とかなんとか言いながらこれを書いてるのは2002年12月31日なんですが(笑)
とりあえず今想うのは、わしが父親になれるか、なんですよね。
正直、不安だらけです。
どこにも確信めいたモノはありません。
人を育てる経験などある筈もなく、
育てられた事しか無くしかもその記憶は曖昧なものでしかありません。
当然最初の三年近くは記憶などありませんしね(^^;
親をはじめ周りの大人達に育てられたということに
疑いなど微塵もありませんが、
ではそれが全て正しかったのかと言われれば
考えるまでも無く「No」ですからね。
逆に何が正しく、何が間違っていたのか、等もまた解答不能です。
はっきり言って塵芥のようなこのわしに
人を育てる力、そしてその資格もないんじゃないかとすら想います。
はいそこ「その前にお前がヒトじゃない」などと言わないっ
でもまあ、こうやって戸籍上の父親になった以上、
子供を人間として育てるのは既に義務です。
その義務を果たす為には軋轢もあれば衝突もあり、
そこには涙だけでなく血すらもが介在してくるかも知れません。
ってまだ市役所行ってないって>わし
いつ答えが出るのかわかりません。
もしかしたら死ぬ間際まで判らないかも知れず、
判らぬまま地獄に堕ちるやも知れません。
これから一生、わしはこれまでの自分に加え
新たに「父親」としての側面を抱える事になるわけです。
どうなるのか、そしてどうやっていくのか
全ては薄ぼんやりとした闇の中、です。
それはまるで生まれたての赤ん坊の視界のようなものなのかも知れません。
こんな言葉もあります。
出典は「悪魔の辞典」なるホラー作家の手によるシニシズム溢れた視点から書かれた本ですが。
誕生
あらゆる災難の中で
最初で、しかも
もっとも ものすごいもの
(A・ビアス)
これがある意味真であることに疑いはありません。
しかしそれはあくまでも一側面であり、
これが全てでは無い筈です。
その逆、災難を幸福に換えたものも一側面である筈です。
それを一生かけて証明していくことが
わしの人生の一側面となるのかもしれません。
一年の最初しかも父となって間もないのに
やや自身を追い詰めてるような気もしますが、
まあわしの場合それぐらいで丁度良いでしょう。
多少のプレッシャーをかけておかないと、ね。
だってそうでもしないとね。
♪♪♪可愛いいんだ、子供って♪♪♪
2003.1.1
年も明けこの時季になると受験シーズンですな。
これから受験する人やその家族、
ついでにお受験産業を食い扶持にする人も
これからの時季は大変だと思いますが。
とはいえわしはそんなに大変だった記憶がないんですがね。
この学歴でこういう言い方は不遜そのものと自覚して言いますが。
そんな処で、ちと、受験、学歴について一席打ってみましょうか。
その前に、ある部分で対照的な文章を
Jokerが書いてるんで並べて読んでいただくのも一興かと。
ってレス遅いな、わし(爆)
先程Jokerと対照的な、と言いました。
それは「わしは受験成功者である」という一点でのみ、です。
高校受験こそ第一志望の国立に滑りましたが、
まあ最初から無理と判っていたこと、
そしてわしの高校受験の最大の理由が「家を出たい」事でしたから、
第二志望の私立でなんら問題はなかったわけです。
この段で家庭内に嵐は吹き荒れましたがね(^^;
で、大学受験。
一校は関西の私立。
西を「せい」と読む大学ですな。
これは端っから行くつもりもなく、
模擬試験として受験しました。
場慣れしたいってだけですな。
出来は良くなかったんですが、何故か合格してました。
この辺不遜なのは自覚しておりますのでご容赦をm(_ _)m
合格通知を見た親父は怒ってましたがね(笑)
「歯医者と関係ないところ受験してどうする」って。
そして実際に進学することになった国立大学。
後で省みてみればそんなに出来は良くなかったんですが、
直後には「通った」って手応えがありましたね。
どこにそんな根拠があったのか知りませんが(爆)
まあ結果は先にも書いたように合格。
で、卒後は一年おいて同じ大学の大学院に入り、
博士課程も無事終了し現在に至るわけです。
もちろんそれに至るに努力はあったと思います。
と言うか隠れるように夜中やってました。
「1、2の三四郎」世代ですから、
努力はひたすら隠すことが美徳ですのでね(笑)
赤本は当然、O社の「標準うんたら」をほぼ全科目やりましたし、
志望校受験者向けの問題集もやりました。
こなしたかどうかと聞かれると困りますが(爆)
昼間学校で寝て、夜しかも寮の皆が寝静まる頃に勉強して。
長時間勉強したものではありませんが、
勉強する時は自分としては最大限に集中していたと思います。
それに加え、共通一次(死語)の理科社会の科目選択が有利に働いたこと、
さらに二次試験の数学が例年になく簡単だったこともあり、
見事合格、と相成ったわけです。
ついでに言えば、分離分割後期で受験を予定していた大学、
共通一次のおかげで普通の小論文を書くどころか
名前を書くだけでも合格するんじゃないかっていうラインでした。
予備校の出すボーダーラインが正しいとすれば、ですがね。
やはり大学に合格するためには最低限の努力は必要ですが、
それだけではなく運も味方につけなければならない、って事ですよね。
共通一次以降、わしはもう、
世の中はわし中心に回ってるって思ってました。
やる事為す事、全部いい方向に運ぶんですから。
勝負は時の運、こんな言葉を実感しましたね。
で、この学歴が何某かのものかどうか。
まあ見た目がこうですから、それを覆い隠すには役立ちますがね(爆)
学歴言うだけで見る目が変わる人が多いのは事実です。
大概感心してもらえますね。
いわゆる秀才、エリートと見られることまたはそう言われること、正直多いんです。
好むと好まざるに関わらず。
しかも職業がこれですから、尚更。
断言すれば、迷惑ですらあります、こんなモノの見方。
秀才でもなければエリートでもないですよ、わしは。
選ばれた人間などでは断じてありません。
わしが一般的でないという意見はあるかもしれませんが(爆)
学歴などこの仕事の実力上なんの関係もありません。
知識と技術と話術が要求されるこの仕事、
学歴など屁の役にも立ちません。
せいぜい歯学士でなければ国家試験を受けられないという
単なるチェックポイントがあるぐらいで、
それは歯学部歯科大学であればどこでも得られるものに過ぎません。
もちろんこの仕事自体、わしは卑賤なものと考えてますし、
それを生業とする事を恥じる部分もあります。
楽な仕事であるとも思いませんが、
だからといって無条件に敬意を得るものではありえません。
学歴職業引っくるめて、それもわしのほんの一部分、一側面にしかなり得ません。
ただし。 しつこく不遜な言い方をしますが、
「学歴など云々」という物言いには生理的嫌悪感を憶えます。
それが仕事であれ何であれ、何某かのものを持つ人が言うのであれば別ですが。
学歴というものは、そんな大したことじゃないにせよ、
幾ばくかの努力の結果であり、幾ばくかの目標の達成ではある筈です。
少なくとも、一つの事を成し得たという証明ではあります。
それ以上のものでも、それ以下のものでもありませんが。
ですから、進学以外に自分の途を設定し、
そこに向かい邁進しようという人は別として、
幾ばくかの結果、達成が無いにも関わらず
先の言葉を吐く人間をわしは蔑視します。
それは自分の事を棚に上げ、天に向かって唾を吐くこと以外の何ものでもないからです。
まあわしが自分を貶める輩を嫌悪しているのは
周知のことだと思いますのでこれ以上いいませんが。
言い古された言葉で云えば、受験や大学進学なんて、
目的でも目標でもなく、ただの通過点、なんですよね。
その通過点に依ればメリットがあるかもしれないってだけ。
まあ十代のガキに目標を据えるという人生設計ができるかどうかってのもありますが。
少なくとも「合格したらおっけ〜」的な、単純なことではないですね。
その通過点の為に血眼になるもよし、 別の通過点を見いだすもよし。
それが生き方、でもあるんでしょう。
受験にせよなんにせよ、それなりに真剣に取り組めば
その結果如何に関わらず少なくとも自分の中には
自信であったり達成感であったり幾ばくかのプラス要因が生まれる筈です。
例え他人からすれば結果が全ての世界であっても、
自分の中身は人が計るものではありません。
でもまあ、こんな事を考える暇があれば
単語の一つでも憶えるべきなんでしょうがね、受験生諸君は(笑)
2003.1.8
ついこの間まで二日や三日寝なくても躰も頭も動いていた筈だった。
それが一晩眠れないと躰は重いわ頭は回らないわの体たらくである。
夜実験して明け方二時間ほど寝て昼間働いて・・・
こんな生活を二年ほど続けたが、躰が重いと感じることなどそうそうなかった。
今はもう鉛のような重さである。
年末からの公私に渡る疲労で正月早々風邪をひいてしまったがいまだに治りきらない。
まあ煙草のせいもあるかも知れないが(^o^.o○
その体調のまま泊まりになるともう悲惨である。
仮眠していた部屋に誰かが入って来たまでは判るのだが、
誰が入ってきたのか確認する気もなければ
挨拶をする気など五年前には頭だった部分の髪の毛ほどにもない。
まあ同業者だけに状況を察してそれをとやかく言う者などいないが。
とりあえず今欲しいものは睡眠時間である。
今日はしっかり寝ることとしよう。
寝ると言えば、なのだが。
かなり以前から子供を寝かしつけるのは得意だったが
(いや初めての子だからね間違いなく)
抱っこして鼻歌でも歌ってやれば
愛息はその内眼を閉じ寝息を立て始める。
このまま離したくない衝動に駆られるほどの愛くるしさである。
如何に我が子とは言え、まさか自分が
男をこの手から離したくないなどと
想う日が来るとは思う筈もなくその衝撃的な事実にただただ驚嘆するばかりである。
で、某所でも触れた事なのだが、
寝かしつけるからといって子守歌などを歌える筈もなく、
わし自身が好きで心地よいだろうなというメロディの曲を歌ってみた。
リズムが速い曲はややスロー目にして。
甲斐バンドKAI FIVE甲斐よしひろ中島みゆきSADE Springsteen名鏡雅弘憂歌団所ジョージ・・・
どんな子に育つのかやや不安が残るけど(爆)
まあ大概二、三曲も歌わない内に寝付くいい子なのだが、
その中でも睡眠薬なみに効いてるのではないかという曲が一つ。
「Jasmin」(甲斐バンド)である。
いや「Jasmin again」でもいいんじゃけど(笑)
一回など、瞬時にして寝たものだから
気絶したかと一瞬泡食ってしまった。
これは誇張でもなんでもないのだが、
今際の際の芝居のように「がくっ」となったのだ。
マジで。
さすがのわしもドキリとせずにはいられなかった。
寝息に安堵しつつ、頻用は避けようと誓う父であった。
しかしあの寝つき方は何かおかしい。
マジカルな何かがあるとしか思えない。
つのだじろうの漫画でもあるまいが・・・・・
2003.1.17
昨日ほぼ一ヶ月ぶりにジムに行ってトレーニングしてきました。
いつものジムではなく、系列の別店になるんですが。
ラニングマシーンがないと勘違いしたので
(別の階にあったんじゃげな・・・・分かり易う表示せえよ>エ○ザス)
しょうがなしにチャリンコ25分ほど漕いで
マシントレーニングを一通りやっつけました。
しかし、同じ機能のマシンでもメーカーが違うと、
同じウェイトの筈なのに全然負荷が異なるってのはなんとかならんもんか。
このぐらいなら・・・って思っても全然動かせなかったり逆に軽すぎたり。
ま、やるこたあ一緒なんでどおでもいいっちゃあいいんですが。
んでまあそこは新興とはいえない住宅地なもんで、
人自体少ないし同年代の人は更に少なく、
ましてそこそこトレーニング積んだ人など皆無という・・・・
ええ、はっきり言って浮いてました、わし。
某マッチョな受験産業なあめり漢に比べれば
わしなど蚊トンボみたいなもんですが、
筋肉質以前にハアハアいいながらトレーニングしてる人自体がいない。
優雅にマシンを動かすそこそこハイソ(←死語?)な人々の中、
一人汗だくになって腕プルプル震わせながらトレーニングしてました。
で、トレーニング終了して体重計に乗ってみたわけです、恐る恐る。
何せこの一ヶ月というもの、公私ともに怒濤が続きついでに風邪までひいてトレーニングどころではない。
しかも体調不良のため食事量も減っている。
見るからに腕も胸も盛り下がったこの状態、
どこまで体重が落ちたものやら・・・・・
予想通り。
2Kg減少して68Kg。
瞬発力不足を補うため上半身を鍛え、
3Kgは増やそうと画策してトレーニング方法を変えたのはもう一年以上前。
なんとか2Kgは増えたものの頭を打ち、
それでもなんとか維持していたものが・・・・
かくもあっけなくウェイトアップ失敗(瀑)
まあ世の中痩せたい人の方が圧倒的に多いいんでしょうから、
こんな愚痴は嫌味以外のなにものでもないかとは思いますがm(_ _)m
それを覚悟で言えば、体重減らすの、簡単にできるんです、わしは。
飯減らして躰動かすだけであと2Kgは簡単に減らす自信があります。
こうなったらいっそ減らして躰軽くしてみるか・・・などとも考えてますが。
いつまでこんなのができるかどうか知りませんがね。
いつか減らそうとしても減らなくなる日がくるのかもしれません。
しかしね、継続的にフットボールの練習ができないとなると、
上半身に筋肉つけるか躰軽くするかしないと動けんのですよ。
特に頭越しのボールに反応する時など。
前にも言ったと思うけど、ここんところ失点の半分は頭越しのシュートなんです。
練習不足をどう補うか、それを考えてウェイトアップで対応するつもりで
後上方へのジャンプも多少ましになってきた矢先だけに・・・・
どうしたものやら。
2003.1.20
良くないことが続くという意味のこの言葉。
三つで済みゃええじゃないかといいたいぐらいだ。
それというものこの一週間というもの・・・・
言葉が続かないほどに不運に見舞われている。
所謂ヒッキーになる気持ちが解らなくもないぐらいである。
この、わしが。
家から外に出たくもない。
出ざるを得ないから出るがそれだけでも相当な勇気を必要とする状態だ。
わしが何かをし、それによりわしがどうなろうと
それがわしの責任の範疇にあるならそれはいい。
しかしそれ以外の、それ以上の事が起こると動揺は少なからず生じる。
しかもそれが僅か一週間の内に立て続けに起これば・・・・・
カマ掘られた事から始まり、詳細を述べるわけにはいかない幾多の事件が起こり、
そして最後にとどめ・・・・・
最後に関しては完全に自分の責任の範疇になるのだが。
え〜、飲酒検問にやられました。
あぽちんに迎えに来てもらいました。
この場を借りてマリアナ海溝より深くお詫びします
m(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
m(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
ごめんねあぽちん
m(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
m(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
罰金怖いです。
仕事休んで出頭して更に講習もついてきます。
今「こうしゅう」って打って変換したら
「口臭」って出てきましたが
こっちの方がましとすら思えます。
わしは本来神など信じておりません。
霊魂もあったらいいなっていう程度にしか考えてません。
でもこの仕打ちはどうですか神様(瀑)
わしを見限ったのですかご先祖様(瀑)
我に光をっっっっっっ(熱烈希望)
2003.1.25
最近某週刊M誌で連載中の医療漫画がもて囃されている。
なんでも先日発売になった第4巻は100万部だそうである。
ネット、マスコミなど様々なメディアで取り沙汰されているが、
確かにそこにある日本における医療の問題点は事実である。
正確には、事実である点も少なからずあると言うべきだが。
問題提起としてこの作品を捉えるのであればまあよかろう。
あくまでもその一点のみにおいて。
医療を取り巻く問題点で解決されるべきものは数多あるし、
その問題点が知られていないという事実が
解決の妨げになっている部分もまた大きいのだから。
まあ、一番の解決策は医療者が
ライセンス以外の既得権を捨てること
以外にないのではあるが(笑)
そこで浮いた金を足らない部分に回す、
これが最も単純且つ効果的な医療改革であることにわしは疑いを持たない。
なら公言し行動しろと言われそうだが(爆)
ただこんな意見は一瞬の内に封殺されるのもまた事実である。
既得権を手放したがらないのは政治家も医者も同様であるのだから。
多数決民主主義の場でこんな意見が罷り通るはずもない。
ではどうするかと言われればある種民主主義を無視した
行政的解決以外にはありえないだろう。
通常の、かつ広義の政治の中で、更に現代日本の政治状況から考えれば。
ここまで判っていてあの内容が書けるのなら大したものだが(笑)
まあ判っていないから書けるのだろう。
あ、これからが本題なのにもう腐しちゃった(爆)
まあ問題提起というのはその程度のものなので、
だからこそ問題提起としての作品であれば認められないこともないのだが。
要するにわしがそれ以外の部分は否定しとるのはもうお判りだわな(爆)
さて、わしは漫画に限らずフィクションノンフィクションに限らず
物語全般の評価においては呉智英氏の言葉を借り、
「人間を描けているもの」か否かを基準としている。
翻ってこの漫画、どのような人物像か。
それが「人間」として認められる存在であるかどうか。
以下に例を示してみよう。
およそこんな人物像である。
・ジャブも打てないのにライセンスが何故か与えられ、
今のタイトルマッチの在り方に異を唱える四回戦ボクサー
・インサイドキックもできないのに何故かプロとなり
ワールドカップの在り方に異を唱えるサッカー選手
・九九ができないのに何故か大学に入り
大学の在り方に異を唱える大学生
言っておくがこれは誇張でも何でもないし、
一応ギャグ漫画でもパロディ漫画でもない筈だ。おそらく。
卑しくも医療従事者と呼ばれる者であれば医者にあらずとも
知っていて当然の知識もない医者が医療の在り方、
医療者と患者の理想論を声高に叫んでいるという作品なのだから。
これで人間を描いているとはわしには思えない。
ただのキ○ガイを、描いたものとしか思えない。
従って、勿論わしの判断基準によればだが、
この作品など評価するに値しない。
理想論を打つのは簡単である。
世界も国も社会も世間も、自分自身すらも全て無視していいのであれば誰でもできる。
それが人間として認められるかどうか。
そのような人物を描くことが「人間を描くこと」であるかどうか。
答えを待つ必要はあるまい。
2003.1.27
ちょっと更新が滞っておりました。
その間にズボンぶかぶかです(瀑)
1/20に体重減少云々でEssayをでっち上げましたが、
あれから二週間、更に体重は減少しております。
別段痩せる努力などしておりません。
食事量を減らそうともしておりません。
酒は相変わらず呑んでます。
しかし体重は減ってます。
食事量は明らかに落ちてます。
お腹引っ込んでベルトを一杯に締めても拳二つ入ります。
原因は
・
・
・
・
・
極度のストレスです。
その原因は不特定多数の方々に晒す類のものではありませんが。
ただし、そのストレスはともあれ痩せられて良いなあ、 等とは。
口が縦に避けて
顔に三つ目躰に二つ目の
おめめができても
絶対に言わせない自信がある類のストレスです(過言)
あまりの酷さに近所の神社にお参りに行きたくもなるストレスです。
お賽銭持ってお参りしてきましたけどね既に。
ついでにいろんなもの持って電話もしましたけど。
あ、でも心配は無用ですよ。
もうほぼわしの手を離れて行きましたから。
ほんと、もう心配は要りません。
え? 何があったかって?
申し訳ないけどここでは言えません。
かといってオフ会など談笑すべき席で言う話でもありません。
いつか時期が来ればお話できるかもしれません。
だって自分がブルーになるんじゃもん。
いやマジな話。
2003.2.5
唐突だが、最近最も腹立たしく感じるのが予断、決めつけである。
正確に言えば痩せた原因の次に。
まあ社会的一般的な事柄ならばさほど腹立たしくもなく、
せいぜいが「バカ」と罵る程度で済むのだが、
我が事、わし自身のことについて言われると真剣にむかついてしまう。
当たっていれば勿論素直に頷くが、外れていれば正座させて
おどりゃわしの事をそこまで阿呆に思うとったんかい
見くびるんもええ加減にせえよバカたれが
おどれ程の視野でわしの人間性まで見られとうないわ
少なくともわしゃてめえよりゃ広い角度で物事見とるわい
それも解らんものがわしに口出しするなこの大バカたれ
と罵って頭こづき回しながら
説教しようかとすら思ってしまう。
一応に断っておくががネット上でならば
「Egoistは」とか「えごは」とか言われる事は
全くと言っていいほど気にならない。
何故ならそれはネット上でのキャラクター「Egoist」に関する意見、推測なのであり、
それはわし自身の事と呼べるモノではなく
わしという人間の「Egoistという側面」に関するものなのだから。
意識的および無意識的の双方により作り出したキャラクターに関するものなのだから。
従って「『Egoist』ならこう考えるだろう、こう言うだろう」という想像はあって当然のものであるし、
そこで導き出される推測の結論は大凡間違いのないものだろう。
少なくとも「Egoist」に関するものである限り。
ただしそれが「Egoist」を含むわしという人間の事になると話は全くの別物である。
「Egoist」という側面以外にも「歯医者」としての側面もあるし、
「家庭人」としての側面もあれば「草サッカープレイヤー」としての側面もまたある。
他にも様々な側面が存在し、それぞれが接していたり重なっていたり対極にあったりして
わしという人間が形成されているのだ。
従って一側面のみからのアプローチでわしの行動言動情動に辿り着くものではなかろう。
もちろんわし自身、ある部分で極力単純化された思考回路を持とうとしていることに疑いはない。
それは以前にも言った事に通じるが、
単純化可能な条件さえ揃えば 最低限の迅速且つ適切な行動ができる筈だからである。
善し悪しあろうが、マニュアル化と呼ばれるものは少なからず必要なものと考えてはいる。
しかし人間というものがそれだけであろう筈がない。
単純化された思考の大前提として
「条件が揃う」事が必須になるのは言を待つものではない。
「とある状況、条件」の中でわしがどうするか、
という推測であれば わしが認める部分も勿論あろうが。
『「Aという状況、条件」でわしが「aという行動を起こす」だろう』ならまだいいが、
『「Aという状況、条件」でわしが「aという行動を起こす」のだから
「Bという状況、条件」でも「aという行動を起こす」だろう 』というのには納得しかねる、ということだ。
人間というもの、特にその頭脳の働きは複雑というに余りある。
その複雑な働きの結果として表れる行動もまた複雑である。
更にその集合体としての社会、文化も更に複雑なものとなる。
その複雑さにより思考停止となることを忌避するために
自分の理解に及ぶ範囲のみで全てを断じようという行為は
軽蔑こそを受けるべきであり敬意など得られるものではなかろう。
とか言いながらわし自身が予断を演じてみたりして(爆)
2003.2.9
レスというより追加、という方が正しかろうか。
何故に予断という名の曲解をわしが忌み嫌うか、
という事を付け加えておきたいのだ。
もちろん曲解を喜ぶ者など居はしまいが、
それを極端に嫌う傾向がわし自身にあると思う。
そのようなことを吐露するのを「わし」は好みはしないが、
「Egoist」として書き連ねてみるのもまた一興、だろう。
元来、わしは多弁である。
知る人には何を今更、だろうが、
「黙れ」という言葉を週に何度聞くことかという程の多弁である。
ネット上ではややもするとこのように真面目くさった事を連ねてはいるが、
職場でもプライベートでも、とにかくくだらない事を喋り続ける。
仕事上の会話においても、勿論TPOに応じはするが、
隙さえあればネタを挟み込んでしまう。
また多弁のみならず、極論的な結論のみを言い放つ事も多々ある。
ネット上ではそう論じる(というほど大したことは言ってないにせよ)理由やその思考過程を示しはするが、
普通の会話の中でそこまでする事などほぼない。
真面目ぶって延々と話し続けるほど大した思考でもないし、
第一、面倒くさいではないか。
従って会話の内容に「理由」を意味する言葉はほとんどないという結果となる。
何故そういう言動になるのか、と聞かれればそれは至極簡単だ。
わしの社会的内向性がその理由である。叩くな
言い換えれば、本心を見せるのがイヤなのだ。
いわば多弁と極論は本心を覆い隠すための防壁であり、
正に「多弁」「短絡的思考による極論を吐く者」というキャラクターを作り上げる作業に他ならない。
これでは誤解、曲解を生むのも必然、であろうが。
ただし、このただしが重要なのであるが、
くだらない内容で捲し立て、極論暴論を吐き散らしてはいても、
必ず心がけているというか自分に染みついている事がある。
客観性、多角的視点、である。
何を言うか、と笑われそうだが、
わしなりには 客観性を保ち、
また他の角度から物事を見よう、考えようと心がけている。
一人の人間の思考など客観的と言ってもたかが知れている。
だからこそ他者の観点、物事の側面は必ず視野に入れようとしているつもりだ。
導き出される結論は極論になったとしても、
そこに至る過程において必ずそのような視点が入るようにしている。
少なくとも短絡的とは言い切れないものだと信じている。
もちろん、例外はある。
そしてこれこそが予断を忌み嫌う理由でもある。
わしが赤い思想に触れる時の事を思い出してもらえれば即刻理解されよう。
彼ら一般の(全てとは言い切らないここがバランスなのだよ)短絡的な思考思想に対して 言を発する時、
わしは彼らの思想を全否定し、思考をほぼ無視し、
正に短絡的に彼らの人格を否定することを厭わない。
当然ここにもあるように、その言の一端を認めることもあるが、
総じてネタにはしても論じるには値しないという態度を取り続けている。
簡単に言えば、
「おどれらみたいな凝り固まった頭で
まともな思考なんぞできるかバカたれ
おどれらの思考なんぞ糞みたいなもんじゃ
糞に視点があってたまるかバーカ」
という態度を。
言葉が乱れたことお詫び申し上げます。
従って彼らの視点はほぼわしの予断により斬り捨てられる事になる。
彼らの思考は短絡的にあってなきがものと結論づけられる事になる。
わしの導く結論が曲解であろうがなかろうが、
言い切ればどうでもいい、のだ。
バカをバカと扱って罵ってだからどうした、なのだから。
言葉が乱れたことお詫び申し上げますその2
この局面においてわしは彼らの全人格を否定していると思ってもらっても良い。
つまり。
わしにとって予断/曲解を受ける、
ということはわしが赤い人達に対するように
わし自身の人格を無視されていることに他ならないのだ。
ネット上であるとか、仕事上であれば話は違うというのはお判りいただけるだろうが。
そこではあくまでネット上または仕事上の人格からして、という枕がつくのだから。
しかしそうでない場合。
人格に形容が無い、すなわちわしの人格そのものに対して、という場合。
わしはそれをわしの人格の否定と受け取る。
その状態は人間対人間と見なし得るものではない。
その行為は人間関係を創り上げようという意志を根底から否定するものと見る。
ここにおいてわしは憤激と諦観を覚え、
否定されたわしの人格を守るため
彼らの人格を否定すべきか否かとの葛藤に苛まされるのである。
そして。
その葛藤を抱える事自体に激しい憤りを覚えるのである。
2003.2.12
Vintage Hands
素面で親父と話すことなど絶対にない内容を一つ。
あ、このタイトルは名鏡雅宏氏の新曲から頂戴しました(笑)
前回の更新、ほんとはこの内容で書こうかとも思ったんですが、
レポートとはズレ過ぎるような気がしたんで。
その割にはレポートが短いという指摘もありましょうが(爆)、
この下に書き連ねるようなことをいくつも感じてたら
「自分が感じたものの詳細」を書くのがどんな作業か容易く想像できるでしょうから、
その点お含み置きを(言い訳)
わしが自営業に分類される家庭で育ったというのは、
ここを訪れる多くの人がご承知の事と思います。
わしと同じ職種で自営業、と言えばもうご理解いただけるでしょう。
そんなわけで鋸の音ならぬ刃物を回転させる音を子守歌に育ったようなもんです。
(知らない人の為の注釈:Vintage Handsの中にそんな詞があるんですけどこれネタバレかまあいいや)
ついでに子供の泣く声もよく聞いてましたがね。
物心ついた頃には、親父が何をしているか、 具体的には知らぬまでも、
いわゆるそれだとは判ってました。
でまあ、紆余曲折を経て、親父と同じ職種となるべく 大学に入ったわけですが、
ここまで親父から仕事の具体的な内容など 全く聞いたことがなかったんですね。
同じ仕事をしろと言われながら育ったにも関わらず(爆)
ついでに言えば、わし自身、ある時期では同じ職種になることを拒絶してましたので、
当然その手の話には聞く耳持たん、でしたが。
大学に入ってからでも、こちらからの質問への返答以外、
全く何も教えてくれませんでしたね。
ただし質問に対しては嬉しそうに聞いたこと以上の事を喋ろうとし、
またそれは半分以上自慢をひけらかすものでしたが(笑)
そうであったとしても、大学に入ってから14年、
仕事に関する事で 親父が語った事など、
ほんの僅かなものでしかありません。
それどころか卒業してからはわしの仕事の専門性がやや強い事もあり、
むしろ親父からの質問が増えて、回数で言えば
わしが親父に教えたことの方がよっぽど多いんじゃないかってぐらいです。
とはいえ、他の事についてもおよそそんなもんです。
「○○だから××しろ」的な教わった事と云えば、
釣り道具のメンテの仕方だとか仕掛けの作り方だとか
山中の歩き方だとか松茸の探し方だとか・・・・
まあ普段の社会生活に関係のないものばかり、ですね。
それも一から十まで、というものではありませんし、
まして社会生活に関係のある事であれば言葉は無いと云っても過言ではないでしょう。
要するに言葉の前に掌が飛んできましたから(^^;
おふくろもね、同じように掌飛ばすんですけど、
その上で「○○だから××しろ」的な事もちゃんと言うんです。
もちろん殴り方は全然違うんで、子供の頃は親父に叱られるぐらいなら
おふくろの方がよっぽどまし、みたいに思ってました。
今こうして考えてみれば、親父とおふくろの違いなど、
違う方法で同じ事を教えようとしていただけ、に過ぎないんでしょうけど。
で、あのライヴから、数冊の本を読み返してみました。
北方謙三著「いつか友よ」とロバート・B・パーカー著「初秋」に 守村大著「あいしてる」を。
正確に云えば最後のは漫画ですが。
水野竜一も、スペンサーも、星野鉄平も、
揃いも揃って難しい事など言ってないんですよね。
誰かを育てる、という場面において。
そこに理屈らしきものは皆無といっていいでしょう。
まあスペンサーに関しては小難しい事はよく言ってますが、
それとて多くの物事の中の一つの例として、であり、
それよりもむしろ行動そのものを教えようとしているのは自明でしょう。
この三作揃って、我が子、我が子同然の者に対しては
「自分が何者であるか」という問いに対する答えを、
「自分に何ができるか」で示そうとしています。
銃の撃ち方から始まっていわゆる人殺しの方法を教えた水野竜一、
大工仕事やウエイトトレーニングを教えたスペンサー、
「男はあつい、つよい、まもる」だと息子鉄馬に教えた星野鉄平、
三者三様ですが、結局教えたことは自分にできること、できたこと、だけです。
それは言い換えれば、躰を張った生き方の具体例を示したのではないかと思います。
別に世の中の親父が須く頑強であるべき、という意味ではありませんよ、念のため。
精神的な意味でも、躰を張るという言い方はできると思いますから。
気を張った生き方、と言い換えてもいいかもしれません。
巧く言えないのでニュアンスで理解して下さい(笑)
で、わしの場合は。
わしが大下圭太郎、ポール・ジャコミン、星野鉄馬であり、
親父が水野竜一、スペンサー、星野鉄平であって そんなに違いはないのかな、と思います。
ウチの親父も、内容の違いこそあれ、わしに教えてきたことはそんなもんです。
もちろん親父は超一流のコマンドでもなければギャングと渡り合う探偵でもないし、
喧嘩無敗の港湾労働者→バイク屋の親父でもない、
先にも言ったように、一介の自営業主、物語の主人公にはなりえない男です。
当然わしに関しても言うまでもなく、です。
でも、親父もわしも、そのフィクションの中の人物達も、
自分が何ものであるかという言葉よりも、何が実際にできるかの方が重要であり、
それこそが何ものかを示しうるものだ、と認識している点で
全くといっていいほどに一致してます。
たぶん
全部が全部そうとは言い切れませんが、
父親という生き物は 総じてこのようなものかもしれないと思っています。
少なくとも、わしにとっての父親とはそういうものです。
多くを、大事な事をこそ喋らず、それは身を以て示す、というもの、と。
そして子は、その事を言葉ではなく躰で理解していくもの、と。
だからこそ、言葉として次の世代に伝える事が難しく、
むしろ不可能と断じてもいいのではないか、と。
そんな風に思うんですね。
これが背中で語る、ということの本意ではないか、と思いますね。
親父が語ろうが語るまいが、その背であろうが手であろうが、
何かが滲み出てきて、それを子が感じることができれば、
いつしか我がものとしてゆくのではないか、と。
一つには邪魔臭いから、かもしれませんがね。
自分の生き方を語ること、なんぞ。
だから行動で示そうとする、のかも。
言うときますが、わしゃヤですよ。
真面目な顔で「俺の生き方は・・・」って語るの。
酒呑んで酔っぱらって夜中三時頃「豊中でないと飯が食えない」とか
訳の解らん事を言い出すぐらいになっても無理ですね。
ま、そんなこんなでわしも親父の端くれやってるわけですが。
果たして我が愛息はこれを感じて、理解してくれるのかどうか。
二、三十年経った頃には判りますか、ね。
長ぇなぁ、おい
2003.2.25