心は論理ィ気持ちは・・・
〜1〜
なつかしい明石家さんまのドラマをパクってタイトルを付けてみる。
物心付いて以来屁理屈をこき倒しているわしであるが、
最近とみに理屈っぽいだの論理的だのと評されているようなので
その理由についてこれもまた論理的に考証してみたい。
とはいえ内心面映ゆくはある。
ここにある拙文を幾つかでも見れば明らかであるが、
そのほとんどが論理ではない。
非論理的な文章の羅列に過ぎない。
これは開設以前から判っていたことであり、
またそれを意識して書いてきたことでもある。
自分自身で論理だと想いながら書いたのはごく一部である。
M日新聞のコラムの批判がそれにあたろうか。
断言してしまうがこの他に論理的な文章は思い浮かばない。
一部論理に乗っ取ったものもあるかもしれないが。
もし心当たりがあれば教えていただきたいぐらいである。
ここまでで、「はぁ?」と思わないでいただきたい。
これは謙遜でも冗談でもなんでもない。
事実として論理の体を為していないのである。
論理、理論になくてはならないものが
わしの書くほとんどの文章には欠如しているのである。
ここで、数学が嫌いな人には申し訳ないが、
ちょっとだけ思い出していただきたい。
中学生で習う証明問題である。
その詳しい内容まで思い出していただく必要はない。
根本と概略を思い出していただければ十分である。
思い返すのも嫌、そんな人も多いかも知れないが。
まず大前提として、「定義」というものがありはしなかったか。
「定義」を重ね合わせることでまた別の「定義」を示すものではなかったか。
そしてそれが論理構築であると習わなかっただろうか。
数学でなく、社会でもスポーツでも音楽でもいい、
そんな一般的な事柄には「定義」という言葉が当てはまらない場合もある。
しかし、「定義」を「客観的事実」と言い換えることはできる。
すなわち論説なり論理であるならば、
そこには「客観的事実」の積み重ねが存在しているはずなのだ。
翻ってわしの拙文には。
客観的事実など些末なものだ。
わしの文章の底にあるのはほとんど全て、わし自身の主観的感想、感覚に過ぎない。
そこにいくら理屈らしきモノを装飾しようと、
根本がそうである以上、論理にはなり得ないのだ。
では何故それを解っていながらこんな文章を書いていたりするのか。
これを当分不定期で連ねてみようと思う。
〜2〜
子どもの頃、天文学者になりたかった。
おそらく「何かになりたい」という気持ちを抱いた最初のことだったように想う。
祖母の一言で霧散する程度の想いではあったのだが。
小学校の図書館や学研の「ひみつシリーズ」で星や宇宙のものを読み漁った。
惑星、銀河系、恒星、星座、星雲、星団、銀河・・・・・ 当時はハッブル宇宙天文台もなく、
星雲の写真などピンぼけのものしかなかった。
それでもわしはその美しさと不思議さに魅入られた。
宇宙を構成するそれぞれにまつわる謎、そして宇宙そのものの起源の謎、
そんなものがわしを虜にした。
十才に満たないわしの脳を宇宙が満たした。
その知識は現在まで改新され、改編され続けている。
愛息が興味を持ったこともあり、ニュートンなどを買ってしまうのだ。
他には、恐竜も好きだった。 遙か昔に絶滅した種。
一説には絶滅などせず連綿と続いているとする学者もいるが。
現代で言えば怪物としか形容の出来ない生物が現実に存在し、
我が物顔で大地を闊歩していた、その光景を想像するだけで楽しかった。
ジュラシック・パークという映画があったが、
ただ恐竜が動いているという映像を観たいが為に映画館に足を運んだ。
おかげで内容など全く覚えてはいないのだが。
恐竜の巨体にまつわる謎、生態の謎、そして絶滅の謎。
そんな謎の答えを知りたい、解き明かしてみたいと想った。
どちらにしても、空間を超え、時間を超え、真実を知りたい。
そんな処に帰結される想いであったのだろう。
討論番組が嫌いだ。
朝生以来、多くの番組が放送されているようであるが まともに観ることもなく、
たまに観ても直ぐにチャンネルを変えてしまう。
物珍しがって朝生を観ていた事もあるが、 最後までおつき合いできなかった。
どう聞いても上滑りの討論としか思えず、頑張っても三時までしか観れなかった。
他の討論番組も一緒である。
耳障りの良いこと悪いこといろいろ言っていても、 詰まる処は表面上の話に過ぎず、
その裏は言わないのか知らないのかどうか、 全く見えてこないことには変わりない。
もちろんそういった番組の性質上結論など得られるはずもなく、
必然その先に来るべきものも見えてこない。
わしはそんなものには興味が持てないのだ。
見た目とか表面上とかを幾ら述べられても その中身や未来が見えないのでは面白くも何ともない。
こうしてみると、好きなものと嫌いなもの、
その判断基準は明確に示されてしまう。
事実、真実、本質、言葉としてはなんでも構わないが、 わしが興味を持つのはこういうものなのだ。
「本当のことを教えておくれよ」と甲本ヒロトは唄っていたが、 早い話がそういう事だ。
おそらくは人間誰しもが持つ欲求であろうが、 何故だかわしの場合はその欲求が人一倍強いのだろう。
何事を見てもその本質を突かずにはおれないのだ。
目の当たりにするほとんど総ての事象に対し、 本質的にはどうなのか、それを見ようとしているのだ。
非常に鬱陶しい人間性だ。
〜3〜
こんな事を書いているからまたニュートン別冊を買ってしまった。
ブラックホールの話は面白いのだがやはりどう足掻いてもわしには相対性理論は理解できない。
その道を目指さなくて正解という事なのだろう。
さて前回、わしが非常に邪魔臭い人間性である事を論証してみたが、 これは悪いことばかりではない。
論理立てて物事を考えるためには情報が必須となり、知識欲も付随する。
従ってそこそこの知識、情報が取り込まれざるを得なくなる。
それら情報を用いて論理構築を行っていれば樹枝が生えるように
応用を利かせ別段経験がないことや初見のことについてもそれなりの洞察が可能となる。
1から10全てを聞かなくてもそのエッセンスだけで概略が把握できたりもするのだ。
結構便利なものである。
ついでに常識もなんとなく身に付いてしまう。
わしが刑務所に入らず一応社会人として歩けるのも こういった常識のおかげである。
その意味で、論理的人格はわしにとって無くてはならないものであると言えよう。
しかしそれよりも、もっと大事なことがある。
自分の中の論理を超えるものに出会えた時、である。
以前どこかでも触れたが、わしはピカソのゲルニカを観て圧倒された。
写実とは無縁の、モノクロの漫画にも見えるあの絵だ。
谷岡ヤスジは絶対あの画風をモチーフにしていたと想うのだが、
知らない人はそんな絵柄と想ってもらって差し支え有るまい。
滑稽にしか見えないモノクロの絵、である。
「アサーーーーーーッ」である。
しかしわしは声を失った。
恐怖を感じ、阿鼻叫喚を聞いた。
冷たい汗が背中を流れた。
リアリティの存在しない絵に、リアルな戦慄を覚えたのだ。
自分の中の論理が太刀打ちできない何かに出会えた時、 わしはただ立ち尽くすしかない。
わしはこういう時にこそ、己の論理的志向性(論理的嗜好性というのが正しいかもしれない)に感謝する。
次々と強大な敵が現れ、それを打ち倒すことにより主人公の強大化がなされる
少年ジャンプのライバルインフレーション的展開を想像してもらえれば解り易かろうが、
自分の中にある論理が強固であればあるほど、 論理に付随する情報量が大きければ大きいほど、
それらを打ち砕く何かの圧倒的な力をより強く感じることが出来るからだ。
ここでわしはかなり得をしていると思える。
ただし、素直に圧倒されてしまうのでこんな文章しか書けなくなってしまうのでもあるが。
〜4〜
これはビートたけしや小林よしのりも言っていた旨であるが、
笑いというものはネタを常識の枠外のどこにどう置くかにより発生するものであるという。
小林氏は確か常識を地球に準え、ネタ(ギャグ)を人工衛星に例えていたと記憶しているが、
常識より如何に遠く、如何なる勢いでネタを放つかどうかで面白いかどうか決まる、 そんな要旨であったと思う。
わしはこれは笑いに限ったことではなく、人の情動全てに共通する事象だと考えている。
喜怒哀楽全てに共通すること、なのではないか、と。
最近では想定外という言葉が流行ったが、 論理的に想定しうる事に対して人の感情は動かない。
理屈ではない部分に抵触された時、人の心は動くのだ。
言い換えれば人の情動はその個人の持つ論理の枠外に於いて生じるということである。
正しいのかどうかは知らないがわしはそう想っている。
逆に言えば論理性が強固であればあるほど、且つ広範であればあるほど、
その人に情動が生じ難い、ということでもある。
従って少々のことでは感情がぶれないのだ。
この点で言えば職業選択に間違いはなかったような気もする。
わしは何度かこのサイトや文章について「ぶれがない」と評されたことがあるが、
その安定感(?)は論理的志向による感情の安定化によりもたらされるのだろう。
更に論理的な文章形態をとれば全くの感情論であっても それなりに冷静であるように見えてしまい、
それも「ぶれがない」ように見せかけてしまうのだろう。
ロジック・スパイラルとでも言おうか、 論理性志向にはこのような傾向が生じてしまうようだ。
生来理屈っぽかったのが更に雪達磨式に理論武装するようになったのは、 おそらくトラウマによるものだろう。
完全に自己分析作業になってしまっているが(^^;
情動がぶれる事がわしにとってどういうことかを詳しくは述べないが、
その一端についてはこのどこかに置いてある。
つまりわしは、自己の感情、情動をコントロールするために、
特にマイナス方向への情動の動きを制御するために、
論理的志向性を更に強健化せざるを得なかったのだ。
言い訳のつもりはないが、おそらくそういうことのなのだと想う。
〜5〜
こうしてみると、元来持っていた探求心 〜というより単に本質を見極めたいという欲求〜が、
論理的志向に陥らせ易い傾向を持つという事実に加え、
論理に防御的機能がある事に気づいたわしが更に論理を利用するようになった、
その結果としてこんな人間が出来上がった、そういうことになろうか。
良いも悪いも無く、ただこんなのが人として生きている、
それだけのことなのだが、 これはこれで便利なのだ。
わしはここに感と勘に任せた自称レポートを書き殴っているが、
なんといってもそこで観た光景を思い出しつつそれなりに整理して書いているために
そのライヴであったり試合であったりをかなり明確に思い出せる、。
これはわしにとってかなり重要なことなのだ。
さすがにCRYの如く詳細に渡る記憶ではないが、 印象深いものははっきりと思い出せる。
そのステージ、プレイ、そしてそこで自分の五感に感じたもの。
そんなものを記録するのにこれ以上のものはない。
ある時にはVTRやDVDでその光景を観るよりも 自分の感覚を思い起こさせるものですらある。
誰にも判り得ない理由だが、わしはこの点で論理的志向で良かったと想っている。
だがしかし、論理的に「絶対」というものが無い、
そんな真理を知ってしまったことは問題だ。
理論的には勿論あるのだが、論理的に考えてみればみるほど「絶対」は絶対にないのである。
絶対零度も絶対の真空も、この世には存在しないのだ。
これは早い時期に知った真理だが、真理であるが故に御しがたい。
物事を相対的に多角的に視る分には役立つのだが、
自分のことを視る分には邪魔な視点以外の何ものでもない。
わしがわしであらんとして論理的であろうとすればするほど、
視点は相対的に多角的にならざるを得ない。
なんという自己矛盾。
こういう自己矛盾は文章を書くときには言い訳として使えるので結構便利なのではあるが、
自分の精神活動に於いては相当に害を為すものでもある。
物事には何でも良し悪しあれど、こういうものはちょっと困る類のもの、かもしれない。