新選組文庫 書評

史料解説等

※ブログ記事を編集しました。

「子孫が語る土方歳三」  土方愛

大切に大切に読ませていただきました。

土方家がどのような家であったのか。石田村や日野がどのような土地柄であったのか。多摩に散らばる縁戚関係を結ぶ家々。それらの環境の中で、土方歳三はどのように育ったのか。
資料や写真も多く、初めて聞くエピソードなどもあり、とても面白かったです。
のどかだけれど、いざとなれば徳川のために立ち上がる気概を持った風土の中で、土方歳三は大切に見守られ、のびのびと育ったんですね。

親戚である平家で葬儀のお手伝いをしたり、小島家のおばあさんにお見舞いの手紙と薬を送ったり。そんな優しい心遣いをする土方さんだから、大病を患った時には親戚一同皆が心配し、俳句の先生が全快祝いの手紙をくださって・・・。
この要五先生の手紙、初めて知りました。
この手紙や、土方さんが所持していた短冊集や状箱など、リニューアルオープンした資料館に展示されているのかな。
豊玉発句集は有名ですが、さらに土方さんの“文”の面が窺えて、嬉しい限りです。

土方歳三の愛刀和泉守兼定については、親子二代にわたって兼定を見守ってきた研師の方の言葉が載せられています。
箱館から届いたままの状態の時には、物打ちに刃こぼれが見られたこと。こんなに磨耗した柄糸は今まで見たことがないこと。この刀は、相当厳しい戦いを何度も潜り抜けてきたのでしょう・・・と。
専門家の方の言葉には、やはり説得力がありますね。
素人の私でも、兼定のあの柄の部分には本当にゾクゾクしました。(「土方歳三の故郷 日野を巡る旅」
この刀に託された土方歳三の命、この刀に掛かって散っていった無数の敵兵士たちの命を感じましたね。

多摩のゆかりの家々に伝わった、土方歳三戦死の報。
親戚の橋本家に伝わる『橋本日記』には、「(明治二年六月)十五日日陰夕刻小雨(中略)北海之凶音耳ニ入嘆息」と記されているそうです。思わず、涙・・・。
その嘆きもさることながら、「歳三戦死」と書くことができない当時の多摩の人たちの無念さにも、胸が詰まりました。

賊を出した家という周囲の厳しい視線の中で、生き残った隊士たちや箱館政府関係者から情報を収集し、後の世に伝えた甥っ子の隼人作助。
明治7年、新政府から旧幕府軍戦没者の祭祀慰霊が許されると、近藤・土方の賊名をはらす顕彰碑「殉節両雄の碑」を建てた多摩の人たち。
土方の親戚であり書の先生でもあった本田覚庵の息子退庵は、明治20年函館に墓参りに訪れて、弔歌を詠んでいます。そこには、箱館でともに戦った榎本武揚・大鳥圭介もコメントを寄せていて、じんときました。

さらに土方家が大切にしている書簡があるそうです。
それは、土方歳三の幼馴染みの息子・平忠次郎が、室蘭警察署に勤めていた多摩出身の知人・加藤福太郎に頼んで、土方の遺体の埋葬地に関して調査してもらった、その報告書。
ブログに土方さんのご遺骨のことを書きましたが(5月11日14日の記事)、あれは主に藤堂利寿氏が検証の結果有力としている説であり、私もなるほどと思っているものです。
実は他にも土方歳三の埋葬地とされる場所はいくつかあって、その一つがこの加藤福太郎の書簡に書かれています。

それによれば、加藤福太郎が、碧血碑支配人である和田唯一と、旧幕府軍兵士の遺体の埋葬・慰霊に尽力してきた柳川熊吉とに話を聞いたところ、土方の遺体は最初七重村の焔魔堂に埋葬したが、後に火葬して、明治12年に碧血碑の中に納めたというのです。
藤堂氏はこれについて、矛盾点が多く信じがたいとしていますが、愛さんは埋葬地がどこか正確にはわかっていないとしながらも、この手紙には歳三を想う周囲の者たちの優しさがあふれているように感じるとおっしゃって、子孫にとって何にも代え難い大切な手紙と書いています。

土方さんを大切に見守り、育ててきた多摩の人たち。
彼の死後は、過酷な状況の中で、一つ一つ真実を探り、賊徒の汚名を晴らし、子孫に伝えてきた多摩の人たち。
そしてその真実を私たちに伝えてくださるご子孫の皆さん。
土方歳三の優しさ、そして彼を取り巻く人たちの温かさがとてもよく伝わってくる一冊でした。
日野を巡ると感じる温もりが、この本にも溢れています。

是非読んでみて下さい。
書店でも買えますが、土方歳三資料館を通して買うと、愛さんのサインを入れていただけます。
土方さんのご子孫のサインと思うと、それだけで嬉しいんですよ。(*^^*)
資料館の新しいしおりも同封してきてくださいました。
リニューアルオープンした資料館にも、一度伺わないとなぁ。

(2005年5月23日)
 

 
「歴史街道」と「歴史読本」  

「歴史街道」2005年8月号に、山村竜也氏の「新発見!『山崎丞取調日記』でわかった新選組各隊の編成」が掲載されています。


私は日野市郷土資料館が試作した「取調日記」の冊子を入手し損ねたのですが(そういえばあれから1ヶ月、再発行のお話はどうなったかしらん)、日記の中には慶応元年7月頃と思われる隊士の名簿が載っているそうですね。
その名簿には、隊士名の上部に小隊の番号が付記されていて、これまであまりわかっていなかった平隊士たちの所属がかなりの割合で判明したとのこと。
新選組は、その時その時の隊の事情や世の中の情勢に合わせて、副長助勤制にしたり小隊制にしたり、随時編成を変えているのですが、とりあえず慶応元年7月頃限定での組織の概要が掴めた訳です。

局長近藤勇を筆頭に、整然と並ぶ隊士の一覧表は実にみごと。
見ていると、わくわくどきどきしてきます。
と同時に、あぁ、この人はもうすぐ粛清されちゃうとか、わかってしまうのがちょっと悲しかったり。
眺めているだけで、いろいろなドラマが見えてくるのが堪らないですね。



「歴史読本」2005年9月号の特集は、「永倉新八と『新撰組顛末記』の謎」。
人物の再検証から始まって、永倉が遺した記録の数々、遺品のカラー写真、同じく生き残った幹部斎藤一や靖共隊の研究など、約140ページにわたり特集が組まれています。
読み応えたっぷり!!


個人的に興味深かったのはまず、結喜しはや氏の「永倉新八の出自と系譜」にある、永倉の生い立ち。

長倉家は、新八の曾祖父の代まで、松前藩江戸屋敷に出入りする商人だったんですね。
しかし、曾祖父長左衛門の娘が藩主松前資廣の側室となり、四男一女を儲けたことで、長左衛門は松前藩士に取り立てられたのだそうです。
側室となった勘子は、資廣の死後も藩内で重きをなし、子どもたちは幕臣や摂家、松前藩の重臣と縁組をして活躍したことから、新八の父の代には、藩でも中堅家臣の身分であったとか。
兄が夭折して、長倉家跡取りの立場にあった新八が、剣術修行のために脱藩してもお咎めが無かったり、会津戦争の後、戦いきれずに江戸に戻ったとき、すぐに帰藩が叶ったのも、勘子やその子どもたちの業績によって、長倉家がその身分以上に藩の中で重きをなしていたからのようです。

永倉が先祖と身分に誇りを持ちつつ、農民の出身だった近藤や土方たちとも気さくに交流を持てたのは、古くからの武士の家柄ではなく、数代前までは自分の家も商人だったという意識があったからかもしれませんよね。



えぇ〜?こんなエピソードあったの? だったのが、藤堂利寿氏の「深川斬り合い事件」。
鳥羽伏見の戦いで敗戦し、江戸に戻った新選組が、上野寛永寺に謹慎する徳川慶喜の警衛の任に着くまでの間、永倉は島田たち数人と深川で3日間も飲み続けたあげく、一人外に出て、3人の武士と斬り合いになったという話。
永倉は、『新撰組顛末記』と『七ヶ所手負場所顕ス』の中で伝え遺しているそうですが、私、全然知りませんでした。
あるいは、どこかで読んでいても、流してしまっていたのかも。
今までは本当に、土方さんに偏った読み方しかしていなかったからなぁ。(猛反省)

可笑しかったのは、『顛末記』の記述。
新選組の本部へ帰ると、副長土方が永倉の目の下の傷を見て、どうしたのかと訊いたそうな。
永倉が事情を説明すると、土方は「軽い身体でござらぬ、自重さっしゃい。」とだけ言って、そのままに済んだとのこと。
なんか、二人の関係が見えて、おかしいな〜〜と思いました。



勝沼の戦いで敗れた後、近藤・土方らと別れた永倉が、その後どのように戦って、どうやって江戸に戻ったのか。
横田淳氏の「戊辰大戦争」、大蔵素子氏の「雲井龍雄と永倉新八」を読んで、詳細を初めて知りました。

西軍が会津若松城下に侵攻し、行き場を失った永倉は米沢藩士・雲井龍雄と出会いました。
会津へ援軍を要請するため、雲井とともに米沢に向かった永倉でしたが、すでに米沢藩は恭順に決しており、雲井の元に潜伏している間に会津戦争は終わってしまいました。
永倉にとって、雲井との出会いがある意味、その後の人生を決めたんですね。

雲井はその後、新政府の方針を批判し続けたために内乱罪で逮捕され、明治3年12月
26日、斬首に処せられました。
伊東甲子太郎の弟三木三郎との出会いが、永倉に身の危険を感じさせ、杉村家への養子縁組を決めたと言われてきましたが、結喜しはや氏によれば、あるいは雲井の斬首が、さらに養子の話を進めさせたのではないかとのこと。(「杉村家との養子縁組」)

幕府のため、会津のために、身命を賭して戦い抜くはずだった自分。
しかし、なぜか生き延びて、今薩長の世に生きている。
そして、共に戦うことを誓った近藤も雲井も、新政府に斬首されてしまった。
永倉の慟哭はいかばかりであったでしょう。



明治の世に同じように生き残った、永倉新八と斎藤一。
永倉は新選組について積極的に語り、斎藤はほとんど語ることはありませんでした。。
そんな二人の相違を検証した、伊東成郎氏の「斎藤一が封印した『沈黙の明示』」も面白かったです。

斎藤は会津戦を最後まで戦い、西南戦争に参加して雪辱も果たした。
斎藤は過去に決着を付けることができたから、新選組当時の自分へ回帰する必要はなかった。
けれど永倉は、米沢で動きが取れずにいた間に戊辰の戦は終わり、日清戦争従軍を希望したが叶えられなかった。
過去を引きずったままの永倉は、新選組を語り続けることで同志たちを供養し続けるしかなかったのではないか。
傍目には穏やかな晩年を送ったかのように見える永倉の、苦しい胸のうちが手に取るようです。


菊地明氏による、『七ヶ所手負場所顕ス』の解読文。
自分の体に残る名誉の傷の由来を、孫たちが大きくなったら見せるようにと書き残した
新八じいさん。
微笑ましいとともに、その生き生きとした文章に引き込まれます。
永倉は今明らかになっている文献の他にも、「日記遺稿」と「同志連名控」を書き残しているらしい。
これらの記録も、是非是非見つかるといいですね。


そうそう、三木三郎の写真が載っていたんですけど、改めて見ると、伊東甲子太郎の肖像画によく似ているなぁと思いました。
ほんとに美形の兄弟だったのね。

(2005年8月1日)
 

 
『未完の「多摩共和国」』  佐藤文明

武蔵の国は古くから「武士(もののふ)の郷」であり、多摩はその中心だった。
普段は田畑を耕しているが、ひとたび事がある時は、鋤や鍬を刀に替えて主君のもとへ駆け付ける。
鎌倉後家人から続く在地武士団の姿がそのまま伝えられ、秀吉の刀狩りも及ばなかった土地。
江戸幕府が唯一半農半士を公認する八王子千人同心が、関東防衛のために置かれた土地。
その土地で、土方歳三を生んだ土方家は、小田原・北条の家臣となった三沢十騎衆の棟梁家を務めていた。
もともと農民と武士の間に大きな隔たりのない多摩で、武士の気概を持つのは当然のことだった。


この本を読んで一番嬉しかったのは、佐藤彦五郎や小島鹿之助・近藤勇・土方歳三・井上源三郎らの人物像を、はっきりと思い描くことができるようになったことでしょうか。
多摩のネットワークと自治組織の存在。
名代官江川坦庵の共和思想と、農兵隊の構想。
そして、日本を代表する開明派であった担庵の影響。
それらがあってこその彦五郎や鹿之助であり、また彼らに導かれてこその勇や歳三や源三郎だった。
幕府の直轄領だったから徳川家への報恩の気持ちが強かったとか、農民として武士に憧れていたとか、そんな中途半端な気持ちだけではない。
彼らにはその拠って立つところがしっかりとあったんですね。

しかし後見役がいたとはいえ、彦五郎が11歳(満10歳)で下佐藤の名主を、芳三郎が13歳(満12歳)で上佐藤の名主を継いだというのには驚きます。
その年齢から責任ある立場に立たされていれば、それも担庵の導きがあれば、人物が出来てくる訳ですよね。
そしてそんな彦五郎を、幼い時から間近でずっと見ていた歳三。
きっと自然に、人の使い方、交渉の仕方などを学んでいったであろうことが、わかります。
そうして身につけていった知識や勘が、新選組の組織運営や、やがては旧幕府軍の指揮などにも生かされていったのでしょう。


しかし、多摩の学問的・精神的レベルの高さには驚きました。
今まで勇や歳三や源三郎に、学問も思想も知らぬ百姓上がりのイメージをつけたのは誰よ!(苦笑)
歳三が手習いを習った本田覚庵は、漢方医でもあり、なんと蘭方医でもありました。
代官江川坦庵は佐藤泰然の盟友であり、覚庵も泰然と交流があった。
佐藤泰然とはもちろん、佐倉に順天堂を開いた蘭方医であり、あの松本良順先生の父親です。
とわかれば、やがては勇と歳三が良順先生と懇意になるのも、歳三が洋装や洋式兵法をすんなり取り入れたのも、すごく自然なことだったのだと納得できるような気がします。

日米修好通商条約と横浜開港によって、多摩川以南が外国人の自由行動域となり、養蚕地帯だった多摩は活気を見せ、横浜に向かう絹の道ができる。
横浜と直結することによって、多摩には外国の文化や情報がどんどん入ってきていた訳ですよね。
そこで育った歳三たちが、世の中の動きにまったく疎かったとは考えられない
とすれば、確かに勇は各藩の代表と対等に渡り合っていたかもしれず、歳三は実はあの伊東甲子太郎先生と堂々渡り合っていたかもしれず・・・。
土方が伊東とタイマンはって、論戦してるとこ想像したら、面白くないですか?
(それも、山本土方と谷原伊東で想像してみる・爆)


もう一つわかって嬉しかったのは、天然理心流がけして百姓剣法ではなかったということ。
二代目三助の跡は、周助の他に桑原永助・増田蔵六・松田正作の3人も継いでいるのですが、周助の他は主に武士を弟子に取っていたそうで。
桑原の弟子の中には、なんと箱館で歳三とともに戦った中島三郎助もいたんですね。
三郎助さんとは句作という共通点もありますし、実は懇意にしてもらっていたかもしれませんよね。
2人とも、箱館で戦死しているし。仲良しさん?(違う)

江戸「練兵館」の道場主・斎藤弥九郎は、坦庵の腹心だった。
その繋がりで、試衛館には練兵館から助っ人が来ていたのだろうという説はすごく納得できました。
八王子千人同心は蝦夷地の屯田に従事している。
だから歳三は、開拓に入った千人同心からの口伝てで、蝦夷の厳しさを知っていたというのも、なるほどと思いました。
七重に入植していた千人隊の一部は、箱館府軍として新選組を含む旧幕府軍と戦っているんですよね。
(歳三はこの時、別働隊を指揮していましたが。)

坦庵は代官屋敷のあった韮山に塾を開いていましたが、坦庵の死後は江戸芝新銭座(竹芝)に大小砲習練場が開かれ、高弟たちによってさまざまな技術や学問が教えられました。
そこに出入りしていたのが、榎本武揚と大鳥圭介。
もちろん歳三と直接の関係はないのですが、坦庵繋がりということを考えれば、多少なりともその思想の根底に似たものが流れていたかもしれない。
そう考えると、ともに箱館まで戦っていったのも、どこか通じるものがあったのかなぁなんて。
三谷さんが今度描くであろう、同じ夢を見るというのも、あながち有り得ないことではないかなと思ったりして。


「公用に 出て行く道や 春の月」
この公用とは、彦五郎の命令で、小野路の橋本政直宅にでも行く時のことではないか、という説は面白かったです。
豊玉発句集は上洛前にまとめたものだから、“公用”という言葉を使っているのは確かにすごく不思議だったんですよね。
日野宿総名主の命令だから公用。だけど行き先は気心知れた友人宅だから、のんびりとしている。
なにか、謎が一つ解けたような感じです。


近藤勇と土方歳三の関係性も、なるほどなぁと思いました。
勇が義兄弟の契りを結んでいたのは、佐藤彦五郎と小島鹿之助。歳三とではないんですよね。
小説などでは親友や幼なじみに描かれることの多い二人ですが、本当にそうだったんだろうか・・・と最初に思ったのは、井上源三郎資料館で源三郎の兄松五郎の上洛日記を見た時だったでしょうか。
「八木氏邸江参り、土方、沖田、井上ニ逢、万端聞、承知いたし。何より近藤天狗ニ成候。」
“天狗”=天狗党。即ち、勇が芹沢鴨の攘夷急進思想に影響されて困ると、土方たちから相談を受けたということなのだけど、歳三が勇といわゆる親友のような関係だったのであれば、総司や源さんと一緒に松五郎さんに相談したりするかしら?と、すごく不思議に思ったんですよね。

いわゆる“親友”のような関係だったのは、勇と彦五郎。
歳三はあくまでも、彦五郎の義弟。
とすれば、勇との関係も、弟分ということになる。
新選組において、歳三が何があっても勇を立てて、影に徹してきたのもわかりますし、勇べったりではなく、一歩引いて見ているのも説明が付きます。
著者は歳三は、日野宿総名主として日野を離れられない彦五郎の代人として上洛したと考えています。
だから勇の芹沢への接近についても、歳三たちは松五郎から彦五郎に伝えてもらい、彦五郎から勇に意見してもらおうとしたんですね。

ちなみに元治元(1864)年10月9日付で、江戸に東下している勇と、彦五郎に宛てて、歳三が出した書簡が残っていますが、末尾の宛名が
  近藤勇先生
  佐藤彦五郎様
と並んでいるんです。
“勇様”ではなく、“勇先生”なんですよ。
勇と歳三の間には確実に、兄弟のような、あるいは師弟の関係があったのだろうと感じられます。


浪士組参加の経緯も、新しい視点から自説を導き出していて、面白かったです。
幕府は清川の策謀を承知しており、それを阻止する密命を帯びて、多摩メンバーと近藤たちが参加した。
歳三・源三郎をはじめとして、彦五郎の道場ゆかりのメンバーは、江川代官から彦五郎に話が持ちかけられて、参加が決まった。
近藤と試衛館の食客組は、彦五郎から参加を勧められた、と同時に、坦庵の腹心で「練兵館」道場主・斎藤弥九郎から打診を受けて参加を決めたのではないか。
密命を帯びていたということを立証するのは難しいと思いますし、それならなぜ清川と分かれて京に残ったのかという疑問が新たに発生してしまうのですが、多摩メンバーと食客組と、同じ試衛館派でも参加の経緯が違ったという説は納得できます。

後に永倉や原田や斎藤が新選組の体制批判をする時、永倉たちは勇だけを弾劾していて、そこに土方は含まれていない。
これも実はすごく不思議だったのですが、永倉たちは勇と浪士組に参加したのであって、歳三とは別ルートだったとなれば、なるほどと思えます。
ちなみに永倉新八は浪士組参加の経緯について、浪士組募集の件はまず自分の耳に入って、それを近藤をはじめとする試衛館の面々に持ちかけたと書いています。(『新撰組顛末記』)

また、『尽忠報国勇士姓名録』で浪士組編制を見てみると、試衛館の面々はみな六番組に属しているのに、源三郎だけは三番組に配属されています。
しかし三番組には、中村太吉(郎)・佐藤房次郎・馬場兵助・沖田林太郎という佐藤道場の門人たちがいるんですね。
このことも、参加経緯の違いを表わしているのではないでしょうか。
(土方が六番組なのは、すでにこの時から彦五郎の代人として、勇を補佐する役割を任じていたからか?)



多摩という土地から見た新選組。多摩という土地が生んだ勇や歳三たち。
その見かたはとても新鮮で、大変勉強になりました。
けれども多摩という側面からしか新選組を捉えていない推論もあって、その辺りには「そうかぁ?」と首を傾げてしまったのも正直なところ。

もちろん、本書は多摩について考察している著作なのですから、それも有りだとは思うのですが、すべてを多摩と結び付けられてもちょっと・・・。(汗)
浪士組と分かれ、京都守護職お預かりとなった時から、勇や歳三たちの立場は、多摩の代表というよりも、会津や幕府の尖兵という意味合いが強くなったはず。
それなのに、新選組の動きをすべて多摩と直結して語られても・・・と思ったり。


たとえば。


池田屋事件における新選組の活躍に触れて、試衛館の面々の送り出しの成否が江川農兵全隊の結成評価と直結していたというのは、少し考え過ぎのような気がします。

送り出しの成否といっても、最初は単に清川の策謀を阻止するため・・・と推論していませんでしたっけ?(苦笑)
それに、新選組はすでに守護職指揮下の警察隊&軍隊になっていて、職業軍人のようなもの。
一方農兵は江川領にあって、あくまでも土地に根付いた治安防衛に尽くすもの。
存在意義が全然違うと思うんですよ。
池田屋事件の第一報を、京にいた柏木総蔵が彦五郎に伝えていたというのは興味深いですが、たとえ池田屋における浪士捕縛が成功しなくても、農兵隊は結成されたのではないでしょうか。
もしかしたら逆に、治安の悪化による必要性をさらに感じたかも。


それから、たとえば土方の二度目の帰郷について。
伊東甲子太郎一派が抜けた穴埋めのためにわざわざ帰郷したとは思えないから、彦五郎に対して手紙ではすまぬ重要伝達事項があったからではないかという説。

これも、裏付けになるものが全然ないし、それこそ腑に落ちない推論なんですよね。
大政奉還に向けて世の中が動いていたこの時期に、なぜ新選組副長が江戸に東下したか。
それはどう考えても、これから起こるかもしれない戦に備えての隊士募集のため、とみるのが一番妥当だと思うんですけど。


もう一つは、流山での勇の出頭が、甲陽鎮撫隊の責任を取り、彦五郎の赦免を取り付けるためだった・・・というのもどうでしょう。
今さら、どうしてそこで甲陽鎮撫隊?
著者は、勝沼戦争の責任を取るのは、勇か彦五郎のどちらかであった、と言いますが、果たして彦五郎と勇、並べられる二人でしょうか。

甲府城攻略の命令を正式に旧幕府トップから受けたのは勇であり、甲陽鎮撫隊の母体は新選組。
彦五郎は、日野農兵隊二十数人を率いて参加したに過ぎません。
勇(大久保大和)の行方を知る人物として、そして日野農兵隊の隊長として、新政府軍は彦五郎を探していたかもしれませんが、甲陽鎮撫隊の責任を彦五郎に取らせるつもりなど、新政府軍には毛頭無かったのでは?
だいたい、勇が責任を取って彦五郎の赦免を願い出るくらいなら、どうしてさらに兵を集めて屯集するようなことをしたでしょう。

多摩では“彦五郎>勇”かもしれませんが、新政府軍にとっては“勇>彦五郎”だったと思うのです。
勇の負わねばならない責任は甲陽鎮撫隊のことだけではない。
だから負ったとすれば、新選組を背負って出頭したのです。
そして、今まで新選組が倒幕派に対して行ってきたことのすべての責任を問われて、勇は処断されたのだと考えます。


著者が多摩に生まれ、上佐藤のご出身ということで、彦五郎や多摩の人たちに対して抱く思い入れの強さはよくわかります。
けれど、せっかく多摩を代表し、彦五郎の意を受けて、京で頑張っていた勇や歳三たちなのですから、どうせならもう少しいろいろな角度から見て、正しく評価してあげたい。
せっかく新しい視点に立っているのに、もったいないな・・・と思いました。



とはいえ。


禁門の変の際の、多摩の人たちの情報収集と伝達・共有は、とても面白かったです。
電話やメール、テレビやラジオのない時代。
勇や歳三は無事なのか、新選組はどうなったのか。
その情報収集能力に感心するとともに、必死に駆け回る多摩の人たちが愛しかったです。


多摩の農兵隊の活躍にも感動しました。
天狗党挙兵が、他人事ではなかったこと。
武州世直し一揆の撃退、鎮圧。
壷伊勢屋事件って、こういう背景で起こった事件だったんですね。
本当に、まるで池田屋事件じゃないですか。彦五郎さんたち、すごいっ!!
さらに甲陽鎮撫隊出兵前にも、江戸から西へ向かう浪士たちの乱暴狼藉を取り押さえている。
農兵隊は多摩を守るとともに、江川代官のもと、しっかり幕府を守っていたんですね。
このこと、もっともっと世間に認識されてもいいですよね。


甲陽鎮撫隊の出兵は、開幕以来の江戸城防衛態勢の発動という説にも、新鮮な発見をさせてもらいました。
幕府防衛隊の一角として、甲府城で、小仏峠で、多摩川の渡しで雌雄を決する。
それは開幕以来の江戸城防衛態勢であり、甲陽鎮撫隊はその作戦の一環だったという説。
とすれば、勇や歳三にとっても、彦五郎にとっても、至極当り前の出兵だったのでしょう。
ただ、既に時代に即していなかった観はありますが。

勇が名乗った“大久保剛”は、江戸幕府発足時に関東総代官に任じられ、八王子千人隊(甲府城警護のため結成された)のリーダーとなった、大久保長安から。
歳三が名乗った“内藤隼人”は、同様に関東総奉行に任じられ、新宿百人隊のリーダーであった内藤清成から。
それぞれ取った由緒ある名前であったこと。
甲府城を押さえるために向かう二人は、この名前でなければならなかったんですね。

そして、彦五郎・谷合弥七・小島鹿之助らの参陣は、単なる義理や勢いではなかった。
江戸防衛のために温存された関東武士の末裔として、また自分たちの手で多摩を守るという自主防衛の形として、参加しなければならない戦いだった訳です。
江戸から遠ざけられた、捨て駒にされたと言われる甲陽鎮撫隊ですが、こうしてその必要を説かれると、嬉しくなります。


それにしても、勝沼の戦いで敗れてからの、佐藤彦五郎家の逃避行。
彦五郎の句が泣けます。
雉子啼くや つまずく石に のこる闇
彦五郎の赦免のための働き掛けが、江川代官を通して行なわれなかったのは何故でしょう。
それがすごく不思議だったり。


歳三の壬生浪士組の参加が、彦五郎の代人という立場の参加であり、多摩の代表として徳川家を守るという、義を貫く行動であったとすれば、勇亡き後も蝦夷地まで戦い続けた、歳三の生き様はすごく納得できます。
そして、
われ、日野・佐藤に対し、なにひとつ恥ずることなきゆえ、どうかご安心を
と鉄之助に託したという、伝言に込めた思いも。(涙)
けして死に場所を求めていた訳ではない。
歳三が戦い続けたのには、意味があったのですから。


明治7年8月、旧幕府軍の戦死者を祀ることを許可する、太政官布告が出ました。
小島鹿之助・佐藤彦五郎をはじめ、勇と歳三に縁のある多摩の人たちは、殉節両雄之碑の建立を計画します
撰文は、鹿之助がまとめた「両雄史伝」をもとに、坦庵の弟子大槻盤渓が書きました。
仙台藩に帰藩していた盤渓は、奥羽越列藩同盟の思想的支柱にもなっていたんですね。
撰文の揮毫は松本順。篆額は松平容保。
永倉が板橋に建てた慰霊碑(明治12年完成)と違って、殉節両雄之碑は顕彰碑だったため、建立の許可がおりたのは明治15年になってからでした。
さらに、総責任者だった佐藤俊宣(彦五郎の長男)が天皇筆禍事件で逮捕されてしまったことなどがあり、ようやく落成したのは明治21年のことでした。

それでも多摩の人たちは、この碑を建立しなければならなかったのだと思います。
なぜならそれは、勇と歳三の復権を勝ち取るという意味だけではなくて、田畑を耕しながら関東を守ってきた多摩の人たち自身の、存在意義を確認する意味もあったからではないでしょうか。
明治政府の中央集権の体制にどんどん組み込まれていく中で、ずっと守り抜いてきた自主・自治の精神を、確かめ、形にする意味もあったのでは?
歳三が箱館まで戦い抜いたと同じ意味が、殉節両雄之碑建立にもあったように思うのです。


廃藩置県によって神奈川県に帰属した西多摩は、初代県知事陸奥宗光(海援隊副長)、二代県権令大江卓(元陸援隊士)、三代県令中島信行(元海援隊士)と続く土佐人脈の元で、さらに自治意識を高めていきました。
自主・自治の精神は、多摩の人々を自由民権運動へと駆り立てていきます
そして多摩は土佐と並んで、自由党を支える二大勢力の一画を担っていきました。

こうした多摩の民権運動の高まりを恐れた明治政府は、その力を削ぐためにあらゆる策をめぐらします。
二度にわたる日野・八王子への天皇行幸と、恒例化した連光寺のウサギ狩りは、運動に釘を刺し、分断する意図があったのではないかと著者は言います。
神奈川県知事は、中央政府の息のかかった、薩長出身の人間に代わりました。
八王子が横浜や川崎と直結し、東京の脅威になるような鉄道計画はすべて退けられました。
そしてとどめに、三多摩は半ば強引に、東京府に移管されます。
多摩は東京資本に飲み込まれ、産業化の波に洗われていきました


そんな中、小島鹿之助と佐藤彦五郎がこの世を去りました。
鹿之助71歳(明治33年没)、彦五郎76歳(明治35年没)の大往生だったそうです。

彦五郎の絶筆、
一と筋に 道は平らの 夏野かな
行先は 知らぬと知れて 夏野越
私は、2句目が好きです。



人は人に育てられ、土地に育てられるのだと思います。
要は、環境によって育てられる。
勇や歳三、源さん、総司の生き方の背景には、多摩という土地の特殊性と、綿々と受け継がれてきた多摩人の精神があった。

正史と同じくらい、郷土史も大切なのですね。
新選組や、勇、歳三に対する見方が広がって、嬉しく思います。
そして、勇や歳三、試衛館のみんなだけではない、多摩の人たちもこんなに激しく戦っていたのだと、感動を覚えます。



でも、私は創作としての“かっちゃんとトシ”も好きですけどね。
かっちゃんを失って、支えをなくすトシも、やっぱり好き。

史実の土方さんは多摩の精神を貫いた土方さんとして、創作の土方さんはそれぞれ魅力のある土方さんとして、たくさんの土方さんに萌えることができて、幸せです。

(2005年12月6日)
 

 
『TVnavi特別編集 「新選組!!土方歳三最期の一日」
                 メイキング&ビジュアル完全ガイドブック』
 



(2005年月日)
 

 
「新選組史料集」     ※蔵書にはありません。



(2006年月日)
 

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