新選組の軌跡を辿る旅

 

離別の地“流山”、北へ旅立つ“国府台”    2005年7月15日  (ブログ記事を一部修正)

「新選組!」続編放送に向けて、流山と市川に行ってきました。
近藤・土方の永遠の別れの地となった流山。(香取近藤を抱き締める、山本土方のあの表情が忘れられない〜)
そしてその後、土方が旧幕府軍と合流し、北に向かって旅立った市川国府台です。(たぶん続編は、流山の別れを流した後、ここから始まるのではないでしょうか)
梅雨の晴れ間のとても暑い日、熱中症と日焼けを気にしながら、散策してきましたよ。


流山に着くと、まず市役所に寄って、市内の地図を入手。そこから市立博物館へと向かいます。
ここには、去年大河ドラマの放送に合わせて開催された企画展の展示が、常設展のスペースにそのまま納められています。

新選組が流山にいたのは、ほんの数日。
五兵衛新田から移動してきて、軍事訓練を始めた矢先に西軍(官軍)に包囲されてしまい、近藤は出頭、隊士たちも脱出していったのですから、史料は本当に少ないんですね。
展示史料の中で特筆すべきは、「吉野家文書」「恩田家文書」などの文献と、近藤・土方たちが本陣を置いた長岡屋の階段くらいでしょうか。
それでも、ずっと噂や伝承でしかわからなかった新選組宿陣と西軍包囲の詳細が明らかになってきたのは、平成15年12月に発見された、この「恩田家文書」に拠るところが大きいようです。


慶応四年四月二日朝
 新選組、流山に着陣。
 大久保大和(近藤)、内藤隼人(土方)らは、長岡七郎兵衛方を本陣として宿陣。
 その他隊士たちは、光明院・流山寺などに分宿する。

四月二日夜
 加村山にある田中陣屋(田中藩本多家の下屋敷、ちょうど市立博物館のある辺り)は、
 杉戸宿に宿陣していた西軍(官軍)に、流山に軍隊集結と注進。

四月三日朝
 西軍、羽口の渡しより流山に入る。
 軍を三手に分けて進軍し、一隊は表通りに、一隊は裏通りを通って浅間神社の裏へ、
 一隊は加村山に陣取り、それぞれ大砲を設置して、新選組本陣を三方より包囲した。


この時、隊士たちは訓練に出ていて、本陣には近藤・土方と数名の隊士しか残っていなかったんですよね。
飛地山(市役所のある辺り)で訓練をしていた隊士たちが、西軍に向かって5、6発銃撃をしかけたようですが、あまりに突然の包囲に、抗戦することもできなかったようです。


四月三日午後
 有馬藤太が本陣へ来て、武装解除と兵の解散を申し渡す。
 近藤たちは有馬を光明院に案内し、兵器を引き渡した。
 さらに板橋総督府への出頭を申し渡す有馬に、近藤は暫時の猶予を願い出て、
 一旦長岡屋に戻る。


長岡屋に戻った近藤は、博物館に展示されている階段を上って、酒蔵の二階に上がり、土方たち
3〜4名と話し合ったといいます。
切腹を覚悟していた近藤に対し、土方は大久保大和として出頭し、あくまでも鎮撫隊であるとして切り抜けることを主張。
話し合いは何時間にも及びました。
夜に入って様子を見に来た有馬をさらに待たせ、やがて近藤は紋付袴姿で出頭します。


四月三日深夜
 近藤勇出頭。
 土方は江戸へ。

四月四日
 訓練に出たまま、流山に戻れなくなっていた隊士たちが再集結。
 流山にて金策を行う。
 安富才輔に率いられ、会津へと向かう。


・・・と、こんな感じだったようですね。
「新選組!」では隊士たちがみんなで近藤を説得するような描き方をしていましたが、実際には会って別れを惜しむこともできなかった訳です。

それにしても、包囲されるまで、どうして気付かなかったんですかねぇ。
五兵衛新田を出る時点で、西軍がそこまで迫ってきていることを知っていたはずなんですけど。
この頃の監察方は、尾形俊太郎? 尾形さんの探索の腕はどうだったのかな?
もしも山崎丞が生きていてくれたら・・・。って、さすがの山崎でも無理でしたかね。関東の地理には疎かっただろうし。
甲陽鎮撫隊といい、どこかやることが、間が抜けているように感じるのは、時勢に乗れていないからなのか、近藤の精神が限界に来ているからなのか・・・。


近藤と土方、二人が最後に語り合った長岡屋の酒蔵の階段は、今の私たちには上り下りし難そうな階段でしたねぇ。
一段一段が浅いっていうんでしょうか。足袋でも履いていようものなら、滑って踏み外してしまいそうでした。

博物館の事務室で、文書の新選組に関する記述の部分だけをまとめた史料をいただいて、新選組本陣跡へと向かいました。



長岡七郎兵衛方、新選組本陣跡。
写真などでよく見かける、蔦の絡まった二階建ての、長岡屋の酒蔵ですね。
実はこれ、近藤・土方が最後の時を過ごした蔵ではないって、ご存じでした?
後に三河屋から移転したもので、当時のものではないのだそうです。

まず第一に、新選組が流山に宿陣する2ヶ月前に、長岡屋は正式には嶋屋になっていました。
さらにその後、明治に入って、秋元になっています。
その辺は私も前から知っていたんですけど、蔵はそのままなのかと思ってた〜。
う〜ん、ショック!!(^^;;;


いやぁ、でも歴史ってこんなもんですよねぇ。
ここだと思ってたら、実は違う建物に変わっちゃっていたり。
たとえばパチンコ屋になっちゃっていたり。
でも、無くなったと思っていたら、姫路のお寺に移築されて残っていたり。
歴史って流れてるんだなぁと、面白いなぁとつくづく思います。
 
新選組本陣跡














流山 新選組本陣跡
 


さてさて、お昼も過ぎたので、ファミレスへ。
水分もしっかり取っておきます。今日は本当に暑い〜〜!!


元気が戻ったところで、今度は隊士たちが分宿した、光明院と流山寺に行ってみました。
ここね、地理的に本陣からかなり離れているんですよ〜。
1kmはあるんじゃないかな。
こんなに離れていて分宿なのか?って思っちゃいました。
だって、車も自転車もないんですよ。
隊士たちにちょっと指示を与えに行くとかね、1kmの道を歩いていかなきゃならない。
有馬藤太に武器を見せる時に、「あ、ちょっと向こうに置いてあります。」って、1kmの距離を連れていかなきゃならない。
まぁ、馬を飛ばせば、速く移動できたかもしれないけど。
昔の人と今の私たちと、距離感とか、移動に対する感覚とか、全然違うんだろうなぁと思いました。


光明院は真言宗豊山派の寺院。流山寺は曹洞宗の寺院。
どちらも当時は大きな寺院だったようですが、今残っているのは本堂くらいで、特に流山寺は昭和
40年に再建されており、残念ながら面影はまったくありません。


流山寺から数分歩くと、江戸川の土手に出ます。
近くに丹後の渡し跡があり、新選組が流山に入る時、一部はここを渡ったのではないかとも言われています。
視界が開けて、気持ちいい〜〜。
流山に着いた時の近藤・土方は、ここで力をつけて新選組を再生させるのだと、苦境に居ながらも未来が開けることを信じていたでしょうに・・・。
流山は、新選組ファンにとって、やはり寂しいところです。



離別の地・流山を離れ、江戸川に沿うようにずっと南下していくと、市川国府台に着きます。

ここは、奈良時代に下総の国府が置かれたところ。
文明11年(1479)には太田道灌が国府台城を築き、以来数々の合戦の場となりました。
天正18年(1590)徳川家康が関東に入ると、江戸を俯瞰できることから、国府台城は廃城に。
その後、寛文3年(1663)に、四代将軍徳川家綱が、曹洞宗の寺院安国山総寧寺をここに移し、幕末に至りました。
当時、総寧寺は全国曹洞宗寺院の総支配権を持つ、大変大きな寺院だったんですね。
今でも深い木立の中に、落ち着いた本堂がどっしりと建っています。
 
総寧寺










総寧寺 本堂
 

4月4日、流山から江戸に潜入し、勝海舟に近藤助命に動いてくれるよう嘆願に行った土方は、勝に何かを言い含められたのでしょう、数日江戸に滞在した後、11日に国府台に入りました。
11日から12日にかけて、総寧寺には2500人もの旧幕軍が集まったといいます。
12日には主だった将校が集まって軍議を開き、全軍の総督に旧幕府歩兵頭の大鳥圭介を選出。全軍を三軍に分け、大鳥が中・後軍を率い、先鋒軍を伝習第一大隊長(会津藩士)の秋月登之助が率いることとしました。
土方は先鋒軍の参謀に任じられ、その日のうちに北へ向かったのでした。


今では総寧寺の寺域も縮小し、江戸川に面した城址は里見公園に、東側は大学や中学高校が集まる文教地区になっています。
江戸川の堤防に出ると、川の向こうは東京都。
当時は国府台城址から、遠く江戸の町が眺められたのでしょうか。
あるいは土方の視線はもう少し北に転じて、近藤が捕らえられている板橋の方角を見つめていたでしょうか。
旧幕軍に身を投じた人たちは、必ずもう一度江戸に戻ってくると、心に誓ってその景色に背中を向けたのか。
それとももはや後ろを振り返ることなく、ただ戦いの待つ北の地を目指して旅立ったのか。

国府台も、流山とはまた違う意味で、なんとも切なくなる土地です。

続編はどう描いても、やっぱり切ないよなぁ。くすん・・・。
 

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