Essay
沖縄に行ってきた。
2泊3日と短いリゾートではあったが、十分に楽しめた。
とはいえ、ただ海とホテルの往復である。
ホテルにチェックインして10分後にはもうビーチだった(笑)
気温、水温ともやや低めだが、十分に泳げる。
遠浅のため、岸から少々離れても少し潜れば海底である。
数種類の魚もいる。
いわゆる熱帯魚らしいものも含め。
競泳用のゴーグルを付けた夫婦は、
魚を見つけては潜って追いかけた。
面白いのは、サンフィッシュ系とおぼしき二種類の魚である。
立ち泳ぎの体勢から手で水を掻いて潜ると、
〜エジプトの絵画のような格好を想像していただければよいか<姿勢〜
なぜか寄ってくる。
手で掻いてできる泡に寄ってくるものなのかどうか、
ちょうど目の高さ当たりを泳いでいる。
寄ってくるのが面白くて、何度もエジプト人と化していた 31歳の秋である。
素潜りで遊んでいると、黒い小魚の群、
50匹ぐらいの集団を見つけた。
絶対に離れずに一塊りで泳いでいる。
岸に向かって追い立てた、
小魚は波打ち際から1メートルにまで行っても集団のままである。
波打ち際近くまで行った時、10センチぐらいの一匹の魚が
小魚の上を泳いでいるのに気づいた。
エサを捉えようとしているのかとも思ったが、
考えてみれば波打ち際近く、しかも人間が追い立てているのに
わざわざエサを獲ろうとしている筈もない。
親、だったのかもしれない。
そこで追い立てるのをやめた。
のは、嘘である。
波打ち際ギリギリまで追い立ててみた。
波に流され、集団に隙間ができる。
そして、すぐ戻る。 本能的な動きの美しさ。
一度、掬うふりをしてみた。
広がり散らばり、手から逃れようとする。
また、一塊となる。
わしはそのまま、浜に上がった。
黒い塊は沖へ向かい、すぐに見えなくなった。
一つ気になっている事がある。
国語の教科書にあった話。
一匹の黒い魚を目に見せかけた、 本来は赤い魚のお話である。
集団になって、黒い一匹が目に見せかけて大きな魚だか鯨だかを追い払うという・・・
誰かタイトルを教えて下さい(瀑)
沖縄からずっと気になって気になって・・・・・
2001.10.26
先日沖縄に行って来たわけだが、 当地の新聞には観光客の減少が取り上げられていた。
もちろん、件のテロ事件に発端する問題である。
アジア最大の米軍基地がある、というのがネックになったようで、
テロに狙われる可能性が高い、
従って沖縄に行くのはまずい、
ということのようだ。
わしからすれば、沖縄が以前より危険になったとは考えがたく、
むしろホテルに空きが出て幸運ですらあったのだが。
沖縄が存在するその場所は、アジアの制海権を握るに
台湾と並んで重要な位置なのである。
だからこそ、大東亜戦争における沖縄戦は苛烈を極めたのである。
そして制海権を失った日本は、丸腰同然である。
空襲、そして原爆の惨禍を浴びるしかなかった。
当然の事ながら、沖縄の地政学上の位置は変わることはない。
沖縄が島としてあの位置に存在する限り、
沖縄は軍事上、国防上の最重要ポイントで在り続けるのだ。
だからこそ、「アジア最大の米軍基地」が沖縄にあるのだ。
つまり、沖縄が危険なのは、軍事上狙われやすい事は
テロ事件に関わらず以前のままなのだ。
むしろ、テロ事件以降の警戒態勢で安全とすら言える。
ただし、テロリスト側に戦線を全世界に広げる意図があるのであれば、
台湾沖縄は第一級の標的になり得る。
沖縄や台湾に有事があれば、アメリカ日本は当然ながら、
その制海権を得たい国が乗り出してくるだろう。
そこで小競り合いでも起これば、
それはもう世界大戦である。
先頃ブッシュが中国を訪れたが、これは上記のような最悪の事態を
想定してのことではないだろうか。
沖縄や台湾に何かがあっても、軍事介入はしてくるな、という念押しである。
こっちのことはこっちでやるから、ということではないか。
米中がつるんでしまえば、テロリストにアジアを狙う意味はなくなる。
別系統のテロリストなら話は別だが。
そしてわしは安心して飛行機に乗ったわけである。
沖縄の透明な海を見ながら、情けなく思った。
沖縄は、紛れもなく日本の領土の筈である。
日本で最も美しい場所の一つである。
その美しさが銃に守られているのはしょうがないことではある。
その様な地勢にある以上は。
しかしその銃が自国のものではなく、他国のものであり、
更に美しき領土を守るための手練手管も、
他国のものである事が情けないのだ。
有名無実な平和憲法に引き擦られ、空論ばかりを繰り返す国政に
あの美しい海を守れるとは思えない。
あの海に再度、そしていつまでも潜ることができるのだろうか。
2001.10.29
先日日本-イタリア戦を中継したのはテレビ朝日だったわけだが、
もう呆れ果てる以外にない。
というよりも、一昔前なら大砲の弾が降ってきてもおかしくない。
確かにゲーム中はCMを入れにくく、他の場面で入れざるを得ないのは
民放という性質上致し方ない。
しかし、イタリアという国の代表がピッチに立ち、
国旗を掲げ、国歌を斉唱しているのだ。
ごく当然の礼儀として、国歌斉唱の際はアナウンサー、
解説者とも喋ってはならないのは自明のことだ。
それが、である。
CM明けには既に国歌斉唱が始まっている。
やむなくアナウンサーが「イタリアの国歌斉唱です」とコメントを入れる。
失礼を通り越して、イタリアに対する国辱である。
自国を嘲る事がTBSと並んでこの局の特性であるのは
もう判りきっていることであり、今更とやかく言う気にもならないが、
せめて他国に対してぐらい、礼儀をわきまえた放送をするべきではないか。
自国の国旗・国歌を否定することは意見としてあってもいい。
しかし他国の国旗・国歌に対し否定的な態度を取ることは許すべきではない。
国旗・国歌の否定・軽視は
その国家に対する否定・軽視と同義なのだ。
もしあの放送をイタリア人が観ていたとして、
自国の国歌が切られているのを観たら、どう思うのだろうか。
「国家安康」で家康は豊臣家を滅ぼした。
一昔前なら、これが当たり前ですらある。
それを国に置き換えれば、国家間の戦争になるという事である。
極論ではあるが、それだけの事をしでかしたという自覚がないことを責めたい。
責められてそれを聞こえる耳もなければ、
理解する頭脳も無いことは知っているが。
2001.11.11
本来ならば、トヨタカップに関するレポートが先にある筈なのだが。
先にこれを書いてしまおう。
先日わしは国立競技場でトヨタカップを観戦してきたわけであるが、
大阪の自宅に戻り、VTRを確認して驚いた。
そこには、わしが観た筈の芸術的な組織がなかった。
あるのは、苦悶と苦悩の表情を浮かべる選手達と、
一貫性の無いレフェリングだけだった。
ジャッジが正当かどうかを検証するためのリプレイも、
全く意味を成していない。
例えば、カウンターを狙うボカJの7番、
ギジェルモ(バロスチェロット)は幾度もオフサイドを取られたが、
それを検証するVTRの角度は全くもって意味がない。
最終DFラインを斜めに映す撮影角度では、
そのジャッジが正当であったか否か、判断できるはずも無かろう。
ここで一応説明しておくと、
オフサイドとはパスの出し手がボールを蹴った瞬間に、
パスの受け手が最終DFラインより前方にいた場合に生じる反則である。
最終DFラインとは、GKを除いたディフェンス側の最後方にいる選手を通る
ゴールラインと平行な直線である。
つまり、カメラの角度が最終DFラインと一致しなければ、
検証も糞もないのだ。
それはただ、反則があった瞬間の映像をゆっくり映すだけの
無駄な映像に過ぎないのだ。
オフサイドのみでなく、反則の後は必ず
二度三度そのシーンがリプレイされる。
首を傾げたくなるようなジャッジメントとともに。
そしてそんな無駄な映像を映している間にも
選手達は組織を動かし続けるのである。
世界でも有数の組織を。
残念ながら、日本に在するチームでは見ることのできない組織を。
無論、選手名もまともに言えず、
与汰話を繰り返すであろう日本語放送など最初から聞かない。
意味は解らずともプロフェッショナルが行う
スペイン語放送を聴いていた方がよっぽど面白い。
その上映像も話にならない中継など。
これでどうやってフットボールの素晴らしさを伝えられるのか。
あの試合を、伝えられるのか。
わしの駄文の方が、百倍もましである。
2001.12.2
もう一つ、トヨタカップに関して言っておきたい。
ジャッジメント、審判の判定である。
哀しい事にVTRで見ればより強調されるのだが、
この主審の判定には首を傾げざるを得ない。
わし自身審判の経験も多少ながらあり、
審判は絶対であることは重々承知である。
しかし、それでも尚かつ、苦言と疑問を呈する。
審判によって反則の基準が異なるのは当然の事であるが、
「同じ様な行為」で一方に反則を取り、警告を与えたにもかかわらず、
他方には反則すら取らないというのでは試合が荒れるのは必至である。
例えば。 ゴールチャンスの際に後方から接触し、
その進行を邪魔するのは良くて警告、退場が当然の行為であり、
ルールブックに記載もされている。
このような反則は、両チームに同じ様なことがあった。
にもかかわらず、一方は警告、 他方はただのトリッピングの反則、であった。
確かに、警告を取られた一方の方が激しい当たりであり、
どちらが悪質か、と言われればその一方である。
もう一つ。ボカJのデルガドが退場することになったダイビングであるが、
延長前半、バイエルンのリザラズが同様のダイビングを見せた。
こちらは明らかにボールをコントロールできない状態で、
ボカJのGK、コルドバに接触する前には既に転ぶ体勢であった。
お咎めは、なし、である。
そしてもう一つ苦言を呈したい。
リケルメに対する反則まがいのプレイを放置したことである。
リケルメがもんどり打って倒れた際、
右臑はバイエルンの選手の足の裏で踏まれ、
顔は肘で弾き飛ばされている。
これが最も象徴的だが、ここでカードは出ていない。
どう見ても、わしなら、迷わずレッドカードを出す反則である。
リケルメはこの試合を通じ、数限りなく削られていた。
反則と認めても誰も疑問に思わないであろうマークだった。
その内反則と認められたのは半分あるかどうか、だが。
審判に注目してみれば、バイエルンの選手が反則すれすれの
(反則を取っていないのだから「すれすれ」なのだが)プレイをし、
ボカJの選手がそれよりちょっと悪質な反則で 警告を取られているような印象を受ける。
審判のジャッジメントが試合の結果を決めた要因とまでは言わない。
しかし、試合を荒らす要因となったのは、 間違いのない事実である。
試合が終わり、表彰式が始まっても立ち上がれないリケルメ。
背中を丸め、涙を流していた。
点が取れず、勝利を得られなかった無念だけが、
その涙の理由であったとは思えない。
両チームとも、素晴らしい攻防を見せていたのはレポートに書いたとおりである。
事実、素晴らしい試合だった。
両チームとも素晴らしい組織力で戦って見せてくれた。
個人を組織にまとめ上げた両監督に拍手したいし、
何より素晴らしい選手達に拍手を惜しむ気は毛頭ない。
しかし、少々残念な気持ちを消せないのが 正直なところである。
2001.12.12
某所で漏らした事だが、やはり気を遣う酒はまずい。
酒がまずいことに耐えられず、次へと流れてしまう(笑)
そして、気づけばバーボンを4、5杯干している。
考えてみれば独りの時、こんなことはしなかった。
朝、絶対起きれないもんね Oo。.(^。^)y-〜
自分の中で寝起きの悪さほど信用できるモノはない(爆)
酒を呑んで記憶を飛ばしたことなど一切無いこのわしであるが、
寝起きに喋ったことの記憶が無いことは多い。
寝惚けて暴言を吐いたことなど、数限りない。らしい。
大学に在籍していた時など、
一番偉い人ですら
「そのまま寝かしとけ」
と吐き捨てたそうである(^_^;)
もしかしてわしは彼の人にも暴言を吐いたのだろうか・・・・・
2001.12.14
やはりわしはマザコンのようである。
矢野顕子、中島みゆきの母性に癒されている自覚がある。
彼女らの他愛もない一言、一声が涙腺を緩ませる。
もちろん以前チョンガー(死語)だった時とは違い、
常日頃、母性を感じてはいる。
忘れがちになるのが問題なのだが (-_-メ)>自分、
それをきっちり思い出させてくれる。
こっそりと感謝を想う。
で、これがクリスマスプレゼントって言ったら
社会的には許されんな(笑)
2001.12.17
わしには物事を客観的に見る癖がある。
努めて冷静であろうとしている。
激高し易い性格だからだ。
激高することは感情的になることであり、
感情的になるということは思考する間も無く 言動、
行動を起こすという事である。
すなわち、思考停止の状態に他ならないのだ。
そのような行動は、省みた時、
後悔せずにはいられないものとなる。
羞恥を感じずにはいられないものとなる。
それを防ぐため、突発的に何かが起ころうとも、
ある程度のシミュレーションと予測が必要になる。
自分なりには考えられる全ての場合を想定するようにしている。
想定しておかないと、必ず行動が遅れてしまう、
または行動が的外れなものになるというのは必定である。
わしはこれをサッカーを通して体感した。
シュートを防ぐためには、先を見越した指示を送らなければならないし、
自らも、先を読んだポジションを取らなくてはならない。
「サッカーには人生がある」とはわしのサッカーの師の座右の銘である。
しかし、予測予想を越える事、
否、予想もしたくない事などいくらでも起こりうる。
社会的にも、
個人的にも。
今わしは、努めて客観的に、冷静になろうとしている。
2001.12.19
前回簡単に触れた、
「父、母、そして妻の三人が溺れている。 その内、誰を助けるか?」
という命題について。
こんな問題で迷う男の気が知れないのだが、
というよりそんな輩に男を名乗る資格は無いと思うのだが(爆)、
わしなら反射的に妻を助ける。
考える必要など無いと思っている。
ここから書くことを、額面そのままに捉えて
女性差別だなどと論う輩は 早々にここから立ち去って欲しい。
多分そのような知性のない人は最初からここには来てないと思うが(爆)
わしにとって、女性とは〜特にフィジカルな部分において〜守られるべき存在であり、
男性とはそれを守るべき存在である。
その最たる者が、伴侶たる妻以外の誰であろう。
更に年齢に応じ度合いに変化はあるものの、
親は子を守る事を主とする存在である。
子が親を守る事は、本末転倒とも言うべき事柄でもあるのだ。
いわば、親の存在意義を守るためにも、
迷わず妻を守るべきであると思う。
生物学的に考えても、親に次世代を生産する能力は既にない。
非生産者と生産者、いずれを守るかと問われれば考えるまでもなかろう。
次世代を生産する能力を有し、またその義務も有するものを救うのは当然ではないか。
さて。ここまでは親不孝の言い訳を十分に理詰めできたが(笑)、
命題を変化させるとどうか。
「妻、息子、娘の三人が・・・(以下同文)」
となると。
上で述べた理屈はほぼ崩壊する。
皆さんは、どうお考えになるだろうか?
2002.1.7
エースコンバット4というゲームがある。
戦闘機を操り、ミッションをクリアしていくというゲームである。
これが楽しくてしょうがない。
地上目標の破壊、敵戦闘機とのドッグファイト・・・
ハイテンションで楽しんでいるわしがいる。
ついでに言えば、旋回に合わせて
わしの背中も動いているらしい(妻談爆)
ミッションが終わると、御丁寧にリプレイで 様々な角度から
愛機(笑)F-15の動きが映し出される。
敵戦闘機との擦れ違い、そして撃墜・・・
観ていて高揚せざるを得ないものである。
ゲーム中は「メビウス1」という コードネームで
呼ばれるのもなかなか楽しい。
これを変更できたらもっと楽しめるかもしれない。
美少年には絶対せんぞっっ
空への憧れ、飛行機/戦闘機への憧れは否定しようもない。
音速で飛ぶ為に付けられた形態は美しくさえあると思う。
例えそれがブラウン管の中の紛い物であっても、
極力リアルに作られた映像は観ていて楽しめる。
飛行機に限らず、機能を果たす為の形態は 何ものにおいても美しいのだが。
しかしそれ以上に。
わしを高揚させるものが、
戦闘/破壊である事も否定しない。
敵戦闘機を撃墜した時にカタルシスを得ているのは間違いない。
バルカンで撃たれでもしようならムキになって
ケツについてミサイルをぶっ放してしまう。
ふと考えるとアブないおっさんである(笑)。
ミサイルぶっ放してスッキリしているのであるからして。
ただ、こういう部分は大多数の人間にある。
それを自覚し、現実と非現実を区別する事は必要である。
非現実はあくまで非現実であって、
その延長線上に現実があってはならない。
非現実を現実に成し得た外道の刑期は14年だそうである。
この場合、被害者側も非現実を現実にしてもいいかもしれない。
2002.1.25