ノ猶予ヲ乞ヒ、弐階ニ昇り三四名会合ス。
土方ノ曰ク『此所ニ割腹スルハ犬死ナリ。運ヲ天ニ任セ、板橋総督ヘ出頭シ、飽ク迄鎮撫隊ヲ主張シ、説破スルコソ得策ナラン。』ト云フ。




『新選組!』第48回の画面が浮かんできてしまいますね。

本陣にやってきた有馬藤太に応対に出て、一歩も引かなかった歳三。
有馬を光明院に案内する勇たち。
創作部分ではありますが、間の悪いことに捨助がやってきて、うっかり喋ってしまうのではないかとドキドキさせられましたっけ。
あの時のスナイパー歳三が、めちゃくちゃカッコよかったなぁ。
その後の、勇と有馬が対峙するシーンも、本当にみごとでした。
そうして本陣に戻ってきて開放されるかと思ったら、板橋の総督府へ出頭するようにとのこと。
史実では話し合いは3〜4名で行われたようですが、三谷さんは隊士たちみんなにも同席させてくれました。


近藤芳助によれば、勇はすでに割腹の決心をしていたとのことですが、勇にそう決意させたのは何だったのでしょう。
その心情については、いろいろな作家の方たちが小説などでさまざまに綴っています。

徳川幕府は倒れ、将軍慶喜はすでに恭順の姿勢を示して謹慎している。
西軍は圧倒的な勢いで江戸に入ってきており、もはや先行きに光を見出せなくなってしまった。

あるいは、御陵衛士の残党に墨染で撃たれた傷のために、刀をほとんど振るえなくなった。
さらに勝沼の戦いに敗れたことによって、自分の力の限界を感じてしまった。


『新選組!』では、隊士たちを逃がすために、出頭(さもなくばこの場で切腹)しようとしていました。
その勇の気持ちを知った時の、歳三の言葉。
あんたが死んで、俺たちが生き残って、それでどうなる?! 俺たちゃ、近藤勇についてきたんだ。残った俺たちのため、死んでいったあいつらのためにも、近藤勇には生きてもらわねぇとならねぇんだよ!!
トシの悲痛な叫び。(涙)
歳三はまさにこの後の1年を、残った隊士たちのために、死んでいったあいつらのために、殺されてしまったかっちゃんのために、生きて、戦っていく訳ですね。

生きろ。どんな手を使っても。
このセリフ、痺れたなぁ。すごく力強いんだ。
トシはずっとかっちゃんを支えて引っ張ってきたけれど、この言葉が一番力強く、まるで心臓をぎゅっと握られたような感じがしました。
今までで一番最悪の事態なのに、絶体絶命の場面なのに、一番安心できるような、一番信じられるような、そんな力のこもった言葉。
こうして史料と比べてみると、三谷さんが史実を上手く活かしつつ、ドラマを作り上げているのがよくわかりますね。
そうして2人は、最後にコルクを見せ合って、別れる・・・。



勇の出頭の理由について、思いもよらなかった説に驚いたのは、『未完の「多摩共和国」』です。

彦五郎の赦免と佐藤家の安泰を図るには、勝沼戦争の責任を近藤勇が負うしかない。(中略)近藤と土方が流山で包囲され、近藤が大本営・板橋出張所に出頭、戦わずに捕縛されたのは近藤と土方の間で、彦五郎の赦免が最優先だ、という合意が成り立っていたためだろう。

この説に対する私の考えは、こちらにも書きました。(ので簡単に)
私は、彦五郎の赦免と勇の流山での出頭は、まったく別物と考えます。なぜなら。
甲陽鎮撫隊の隊長は勇であって、その責任を勇が取るか彦五郎が取るかという選択は有り得ないのではないかということ。
もしも彦五郎の赦免のために勇が責任を取ることを考えていたのであれば、さらに隊士を募集して五兵衛新田・流山に屯集したりはしなかったのではないかということ。

彦五郎赦免のためには、江戸を出る前すでに、大久保一翁や勝海舟に西軍への助命嘆願を依頼したようですし、そうして自分たちは隊士を募集し会津に向かうということをこそ、彦五郎が密かに訪ねて来た時に伝えたのではないでしょうか。
近藤芳助の流山の記録からは、隊士たちが野外訓練に出てしまっていて、とても応戦できる人数ではなく、戦わずに捕縛されたのだということが読み取れます。


佐藤彦五郎日記の慶応4年8月のページに、小紙が挟み込まれています。
そこに認められているのは、次の漢詩です。

露沐風梳戦攻を事とす
 流山遺恨英雄を泣く
 丹衷感動す江城の士
 知る是れ東軍第一の攻なりと

  垂涙集  美髯公


この頃、小島鹿之助が近藤勇を哀悼する漢詩集を編纂する計画をたてていたそうで、作者はわかりませんが、多摩の人々の誰かが勇を称えて詠んだものであることには間違いないでしょう。
これなどを読んでも、彦五郎と佐藤家のために西軍に降ったとは思えない。
やはり戦い半ばで捕らわれざるをえなかったのだと考えるべきだと思うんですね。



そして『両雄士伝』の記述。
これは、小島鹿之助が勇と歳三の事績をまとめたものですが、流山の別離について次のように書かれているそうです。

初めその出でて囚に就かんとするに、義豊(土方)、与(とも)に共にせんと欲す。昌宜(近藤)、不可として曰く、『人臣、節を效(いた)す、寧(なん)ぞ死に止まらんや』と。義豊、固く請ふ。昌宜、色を作(な)して曰く、『子(あなた)は豈(あ)に程嬰(ていえい)、公孫杵臼(こうそんしょきゅう)の忠邪を聞かずや』と。義豊、憮然としてこれ久し。曰く『諾』と。」(小島政孝『新選組余話』)


ここに引用されているのは、中国の春秋時代の故事です。

紀元前598年、晋の将軍・趙朔(ちょうさく)とその一族は、文官・屠岸賈(とがんか)に殺されましたが、朔の妻は難を逃れ、宿していた男子を生みました。
屠岸賈はそれを聞いて、朔の遺児を捜し始めます。
朔の食客だった程嬰と公孫杵臼は、遺児を守るために策を練りました。

公孫杵臼「孤児を守り抜き生きることと、死んで敵を欺くこととでは、どちらが難しいだろう」
程嬰  「自分は死ぬ方がたやすく、生きる方が難しいと思う」
公孫杵臼「では、あなたは難しい方をお願いします。私はたやすい方を引き受けましょう」

そして、公孫杵臼は他人の嬰児を手に入れて山中に隠れ、程嬰は将軍たちにその場所を金と引き換えに教えたのです。
将軍たちは遺児と信じて、公孫杵臼とともに攻め殺してしまいました。

その後、程嬰は本当の遺児趙武とともに山中に隠れ住んでいましたが、紀元前583年、このことを知った晋の景公が程嬰らを呼び出し、遺児によって趙氏を再興させました。
そして屠岸賈とその一族は滅ぼされました。
やがて趙武が成人した時に、程嬰は趙武に別れを告げます。
「自分はあなたを守り立てるために、あの時死ななかった。
あなたが趙氏として立つことができた今、自分は公孫杵臼にその成就を報告しに行きたい」と。
そして程嬰はついに自殺したのでした。


野口武彦氏はこう解説しています。

> 近藤は我が身を杵臼になぞらえ、土方に程嬰の役割を果たせと迫ったとされるのである。今の場合、守るべき「子」は新選組の組織であった。土方はしばらく暗い顔で押し黙っていたが、やがて「わかった」といった。最後の任務分担が決まった。それが今生の別れになった。


これも『新選組!』の「流山」に負けないドラマですよね。
勇は歳三に告げた訳です。新選組を守って生き続けろと・・・。
そして1年後、歳三は勇に報告をするために、死地に赴く訳ですよ。
なんか、トシとかっちゃんで想像すると、泣ける〜〜〜。



『新選組!!』は“土方歳三、最期の一日”として描かれる訳ですが、土方の思いは流山の別離から始まる。
2人が別れる直前の、あの表情。穏やかで、優しくて・・・。
最終回で、戦い続ける歳三が映りましたが、宇都宮城の戦いの時も、どこかで敵陣に突撃していく時も、張り詰めた糸が今にも切れそうな表情をしていたなぁ。
それでいて、コルクを見つめている時は、「お守りだ」ってあの別れの時のような優しい顔をして。

1年間戦い続けたトシが、どんな表情を見せるのか。
すべてをやり遂げて、かっちゃんのところへ向かうトシを、しっかり見守ってあげたいと思います。

 

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