※ブログ記事を編集しました。
「子孫が語る土方歳三」 土方愛 大切に大切に読ませていただきました。 土方家がどのような家であったのか。石田村や日野がどのような土地柄であったのか。多摩に散らばる縁戚関係を結ぶ家々。それらの環境の中で、土方歳三はどのように育ったのか。 資料や写真も多く、初めて聞くエピソードなどもあり、とても面白かったです。 のどかだけれど、いざとなれば徳川のために立ち上がる気概を持った風土の中で、土方歳三は大切に見守られ、のびのびと育ったんですね。 親戚である平家で葬儀のお手伝いをしたり、小島家のおばあさんにお見舞いの手紙と薬を送ったり。そんな優しい心遣いをする土方さんだから、大病を患った時には親戚一同皆が心配し、俳句の先生が全快祝いの手紙をくださって・・・。 この要五先生の手紙、初めて知りました。 この手紙や、土方さんが所持していた短冊集や状箱など、リニューアルオープンした資料館に展示されているのかな。 豊玉発句集は有名ですが、さらに土方さんの“文”の面が窺えて、嬉しい限りです。 土方歳三の愛刀和泉守兼定については、親子二代にわたって兼定を見守ってきた研師の方の言葉が載せられています。 箱館から届いたままの状態の時には、物打ちに刃こぼれが見られたこと。こんなに磨耗した柄糸は今まで見たことがないこと。この刀は、相当厳しい戦いを何度も潜り抜けてきたのでしょう・・・と。 専門家の方の言葉には、やはり説得力がありますね。 素人の私でも、兼定のあの柄の部分には本当にゾクゾクしました。(「土方歳三の故郷 日野を巡る旅」) この刀に託された土方歳三の命、この刀に掛かって散っていった無数の敵兵士たちの命を感じましたね。 多摩のゆかりの家々に伝わった、土方歳三戦死の報。 親戚の橋本家に伝わる『橋本日記』には、「(明治二年六月)十五日日陰夕刻小雨(中略)北海之凶音耳ニ入嘆息」と記されているそうです。思わず、涙・・・。 その嘆きもさることながら、「歳三戦死」と書くことができない当時の多摩の人たちの無念さにも、胸が詰まりました。 賊を出した家という周囲の厳しい視線の中で、生き残った隊士たちや箱館政府関係者から情報を収集し、後の世に伝えた甥っ子の隼人作助。 明治7年、新政府から旧幕府軍戦没者の祭祀慰霊が許されると、近藤・土方の賊名をはらす顕彰碑「殉節両雄の碑」を建てた多摩の人たち。 土方の親戚であり書の先生でもあった本田覚庵の息子退庵は、明治20年函館に墓参りに訪れて、弔歌を詠んでいます。そこには、箱館でともに戦った榎本武揚・大鳥圭介もコメントを寄せていて、じんときました。 さらに土方家が大切にしている書簡があるそうです。 それは、土方歳三の幼馴染みの息子・平忠次郎が、室蘭警察署に勤めていた多摩出身の知人・加藤福太郎に頼んで、土方の遺体の埋葬地に関して調査してもらった、その報告書。 ブログに土方さんのご遺骨のことを書きましたが(5月11日・14日の記事)、あれは主に藤堂利寿氏が検証の結果有力としている説であり、私もなるほどと思っているものです。 実は他にも土方歳三の埋葬地とされる場所はいくつかあって、その一つがこの加藤福太郎の書簡に書かれています。 それによれば、加藤福太郎が、碧血碑支配人である和田唯一と、旧幕府軍兵士の遺体の埋葬・慰霊に尽力してきた柳川熊吉とに話を聞いたところ、土方の遺体は最初七重村の焔魔堂に埋葬したが、後に火葬して、明治12年に碧血碑の中に納めたというのです。 藤堂氏はこれについて、矛盾点が多く信じがたいとしていますが、愛さんは埋葬地がどこか正確にはわかっていないとしながらも、この手紙には歳三を想う周囲の者たちの優しさがあふれているように感じるとおっしゃって、子孫にとって何にも代え難い大切な手紙と書いています。 土方さんを大切に見守り、育ててきた多摩の人たち。 彼の死後は、過酷な状況の中で、一つ一つ真実を探り、賊徒の汚名を晴らし、子孫に伝えてきた多摩の人たち。 そしてその真実を私たちに伝えてくださるご子孫の皆さん。 土方歳三の優しさ、そして彼を取り巻く人たちの温かさがとてもよく伝わってくる一冊でした。 日野を巡ると感じる温もりが、この本にも溢れています。 是非読んでみて下さい。 書店でも買えますが、土方歳三資料館を通して買うと、愛さんのサインを入れていただけます。 土方さんのご子孫のサインと思うと、それだけで嬉しいんですよ。(*^^*) 資料館の新しいしおりも同封してきてくださいました。 リニューアルオープンした資料館にも、一度伺わないとなぁ。 (2005年5月23日) |
「歴史街道」と「歴史読本」 「歴史街道」2005年8月号に、山村竜也氏の「新発見!『山崎丞取調日記』でわかった新選組各隊の編成」が掲載されています。 私は日野市郷土資料館が試作した「取調日記」の冊子を入手し損ねたのですが(そういえばあれから1ヶ月、再発行のお話はどうなったかしらん)、日記の中には慶応元年7月頃と思われる隊士の名簿が載っているそうですね。 その名簿には、隊士名の上部に小隊の番号が付記されていて、これまであまりわかっていなかった平隊士たちの所属がかなりの割合で判明したとのこと。 新選組は、その時その時の隊の事情や世の中の情勢に合わせて、副長助勤制にしたり小隊制にしたり、随時編成を変えているのですが、とりあえず慶応元年7月頃限定での組織の概要が掴めた訳です。 局長近藤勇を筆頭に、整然と並ぶ隊士の一覧表は実にみごと。 見ていると、わくわくどきどきしてきます。 と同時に、あぁ、この人はもうすぐ粛清されちゃうとか、わかってしまうのがちょっと悲しかったり。 眺めているだけで、いろいろなドラマが見えてくるのが堪らないですね。 「歴史読本」2005年9月号の特集は、「永倉新八と『新撰組顛末記』の謎」。 人物の再検証から始まって、永倉が遺した記録の数々、遺品のカラー写真、同じく生き残った幹部斎藤一や靖共隊の研究など、約140ページにわたり特集が組まれています。 読み応えたっぷり!! 個人的に興味深かったのはまず、結喜しはや氏の「永倉新八の出自と系譜」にある、永倉の生い立ち。 長倉家は、新八の曾祖父の代まで、松前藩江戸屋敷に出入りする商人だったんですね。 しかし、曾祖父長左衛門の娘が藩主松前資廣の側室となり、四男一女を儲けたことで、長左衛門は松前藩士に取り立てられたのだそうです。 側室となった勘子は、資廣の死後も藩内で重きをなし、子どもたちは幕臣や摂家、松前藩の重臣と縁組をして活躍したことから、新八の父の代には、藩でも中堅家臣の身分であったとか。 兄が夭折して、長倉家跡取りの立場にあった新八が、剣術修行のために脱藩してもお咎めが無かったり、会津戦争の後、戦いきれずに江戸に戻ったとき、すぐに帰藩が叶ったのも、勘子やその子どもたちの業績によって、長倉家がその身分以上に藩の中で重きをなしていたからのようです。 永倉が先祖と身分に誇りを持ちつつ、農民の出身だった近藤や土方たちとも気さくに交流を持てたのは、古くからの武士の家柄ではなく、数代前までは自分の家も商人だったという意識があったからかもしれませんよね。 えぇ〜?こんなエピソードあったの? だったのが、藤堂利寿氏の「深川斬り合い事件」。 鳥羽伏見の戦いで敗戦し、江戸に戻った新選組が、上野寛永寺に謹慎する徳川慶喜の警衛の任に着くまでの間、永倉は島田たち数人と深川で3日間も飲み続けたあげく、一人外に出て、3人の武士と斬り合いになったという話。 永倉は、『新撰組顛末記』と『七ヶ所手負場所顕ス』の中で伝え遺しているそうですが、私、全然知りませんでした。 あるいは、どこかで読んでいても、流してしまっていたのかも。 今までは本当に、土方さんに偏った読み方しかしていなかったからなぁ。(猛反省) 可笑しかったのは、『顛末記』の記述。 新選組の本部へ帰ると、副長土方が永倉の目の下の傷を見て、どうしたのかと訊いたそうな。 永倉が事情を説明すると、土方は「軽い身体でござらぬ、自重さっしゃい。」とだけ言って、そのままに済んだとのこと。 なんか、二人の関係が見えて、おかしいな〜〜と思いました。 勝沼の戦いで敗れた後、近藤・土方らと別れた永倉が、その後どのように戦って、どうやって江戸に戻ったのか。 横田淳氏の「戊辰大戦争」、大蔵素子氏の「雲井龍雄と永倉新八」を読んで、詳細を初めて知りました。 西軍が会津若松城下に侵攻し、行き場を失った永倉は米沢藩士・雲井龍雄と出会いました。 会津へ援軍を要請するため、雲井とともに米沢に向かった永倉でしたが、すでに米沢藩は恭順に決しており、雲井の元に潜伏している間に会津戦争は終わってしまいました。 永倉にとって、雲井との出会いがある意味、その後の人生を決めたんですね。 雲井はその後、新政府の方針を批判し続けたために内乱罪で逮捕され、明治3年12月 26日、斬首に処せられました。 伊東甲子太郎の弟三木三郎との出会いが、永倉に身の危険を感じさせ、杉村家への養子縁組を決めたと言われてきましたが、結喜しはや氏によれば、あるいは雲井の斬首が、さらに養子の話を進めさせたのではないかとのこと。(「杉村家との養子縁組」) 幕府のため、会津のために、身命を賭して戦い抜くはずだった自分。 しかし、なぜか生き延びて、今薩長の世に生きている。 そして、共に戦うことを誓った近藤も雲井も、新政府に斬首されてしまった。 永倉の慟哭はいかばかりであったでしょう。 明治の世に同じように生き残った、永倉新八と斎藤一。 永倉は新選組について積極的に語り、斎藤はほとんど語ることはありませんでした。。 そんな二人の相違を検証した、伊東成郎氏の「斎藤一が封印した『沈黙の明示』」も面白かったです。 斎藤は会津戦を最後まで戦い、西南戦争に参加して雪辱も果たした。 斎藤は過去に決着を付けることができたから、新選組当時の自分へ回帰する必要はなかった。 けれど永倉は、米沢で動きが取れずにいた間に戊辰の戦は終わり、日清戦争従軍を希望したが叶えられなかった。 過去を引きずったままの永倉は、新選組を語り続けることで同志たちを供養し続けるしかなかったのではないか。 傍目には穏やかな晩年を送ったかのように見える永倉の、苦しい胸のうちが手に取るようです。 菊地明氏による、『七ヶ所手負場所顕ス』の解読文。 自分の体に残る名誉の傷の由来を、孫たちが大きくなったら見せるようにと書き残した 新八じいさん。 微笑ましいとともに、その生き生きとした文章に引き込まれます。 永倉は今明らかになっている文献の他にも、「日記遺稿」と「同志連名控」を書き残しているらしい。 これらの記録も、是非是非見つかるといいですね。 そうそう、三木三郎の写真が載っていたんですけど、改めて見ると、伊東甲子太郎の肖像画によく似ているなぁと思いました。 ほんとに美形の兄弟だったのね。 (2005年8月1日) |
『TVnavi特別編集 「新選組!!土方歳三最期の一日」 メイキング&ビジュアル完全ガイドブック』 (2005年月日) |
「新選組史料集」 ※蔵書にはありません。 (2006年月日) |